キース・アウト

マスメディアはこう語った

閉会式のバッハ会長の長ったらしい話をしっかり聞いている日本人アスリートの姿は、揶揄すべきものであり、いつの日か他人の話を聞かない世界標準に近づくべきだとマスコミは思っているらしい。

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(フォトAC)

 

記事

閉会式 太田雄貴氏がSNS実況「海外選手達がギブアップ 選手村に帰ったり」ネット沸く

(2021.08.09 デイリー)

www.daily.co.jp

 東京五輪・閉会式が8日夜、東京・国立競技場で行われた。

 日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の選手委員となった、フェンシング男子の銀メダリスト太田雄貴氏がステージにあがった。

 太田氏は閉会式の途中、国立競技場から写真付きのツイッター投稿を連投し、閉会式の様子を実況。

(中略)

 終盤のトーマス・バッハ会長のスピーチ時には「海外選手達がギブアップし、選手村に帰ったり、寝そべったりしている中、日本選手団はスピーチをしっかり聞いておられます。これは学生時代に校長先生達に鍛えられた成果と推測しております。現場からは以上です!」と、リアルな状況も伝え、ユーザーを沸かせた。

 

 太田雄貴は冗談のように言い、ツイッター・ユーザーも冗談ととらえて沸いたようだが、私は大まじめに言いたい。

「それはまったく校長先生のおかげだ」

 

 葬儀でお経がつまらないからと言って寝ていいことにはならないし、結婚式で神父の話がくだらないからと言って騒いでいい理由にもならない。神主の祝詞なんて半分も理解できないのが普通だ。

 しかし大人は、分かっても分からなくても、面白くても面白くなくても、きちんと聞いているふりくらいはして、演者に失礼のないように、あるいは分かって聞く人の邪魔にならないようにするのが礼儀だと知っている。そしてそのようにふるまうのだ。

 

 始業式や終業式、あるいは入学式や卒業式でつくられるのはそういう力だ。校長先生や来賓の話なんて内容の6割は形式的なものだから面白くもない。しかし注意深い子どもたちは残りの4割の中に価値ある言葉を探し出す。それが他人の話を聞く意味だ。

 漫才や落語ではないのだから最初から最後まで面白いということはあり得ない。頭にツカミがあるわけでもない、しかしとりあえず聞かなくては、大切な部分に触れることはできない。

 

 日本の子もたちは小さな時からそうした“聞く”しつけを受けて育ってくる。それが、

 海外選手達がギブアップし、選手村に帰ったり、寝そべったりしている中、日本選手団はスピーチをしっかり聞いておられます。

という姿勢をつくっている。

 

 もっとも最近の日本ではそうした価値も見直されようとしている。

 マスコミは成人式で祝辞を聞かない若者に同情的だ。「もっと若者が聞きたくなるような話をすべきだ」などと平気で言う。記者も話を聞いていないから大切なことが語られることに気づかない。

 

 文科省教育委員会も、あるいは校長自身ですら、“聞く”ことの教育に懐疑的で、見直す方向にある。3学期制を2学期制に変更して終業・始業式を1回ずつ減らしたり、運動会や文化祭での校長の話を削って時間短縮を計ったりすることが称揚されたりしている。

 

 あと20年もすれば校長先生達に鍛えられなくなった日本のアスリートも人の話を聞かなくなる。さっさと会場を後にしたり会話を楽しんだり、寝そべったりするようになるだろう。そうなったときマスコミは、「これで日本人も世界標準に近づいた」「同調圧力を脱して、自ら決める力を持った」と誉めてくれるだろうか?

 

いよいよ小学校高学年の教科担任制が本格的に始まるが、教科担任の手配がつかない。やってもいいという人材も足りないが、教員を雇う予算もない、法律上の制約があってそもそも教員の数が増やせない。こうして学校は死んでいく。誰が学校を殺したのか。

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(ジョン・アンスター・フィッツジェラルド「誰がコックロビンを殺したのか」)


記事

 教科担任制、先行現場では人繰り腐心「誰でもいいわけではない」

(2021.07.21 毎日新聞

mainichi.jp

 小学5、6年生で導入する教科担任制について、文部科学省有識者会議は21日、対象教科を外国語(英語)、理科、算数、体育の4教科とし、教員定数を増やすことで必要な人員配置を進めるよう求める報告書案を大筋で了承した。

 

 小学校で教科担任制を先行導入している自治体は教員の人繰りに腐心している。

 

 茨城県は2021年度から全ての公立小学校と義務教育学校(計470校)の5、6年生で、専科教員による教科担任制を導入した。主に理科、英語、算数だが、限定はしていない。国の追加配置(加配)の活用や定年退職した教員の再任用のほか、各市町村が独自に採用するなどして約300人の専科教員を確保した。配置できなかった学校は近隣の拠点校から派遣するなどしてカバーする。県教育委員会担当者は「教員の負担軽減のためにも1校1人は配置したいが、教育の面を考えると専科教員は誰でもいいわけではない。より効果的な制度にするため採用・育成の両面を進める必要がある」と話す。

 

 文部科学省は22年度からの教科担任制の本格導入に向け、加配を拡大する方針だが、「財務省との折衝次第」(文科省担当者)で先行きは不透明だ。多くの専科教員を確保することが難しい中、大分県兵庫県のように同じ学校の教員同士が得意な科目を交換する形で教科担任制を導入しているケースもある。大分県は19年度から一部の学校でこうした制度を取り入れているが、学校の態勢によっては必ずしも得意な科目が担えるとは限らない。それでも県教委担当者は「得意教科でなくても改善を続けることで自信が付き、その教員の専門性の高まりにつながると考えている」と話す。

