キース・アウト

マスメディアはこう語った

「私が学校をよくした」と言えば政治家は票に結びつく。しかし現場を知らない人間の安易な発想は学校の首を絞める。さまざまな政治家が制度を入れ替える朝三暮四。しかしそのたびに学校は苦しくなるのだ。35人学級の軛(くびき)。

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(写真:フォトAC)

 

記事

35人以下学級 現場に悲鳴も 「きめ細かい指導」 喜ばしいが… 増えぬ教員、多忙に拍車
(2021.10.24 西日本新聞

www.nishinippon.co.jp


「福岡市の35人以下学級」

 「学校現場が大変なことになっています」。そんな声が福岡市立小の教員から、あなたの特命取材班に届いた。教員の長時間労働の深刻さはここ数年、全国各地で問題になっている。今回のケースは市が独自に導入した「35人以下学級」が関係しているという。現状を取材した。

 

 「クラスが増えても教員の増員はなし。そのしわ寄せは教職員に行っているんです」。意見を寄せてくれたリカさん(50代)は語気を強めた。

 市は昨年度まで、小学1~4年は一律、中学1年は学校側の選択で35人学級を実施。本年度は小中の全学年に拡大した。市教育委員会によると、コロナ対策を念頭に「密」の回避が目的だったという。

 クラスが増えれば、その分だけ学級担任が必要になる。市は追加採用はせずに特定の教科だけを担当したり、少人数指導をしたりする担任外教員を充てて対応することにした。

 

 担任をしない教員が減ることで何が起きるのか。リカさんの勤務校では1人の学級担任が病休に入ったことから問題が表面化した。

 昨年度はフルタイムで働く担任外教員が3人いたが、うち2人は本年度は担任になった。病休した人の代わりを任せようにも、残る1人も急な担当換えは難しい。結局、教科の年間計画作りを担う教務主任が学級担任になった。「35人学級の導入は喜ばしいが、クラスが増えた分の教員は配置してもらわないと困る。産休や育休も含めて担任が休みに入るとき、学校外からなり手を探してもすぐには見つからない」

 

 市教委によると、35人学級の拡大と児童生徒数の増加に伴い、今春に小学校は計136学級、中学校は計177学級増えた。担任外教員は小学校で137人減の計264人、中学校は36人減の計81人となった。

 2学期が始まった8月27日現在、小学校は計4人、中学校は計7人の教員の欠員が生じた。市教委教職員第1課は「教員が見つかり次第、速やかに配置したい」としている。

 

 小学校教員の男性(40代)の学校では昨年度まで重要単元は教員2人で授業をすることがあった。今春から担任外教員が減り、1人で授業をする。「きめ細やかな指導が難しくなった」

 ある小学校長は「本人の体調や家族の介護で外した方がいい人がいても、担任にせざるを得なかった。負担が大きいとつぶれてしまう懸念がある」と話す。

 

 教科担任制を採用する中学校の現状はどうなっているのだろうか。

 チエさん(40代)が担当する学年はクラスが一つ増え、週に受け持つ授業が3~4時間増加した。授業の準備やテストの採点に充てていた空き時間がなくなり、1日6時間が全て授業になった教員もいる。

 病休に入る教員もいたが、カバーできる同僚はゼロ。生徒はしばらく自習を続けた。それも限界となり、教頭が授業をしていた時期もあったという。

 「目の前のことでアップアップ。十分指導ができず、満足に話を聞けない状況になっている」。毎日声を掛けていた生徒と話をする余裕がなくなり、その生徒は一時教室に顔を出さなくなった。「本当に申し訳なかった」と自らを責める。

 

 ただ、取材班が聞いたような声は市教委に届いていないようだ。教職員第1課は「学校現場から聞こえてくるのは、35人学級を継続してほしいという声」と説明する。例えば、1学年に児童生徒が80人いるケース。40人学級では2クラスだったのが、35人学級では26~27人の3クラスになる。「担任の負担は減り、きめ細かな指導につながっている」と話す。
(以下、略)

 

 

 

【負担軽減という意味での35人学級は不合理だ】

 35人学級(1学級の児童生徒数を35人までと定めて教員配置をする制度)は教員の負担を軽減し、その分、児童生徒にきめ細かな指導のできる画期的な方法として長く期待されてきたものだ。しかしこれだけ教員が多忙になる中で、果たしてどこまで有効なのか、私は疑問に思っている。

 

 確かに、
 40人学級では2クラスだったのが、35人学級では26~27人の3クラスになる。
と聞けばすばらしい制度という気がしないわけではない。同じ計算で1学年1学級36人といった学校では、ふたつに割って18人の2クラスということになる。少なすぎて心配になるほどだ。

 

 しかし記事のモデルケースは36人~40人という過大学級を担任するごく少数の教員が、翌年も同じ学年を持った場合に生じるたった一度の奇跡である。ほかの学年、または学校に移ったら、そこには1学級35人もいたということになると、すばらしいはずの制度変更が、実は児童・生徒が4~5人減っただけ、ということになりかねない。そしてその方が可能性としては高いのだ。
 騙されてはいけない。教員全体としてみれば、「35に以下学級」は数字上も実際も、40人以下が35人以下になったというそれだけのことである。

 

