キース・アウト

マスメディアはこう語った

東京都をまねて、文科省は全国の公立小中学校に若手教員を指導する新しいポストをつくるという。指導と言っても実際の教員にはそんな余裕がないから、単に校内が分断するだけだろう。学校にヒエラルヒーを持ち込むことで出世競争を促し、競争を通して教員の質を高めようとする石原都知事の亡霊は、今も都庁をさまよっているのに。

(写真:フォトAC)

記事 

 

公立小中教員に若手指導ポスト新設へ、給与も増額…「主幹教諭」と「教諭」の間に
(2024.04.16 読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp

 文部科学省は、公立小中学校に若手教員の指導にあたるポストを新設する方針を固めた。校長ら管理職を補佐する主幹教諭と一般の教諭の間に位置付け、給与も増額する。文科省中央教育審議会でも議論されており、近く中教審が示す素案にも盛り込まれる見通し。
(以下略)

 記事を読んだ人たちはこの内容をどう判断するのだろうか?
 今年は間に合わないにしても、ちょうどいま、年度当初の殺人的スケジュールに窒息しかけている若手の教員に対し、来年度以降は新設のポストの教師がピッタリと張り付いて指導・支援をしてくれる――そんなふうに考えるのだろうか? 4月を乗り切れば多少は楽になるが、そうなったら“新しいポスト”の教諭は自在に活動し、休んだ教師の代わりに授業に入ったり、多忙な教師の補佐をしたりと、そんなふうに働いてくれると、理想的な教育制度を思い浮かべるのだろうか? もしそうだとしたら、それは砂糖入りの蜜よりも甘い夢だ。
 
 現在の「主幹教諭」ですら学級担任を持ち、授業を行っているのだ。“新しいポスト”の教諭がフリーで学校に常駐するなどありえない。今回も手本になるらしい東京都では“新しいポスト”に相当する「主任教諭」が2009年から教諭全体の4割にもなっているという。この4割もが授業も担任も持たないとしたら、学校教育は成り立たないだろう。
 実際には普通の教諭と同じように学級担任や教科担任をもち、同じだけの業務をこなした上で、若手教員の指導を担わされているのだ。給与の増額分を考えると、真面目にこなせる役職ではない。
 
 ただし、主幹教諭や副校長と違って主任教諭になることへの抵抗感はさほど多くない。なにしろ4割もいるのだ。人数が多ければ多いほど責任は薄くなる。なったところで仕事量が劇的に増えるわけではないし給料も上がる。
 主幹教諭や副校長は責任の重さが違う、仕事量も違う。給料は上がるといっても東京都の場合は企業との競争もあって、一般職の給与自体が元々いいから、あまり魅力的ではない。
 かくして昇任試験の受験者はさっぱり増えず、主幹教諭・副校長の試験倍率は2008年以来ずっと1.1倍程度のままである。しかも主幹教諭の場合、図式的に言えば120人欲しいところに110人しか受験に来てくれないので10人落として1.1倍と、そんな状況が10年以上も続いている。
 
 それなのに校長任用試験だけが4倍と突出しているのはなぜだろう?
 一般には副校長にまでなった以上、最後は校長で終わりたいと思うのが人情だとか、一普通の教諭に増して殺人的な副校長職を一刻も早く抜け出したいという思いがあるからだと説明されるがそうではない。
 校長のポストに再任用の校長が居座って、席を空けてくれないからである。希望者に対して席が足りなすぎる。
 ただしそれは再任用校長が欲深いわけでも都教委が忖度しているわけでもなく、再任用校長が一斉にいなくなってしまったら、副校長を一斉に昇任させざるをえず、ただでも希望者の少ない主幹教諭・副校長のポストに穴が開いてしまうからなのだ。校長なら再任用でやってもいいという人はいるが、命も削る副校長職の希望者など、なかなかいそうにない。校長の仕事は誰でもできる(だから民間人校長もいたりする)が、副校長はそういう訳には行かない。何が何でも有能な教員でなくては困る。
 かくて校長の席は空かず、気の毒なことに多忙な副校長をやり続けたままで定年を迎える人が出ている――それが東京都の現状だ。
 
 文科省はそんな制度を全国に広げようとする。
 およそ20年近く前、東京都の教育行政に大ナタを振るった石原慎太郎という都知事は、管理職が教頭・校長しかない学校の仕組みこそ諸悪の根源と考え、組織をピラミッド型の一般社会型に替えようと考えた。教職員が出世の階段に殺到し、互いに競い合って教育力を高める教員社会を築こうとしたのである。教員同士が仲良くやっているようではダメなのだと、彼らは思った――しかしその結果はどうだったか?
 
 文科省に失敗した東京都の教育制度を全国に広めよと圧力をかけているのは、誰なのだろうか?

