キース・アウト

マスメディアはこう語った

スポーツや文化活動に目を輝かせたり、身の回りを整え、生き物に心寄せたりすることよりも、英語やプログラミング学習をした方が子どもの成長に資すると人々は考えた。

 学校教育という寄せ鍋に、
 国語・社会・数学(算数)・理科・英語・音楽・美術(図工)・体育・技家・道徳・特別活動といった基本的な具をたっぷり入れ、
 そこに性教育やら人権教育やら、総合的な学習、キャリア教育、防災安全教育などの新しい具をてんこ盛りに乗せ、さらに小学校英語だのプログラミング教育だのを何とか乗せきったら、「教員の働き方改革」という蓋をしなくてはならなくなった。
 今のままでは蓋がかぶさらない。
 そこで下の方から基本的で味に定評のある具材が取り出され、捨てられようとしている。
 部活動、清掃活動、児童生徒会活動、動物飼育、植物栽培――いずれも価値があるものなのに。
というお話。

f:id:kite-cafe:20201107222335j:plain(写真:フォトAC)

 

 

記事

 

減り続ける学校ウサギ 先生の働き方改革で世話が負担に

(2020.11.4  産経新聞

www.sankei.com 教員の働き方改革の影響を受け、学校現場でウサギやニワトリなどの動物の飼育をやめる動きが広がっている。命をつなぐための世話に休日はなく、夏休みや正月などの長期休業中も、教員がボランティアでエサやりや掃除などを行うことが負担になっていた。一方、飼育によって子供たちの心の成長が促されるという調査結果もあり、各地で試行錯誤が続いている。(地主明世)

  「子供たちから今後新たに飼いたいと要望があっても、教職員とよく考えて決める必要がある」
 昨年、飼っていたウサギの最後の1羽が死んだという大阪府内の公立小学校の校長は、こう打ち明けた。長期休業中の世話は児童が行ってきたが、児童の都合がつかない場合は教員が対応してきた。「今後も新型コロナウイルスによる休校があり得る。その場合に子供に世話を任せるわけにはいかない」と悩む。

 大阪府内の別の公立小学校でも、飼っていたニワトリが昨年死んだことで、校内での飼育動物はいなくなった。校長は「児童の中に動物アレルギーの子がいるので、新たに動物を飼う予定はない」と話した。

 

【共感や思いやり育む効果】

 大阪府教委によると、動物を飼育している小学校は平成29年度には244校だったが、30年度は228校、令和元年度は205校と年々減少している。

 こうした傾向は全国でもみられるといい、動物飼育に詳しい大手前大の中島由佳教授が昨年、大学生約700人に、通っていた小学校で動物を飼育していたか否かを尋ねた調査では、93・4%が「飼育していた」と回答。だが、中島教授が平成29~30年に全国の小学校約2千校に実施した調査では85・8%にとどまっていた。

 小学校への調査で、教員らに飼育で困難なことを尋ねると、「長期休業中の世話」(28・8%)が最も多く、「病気やけがの処置」(15・6%)「土日の世話」(13・2%)が続いた。中島教授は「飼育を先生に任せる今のやり方では、続けていくのは難しい」と指摘する。

 小学校での動物飼育は明治時代から行われていたとされ、学習指導要領でも、生き物への親しみや生命の尊さを実感するために動物や植物の飼育・栽培をすることが明記されている。

 中島教授が平成29年から昨年まで、全国の小学校約70校の2~4年生を対象に行った調査では、動物の飼育によって、他者への共感性や思いやりが増す効果が見られたという。中島教授は「話せない動物の世話をする経験で、子供たちは人の立場を想像したり思いやったりする気持ちを育み、種の多様性を学ぶこともできる」と話している。

 