 もちろん、たった4~5人でも軽減には違いないという考え方もある。通知票も指導要録も4~5枚少なくなり、学級だよりの印刷や配布も4~5人分減らすことができるからだ。
 しかし通知票や指導要録は年に数回書けばいいだけのものであり、学年だよりの大変さは印刷や配布ではなく原稿を作成することだ。
 負担軽減が目的なら、担任を二人にして、1・3学期の通知票は担任A、2学期の通知票と指導要録は担任B、学級だよりは交互に2週間おき、とする方がいい。これだったら仕事は二分の一になり、50人学級でもやっていける。

 

 

【人を増やさず35人学級を始めると負担は増す】

 35人以下学級というのはその程度の効果しかないのに、福岡市は教員を増やすことなくこれを果たすという暴挙に出た。「どんだけ現場を知らないのだ?」と驚くばかりである。
 おそらく決めた人は「少人数指導をしたりする担任外教員」が何であるかですら理解していないだろう。

 これは「(いわゆる)定数法」の枠内にない教員で、国が毎年政策的に配置する場合もあれば、都道府県あるいは市町村が独自の予算で配置する場合もある。もともと学校の負担を軽減するために配置したもので、それを35人学級のために使うというのは「あちらの軽減策をやめて、こちらの軽減策に代える」、いわば朝三暮四のような変更である。

 

 もちろんそれでより良い指導ができるようになるのならいいが、教師の負担増になるようでは本末転倒だ。記事にある、
 小学校教員の男性(40代)の学校では昨年度まで重要単元は教員2人で授業をすることがあった。今春から担任外教員が減り、1人で授業をする。「きめ細やかな指導が難しくなった」
 チエさん(40代)が担当する学年はクラスが一つ増え、週に受け持つ授業が3~4時間増加した。授業の準備やテストの採点に充てていた空き時間がなくなり、1日6時間が全て授業になった教員もいる。
などはその典型である。

 こうした事態が偶発的なものであればいいが、どう考えても必然的結果である。
ひとを増やさない「35人学級」は、きめの細かな指導をできなくする。

 

【政治家や行政はまったくわかっていない】

 それにしても、
ただ、取材班が聞いたような声は市教委に届いていないようだ。教職員第1課は「学校現場から聞こえてくるのは、35人学級を継続してほしいという声」と説明する。
とはどういうことだろう。

 

 おそらく、いったん始めたことは容易に戻せないのだ。言い始めた人のメンツにも業績にも関わるからである。それは誰か――。
 もちろん日常的に忙しい市教委職員ではない。役人は新しい仕事なんて好きではないし、お役所は動きの鈍いところだと昔から相場が決まっている。誰か学校のことをまったくわかっていない者が、人気取りのために発案して指示したものである。

 

 いずれにしろ、
コロナ対策を念頭に「密」の回避が目的
が本当なら、早晩、撤回されるから、それまでの我慢という話だろう――とは、実は思っていない。

 

「日本経済の活力を削いでいるのは個人主義の欠如のためであり、日本はその教育の在り方を考え直さなければいけない」というが、ジョブズやザッカーバーグを生み出したアメリカの個人主義は、トランプや非科学的トランプ信奉者も生み出してるじゃないか

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(写真:フォトAC)


記事

イェール大学名誉教授「アメリカの幼稚園で気づいた日本低迷の根本原因」 苦手を潰す日本と得意を伸ばす米国 
浜田 宏一 イェール大学名誉教授

プレジデント 2021年10月29日号)

president.jp

 

(途中から)

 

古い教育が日本人の活力を奪っている

 さて、ここまではいわば“個人主義の行きすぎ”の話であって、読者は、日本の教育は子どもや学生に自分勝手を許さないよう教育しているから安心だと受け止めるかもしれない。しかしながら、日本では、逆に個人主義の欠如が経済の活力をそいでいるというのが、実は本稿の強調したい点である。ワクチンがアメリカで先に開発されて、日本ではそうでないといった科学の進歩の差が、実は個人のインセンティブ不足に関係しているかもしれないのである。

 日本の教育の第一の特徴は、基礎的学力、特に記憶と計算能力の強調である。日本の技術が世界のフロンティアに近づいた今、記憶と計算だけでは前に進めない。漢字、人名や歴史を忘れても、スマートフォンが教えてくれるし、計算もスマートフォンがやってくれる。

 今の技術革新に大きく役立つのは、ITに代表される技術革新を前提としたところで、いかに多数の人々に利便を与えるようなネットワークのある構想ができて、それをビジネス化できるかである。アップル、アマゾン、グーグル、フェイスブックなどが多大の利益を得るのは、インターネットの存在を前提として、世界中に散らばっている隠れた需要と供給をうまく結びつける技術である。

 日本の教育の第二の特徴は、知識を学び理解するという情報摂取(インプット)に偏り、自らの発信(アウトプット)が限られていることである。明治以降に世界に追いつこうとした日本の経済発展の歴史に根づいているものであるが、お互いに意見を言い合って、その中から新しいヒントを得ることがフロンティア開発のためには不可欠である。

 個人主義と対比される日本の教育の第三の特徴は、画一的なところである。「不得意なところをなくせ」というのが、私の中学の校長先生の口癖だった。これに比べ娘の通った(ハーバード大の近くにある)幼稚園の園長さんは、入園式で「“子どもは一人ひとりそれぞれ違う”ということを理解するのが教育のはじめです」と入園式で述べた。