小学校の「登校班」が廃止か継続かで揺れているらしい。どう転んでもけっこうだが、どちらにしても保護者の希望とマスコミの後押しで動いている話。『かつて好まれた「全員一律」』だの「教員の負担」だの、始めるもやめるも学校の事情みたいな話にするのはやめてくれ。

(写真:フォトAC)

記事

 

小学校の「登校班」廃止か継続か 保護者を悩ませる、かつて好まれた「全員一律の扱い」
(2024.04.13 AELA.)

dot.asahi.com

 新年度がスタートし、新たに学校や勤務先に通う人が増える季節。1年生の保護者にとっては登校班があると安心だが、その運営はPTAや教員の負担になっていることから廃止する動きも。保護者と子どもにとってベストな登校手段とは。AERA 2024年4月15日号より。
*  *  *
(以下、略)

 どうにもこうにも取っ散らかった文章で、どこから手を付けていいのか分からないが、とりあえず、思いつくままに事実関係を箇条書きで書いておこう。

【集団登校の歴史的経過】

  1. 登校班の歴史はものすごく古くて、およそ60年前の私自身の小学校入学時にはすでにあった。しかしそれは制度としてあったというよりは自然発生的な地域子ども社会で、上級生が責任をもって中低学年の子どもを連れて行こうとするものであって、学校の指導も、おそらくほとんど入っていなかったと思う。
  2.  高度経済成長期に入って通学路の交通量が増えるにしたがって、学校が積極的に関り、6年生が年少の子どもを引率するという制度化された集団登校が増えて行った。しかし多くの場合、制度化は実際に子どもが交通事故に遭った学校から、保護者の要望によって始まったのであり、記事にあるようなかつて好まれた「全員一律の扱い」のためではない。
  3.  登校班はあるのに下校班がないのは、下校時刻が学年ごと異なるためである。特に1年生の4月は極端に早いため、最初から高学年による集団下校はできない。い。
  4.  集団登校が爆発的に増えたのは、2004年(平成16年)11月の奈良幼女誘拐殺人事件以降のこと。全国に「子ども見守り隊」がつくられ、大人による児童の登下校監視が始まった。それと同時に、保護者の希望に従って集団登下校を始めた学校も相当数にのぼる。
  5.  2004年当時、私が勤めていた学校は校長が登校班に懐疑的で、保護者の希望があったにもかかわらず丁寧に説明して実施しなかった。賢明な判断だったと思う。学校に要求されることは“いいこと”ばかりである。だからいったん始めるとやめることが難しい。
  6.  以前からすでに集団登校には問題が多く、現代の低学年は高学年の言うことを聞かずに勝手に動くため危険で、高学年児童の負担は非常に大きかった。しかも登校班内での人間関係トラブルも多く、「集団登校」ならぬ「集団不登校」になってしまうと揶揄されることもあった。やがて保護者の間にも集団登校をやめてほしいという要望が現れ始めた。
  7. ただしその後も「集団登校」は交通事故や誘拐に対して有効であり安全・安心という点ではまだまだ意味があると考えられたため、内部にトラブルがあってもやめることができなかった。やめたとたんに交通事故があった、誘拐事件が起こったとなると責任追及はハンパではなくなる。そう考えるとやめる決断のできる校長・PTA会長はなかなか出てこなかった。
  8. コロナ禍は集団登校をやめる千載一遇のチャンスだった。これを機にやめられたことは良かった。

以上が「集団登校」の簡単な経緯である。私はそれで良かったと思っているが、コロナ後の今、復活するかどうかはやはり議論すべきだ。

【集団登校は復活すべきか(どうせ子どもは死なない)】

 私は復活すべきではないと思う。
 個別登校の経験がない1年生の保護者などからは登校班に賛成する意見もあがった。「安心感がある」「心強い」「他学年の子と交流をもてる」「不審者対策になる」「遅刻しづらい」「個別登校は不安」などがその理由だ。
 その気持ちも分からないではないが、その安心感は教員と2年生以上の児童・保護者、特に5~6年生の犠牲の上に成り立っているのだ。
1年生の保護者としては面倒を見てもらいたいが、高学年になって苦労するのは親も子もイヤでは筋が通らないだろう。

 今、「子どもや各家庭のペースで登校できる」「家から直接学校に行ったほうが早い」「個別登校で問題はなかった」「委員や見守りをする保護者の負担が大きい」と不満を言っている人たちは、かつて子どもが1年生のときに登校班のおかげで安心できたことを忘れているのだ。来年以降そんな恩知らずになるより、1年生の今から保護者の責任で登校させればいいのだ。アメリカの親たちはみんな、そのようにしている。
 
