キース・アウト

マスメディアはこう語った

「教員採用の倍率を上げるには、今いる人たちを大事にすることが一番の広報」という視点は正しいが、仕事は減らさない、人は増やさないといった状況を放置して、大切にされている気分にさせるのは難しいんじゃないのか?

f:id:kite-cafe:20210226180530j:plain(写真:フォトAC)

記事

【教員採用の倍率を上げるには?(2)】今いる人たちを大事にすることが一番の広報  
妹尾昌俊 | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
(2021.02.26 Yahooニュース) 

news.yahoo.co.jp

 教員採用試験の倍率低下が注目されています。とりわけ公立小学校の教員については、競争倍率が過去最低を記録(2019年度)、しかも来年度から徐々に35人学級になっていきますから、教員確保は急務となっています。一度不人気になってしまうと、戻すのは簡単なことではありませんし、特効薬などありませんが、どうしていけばよいでしょうか。この記事で考えます。
 文科省は今月2日に「『令和の日本型学校教育』を担う教師の人材確保・質向上プラン」を発表しました。重要な内容も含まれていますが、もの足りない点や副作用のほうが大きいかもしれないと心配な点もあります。前の記事でわたしは3点指摘しました。

●教員採用試験の倍率低下の背景、要因にミートした対策となっているだろうか、という疑問。
●これまでの政策の検証や反省点がほとんど見えてこない問題。
●現職教員に対する政策が弱い(手薄である)問題。
※前回の記事:【教員採用の倍率を上げるには?(1)】 広報の充実では効果は疑問

 以下では、これら3点と関連することを、提案したいと思います。

■小中で約1万人が毎年教職から去っている。
 まず、かなり重要なデータを紹介しましょう。(スマホでは見づらいかもしれませんが)次の数字は、公立小中学校における離職者の推移です。ただし、定年退職(勧奨を含む)は除いています。3年ごとの統計しかありませんが、ここ最近の4時点を見るとそれほど大きくは変わっていません。むしろ15年度から18年度にかけては増加していますね。高校の教員は表からは省きましたが、直近の18年度の退職者数は 5,602人で、その前までは約5千人です。

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 小学校で言えば、1年間の離職者が6~7千人なわけですが、これは直近の新規採用者が約1万7千人ですから、割り算すると約4割になります。中学校でいうと、離職者は約4,500人で、新規採用者約9千人と比べると、約5割です。

 つまり、新規採用の4~5割もの数の人が毎年教職を去っているという現実があります。この規模をまた採用するとなると、かなり大変ですよね。

 教育委員会は「採用倍率が低下して困った困った」などと言う前に、あるいは「受験者数を少しでも増やしたいからPRビデオを作ろう、それから、採用試験をもう少し簡単にしよう(実技試験や模擬面接をカットしたりする例があります)」などと安直な方向に行く前に、この離職者をもっと減らす努力をされてはいかがですか?

(中略)

■今いる人たちを大事にすることが一番の広報
 わたしが申し上げたいことは、シンプルです。

 今いる人をもっと大事にしよう。各地の学校現場がいい職場だな、働きたいな、働き続けたいなと思えるものになれば、不本意な離職も減るでしょうし、おのずと教師を目指したいという人も増えてくるでしょう。
(以下、略)

 タイトルが気に入ったし、筆者が前回(2021.02.20)ケチョンケチョンに書いた妹尾昌俊氏なので好意的に取り上げようと思って熱心に読んだが、大したものではなかった。
「今いる人たちを大事にすることが一番の広報」
というなら、どうすることが「大事にすること」になるのか、ご自身の言葉できちんと語るべきだと思った。

 

【どういう覚悟で語っているのか】

 いつもそうだが、妹尾氏の発言は抽象的・理念的で、それが実際の場に降ろされたときに何が起こるかという具体的なイメージがない。
 例えば前回の、
髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。それに、仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択
も、本気でそれを“家庭の選択”と受け入れる覚悟があるかどうか不明だ。

 その家の生徒と保護者は学業や部活動に集中でない生き方を受け入れた。その子の近くで影響を受けた別の生徒とその保護者も、学業や部活動に集中できない生き方を選択した。そして学校全体、ひいては日本国全体が学業や部活動に集中できない生徒の多く存在するあり方を選択した、それでいいのかということだ。影響というのはそういうものだ。

 もちろんそういった行き方を選ぶ国々もある。
 アメリカ合衆国もイギリスも、フランスやイタリアも全部そうだ。何よりも自由を貴ぶこれらの国では個人に“ダメになる自由”も認めている。したがって「PISAOECD生徒の学習到達度調査)」で順位が下がっても国を挙げてブーブー言うことはないし、生徒指導は親の責任で、学校で手に負えなければ他の学校を勧められるだけだ。
 妹尾氏が日本をそうした国にすることも含めて語っているなら、腹の据わった論客として私も引き下がろう。しかし氏の他の論説を読むととてもではないがそこまでの覚悟はなさそうだ。

