キース・アウト

マスメディアはこう語った

福岡県の学習塾が中学校の過去問題を収集し、テスト対策を行っていることが問題となっている。教師はテストづくりで手替え品替え、学習塾の分析から逃れようと算段をするが、塾も必死で追いついてしまう。この悪循環を断つために秘策を編み出した人たちがいる。超高度な問題づくりをしようというのだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

塾「実績への企業努力」教員「問題作り替え限界」 塾で中学テスト過去問指導
(2023.01.25 西日本新聞

www.nishinippon.co.jp 福岡県内の学習塾で中学校の定期テストの過去問を収集、保管し、生徒に解かせる指導が広く定着していることが明らかになった。「高校入試の実績を上げる企業努力」「同じ出題を繰り返す学校も悪い」と主張する塾に対し、中学教員は「授業内容のうちテストで問うべき部分は毎年同じで、問題を作り替えるのは限界がある」と反発。「塾に月謝を払って過去問に取り組むのは、カネの力で入試を有利にするのと同じだ」と批判する。

(中略)

 塾側も良い指導法と手放しでは思っていない。九州の大手学習塾チェーン本部は、過去問を扱わないよう何度も通達している。「テストは正々堂々と受けるべきだ」と担当者。一方、福岡県内の塾経営者は「反則技だが、受験を勝ち抜くにはやむを得ない」と話す。

 中学の教員は憤りをあらわにする。福岡県内の公立中の40代教員によると、前年と似た問題文で選択肢の順番を入れ替えたら、そこだけ間違えた生徒がいたという。「過去問を丸暗記したとしか思えない」。本紙「あなたの特命取材班」に証言する。

 自らは塾に過去問を利用されないように、テストをなるべく作り替える。塾が問題を集めているのを知りながら同じ出題を続ける教員を「怠慢」だと感じるからだ。ただ、時間と労力の負担が大きいこともあり、完全に変えるのは難しい。
(中略)
 現在の学習指導要領は、主体的に取り組む態度など「学びに向かう力」の育成を求めている。だが、福岡県内の別の公立中教員(44)は、中学の授業内容や定期テストに加え、高校入試も知識偏重型から脱していないと実感するという。「塾が過去問指導を続ける背景には、なかなか変わらない教育現場の現状がある」と指摘した。 

【これが問題だったのか?】

 これはまったくの落とし穴だった。
 学習塾が過去問集めをしているなんて考えもしなかった、というのではない。過去問集めなんて当然であって、今さら問題になるような内容ではないと思っていたのだ。
 
 過去問の収集と分析・実施なんて私が学習塾の講師だった半世紀まえでさえやっていたし、私の勤めていた新興弱小学習塾でさえそうだったのだから、大手ならなおさら大掛かりにやっていたに違いない。いや学習塾でなくても、ちょっと気の利いた保護者ならお兄ちゃんやお姉ちゃんのテストを引っ張り出して、下の子にやらせるくらいは当然思いつくはずだ。
 そしてそうである以上、学校は同じテスト問題の使い回しなどということは絶対にしなかった。
 
 もちろん同じ教師がつくる同じ単元のテストで、記事にあるように、
「授業内容のうちテストで問うべき部分は毎年同じで、問題を作り替えるのは限界がある」
という事情もあってどうしても似通ってくる。
 それを手替え品替え、あの手この手で作り変えてくるのが教師の手腕であり、そうした教師側の変更を見越して予想問題を提示するのが塾講師の仕事だった。
 
 そもそも過去問の分析と予想問題の作成は塾講師の本業で、その部分がしっかりできなければ入試対策はできないし、過去問分析を中心とした試験対策が卑怯だというなら学習塾も予備校も存在できない。
 
 記事の中には、前年と似た問題文で選択肢の順番を入れ替えたら、そこだけ間違えた生徒がいたという部分があったが、その生徒は他の部分をすべて丸暗記で乗り切ったのだろうか? そこ以外はすべて前年と同じ問題だったのだろうか? ――そんなことはあるまい。もしほんとうに言ったとしたら、それは誇張か虚偽か、そもそもそんな教師が存在しないかのいずれかである。

【何が望みだ?】

 学習塾に過去問収集と分析・実施をやめろといっても辞めるはずがない。それが仕事だからだ。学校の教師に“いま以上に努力して塾に過去問利用をされないようにつくりかえろ”といっても限界がある。それは記事中に示した通りだ。
 ではどうしたらよいのか――。
 
 記事は答えを最後の部分で暗示的に示している。
 福岡県内の別の公立中教員(44)は、中学の授業内容や定期テストに加え、高校入試も知識偏重型から脱していないと実感するという。「塾が過去問指導を続ける背景には、なかなか変わらない教育現場の現状がある」と指摘した。
 要するに、現在の学習指導要領が求めている主体的に取り組む態度など「学びに向かう力」を問うテストを、毎回作成すればいいだけのことなのだ。
 見本はある。全国学力学習状況調査や最新の高校入試がしばしば示すアレである。
 
 たいへんだぞ! とりあえず、福岡の教師たちよ! 気合を入れていけ! 
 

