キース・アウト

マスメディアはこう語った

ひとの迷惑にならず、危険さえなければ、子どもたちは何をやってもいいと専門家たちは言うけれど、それで果たして、苦しい勉学を続けていけるものだろうか。

 それが現状とどれほど乖離していようとも、学校が常に求め、支えようとするのは「学ぶことを尊び、先人に対する畏敬を忘れず、教師・生徒双方を尊重し合い、共に高め合って行こうとする気風」だ。それを学校のアカデミズムという。
 学校にアカデミズムがなければ、苦しい勉強に耐えていくことなどできないではないか、と教師は考える。しかし影響力のある教育評論家たちは、人の迷惑にならず、危険でもなければ、あとはどうでもいいじゃないかと言っている。
という話。

f:id:kite-cafe:20210220222829j:plain(写真:フォトAC)

記事

【大阪の黒染め校則訴訟】なにが争点だったのか、校則は誰かのためになっていたのか?
妹尾昌俊 | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
(2021.02.18 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp
 大阪府立高校の女子生徒が髪を黒く染めるよう強く指導されたことが原因で不登校になったと訴えた裁判の判決が今月16日にありました。


 大阪地方裁判所は「髪の染色や脱色を禁止した校則は学校の裁量の範囲内で、頭髪指導も違法とはいえない」とする判断を示しました。(中略)一方で生徒が不登校になったあと学校が教室から机を撤去したり座席表や名簿から名前を消したりしたことについては許されないと判断し、33万円を支払うよう大阪府に命じました。

NHKニュース2021年2月16日

 なにが争点、論点だったのか、判決にはどのような問題があるのか、この記事で詳しく見ていきます。
(中略)

この判決の問題点(1) 校則と生徒指導の必要性はあったのか、深い検討がない。

 この判決には多くの問題点があるとわたしは考えます。ここでは、2つにわけて申し上げます。

 第一に、頭髪に関する校則と生徒指導に関して、学校側に広範な裁量を認めた上で、それらの中身については、「社会通念に照らして合理的」と述べるにとどまり、本当に必要性があったのかどうか(目的が妥当だったかどうか)や手段の適切さ(相当性)について突っ込んだ検討をしていないことです。

 判決が言うように、学校側には校則を制定したり、一定の規律を生徒に求める指導を行ったりする権限はある、と考えることは合理的です。

 たとえば、ある高校は自転車や原付での登校を禁止している、としましょう。それは、駐輪場のスペースが取れないからだとか、登校時間帯に自転車等が集中することで交通事故になりやすいといった配慮があるためとします。これは、まともな理由がある上での校則なり指導ですから、多くの人が合理的だと思われるのではないでしょうか。

 また、授業中に再三にわたって騒音を出すなどして、授業の進行等の邪魔をする生徒がいたとします。その生徒を別室指導にしたりすることは、他の生徒の学習権を守るためでもありますから、合理性があります。

 しかし、本件の校則と生徒指導は、どうでしょうか?

 当該生徒の地毛が茶色なのか黒色なのかは重要な問題ではない、とわたしは思います。どちらだったとしても、髪の毛の色が多少茶色だからといって、ほかの生徒の学習に邪魔になるということはほぼないでしょうし、事故等を誘発するというたぐいのものでもありません。

 つまり、この生徒は、髪の毛の色のせいでは、おそらくだれにも迷惑をかけていないのです。にもかかわらず、黒染めを再三にわたり求める学校側の姿勢、またそれに従わないからといって、別室指導にしたり、文化祭等にはほかの生徒と一緒に参加させないよと半ば脅したりするというのは、必要性の高い「指導」であり、かつ、手段としても妥当と言えるものでしょうか?個人的には「指導」や「教育」の一環とみなすことにも躊躇しますが。

 高校側は、高校生に学業や部活動に集中させるために、頭髪に関する校則や指導があると主張し、裁判所もこの点をほぼそのままトレースするかのように認めています。

 ですが、髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。それに、仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択であり、学校側が一律に事前規制する必要性のあることなのでしょうか。

 さらに申し上げると、仮に学業がうまく進まない事態になったとしても、高校の授業の質や教え方がマズイかもしれないですし、中学校までの教育の反省点などもあるはずです。ほかの要因もたくさん考えられます。つまり、染髪⇒学業や部活動の不振という因果関係があるのかどうかはあやしいのに、そう学校が言っているからと、裁判所はそのまま鵜呑みにするというのは、いかがなものでしょうか。


問題点(2)生徒指導が生徒の学びに向かう力を阻害していることを問題視していない。

 別室指導、ならびに文化祭や修学旅行への参加を躊躇させるような今回の学校側の働きかけは、生徒の学習権や高校で学びたいという意欲を棄損する恐れのある行為だったと思います。現にこの生徒は長期の不登校になりました。