 したがって、有能な子どもには飛び級が許されたり、能力差に応じて特別のクラスを設けたりすることも、米国では当然である。

(以下略)

 

【話は米国の個人主義にも困ったものだというところから始まる】

 引用部分に先立って浜田名誉教授は次のように言っている。
 米国は個人主義の国である。
 したがってバイデン大統領のコロナワクチン義務付け方針に対しても、
 共和党支持者およびワクチンを受ける子どもの親などから強烈な反対運動が起こっている。
 自分の体は自分で面倒を見るというのが合衆国憲法に保障された人権だと反対派は言うのである。ウイルスの伝播を防ぐマスク着用の強制についても同様で、米国は個人主義の行きすぎと科学への無知から、多くの人命が失われている。

 また、
 今でも南部諸州を中心に共和党を地盤とする20数州の知事が、ワクチン接種の義務付けに反対
しており、
 米国では、科学的真理を認める人々と、いまだ影響力の強いトランプ前大統領が唱える“自分に都合のよい世界”を信じて科学を軽視する人々の間で、認識の対立が政治的対立につながっている
と紹介する。

 

 私の引用したのはそれに続く部分だ。ひとことで言えば個人主義には悪い面もあるが、日本経済の活力を削いでいるのはまさにその個人主義の欠如のためであり、日本はその教育の在り方を考え直さなければいけない」という内容である。しかし果たしてそうだろうか?

 

 

飛び級もあるが留年もある】

 学校教育は有機的なものであってあちらをいじってこちらが無傷というわけにはいかない。世界中の国々の教育の、良いところばかりを剥ぎ合わせてパッチワークのような制度を創り上げれば理想的な教育が出現するとは言えないのだ。

 

 例えば浜田教授は、
「有能な子どもには飛び級が許されたり、能力差に応じて特別のクラスを設けたりすることも、米国では当然である」
とおっしゃるが、有能な子どもに飛び級があるように、そうでない子に留年があることには触れていない。

 

 もちろん「子どもはそれぞれの能力に応じた教育を受ける権利がある」といえばその通りだが、現実問題として、よくわからない授業を2年も続けて受ける子どもの意欲を、維持するのは容易なことではない。留年した子どもに特別な教師や授業が与えられるわけでもない。
 実際、ほとんどの州で義務教育となっている高校の中退率が3割以上、非白人に限っていえば半数が高校生活をまっとうできていない。さまざまな理由があるにしても、学力の不足が大きな要因であることは容易に想像できるだろう。

 しかし低学力が去ったあとの教室は身軽である。必然的に義務教育修了者は一定水準以上ということになり、その中からハーバード大学やイェール大学といった超一流大へ進む者が出てくる。

 

 

【教育を憂える人々の一部は、エリートのことしか考えていない】

 これについてマイクロソフトビル・ゲイツは次のように語っている。
 アメリカ合衆国の生徒人口の内、2割は他国のトップ2割の優秀者たちと比較しても劣らない優秀な人たちで、ソフトウェアやバイオテクノロジー分野に革命をもたらしアメリカ合衆国を常に最前線に位置づけてきました。

(中略)

 経済界を見ても、現在、成功のチャンスは優れた教育を受けた者だけに与えられています。

 この傾向は、変えなければなりません。皆が公平にチャンスを得るよう変えることにより高度な教育を原動力とする分野においてアメリカを最先端に位置づけることができます。

www.ted.com(「TED2009 Bill Gates: Mosquitos, malaria and education」 日本語字幕は画面右下のボタンで切り替える)

 

 浜田教授もいう。
 今の技術革新に大きく役立つのは、ITに代表される技術革新を前提としたところで、いかに多数の人々に利便を与えるようなネットワークのある構想ができて、それをビジネス化できるかである。
 
 そんな素晴らしいネットワークが構想できてしかもビジネス化できるような(あるいはそうした集団の一員となれるような)優れた人材は、私が担任・教科担任として教えてきた4000人の児童生徒の中でも、おそらく数人だけだろう。
 この記述の前にある記憶と計算だけでは前に進めないという言い方の中にも、「記憶や計算がしっかりできるなんて当たり前だが」といった含みはないのだろうか?

 

 漢字、人名や歴史を忘れても、スマートフォンが教えてくれるし、計算もスマートフォンがやってくれる。
といっても、例えばスマホで「乖離」という漢字を調べようとするのは、日本語に「乖離」という言葉があることを知っていて、しかも使い方も分かった上で今まさに使用しようとしている者だけだ。スマホが計算をやってくれるといっても「(12+15)×(45-28)」ができるのは、カッコ内を先に足し引きするという計算ルールを身につけた人間だけである。
 そうした基本的な内容を身につけることは、それだけでも普通の子たちにとっては大変だ。

 

 浜田教授のように日本の教育を憂え批判する人たちの一部は、確実にエリートのことしか考えていない。

 

 

ジョブズザッカーバーグとトランプが手をつないでやってくる

 先に言ったように、
 学校教育は有機的なものであってあちらをいじってこちらが無事というわけには行かない。
 スティーブ・ジョブズやマーク・ザッパーバーグを生み出す教育は、ドナルド・トランプやその信奉者である “自分に都合のよい世界”を信じて科学を軽視する人々を生み出す教育と同じものである。ジョブズザッカーバーグだけが欲しいというわけにはいかないのだ。浜田教授はその部分がわかっていない。