 ちなみに、記事に、
西日本のある小学校では20年度から個別登校を実施したが、事故が起きることもなく問題は見られなかったため、登校班はそのまま廃止することを決めた
とあるが、やめてすぐに事故の起こるような地域では、そもそもやめることすらできなかったろう。普通の学校の周辺では交通事故も誘拐事件も放っておいても滅多に起きないのが普通だ。
 昨年度、2023年度の小学校1年生は全国でおよそ96万人。1年経ったがこの間に誘拐殺人で殺された子は私の覚えている限りゼロだ。交通事故で亡くなった1年生の数は正確には分からないが、全国で交通事故で亡くなる小中学生は年平均で40人~45人。1学年平均では5人弱。状況としては「親の車に乗車中に」とか「自転車に乗っていて」というのもあるが「歩行中」がもっとも多く全体の45%(2~3人)。ただし登下校中に限ったものではない。つまり統計上は、放っておいても登下校中に子どもは死ぬような目に滅多に遭わないということだ。
 では何もしなくていいのか、ということになるが、ここが問題を危機管理と捉えるか否かの違いだ。

【注意していないとまた教師のせいにされる(かもしれない)】

最大の理由は個人情報保護の観点から班名簿の取り扱いが難しくなっていること
というのも言い訳めいている。
「子どもの『自分で考える力』が育たない」
というのは、何もしなければ子は育つと信じる空想的教育不要論者の言うことだ。
 それらは理由にならないが、何が何でもやめたい、保護者と子どもが自己責任を取るというなら、新1年生も含めてさっさとやめるべきだ。

 しかしやめたあとで事件や事故が起きても、集団登校が始まった事情を説明するのにかつて好まれた「全員一律の扱い」といった荒唐無稽を持ち出すように、学校の負担やら働き方改革のせいにして、
「結局、教師が楽をしたがって集団登校をやめたから事故が起きた(事件に繋がった)」
とならぬよう、全力で見張り続ける必要があるだろう。

先日開かれた中教審の特別部会で、残業代の代わりに支給する「教職調整額」の引き上げを求める意見が相次いだという。教員の間では教職調整額の廃止と残業手当の導入を望む声も多い。しかし実際には調整額の引き上げの方が、現実的で問題が少ないだろう。

(写真:フォトAC)

 

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教員「残業代」、中教審で増額意見が大半 今春に方向性
(2024.04.04 日経新聞) 

www.nikkei.com

教員の確保に向けた議論を進める中央教育審議会文部科学相の諮問機関)の特別部会が4日開かれ、残業代の代わりに支給する「教職調整額」の引き上げを求める意見が相次いだ。特別部会は教員の待遇について今春中に働き方改革などとあわせて方向性をまとめる。

教員は授業準備や教材研究など明確に業務を切り分けることが難しく、時間ごとの残業代を支払わない代わりに教職員給与特別措置法(給特法)に基づき月給の4%を教職調整額として支給している。

ただ「定額働かせ放題」と揶揄(やゆ)されるなど長時間労働が根強い問題となっている。採用倍率の低下など人材確保にも深刻な影響が出ているのが現状だ。

4日の会合では従来の枠組みを維持したうえで待遇を引き上げるべきだとの意見が大半を占めた。委員からは「管理職が個別具体的に時間外勤務かどうかを見極めるのは実務上難しい」「あえて行えば混乱を生じさせる」といった声が上がった。

調整額の4%は1971年の給特法制定当時に月8時間程度だった教員の残業時間などから算定された。現在の残業時間が大幅に増えていることも踏まえ「少なくとも10%以上に引き上げるべきだ」といった指摘もあった。

教員らからは給特法を廃止するなど抜本的に見直し、民間企業と同様に残業手当を支給すべきだとの意見もある。

(以下略)

 実現するかどうかは別にして、現実的で、ある意味、妥当な話し合い行われているようだ。
教員らからは給特法を廃止するなど抜本的に見直し、民間企業と同様に残業手当を支給すべきだとの意見もある。
 月に80時間もの時間外労働を強いられている側からすれば、すべてに金を払えと言いたくなるのも無理ないが、その80時間すべてに残業手当を払うとなると現在の調整額(8時間=4%)の10倍。つまり本給の40%、およそ13万円にもなってしまう。政府・地方自治体、どう考えたってこんなに出してくれるわけはない。そもそも民間だって残業手当に上限はあるのだ。働基準法第36条に基づいた協定(いわゆる36協定)では月の上限45時間、年360時間となっているのだ。

【残業手当が格差を生み、教師を分断する】

 上限45時間は繁忙期を想定してのことで、平均を考えれば360時間÷12カ月=30時間が毎月の残業の上限と考えられる。教職調整手当4%は月8時間の時間外労働に相当すると考えれば、30時間はその3.75倍。本給の15%ということになる。
 毎月30時間以上残業をする教員にとっては、現在の調整手当4%が亡くなっても15%の残業手当がつけば差し引き11%分の輸入増。悪くない話だ。ただしこれは「?毎月30時間以上残業をする教員にとっては」の話で、残業のできない教師たちは違う。
 毎日、保育園にお迎えに行かなくてはならない教員、介護がある教員、ボランティアで地域のスポーツ団体(外部委託された部活)の指導をする人、地域に役を持っている教員、自主研修を行う教員、などは学校に残れない。実際に私も、子どもが義務教育に在籍中はほとんど学校に残らなかった。大量の持ち帰り仕事を抱えて、定時退校していたのだ――この人たちは残業手当11%がもらえないだけでなく、調整手当4%が減額となる。
 
