新聞に大阪市の小学校の優れた実践が紹介されていた。
校内暴力に荒れていた小学校を、わずか7年で立て直し、
学力も大いに上げた校長がいるという。ホンマかいな?
手柄を独り占めにしたような報道に、校長自身、戸惑いはしなかったろうか?
という話。
(「桜の木の下で手をつないで登校する小学校高学年生と小学1年生」フォトACより)
記事
小学校から暴力消え、学力上がった「生きる教育」の二本柱
(2020.08.25 産経新聞)
www.sankei.com かつて教員の指導に児童が反抗し、暴力行為が多発していた大阪市の小学校で作成された、独自の教育プログラム「生きる教育」に注目が集まっている。自分の思いを言葉にし、伝える力を磨いていくことを目的としたこのプログラムのポイントは、国語力の向上と、命や体の大切さを伝える性教育。これによって校内暴力はやみ、落ち着いた学習環境となったことで、児童の学力も徐々に向上をみせているという。(小川原咲)
「思い伝える子供を」
「何かあったら、手が出てしまう児童が多かった」
平成23年に大阪市立生野南小学校に教頭として着任した木村幹彦校長は当時をこう振り返る。
このままではいけない-。危機感を感じ、教師らと話し合いを重ねた結果、浮かび上がったのは、言葉で自分の思いを伝えられず問題行動に走る児童らの姿だった。
「自分の思いを伝えることができる子供を育てるのがまずは必要」。そう考えた木村さんは26年度から当時の校長や教員らと研究を開始。独自の「生きる教育」のプログラムを作り上げた。
その柱は「国語教育」と「性教育」だ。
国語教育は、小学1年で「正しく読む能力」、小学3年で「読んで感想を伝え合う能力」など、学年ごとの発達段階に合わせて狙いを設定。高学年にはディベートも取り入れ、他者の気持ちをくむことや、自分の思いを言葉で伝えることを実践する場面を多く取り入れた。
性教育で教えたのは、自分の体を大切にすることや、他者への思いやり、適切な距離感という。
例えば、小学1年の授業では、水着を着た男の子と女の子のイラストを使用。教師が水着で隠れている部分を「プライベートゾーン」とし、勝手に見せたり、触らせたりせず大事にすることや、他人の体も勝手に見たり、触ったりしないよう伝えた。
このほか、低学年では、プログラムの趣旨に賛同してくれた家族に連れてきてもらった赤ちゃんとのふれあいを通じ、命のつながりやあたたかさを感じてもらうプログラムも。中学年や高学年になると、将来の職業選択につながる職業観を養ったり、恋愛、結婚を考えたりする授業もある。
今後の広がりも
同校によると、こうしたプログラムを6年間続けた結果、26年度に31件あった校内暴力は、令和元年度には0件となり、全国学力調査の国語の平均正答率は同年度、初めて全国平均を上回った。
昨年、学校が全児童に行ったアンケートでは、「授業が分かりやすい」「友達と仲良く過ごすことができている」と答えた割合が9割に上った。同校の小野太恵子教諭は「善悪の判断や自分の思いを伝えあうことを学んだことで、心が安定して暴力がなくなり、落ち着いて授業を受けられる環境ができたのでは」と分析する。
また、プログラムで取り組んできた内容を研修会や公開授業で紹介したところ、保護者や市内外の多くの教師が見学に訪れるようになった。今年度は他校の教諭を含む約20人で研究グループを結成。行ってきた教育をまとめ、将来的には市内の小中学校で指導の参考にできる授業モデルの確立を目指すという。
大阪市教委の担当者は同校の取り組みについて「保護者や地域の人にも授業内容を積極的に公開していることが評価できる」と評価。「『自分の子供には性教育はまだ早い』と考える保護者もいるが、教育の必要性をきちんと学校が伝えているので、取り組みがスムーズに進んでいる。こうしたところは他校も参考にしてもらいたい」と話している。
評