 

 私たちにできるとしたら、日本を合衆国にするか、このまま微調整で進むか、あとは他に理想的な教育をしている国や地域を探し、それを丸ごと写し取るかだけであろう()。
*学力だけで言えば中国・韓国・台湾・シンガポールが手本となるが、「あんな厳しい受験競争はいらない、学力だけが欲しい」といっても無理な話だ。

 

緊急事態宣言下だというのに、一部の学校では「給食」という名の大規模会食会のために子どもを登校させている。学校は最低限、子どもに飯を食わせていればいい、教師の仕事は給仕だとみんなが思っている 。

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(写真:フォトAC )


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給食時間だけの登校OKも 学校の感染対策   

SankeiBiz 2021.09.17)

www.sankeibiz.jp 新型コロナウイルスの感染が子供にも広がる中、学校現場では給食の時間も対策が求められる。配膳の感染リスクを減らすため、パンと牛乳などの簡易な給食にする学校もあるが、保護者らからは「栄養が乏しい」「量が少ない」といった声も上がる。感染対策と、成長期の子供の栄養を両立させるため、学校関係者の試行錯誤が続いている。

 

会話せず黙々と

 東京都西東京市保谷(ほうや)第二小学校の2年2組の教室。16日午前、通常より早く給食の時間が始まった。この日のメニューはミートソーススパゲティと牛乳。廊下にはあらかじめお皿に盛られたスパゲティが並べられ、児童は受け取って自分の席に戻り、順に食事を始めた。全員が前を向いて無言で食べる。日直の「いただきます」の号令や、班で楽しくしゃべるような給食の風景はない。

 西東京市の小中学校では感染防止のため、6日から小学2年以上はオンライン授業を実施。ただ、給食の時間のみは登校を認め、学校で昼食を取れる。

 通常は午前の授業は4時間目までだが、オンライン授業実施期間中は3時間目で止め、4時間目は登校の時間に当てる。密を避けるためクラスを半分に分け、給食の時間を2部制とした。8~9割ほどの児童・生徒が給食を食べに登校しているという。

 市教育委員会の荒木忍・統括指導主事は「昼食を用意するのが難しい家庭もある。子供たちが困らないようにしたい」と話す。この取り組みを始めて1週間。子供からは「給食の時間だけでも友達や先生に会えると安心する」といった声もあるという。

(中略)

 一方、埼玉県戸田市でも厚木市と同様の簡易給食を3~10日に提供したが、簡易給食の写真がSNSで拡散され、市に「量が少なすぎる」「栄養が足りない」といった苦情が80件以上寄せられたという。

(以下、略)

 

【緊急事態宣言下の学校で大規模会食会――】

「不要不急の外食は避けよ」「会食は4人まで」「マスク会食の推奨」「テレワークの推奨」等々言われる時期に、

小学2年以上はオンライン授業を実施。ただ、給食の時間のみは登校を認め、学校で昼食を取れる

とは!

 いくら、

密を避けるためクラスを半分に分け、給食の時間を2部制とした。

とはいえ、さらに教師のやることだから感染対策はかなりがんばっているだろうにしても、

8~9割ほどの児童・生徒が給食を食べに登校しているという

状況では本気でクラスターの発生の心配をしなくてはならない。なぜこうまでして子どもに食わせなくてはいけないのか。

 

 こんなことをしているから、

学校の常識は世間の非常識

などと言われるのだ。

 

 しかも学校が独断でやっているわけではなく、市教委の指示らしいのだ。

 一方、記事にした産経新聞はよいところに目をつけながら、“市の指示による学校の大規模会食会”をまったく問題だと感じていない。それどころか、

「量が少なすぎる」「栄養が足りない」

などとお門違いの非難を載せている。

 まったく呆れたものだ。

「給食時間だけの登校OKも 学校の感染対対策」――給食登校が感染対策だというタイトルがどれほど惚けたものか、それにも気づいていないのだ。

 

 

【学校は教育機関ではなく、主な機能は給食サービスだったという証明】

 かつて「学校のスリム化」という言葉があった。その時やり玉に挙がったのが部活で、しかしどうしてもそれがなくせず、部活で争っているうちにエネルギーが切れで諦められてしまった。けれど仮に部活が整理できたとして、その先はどこまで“スリム化”するつもりだったのだろう?

 

 コロナ禍は図らずも答えを教えてくれた。学校が最後にひとつだけ残すとしら、それは給食なのだ。

「昼食を用意するのが難しい家庭もある。子供たちが困らないようにしたい」

 それがすべてである。

 

 表向きは「子どもの学びを守る」と言っているが、実際に守りたいのは“昼食の用意しなくて済む”という家庭の既得権である。それを守らなければ行政は非難の十字砲火にあい、緊急事態宣言下の給食投稿登校を批判すればマスメディアといえど再起不能なまでに炎上する。総選挙も近い、学校給食だけは止められない――。

 

 学校は教育機関ではなく給食サービスの機関である。そのことは、

 廊下にはあらかじめお皿に盛られたスパゲティが並べられ

と実際に準備したのが誰なのか、それを考えればわかることである。

 

大阪府で、緊急事態宣言下であるのも関わらず、府の要請に従わなかった教職員が775名も処分された。深夜まで残業をして、それから夕食に向かっても二人以上だと処分対象となる厳しさだが、それでも絶対にやるべきではなかった。