英語好きの小学生が減少、中学校では成績の二極化が進んでいるという。それはそうだろう。授業はやればやるほど差がつく。それが嫌なら放っておいても実力を伸ばしてしまうエリートたちを押さえつけ、あとから来るものを待たせておくしかない。最初から分かっていたことだ。そしてダメな子は英語にまで絶望しながら中学校に上がってくる。

(写真:フォトAC)

 

記事

 

英語好きの小学生が減少、中学生は成績が二極化の傾向 その原因は?

(2023.01.13 朝日新聞EduA)

www.asahi.com

 

教科化は「中学の授業の前倒し」
文部科学省全国学力・学習状況調査で、英語の学習(勉強)が好きと答えた小学6年生が減っている。2013年度は「そう思わない」と「どちらかといえば、そう思わない」の合計が23.7%だったが、21年度は31.5%になった。外国語教育が専門の菅正隆・大阪城南女子短大学長は「8ポイント近くも増えたことは驚きだった」と言う。

小学校では11年度から、5、6年生の「外国語活動」が始まった。さらに、20年度からは外国語活動が3、4年生に引き下げられ、5、6年生は教科としての「外国語」(英語)を学ぶことになった。菅さんは文科省の教科調査官として11年度から実施された学習指導要領の改訂に携わった。「この改訂でも英語を教科化しようという動きはあったが、英語に慣れ親しむための『活動』にとどめた。教科になるとテストがあり評価もつくなど、中学の授業の前倒しになってしまう。これが、英語嫌いの小学生を増やしてしまったのではないか」

慶応義塾大の大津由紀雄名誉教授(言語学)も、教科化が影響したとみる。「忙しい小学校の先生が独自に努力せざるを得ず、その分、ばらつきが出てきてしまっている」と話す。

一方、文科省の英語教育実施状況調査をみると、外国語の習熟度や運用能力を測る国際的な指標である「CEFR」のA1レベル(英検3級相当)以上の英語力がある中学3年生は年々増えている。だが、この結果にも「単純には喜べない」という声がある。

 

ついていけない生徒が増えている
「中学1年の時点で、成績が二極化してしまっている」。愛知県江南市で個別指導塾「ネクサス」を開く伊藤敏雄さんは昨年春、塾生が通っている学校の成績分布を見て、こう確信した。
テストの成績は通常、平均点を中心に上下バランス良く分布する山型になる。ところが、この学校では、中1の1学期の中間テストで90点台と60~80点台、50点台以下がほぼ同じ比率だった。「最初の中間テストは簡単で90点台が多いことは珍しくない。それとほぼ同数が低い得点層というのは多すぎると感じた」
それ以降、定期テストの回を重ねるごとに90点台が減る一方で10~20点台が増え、3学期の学年末には中間層が少ない「ふたこぶ分布」になっていた。伊藤さんは「英語の4技能のうち、『聞く・話す』中心の小学校英語でつまずきが見逃されたまま中学校に入学し、『読む・書く』が重視される授業についていけない生徒が増えている」ことが原因ではないかと推測。他の地域の定期テストや模試の結果を調べ、塾の先生らにも聞いてみた。同様の「ふたこぶ化」や、その前段階の可能性がある「均等化」が起きているケースが複数あったという。
(以下略)

【かつての英語科の素晴らしい特質】

 いま手元に現物がないので確認できずに困っているのだが、受験マンガ「ドラゴン桜」の中に次のようなセリフがあったと思う。
「英語はどこの大学を受けるにしても配点が1・5倍もある重要な科目だ。その英語に子どもたちは中学校で初めて出会う。算数や国語と違ってスタートラインが同じで、“さあやり直そう”という気になる、それが英語の素晴らしいところだ」

 私もそう思う。
「いやいや、昔だって熱心な親によって小学校のころから英語を学んでいる子はたくさんいたよ」
 それはそうだ。私もその一人で、少し齧った程度で鼻を高くしていたので後でひどい目あった。先行学習の宿命で、早く勉強を始めた者は同胞から逃げるように常に一歩先を進み続けないと早く始めた有利さを失う。途中で抜かれるようではダメなのだ。その意味でも、中学校から始める英語には意味があった。

