キース・アウト

マスメディアはこう語った

ひとの迷惑にならず、危険さえなければ、子どもたちは何をやってもいいと専門家たちは言うけれど、それで果たして、苦しい勉学を続けていけるものだろうか。

 それが現状とどれほど乖離していようとも、学校が常に求め、支えようとするのは「学ぶことを尊び、先人に対する畏敬を忘れず、教師・生徒双方を尊重し合い、共に高め合って行こうとする気風」だ。それを学校のアカデミズムという。
 学校にアカデミズムがなければ、苦しい勉強に耐えていくことなどできないではないか、と教師は考える。しかし影響力のある教育評論家たちは、人の迷惑にならず、危険でもなければ、あとはどうでもいいじゃないかと言っている。
という話。

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記事

【大阪の黒染め校則訴訟】なにが争点だったのか、校則は誰かのためになっていたのか?
妹尾昌俊 | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
(2021.02.18 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp
 大阪府立高校の女子生徒が髪を黒く染めるよう強く指導されたことが原因で不登校になったと訴えた裁判の判決が今月16日にありました。


 大阪地方裁判所は「髪の染色や脱色を禁止した校則は学校の裁量の範囲内で、頭髪指導も違法とはいえない」とする判断を示しました。(中略)一方で生徒が不登校になったあと学校が教室から机を撤去したり座席表や名簿から名前を消したりしたことについては許されないと判断し、33万円を支払うよう大阪府に命じました。

NHKニュース2021年2月16日

 なにが争点、論点だったのか、判決にはどのような問題があるのか、この記事で詳しく見ていきます。
(中略)

この判決の問題点(1) 校則と生徒指導の必要性はあったのか、深い検討がない。

 この判決には多くの問題点があるとわたしは考えます。ここでは、2つにわけて申し上げます。

 第一に、頭髪に関する校則と生徒指導に関して、学校側に広範な裁量を認めた上で、それらの中身については、「社会通念に照らして合理的」と述べるにとどまり、本当に必要性があったのかどうか(目的が妥当だったかどうか)や手段の適切さ(相当性)について突っ込んだ検討をしていないことです。

 判決が言うように、学校側には校則を制定したり、一定の規律を生徒に求める指導を行ったりする権限はある、と考えることは合理的です。

 たとえば、ある高校は自転車や原付での登校を禁止している、としましょう。それは、駐輪場のスペースが取れないからだとか、登校時間帯に自転車等が集中することで交通事故になりやすいといった配慮があるためとします。これは、まともな理由がある上での校則なり指導ですから、多くの人が合理的だと思われるのではないでしょうか。

 また、授業中に再三にわたって騒音を出すなどして、授業の進行等の邪魔をする生徒がいたとします。その生徒を別室指導にしたりすることは、他の生徒の学習権を守るためでもありますから、合理性があります。

 しかし、本件の校則と生徒指導は、どうでしょうか?

 当該生徒の地毛が茶色なのか黒色なのかは重要な問題ではない、とわたしは思います。どちらだったとしても、髪の毛の色が多少茶色だからといって、ほかの生徒の学習に邪魔になるということはほぼないでしょうし、事故等を誘発するというたぐいのものでもありません。

 つまり、この生徒は、髪の毛の色のせいでは、おそらくだれにも迷惑をかけていないのです。にもかかわらず、黒染めを再三にわたり求める学校側の姿勢、またそれに従わないからといって、別室指導にしたり、文化祭等にはほかの生徒と一緒に参加させないよと半ば脅したりするというのは、必要性の高い「指導」であり、かつ、手段としても妥当と言えるものでしょうか?個人的には「指導」や「教育」の一環とみなすことにも躊躇しますが。

 高校側は、高校生に学業や部活動に集中させるために、頭髪に関する校則や指導があると主張し、裁判所もこの点をほぼそのままトレースするかのように認めています。

 ですが、髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。それに、仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択であり、学校側が一律に事前規制する必要性のあることなのでしょうか。

 さらに申し上げると、仮に学業がうまく進まない事態になったとしても、高校の授業の質や教え方がマズイかもしれないですし、中学校までの教育の反省点などもあるはずです。ほかの要因もたくさん考えられます。つまり、染髪⇒学業や部活動の不振という因果関係があるのかどうかはあやしいのに、そう学校が言っているからと、裁判所はそのまま鵜呑みにするというのは、いかがなものでしょうか。


問題点(2)生徒指導が生徒の学びに向かう力を阻害していることを問題視していない。

 別室指導、ならびに文化祭や修学旅行への参加を躊躇させるような今回の学校側の働きかけは、生徒の学習権や高校で学びたいという意欲を棄損する恐れのある行為だったと思います。現にこの生徒は長期の不登校になりました。

 そもそも、高校は義務教育ではないとはいえ、多様な生徒たちに学習の場を保障し、成長していくためのものなのに、校則に基づく生徒指導が、その高校のミッションや果たすべき機能に照らして逆に作用していた可能性があります。

 原告の言うように、生徒指導の名を借りた「いじめ」であったとまで言えるかどうは評価が分かれると思いますが、高校は一部の生徒につらい思いをさせて、勉強したくないようにさせる機関ではないはずです。それに、高校生とはいえ、学校側、教師の側が権力を握っていることが多いわけですから、生徒指導に従うかどうかは生徒の意思、任意だったという裁判所の判断も、はなはだ疑問です。

 ちなみに、この高校(府立懐風館高校)の教育目標のひとつには、「自分の殻を破り、挑戦し、豊かな感性や広い視野を手にする人材を育てる」とあります(現状のものであり、当該生徒が通学していた当時のものとは異なる可能性があります)。

 校則でがんじがらめにしておいて、自分の殻を破れとは、矛盾しているように見えます。当時の教員は多い時期には4日に1回も頭髪指導をしていたのですが、校則を守らせることが目的化したようなことを行う暇があるならば、もっと生徒が挑戦する場をつくることに知恵と時間を使うべきだったのではないでしょうか。これは法律論というよりは、学校経営や教育実践上の問題ですが。

 関連して、この判決の大きな問題点のひとつは、生徒は学校が決めたことには黙って従え、とも読めるメッセージです。仮にこの判決が確定したとしても、多くの高校等で、生徒は学校の指導には黙って従うべき存在だという認識、教育観が強固になってしまうのは、新しい学習指導要領などの理念とも衝突しかねません。

 もちろん、前述のとおり、交通事故防止などの合理性のある校則ならば従うべきでしょう。ですが、なんためにあるのかよくわからないような校則に、服する義務があるというのは、生徒の主体性や問題解決力、リーダーシップが重要視されている今日においては、時代遅れの認識と言えます。OECDが最近よく使う理念では「エージェンシー」とも呼ばれます。

 情緒的な表現となりますが、率直に申し上げて、今回の一連の生徒指導と争いで、当該生徒はもちろんのこと、周りの生徒も、また学校側も府教委側も、誰もうれしくなっているとは思えません。黒髪に執拗にこだわる校則と生徒指導は、結局、誰かのためになっていたのでしょうか?高校にかぎりませんが、多くの学校は、生徒が幸せになる力を高める場所であるはずです。そもそも校則はなんのためなのか、もっと言えば、学校はなんのためにあるのかから、問い直す必要があると思います。

【ネット世界の片隅で“バカ”と叫ぶ!】

 Yahooニュースにたびたび長文を掲載している妹尾昌俊という人について、私は知るところが少ない。
 記事の最後にあるプロフィールによると、
徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演などを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省、埼玉県、横浜市等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、岐阜市公教育検討会議委員等を歴任。合同会社ライフ&ワーク代表、NPO法人まちと学校のみらい理事。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『こうすれば、学校は変わる! 「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』、『「先生が忙しすぎる」をあきらめない』など。
ということだが、社会的にどう評価されているのか、ネット上でどういう地位にあるのかもわからない。

 記事にコメント欄がないので一つひとつの記事がどういう受け取りをされているのかもわからない。賛同者が大量にいるのか、あるいは私のように腹を立てているからついつい記事を読んでしまう人間ばかりなのか――。
 しかしいずれにしろ、この茫洋としたネット世界の片隅で、それでも誠実に一生懸命記事を書いている私からすれば、これほど日本の公教育を理解していない男のいい加減な記事が、日本最大級のポータルサイト“Yahoo”に繰り返し載せられ、なおかつ中央教育審議会部会委員として日本の教育行政に関与しているというのは、忸怩たる思いであり、情けなく、腹立たしい。