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(写真:フォトAC)

 

 

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大阪府・市教委が校長ら教職員775人処分 自粛要請中に多人数会食

(毎日新聞 2021.09.10)

mainichi.jp

 今春の歓送迎会シーズンに新型コロナウイルス対策として大阪府民に求めていた少人数会食などの自粛内容に反して会食していたとして、大阪府教委と大阪市教委は10日、校長7人を含む教職員計775人を処分したと発表した。

 処分されたのは、府が校長2人を含む453人、市が校長5人を含む322人。

 府教委によると、処分の内訳は、戒告2人(校長2人)▽厳重注意3人(教頭2人、事務長1人)▽所属長注意448人(教諭など440人、実習助手6人、主査2人)。

 市教委によると、戒告は校長5人と、市教委の指導主事(課長級)1人の計6人。316人は口頭注意とした。

 

 府・市は3月1日から4月上旬までの間に「5人以上」または「午後9時以降」の会食の自粛要請に反して職員同士で会食していたケースについて、教職員も含めて調査。7月には府・市職員計1474人が処分されている。

 

 

 学校を、児童生徒という立場から見たことのある人は多いが、組織内部の大人として見た経験のある人は少ない。また、一般企業とはかなり価値観の違う世界で、労働というものに関する考え方もあまりにも異なるので何かと誤解されやすい。それが学校だ。

 教師はあまりにも清廉で、だからこそ勘ぐられることも多く、間違った判断が横行する。

 私はそうした誤解や判断の間違いをできるだけ是正したいし、だからこそ多少わかりにくい事象に関しても首を突っ込み、できるだけ好意的に解釈しようとしてきた。しかしそんな私でも説明に窮することがある。今回の記事がまさにそれだ。

 

 

【あれはこういう時期だった】

 今春の歓送迎会シーズン、3~4月といえばまさに新型コロナウイルス感染拡大第4波の真っ最中。そのあと経験した第5波と比べれば、1日の新規感染者数も約四分の一と規模は小さく、大した波ではなかったように見えるが、当時は第3波をはるかに凌ぐ巨大な波になるのではないかと肝を冷やしたものである。

 さらに特徴的なのは、このときの感染拡大は首都圏以外で顕著で、近畿・北海道・愛知・福岡・沖縄などが急速に患者を増やし、特に大阪では初めて、重篤な患者が入院できない医療崩壊の状況が生れ、私たちを怯えさせた。そのまさに真っ最中に、大阪の教職員が会食をしていたのである。豪気にもほどがある。しかも7名もの校長が参加していたとは!

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【最大限、学校に寄せて考えればこうなる】

 と、ここまで嘆いておいて――、さて、どうせ私には現地まで行って事実究明をする力はないのだ。良い方にも悪い方にもいくらでも拡大解釈できる。だったらどこまで好意的に解釈できるか、一応、学校側に思いっきり寄せて、都合よく考えてみてみることにする。

 

 まず考えられるのは、これが飲酒を伴う会食だったかどうかという問題である。そう思って記事を読みなおすと、

 府・市は3月1日から4月上旬までの間に「5人以上」または「午後9時以降」の会食の自粛要請に反して職員同士で会食していたケースについて、教職員も含めて調査。

 つまり必ずしも飲酒をしていたとは限らない。単なる夕食会でもダメな場合があるのだ。

 

 例えば年度末、あるいは年度初めの忙しいさなか、夕食も食べずに仕事をしていた若手の教員が9時過ぎに切り上げて食事に行ったら、たとえ二人きりの食事でも「午後9時以降」の会食に該当。

 あるいは、私の勤務してきた学校では通常、新年度初日の昼は新任職員の歓迎も込めて、職員室や集会室で一堂に会して注文弁当を食べる昼食会が習わしだったが、これも、今やれば「5人以上」の「歓迎会」に違いない、アウト!

 

 処分された7人の校長はそれにも関わらず、校内で歓迎昼食会を開いて責任を取らされたのかもしれない。もちろん教育委員会や校長会では議論の上、こういった些末な事例にも細かく指示を出していたはずである。しかし当該の校長は何らかの事情で説明の会議を欠席した上に文書を精査し損ねたのだろう。あるいは単にボーっと生きているだけの人だっただけなのかもしれないが。

 

 遅くまで仕事をしてから夕食に行った若手教員も、それが「午後9時以降の会食」に当てはまるとは考えていなかった。しかしそうした迂闊さ自体が処罰されるべきだと言われれば、それもそうに違いない。

 

 

【果たしてそんな細かなことまで報告するだろうか】

 その上で、“大規模宴会を開いたわけでもないのに、教員はそうした具体的な会食会をいちいち報告するのか”という点が問題になるかもしれない。しかしこれはほぼ間違いなく、問われれば報告する。

 

 私は20km/hほどの速度超過で警察のお世話になった職員を連れて、教育員会(具体的には教育長)に謝罪に行ったことがある。そのとき市の担当者である課長が、ぼそっとこんなことを言った。

「黙っていれば分からないことを、この程度でいちいち報告してくる職員はいないよ」

 10年以上前の話で今は違うのかもしれないが、当時の私は、

「世の中、そうなっているんだ」

とつくづく感心したことを覚えている。

 

 

