キース・アウト

マスメディアはこう語った

新型コロナウイルスは、子どもたちの学校生活に深刻な影を落としているというが、それってコロナ以前から私たちがやろうとしていたことじゃなかった?

 神戸市内には学級崩壊が重複して、「学年崩壊」といった様相を呈している学校があるという。
 
校長は、新型コロナで学校行事の多くが中止や縮小に追い込まれたことと関係があるのかもしれないと言っている。私もそう思う。
 
しかし小学校英語やプログラミング学習などの学習内容を増やすために、行事を精選しあるいは縮小することは、新型コロナ以前から進められてきたことだ。
 
子どものこころが荒むなら、教師が環境づくりをするとともに一人ひとりの思いに耳を傾けることで対処し、とにかく学校は学力と道徳で詰めていけ――それは政府も社会もマスコミも合意した方向のはずだ。
という話。

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(写真:フォトAC)

記事

コロナで行事縮小など影響? 荒れる子どもら「学級崩壊」
(2021.01.22 神戸新聞NEXT)

www.kobe-np.co.jp「子どもが通う小学校が学年崩壊しています」。冬休み前、神戸市内の母親から神戸新聞報道部に悲痛な電話が寄せられた。児童が授業中に歩き回り、注意されると先生を罵倒する。授業は成立せず、登校できなくなった児童もいる-。新型コロナウイルス感染症による長期休校や、行事の縮小・中止、詰め込み授業が続いた2020年度。児童・生徒への影響を指摘する声も専門家や保護者からは上がっており、“崩壊”の背景や再生の手だてを探った。(斉藤絵美、鈴木久仁子)
 学級が機能しない、いわゆる「学級崩壊」が問題視されて久しい。しかし、定義や線引きが難しいこともあって、「事案ごとに対応しているが、件数として把握できない」(市教育委員会)のが現状だ。
 今回、神戸新聞に電話をくれた母親や当該校の校長によると、学級崩壊に陥っているのは、高学年の複数のクラス。
 約1年前から落ち着かない雰囲気だったが、新型コロナによる休校を挟んでも収まらず、担任以外の教員や教頭、保護者までもが学校に入り、歩き回る児童に声を掛けなくてはならない状態になっているという。
 「教師や見守りの保護者も『くそばばぁ』と罵倒されています。うちの子は荒れていませんが、帰宅すると明らかに疲れきっています」と母親は漏らした。
 同じ学校について、別の保護者から神戸新聞に届いたメールにはこうあった。
 「毎日イライラする子ども、暴言や暴力、担任の悪口や反抗。機能不全に陥った教室で誰も教師を信用できなくなり、心に何か分からない苦しみを抱えている」
 校長は、新型コロナによって卒業式や入学式、運動会も中止、縮小されたことに触れ、影響があると推測する。
 「低学年に校歌を教えたり、運動会でかっこいい姿を見せたりできなかった。高学年だと自覚する機会が奪われたことも、荒れた要因の一つだと思う」

■暴力行為、低年齢化の傾向
 そんな中、改善に向け、どう道筋を描けばよいのだろうか。
 近年、市内で発生した暴力行為の件数は、中学校で減少傾向だが、小学校では徐々に増加。「荒れる子ども」の低年齢化が進んでいることがうかがえる。
 市教委は昨春、学校を巡回して運営を支援する「地区統括官」を配置。「必要に応じて、スクールカウンセラーや教職員の追加などを検討したい」とする。
 元教師で、NPO法人「共育の杜(もり)」(東京)の理事長藤川伸治さんは「コロナ禍の大人のストレスを受け、子どもが持って行き場のない気持ちを抱えている」と現状を分析。その上で、「担任教諭だけに責任を問うのは無理がある」と強調する。
 さらに「力で押さえ付けるのではなく、子どもが『教室に居場所がある』と納得できるような環境づくりを目指すべき」としつつ、「特効薬はない」ときっぱり。「教職員も保護者も焦らず、子ども一人一人の思いに耳を傾けて寄り添ってほしい」と求めている。

 

 Yahooニュースのタイトルが「コロナが影響?『学級崩壊』」だったので「ウイルスが学級を破壊するとは何事か」と思わず意気込んだが、中身はある意味で穏当なものだった。