【英語に絶望して中学校に進学してくる子どもたち】

 しかし小学校英語はそんな英語の特性を台無しにしてしまった。小学生の一部は、あきらかに英語に絶望しながら中学に入学してくる。それが、
英語の学習(勉強)が好きと答えた小学6年生が減っている。2013年度は「そう思わない」と「どちらかといえば、そう思わない」の合計が23.7%だったが、21年度は31.5%になった。
の現実的な意味だ。
 
 その原因として記事に、
英語の4技能のうち、『聞く・話す』中心の小学校英語でつまずきが見逃されたまま中学校に入学し、
とあるが、そんなキメの細かな教育を小学校の教諭に求められても困る。もともと英語の専門家として教育を受けてきたわけではないし英語に才能があるなら小学校の教諭になどなっていないからだ。
 記事はさらに重ねて、
「忙しい小学校の先生が独自に努力せざるを得ず、その分、ばらつきが出てきてしまっている」
と、あたかも教師の差が児童の好き嫌いに出てきているかのように言うがそうではないだろう。誰が教えたって成績に差がつけば低い者は面白くない。面白くなければ好きにもなれない、好きでなければさらに成績は上がらない――そうした悪循環はすべての教科に共通するものだ。
 逆に言えば、総合的な学習の時間の範囲内で英語が学ばれていた時代に、英語嫌いが生れなかったのはしっかりとした英語力をつけようとしなかったからである。英語に親しみ外国人に怯えなくて済むよう慣れさせる、その程度が目標なら問題はなかった。しかし一朝、しっかりとした英語力を着けさせるとなるとそういうわけにはいかなくなる。

 

 いいかい? しっかりと覚えておきたまえ。
 授業はやればやるほど差がつくものなのだ。小学校英語は昔に比べると、それを4年早めたに過ぎない。差をつけるのが嫌なら、上位の者が勝手に学力を伸ばさないよう、しっかり押さえつけておく方策が必要になる。それができるか?

【中学生は成績が二極化の傾向】

 「それでいいじゃないか」と小学校英語の推進者たちは呟くに違いない。もともと英語なんてすべての国民に必要なものではないのだ。二極化した上位の人々はネイティブ並みの英語力を磨いて世界で活躍すればいい。そうでない下々は、自動翻訳機の扱いに慣れて自分に必要な会話だけを磨けばいい。いくらもしないうちに翻訳機の発音に慣れて、
「いらっしゃいません」
「注文は何にします?」
「ああ、いまはカンパチが旨いですよ」
「じゃあその辺からお出ししましょう」
 その程度のことは英語で言えるようになるだろう。あとは少しずつ、時間をかけて語彙を増やしていけばいいだけだ。あっという間に昔の「車屋英語」みたいに、ネイティブにかなり近い英語が喋れるようになるだろう。


 もちろん普通の中学校教師などはその程度の英語すら必要ないから、まったく学ばなくても何とかなるだろう。つまらないことに時間をムダにすべきではない。

 

教員の働き方改革について地方自治体にできることは極めて少ない。しかしごくわずかな中身であっても、それを大真面目にやったら大変なことになる。もっとも本気でやるはずもないと思うが・・・(たぶん)。

(フォトAC)

記事

家庭訪問・水泳指導は「廃止」、マラソン大会・運動会は「縮小」…教職員の負担軽減へ提言
(2022.12.30 読売新聞)

www.yomiuri.co.jp

 学校現場での教職員の負担増が指摘されている問題で、群馬県や県内市町村の教育委員会職員や学校長らでつくる協議会が、負担解消に向けた取り組みを県教育委員会に提言した。学校の業務で廃止できるものとして、定期的な家庭訪問や夜間の電話対応、夏季の水泳指導を挙げた。

 提言は23日に行われた。「学校向け」「教育委員会向け」「保護者・地域・関係団体向け」の三つに分け、それぞれで「多忙化」の解消に向けてできる取り組みを例示した。県教委は提言内容について「学校や各教委が共有し、今後の取り組みの柱としていく」とした。

 「学校向け」では、廃止できる業務に「定例的な家庭訪問」「夜間の電話対応」「夏休みの水泳指導・プール開放」を挙げた。家庭訪問については「来校形式やオンライン面談にかえることができる」と指摘したが、「児童生徒の安全に関わることなど、必要な訪問は引き続き実施する」とした。