(以下、略)

 

  当為(あるべきこと、なすべきこと)と現実は異なる。

 小学校高学年の教科担任制が悪かろうはずもないが、だからといって可能であるか、他の条件を無視しても(例えばどんな財政的負担に耐えても)「なすべきこと」かどうかは別問題だ。

 

【どう転んでも現実はうまく行かない】

 記事にもある通り、

教科担任制の本格導入に向け、加配を拡大する方針だが、「財務省との折衝次第」(文科省担当者)で先行きは不透明

 1学級40人から35人に減らす、たったそれだけでも40年以上かかり、しかも5年がかりでやらなければならないというのに、教科担任制のための加配など財務省が首を縦に振るわけがない。

 

 茨城県は、

国の追加配置(加配)の活用や定年退職した教員の再任用のほか、各市町村が独自に採用するなどして約300人の専科教員を確保した。

とのことだが、教科担任制のための加配制度などないから、他の名目の加配(例えば小学校1年生の学習習慣形成支援加配)を振り向けただけだろうし、「市町村独自の採用」というのは要するに地方が身を削って生み出した予算によって増やしたものだからいつまで続けられるか分からない。

 定年退職した教員の再任用となると意味も分からない。再任用教員は正規職員だからこれを“学級をもたない教科担任”にしてしまうと、学級担任が一人足りなくなってしまうはずだが、いかがか――。

 

 結局は大分県兵庫県がやるように、

同じ学校の教員同士が得意な科目を交換する形で教科担任制を導入

が精いっぱいだろう。これがいかに教員の負担になるかは前に書いた。

kieth-out.hatenablog.jp

 問題は要するに

理科の年間授業時数は105時間(週3時間)、算数は175時間(同5時間)、英語が70時間(同2時間)、体育に至っては90時間(同2・6時間)という変則、これをどう交換するのか?

ということだけだ。

 

「英語と理科(計175時間)が得意な先生が算数(175時間)の得意な先生と交換する、体育は諦める」とか、「英語と体育の得意な先生(計160時間)と算数(175時間)が得意な先生が交換するが、端数の15時間はドリルやテストの時間として本来の学級担任が行う」とか、いずれにしろロクなことにはならない。

 そもそも「専門は社会科だ。理科も数学も英語も得意じゃない」という私のような人間は、

「得意教科でなくても改善を続けることで自信が付き、その教員の専門性の高まりにつながると考えている」

ということになるのだろうか?

 しかし決まったことだ。どんなに大変でも教員はやってくれるだろう。

 

【誰が学校を殺したの? / それは私よとスズメが答えた】

 昭和の終わりからここ三十数年、学校は現実味のない理想主義によってボロボロにされてきた。今やマス・メディアでは「エビデンス(科学的根拠)」が流行語だが、「総合的な学習」が子どもに生きる力をつけるかどうかは誰も知らないし、すでに20年の歴史を経たというのに検証されたこともない。

 プログラミング教育の必要性が科学的に証明されたという話もなければ、「11歳から学校で始める週2時間の英語教育が、国民全体の英語力を高める」といったことにもエビデンスがあってのことではない。

 そうであるにも関わらず、教員を疲弊させ学校を殺すこれらの施策は、誰が考え、誰が始めるのだろう。

 

 ネット情報を集めると「バカな文科官僚」の姿が浮かんでくる。しかしこれは間違いだろう。公務員は誰もみな忙しいのだ。

 学校は教師のなり手が減り、児童相談所は虐待が解決できず、保健所は新型コロナに対応しきれない。公務員の働き方改革に取り組まなければならない厚労省の職員は月300時間の時間外労働に耐えている。

 みんな「身を切る行政改革」で切られてしまったからだ。

 

 そうなると公務員は最低限の職責を果たすためいっそう保守的になり、現存の仕事に執着して新しいものに手を出さなくなる、それが当然だ。それにもかかわらず教科担任制などの新しい施策に手を染めなくてはならないのは、文科官僚に命令できる誰かの圧力があるからである。

 

 だれが学校を殺すのか――それは「日本人の学力がさらに向上し、英語力やプログラミング能力が高まることで儲かる誰か」である。決して一般の国民ではない。

片方でこの夏も金を払って免許更新をしている教師がいるというのに、他方、九州では資格のない人にただで教員免許を渡して学級担任をやってもらっているという。しかも、それには無理なからざる事情があるというのだ。

 

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(写真:フォトAC)

 

記事

 

教員不足、頼みは臨時免許 大学生にも…「乱発は制度形骸化招く」

(2021.07・11 西日本新聞

www.nishinippon.co.jp

 

 大学や短大を卒業して取得する教員の普通免許ではなく、欠員を補うための臨時免許で教壇に立つ「先生」が増えている。九州7県での臨時免許交付件数は2020年度、小中高と特別支援学校で計2197件に上り、14年度の約1・3倍。全体の3分の1に当たる755件が小学教員で、特別支援学級の急増や35人学級の導入に伴って必要な教員数に採用が追い付かない状態にある。

(中略)

 佐賀県は20年度、14年度の約3倍の97件になった。欠員を埋めるため、17年度から小学校の臨時免許を解禁したという。県教委は「大量退職が続いており、教員が足りない」。教員のサポートは学校現場に委ねているという。低水準が続く熊本県でも20年度から条件を緩和し、学校の勤務経験を不問とした。