 もっとも実際にはそうならないだろう。
 同じ分量の仕事をしながら、学校でやるのと家でやるのとでは合わせて「15%の給与の差」という不条理に人は耐えられない。しかも誰かの残業手当11%の一部は自分の失った4%なのだ。そう考えると、家庭や地域を犠牲にしても彼らは学校に残る。かくして教員の生活は今より苦しくなる。

【残業手当は管理職と一般職の間に亀裂を生む】

 教職調整手当が創設されたときの考え方、
教職員の職務自体は自発性・創造性に期待する面が大きく,その勤務すべてにわたって一般の公務員と同様に勤務時間の長短によって評価することが難しい」
は今なお生きている。
 教員世界に残業手当の概念を持ち込めば、管理する副校長や教頭と一般教員の間で、毎日「その仕事を残業として認めるかどうか」のせめぎ合いが起こる。
 教員の仕事は、しばしば有機的なつながりを持たない自己完結的なもので、やらなくても他の職員に迷惑のかからないものも少なくない。教材研究や教室整備など、やり出したらきりがないし、やりたくもなる。
 それを残業として認めろ、認めないは、それもまた学校になじまない話だ。
 
――そう考えると、調整手当を、
「少なくとも10%以上に引き上げるべきだ」
というのは実に合理的のように思う。民間でいう「固定残業代」だと考えればいい。

大学院を2年で終了して就職すると、定年までの期間は普通の大卒より2年間短くなる。失う給与はその最初の2年分ではなく、大卒生が普通にもらう給与の、最後の2年分だ。ボーナスも年金も違ってくる。果たして教職にそれだけの魅力はあるのだろうか?

(写真:フォトAC)

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院修了で奨学金返済免除 教員不足対策、来春から
(2024.03.19共同通信

nordot.app

 教員不足解消策を話し合う中教審部会は19日、教員になった教職大学院修了者を中心に、院在籍中に貸与された奨学金の返済を免除する制度導入を求める提言をまとめた。文部科学省が詳細な制度設計に着手し、2025年春の新卒採用教員から適用する方針。

 提言では、教員志願者の確保と質の向上が重要と強調。教職以外の大学院修了者でも、学校での実習などを通じて専門性を身に付けた教員を対象にすべきだとした。

 学部生については今後の検討課題となった。委員からは、既に返済支援をしている自治体もあるとして「地域差が出ないよう国が対応してほしい」との意見が出た。

【そもそも打つ手がほとんどない】

 ネットニュースのコメント欄では不評紛々。
 これが根本的解決になるのか、文科省は何を考えているのか、どうやったって教員が増えるわけがない等々。だがそんなことは文科省も十分に分かっている。
 分かっているが教員を増やすのは法律上、容易ではないし、給与を上げようにも予算がない。だったら仕事内容を減らせばいいのだが、偉大な政治家や文科省の先輩が苦労してつくったものを簡単に減らすこともできない。
 いま思えば故安倍晋三総理のもとで成立した「教員免許更新制」も、なくせたこと自体が奇跡なのだ。二度とあんな大規模な変革はできない――と、そうこうしているうちに志願者自体がいなくなってしまった。

 様子を見ればその減り方は、少しぐらいの待遇改善では戻ってきそうにない規模だ。もうておくれ、打つ手はほとんど残っていない。
「院修了で奨学金返済免除」でいったいどれだけの教職志願者が増やせるのか――もともと院卒は少ないうえに、奨学金も全員がもらっているわけではない。もしかしたら対象者は全国で数十人といったちっぽけな話かもしれない。そうでないにしても、この制度のおかげで教職大学院へ進む者が増えるとか、教員志望者自体が増えるとか、そういった話にはなりそうにない。
 それでも、何もしないよりはマシだろう、と官僚は思ったのかもしれない。

【大学院で学ぶ経済的なメリットはあるのか】

 私は高校生3年生のとき、無謀な大学受験をしようとして担任教師にこんなことを言われたことがある。
「あのなあ、1年、浪人をするということはなあ、他の連中より就職が1年遅れるということだ。しかし定年は一緒だから、それはつまり就労年数が1年少なくなるということだよな。
 他の人が38年働けるところを、おまえは37年しか働けない、もらう給与が一年分少なくなるわけだ。しかし考えてみろよ、その1年分は就職初年度の1年じゃなくて、最終年の1年分。他の人が38年目にもらう給与がまるまるもらえないということだ。
 いまから40年近くも先のことだから1年分の給与は1千万円くらいになるのかな? 当然ボーナスも退職金も年金も違ってくる。さて、それでもおまえは浪人してみるのか? もったいなくはないか?」
 私は結局、無謀な挑戦をして低い生涯賃金に甘んじたが、収入の少ないことに覚悟があったかというとそうでもなく、単にだらしなく時を過ごした結果だった。

 恩師の教えを広げれば、学部から大学院へ行くということは2年間浪人すると同じで、失う生涯賃金は2千数百万円にもなる。おまけに大学院に行っていた2年分の学費と生活費――院卒の給与はそれを相殺するほど出してもらえるのだろうか? あるいは下働きのような仕事を免除してもらえるのだろうか?