一般にマスコミ関係者が学校の授業を見るとしたら、保護者として自分の子どものクラスを見るか、公開授業研究会に参加してそこで授業に触れるかの二つに一つぐらいだろう。もちろん授業を見たいと言えば、いつ何時でも見せてもらえるとは思うが、いきなり行って授業の目論見や質を感じ取るいのは普段の授業参観同様むずかしいだろう。
その点、公開授業研究会では冊子も出るし、授業の説明もあればあとの研究会で質問もできる。さらに重ねて聞きたいことがあれば、続けて職員室に質問に行けばいいだけのことである。
テレビのニュースを見たり新聞を読んだりしていると、ときおり授業の場面が出てきて記者が詳しく説明したりするが、たいていはそうした公開研究授業に参加してのことである。教師たちが渾身の力を込めて作り上げた授業だから、たいていはうまくいき、参観者をうならせることも多い。
しかしいつでもそんな質の高い授業が行われているわけはなく、それはいわば教師たちが集団で作り上げた「めざすべき目標」「あるべき授業の理想形」なのである。もちろんやることに意味はある。
ただしここで気に入らないのは、大阪市立生野南小学校の優れた取り組みが、いかにも一人の優秀な教師によって成し遂げられたかのように書く記事のありかただ。
「何かあったら、手が出てしまう児童が多かった」
平成23年に大阪市立生野南小学校に教頭として着任した木村幹彦校長は当時をこう振り返る。
このままではいけない-。危機感を感じ、教師らと話し合いを重ねた結果、浮かび上がったのは、言葉で自分の思いを伝えられず問題行動に走る児童らの姿だった。
もうすでこの段階でドラマだ。
「自分の思いを伝えることができる子供を育てるのがまずは必要」。そう考えた木村さんは26年度から当時の校長や教員らと研究を開始。独自の「生きる教育」のプログラムを作り上げた。
そうか「木村さん」が独自のプログラムをつくり上げたのか。
その結果、
26年度に31件あった校内暴力は、令和元年度には0件となり、全国学力調査の国語の平均正答率は同年度、初めて全国平均を上回った。
昨年、学校が全児童に行ったアンケートでは、「授業が分かりやすい」「友達と仲良く過ごすことができている」と答えた割合が9割に上った。
すべて「木村さん」の手柄である。
教師は頑迷で学校は硬直している。そこへひとりの優秀な教師が飛び込んできて、不良たちを更生させ、ひとりで学校を立て直す――。
むかしからマスコミが大好きなストーリーだ。
「金八先生」も「スクール・ウォーズ」も「ヤンキー先生」も、最近では「3年A組 今から皆さんは、人質です」もみな同じだ。正しいに人間は一人しかいない。
ドラマではない現実の学校を扱うニュースでは、さすがに一介のヒラ教師が学校を変えるという設定は現実的ではないので、管理職がその「正しい一人」あてられることが多い。
かくして一人のカリスマ校長が出現して、荒れた学校を数年で立て直す物語が続出するわけだ。
大阪市立生野南小学校のサイトに行ってみると、この学校の先生たちがいかに誠実な教育活動を続けてきたかが分かる。それは生野南小学校の伝統であって、平成23年に赴任してきた木村教頭が26年から研究を始めたからうまくいったというようなものではないはずだ。
今日の教育を讃えるために7年前は荒れていたとするのは、当時の校長や職員、児童たちに失礼だ。荒れていたのが事実としたら、23年に赴任してきて3年間も様子を見ていた木村校長(当時は教頭)も非難されなければならない。しかしそんなことはないだろう。おそらく、木村校長も普通に立派な校長先生に違いないからだ。
国語教育と性教育を二本柱とする実践も、大阪市教育センターの「がんばる先生支援事業」に応募してのことであり、決して校長ひとりに手柄に帰していいものではない。
それなのにこんな書き方をされては、木村校長に気の毒である。
手柄を独り占めしたかのような報道に、職員の中で浮き上がらなければいいのだが――そう考えるのは私のひねくれた根性のためばかりではないと思う。