  鹿児島県は20年度が617件と14年度の約1・4倍に増え、中学教員が全体のほぼ半数を占めた。小規模校が多いため全教科をカバーできる教員数を一つの中学にそろえられず、臨時免許で対応しているという。

  九州大大学院の元兼正浩教授(教育行政学)は「そもそも普通免許でも教員として必要な資質や力量を示す最低限の専門性の証明にすぎない」と指摘。その上で臨時免許で小学校教員になった場合、専門外を担当する危険性は否定できないとして、系統だった養成と研修が必要との認識を示す。「各教委が安易に臨時免許を乱発すると、専門職としての教員の地位が崩れることになりかねない」として、早急な改善を求めている。 

    ◇    ◇

【ワードボックス】教員免許

 教員免許には普通と臨時、特別の3種類があり、いずれも都道府県教育委員会が交付する。普通免許を取得するには大学や短大に入学し、法令で定められた科目を修得して卒業することが条件。臨時免許は普通免許がある人を採用できない場合に限った対応として発行が認められている。特別免許は社会経験に基づく専門知識のある人が対象。有効期間は普通、特別の免許が10年、臨時は原則3年。

 

 

【問題の筋が違う】

 記事を書いているのが教育の専門家ではないこというのは、こういうことなのだろうか、教育に関するマスコミの記事は、いいところを突いていると思う時ですらどこかでピントを外している。

 

 今回の引用記事についていえば、

 大学や短大を卒業して取得する教員の普通免許ではなく、欠員を補うための臨時免許で教壇に立つ「先生」が増えている。

は確かにいいところに注目したが、その結論が大学教授の口を借りての、

「各教委が安易に臨時免許を乱発すると、専門職としての教員の地位が崩れることになりかねない」として、早急な改善を求めている。 

というのはいかがなものであろう。

 臨時免許で穴埋めをする状況が好ましいものでないことは、採用の担当者は百も承知なのだ。しかし早急な改善を求められたって、できないことはできない。

 

 

【そもそも教員志望がいない】

 昨年行われた2021年度教員採用試験の九州・沖縄地方の受験倍率は下の通りである。なお中学校については教科ごと倍率が違うために平均を掲げた。 

 

        小学校    中学校

福岡県                  1・4倍  平均2・8倍(1・7~5・0倍)

大分県                  1・4倍  平均3・7倍(1・0~8・5倍)

宮崎県                  1・9倍  平均5・2倍(1・9~7・8倍)

佐賀県                  1・4倍  平均2・6倍(1・3~6・6倍)

長崎県                  1・4倍  平均3・7倍(2・5~6・2倍)

熊本県                  1・8倍  平均4・2倍(2・1~7・7倍)

鹿児島県              2・1倍  平均4・3倍(3・1~13・0倍)

沖縄県                  4・7倍  平均12・6倍(4・3~18・9倍)

「【2021年度教員採用試験】 最終選考実施状況(九州・沖縄)」(教育新聞 2020年11月11日)より整理・引用》

 

 競争率が2倍を切れば合格者の質に問題が生れると言われる採用試験で、九州地方は軒並み2倍割れなのだ。しかも1・5倍さえない県が四つもある。

臨時免許で小学校教員になった場合、専門外を担当する危険性は否定できない

などと悠長なことをいっていられる場合ではない。倍率をどんどん下げていかない限り、臨時免許でも使わないと学級担任が埋まらないのだ。

 

 中学校でも細かく見ていくと大分県の技術科は受験者がわずか2名で二人とも合格させて倍率1・0。数字には出てこないが熊本県の家庭科には受験生が1名しか来なくてその受験生も落としている。まさか需要がゼロなのに受験させたということもないだろうから、よほど成績が悪かったか当日欠席だったのだろう。

 これでどうやって早急な改善などできるというのだろう。

 

 もう言葉がない。

 教員が足りない以上、35人学級どころではない。早急に45人学級に戻し、学級数を減らさなくてはならないところまで追い込まれているのだ。

 

教員免許更新制が廃止になるが、間違っても教師の働き方改革の一環として「先生たちを楽にさせるための政策」と曲げられないように注意しよう。更新制で困っているのは教師ではなく、文科省・教育委員会なのだ。

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 (写真:フォトAC)

 

記事

 

教員免許更新制廃止へ 文科省、来年の法改正目指す 安倍政権導入

 (2021.07.10毎日新聞

mainichi.jp

 文部科学省は、教員免許に10年の有効期限を設け、更新の際に講習の受講を義務づける「教員免許更新制」を廃止する方針を固めた。政府関係者への取材で判明した。今夏にも廃止案を中央教育審議会に示し、来年の通常国会で廃止に必要な法改正を目指す。

 文科省は免許更新講習に代わる教員の資質向上策として、オンラインなどを通じた研修機能の強化を検討している。教員免許更新制は第1次安倍晋三政権による法改正で2009年度に導入されたが、大きな方針転換を迫られることになった。

 免許更新制は、幼稚園や小中学校、高校などの教員免許に10年の期限を設け、更新の際は約3万円の講習費用を自己負担し、大学の教育学部などで計30時間以上の講習を受けることを義務づけている。

 しかし、教員たちはこうした講習を学校の夏休み期間などを利用して受けにいかざるを得ず、大きな負担になっている。文科省が今月5日に公表した調査でも、受講費用や講習時間について、8割を超える教員が負担に感じていることが判明。一方、講習内容が「役に立っている」と考える教員が3人に1人にとどまるなど、実効性が疑問視される結果が出ていた。