 また、縮小を奨励するものとして、式典やマラソン大会、運動会・体育祭などを、ICT(情報通信技術)化を推奨するものに、子供の欠席連絡や各種アンケート・調査を挙げた。

 「教育委員会向け」では、書類の公印押印や、学校から教委に書類を提出する際に添付する「 鑑文かがみぶん 」などを廃止できるとした。「保護者・地域・関係団体向け」では、学校での取り組みに理解を求める一方、PTA行事の「精選」を奨励するとし、「休日の参加について十分配慮をお願いする」とした。

 県教委は今後、市町村教委を通じて各学校に提言内容を伝え、取り組みを進めてもらう考えだ。
(以下略)

 この記事を取り上げる価値は二つである。
 ひとつは教員の働き方改革に関して、地方自治体は独自にどんな対策を打てるかという限界が示されている点、そしてもうひとつは自治体が誠実に働き方改革に取り組むと何が起こるのか、その問題性が見えてくるからである。


地方自治体が考える教員の働き方改革

 記事の内容を整理してみよう。
 教員の負担軽減策として、まず学校には、

  •  「定例的な家庭訪問」「夜間の電話対応」「夏休みの水泳指導・プール開放」の廃止
  •  卒業式・始業式の内容の削減、来賓・招待者の精選。
  •  マラソン大会を授業や校内で実施し、道路使用許可申請を不要にする。
  •  運動会・体育祭での競技種目の精選、半日開催。
  •  事前活動の縮小や清掃活動日の限定。
  •  年間の授業時数を適切に計算し、余剰となる時数を削減。
  •  子供の欠席連絡や各種アンケート・調査等のICT化。

    教育委員会向けには、
  •  書類の公印押印や「鑑文(かがみぶん)」などの廃止。

    保護者・地域・関係団体向け」では、
  • PTA行事の「精選」を奨励するとし、「休日の参加について十分配慮をお願いする」
     
     改めて読んでみていかがだろう? 
     私は泣きそうになった。地方自治体にはこんなことしかできないのだ。しかも半分以上はすでに終わっている。

 

地方自治体にできることの半分はすでに終わっている】

 定例的な家庭訪問は働き方改革の観点からではなく、“家庭のプライバシーに触れずにきちんとした子どもを育てろ”という保護者の強い要望によってすでに多くの学校で廃止されているし、夜間の電話対応もしない学校が増えている。夏休みの水泳指導やプール開放に至ってはどういう頭の使い方からこれが労働時間短縮につながると考えたのか、私は訊ねてみたくなる。夏休みに時間外勤務している先生はまずいない。ナイトプールじゃあるまいし、開放したところで過重労働に繋がる話でもない。
 
 運動会や体育祭の半日開催も、子どもの熱中症対策・紫外線対策の観点からすでにずいぶん進んでいる面もあるし、そもそも半日にすれば仕事も半分になるわけもない。半日だからテントは半分張ればいい、100m走のラインも半分描けばいいとはならない。
 卒業式の来賓の精選や内容の削減も同じで、校長講話や来賓祝辞をなくしても一般の教員の仕事が減るわけではないのだ。ただ挙げて見ただけ。
 
 体育主任(または教頭・副校長)が前年度踏襲の「道路使用許可申請」を1枚ペロンと作って警察に持って行けばいいだけなのに、その労力を削減するために子どもたちが沿道の人々から拍手をされながら走る機会を奪われるのはかわいそうだと私は思う。教員の働き方改革の効果と、教育効果のバランスが取れない。

 清掃を毎日から隔日に変えて、教師の負担はどれほど軽減されるのか。浮いた時間で英語をやりましょうとなるのがオチである。それよりは私は、自分が汚した場所はその日のうちに自分で片付けることを“ATARIMAE”と考え、ワールドカップの観覧席で実施して世界から賞賛を浴びる子どもを育てたい。そうして高まった日本人ブランドが商取引や海外生活でも役に立つはずだという下心も含めて、そう思うのである。

 

 こうして検討してみると地方自治体に新しくやれることはほとんどないことが分かる。しかしそのわずかな「やれること」を誠実に実施すると、その影響はとんでもないことになるかもしれないのだ。

【削減するのは特別活動=日本人を日本人に育てる教育】

「年間の授業時数を適切に計算し、余剰となる時数を削減する」
 この方策をどこまで真面目にやるかによって、学校の在り方は根本的に変わってくる。なぜなら学習指導要領に定められた標準時数は小学校1年生が850時間、2年生は910時間、3年生は980時間で、それ以上(小学校高学年および中学生)は1015時間と決められているからである。この1015時間を越えて授業を行っているとしたらその部分が「余剰」であり削減対象となる。そこに重要な問題が隠されているかもしれないからだ。