【道徳や倫理の問題ではない】

 緊急事態宣言下の会食、これは道徳や倫理の問題ではなく、危機管理の問題である。飲酒したかどうか、5人以上だったかどうか、あるいはマスク会食になっていたかどうか――それらは全部“どうでもいいこと”であって、疑われる可能性のある行為は一切してはならなかったはずだ。

 

 いったん処分が行われたら中身が精査されることはない。

「校長みずからの音頭で数十人の飲酒を伴う歓迎会が行われ、そこでは教員がマスクも付けずに飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをした」

 そんなうわさが広まっても訂正しようがない。そして学校運営あるいは学級運営は極めてやりにくくなる。そういった事態は絶対に避けなくてはならない。

 

 大阪市を含む大阪府内の小中学校・高校はおよそ1950、教職員は総数6万4千人ほどである。したがって処分された校長7名は280校にひとり、処分された教職員775名は全教職員の83名にひとり、1校について0・4人ほどにあたる。

 決して多い数とは言えないが、危機管理の点からすれば、限りなくゼロに近くなくてはならない数字である。

 

 大阪府下の教職員の猛省を望む。

 

 

閉会式のバッハ会長の長ったらしい話をしっかり聞いている日本人アスリートの姿は、揶揄すべきものであり、いつの日か他人の話を聞かない世界標準に近づくべきだとマスコミは思っているらしい。

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閉会式 太田雄貴氏がSNS実況「海外選手達がギブアップ 選手村に帰ったり」ネット沸く

(2021.08.09 デイリー)

www.daily.co.jp

 東京五輪・閉会式が8日夜、東京・国立競技場で行われた。

 日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の選手委員となった、フェンシング男子の銀メダリスト太田雄貴氏がステージにあがった。

 太田氏は閉会式の途中、国立競技場から写真付きのツイッター投稿を連投し、閉会式の様子を実況。

(中略)

 終盤のトーマス・バッハ会長のスピーチ時には「海外選手達がギブアップし、選手村に帰ったり、寝そべったりしている中、日本選手団はスピーチをしっかり聞いておられます。これは学生時代に校長先生達に鍛えられた成果と推測しております。現場からは以上です!」と、リアルな状況も伝え、ユーザーを沸かせた。

 

 太田雄貴は冗談のように言い、ツイッター・ユーザーも冗談ととらえて沸いたようだが、私は大まじめに言いたい。

「それはまったく校長先生のおかげだ」

 

 葬儀でお経がつまらないからと言って寝ていいことにはならないし、結婚式で神父の話がくだらないからと言って騒いでいい理由にもならない。神主の祝詞なんて半分も理解できないのが普通だ。

 しかし大人は、分かっても分からなくても、面白くても面白くなくても、きちんと聞いているふりくらいはして、演者に失礼のないように、あるいは分かって聞く人の邪魔にならないようにするのが礼儀だと知っている。そしてそのようにふるまうのだ。

 

 始業式や終業式、あるいは入学式や卒業式でつくられるのはそういう力だ。校長先生や来賓の話なんて内容の6割は形式的なものだから面白くもない。しかし注意深い子どもたちは残りの4割の中に価値ある言葉を探し出す。それが他人の話を聞く意味だ。

 漫才や落語ではないのだから最初から最後まで面白いということはあり得ない。頭にツカミがあるわけでもない、しかしとりあえず聞かなくては、大切な部分に触れることはできない。

 

 日本の子もたちは小さな時からそうした“聞く”しつけを受けて育ってくる。それが、

 海外選手達がギブアップし、選手村に帰ったり、寝そべったりしている中、日本選手団はスピーチをしっかり聞いておられます。

という姿勢をつくっている。

 

 もっとも最近の日本ではそうした価値も見直されようとしている。

 マスコミは成人式で祝辞を聞かない若者に同情的だ。「もっと若者が聞きたくなるような話をすべきだ」などと平気で言う。記者も話を聞いていないから大切なことが語られることに気づかない。

 

 文科省教育委員会も、あるいは校長自身ですら、“聞く”ことの教育に懐疑的で、見直す方向にある。3学期制を2学期制に変更して終業・始業式を1回ずつ減らしたり、運動会や文化祭での校長の話を削って時間短縮を計ったりすることが称揚されたりしている。

 

 あと20年もすれば校長先生達に鍛えられなくなった日本のアスリートも人の話を聞かなくなる。さっさと会場を後にしたり会話を楽しんだり、寝そべったりするようになるだろう。そうなったときマスコミは、「これで日本人も世界標準に近づいた」「同調圧力を脱して、自ら決める力を持った」と誉めてくれるだろうか?