 また、教壇に立っていない免許保有者が更新をせずに失効するケースが多いため、産休や育休の取得者が出た場合、代替教員の確保が難しくなっている問題も指摘されていた。代替教員が見つからなかった学校では、教頭が授業を実施してしのいでいるなどの実態が明らかになっている。

 さらに、現職教員が更新講習を受けるのを忘れて教壇に立てなくなる「うっかり失効」も各地で相次いでいる。神戸市では今年4月、30~50代の小中学校の教員ら7人が更新を失念していたことが判明し、担任教員の差し替えを迫られるなど、対応に追われた。

 萩生田光一文科相もこうした現状を問題視しており、昨年度以降、制度の廃止の必要性を訴えてきた。今年3月には、中教審に制度の抜本的な見直しを議論するよう諮問している。

 

【「10年経ったら教師はポンコツだ」と政府は言った】

 私は教職を一種の職人芸だと思っている。場数を踏むことが大事で、現場でさまざまな問題・状況・現象を経験し、対応を繰り返すことで腕は上がっていく。だから基本的に年長者の方が能力は高いが、もちろん例外もある。すべて大工や左官と同じだ。

 ところがこうした考え方を真っ向から否定したのが「教員免許更新制」だった。

教育の英知は大学や研究機関にこそある。したがってそこから近い者(例えば新卒)は価値はあるが、10年も離れたらポンコツだから自腹で学び直せ

 それがこの制度の趣旨である。

 

 更新制が廃止されるのは、

 しかし現代の教員は自覚も意欲も根性もなく、すぐにビービー言うから温情を施してやろう、わざわざ遠くまで来させるのも大変だからオンラインに替えてやる、感謝しろ

記事の前半が伝えるのはそういうことである。

 

【更新制度廃止はどれほどの負担軽減になるのか】

 しかし実際には夏休みの講習がそれほど大変だったわけではない。

 更新年でなくても、教員は夏休み中てんこ盛りの研修を受けさせられている。学校五日制が始まった際、週に2日も休んでいる上に夏休みまでたっぷり取っているようでは何を言われるか分からないからと危惧した文科省や教育員会が、たっぷり研修機会を増やしたうえに、校内会議も入れ込んだためである。

 更新年の教師はこうした研修に代えて更新講習を受けに行くだけで、次の年からは再び普通の研修を受けるようになるので、時間的・体力的な負担は似たようなものである。ただ3万円(正確に言えば3万円以上5万円程度まで)の経済負担と更新手続きの面倒はなくなるから有り難いことには違いないが、これで文科省のアリバイづくりをされても困る。 

さあ、免許更新制はなくした。これで楽になったろう。文句を言わずもっと働けと言われても素直に頷く教員はいない。

 

 

【更新制度廃止のほんとうの理由】

 更新制廃止が大した負担軽減にならないことは、おそらく文科省も十分承知している。それにもかかわらず廃止するのは、毎日新聞の記事の後半で語られている。

教壇に立っていない免許保有者が更新をせずに失効するケースが多いため、産休や育休の取得者が出た場合、代替教員の確保が難しくなっている問題も指摘されていた。代替教員が見つからなかった学校では、教頭が授業を実施してしのいでいるなどの実態が明らかになっている。

 年度初めの教員不足は定年退職の教員を再任用で繋ぎ留めたり、その期間を終えた人をさらに講師として雇ったりと、何とか充填できるが、年度途中の不足はそういうわけにはいかない。

 手持ちの教員に妊娠するなとも言えないし、病気でも休むなというわけにもいかない。さらに新規採用の教員まで続々と辞めてしまうとなると、明日からでも来てもらわないと教室に担任がいなくなってしまう。中学校では1教科の授業が止まってしまう。

 

 かつては次年度の採用試験をめざして、アルバイトで食いつなぎながら勉強を続ける教職浪人がいくらでもいた。コンビニよりはるかに収入が高くしかも経験の積める講師の仕事は、彼らにとっても渡りに船だった。その教職浪人がダメなら、退職教員という手もあった。

 定年退職で家にいたり他の職に就いていたり、あるいは結婚・出産などで早期退職した人も、現職の校長から頭を下げられたとなれば、一役買ってやるしかないと重い腰を上げてくれる場合があった。中には拝み倒されて、1歳児を急遽保育園に入園させたうえで3カ月だけといった約束で現場に来てくれた人もあった。

 ところが現在、浪人してまでブラックな職場をめざそうという若者は払底し、退職教員たちには免許がない。もちろん3万円~5万円を払って更新講習を受けてもらえば免許は復活するが、明日来て欲しい状況には間に合わない。

 そんなこんなで教頭先生が担任代わりをしている学級が全国に相当数、出てきてしまいしかもその状況がいっこうに解消しない。

 教員免許更新制の廃止のほんとうの理由はそこにある。

 

 

【更新制がなくなって、再び教師が叩かれる】

 引用した毎日新聞の記事はそこまで書いてくれてあるが、今朝のNHKニュースは「教員の働き方改革=負担軽減」の問題としてしか、これを扱っていなかった。

 

 間もなく、

「いくら負担軽減のためとはいえ、更新制度をやめ、教師の質を下げてまでやることではないだろう」

という話が持ち上がってくるだろう。

「更新制度廃止以来、教員の質が下がった」という神話もつくられる、教員がその矢面に立たされる。

 

 世の中の人にとっては、質の低い担任に持ってもらうくらいなら、担任のいないクラスの方がよほどましなのかもしれない。

 