 では実際のところ、平均的な学校は年間、どの程度の授業時数を確保しているのだろう。
 これについては2022年10月13日の教育新聞が次のように報告している。
 実際の授業時数については、文科省の最新の調査(公立小・中学校、18年度)によると計画時数として、小学校第5学年では平均1061・0時間(標準時数は移行措置期間のため995時間)、中学校第1学年では平均1072・6時間(標準時数1015時間)となっている。いずれも標準時数を上回って計画されたことが分かる。特別活動の学級活動以外の活動については、小学校第5学年で平均79・0時間、中学校第1学年で平均52・5時間が充てられた。

 この記述からは国語や算数・数学が標準時数を確保できたかどうかは分からないが、少なくとも年35時間しかないはずの「特別活動」が、小学校5学年で2倍以上の79・0時間、中学校1学年で5割増しの52・5時間も行われていたことが分かる。しかもそれは「学級活動を除いて」の特別活動なのである。

 その中身を具体的に言えば、児童・生徒会および入学式・卒業式などの儀式、文化祭・学習発表会、音楽会・合唱コンクール、運動会・体育祭、水泳大会、・マラソン大会、遠足・修学旅行・移動教室・臨海学校・林間学校、職場体験、ボランティア活動・地域美化運動等々。
 特別活動はいわば日本人を日本人に育てるための教育であって、海外からもっとも評価されている部分である。ほんらい35時間で足りるはずがないものを、「標準」というどうとでも取れる謎の用語を用いて、あたかも時間内に収まっているかのように誤魔化してきたものである。
 それを「余剰となる時数」としてざっくり削減すればどうなるか――。

【日本の教育はグローバル(無国籍)人間の育成を目指す】

 少なくとも二泊三日の修学旅行はできなくなる。これに費やす授業時数は18時間もあるのだ(教師の拘束時間は60時間ほど)。文化祭も二日がかりでやれば12時間の消費になるからこれも1日ないしは半日開催にすべきだろう。
 卒業式はまだしも、入学式は欧米に倣って”やらない“。ボランティア活動や地域美化運動は課外活動として、成績だけを地域諸団体からもらうように工夫しなくてはならない。
 遠足も半日ですませる(学校に戻ったら普通の授業)。したがって「クリーン大作戦! 来た時よりも美しく!」などと言っている余裕はない。公園や観光地の清掃は専門業者がやればいいし、舛添元東京都知事が言うように「清掃業の人たちから職を奪ってはいけない。掃除などしてはいけない」と子どもに教えるべきだ。
 
 要するに日本人を日本人に育てる学習はやめて、英語ができプログラミングができ、問題解決能力の高いグローバル(無国籍)人間をつくるのがこれからの日本の教育になる。そしてそれは、地方自治体が指導要領の示す標準時数を「上限」と規定するだけで果たせることなのである。
 

令和3年度に「心の病気」を理由に1カ月以上休んだ公立学校の教員が、ついに1万人を越えた。休職者も6000人に近づこうとしている。マスコミによれば、どうやらそれは補充者が不足しているにもかかわらず、平気で産育休などを取る教員たちに原因があるらしいのだ。

(写真:フォトAC)

記事


「心の病」休職の教員、約2割が退職に 多忙で産業医面談拒否も

(2022.12.26 毎日新聞

mainichi.jp

 2021年度に「心の病」で1カ月以上休んだ公立学校の教員は、前年度比15・2%増の1万944人と初めて1万人を超えた。文科省は、「心の病」が原因で休職した公立校教員5897人が、22年4月時点で職場復帰したかどうかも調べた。41・9%(2473人)が復職した一方で、引き続き休職している教員は38・7%(2283人)、19・3%(1141人)が退職に至っていた。

「職場に復帰しても、再び精神疾患になって休職を繰り返し、最終的に退職するケースが少なくない」

 ある政令教育委員会の人事担当者は打ち明ける。この市では、復帰後2年間は学期ごとに教委の担当者らが学校を訪ね、個々の状況を把握している。ただ、ここ数年で休職者は約1・7倍に増え、理由も「仕事」「家庭事情」「保護者対応」など多岐にわたるという。

 この担当者は「突き詰めると、教員が足りないことが原因ではないか」とみる。学校では、年度初めに教員が定数を満たすよう配置されても、年度途中に産休や育休などで教員が欠けると補充が難しい。1人あたりの業務量が増加し、心に不調を覚えても、言い出せずに悪化することもある。