 そもそも、高校は義務教育ではないとはいえ、多様な生徒たちに学習の場を保障し、成長していくためのものなのに、校則に基づく生徒指導が、その高校のミッションや果たすべき機能に照らして逆に作用していた可能性があります。

 原告の言うように、生徒指導の名を借りた「いじめ」であったとまで言えるかどうは評価が分かれると思いますが、高校は一部の生徒につらい思いをさせて、勉強したくないようにさせる機関ではないはずです。それに、高校生とはいえ、学校側、教師の側が権力を握っていることが多いわけですから、生徒指導に従うかどうかは生徒の意思、任意だったという裁判所の判断も、はなはだ疑問です。

 ちなみに、この高校(府立懐風館高校)の教育目標のひとつには、「自分の殻を破り、挑戦し、豊かな感性や広い視野を手にする人材を育てる」とあります(現状のものであり、当該生徒が通学していた当時のものとは異なる可能性があります)。

 校則でがんじがらめにしておいて、自分の殻を破れとは、矛盾しているように見えます。当時の教員は多い時期には4日に1回も頭髪指導をしていたのですが、校則を守らせることが目的化したようなことを行う暇があるならば、もっと生徒が挑戦する場をつくることに知恵と時間を使うべきだったのではないでしょうか。これは法律論というよりは、学校経営や教育実践上の問題ですが。

 関連して、この判決の大きな問題点のひとつは、生徒は学校が決めたことには黙って従え、とも読めるメッセージです。仮にこの判決が確定したとしても、多くの高校等で、生徒は学校の指導には黙って従うべき存在だという認識、教育観が強固になってしまうのは、新しい学習指導要領などの理念とも衝突しかねません。

 もちろん、前述のとおり、交通事故防止などの合理性のある校則ならば従うべきでしょう。ですが、なんためにあるのかよくわからないような校則に、服する義務があるというのは、生徒の主体性や問題解決力、リーダーシップが重要視されている今日においては、時代遅れの認識と言えます。OECDが最近よく使う理念では「エージェンシー」とも呼ばれます。

 情緒的な表現となりますが、率直に申し上げて、今回の一連の生徒指導と争いで、当該生徒はもちろんのこと、周りの生徒も、また学校側も府教委側も、誰もうれしくなっているとは思えません。黒髪に執拗にこだわる校則と生徒指導は、結局、誰かのためになっていたのでしょうか?高校にかぎりませんが、多くの学校は、生徒が幸せになる力を高める場所であるはずです。そもそも校則はなんのためなのか、もっと言えば、学校はなんのためにあるのかから、問い直す必要があると思います。

【ネット世界の片隅で“バカ”と叫ぶ!】

 Yahooニュースにたびたび長文を掲載している妹尾昌俊という人について、私は知るところが少ない。
 記事の最後にあるプロフィールによると、
徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演などを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省、埼玉県、横浜市等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、岐阜市公教育検討会議委員等を歴任。合同会社ライフ&ワーク代表、NPO法人まちと学校のみらい理事。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『こうすれば、学校は変わる! 「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』、『「先生が忙しすぎる」をあきらめない』など。
ということだが、社会的にどう評価されているのか、ネット上でどういう地位にあるのかもわからない。

 記事にコメント欄がないので一つひとつの記事がどういう受け取りをされているのかもわからない。賛同者が大量にいるのか、あるいは私のように腹を立てているからついつい記事を読んでしまう人間ばかりなのか――。
 しかしいずれにしろ、この茫洋としたネット世界の片隅で、それでも誠実に一生懸命記事を書いている私からすれば、これほど日本の公教育を理解していない男のいい加減な記事が、日本最大級のポータルサイト“Yahoo”に繰り返し載せられ、なおかつ中央教育審議会部会委員として日本の教育行政に関与しているというのは、忸怩たる思いであり、情けなく、腹立たしい。

 やっかみだ、僻みだ、嫉妬だといくらでも言ってかまわない。しかし間違っているものは間違っている。

 

【学校にはアカデミズムが必要である】

 何が間違っているか――。
 今回の記事で言えばここだ。
 髪の毛の色が多少茶色だからといって、ほかの生徒の学習に邪魔になるということはほぼないでしょうし、事故等を誘発するというたぐいのものでもありません。
 部分を切り取ったとは言わせない。少なくとも今回の記事については全編を通して、妹尾氏が校則を「人に迷惑をかけるかどうか」と「危険回避」という二つの基準でしか考えていないことは明らかだ。
 しかし校則にはもっと重要な働きがある。それは「秩序と公平性の確保」だ。