教員採用試験:採用倍率が下がったからといって教員の質を心配にする必要はないが、日本中のあちこちで「担任のいない学級」が生れることは問題だ。

f:id:kite-cafe:20210626212515j:plain(写真:フォトAC)

 

記事

 

公立小教員の採用倍率、過去最低更新 長時間労働で敬遠

 (2021.06.25朝日新聞デジタル

www.asahi.com 今春採用された公立小学校教員の採用倍率の全国平均が2・6倍だったことが各地の教育委員会への取材で分かった。過去最低だった昨年度の2・7倍(文部科学省調査)を下回った。2倍を下回る自治体は19あった。教員の大量退職期が続き採用が増えた一方で、学校現場での長時間労働の問題が解決されず、学生に教職を敬遠する動きが広がっているとみられる。

 

 2021年度採用試験(20年度実施)について、47都道府県と20政令指定市大阪府から教員人事権を委譲された豊能地区の教委を対象に、受験者数や4月1日現在の採用者数などを聞いた。例年6月1日までの数値をまとめる文科省調査とは異なる可能性がある。

 

 小学校は受験者数4万3243人に対し、採用者数が1万6561人(東京都は集計中のため合格者数を計上)だった。20年度(文科省調査)は4万4710人に対し採用者数が1万6693人で2・7倍だった。

 

 公立中の採用倍率の平均は4・3倍で、文科省調査で過去最低だった1991年度の4・2倍に迫る。受験者数4万3911人に対し採用者数は1万272人。20年度(同)は4万5763人に対し9132人で5・0倍だった。

(以下、略)

 

  ここにきてようやく教員のなり手不足が深刻な問題になりつつある。

 小学校教員の採用倍率2・6倍は過去最低だそうだが、それよりも深刻なのは2倍を下回る自治体は19あったという点である。通常、採用試験は2倍を切ると合格者の質に問題が出るといわれるからだ。

 

【学校には、良い先生が集まるようにできている】

 しかし教員の“質”というのは、必ずしも試験に強いかどうかだけで把握できないだろう。

 例えば記事で中学校について書かれた「過去最低だった1991年度」は元号に直すと平成3年度(平成2年実施)だが、バブル経済の爛熟期の採用試験、民間では普通の企業でも20代に100万円以上のボーナスを出し、社員旅行がハワイ7日間(個人負担1万円)だったという時代である。そんな時期に何が悲しくて教員になんかになろうとしたのか。

 

 彼らは本気で先生になりたかったのだ。子どもが好きだったり子どもを育てることが好きだったり、あるいは教えることに情熱を傾けることのできると信じた人たちが、この年、教員になったのである。

 その意味では真に質の高い教員が採用できたとも言える。

 

 もちろん“失われた20年”といわれる時期に、倍率二十数倍を勝ち抜いてきた人たちがダメだというわけではない。彼らはとんでもなく優秀だった。

“頭のいい人には心がない”みたいな言い方をされるが、中に“心がない”人がいたとしても、“心があるかのような立ち振る舞い”をたちどころに学習し実践してみせるのだから一筋縄ではいかない。彼らもまた別の意味で質の高い教員なのだ。

 要するに景気がよかろうが悪かろうが、倍率が高かろうが低かろうが、学校には“良い先生”が集まるようにできている。

 

 

【思ったより、さらにブラックな職場環境に苦しむ人に】

今年度採用になった先生たちの多くは、学校のブラック体質を承知しながら敢えて教則に就こうとした人たちだ。悪かろうはずがない。

 

ただ、良く調べたにもかかわらず、思ったよりも過酷だったという人もいるかもしれない。だから私としてはこんなふうに言っておく。

  • 教職は職人芸だ。だからカンナの使い方やノコギリのひき方は一度覚えればいい。2年目以降はその分がごそっとなくなる。当番の決め方、掃除のさせ方などは、いつまでも考え続けなければならないことではない。
  • 教職は1年ごとのルーティーン・ワークだ。だから一回りすると翌年は同じ回りでかまわない。運動会も文化祭も同じ時期に毎年来る。学校が代わってもほぼ同じだ。
  • 教職は年功序列の世界だ。自分より年上の保護者は偉いが、年下の保護者は偉くない。だから年少のうちは学年主任でも前に押し出しておいて、自分は陰に隠れるようにしていればいい。少し慣れたら「慇懃無礼」な対応の仕方を身につけておけば何とかなる。

 しかしそれでも苦しくて苦しくてしかたないなら、教職は命をかけて行うほどのものでもない、心が傷む前にさっさと辞めて、別の道を進むがいいだろう。コロナ禍が終わればまた人手不足の時代が来る。食うに困ることはない。

 私は30歳でサラリーマン生活に見切りをつけて教職についた。それでよかったと思っている。逆もまた真なりで、教職を去ったところでキミが困ることはないだろう。

 困るのは学校の方だ。

 

 

【教員が一人辞めることの意味】

 前もって言っておくけど、学校が困ると言っても、辞めていくキミが悪いという話ではない。キミは十分に心の血を流した。

 

 悪いのは見通しを誤った政府であり都道府県であり、やれ学力はどうした、円周率3で授業ができるか、ゆとりは結局、教師のゆとりか、いじめはどうなる、ブラック校則をなんとかしろ、英語教育をもっと進めろ――と煽ったマスコミなのだ。若い人たちが責任を迫られることではない。

 しかし後学のために、キミのいなくなった学校でそのあと何が起こるかも見ておこう。

 