 また、学校ごとに教員の定数は決まっており、復職後は「即戦力で仕事をしなければならず、簡単な仕事からというわけにもいかない。子どもや保護者とのコミュニケーションに悩む教員も多い」と打ち明ける。
(以下、略)

 

【1万人もの教師が「心の病気」で退職に追いつめられつつある】

 毎年この時期になると教員の休職者の数が、わいせつ事件や体罰事件の数とともにセットで報道される。文部科学省が報道の元となる「公立学校教職員の人事行政状況調査について」を発表するからである(*1)。

 かつてはまず、体罰やわいせつ事件が大々的に報道されて「これほど教師は悪質になっている」という話が盛り上がったあと、申し訳程度に「心の病での休職者◯万人」が出されてきたが、ここ数年は休職者の方が優先的に報道されるようになっていた。その数が5000人を越えて高止まりするようになってからのことだ。

 その“休職者”が一気に6000人に近づいた今回、今までとは異なったことが起きた。それはうつ病」など精神疾患が原因で1カ月以上の長期療養をした教員という言い方で、休職には至らないものの、かろうじて学校に来続けている教員も合わせて「前年度比15・2%増の1万944人と初めて1万人を超えた」と報道した点である。
 これまでも「精神疾患による病気休職者及び1ヶ月以上の病気休暇取得者の状況一覧(教育職員)」という資料は出ていたのだが、やはり1万人の大台に乗って初めて意識されたのだろう。
 しかし6000人近い休職者がいて、明日にもその仲間となって教壇をあとにするかもしれないギリギリな教員が4000人以上もいるという状況――政府も国民もよく落ち着いていられるものだ。代わりがいればまだしも、ウチの子、ウチの孫の学級担任がいなくなるかもしれないというのに――。
 
 それにしても21年度に休職した教員のうち、2割弱が退職し、4割弱が引き続き休職して、復職した4割強も、
「職場に復帰しても、再び精神疾患になって休職を繰り返し、最終的に退職するケースが少なくない」
となるとこれは地獄だ。私自身の経験から言っても、復職してのちに生き生きと働く教員の姿というのは見たことがない。なにしろ、
「復帰後、すぐに担任を受け持たねばならない」
現場だ。いちど躓くとなかなか軌道に乗るのは難しい。いや、いきなり軌道に乗せられ走らされるのだから苦しい。

【原因は無暗に産育休などを取る教師】 

 記事は心の病気に罹る原因を、
「学校では、年度初めに教員が定数を満たすよう配置されても、年度途中に産休や育休などで教員が欠けると補充が難しい」
「1人あたりの業務量が増加し、心に不調を覚えても、言い出せずに悪化することもある」
と産育休を取る教員がいるからだと説明している。
 要するに補充者の供給能力を越えて教員が産育休や療休を取るから、そのシワ寄せが他の教員を圧迫し、療休者を拡大再生産するという理屈である。

 何とも底の浅い、そして底意地の悪い分析なのかと思う。しかもそれは毎日新聞の見解ではなく、「この担当者は」と書き加えて教育委員会の判断であるかのように記述する。汚いやり口だ。

 まあいいだろう。同じ日の産経新聞(*2)によると、そうした「産育休のために欠員が出る」状況を避けるために、「文科省では5年度から、公立小・中学校の産休や育休予定者の代替教員を年度当初の4月から配置できるように運用を見直すことにしている」という。
 毎日新聞の分析が正しいなら、令和5年度からは心の病気で休職する教員は格段に減るはずだ。期待せずに見ていよう。
*1:

www.mext.go.jp*2:

www.sankei.com

 

「中学校における部活動の地域移行」が、指導者や施設の確保が難しいことなどを理由に先延ばしになった。しかしそんなことは始める前から分かっていたことだ。分かっていながら指示を出さなければならなかった文科省。そこには浅~いわけがある。

記事

 

中学校の部活動の地域移行 懸念受け対応見直し 政府
(2022.12.16 NHK

www3.nhk.or.jp

政府は、来年度から中学校の休日の部活動を地域のスポーツクラブなどに移行する取り組みを始めることにしていましたが、地域によっては指導者や施設の確保が難しいという指摘が出されたことから、来年度は調査を行うなど対応を見直すことになりました。

 

教員の働き方改革などと両立させるため、政府は中学校の休日の部活動について、来年度から段階的に地域のスポーツクラブや文化芸術団体などに移行する取り組みを始めることにしていました。