 
 いずれにしろ「院卒で奨学金返済免除」というこのニュース、検討する価値もないくらいのちいさな出来事だということは間違いない。

ほぼ100%がPTAに入った全員加入時代の保護者除くと、今や誰もPTAに入ったことがない(入っていない)とする不思議なアンケート。それを信じて安易に脱会し組織を潰すと、誰も保護者のために戦ってくれなくなる。組合を失った教職員の二の舞は避けたいところだが、来ないかもしれない危険回避よりも、目の前の面倒回避、かな?

(写真:フォトAC)

記事

 

約4割がPTAで「嫌な体験した」、保護者の本音は? 2000人調査
(2024.03.08 Hint-Pot)

hint-pot.jp

 子どもが小学校入学と同時に加入することが多いPTA。共働き世帯が過半数を占める現代、子どもを取り巻く環境も変わり、PTAのあり方が問われることが多くなりました。SNS上ではPTAにまつわるトラブルなどネガティブな情報が話題になることもあり、実際に運営自体が難しくなっているケースもあるようです。そこで今回、PTAに関するアンケートを実施。見えてきた保護者の本音とPTAの現状について、PTAの専用支援サービスを展開している「PTA’S(ピータス)」代表の増島佐和子さんにお話を伺いました。

 ◇ ◇ ◇

 

PTA加入の現状 約6割が「入っていない(入っていなかった)」と回答
 アンケートは2024年2月19日に、全国の10代から60代以上のYahoo!JAPANユーザーの男女2000人を対象に実施されました。(回答者の年齢構成:10代1%、20代4%、30代12%、40代28%、50代34%、60代以上19%、年齢を教えたくない2%)

PTA加入の現状は「入っていない」人が半数を超える(グラフ略)

 まず、PTA加入の現状を確認するために、「今、PTAに入っていますか?(もしくは過去にPTAに入っていましたか?)」と質問。すると、「入っていない(入っていなかった)」との回答が58%と半数を超え、6割近い結果になりました。

 その理由については「もともと入るつもりはない(なかった)」(32%)、「必要ないと思う」(21%)、「加入は任意だった」(18%)という意見が多数。対して、「入っている(入っていた)」理由では「なんとなく入るもの」(37%)、「周りが入っている(入っていた)」(34%)、「必要だと思う」(16%)という声が多く見受けられました。
(以下略)

 にわかに信じがたいアンケート結果である。
 そもそも無作為抽出と異なり、対象となった「Yahoo Japanユーザー」というのが、良いにつけ悪しきにつけ、社会問題に意識の高い、そして多くの場合時間に余裕のある特別な人たちなのだ。それだけでも十分にバイアスのかかった結果が予想される。
 しかしそれを前提としても、
『PTA加入の現状 約6割が「入っていない(入っていなかった)」と回答』
は理解できない数字だ。タイトルに2000人調査とあるが、ほんとうに2000人もいたのか、いたとして2000人は全員が小学生以上の子どもをもつ(あるいは持ったことのある)保護者なのだろうか?

【全員加入時代の50代以上を除くと、誰もPTAに入ったことがない?】

 1%(およそ20人)もいる10代の回答者は全員が19歳だとしても、「12~13歳のときに親になった小学校1年生の保護者」と考えるのが精いっぱいだろう。2年生の親だの3年生の親だのというと、親になった年齢がどんどん下がってしまう。Yahoo Japanユーザーに限って出産年齢が早いとか、早熟な男子が多いというのも考えにくい。

 あるいは逆に、回答者の53%にあたる50代以上(50代34%+60代以上19%)の大部分が「PTA全員加入の時代」の保護者だったにもかかわらず、現在『PATに約6割が「入っていない(入っていなかった)」』が事実だとすると、40代以下(47%)の全員が非PTA会員で、なおかつ「PTA全員加入時代にも関わらず敢えて入らなかった人」が50代以上に11%もいたと仮定しなければ計算が合わなくなる。そうしないと「約6割(58%)がPTA未経験者」という状況は達成できないのだ。
 調査対象の2000人の中に現役のPTA会員は一人もいない。それなのにPTAに関する調査を行う、かなり異常な状況である。
 
 私はHint-PotやYahooが嘘をついていると考えているわけではない。
 回答者に相当な数の「(未婚などの理由で)子どもがいない人たち」と、子どもはいてもPTAに強く批判的で、活動に参加しなかった人たちがいて、彼らが積極的にアンケートに答えたのではないかと疑っているのだ。
 そもそもがPTA活動に批判的な人々によってアンケートが採られ、記事がつくられたのではないか。