 教員がひとり辞めると代わりを探さなくてはならない。年度途中だと正規採用はないから講師に来てもらうことになる。そのために、都道府県教委あるいは政令指定都市の教委には、講師の要請に応じてもいいという人の登録した「講師名簿」というものがあり、欠員の生じた学校の校長もしくは教委自身が、そこから人を選び、直接交渉にはいることになる。交渉といってもいつから、どんな立場で仕事に入るのかといった程度のことである。電話一本ですんなり話が決まることも多い。

 

 小学校の場合は小学校教諭の免許を持っていることが条件だが、中学校の場合は社会科の教員が辞めたら社会科の教員というふうにもうひとつの関門があるため、必ずしもピッタリの人材が探し出せないことがある。

 ここからが校長・教委担当者の腕の見せ所で、定年や結婚・子育てのために退職した教員や、名簿には載っていないもののかつて講師をやった経験のある人、昔の教え子で免許をもっているはずの人、ありとあらゆる伝手や縁故をたどって人材を探し出すことになる。

 

 ところが昨今、どこの自治体でも「講師名簿」が払底し、個人的人間関係で手繰り寄せることのできた人材も、ほとんどいなくなっているのだ。

 

 

【代わりの教師は誰も来ない】

 まず、教職浪人と呼ばれ、次年度の採用試験をめざして勉強しながらアルバイトなどで食いつないでいる人たち――この層が消えた。

 

 就職が1年遅れるというのは生涯賃金で1年分(退職金を計算に入れるとそれ以上)の収入を失うということである。

 このとき、例えば43年の就労期間を42年に縮めるといった場合、彼が犠牲にする1年分の給与は初年度の給与ではなく、43年目の、普通は最も高い給与である。その額、今から40数年後だとすると1千万円にもなろうか――それがなくなるのだ。

 教職は1千万円を犠牲にしてでも就くべき仕事だろうか? しかも職場は超ブラックときている。こうした疑問の前に、「教員のやりがい・楽しみ」といった話は軽く吹っ飛んでしまう。

 

 教職浪人がいなくなったとして、他にどんな人が応募してくれるだろうか。

 

 残るのは先にも紹介した定年・結婚・子育てのために退職教員した教員たちだが、この人たちも昨今の「学校のブラック化」話に二の足を踏んでいる。

「いまの自分に勤まる職場なのか――」

と。

 そしてここに決定的なでき事が被さる。彼らのほとんどが、教員免許更新制度のために免許を失効させているのだ。今から申し込んで夏休み中の更新講習を地受けてもらうにしても、今日明日の欠員を埋めることはできない。

 かくして先生のいなくなった教室は、副校長先生や教頭先生に診てもらうことになる。

 

 ねえキミ、

 キミが辞めるというのはそういうことだ。だからもしかしたら校長先生から、

「せめて次の担任が見つかるまでは、何とか勤め続けてくれないか」

と懇願されることがあるのかもしれない。

 けれど応えてはいけないよ。次なんか簡単に見つかるはずはないのだから。――そのままズルズルと年度末まで引っ張られるのがオチだ(年度末まで引っ張れば、講師ではなく正規教員に来てもらえる)。

 もちろんズルズルと年度末まで引っ張られることの方が、いい場合だってないわけではないけどね。

 

(参考記事)

www.asahi.com

三重県の高校は生徒の服装・髪型・男女交際等に関する指導を今後いっさい行わないと宣言した。保護者が恐慌に襲われても不思議のない決定だ。それなのに評論家は手を叩いて喜んでいる。

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(写真:パブリックドメインQ)

 

記事

 三重県の高校でブラック校則廃止、しかし生徒との信頼関係を取り戻す見直しになっているのか

 前屋毅 | フリージャーナリスト

(2021.06.17 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp

 

 文科省が促していることもあってか、校則の見直しが進みつつある。しかし、「らしく」という言葉で縛ろうとする学校側の意識そのものが変わらないことには、ブラック校則はなくなりはしない。

 

|いまの校則だけを変えるだけでいいのか

 三重県のすべての県立高校で、髪型や男女交際、下着の色などに関する校則が廃止されたことが、「県教育委員会などへの取材で明らかになった」と『毎日新聞』(6月15日付、電子版)が伝えている。県教委では同紙の取材に、「時代にそぐわない『過去の遺物』のような校則も残っている。今後も見直しを求めていく」と説明しているという。

(中略)

 注目したいのは、校則で禁止していた理由が「高校生らしく、技巧をこらしてはならない」ということだったと『毎日新聞』の記事が伝えていることだ。三重県の高校がツーブロック禁止の校則を廃止したのは、「高校生らしく」では世間を納得させられないと判断したからにほかならないことになる。

 

|生徒を枠に閉じ込める魔法の言葉

 そもそも「高校生らしく」とは、どういう意味なのだろうか。それが明確なものであれば、三重県の高校も説明のしようがあったのかもしれない。しかし、できなかった。

 

 考えてみれば、「高校生らしく」とは便利な言葉である。「高校生らしくない」として、ツーブロックや男女交際も禁じることができるし、下着や靴下の色も白だけと決めることができるのだ。

 

 誰が、「高校生らしく」を決めるのか。それは、学校側でしかない。学校側が「望ましくない」と思えば、「高校生らしくない」と断じて、禁じてきた。それが、校則である。学校側の「枠」に当てはまらないことは、「高校生らしくない」のだ。

 

「高校生らしく」とは、生徒を自分らの「枠」に閉じ込めておくための学校側にとっての魔法の言葉だともいえる。ただ、ただ生徒を枠に閉じ込めるために、学校側は「高校生らしく」を盾にしてきた。それが、ブラック校則を生み出した。