 

これに対し自治体や学校の関係者から、地域によっては指導者や施設の確保が難しいという指摘のほか、新たに発生する費用など保護者の経済的負担が重くなるのではないかという懸念が相次ぎました。

 

このため政府は対応を見直し、来年度は地域の実情を詳しく把握するため調査や研究を行うことになりました。

 

全国でモデル校を選定して試行的に実施し、課題などを整理したうえで改めて本格的な実施の時期や方法を検討することにしています。

 

 ほら見ろやっぱりできないじゃないか。わかっていたのに始めるなんて文科省はほんとうにバカか?
――と言ってはいけない
 頭脳明晰なる文科省官僚たちがその程度のこと、分かっていないわけがない。分かっていながらそうせざるを得なかったのは文科大臣自身、あるいは大臣を通してどこぞからくる圧力に抗しきれないからだ。
「できるできないの問題じゃない。やるかやらないかの問題だ!」
 そう言われているのは学校も省庁も同じ。公務員同士仲よくしよう。

【アホの責任は文科省にない】

 かつて伏魔殿だの悪の巣窟だのと言われた省庁の閉鎖性・独立性は、今や見る影もない。当時の官僚たちは国会議員に対して面従腹背。国政を実質的に握っているのはオレたちだと言わんばかりの傲慢さだったが、いまはそんな官僚はいない。
 2014年に内閣人事局が設置されて官邸が省庁の人事を握ると、能力や実績の客観的評価よりもどれだけ政権に忠誠かが人事の判断基準となってしまった。これによって官僚たちは否が応にも政治家の顔を窺わなくてはならなくなったのだ。
 素直に指示に従うことはもちろん、責任を取りたくない政治家が明確に指示を出さなくても、それをそれと察して手配するのが優秀な官僚ということになる。20年前の官僚の辞書には「忖度」などという言葉はなかったから、当時の役人がこれを聞けば衝撃を受けるに違いない。

 また、良きにつけ悪しきにつけ、官僚政治の時代には長期的な文教政策というものがあった。頑固で融通が利かず、動きも鈍かったが一貫性だけはあった。しかしいまは実にフットワーク軽く、大臣や議員たちの思いつきはすぐに政治に反映し、すぐに撤回される。今回の「部活動の地域移行」もそのひとつだ。

【地域移行の目標時期撤回は織り込み済み】

 官僚たちは部活動の地域移行なんて不可能だと十分に知っていた。しかし彼らにとっての「お上」が言う以上は反論できず、一度はやってみるしかなかった。そして案の定、
自治体や学校の関係者から、地域によっては指導者や施設の確保が難しいという指摘のほか、新たに発生する費用など保護者の経済的負担が重くなるのではないかという懸念が相次ぎました。
ということになるので、かねて用意の代案を示す。
対応を見直し、来年度は地域の実情を詳しく把握するため調査や研究を行うことになりました。
全国でモデル校を選定して試行的に実施し、課題などを整理したうえで改めて本格的な実施の時期や方法を検討することにしています。
 これは文科省が大昔から得意とするやり方だ。
 調査研究をしているうちに5年・10年はすぐに経ってしまい、その間に状況が変化すれば現在不可能なことも可能になるかもしれない。例えば小学校35人学級編成のための教員配置が終われば、財務省も予算措置を考えてくれるかもしれないのである。それに期待しようということだ。10年経てば時代も変わっているから何とかなるかもしれない。

【これで「部活動の地域移行」は棚上げになる】

 「部活動の地域移行」という、ある一群にとっては夢や希望であり、別の一群にとっては不安・心配のタネであり、さらに別の一群にとっては悩ましい政治課題だったものが、こうしてひと段落する。

 

 都会の一部では移行が進み、最初から可能性のなかった田舎では検討すること自体が終わる。
 私は今回の黒幕が、少子化のために学校単位の活動ができなくなった野球部やサッカー部の関係者ではないかと疑っている。スポーツ庁が方針を示した4月から、地域移行の必要性は「学校の部活動は少子化などの影響で部員が集まらず存続が難しくなったり、指導する教員に過度な負担がかかるなどの問題が指摘されています」(2022.04.12 TBSテレビ)といったふうに、凋落傾向のある大型部活の救済が第一、教員の働き方改革が二番目として説明されてきたからである。
 今回の地域移行宣言によってそれらの部では学校の垣根を越えた活動が可能となっただろう。めでたいことだ。中学校における野球部の退潮にも歯止めがかかるかもしれない。
 「お上」の目的が本当に野球部やサッカー部の存続だったとしたら、とうぶん「部活動の地域移行」が蒸し返されることはないだろう。目標は一部、達成されてしまったのだから。

kieth-out.hatenablog.jp

文科省は給食時「適切な対策行えば会話は可能」という通知を出したが、しゃべりながら食べれば当然給食時間は延び、感染リスクは高まる。しかしそのためにクラスターが発生しても、文科省もその背後にいる人たちも、責任を取る気は全くないようなのだ。