【アンケート内容も恣意的だ】

 アンケート内容を見ても、2番目の項目からして、
「PTAがあったことで嫌だったことはありますか」
と恣意的だ。普通ならこう質問する。
『質問1で、「PTAに入っている」または「過去に入っていた」と答えた方に聞きます。
PTA活動はどうでしたか? 「よかった」または「いやだった」でお答えください』
 嫌だったことがあるという前提では質問しない。
 記事は全体的にPTAに批判的であり、したがってこの記事やタイトルを見ただけで、
「ああ6割もの人たちが入会していないのだ。だったら辞めよう」
と考えるのは早計であろう。

 ネットメディアもマスメディアも信用ならない。人々の不満や不安に火をつけ、煽って炎上させ、記事を売ることに余念がない。記事が売れるなら国がどうなっても、人々がどうなってもかまわないのだ。

【負け犬の遠吠え:集団として誰も学校に物申さない時代が近づいている】

 私は、PTAは絶対に保護者のために必要なものと思っている。これを守るために、保護者は汗を流すべきだと思う。

 前回、3月1日の記事で私は、
『日教組の組織率が2割を切った。教職員の代表者たちは尾羽打ち枯らし、何のパワーも持たなくなった。おかげで彼らのナマの声は政府に届かず、大切なことは雲の上で決まってしまう。そして教職員たちは「働き方改革」という名の賜物が、天から降ってくるのをひたすら祈り、指を咥えて待っているだけなのだ』
と書いた。
 批判したのは現役の教職員たちではなく、積極的に組織を支えようとしなかった私自身と私たちの世代だ。しかし同時に、弱者が組織を失うことの切なさ、苦しさも訴えたつもりだった。けれど今も若い世代は町内会やPTAを無用の長物、迷惑な存在としか考えない。
 
 確かに面倒だ。しかしPTAがなくなったら、誰が学校や教師を監視するのだ? いざという時、誰が代表して抗議し、説明を受けに学校に行ってくれるのだ? 連日連夜、保護者会を開いてもらうのか? 参加し切れるのか? そもそも誰が保護者会を開くよう要求してくれるのだ?

 そのときになって行政が学校にきちんとやらせるよう、期待して指を咥え、祈りながら待っているのか? それとも学校や子どもたちがメチャクチャにされるメディアスクラムを覚悟の上で、マスコミに密告し、煽るのか。

 いずれにしろPTAの、保護者にとって有利な部分だけは残しておかないと、教職員のように「遠吠えする負け犬」になるしかないのだ。

日教組の組織率が2割を切った。教職員の代表者たちは尾羽打ち枯らし、何のパワーも持たなくなった。おかげで彼らのナマの声は政府に届かず、大切なことは雲の上で決まってしまう。そして教職員たちは「働き方改革」という名の賜物が、天から降ってくるのをひたすら祈り、指を咥えて待っているだけなのだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

日教組加入率2割切る 過去最低更新―文科省
(2024.03.01 時事通信

www.jiji.com  
 日本教職員組合日教組)に昨年10月時点で加入している公立学校の教職員の割合は、前年比0.9ポイント減の19.2%で、初めて2割を切ったことが1日、文部科学省の調査で分かった。47年連続の低下で、他の団体を含めた教職員団体全体の加入率は同1.5ポイント減の27.7%だった。

 同省によると、大学と高専を除く公立学校の常勤教職員約101万4500人のうち、日教組加入者は前年比約9700人減の約19万4600人だった。

【昭和の亡霊たち】

 さすがにここ10年ほどはいなくなったが、日本の教育が悪くなったのは日教組の掲げる行き過ぎた平和主義・平等主義・人権尊重ためだと信じる人たちが大勢いて、日教組さえ潰せばかつての偉大な日本が戻ってくると信じる人々がいた(Make Japan Great Again)。しかしさすがに組織率が3割を下回るとその声は小さくなり、2割を切った今(*1)はだれもその話をしない。
 私はかつて日教組をあしざまに言った人たちに聞きたい。
「組合は実質的に潰れてしまったが、日本の教育は日増しに良くなっているのだろうか」

 しかし昭和の亡霊たちはこう答えるのかもしれない。
「日本の教育全体がよくなったかどうかは知らんが、教職員たちが生意気を言って、給与を上げろ、教員定数を見直せ、あるいは仕事を減らせだの言わなくなった――言っても声が小さすぎて届かなくなったのは事実じゃないか。それだけでも十分だ」

 確かに、SNSの「#教師のバトン」などでは現状を嘆く教師の声が未だ衰えないが、そんなものは政府には全く届いていない。不満のガス抜きの場として「#教師のバトン」を用意した文科官僚はやはり頭がよかったというべきだろう。