 

いよいよ小学校高学年の教科担任制が本格的に始まるが、教科担任の手配がつかない。やってもいいという人材も足りないが、教員を雇う予算もない、法律上の制約があってそもそも教員の数が増やせない。こうして学校は死んでいく。誰が学校を殺したのか。

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(ジョン・アンスター・フィッツジェラルド「誰がコックロビンを殺したのか」)


記事

 教科担任制、先行現場では人繰り腐心「誰でもいいわけではない」

(2021.07.21 毎日新聞

mainichi.jp

 小学5、6年生で導入する教科担任制について、文部科学省有識者会議は21日、対象教科を外国語(英語)、理科、算数、体育の4教科とし、教員定数を増やすことで必要な人員配置を進めるよう求める報告書案を大筋で了承した。

 

 小学校で教科担任制を先行導入している自治体は教員の人繰りに腐心している。

 

 茨城県は2021年度から全ての公立小学校と義務教育学校(計470校)の5、6年生で、専科教員による教科担任制を導入した。主に理科、英語、算数だが、限定はしていない。国の追加配置(加配)の活用や定年退職した教員の再任用のほか、各市町村が独自に採用するなどして約300人の専科教員を確保した。配置できなかった学校は近隣の拠点校から派遣するなどしてカバーする。県教育委員会担当者は「教員の負担軽減のためにも1校1人は配置したいが、教育の面を考えると専科教員は誰でもいいわけではない。より効果的な制度にするため採用・育成の両面を進める必要がある」と話す。

 

 文部科学省は22年度からの教科担任制の本格導入に向け、加配を拡大する方針だが、「財務省との折衝次第」(文科省担当者)で先行きは不透明だ。多くの専科教員を確保することが難しい中、大分県兵庫県のように同じ学校の教員同士が得意な科目を交換する形で教科担任制を導入しているケースもある。大分県は19年度から一部の学校でこうした制度を取り入れているが、学校の態勢によっては必ずしも得意な科目が担えるとは限らない。それでも県教委担当者は「得意教科でなくても改善を続けることで自信が付き、その教員の専門性の高まりにつながると考えている」と話す。

(以下、略)

 

  当為(あるべきこと、なすべきこと)と現実は異なる。

 小学校高学年の教科担任制が悪かろうはずもないが、だからといって可能であるか、他の条件を無視しても(例えばどんな財政的負担に耐えても)「なすべきこと」かどうかは別問題だ。

 

【どう転んでも現実はうまく行かない】

 記事にもある通り、

教科担任制の本格導入に向け、加配を拡大する方針だが、「財務省との折衝次第」(文科省担当者)で先行きは不透明

 1学級40人から35人に減らす、たったそれだけでも40年以上かかり、しかも5年がかりでやらなければならないというのに、教科担任制のための加配など財務省が首を縦に振るわけがない。

 

 茨城県は、

国の追加配置(加配)の活用や定年退職した教員の再任用のほか、各市町村が独自に採用するなどして約300人の専科教員を確保した。

とのことだが、教科担任制のための加配制度などないから、他の名目の加配(例えば小学校1年生の学習習慣形成支援加配)を振り向けただけだろうし、「市町村独自の採用」というのは要するに地方が身を削って生み出した予算によって増やしたものだからいつまで続けられるか分からない。

 定年退職した教員の再任用となると意味も分からない。再任用教員は正規職員だからこれを“学級をもたない教科担任”にしてしまうと、学級担任が一人足りなくなってしまうはずだが、いかがか――。

 

 結局は大分県兵庫県がやるように、

同じ学校の教員同士が得意な科目を交換する形で教科担任制を導入

が精いっぱいだろう。これがいかに教員の負担になるかは前に書いた。

kieth-out.hatenablog.jp

 問題は要するに

理科の年間授業時数は105時間(週3時間)、算数は175時間(同5時間)、英語が70時間(同2時間)、体育に至っては90時間(同2・6時間)という変則、これをどう交換するのか?

ということだけだ。

 

「英語と理科(計175時間)が得意な先生が算数(175時間)の得意な先生と交換する、体育は諦める」とか、「英語と体育の得意な先生(計160時間)と算数(175時間)が得意な先生が交換するが、端数の15時間はドリルやテストの時間として本来の学級担任が行う」とか、いずれにしろロクなことにはならない。

 そもそも「専門は社会科だ。理科も数学も英語も得意じゃない」という私のような人間は、

「得意教科でなくても改善を続けることで自信が付き、その教員の専門性の高まりにつながると考えている」

ということになるのだろうか?

 しかし決まったことだ。どんなに大変でも教員はやってくれるだろう。

 

【誰が学校を殺したの? / それは私よとスズメが答えた】

 昭和の終わりからここ三十数年、学校は現実味のない理想主義によってボロボロにされてきた。今やマス・メディアでは「エビデンス(科学的根拠)」が流行語だが、「総合的な学習」が子どもに生きる力をつけるかどうかは誰も知らないし、すでに20年の歴史を経たというのに検証されたこともない。

 プログラミング教育の必要性が科学的に証明されたという話もなければ、「11歳から学校で始める週2時間の英語教育が、国民全体の英語力を高める」といったことにもエビデンスがあってのことではない。

 そうであるにも関わらず、教員を疲弊させ学校を殺すこれらの施策は、誰が考え、誰が始めるのだろう。

 

 ネット情報を集めると「バカな文科官僚」の姿が浮かんでくる。しかしこれは間違いだろう。公務員は誰もみな忙しいのだ。

 学校は教師のなり手が減り、児童相談所は虐待が解決できず、保健所は新型コロナに対応しきれない。公務員の働き方改革に取り組まなければならない厚労省の職員は月300時間の時間外労働に耐えている。

 みんな「身を切る行政改革」で切られてしまったからだ。

 

 そうなると公務員は最低限の職責を果たすためいっそう保守的になり、現存の仕事に執着して新しいものに手を出さなくなる、それが当然だ。それにもかかわらず教科担任制などの新しい施策に手を染めなくてはならないのは、文科官僚に命令できる誰かの圧力があるからである。