 やっかみだ、僻みだ、嫉妬だといくらでも言ってかまわない。しかし間違っているものは間違っている。

 

【学校にはアカデミズムが必要である】

 何が間違っているか――。
 今回の記事で言えばここだ。
 髪の毛の色が多少茶色だからといって、ほかの生徒の学習に邪魔になるということはほぼないでしょうし、事故等を誘発するというたぐいのものでもありません。
 部分を切り取ったとは言わせない。少なくとも今回の記事については全編を通して、妹尾氏が校則を「人に迷惑をかけるかどうか」と「危険回避」という二つの基準でしか考えていないことは明らかだ。
 しかし校則にはもっと重要な働きがある。それは「秩序と公平性の確保」だ。

 「秩序」というのは学びの場として学校の機能・理念・雰囲気等のすべてをいう。
 学ぶことを尊び、先人に対する畏敬を忘れず、教師・生徒双方を尊重し合い、共に高め合って行こうという気風――一言でいえばそれは「アカデミズム」だ。

 ものごとを学び習うこと(学習)は、この国において千数百年前から苦痛をともなうものだった。だからこそ古代の学僧たちはそのことを、中国語で「強制」を意味する「勉強(強いて勉める)」と呼んだのだ。今では古いタイプの八百屋や魚屋だけが「勉強しましょう」と本来の意味で使う言葉だが、学習が今日に至るまで「勉強」と呼ばれ続けるのは、それが一度もディズニーランド的あるいはコンピュータ・ゲーム的楽しさおもしろさで行えずにきたことの証明である。
 学習の厳しさは王侯貴族ですら回避することはできない。そのことを私たちは「学問に王道なし」といってきた。だれでも知っていることだ。

 人間は弱い。ことに人格も確立していないのに誘惑ばかりの多い子どもたちは弱い。その子どもたちを誘惑から守り、苦しい「学習」に向けていくにはさまざまな工夫が必要だった。
 日本国憲法を始めとする様々な法整備、校舎や敷地などの構造物、学校教育目標、貴重な先人の言葉を描いた扁額、名画の数々、壁の掲示物、校長講話、担任講話、制服、文房具――なかでも大切なのが「ともに学んでいこうとする気概・雰囲気」=学校のアカデミズムである。
 それは学校の永遠の課題であり、どんなに荒れすさんだ学校の教師でも、決して忘れることのない永遠の目標なのだ。良い環境の中で学ばせたい!

 さて、そこで問題になるのが学校のアカデミズムと髪染めは両立するかということだ。

 答えは明らかである。
 髪は赤くしたがそれ以外のファッションにはまったく興味がなく、遊び仲間を求めることも繁華街に行くこともなく、ただひたすら勉学に励む――そういうことのできる特別な人間を除けば、普通は無理だ。
 人間は弱い。髪を赤くすれば服装も変えたくなる。服装が変われば誰かに見せたくなる、それにふさわしい行動もしたくなる。そして学校中にそんな子が溢れたら、誰が苦しい勉強に耐えていけるものか。

 

【識者はしばしばエリートのことしか思わず、一般人には冷たい】

 そう思ってもう一度本文に戻ると、妹尾氏の言葉はさらに空しく響く。
髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。
 
たしかにそうとは限らない。しかしこう語るとき、妹背氏の頭の中にいるのは矛盾するものを両立させることが可能なスーパー・エリート中高生だけだ。

 仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択であり
 たいていの子は髪やファッションにうつつを抜かすと学業や部活に集中できなくなる。普通の子はまだまだ弱い。そんな弱い子に対して“識者”たちはいつも自己責任論を持ち出す。
 その生徒または家庭の選択
 冷たいものだ。

 さらに申し上げると、仮に学業がうまく進まない事態になったとしても、高校の授業の質や教え方がマズイかもしれないですし、中学校までの教育の反省点などもあるはずです。
「とにかく子どもは悪くない」を起点にものを考えると結局「学校が悪い」「教師が悪い」というところに落とさざるを得なくなる。こんな人が中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員だとしたら、改革は教員を多忙にする方向にしか、向かわないだろう。

 

【言い漏らしたこと】

 ひとつ言い忘れた。公平性を守る校則の性格についてだ。
 しかしこれについて多言は要しないだろう。

 世の中には経済的理由や親の教育的信念によって髪を染められない子がいる。それもかなりいる。そうした子たちのために、学校を「染髪しなくては来られない場所」にしてはいけないということである。
 妹尾氏も、
高校は一部の生徒につらい思いをさせて、勉強したくないようにさせる機関ではないはずです
と言っているように、すべての子どもが通うことのできる学校――それが公教育の大原則である。
 政府が私立学校にすら多額の補助金を出し、市町村が給食補助をしたり就学援助をしたりするのもすべてそのためだ。とんでもない額の血税を使って維持しているこうした政策を、私たちも支えて行かねばならない。

 同じ理由で、私は小中学生の学校へのスマホの持ち込みにも、入学式や卒業式が華美になることにも反対する。この点に関しても、
 それはその生徒または家庭の選択であり
といった自己責任論は取らない。

 妹背氏はまた、次のようにも言っている。
 当時の教員は多い時期には4日に1回も頭髪指導をしていたのですが、校則を守らせることが目的化したようなことを行う暇があるならば、もっと生徒が挑戦する場をつくることに知恵と時間を使うべきだったのではないでしょうか。
 この部分にも賛成だ。
 頭髪指導などバカげている。生徒がさっさと染髪を諦めてくれればこんなことにはならなかった。そのためにもやはり、生徒は髪を染めて学校へ来てはいけないのである。

 

どうやら大阪地裁はブロンドやブルネットの外国人留学生でも高校が黒く染めさせることを認めたらしい――という誤報まがいの記事が出た。

 たとえ地毛であっても赤っぽい髪は黒く染めなくてはならない。
 そんな恐ろしい判決が大阪地裁から出たらしい。
 これで大阪府内の高校は金髪や赤毛の留学生を受け入れることが難しくなった。
 しかしそんなことがあるのだろうかと、関西テレビの視聴者は訝るだろう。
という話。

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(写真:フォトAC)
 

記事

 地毛なのに”黒染めを強要された” 女子生徒が大阪府を訴え 
「指導に違法性はない」と判決

(2021.02.16 関西テレビ

www.ktv.jp


大阪地裁は「教師らは地毛が黒髪だと認識し指導するなどしていて、違法とは言えない」とした

通っていた府立高校で茶色の地毛を黒染めするよう強要されたとして元女子生徒が大阪府を訴えていた裁判の判決で大阪地裁は頭髪指導については「違法性はない」と認定しました。

訴えによると大阪府立懐風館高校に通っていた女性(21)は、生まれつき茶色っぽい髪の毛で、中学校で黒染めを強要された経験があるため、入学するにあたり、保護者が高校側に配慮を求めていました。

しかし、高校の教員は女性に対し、髪を黒く染めるよう繰り返し指導。

女性は頭皮に痛みが出るほど何度も黒染めして登校しましたが学校側から「黒染めが不十分だ」などと言われ続け、2年生の9月から不登校になったということです。

また、3年生になり、学校に戻ろうと面談に行くと、出席名簿から女性の名前が消され、教室から席が無くなっていたとということです。(下線部は原文のママ)

女性は「生徒指導の名の下の『いじめ』だ」として、大阪府に約220万円の損害賠償を請求。

これに対し大阪府は…

大阪府教育委員会・向井正博教育長(2017年)】
「学校側は生まれつき黒髪であったことを前提として指導したということ」

府側はこれまでの裁判で「女性のもとの髪の色が黒いことを教師3人が髪の根元を見て確認している」などと主張。

名簿から名前を消したことなどについては「不登校状態が目立たないようにした」として訴えを棄却するよう求めていました。

16日の判決で大阪地裁は黒染めの指導について「教師らは女性の髪を直接見て地毛が黒髪だと認識し指導するなどしていて、違法とは言えない」としました。

一方で、学校が名簿や席を排除したことについては、「不登校の状態にあった女性の心情に配慮したものと言えず、裁量権の範囲を逸脱し違法」として大阪府に慰謝料などとして33万円の支払いを命じました。

判決を受けて学校の校長は…
(以下略)