【教職員はどう行動したか】

 実際に、自分たちの待遇改善のために、教師たちは何をした?
 国内には小中高校の教職員と呼ばれる人たちが100万人近くもいるというのに、誰がプラカードをもって文科省に押しかけた? 全国の駅前で教職員の窮状を訴えるチラシを誰が配った? ひとりひとりの声は小さいからと、集団を組織して誰がシュプレヒコールを叫んだ? 
――もちろんいなかったわけではない。しかしその数は微々たるものだった。

 具体的に行動に出る改革の先兵も、部活顧問拒否、学級担任拒否、時間外勤務拒否と激しい闘争を仕掛けるが、相手が行政の末端の校長ひとりでは、大きく波紋は広がらない。叩いても叩いても根本的な解決には結びつかないからだ。稀に開明的な校長が要望に応え、大胆な改変を行っても次の校長が修復してしまう。強力な背景を持たぬ人間は弱いのだ。

 いよいよ打つ手のなくなった全国の教職員たちは、今や「働き方改革」という賜物が、天から降ってくるのを手を合わせて拝み、指をくわえて待っているしかない。彼らを代表する人々は国会議事堂の中にも外にもおらず、大事なことはすべて雲の上で決まり、降りてくるだけだからだ。
 ”幸い”深刻な教員不足が始まり、タナボタ的に雲の上の人たちも少しは考える気にはなってきている。もしかしたらいいことがあるのかもしれない。

【誰が組合を潰したのか】

 ただしこうなった責任は現職の教師たちにはない。日教組を潰したのは私たち昭和と平成前期の教師たちである。多くの教師が組合を辞めていくのをただ見ていた。新しく教師になった人たちにも、一緒にやろうと声をかけることもしなかった。
 私個人は資格を失うまで組合員でいたが、だからといって活動に熱心だったわけでも若い先生たちを勧誘するでもなかった。いつか組合が衰退した日に責任を問われないよう、組合費という金を払ってアリバイを買っていたようなものだ。
 こうなる日の来るのは分かっていたのに、何もしなかった私たちの罪は深い。

*1:まだ教職員団体全体の加入率は27.7%もある、という考え方もできるが、27.7%中には「全国教育管理職員団体協議会」などというものもあり、それぞれが勝手な方向を向いているので力にはならない。

1年生の児童が遠足中、お茶の購入を要望したのに同行の校長が認めなかった。そのため熱中症で救急搬送されたなどとして、児童と両親が損害賠償を求める訴訟を起こしたという。しかし普通、本人が希望したらお茶を買ってくれなどといって金を渡す親もないだろう。普通は予備の水を持たせる。極めて特殊な事例だ。

(写真:ACフォト)

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遠足で小1女児の「お茶買いたい」認めず、熱中症で救急搬送 学校側を提訴
(2024.02. 27  産経新聞

www.sankei.com小学校の遠足中に1年生だった女児(8)が茶の購入を要望したのに教諭が認めなかったため熱中症で救急搬送されたなどとして、女児と両親が大阪府八尾市を相手取り、慰謝料など220万円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こしたことが分かった。27日に第1回口頭弁論があり、市側は請求棄却を求めた。

訴状などによると、遠足は令和4年5月末にあり、往復で計約2時間歩く行程があった。母親が前日に体力面の不安から欠席したいと伝えたが、担任教諭から促されて参加を決めた。ただ、水筒の茶が足りない場合は購入を認め、女児が異常を訴えた場合は母親に連絡するよう要望した。

しかし当日、女児が教諭に「お茶を買わせてください」と伝えても校長の判断で認めず、めまいを覚えて「ママ呼んでください」と伝えても聞き入れなかった。下校の際に迎えに行った母親が高熱に気づき、女児は救急搬送されて熱中症と診断。女児側は学校側に「安全配慮義務違反があった」と訴えている。

一方、学校側は答弁書で「様子を確認し、体調に問題ないと判断した。児童に熱中症の症状が出た際は、飲料水を購入することを想定していた」と主張している。


【遠足の概念は変わるのか】

 いずれにしろ女児の命に別条がなかったことは、本・人家族はもちろん、学校にとっても良いことだった。万が一亡くなっていたりしたら、今後の学校はたいへんな重荷を背負うことになっていたはずだ。
 上の記事ではないが関西テレビの取材に応じた保護者は、
「八尾市内でも別の学校では、遠足時に先生方が飲み物を児童向けに買うこともあるようです。しかし娘の小学校では、こうした事態に備えた予備の水を持参することもありませんでした。熱中症の予防は基本的なことだと思います。小学1年生だと、先生が言うことは絶対だと受け止めてしまう。促してでも飲ませる体制でないといけないと思います」
と語っており、その主張の多くはネット市民の支持を受けている。

 しかし途中での購入となれば遠足コースは自動販売機または商店のある場所に限定され、予備の水を用意するとなれば、200mlのペットボトルとしても35人分7kgを担任教師が背負って歩くことになる。重さも大変だがリュックの中に入った35本を想像すると、大きさもハンパではない。いざというときに児童のもとに駆けよって庇えないそんな装備では、引率すること自体が問題となるだろう。