 神戸市内の小学校で学級崩壊が重複し学年崩壊と言ってもいいような状況になっているが、もしかしたら新型コロナウイルス対策による学校行事の縮小などが影響を与えているのかもしれない、ということである。校長先生がそのように話している。
 私たちは学校の現状を毎日確認することはできないが、いかにもありそうなことだ。

 

【子どもたちは友だちに会いに来る】

 子どもたちは学校に友だちに会いに来る。勉強をするためにくる子も先生に会うためにくる子もほとんどいない。
 友だちと会ってバカを言い合い、じゃれ合い、意味もなく走り回り、楽しいことを共有し、苦しいことを紛らしたり抑圧したりするために学校に来る。それなのに今の学校にはそうしたことがほとんど残っていないのだ。

 全員が前を向いて黙って食べる給食のなんと味気ないことか。大声を出して歌うことのできない音楽の時間のなんと苛立たしいことか。
 修学旅行も運動会も文化祭も、みんなで計画し、力を合わせ、全員の気持ちを結集して仕上げるところのだいご味がある、そこに成長の確かな手ごたえがある。それなのに今年はほとんどが中止か縮小か――。
 低すぎるハードルは向かうのも腹が立つ。

【学校における情操の教育】

 老人福祉施設で行くと、そこには驚くほど学校と共通するものがあることに気づく。
 体操に工作、描画、習字、土いじり。七夕やクリスマスを祝うこと、歌を歌うこと、踊りを踊ること、おしゃべりをすること。本を読んだり短い演劇や演芸を楽しむこと――それらは基本的な機能訓練であると同時に癒しであり、生きるエネルギーを培うことである。
 学校にはそうした機能がたくさんあり、しかしこの一年は十分に機能していなかったのだ。そのことは覚えておく必要がある。

 新型コロナ禍もまもなく1年になる。少なくとももう1年間は似たような状況が続くはずだ。
 いわゆる“学力”面は、先生たちが足らぬ部分を必死に補って送り出してくれるだろうが、時間も手間もかかる情操面には、ずいぶんな積み残しを出したまま進まざるを得ない。その度合いはまちまちでも、すべての子どもが心に傷を負って育っていくことを留意しておこう。
 甲子園を目指して野球をしてきた高校生が一番わかりやすい例だが、この子たちは他の世代が当たり前のように手に入れてきたものを、すべて取り上げられている。大人になって語るべき経験を失っているかもしれないのだ。

【コロナが終わっても元には戻らない】

 さらにもうひとつ覚えておくべきことがある。
 それはコロナ事態が終わっても、子どもたちは元の学校生活を取り戻すことはない、ということである。甲子園や高校総体は戻ってくるにしても、細かな点で、以前のようなハードルの高さを取りもどすことはない。

 部活の縮小、行事の精選、教師の働き方改革、学校生活の見直しはすでに既定路線だ。それがコロナ危機で一気に進んだだけで、揺り戻しは当然あるにしても完全に元にもどることはない。

 学校がブラック業界であることは津々浦々まで知れ渡って「働き方改革」をしなければ教員不足になることは明らかだ。将来、ネイティブ・アメリカンのようにしゃべれる英語使いを増やすためにはみんなが小学校から英語を学ぶしかない。未来の日本の科学技術を確かなものにするには、全員でプログラミングを習って眠っている金のガチョウの目を覚まさせるしかないのだ。もちろん育てたところでモノにならない人間の方がはるかに多いが、それはそれで国のために我慢してもらうしかないだろう。
 国家のためなら、全員で、行事がなくなったり縮小したりすることにも耐えなくてはならない。

 もちろん座学ばかりの学校についていけない子どもは出てくる。そんな子たちが不適応を起こして暴れても、あまり気にする必要はない。そうなったら先生たちが勤務時間外も頑張って、
力で押さえ付けるのではなく、子どもが『教室に居場所がある』と納得できるような環境づくりを目指」し、「教職員も保護者も焦らず、子ども一人一人の思いに耳を傾けて寄り添」うようにすればいいのだから。


 私はうまくできたためしがないが。