記事

 

給食時「適切な対策行えば会話は可能」都道府県教委などに通知
(2022.11.29 NHK) 

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新型コロナ対策の基本的対処方針で「黙食」の記述がなくなったことを受け、文部科学省は給食の時の過ごし方について、適切な対策を行えば会話は可能だとする通知を都道府県の教育委員会などに出しました。

 

政府はこれまで、新型コロナ対策の基本的対処方針で「飲食はなるべく少人数で黙食を基本とする」などと明記していましたが、今月25日の変更でこの記述が削除されました。

 

これを受け文部科学省は29日、給食の時の過ごし方などについての通知を全国の教育委員会などに出しました。

 

通知では、基本的対処方針の変更について説明するとともに、文部科学省のマニュアルでも必ずしも「黙食」を求めていないことを改めて伝えています。

 

そのうえで、「座席配置の工夫や適切な換気の確保などの措置を講じた上で、給食の時間において、児童生徒などの間で会話を行うことも可能」などとして、地域の実情に応じた取り組みを検討するように求めています。
(以下、略)

 

 世間には「学校教育は子ども相手の仕事だから楽だ」という誤解が満ち溢れている。教師が「まずは小声で話すようにしましょう」と言えば子どもたちは小声で会話するものだと、漫然と思い込んでいるのだ。そんなことはない。話に夢中になればついつい声は大きくなるものだし、そもそも“小声”がどの程度の声なのか分からない子もいる(私だって微妙なところは分からない)。

 

 また世の中には楽しくおしゃべりしながら食べる食事こそ大切と信じ込んでいる人も少なくないが、学校給食の場に身を置く人間からすれば、早く食べて早く遊びに行って(マスクをつけたまま)存分にしゃべればいいのであって、何も食べながら話すこともないと思う。 

 何しろ口は食べる時と話すときにしか動かさないもので、しゃべるために使えば食べるための動きは減る。つまり食べ終わるまでの時間が長くなるのだ。
 食べるための早さは児童生徒それぞれで異なるが、それに加えてしゃべる時間の長さが給食時間を引き延ばす。もはやこれまでのように15分間で食べ終わることなどできなくなるだろう。するとどうなるか。
 
 政府の規定によると濃厚接触者の定義は、
「必要な感染予防策をせずに手で触れること、または対面で互いに手を伸ばしたら届く距離(1m程度以内)で15分以上接触があった場合に濃厚接触者と考えられます」
となっていて、
「濃厚接触者は、感染している可能性があることから、所定の期間は、健康状態に注意を払い(健康観察)、不要不急の外出は控えてください」
とも書いてある。
(上記いずれも厚労省新型コロナウイルスに関するQ&A より)
 もっとも今年8月以降は学校や事業所に限り、濃厚接触者としての出席停止・出勤停止が求められることはないが、食事中の会話が感染リスクであることに変わりはないだろう。
 そのために文科省もわざわざ「座席配置の工夫や適切な換気の確保などの措置を講じた上で」と記して、万が一、学級閉鎖が大量に発生しても責任を取らなくていいようにしてあるのだ。
(だから「措置を講じた上で」「地域の実情に応じた取り組みを」と言ったじゃないか!)

 

 黙食をやめて子どもには楽しく気持ちよく給食を食べてもらいたいという要望はかねてより保護者からもあった。その保護者たちは我が子がウイルスを持ち帰り、自分たちが感染して仕事に行けなくなる可能性について考えたことがなかったのだろうか?
 文科省の通達は子どもたちが机を向かい合わせにして、楽しくおしゃべりしながら食べることまでは想定していない。だからしばらくは横並びで、顔を横に向けて会話するだけのことになるだろう。
 そんな不自然なことまでさせて会話を許容することに何の意味があるのか。子どもは早く食べて、早く屋外に出て、楽しく遊べばいい――と、私は思う。

 

 文科省の背後には常にお子様教の信者(子どもの気持ちが何よりも大事と考える人々)が大勢いて、実態も考えずに圧力を加え続けているらしい。責任は学校が取ればいいのだから気楽なものだ。