 【「タイトルに誤りがあっても記事を読めばわかる」という悪質】

 マスコミはしばしばウソではないが真実でもない記事を平気で世に送り出す。その手法はさまざまだが、引用した記事はタイトルに詐術を施した点で特に悪質だ。

 毎日マスメディアから排出されるニュース記事が何千あるか知らないが、おそらくそのすべてに目を通している人はいないだろう。たいていは見出しにさっと目を通して世の中の動向を感じ取り、必要なものだけを拾い上げて丁寧に読む、そんなやり方をしているにちがいない。テレビだったら関心の薄いものはぼんやりと聞き流し、興味のあるものがあれば本腰を入れて視聴する、そういうものだろう。

 したがってタイトルで印象を操作されると間違ったものでもそのまま記憶され、定着してしまう、だから厄介なのだ。その場合、「本文をしっかり読めばわかる」「キャスターの話をしっかり聞けばわかる」は言い訳でしかない。

 そこで引用した記事のタイトルだが、
『地毛なのに”黒染めを強要された” 女子生徒が大阪府を訴え 「指導に違法性はない」と判決』
 これを読んで人は何を感じるだろう? 特にクォーテーションマーク(“”)の位置が気になる。
 クォーテーションマークは会話や引用を示すためにつける符号だから「黒染めを強要された」だけが引用であって、その部分は被告の主張だから真偽のほどは関西テレビのあずかり知らぬところだ、ということだろうか。すると他の部分、「地毛なのに」と「女子生徒が大阪府を訴え」と「『指導に違法性はない』と判決」については事実ということになる。

 日本の裁判所としたら極めて異例で、かつ、あってはならない判決だろう。実際にやるかやらないかは別として、大阪府は金髪の留学生でも黒染めを強要する権利を認められたのだ。そんな無体なことがあっていいはずがない。
――それがこのタイトルから与えられる印象である。

 もう一度読んでみよう。
『地毛なのに”黒染めを強要された” 女子生徒が大阪府を訴え 「指導に違法性はない」と判決』
もちろんそんなことはない。

【判決の内容】

 各紙の内容を概観するとこの裁判で争われたことは次の3点にまとめることができる。

  1. 生徒の染髪などを禁止した校則ならびに生徒指導の方針に違法性はなかったか
  2.   原告女生徒に対する指導に違法性はなかったか
  3.   原告女生徒が不登校になったあとの学校の対応(席をなくす、名簿から削除する等)に違法性はなかったか

 このうち1については他紙によると、
 高校は必要な事項を校則等によって一方的に制定し、これによって生徒を規律する包括的権能を有しており、生徒も学校の規律に服することを義務付られるとし、そのうえで本件の校則も、社会通念に照らして合理的なものであり、学校の裁量の範囲内のものとして違法とはいえないと判断した。
 つまりこの程度の校則を定めることに何ら問題ないとした。

 2.については私が引用したこの記事にある通り、
「教師らは女性の髪を直接見て地毛が黒髪だと認識し指導するなどしていて、違法とは言えない」
 つまり生まれつき茶色っぽい髪の毛という女性の訴えを退けたのである。


 また3.については女性側の訴えをほぼ認めて、大阪府に33万円の支払いを命じている(請求は約220万円)。

 

【しかしテレビ局は認めない】

 原告女性の髪はもともと茶色っぽいものではなかった――それはこの裁判の肝だ。生まれつきの髪を強制的に染めさせようとしたという話だったから、マスコミは飛びつき、世間は怒った。それが嘘だったとなると世論は一気に冷える。

 考えてみれば、
 頭皮に痛みが出るほど何度も黒染めして
というのも、
 黒く染めたものをまた赤く染めて、さらに指導を受けて黒く染め直しといったことを繰り返し行ったからそうなったのであって、なんど染めても黒くならない染料などそうはないだろう
という疑いも生まれてこようというものだ。

 しかし関西テレビは何としてもこの裁判を「地毛の茶髪であっても黒く染めさせる高校と教委の強権体制、そして裁判所の頑迷」という話にしたいらしい。

 不当判決と書かなかっただけでも、まだましということだろうか――。


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教員採用試験の競争率が下がり続けているというのに、文科省も自治体も本質的な解決の道を探ろうともしない。これって、かなりヤバくないか?

 教員採用試験の競争率が落ち続けている。
 倍率で2を切れば深刻な教員の質の低下が始まると言われているのに、
 すでにそうなった自治体が2019年で12もあったという。
 文科省は教員免許を取り易くすることで、
 各自治体は受験のハードルを下げることで、
 少しでも受験生を増やそうと努力している。
 しかしそれって、まったく本質的な話ではないではないか?
という話

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記事


社説:教員の確保 勤務環境の改善を急げ

(2021.02.04 京都新聞) 

www.kyoto-np.co.jp
 全国の自治体が学校の先生のなり手不足に頭を悩ませている。

 2019年度に行われた公立小学校の教員採用試験の競争率が、全国平均で2・7倍と過去最低になった。佐賀、長崎両県など12の自治体では2倍を下回った。

 教員を採用する教育委員会は、年齢制限の撤廃や大都市に試験会場を設けるなど、受験しやすい制度を導入しているが、受験者の奪い合いになっているのが現状という。

 21年度からは小学校の35人学級化への移行が始まり、教員がさらに必要になると見込まれている。情報通信技術(ICT)を活用した授業が本格化するなど、学校に求められる業務も増えている。

 受験者減少に歯止めがかからず優秀な人材が確保できなければ、教育の質にも影響が出かねないと指摘されている。競争率低下の要因を調べ、教員志望者を増やす取り組みにつなげる必要がある。

 採用試験の競争率は近年、低下傾向にある。第2次ベビーブーム世代への対応などで1980年代に大量採用された教員が退職期を迎え、補充のために採用数を増やす動きが続いている。

 ただ、教員の大量退職はピークを越え、2019年度試験での採用数は10年ぶりに減少した。それでも、競争率が過去最低になったのは、教員を目指す人が減っていることを示している。

 競争率の低迷を受けて文部科学省は、大学で小中両方の教員免許を取得する場合に必要な教職課程の単位数を減らすなどの対策を打ち出した。他業種で働く教員免許保有者の特別選考を行っている自治体もある。

 だが、20年3月に国立の教員養成大学・学部を卒業した人の教員就職率は57%にとどまっている。

 その一つの要因は、教育現場の厳しい勤務環境にある。多忙で休みが取りづらい「ブラック職場」とも言われ、学生らが教職を敬遠する動きにつながっているとみられている。

 文科省は公立校教員の残業の上限を原則「月45時間、年360時間」とする指針を策定するなど、働き方改革に向けた取り組みを進めているが、現場の負担軽減に結びついているとは言い難い。学校や教育委員会はどこに要因があるのかを点検し、教員のやりがいを高める職場づくりを進めてほしい。

 中学、高校の教員採用も受験者が前年より3千人以上減るなど、人材確保は厳しさを増している。教職を目指す若者が意欲を持てるような環境へ改善を急ぐべきだ。

【学校には、どちらにしても良い先生が集まる仕組みがあった】

 記事に第2次ベビーブーム世代への対応などで1980年代に大量採用されたとある。
  記憶にないが私が合格できる(83年度採用)くらいだからよほど試験も楽だったのだろう。しかし私の少しあと、90年前後の受験者はさらに楽だった。いわゆるバブル景気の真っ最中で、地味な教員の道を歩こうとするバカ者はほとんどいなかったからだ。
 しかしそれも悪いことではない。この時期に教師になった人たちは、民間のとんでもない給与や賞与に目もくれずに選んだわけだから、その意味で“本当になりたい人だけが教師になった時代”とも言える。事実、教育熱心ないい先生が多かった。

 そこからさらに10年たつと今度は就職超氷河期だ。場所によっては27~28倍といったとんでもない倍率を勝ち抜いてきた教師たちは、信じられないほど優秀だった。「優秀な先生には心がない」とか「ダメな子どもの気持ちが分からない」とか言われるが、彼らは「教師としての心」や「ダメな子どもの気持ち」まで勉強して自分のものにしてしまうから凄かった。
 私の弟は普通の公務員だったが、就職超氷河期の後輩について「アイツらに出世競争で負けても悔しくない」と言っていたほどである。

 こうしてふたつの時代を記述してみると自ずと分かってくることがある。
 公務員、特に教員の世界には「景気の悪い時には優秀な教師が集まり、良い時には熱意のある教師が集まる」という法則があって、どちらも必要な人材だから、両方が交互に集まってくるという意味では安心してみていられる世界なのだ。