(以下略)

 

 

 記事にある6月15日付の毎日新聞を読んだ。

 確かに校則で禁止していた理由が「高校生らしく、技巧をこらしてはならない」ということだったと言う記述はあった。しかしツーブロックと呼ばれる髪型を禁止する根拠がそうだったというだけで、別に、

「高校生らしく」では世間を納得させられないと判断したから

ツーブロック禁止がなくなったわけではない。ではない。文科省が見直せ(やめろ)と言ったから止めたに過ぎない。

 それを、

 そもそも「高校生らしく」とは、どういう意味なのだろうか。それが明確なものであれば、三重県の高校も説明のしようがあったのかもしれない。しかし、できなかった。

とは我田引水も極まれりである。

「高校生らしく」を説明するなってまったく楽なことなのに。

 

【高校生らしくということ】

 「高校生らしく」とはどういうことか?

 答えは簡単だ。「親らしく」「社会人らしく」「お兄ちゃんらしく」と同じで、頭に着いた名詞にふさわしい態度やようす・行動のことを言う。

 だから「高校生らしく」は「高校生」が説明できればいいだけだが、それができないのか? 分らないなら私が教えてやろう。

 

 「高校生」とは高等学校に通う者のことである。では「高等学校」とは何か。

 これを辞書で調べると、

中学校卒業者に高等普通教育および専門教育を施すことを目的とする学校。修業年限は3年。ただし、定時制通信制の課程では4年以上。高校。

とあらぬ方向へ行ってしまうので、学校教育法で調べ直す。するとこんな記述がある(面倒な人は読み飛ばしてかまわない)。

 

第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。

二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。

三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

 

 つまり知・徳・体の全領域で義務教育より一段高い技能、および精神を身につけ、社会の発展に寄与できる人間になる場――ひとことで言えば、

 勉強をするところ

ということだ。

 そうなるとあとは簡単で、

「高校生らしく」とは、より高いレベルの学びを行おうとする者にふさわしい態度・姿勢のこと

をいう。たったそれだけのことが、なぜ分からないのだろう。

 

 

【学校の論理:流行にうつつを抜かしているようでは勉強はできない】

 三重県の高校に限らず、全国の小中学校・高校がツーブロックという流行の髪型を禁止してきたのは、それが「学習者にふさわしくない髪型」だと考えたからである。ポイントはツーブロックではなく、「流行の」である。形がどうのこうのではなく、流行っているからダメなのだ。疑うなら試してみればいい。

 

 昭和に禁止されていたロングヘアやリーゼント、あるいは江戸時代のチョンマゲや弥生時代のミズラを結って登校してみればいい。教師からはひとことふたことあるかもしれないが、禁止はされないだろう、流行っていないからだ(だが友だちからは笑われる危険性がある)。

 

 流行の髪型や服装にうつつを抜かしているようでは辛く苦しい勉強は続けられない(つまり高校生らしい生活はできない)と学校は信じている、だから禁止されるのだ。

 

 流行の服装や髪型や化粧をした子どもは、普通、家と学校を往復して勉強するだけの生活なんか絶対にできない、必ずどこかに遊びに行く。金も手間もかけた自分の姿を誰かに見せずにはいられない、それにふさわしい行動をとらざるを得ない、そしてその分、学習はおろそかになる――。

 エビデンスとやらを求められても困る。経験的にそうだとしか言いようがない。

 

 もちろんツーブロックに流行の服装で東大に受かった学生もいるだろうが、それは稀有な天才たちの世界の話だ。

 たいていの人間はその能力の最大を引き出そうとしたら最大の努力をするしかない

 それが今まで、学校の見てきたことだ。

 

 

【学校が生徒指導から手を引く地獄】

 筆者の前屋氏はタイトルで「三重県の高校でブラック校則廃止、しかし生徒との信頼関係を取り戻す見直しになっているのか」と三重県の取り組みを評価しながらも、学校にさらなる取り組みを求めている。しかし6月15日付の毎日新聞の記事を読んだ後でもそんなことを言っていられる悠長が私には理解できない。

 

 記事によれば、

三重県の全ての県立高校で今年度から、髪形や男女交際、下着の色などに関する校則が廃止された

 つまり今後、高校生の髪型や男女交際、下着の色などについての指導を、一切しないと宣言したのだ。

 

 これから学校は生徒がどれほど奇抜な格好をしてこようとも指導をしない。髪が赤くても金髪でも紫でも、鼻にピアスをつけ、耳に獣の牙を差してきたとしても、家庭に善処を求めるくらいであとは何もしない。指導の根拠がない。

 

 髪の色やピアスで指導をすれば生徒は当然、

「どこにそんな決まりがあるんだよ。いったいどこにそんなことが書いてあるんだよ」

ということになる。それが今日まで校則を増やし続けた理由の一つだが、これからは「だったらその校則、つくってやろうじゃねぇか」みたいな対応はできない。さらに前屋氏の言うように「高校生らしく」もダメだとなれば、指導の道がない。

 ひとりの生徒にじっくりと数十時間をかけてカウンセリングする余裕は最初からない。

 

 生徒が学校の帰りにラブホテルに行っても止められない、タトゥーを入れても止められない、すべては生徒の自己責任であり、家庭の問題だ――。

 毎日新聞の突きつける学校の近未来はそんな恐ろしいものなのに、前屋氏は怯えることもない。その家庭に教育力があるかどうかを問わず、子どもの問題は家庭に返えされるというのに――。