【家庭や地域協力、工夫で継続】 

 飼育を断念する学校が相次ぐ一方で、地域や保護者の協力を得ながら飼育を続ける例もある。

 神戸市北区の市立筑紫が丘小は昨年6月、近隣からウサギ2羽を譲り受けて飼育を始めた。田中勲校長は「動物の世話は情操教育になる。教員の負担になるから飼わない、というのはどうか」と話す。

 同校が教員の負担軽減と教育効果の両立を狙って始めたのが、長期休業中にウサギを家庭にケージごと預ける取り組みだ。エサなどは学校から提供する。

 今年の夏休みに自宅でウサギを預かった2年の清水凜ちゃん(7)は、「家で世話ができてうれしかった」とはにかみ、母親の真実さん(35)は「毎朝自分で起きてエサやりや掃除をしていた。命への責任を感じているようだった」と喜んだ。

 ウサギとニワトリを飼育している西東京市の市立保谷第二小では、休日も含め4年生の児童が分担して世話をしている。新型コロナウイルスの感染拡大による臨時休業中は、平日は教員が、土日祝日は保護者や地域住民らによる「おやじの会」が世話した。神山繁樹校長は「地域との連携が日ごろからあり、学校のSOSに地域の方が応じてくださった」と話していた。 

 

【ウサギで話をしても実態は見えてこない】

 飼育という意味ではウサギは特別に便利な生き物で、鳴かない、吠えない、噛みつかない。年がら年じゅう自分の体を舐めてきれいにしているので体臭がない。糞はころころと丸く無臭で、しかし尿は少し匂うのでここだけを注意していればいい。エサは専用のペレットと干し草と水を与えていればいいし散歩に連れ出す必要もない。
 世の中には犬が怖いという人はいるしネコが苦手という人もいる。しかし一般的な動物嫌いは別として、ウサギが嫌だという人は少ないだろう。

 ただ多産でのべつ幕なしといった感じもするので雌雄分離はしっかりしていないと大変なことになる。
 もう20年以上も前のことだが、どこかの校長と教頭が日曜日に出勤して何羽ものウサギを生き埋めにしてしまったという事件があったが、心情的には理解できなくても状況としては分かる。多産な上に近親婚状態なので生まれた子ウサギは続々と死んで行くししばしば奇形で生れる。それを児童に見せるのも忍び難かったのだろう。

 ただし子どもの心を育てるという観点からすると、ウサギは必ずしも適切な動物とは言えないと私は思う。
 情操だとか癒しだとかという意味では効果はあるだろうが、命の大切さを教えるとか他者への共感性や思いやりといったことを教えるにはあまりにも飼育の楽な生き物からだ。飼育当番はエサをやり水を換え、トイレを掃除すれば事足りる。2~3日忘れても死にはしない。 
 学校教育を考える上で、ウサギを思い浮かべている限りは、大した問題ではない。
 同校が教員の負担軽減と教育効果の両立を狙って始めたのが、長期休業中にウサギを家庭にケージごと預ける取り組みだ。
というアイデアも出てくる。
 しかしこれが犬だったらどうか? カモだったらどうだろう? ヤギでもケージごと児童の家に預けることはできるのだろうか? 田舎ならまだしも、街場だとマンション住まいも多いだろうに。

 

【飼育を通して行う超ハイレベルな教育】

 娘が小学校5年生の冬休みに、家で学校のアイガモを預かったことがある。6羽ほどいた中の1羽だけだが、それでもうるさいし暴れるし、臭い。私はたった一日で辟易してしまった。そもそも鳥類は苦手なのだ。

 なぜ娘のクラスが6羽ものアイガモを飼っていたのかというと、これがアイガモ農法のためなのである。アイガモのヒナを水田に放して雑草や害虫を餌として食べてもらい、排泄物が稲の養分となり、化学肥料や農薬を使用しないことでコストの低減をはかってさらには化学肥料による稲の弱体化を回避し、病虫害の低減を図るというものである。
 娘のクラスでは実際にアイガモ農法に取り組むことによって、社会科の「食料生産を支える人々」と理科の「植物の発芽と成長」、道徳の「7 親切,思いやり」「8 感謝」「10 友情,信頼」「11 相互理解,寛容」「14勤労,公共の精神」「16 よりよい学校生活,集団生活」「17 伝統と文化の尊重,国や郷土を愛する態度」「19 生命の尊さ」「20 自然愛護」「21 感動,畏敬の念」などを学ぼうとしたのである。