 しかし今回は違う。
 教員採用試験の競争率が下がっているのは教員の大量採用や好景気のせいばかりではなく、教職そのものに対する嫌悪感が背後にあるからだ。今後、不景気になって民間の雇用が冷え切っても、教員になろうという人材は以前のように増えてこない。民間で合格の見通しの持てない者だけが受験に来る――もはや教職はまともな人間のやる仕事ではなくなっているのかもしれないのだ。

【学校のブラック化はさらに進むという予言】

 かくも教職は誰もが忌避する劣悪な職種になってしまった。

 もちろん教師は今でも高邁でやりがいのある仕事である。しかしその「高邁さ」や「やりがい」に乗じて、政府や自治体が、マスメディアや保護者が、そしてその他の人々が、仕事を増やし、無理難題を押し付けてきて学校をとんでもないブラック社会にしてしまった――そのことに、みんな気づくようになってきている。

 上の記事でも、
情報通信技術(ICT)を活用した授業が本格化するなど、学校に求められる業務も増えている。
そして
文科省は公立校教員の残業の上限を原則「月45時間、年360時間」とする指針を策定する
 つまり、
仕事は今後も増やす、しかし残業はさせない、(仕事はすべて持ち帰れ)
と、明け透けな言い方で、今後も学校のブラック化が進展することを示唆している。

 もちろんこの予言は当たる。これまでも仕事を増やす一方で、教員も増やすといった負担を緩和する方策はほとんど取られてこなかったからだ。
 考えてみるがいい、
 生活科、総合的な学習の時間、ICT教育、キャリア教育、小学校英語、プログラミング学習・・・。
 わずか20年余りの期間にこれだけの新たな授業が増えたのに、専門の教員は一人も増えなかった。
 教員免許更新制、教員評価・学校評価、学校マネジメント、学校評議員、公開参観日、参観週間、リモート学習、いじめ対策、不登校対策、セクハラ・パワハラ研修、体罰・違法行為撲滅研修
――新たに取り組まなくてはならないことや、自腹で”やらせていただかなければならない”こともたくさん増えた。しかし教員数は昭和33年以来ほとんど変わっていない。
 これで職場がブラックにならないわけがない。

文科省は無策、マスメディアにも妙案はない】

 チャンスは教員採用試験に学生が殺到した就職超氷河期にしかなかった。
 あのときに雇用対策の一環として優秀な学生を大量に採用して、それを常態化しておけば今日の地獄はなかった。教職は今ほど苦しい職業ではなく、多くの若者のあこがれる仕事のままでいられたはずだ。自然と人材が集まってくる。

 いまや教員の職場環境を是正するために先生の数を増やすということ自体ができなくなった。受験者の減っている時代に、教員の数を増やせばさらに競争率は下がる。さりとて採用数を絞れば教職はさらに苛酷になる。

 それを何とかしなければならない文科省は惚けた発言をし、マスメディアも無批判に受け入れる。
 競争率の低迷を受けて文部科学省は、大学で小中両方の教員免許を取得する場合に必要な教職課程の単位数を減らすなどの対策を打ち出した。
 学生が教員採用試験を受けなくなったのは、免許が取りにくいからではないだろう。この職業に恐怖を感じているからだ。

 他業種で働く教員免許保有者の特別選考を行っている自治体もある
 そんなことはずっと昔からやっていた。今や現職の教員をヘッドハンティングしなくてはならない時代になっている。

【対策はほとんどない】

「あのときあれほど言ったのに手を打たないからこのザマだ。いい気味だ、もっと苦しめ!」
 そんな言い方をするほど私も人が悪くない。それに実際に苦しんでいるのは教師であり児童・生徒なのだから放置することもできない。そこで考えたのだが――。

 労働の苛酷さを解消するには方法は三つしかない。
 労働者の数を増やすか、仕事を減らすか、仕事の質を落とすのか――。

 教員の数をこれ以上増やすことはできないし、しない。仕事の質(教育の質)を意図的に落とすことも難しいし実際にしないだろう。そうなるとできることは量を減らすことだけだ。

 生活科、総合的な学習の時間、ICT教育、キャリア教育、小学校英語、プログラミング学習――新たに加わったこうした科目の一部でも諦めるか、逆に旧来のものからいくつかをなくしていく、これならできるかもしれない。

 いっそのこと「21世紀のグローバル社会を生き抜く子どもの育成」のために、新しい教科はすべての残し、国語・算数(数学)・理科・社会あたりをなくしてしまったらどうか。それなら負担もグンとへって、教員になってみようと思う学生も増えてくるかもしれない。
 もともと「グローバル社会を生き残る子ども」なんてエリートに決まっているから、国語・算数なんて教える必要もないのだ。

再び! 「小学校5,6年生が教科担任制になるかもしれないといっても、教師にとって何もいいことはないのかもしれない 」

 中央教育審議会が答申を出して2023年からは小学校にも教科担任制を導入することを示した。
 世間的には「教師の負担軽減につながる」と歓迎する見方もあれば、現場からは「冗談じゃない。教科担任制に使う金があるなら35人以下学級を早く実現しろ」とか「そもそも今どき先生になってくれる人がいるのか?」とか批判する声もある。
 しかし勘違いしてはいけない。政府の教育改革で地方や教員が楽になった例は一度たりともないないのだ。
という話。

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記事

小学校5・6年生に「教科担任制」本格導入を 中教審が答申
 (2021.01.26NHK)

www3.nhk.or.jp
新しい時代を見据えた学校教育の在り方を検討してきた文部科学省中教審中央教育審議会は、令和4年度をめどに小学校5年生と6年生の授業を対象として、中学校のように教科ごとに専門の先生が教える「教科担任制」を本格的に導入するよう答申しました。

中教審中央教育審議会文部科学大臣の諮問を受けて、デジタル技術の活用など新しい時代の小中学校や高校の教育の在り方について答申をまとめ、26日、田野瀬副大臣に提出しました。

答申では専門性が高い教員が児童一人一人の学習の習熟度に応じて指導できるよう、令和4年度をめどに小学校5年生と6年生の授業を対象として、中学校のように教科ごとに専門の教員が教える「教科担任制」を本格的に導入するよう求めています。

導入の対象は、算数、理科、英語の3教科で、ICT=情報通信技術を活用しながら専門の教員が指導することで、子どもたちの理解や学びを深め中学校での学習につなげやすくなり、教員1人当たりの授業時間の削減や準備の効率化により負担を軽減できるとしています。

小学校では、教員1人が1クラスを担当する「学級担任制」が主流ですが、英語の教科化に加えてプログラミング教育の必修化など教員の専門性が求められるようになっていて、文部科学省は、答申を踏まえて「教科担任制」の導入を進める方針です。

このほか答申では、高校の普通科の名称について、各校の特色や魅力を表現するものに改められるようにすることや、小学校で1人1台の端末のデジタル環境の整備が進む中、デジタル教科書の使用が着実に進むよう普及促進を図ることなどを求めています。

 

 教科担任制・35人学級などの教員定数に関わる問題を考えるとき、常に頭に置いておかなくてはならない二つのことがある。
 ひとつは定数法、そこから導き出される定数表であり、もうひとつは中央教育審議会だ。
 定数法と定数表については2020年8月の当ブログで触れ、文科省は絶対にこの法律に触れない、触れたとしても財務省が首を縦に振らない、したがって(臨時的な措置は別として)教員の数が増えることはない、それが原則だという話をした。

kieth-out.hatenablog.jp したがって、ここでは中央教育審議会について軽く触れることから話を始める。

中央教育審議会中教審)】

 中央教育審議会というのは文部科学省の省令よって設置された常設の諮問委員会で、Wikipediaによると、
 現在は、「教育制度分科会」、「生涯学習分科会」、「初等中等教育分科会」、「大学分科会」の4つの分科会と、総計約70の部会・委員会がおかれている。また、どの分科会にも属さない、「教育振興基本計画部会」、「地方文化財行政に関する特別部会」の2つの部会がある。
というものだ。
 任期は2年、各界の錚々たるメンバーで組織されている(第10期中央教育審議会委員)。

 文科大臣の諮問によってさまざまな角度から審議し答申を出すのが仕事だが、見方によっては文科大臣の意思にお墨付きを与えるような仕事をしている場所とも言える。繰り返される、
「専門家のご意見もうかがったうえで・・・」
の「専門家」として重宝されるところだ。

 今回、「小学校5・6年生に教科担任制を」という答申を出したのもここだが、委員の顔ぶれを見ればわかる通り、小学校教育の専門家は一人もいない。義務教育からは中学校長が一人、出席しているだけである。これでは現場のことは誰も分からない。