【これは特別な例である】

 ただし八尾のこの事件は特殊過ぎて一般化できない部分も多い。報道がすべて正しければ、まず、

  1. 保護者は前日に体力面の不安から欠席したいと伝えたのだ。したがってこの段階では学校側にも「無理をさせない」という選択肢はあった。
  2.  しかし保護者は担任教諭から促されて参加を決めたのである。体に大きな障害や病気でもない限り、私が担任でも同じことをする。例年と同じであれば遠足のコース自体も無理のあるものとは思えない。小学校1年生にとって皆と同じ経験をしておくことはとても大切である。遠足で育てられるものもたくさんある。それを簡単に捨てはいけないというのは一種の親心である。辛い思いをさせたくない親心もあれば、子どもを成長させたい親心もある。
  3.  しかしそのあとはまずかった。担任は水筒の茶が足りない場合は購入を認め、女児が異常を訴えた場合は母親に連絡することを了承してしまったのだ。それが参加への交換条件のようになったのかもしれない。しかも校長には、おそらくひとことの相談もしていない。だから現場の混乱が起きた。
  4.  この事件の最大のポイントは、お茶の購入と母親への連絡を担任教師が受け入れ、当日参加の付き添いで、事情をしらない校長が拒否したというところにある。
  5. もちろん校長の気持ちも理解できないわけではない。子どもの成長の機会を逃してはいけないというのが一番の理由だが、この学級担任、校長の拒否がなければほんとうに当該の子どものお茶を買って渡したのだろうか?
    その場合「ずるい」「エコヒイキ」といったほかの児童の思いをどう処理したのか。学校で一番嫌われるのは怖い先生ではなく、エコヒイキする先生だ。この先、学級経営はすこぶる難しくなるはずなのに、その覚悟はあったのか。
  6.  常識破りの行動は教師間でも担任教師の孤立を生むだろう。児童どうしでも「エコヒイキされる子」は孤立し、いじめられかねない。そのことを保護者や担任教師は考えたことがあるのだろうか?
  7. 保護者には「行かせたくなかったのに行かせられた」という思いがある。だから「水筒の茶が足りない場合は購入を認め、女児が異常を訴えた場合は母親に連絡する」、その程度の要望は通って当然だと考えた。しかし「『足りなければ買ってもらえる』という条件を与えられた児童は、とうぜん水筒のお茶を節約したりやり繰りしたりしない。結果、早い段階で水筒を空にしてしまう」という当たり前のことには気づかなかったようだ。結果、午後の相当な時間を、児童は「水ナシ」で過ごさなければならなかった。おそらくそれが熱中症の原因だろう。 
  8. 校長の態度は理念としては正しい。ただし午前中、あるいは午後の早い時刻に児童の水筒が空になっていたとしたら、それは現実的な健康上の脅威である。校長の責任で例外をつくり、児童が熱中症にならないように校長の自腹で購入する等、配慮すべきだったのは事実だ。したがって事件としてのこの出来事の責任は校長が取るべきである。


【前例にされそうなことは教師一人で決めてはいけない】

 事例は私たちにさまざまなことを教えてくれる。私たちは事例から謙虚に、多くのことを学ばなくてはならない。しかし過剰に反応してもいけない。
 もし障害や病気でないとしたら、まず「遠足に参加させない」という親の選択が普通ではない。行かせるなら途中離脱、あるいは補給用のお茶を買ってほしいと要求することもまた普通ではない。
 子どもが全員同じことを希望したら、1学年150人もいる学校では販売機に同じものが150本あるかどうかも微妙だし、購入している時間の確保もたいへんである。
 さらに保護者が、
「八尾市内でも別の学校では、遠足時に先生方が飲み物を児童向けに買うこともあるようです」
と言うように、来年以降は「ウチの学校でも昨年、お茶を買ってもらった児童がいたそうです」と言われかねない内容だ。したがってこの件は担任が約束する前に、保護者と校長の間で話し合われるべきだった。そして校長と話し合って折り合いがつかないようなら、その子の欠席もやむを得ないだろう。学校としてできないこともたくさんあるのだ。

【学校は格差を埋める場だ。聞けない親の要望もある】 

 学校は個人の能力の伸長の場であるが、同時に社会を支える人材を育てる場でもある。学校教育にあれほどの予算が投じられるのは、教育に《個々人に任せることのできない部分がある》からである。
 子どもは親のものか、教師のものかという二者択一ならもちろん親のものだが、子どもの人生そのものは子ども自身のものだ。子どもは自らの人生のために、育まれ、育てられ、鍛えられなくてはならない。
 
 自分の思い通りになるなら子どものために何でもするという親から、子どものためとは言え何かさせられるのはまっぴらいやだという親まで、保護者にはさまざまな姿がある。そうした親の言う通りにしていると、格差は広がるばかりだ。義務教育の学校はそうした格差を埋めるものでなくてはならない。それがまっとうな義務教育の理念である。