 「秩序」というのは学びの場として学校の機能・理念・雰囲気等のすべてをいう。
 学ぶことを尊び、先人に対する畏敬を忘れず、教師・生徒双方を尊重し合い、共に高め合って行こうという気風――一言でいえばそれは「アカデミズム」だ。

 ものごとを学び習うこと(学習)は、この国において千数百年前から苦痛をともなうものだった。だからこそ古代の学僧たちはそのことを、中国語で「強制」を意味する「勉強(強いて勉める)」と呼んだのだ。今では古いタイプの八百屋や魚屋だけが「勉強しましょう」と本来の意味で使う言葉だが、学習が今日に至るまで「勉強」と呼ばれ続けるのは、それが一度もディズニーランド的あるいはコンピュータ・ゲーム的楽しさおもしろさで行えずにきたことの証明である。
 学習の厳しさは王侯貴族ですら回避することはできない。そのことを私たちは「学問に王道なし」といってきた。だれでも知っていることだ。

 人間は弱い。ことに人格も確立していないのに誘惑ばかりの多い子どもたちは弱い。その子どもたちを誘惑から守り、苦しい「学習」に向けていくにはさまざまな工夫が必要だった。
 日本国憲法を始めとする様々な法整備、校舎や敷地などの構造物、学校教育目標、貴重な先人の言葉を描いた扁額、名画の数々、壁の掲示物、校長講話、担任講話、制服、文房具――なかでも大切なのが「ともに学んでいこうとする気概・雰囲気」=学校のアカデミズムである。
 それは学校の永遠の課題であり、どんなに荒れすさんだ学校の教師でも、決して忘れることのない永遠の目標なのだ。良い環境の中で学ばせたい!

 さて、そこで問題になるのが学校のアカデミズムと髪染めは両立するかということだ。

 答えは明らかである。
 髪は赤くしたがそれ以外のファッションにはまったく興味がなく、遊び仲間を求めることも繁華街に行くこともなく、ただひたすら勉学に励む――そういうことのできる特別な人間を除けば、普通は無理だ。
 人間は弱い。髪を赤くすれば服装も変えたくなる。服装が変われば誰かに見せたくなる、それにふさわしい行動もしたくなる。そして学校中にそんな子が溢れたら、誰が苦しい勉強に耐えていけるものか。

 

【識者はしばしばエリートのことしか思わず、一般人には冷たい】

 そう思ってもう一度本文に戻ると、妹尾氏の言葉はさらに空しく響く。
髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。
 
たしかにそうとは限らない。しかしこう語るとき、妹背氏の頭の中にいるのは矛盾するものを両立させることが可能なスーパー・エリート中高生だけだ。

 仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択であり
 たいていの子は髪やファッションにうつつを抜かすと学業や部活に集中できなくなる。普通の子はまだまだ弱い。そんな弱い子に対して“識者”たちはいつも自己責任論を持ち出す。
 その生徒または家庭の選択
 冷たいものだ。

 さらに申し上げると、仮に学業がうまく進まない事態になったとしても、高校の授業の質や教え方がマズイかもしれないですし、中学校までの教育の反省点などもあるはずです。
「とにかく子どもは悪くない」を起点にものを考えると結局「学校が悪い」「教師が悪い」というところに落とさざるを得なくなる。こんな人が中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員だとしたら、改革は教員を多忙にする方向にしか、向かわないだろう。

 

【言い漏らしたこと】

 ひとつ言い忘れた。公平性を守る校則の性格についてだ。
 しかしこれについて多言は要しないだろう。

 世の中には経済的理由や親の教育的信念によって髪を染められない子がいる。それもかなりいる。そうした子たちのために、学校を「染髪しなくては来られない場所」にしてはいけないということである。
 妹尾氏も、
高校は一部の生徒につらい思いをさせて、勉強したくないようにさせる機関ではないはずです
と言っているように、すべての子どもが通うことのできる学校――それが公教育の大原則である。
 政府が私立学校にすら多額の補助金を出し、市町村が給食補助をしたり就学援助をしたりするのもすべてそのためだ。とんでもない額の血税を使って維持しているこうした政策を、私たちも支えて行かねばならない。

 同じ理由で、私は小中学生の学校へのスマホの持ち込みにも、入学式や卒業式が華美になることにも反対する。この点に関しても、
 それはその生徒または家庭の選択であり
といった自己責任論は取らない。

 妹背氏はまた、次のようにも言っている。
 当時の教員は多い時期には4日に1回も頭髪指導をしていたのですが、校則を守らせることが目的化したようなことを行う暇があるならば、もっと生徒が挑戦する場をつくることに知恵と時間を使うべきだったのではないでしょうか。
 この部分にも賛成だ。
 頭髪指導などバカげている。生徒がさっさと染髪を諦めてくれればこんなことにはならなかった。そのためにもやはり、生徒は髪を染めて学校へ来てはいけないのである。