 現場のことを知らない国会議員や大臣・官僚が思いつき、現場を知らない中教審委員が審議する、これで現実的な教育政策が出てくるはずがない。
 彼らが求めているのはより良き未来の社会ではなく、自分がその位置にあるときに何かを成し遂げたという記念碑だけなのである。

【思い違いをしてはいけない】

 現場からは、小学校教科担任制を歓迎する声はほとんど聞こえてこない。実験器具や植物採集などで事前準備が大変な理科や、そもそも指導法を学んでこなかった英語などでは専門の教師がいて欲しいが、中規模以上の学校ではすでに手配されていることも多い。

 一方、今回の答申で全国の小学校の三分の一にも及ぶという1学年1クラス以下の学校にも教科担任として新たな先生を入れてくれるのかというと、そんなことは夢物語だとみんな分かっているから信用しない。ほんとうに理科(週3時間)を代わりにやってくれる先生が来るならそれはありがたいが、その人は5・6年生合わせて週6時間しか授業がないのだ。そんな贅沢を政府が許すわけがない。

 規模の大きな学校でも、そんな余裕があるならむしろ35人以下学級の拡充の方を急げといった意見もある。しかしそれもお門違いだ。

 繰り返すが、
文科省財務省も、教員を増やすことなど全く考えていない
のだ。それが大原則で、そこから半歩もはみ出すことはない。

 ではどうやって教科担任制を行うというのか――。そのヒントがNHKニュースの前日に出た日本経済新聞の記事(2021.01.25 日本経済新聞「さいたま市、小学校で教科担任制導入 23年度に全校へ」)の中にある。

【教科担任制はいかに行われるか】

 それによると、
 さいたま市教育委員会は2021年度から各教科を専門の教員が教える「教科担任制」を市立小学校10校で導入すると発表した。
(中略)
 20年10月に文部科学省中央教育審議会が公表した中間まとめによると、「教科担任制」は22年度をメドに高学年で本格的に導入する必要があるとしている。対象とする科目は外国語・理科・算数などを例示しているが、市内で来年度から導入する10校では国語、社会を含む9科目を分担する。教員の専門性を生かして学校ごとに担当する教員を決めるほか、中学校の教員による指導を取り入れることも検討する。

 注目すべきは、
・学校ごとに担当する教員を決める
・中学校の教員による指導を取り入れる
の2点である。どうやら新たな教員配当をするのではなく、現有の教員だけでやっていくらしいのだが、具体的に何をどうしようというのか?

【小学校の指導時数】

 その前に、まず小学校ではどんなふうに授業を割り振っているか見ておく。

 下は学習指導要領に示された各教科の年間指導時間である。

f:id:kite-cafe:20210130185944j:plain 学校の授業日数は35週(175日)を基準とする擬制で成り立っているから、表の中の数字を35で割ると1週間に実施すべき教科の時数が割り出される。その計算で、例えば第6学年の場合、国語・算数は週5日、社会科と理科は週4日ということになり、道徳・外国語活動・特別活動は週1回ということになる。
 もちろん特別活動(35時間)の中には運動会(6時間)などというのもあるから必ずしも週1時間ずつできるというものではない。

 また、かつてはすべての教科が35の倍数だったために年間を通して同じ時間割で授業ができたが、今は違っている。そのことも考慮しておく必要がある。
 総合的な学習の時間を入れたい、外国語活動も必要、ゆとり教育で算数は減らしたが脱ゆとりでまた増やさなくてはいけなくなった、時数を減らすと言っても図工・音楽を週1回にするわけにはいかないだろう――そんなことをやっているうちに35では割り切れない数字が出てきて、例えば音楽は年間50時間。1年の半分は週2回で後半は週1回、などいうことになっているのだ。音楽会の時期に特設で一気に15時間使ってしまい、あとは1年間、週1で通すというやり方もある。
 このこと自体が大問題だが今は教科担任制だ。

【受け持つ教科を分配する】

 日経新聞の記事によると、さいたま市の場合は9教科を教科担任制にすると言っているからおそらく上の表の国語から体育までの8教科と外国語活動あたりが対象になるのだろう。それを教師たちが専門性を生かして学校ごとに担当を分け合うのだ。

 例えば6年生が2クラスの学校では1組の担任のA先生と2組の担任のB先生が、2クラスの年間授業時間1960時間を公平に分ける。二人はまず、年間175時間で同じ国語と算数のどちらを受け待つか決める。A先生が国語を、B先生が算数を選んだら、1組の算数と同じ時間に2組の国語を入れておいて、A先生は2組に行って国語の授業を、B先生は1組に行って算数の授業をやればいいのだ。これで公平に授業を行うことができる。
 同様に二人は、年間105時間の社会科と理科を分け合う。50時間の音楽と図工もいいだろう。

 困るのは年間55時間の家庭科と90時間の体育だ。時数が異なるのでこれを交換するわけにはいかない。そこで家庭科を選択した教師は必然的に外国語活動(35時間)をセットで受け入れ90時間とする。これでメデタシメデタシだ。教える教科が半分になり、教材研究や指導の方法で大幅に楽なる。

 しかしそれにしても、これで、
各教科を専門の教員が教える「教科担任制」を市立小学校10校で導入する
と言っていいものだろうか。

 国語と社会科と音楽と家庭科と外国語活動を選んだA先生は、必ずしも国語と社会科と音楽と家庭科と外国の専門家ではない。
 もちろん授業交換に参加する教師を増やせば増やすほど、一人の教師が受け持つ教科は減って行って最後は一人一教科となる。5・6年生に限らず全校で教科担任制を行えばうまく回っていくような気もする。

 しかしその場合、週5時間の国語や算数の先生は4クラスしか受け持てない(自分のクラスの道徳や総合的な学習の時間があるため)のに対し、音楽の先生などは14クラスも担当しなくては他の先生との公平が保てない。しかも5・6年生だけで15クラスもある学校など、めったにあるはずがないのだ。
(もっともその前に各クラスの時間割自体が作成できないだろう。普通の学校は体育館も理科室も音楽室などもひとつしかない。全校同じ時間に音楽を入れることなく、同じ先生が同時に二クラスの音楽の授業を行わないといったことが体育や理科や図工なので同時に起こるのだ。それをすべて満足させる時間割など不可能だ)

 そもそも全国の小学校の三分の一は1学年1学級以下なのだ。定数表によれば1学年1学級つまり6学級の学校の教諭の数は7名である。これでどうやって9教科を分け合えばいいのか。

【中学校の教師を利用する】

 そこで目をつけられたのが中学校の先生である。
 例えば数学で言えば、授業時数は中一で週4時間、中二で週3時間、中三だと週4時間だ。一学年一クラスの学校だと週11時間。二クラスの学校でも週22時間しか授業がない。
 学級担任を持っていれば無理だが、そうでなければ週の最大の持ち時間である28時間までにまだ6時間もある。その時間に小学校へ行ってもらおう。小学校の5・6年生の算数は週5時間。中学の先生にやらせてもまだ1時間の空きがある。

 このとき発案者の頭の中には、中学校の教員が常に殺人的な過重労働にさらされていることはない。各校に「どこでもドア」を配置してこなかったことも、そもそも中学校の数学の先生が小6の算数をよりよく教えられるかどうか分からないということも、全部忘れられている。単に数字を動かしているだけのことだ。

 さいたま市内には3学級しかない小規模中学校がたくさんあって小学校が隣接されているといった特異な事情があれば可能だが、どう考えても一般的ではない。さいたま市はそれをどう果たそうというのか。今後の動向を注意深く見守りたい。たぶんロクなことにはならないと思うが―-。

【では結局どうなるのか】

 最初の記事に戻ってみる。
 導入の対象は、算数、理科、英語の3教科である。

 現場の先生方からすれば、これまで教えてきた算数や理科はまだしも、慣れない英語科に教科担任が来てくれればありがたいはずだ。しかし週1時間(5・6年生だけで8クラスもあるような学校でも週8時間)のために正規の教員を増やしてくれるはずもない。

 それでは結局どうするのかというと、今月26日に発表された中教審答申(「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現)には教科担任制実施にむけて、大きく分けて二つのことが書かれている。

 ひとつは「いまだって教員定数を増やさないまま音楽や図工、家庭や体育で専科の教員を配置できているのだから、算数や理科、英語についても何とかしろ」ということである。
 暗に《国は面倒を見ないが、市町村は自腹で何とかできるだろう。隣の市町村で始めたのに、財政難を理由にやらないという選択肢はないはずだ》
と言っているようでもある。さらに穿って考えれば、《図工や音楽なんてどうでもいいじゃない! そんな専科はやめて、その分で算数や英語の教師を雇おうよ》と言っているとさえ受け取れる。恐ろしいことだ。