 

 だれが学校を殺すのか――それは「日本人の学力がさらに向上し、英語力やプログラミング能力が高まることで儲かる誰か」である。決して一般の国民ではない。

片方でこの夏も金を払って免許更新をしている教師がいるというのに、他方、九州では資格のない人にただで教員免許を渡して学級担任をやってもらっているという。しかも、それには無理なからざる事情があるというのだ。

 

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(写真:フォトAC)

 

記事

 

教員不足、頼みは臨時免許 大学生にも…「乱発は制度形骸化招く」

(2021.07・11 西日本新聞

www.nishinippon.co.jp

 

 大学や短大を卒業して取得する教員の普通免許ではなく、欠員を補うための臨時免許で教壇に立つ「先生」が増えている。九州7県での臨時免許交付件数は2020年度、小中高と特別支援学校で計2197件に上り、14年度の約1・3倍。全体の3分の1に当たる755件が小学教員で、特別支援学級の急増や35人学級の導入に伴って必要な教員数に採用が追い付かない状態にある。

(中略)

 佐賀県は20年度、14年度の約3倍の97件になった。欠員を埋めるため、17年度から小学校の臨時免許を解禁したという。県教委は「大量退職が続いており、教員が足りない」。教員のサポートは学校現場に委ねているという。低水準が続く熊本県でも20年度から条件を緩和し、学校の勤務経験を不問とした。

  鹿児島県は20年度が617件と14年度の約1・4倍に増え、中学教員が全体のほぼ半数を占めた。小規模校が多いため全教科をカバーできる教員数を一つの中学にそろえられず、臨時免許で対応しているという。

  九州大大学院の元兼正浩教授(教育行政学)は「そもそも普通免許でも教員として必要な資質や力量を示す最低限の専門性の証明にすぎない」と指摘。その上で臨時免許で小学校教員になった場合、専門外を担当する危険性は否定できないとして、系統だった養成と研修が必要との認識を示す。「各教委が安易に臨時免許を乱発すると、専門職としての教員の地位が崩れることになりかねない」として、早急な改善を求めている。 

    ◇    ◇

【ワードボックス】教員免許

 教員免許には普通と臨時、特別の3種類があり、いずれも都道府県教育委員会が交付する。普通免許を取得するには大学や短大に入学し、法令で定められた科目を修得して卒業することが条件。臨時免許は普通免許がある人を採用できない場合に限った対応として発行が認められている。特別免許は社会経験に基づく専門知識のある人が対象。有効期間は普通、特別の免許が10年、臨時は原則3年。

 

 

【問題の筋が違う】

 記事を書いているのが教育の専門家ではないこというのは、こういうことなのだろうか、教育に関するマスコミの記事は、いいところを突いていると思う時ですらどこかでピントを外している。

 

 今回の引用記事についていえば、

 大学や短大を卒業して取得する教員の普通免許ではなく、欠員を補うための臨時免許で教壇に立つ「先生」が増えている。

は確かにいいところに注目したが、その結論が大学教授の口を借りての、

「各教委が安易に臨時免許を乱発すると、専門職としての教員の地位が崩れることになりかねない」として、早急な改善を求めている。 

というのはいかがなものであろう。

 臨時免許で穴埋めをする状況が好ましいものでないことは、採用の担当者は百も承知なのだ。しかし早急な改善を求められたって、できないことはできない。

 

 

【そもそも教員志望がいない】

 昨年行われた2021年度教員採用試験の九州・沖縄地方の受験倍率は下の通りである。なお中学校については教科ごと倍率が違うために平均を掲げた。 

 

        小学校    中学校

福岡県                  1・4倍  平均2・8倍(1・7~5・0倍)

大分県                  1・4倍  平均3・7倍(1・0~8・5倍)

宮崎県                  1・9倍  平均5・2倍(1・9~7・8倍)

佐賀県                  1・4倍  平均2・6倍(1・3~6・6倍)

長崎県                  1・4倍  平均3・7倍(2・5~6・2倍)

熊本県                  1・8倍  平均4・2倍(2・1~7・7倍)

鹿児島県              2・1倍  平均4・3倍(3・1~13・0倍)

沖縄県                  4・7倍  平均12・6倍(4・3~18・9倍)

「【2021年度教員採用試験】 最終選考実施状況(九州・沖縄)」(教育新聞 2020年11月11日)より整理・引用》

 

 競争率が2倍を切れば合格者の質に問題が生れると言われる採用試験で、九州地方は軒並み2倍割れなのだ。しかも1・5倍さえない県が四つもある。

臨時免許で小学校教員になった場合、専門外を担当する危険性は否定できない

などと悠長なことをいっていられる場合ではない。倍率をどんどん下げていかない限り、臨時免許でも使わないと学級担任が埋まらないのだ。

 

 中学校でも細かく見ていくと大分県の技術科は受験者がわずか2名で二人とも合格させて倍率1・0。数字には出てこないが熊本県の家庭科には受験生が1名しか来なくてその受験生も落としている。まさか需要がゼロなのに受験させたということもないだろうから、よほど成績が悪かったか当日欠席だったのだろう。

 これでどうやって早急な改善などできるというのだろう。

 

 もう言葉がない。

 教員が足りない以上、35人学級どころではない。早急に45人学級に戻し、学級数を減らさなくてはならないところまで追い込まれているのだ。