キース・アウト

マスメディアはこう語った

文科省は給食時「適切な対策行えば会話は可能」という通知を出したが、しゃべりながら食べれば当然給食時間は延び、感染リスクは高まる。しかしそのためにクラスターが発生しても、文科省もその背後にいる人たちも、責任を取る気は全くないようなのだ。


記事

 

給食時「適切な対策行えば会話は可能」都道府県教委などに通知
(2022.11.29 NHK) 

www3.nhk.or.jp


新型コロナ対策の基本的対処方針で「黙食」の記述がなくなったことを受け、文部科学省は給食の時の過ごし方について、適切な対策を行えば会話は可能だとする通知を都道府県の教育委員会などに出しました。

 

政府はこれまで、新型コロナ対策の基本的対処方針で「飲食はなるべく少人数で黙食を基本とする」などと明記していましたが、今月25日の変更でこの記述が削除されました。

 

これを受け文部科学省は29日、給食の時の過ごし方などについての通知を全国の教育委員会などに出しました。

 

通知では、基本的対処方針の変更について説明するとともに、文部科学省のマニュアルでも必ずしも「黙食」を求めていないことを改めて伝えています。

 

そのうえで、「座席配置の工夫や適切な換気の確保などの措置を講じた上で、給食の時間において、児童生徒などの間で会話を行うことも可能」などとして、地域の実情に応じた取り組みを検討するように求めています。
(以下、略)

 

 世間には「学校教育は子ども相手の仕事だから楽だ」という誤解が満ち溢れている。教師が「まずは小声で話すようにしましょう」と言えば子どもたちは小声で会話するものだと、漫然と思い込んでいるのだ。そんなことはない。話に夢中になればついつい声は大きくなるものだし、そもそも“小声”がどの程度の声なのか分からない子もいる(私だって微妙なところは分からない)。

 

 また世の中には楽しくおしゃべりしながら食べる食事こそ大切と信じ込んでいる人も少なくないが、学校給食の場に身を置く人間からすれば、早く食べて早く遊びに行って(マスクをつけたまま)存分にしゃべればいいのであって、何も食べながら話すこともないと思う。 

 何しろ口は食べる時と話すときにしか動かさないもので、しゃべるために使えば食べるための動きは減る。つまり食べ終わるまでの時間が長くなるのだ。
 食べるための早さは児童生徒それぞれで異なるが、それに加えてしゃべる時間の長さが給食時間を引き延ばす。もはやこれまでのように15分間で食べ終わることなどできなくなるだろう。するとどうなるか。
 
 政府の規定によると濃厚接触者の定義は、
「必要な感染予防策をせずに手で触れること、または対面で互いに手を伸ばしたら届く距離(1m程度以内)で15分以上接触があった場合に濃厚接触者と考えられます」
となっていて、
「濃厚接触者は、感染している可能性があることから、所定の期間は、健康状態に注意を払い(健康観察)、不要不急の外出は控えてください」
とも書いてある。
(上記いずれも厚労省新型コロナウイルスに関するQ&A より)
 もっとも今年8月以降は学校や事業所に限り、濃厚接触者としての出席停止・出勤停止が求められることはないが、食事中の会話が感染リスクであることに変わりはないだろう。
 そのために文科省もわざわざ「座席配置の工夫や適切な換気の確保などの措置を講じた上で」と記して、万が一、学級閉鎖が大量に発生しても責任を取らなくていいようにしてあるのだ。
(だから「措置を講じた上で」「地域の実情に応じた取り組みを」と言ったじゃないか!)

 

 黙食をやめて子どもには楽しく気持ちよく給食を食べてもらいたいという要望はかねてより保護者からもあった。その保護者たちは我が子がウイルスを持ち帰り、自分たちが感染して仕事に行けなくなる可能性について考えたことがなかったのだろうか?
 文科省の通達は子どもたちが机を向かい合わせにして、楽しくおしゃべりしながら食べることまでは想定していない。だからしばらくは横並びで、顔を横に向けて会話するだけのことになるだろう。
 そんな不自然なことまでさせて会話を許容することに何の意味があるのか。子どもは早く食べて、早く屋外に出て、楽しく遊べばいい――と、私は思う。

 

 文科省の背後には常にお子様教の信者(子どもの気持ちが何よりも大事と考える人々)が大勢いて、実態も考えずに圧力を加え続けているらしい。責任は学校が取ればいいのだから気楽なものだ。