 もう一つは現在教職にある人たちの校種間異動(小学校と中学校)をさらに促進すること。特に中学校の数学・理科・英語科の教員に小学校の免許を取らせ、小学校で教えることができるようにする、そのためには現職の中学校教員について簡単な講習だけで小学校免許を取得できるようにする、
 大学においても小中両方の免許を取得する学生を増やすこと。(しかし負担が大きくなると教員志望がさらに減ってしまうので)その際、特例を設けてできるだけ簡単に複数免許が取れるようにする、
 結局、小学校の高学年に数学や理科、英語の免許をもつ教員を集中させ、さいたま市の取り組みのところで説明した「授業交換」によって教科担任制を実現しようというものだろう。

 つまり中央政府の誰かが、
「私が小学校の教科担任制を実現したのだ」
と誇るため、市町村や現場教師が死ぬほど苦労するだけのことだ。

 ところで小学校の教科担任制、そこまで苦労して実現しなくてはならないものだろうか?
 中学校の数学や理科の先生の方が小学校の算数や理科を教えるのがうまいというのはほんとうだろうか?
 私は、中学校の社会科教師として10年も働いた後で小学校に異動したが、専門であるはずの社会科でエライ苦労をさせられた。中学校と小学校の授業は同じものではない。ましてや中学校の授業を薄めてやれば小学校の授業になると考えるのはとんでもない思い違いである。
 小学校英語は多少の支援が必要だとしても、一流の教育職人である学校の先生たちなら、あっという間に何とかしてしまうだろう。
 教員を増やさずに行う教科担任制なら、是非ともやめていただきたい。

 

《参考》
令和3年1月26日 中央教育審議会
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)(中教審第228号)P.44~

3)義務教育9年間を見通した教科担任制の在り方
①小学校高学年からの教科担任制の導入

  • 義務教育の目的・目標を踏まえ,育成を目指す資質・能力を確実に育むためには,各教科等の系統性を踏まえ,学年間・学校間の接続を円滑なものとし,義務教育9年間を見通した教育課程を支える指導体制の構築が必要である。
  • 児童生徒の発達の段階を踏まえれば,児童の心身が発達し一般的に抽象的な思考力が高まり,これに対応して各教科等の学習が高度化する小学校高学年では,日常の事象や身近な事柄に基礎を置いて学習を進める小学校における学習指導の特長を生かしながら,中学校以上のより抽象的で高度な学習を見通し,系統的な指導による中学校への円滑な接続を図ることが求められる。
  • また,多様な子供一人一人の資質・能力の育成に向けた個別最適な学びを実現する観点からは,GIGAスクール構想による「1人1台端末」環境下でのICTの効果的な活用とあいまって,個々の児童生徒の学習状況を把握し,教科指導の専門性を持った教師によるきめ細かな指導を可能とする教科担任制の導入により,授業の質の向上を図り,児童一人一人の学習内容の理解度・定着度の向上と学びの高度化を図ることが重要である。
  • さらに,小学校における教科担任制の導入は,教師の持ちコマ数の軽減や授業準備の効率化により,学校教育活動の充実や教師の負担軽減に資するものである。
  • これらのことを踏まえ,小学校高学年からの教科担任制を(令和4(2022)年度を目途に)本格的に導入する必要がある。
  • 導入に当たっては,地域の実情に応じて多様な実践が行われている現状も考慮しつつ,専科指導の対象とすべき教科や学校規模(学級数)・地理的条件に着目した教育環境の違いを踏まえ,義務教育9年間を見通した効果的な指導体制の在り方を検討する必要がある。また,義務教育学校化や広域・複数校による小中一貫教育の導入を含めた小中学校の連携を促進する必要がある。
  • 新たに専科指導の対象とすべき教科については,既存の教職員定数において,学校規模に応じて音楽,図画工作,家庭,体育を中心とした専科指導を実施することが考慮されていることや,地域の実情に応じて多様な実践が行われている現状を踏まえ,これらの点に引き続き配慮することに加えて,系統的な学びの重要性,教科指導の専門性といった観点から検討する必要がある。その上で,グローバル化の進展やSTEAM教育の充実・強化に向けた社会的要請の高まりを踏まえれば,例えば,外国語・理科・算数を対象とすることが考えられる。当該教科の専科指導の専門性の担保方策や専門性を有する人材確保方策と併せ,教科担任制の導入に必要な教員定数の確保に向けた検討を進める必要がある。

②義務教育9年間を見通した教師の養成等の在り方

  • 現行制度においても,大学で最初に取得した教諭の免許状を基礎として,勤務経験と講習の受講の組み合わせによって他の学校種の教諭の免許状を取得することや,中学校教諭の免許状を保有する教員が小学校で当該免許状の教科を教えることが可能となるなど,教員免許状に係る学校間の垣根は低くなってきている。
  • 教科担任制の導入なども踏まえ,教師には,一層,学校段階間の接続を見通して指導する力や,教科等横断的な視点で学習内容を組み立てる力など,総合的な指導力を教職生涯を通じて身に付けることが求められる。このため,教員養成段階では,小学校教諭の免許状と中学校教諭の免許状の両方の教職課程を修了し,両方の免許状を取得することが望ましいが,2つの教職課程を同時に学生に求めることは学習範囲も広範にわたり,負担が大きい。
  • このため,従来,小学校と中学校の教職課程それぞれに開設を求めていた授業科目を共通に開設できる特例を設けることにより,学生が小学校と中学校の教諭の免許状を取得しやすい環境を整備する必要がある。
  • また,一定の勤務経験を有する教師は一定の講習を受講することで他の学校種の教諭の免許状を取得することが可能だが,中学校教諭の免許状を保有する者が小学校で専科教員として勤務した場合の経験年数は,現状ではこの勤務年数として算定されていない。
  • このため,中学校教諭の免許状を保有する者が小学校教諭の免許状を取得しやすくなるよう,小学校で専科教員として勤務した場合の経験年数を算定できるよう要件を弾力化する必要がある。

 

《参考2》

www.nikkei.com

さいたま市、小学校で教科担任制導入 23年度に全校へ
(2021.01.25 日本経済新聞

 さいたま市教育委員会は2021年度から各教科を専門の教員が教える「教科担任制」を市立小学校10校で導入すると発表した。小学5、6年生を対象とし、教科ごとに担当教員を設けてきめ細かい指導ができるようにする。導入校でのノウハウを伝授しながら23年度には市内全104校での実施を目指す。

 授業の質向上を目指すと同時に、教員の働き方改革を促すねらい。現在は学級担任が基本的に全ての教科を受け持つが、「教える科目が絞られれば教材準備にかかる時間が減る」(担当者)とみる。

 20年10月に文部科学省中央教育審議会が公表した中間まとめによると、「教科担任制」は22年度をメドに高学年で本格的に導入する必要があるとしている。対象とする科目は外国語・理科・算数などを例示しているが、市内で来年度から導入する10校では国語、社会を含む9科目を分担する。教員の専門性を生かして学校ごとに担当する教員を決めるほか、中学校の教員による指導を取り入れることも検討する。

新型コロナウイルスは、子どもたちの学校生活に深刻な影を落としているというが、それってコロナ以前から私たちがやろうとしていたことじゃなかった?