 私は震える。

 

 正直なことを言えば、私にはこの試みが成功するとはとうてい思えない。

 数年も経てばたくさんの保護者に泣きつかれて、学校はそぞろ校則を増やし始めるに違いない。

 

 しかしそれまでの間、学校は子どもが未熟なまま社会に出て行くことに怯えながら、生徒指導を保護者と地域に委ねるだろう。

 なぜなら校則の見直しを理由に生徒指導の項目を大幅に削減することは、社会のブラック校則批判に応えるとともに、教師の働き方改革にも大いに貢献する名案だからである。

 

 面倒くさい高校生をもった家庭は、しばらく死ぬほどの苦しみを味わうことになる。しかし社会正義と子どもの自由のためだ、我慢して頑張ってほしい。

 

文部科学省から学校に「行き過ぎた“校則” の見直し」が指示された。児童生徒・保護者・地域・教職員――どう転んでも誰かが猛反対しそうな案件。学校は大変だ。こうして教員の「働き改革」の掛け声のもと、仕事はさらに増えていく。

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(写真:パブリックドメインQ)

 

記事

 下着の色まで指定 行き過ぎた“校則” 見直しを 文科省が通知

(2021.06.13 HNK)

www3.nhk.or.jp

生徒の下着の色まで指定するなど、行き過ぎた校則や指導が問題となる中、文部科学省は全国の教育委員会に対し、社会常識や時代に合わせて積極的に校則を見直すよう通知しました。

 

学校の校則については、大阪の府立高校の頭髪指導をめぐる裁判をきっかけに、各地で見直しの動きが広がり、下着の色を「白」と指定して実際に確認するといった人権上の問題や、マフラーを禁止するなど、合理的でない校則への指摘が相次いでいます。

これを受け文部科学省は、全国の教育委員会などに対し、校則が子どもの実情や保護者の考え方、また社会の常識や時代にあった内容になっているか、絶えず積極的に見直すよう、通知しました。

 

各地の改善事例も紹介し、教育委員会の取り組みとして、校則の内容や見直し状況の実態調査をした例や、校則について生徒が考える機会を設け、改正手続きを明文化するよう求めた例を挙げています。

 

また、学校単位の取り組みとして、学校のルールで変更したい点を生徒が議論する取り組みや、生徒会やPTAに意見を聞き取っている例、それに、ホームページで校則の内容を公表している例が示されています。

 

そのうえで、校則の内容や必要性について、児童や生徒、保護者と共通理解を持つことが重要だと呼びかけています。

 

 

 校則については山ほど言ってきて、まだ山ほど話したいことがあるが、今日は別の観点からひとことだけ言っておく。

 

 教員の働き方改革が強く言われる昨今、文科省は通達ひとつを出すにもたいへん気を使い、詳細な資料をつけたり今回のように例を挙げて方向性を示してくれたりする。

 

 しかしそれにしても、

学校単位の取り組みとして、学校のルールで変更したい点を生徒が議論する取り組みや、生徒会やPTAに意見を聞き取っている例、それに、ホームページで校則の内容を公表している例が示されています。

 これをきちんとやったらどれほどの時間と手間がかかるか、文書を書いた文科官僚はもちろん、大臣やその他の政治家、あるいはメディア、世間の人々はまったく理解していないようだ。

 

 もちろん教職員が一方的に審議して下し置く校則なら簡単だが、学校のルールで変更したい点を生徒が議論する取り組みだの、生徒会やPTAに意見を聞き取るなど始めたら、「どこまではまるドツボかな」みたいな話になる。

 

 下着ひとつをとっても、児童生徒の中にはどうしても白以外のものをつけたい子もいればどうでもいい子もいる。下着といっても下半身の話ではない。制服のブラウスや体育着・Tシャツから透けて見える上の話である。

 

 一方に扇情的な下着をつけたがる娘を抑えきれず、なんとか学校に禁止してほしいと切実に願う保護者がいるかと思えば、息子の嫌がるランニングシャツならまだしも、白のタンクトップなんてどこに売っているんだと息巻く親もいる。

「それは親の責任で――」と言いたくても、担えない家庭があることは学校が一番よく知っている。

 

 しかしパンドラの箱はこじ開けられたのだ。

 髪型も服装も持ち物も、校則のひとつひとつがまな板に載せられ、吟味される。どう転んでも不満を言う人はとうぜん出てくるから、学校が説得に回らなければならない。髪型や下着の自由は既定になってしまったから、学校自身が納得していないのにも関わらず、保護者や地域の人々を説得しなくてはならない。

 1年かかるか2年かかるか分からない。しかしとにかくやるしかない。

 

 さて文科省を始め政府・各自治体は「教員の働き方改革」に非常に熱心だ。

 教師を思い遣ってのことではない。今のままだと人材どころか必要数の教員ですら確保できない可能性が出てきたからだ。

 それにも関わらず、仕事は日増しに増え、職場として学校のブラック化は進展する。

 

 この一年余りのあいだに増やされたもののうち、大きなものだけを数えてみよう。

  • コロナウイルス感染症対策、
  • リモート学習のためのタブレット端末の準備及び学習内容の充実、
  • スマホの持ち込みを許可したためにしなければならない雑務・機器の管理、
  • 子どもの性被害を減らす「生命(いのち)の安全教育」、
  • そして今回のブラック校則の見直し。

 どれをとっても必要で、たいへんで、片手間でできるものではない。

 

  そして代わりに削減された仕事は・・・・、

  今のところ、ない