【専門の指導ができる部活動指導員を、いったい何人そろえればいいのだ?】

 今回について言えば(引用部分にはないが)文科省の対応を高く評価して、
国等は部活動指導員などの予算取りなどでたいへん努力はしています
などと言っているが、この制度の現実的な意味は理解できていない。

 例えば私の住む市には12の中学校があるが、そのすべてに吹奏楽部がある。部活動を教師の手から離して指導員に任せるとなると、12人の音楽に堪能な人間を見つけてこなくてはならない。しかも低賃金で、朝(7:00~8:00)と晩(16:00~18:00)だけで登校して指導できる人、土日のいずれかで半日指導を行い年間を通して休みたくても代替えはない、それでもいいという人材を12名もだ。むろん部活動はひとつではないからバレーボール部でもバスケットボール部でも野球部でも、部活動の数だけ集めてこなくてはならない。
 国は金を出すだけで、人を探してくるわけではない。地方自治体や学校にそれができるとも思っていない。単にアリバイ作りのための話をしているだけなのだ。それが分かっているのか?

 妹尾氏はまた、教員が早朝に出勤して夜も遅い時間に退勤している現状を踏まえて、
 通常の組織(企業や行政)では客が開店時間より前に来て、閉店時間の後も居座り続けているなんて、ありえないことです。これも、海外の学校と異なる「日本型学校教育」らしさなのでしょうか?この伝統も見直していく、またはちゃんと別のスタッフを置くということをやっていかないと、教師の授業準備時間や学び続けていく余裕は戻ってきません。
と書いている。
 そうだ、ここが本来なら膨らませるべき部分なのだ。

 仕事を減らすかスタッフを増やすか、はたまた両方を同時に行うか――。
学校現場がいい職場だな、働きたいな、働き続けたいなと思えるもの
となるためにはそこから始めるしかない。しかしそれもあまり重要視していない。

【まず、隗より始めよ】

 ただしタイトルの「今いる人たちを大事にすることが一番の広報」は素晴らしいものだ。

 これについては中国の古書「戦国策」に有名な話がある。
「まず、隗より始めよ」
現代の日本では「上の者から襟を正せ」みたいな誤用しかされていないが、本来は妹尾氏の言わんとすることと同じで「人材が欲しければ、今ある者を優遇せよ」だ。
私はこの話をあちこちで何度も扱っているが、本当に良い話なのでここでも記しておく。
妹尾氏もここまでとは言わないが、もっとポイントを絞った話をすべきと思う。

(参考)「まず隗より始めよ」
 紀元前4世紀の末頃、燕(えん)の国は隣の斉(せい)の国に国土の大半を占領され、国王までもが殺されてしまった。そこで、次に即位した昭王(しょうおう)は、何とか国の力を回復させようと考え、そのためには優れた人材を集めることが重要だと思い立った。そこで宰相の郭隗(かく・かい)に相談した。すると、隗はこう答えた。
「昭王よ、こんな話があります。
 昔、ある君主が千金を出して1日に千里を走る名馬を買おうと思いましたが、3年たっても見つける事ができません。すると、宮中にいたある男が進み出て、私が買ってきましょうと申し出たので、その男に千金を渡して買いに行かせたのです。その男は千里の馬を見つける事ができましたが、惜しくも一足違いでその馬は死んでしまっていたのです。すると、何を思ったか男は、死んだ馬の骨を五百金で買って戻ってまいりました。君主は、死んだ馬を五百金も出して買ってきたことを怒りました。しかし、その男は言ったのです。
『あわてずに少々お待ち下さい。王は死んだ馬にさえ五百金出したのだから、生きた馬であればもっと高く買うだろうと考え、人々は続々と良い馬を持ってくることでしょう』
と、はたして1年も経たないうちに千里の馬をたずさえた者が3人も現われたそうです。
 今、昭王が賢者を集めたいとお思いならば、まずこの隗を重く用いる事です。あの凡庸な隗でさえあれほどの厚遇を受けているのだからと、全国の有能な士が次々集まる事でしょう。」
 昭王はその話を聞き、隗のために立派な宮殿を建て、特に厚く遇した。すると、そのうわさは各国に伝わり、趙(ちょう)の名将である楽毅(がくき)や政治家の劇辛(げきしん)、陰陽学者の鄒衍(すうえん)などの優れた人物が集まりはじめたという。そして、ついに昭王は斉の国を破るだけの国力を得ることに成功した。