 神戸市内には学級崩壊が重複して、「学年崩壊」といった様相を呈している学校があるという。
 
校長は、新型コロナで学校行事の多くが中止や縮小に追い込まれたことと関係があるのかもしれないと言っている。私もそう思う。
 
しかし小学校英語やプログラミング学習などの学習内容を増やすために、行事を精選しあるいは縮小することは、新型コロナ以前から進められてきたことだ。
 
子どものこころが荒むなら、教師が環境づくりをするとともに一人ひとりの思いに耳を傾けることで対処し、とにかく学校は学力と道徳で詰めていけ――それは政府も社会もマスコミも合意した方向のはずだ。
という話。

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(写真:フォトAC)

記事

コロナで行事縮小など影響? 荒れる子どもら「学級崩壊」
(2021.01.22 神戸新聞NEXT)

www.kobe-np.co.jp「子どもが通う小学校が学年崩壊しています」。冬休み前、神戸市内の母親から神戸新聞報道部に悲痛な電話が寄せられた。児童が授業中に歩き回り、注意されると先生を罵倒する。授業は成立せず、登校できなくなった児童もいる-。新型コロナウイルス感染症による長期休校や、行事の縮小・中止、詰め込み授業が続いた2020年度。児童・生徒への影響を指摘する声も専門家や保護者からは上がっており、“崩壊”の背景や再生の手だてを探った。(斉藤絵美、鈴木久仁子)
 学級が機能しない、いわゆる「学級崩壊」が問題視されて久しい。しかし、定義や線引きが難しいこともあって、「事案ごとに対応しているが、件数として把握できない」(市教育委員会)のが現状だ。
 今回、神戸新聞に電話をくれた母親や当該校の校長によると、学級崩壊に陥っているのは、高学年の複数のクラス。
 約1年前から落ち着かない雰囲気だったが、新型コロナによる休校を挟んでも収まらず、担任以外の教員や教頭、保護者までもが学校に入り、歩き回る児童に声を掛けなくてはならない状態になっているという。
 「教師や見守りの保護者も『くそばばぁ』と罵倒されています。うちの子は荒れていませんが、帰宅すると明らかに疲れきっています」と母親は漏らした。
 同じ学校について、別の保護者から神戸新聞に届いたメールにはこうあった。
 「毎日イライラする子ども、暴言や暴力、担任の悪口や反抗。機能不全に陥った教室で誰も教師を信用できなくなり、心に何か分からない苦しみを抱えている」
 校長は、新型コロナによって卒業式や入学式、運動会も中止、縮小されたことに触れ、影響があると推測する。
 「低学年に校歌を教えたり、運動会でかっこいい姿を見せたりできなかった。高学年だと自覚する機会が奪われたことも、荒れた要因の一つだと思う」

■暴力行為、低年齢化の傾向
 そんな中、改善に向け、どう道筋を描けばよいのだろうか。
 近年、市内で発生した暴力行為の件数は、中学校で減少傾向だが、小学校では徐々に増加。「荒れる子ども」の低年齢化が進んでいることがうかがえる。
 市教委は昨春、学校を巡回して運営を支援する「地区統括官」を配置。「必要に応じて、スクールカウンセラーや教職員の追加などを検討したい」とする。
 元教師で、NPO法人「共育の杜(もり)」(東京)の理事長藤川伸治さんは「コロナ禍の大人のストレスを受け、子どもが持って行き場のない気持ちを抱えている」と現状を分析。その上で、「担任教諭だけに責任を問うのは無理がある」と強調する。
 さらに「力で押さえ付けるのではなく、子どもが『教室に居場所がある』と納得できるような環境づくりを目指すべき」としつつ、「特効薬はない」ときっぱり。「教職員も保護者も焦らず、子ども一人一人の思いに耳を傾けて寄り添ってほしい」と求めている。

 

 Yahooニュースのタイトルが「コロナが影響?『学級崩壊』」だったので「ウイルスが学級を破壊するとは何事か」と思わず意気込んだが、中身はある意味で穏当なものだった。

 神戸市内の小学校で学級崩壊が重複し学年崩壊と言ってもいいような状況になっているが、もしかしたら新型コロナウイルス対策による学校行事の縮小などが影響を与えているのかもしれない、ということである。校長先生がそのように話している。
 私たちは学校の現状を毎日確認することはできないが、いかにもありそうなことだ。

 

【子どもたちは友だちに会いに来る】

 子どもたちは学校に友だちに会いに来る。勉強をするためにくる子も先生に会うためにくる子もほとんどいない。
 友だちと会ってバカを言い合い、じゃれ合い、意味もなく走り回り、楽しいことを共有し、苦しいことを紛らしたり抑圧したりするために学校に来る。それなのに今の学校にはそうしたことがほとんど残っていないのだ。

 全員が前を向いて黙って食べる給食のなんと味気ないことか。大声を出して歌うことのできない音楽の時間のなんと苛立たしいことか。
 修学旅行も運動会も文化祭も、みんなで計画し、力を合わせ、全員の気持ちを結集して仕上げるところのだいご味がある、そこに成長の確かな手ごたえがある。それなのに今年はほとんどが中止か縮小か――。
 低すぎるハードルは向かうのも腹が立つ。

【学校における情操の教育】

 老人福祉施設で行くと、そこには驚くほど学校と共通するものがあることに気づく。
 体操に工作、描画、習字、土いじり。七夕やクリスマスを祝うこと、歌を歌うこと、踊りを踊ること、おしゃべりをすること。本を読んだり短い演劇や演芸を楽しむこと――それらは基本的な機能訓練であると同時に癒しであり、生きるエネルギーを培うことである。
 学校にはそうした機能がたくさんあり、しかしこの一年は十分に機能していなかったのだ。そのことは覚えておく必要がある。

 新型コロナ禍もまもなく1年になる。少なくとももう1年間は似たような状況が続くはずだ。
 いわゆる“学力”面は、先生たちが足らぬ部分を必死に補って送り出してくれるだろうが、時間も手間もかかる情操面には、ずいぶんな積み残しを出したまま進まざるを得ない。その度合いはまちまちでも、すべての子どもが心に傷を負って育っていくことを留意しておこう。
 甲子園を目指して野球をしてきた高校生が一番わかりやすい例だが、この子たちは他の世代が当たり前のように手に入れてきたものを、すべて取り上げられている。大人になって語るべき経験を失っているかもしれないのだ。

【コロナが終わっても元には戻らない】

 さらにもうひとつ覚えておくべきことがある。
 それはコロナ事態が終わっても、子どもたちは元の学校生活を取り戻すことはない、ということである。甲子園や高校総体は戻ってくるにしても、細かな点で、以前のようなハードルの高さを取りもどすことはない。

 部活の縮小、行事の精選、教師の働き方改革、学校生活の見直しはすでに既定路線だ。それがコロナ危機で一気に進んだだけで、揺り戻しは当然あるにしても完全に元にもどることはない。

 学校がブラック業界であることは津々浦々まで知れ渡って「働き方改革」をしなければ教員不足になることは明らかだ。将来、ネイティブ・アメリカンのようにしゃべれる英語使いを増やすためにはみんなが小学校から英語を学ぶしかない。未来の日本の科学技術を確かなものにするには、全員でプログラミングを習って眠っている金のガチョウの目を覚まさせるしかないのだ。もちろん育てたところでモノにならない人間の方がはるかに多いが、それはそれで国のために我慢してもらうしかないだろう。
 国家のためなら、全員で、行事がなくなったり縮小したりすることにも耐えなくてはならない。

 もちろん座学ばかりの学校についていけない子どもは出てくる。そんな子たちが不適応を起こして暴れても、あまり気にする必要はない。そうなったら先生たちが勤務時間外も頑張って、
力で押さえ付けるのではなく、子どもが『教室に居場所がある』と納得できるような環境づくりを目指」し、「教職員も保護者も焦らず、子ども一人一人の思いに耳を傾けて寄り添」うようにすればいいのだから。


 私はうまくできたためしがないが。

 

デビ夫人! あなたの真似をしたら私を誉めてくれますか?

 基本的には教育問題しか扱わない本ブログだが。
 正義をどう判断するかという点で都合のいい話なので、
 事例研究として拾い上げる。要するに、
 デビ夫人、あなたと同じことをしたら私を誉めてくれますか?
という話。

f:id:kite-cafe:20210111105701j:plain(アドルフ・フォン・メンツェル 「舞踏会の晩餐」《部分》)

 

記事

『年越しパーティー』開催のデヴィ夫人と、杉村太蔵が激しい討論 内容に賛否両論の声
(2021.01.10  grape)

grapee.jp 2020年2月から日本でも感染拡大した、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)。感染者数は日々増え続けています。
このままでは医療崩壊を起こしかねません。これ以上の感染拡大を防ぐため、政府は不要不急の外出や会食を避けるよう呼びかけています。
また、人が密集する場を減らすべく、自治体の判断によって全国各地の成人式が続々と中止になっています。

『年越しパーティー』開催のデヴィ夫人と、杉村太蔵が激しい討論

同年12月31日、都内の高級ホテルで年越しパーティーを行ったとして、『デヴィ夫人』ことタレントのデヴィ・スカルノさんに批判の声が上がりました。
報道によると、パーティーにはおよそ90人が参加していたとのこと。ネットで「マスクを着けてる人がほとんどいない」「影響力のある人だから自粛を呼びかけてほしかった」と話題になったのです。
2021年1月10日放送の情報番組『サンデー・ジャポン』(TBS系)では、デヴィ夫人をゲストに招き、今回の話題について特集。
デヴィ夫人はパーティー開催について、このようにコメントをしました。