 この農法は稲が実ると中止しなくてはならないことになっている。そのころになるとすでに成鳥に育っており、成鳥は稲穂を食べてしまうからである。もちろん翌年まで生かしておくと苗から食べてしまう。
 そこで役目を終えたアイガモはその年のうちに肉にするのが普通なのだが、さすがに学校ではできず、冬休みに各家庭で順番に預かることになったのである。
 アイガモ農法は担任教師にも家庭にも負担の大きな試みだったが、それは子どもの成長にとって意味のあることだった、意味があると思たからこそ、担任教師も家族も頑張ったのである。

 似たような活動はいくらでもある。

 ある教師は繁殖用のヤギを借りて子を産ませ、親子二代を育てることで性教育と命の教育と組み合わせようとした。
 別の教師はパピーウォーカーとなって盲導犬候補の仔犬をクラスで預かり、それを育てる中でノーマライゼーションバリアフリーユニバーサルデザインの学習を重ねて子どもの人間性を高めようとした。

 いずれも意義深いことで、そのため教師は喜んで自分の時間やエネルギーを削り、わずかな自分の小遣いを犠牲にしてきたのだ。
 記事の中の校長の、
教員の負担になるから飼わない、というのはどうか
という言葉はまったくその通りだと思う。続けるべきだ。

 

【教育の質は下がる】

 ところで、記事の書き出し、
 教員の働き方改革の影響を受け、学校現場でウサギやニワトリなどの動物の飼育をやめる動きが広がっている。命をつなぐための世話に休日はなく、夏休みや正月などの長期休業中も、教員がボランティアでエサやりや掃除などを行うことが負担になっていた。
はタイトルにもつながるものだが、この文、少しおかしくないか?
 先生の働き方改革で世話が負担になったわけではないだろう。教員の働き方改革が言われ出して、何かを削ろうとしたら動物飼育や植物栽培が「負担」の中に入れやすかっただけだ。そんなものは昔から「負担」と言えば「負担」だったが、子どもの成長には必要欠くべからざるものと考えてきたから続いてきたのだ。

 今、それができなくなったのは、単にやることが増えたからである。
 生活科・総合的な学習の時間・キャリア教育・薬物乱用防止教育・性教育・人権教育・金融教育・消費者教育・環境教育・情報教育・防災安全教育・・・それら大部分は私が教員になった40年前にはなかったものだ。
 そしてそこに小学校英語やプログラミング教育を入れた。

 しかもこれまではいくら仕事を増やしても教員の努力と超過勤務で凌いでこられたのに、「教員の働き方改革」という蓋を置かなくてはならない。ゴリ押しで小学校英語やプログラミング教育を入れたうえに蓋をきちんと閉めるには、何かを出さなくてはならない。
 そこで選ばれたのが部活動であり、清掃活動であり、動物飼育・植物栽培なのである。
 端的に言って、スポーツや文化活動に目を輝かせたり、身の回りを整え、生き物に心寄せたりすることよりも、英語やプログラミングをやった方が子どもの成長に資すると人々は考えたわけだ。

 寄せ鍋の具を入れすぎたら鍋を大きくする(教員を増やす)という方法もあるが、 今のまま各クラスに教員を1・5人(2クラスで3人)配属するだけで事態は決定的に好転するはずなのに、それもする気はない。


 部活動も清掃活動も飼育・栽培活動も――そして各種行事も片端に縮小して、このままだと必然的に教育の質は下がるのだが、そうなった暁に人々は、「教師の質が下がった」というに違いないのだ。