私はね、こういう時期だからこそ勇気を持って開催したんですね。やっぱり『Go Toトラベル』とか『Go Toイート』っていうのはどうしてあったのかを考えていただきたいんですね。
このパーティーをすることによって…ホテルなんか10万円のお部屋を2万円で出しているところもある。こういうことを開催することによって、ホテルの人も助かるし、従業員の人も助かる。
ホテルに食料入れてる人、飲食の業者さん、みんな助かります。そしてオーケストラ20名。そしてダンサーも15名。そしてオペラ歌手が3名。みんな助かってます。
そして私たちはみんなストレスを抱えてますよね。ですから、こういうパーティーに来ることによってパワーをもらう、元気をもらう、みなさんがとっても幸せになる。
そして、私たちのような人間がこうしてお金を使って回さないと。日本の経済が本当に破綻してしまうと思うんですよ。
サンデー・ジャポン――より引用

自粛も大事である一方で、金銭的に余裕のある人が経済を回す必要性もあると説いた、デヴィ夫人
また、当日はホテル側とともに感染対策をとり、人数を減らしたり間隔を空けたりと工夫を凝らしたといいます。
デヴィ夫人がネットの批判に対し、「非難する人は何でも飛びついてくる」というと、コメンテーターである杉村太蔵さんがこのように意見を出しました。
ただ夫人、ホテルだとかですね、ダンサーのみなさんがこのままでは本当に大変なことになる、経済が破綻してしまうっていうお話でしたけども。
かえってこういったパーティーをやることによって、感染拡大がいつまでも止まらなくてずーっと(経済が)止まってしまう、そういう可能性も…。
「誰も感染していない。じゃあ結果的にいいじゃないか」っていう議論はですね、今成り立たないんじゃないでしょうか?
サンデー・ジャポン――より引用

杉村さんの言葉をさえぎり、デヴィ夫人は「お言葉ですけれども、パーティーは10日前で感染者はいない。そして参加者は自意識が高い。感染するのは20~30代の若い人たち若い人たちにはもっと危機感を持ってもらいたい」と反論。
コロナウイルスの感染拡大によって、日本では経済と人命を天秤にかけた状態が続いています。政府も、どちらを優先すべきかは決めかねているのでしょう。
「経済を回したい」というデヴィ夫人の考えも、「感染拡大を防ぐべき」という杉村さんの考えも、どちらが正解とはいえない極めて難しい問題です。
2人の熱い討論を見ていた番組視聴者からは、いろいろな意見が上がりました。
・「自分たちは意識が高い、若者は自意識が低いから感染する」って意見はちょっとなあ…。
・確かに経済を支えるのは大事。自粛で感染拡大を阻止しても、不景気によって命が奪われるかもしれない。
・自分は経済を回す余裕がないので、デヴィ夫人のような人がお金を使ってくれるのは正直いうとありがたい。
・パーティーをするのは勝手だけど、万が一クラスターが発生して困るのは医療従事者だから控えるべきだと思う。
このまま感染が拡大すれば、肺炎などの症状や医療崩壊によって命を落とす人が増えるでしょう。ですが経済が破綻してしまうと、不景気によって職を失い、生きていくことができない人が増えてしまうのです。
社会では、デヴィ夫人と杉村さんの討論のようなやり取りが至る所で行われています。2つの考えは両立しないため、どうしても衝突してしまいがちです。
今後、コロナウイルスがどうなるかは誰にも分かりません。2人の討論から、多くの人が「自分はどうすべきか」と考えさせられたようです。

 記事のタイトルは、「『年越しパーティー』開催のデヴィ夫人と、杉村太蔵が激しい討論 内容に賛否両論の声」である。
 視聴者の声にも
・自分は経済を回す余裕がないので、デヴィ夫人のような人がお金を使ってくれるのは正直いうとありがたい。
・パーティーをするのは勝手だけど、万が一クラスターが発生して困るのは医療従事者だから控えるべきだと思う。
など、意見の割れた様子が見られ、記事にも、
「経済を回したい」というデヴィ夫人の考えも、「感染拡大を防ぐべき」という杉村さんの考えも、どちらが正解とはいえない極めて難しい問題です。
とある。
 しかしこのように二つの正義が主張され背反するとき、たいていの場合「答えはその中間にある」とするのが一つの解法だが、その前にやっておかなくてはならないことがある。それは
 その正義をみんなが誠実に履行したら、果たして幸せになるだろうか
と考えてみることである。
 もしかしたら、どちらかは間違っているかもしれないのだ。

【異なる意見の「正しさ」を検証する】

 例えば杉村太蔵氏の考え方を徹底して、すべての人が食料の買い出しとから通院とかいった必要最低限のことしかしなくなったらどうだろうか――別の言い方をすれば、現在イギリスでやっているように、あるいはフランスやイタリアが第二波感染拡大で実施し、日本では北海道が似たようなことをやって感染者を減らした、あの方法を徹底するのである。

 日本では本格的なロックダウンが行われたことはないので分からないが、おそらくフランスやイタリアや北海道と同じことが起こるだろう。完全に実施すれば3週間以内に日本国内からウイルス感染はなくなり、この国は台湾やベトナムニュージーランドのようになる。

 一方、デビ夫人の主張に従って、感染するのは20~30代の若い人たちだからそれより上の世代で、自意識の高い私たちのような(お金持ち?)人がみんな、『Go Toトラベル』とか『Go Toイート』っていうのはどうしてあったのかを考えて、90人規模のパーティーを開いたらどうなるか――。

 私はデビ夫人のような大金持ちではないからもちろん同じことはできない。
 しかし助けるべきは「GoToトラベル」で潤った高級ホテル(どうせ割引があるならと、多くの人たちが宿泊に高級ホテルを選んだ)ではなく、中小のホテルを支えることはできそうだ。具体的に言えば今年度開催できなかった中学校時代の同窓会などどうだろう。

 田舎のホテルでなぜこんなにかかるのかと思う会費が1万8000円。そのまま泊を伴う場合は7000円の追加で朝食も出る。
 デビ夫人に比べるべくもないが、一人2万5000円のプランで100名、つまり250万円の宴会。これを1シーズンに30回も行えば十分に経営を支えることになるだろう。そんなことが日本中で行われたら、おそらく観光業の一部は例年をはるかに上回る収益を上げることができるだろう。

 しかしそれでよいのか?
 政府は大人数での飲食は避けるようにしろ、重症化リスクの高い高齢者はできるだけ外出しないようにしろと言っているのだ。デビ夫人の正義は正反対の方向にあるのだ。

 夫人に訊けば「アータたちではダメでしょ。自意識の高い人たちじゃないんだから」とおっしゃるかもしれない。そうなると自意識の意味も分からなくなるが、だったら選良である政治家たちの会合はどうか? 地域で言えば新年の名刺交換会など、その土地の名士しか集まって来ない。これだったら自意識の高い人たちばかりだから大いにやるべきか?

結局のところ、「自意識の高い人々」とは夫人が選んだ90人だけということになる。彼らだけがマスクもしないでパーティに参加できる、特別の人だということになるはずだ。

 

【どこに錯誤はあったか】

 きちんと考えれば明らかに誤りであるデビ夫人の正義を、サンデージャポンや引用記事の記事元である「grape」(ニッポン放送のグループ会社)は追及し切らなかったのか――。
 それはパーティーを開きたかったことを経済を回すことにすり替えたデビ夫人の詐術に、まんまと引っかかったためである。

 杉村太蔵氏も一般論で応酬するのではなく、こう言えばよかったのだ。
「やってはいけないのは、大人数がソーシャル・ディスタンスを保てない状態で、長時間飲食をともにすることだ。だからどうしてもホテル関係者を潤わせたかったら、知り合いでも知らない人でもいい、毎日数十組の家族をタダで招待して宿泊してもらい、ダンスや音楽は館内のテレビでリモート鑑賞するようにすればいいのだ。もちろん宿泊費はデビさんが全額、支払う。
 そうすればホテルも納入業者も、ダンサーやオペラ歌手も潤い、経済も回り、多くの人々がパワーをもらって帰ることができる――つまり夫人のおっしゃることはすべて実現し、批判を受けることもないのだ」

 判断のよりどころはただ一つ。
 その正義をみんなが誠実に履行したら、果たして幸せになるだろうか
だけである。