キース・アウト

マスメディアはこう語った

政治家たちが急に子どもたちに優しくなって、卒様式や入学式でマスクの使用を心配し始めた。だが真意はG7や観光需要を見越したウィズコロナ、ノーマスク達成にあるに違いない。しかしもう子どものダシに使うのはやめてほしい。ノーマスクはまず政治家たちが一斉に議事堂でやって見せればいいだけのこと。国民はそれで安心するはずだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

卒業式や入学式でのマスク着用 推奨しないことを検討 政府
(2023.02.03 NHK)

www3.nhk.or.jp

新型コロナ対策としてのマスク着用をめぐり、政府は卒業式や入学式では感染リスクは高くないとして、着用を推奨しないことなどを検討していて、専門家の意見も聞いたうえで、今月中のできるだけ早い時期に結論を得たい考えです。

政府は、新型コロナの感染症法上の位置づけを5月8日に、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行するのを見据え、マスクの着用を個人の判断に委ねることを基本とするよう見直す方針で、与野党双方からは、卒業シーズンを控え、学校現場では先行してルールを緩和するよう求める意見が出ています。

こうした中、政府は卒業式や入学式では式典中に継続的に会話が行われる状況が想定されず、体育館などは換気をしやすいことなどから、感染リスクは高くはないとして、一定の感染対策を講じることを条件に、マスクの着用を推奨しないことを検討しています。
(以下、略)

 

【この国の「できることから始めよう」は「弱いところ(学校)から叩け」】

 昨年秋より「給食中の黙食、つらいよねぇ」とか「卒業式の日くらいは最後に友だちとマスクなしの会話したいよねぇ」とか、日ごろは票に繋がりやすい高齢者にばかり目の向いている政治家たちが、妙な猫撫で声で小中学生に近づいてくる。かなり怪しい状況だ。

 来たるべきG7広島サミットに向けて、あるいは夏の観光シーズンに向けてマスクのない日本を演出しようとやっきになっているのかもしれないが、それにしてもノーマスクを学校から始める、でいいのか? 
 この国の「できることから始めよう」は「弱いところから叩け」と同義であって、もっとも狙われやすいのが学校である。
 これまでなんど学校が改革の生贄にされてきたことか、思い出せば枚挙に暇がない。

【「叩かれる」の歴史】

 例えば学校五日制がそうだ。
 1990年代初頭、日米貿易摩擦から日本がアメリカにすり寄って労働者の週休二日制を促進すると約束したのにさっぱり進まないといった事態があった。企業にすれば収益が上がり、給料が上がって労働者も気持ちよく働いているのに、敢えて週休二日にする意味が分からなかったのだ。事態に悩んだ政府はそれまで五日半あった学校の授業を五日に減らし、土曜日の児童生徒を無理やり家庭に送り返すという強硬手段に訴えた。
 文科省に任せていたらいつになるか分からないので、政府主導でいきなり年度途中の9月12日(1992年)を最初として、毎月第二土曜日を休日にしてしまったのである。
 学習指導要領の改正も待たず、学習内容はそのままの突然の土曜休に、週休二日制を要求の柱にしていた日教組でさえ時期尚早と止めたくらいだった。しかし始まってしまった。
 実際、月一回とは言えその影響は大きく、特にパート労働の主婦たちが一斉に職場を異動することによって、社会の週休二日制は一気に進むことになった。
 そして政府も学んだ。
 何か大きな社会変革を起こすには、まず学校をいじればよいのだと。

 

 国歌の普及もそうだった。
 1999年8月9日、「君が代」は正式に日本の国歌となった。国歌となった以上は入学式や卒業式で歌うのは当然だ。しかし起立しなかったり歌わなかったりした教師が処分されたのはいかがなものか、同じことを千秋楽の国技館で、一般の観衆がおこなったらどういう処分が下されたのか――。
 繰り返すが私は国歌に反対するのではない。国の統一ということを考えれば子どものころから親しんでおくことは必要だろう。しかし学校の前に、なぜ国会の開会式で「君が代」を歌うようにしなかったのか。毎日歌えと言っているのではない。年にたった1回、天皇陛下をお迎えするそのときだけでいいのに、それさえもしないのはなぜかということだ。年端の行かぬものから始めるのではなく――法律をつくった国会がまず範を見せるべきではないか。それが私の恨みである。
 
 同じ90年代、物を燃やせば熱と二酸化炭素ダイオキシンが出るとまで言われたその時代、青酸カリの数百倍の毒性をもつというダイオキシンをいっさい出させないため、全国の焼却炉の撤廃が目指された。そのとき真っ先にやり玉に挙げられたのも学校の焼却炉だった。個人情報とマル秘文書が山積みの学校にはぜひとも必要な設備だったが、アッという間に消えてしまった。あとにはシュレッターで大量の紙を刻む、気の遠くなるような長い仕事が残った。
 ところで何を燃やしても青酸カリの数倍の毒性を持つダイオキシンが発生するというのに、ダイオキシンで死んだ消防士も焼き鳥屋も一人もいなかったのはなぜだろう?
 
 さらに言えば敷地内禁煙が最初に実施されたのも学校だった。
「子どもたちを受動喫煙の危機にさらしてはいけない」
ともっともらしいことも言われたが、敷地内では吸うことが許されず、敷地外に出れば部分的職務放棄だと叩かれ、あれはまるっきりいじめみたいなものだとつくづく思ったものだ。
 しかしそんなやり口に歯向かえば、「文句があるなら教師は辞めろ、お前の代わりなんかいくらでもいるぞ」――。
 ある意味、懐かしい非難のされ方である。

【卒業式のマスクをどうするか】

 さてそこでマスクだ。
 学校にはいろいろな子どもがいる。政府が外してもいいと言っているのだから外してしまえという子もいれば、急にマスクを外して風邪を引くのは嫌だという子もいる。顔パンツとまで言われて馴染んだマスクを急に外すのは恥ずかしいという子もいるし、花粉症だからこれからがマスクの本番という子もいる、とにかく暖かいのが好きという子だっている。

 

 政治家が言うように、最後の一日くらいはマスクを外しておしゃべりをしたいという子ばかりではないし、上の記事の割愛した部分で医師は、
「卒業式は先生の話を静かに聞くような場面では感染リスクは高くないのでマスクをつける必要性は低いかもしれないが、式の後、友達どうしで集まって、大声で騒ぐような場面では感染を防ぐためにはマスクを着けたほうがいい」
と言っておられる。卒業式の日くらいマスクを外しておしゃべりを、というわけにはいかないのだ。

 

 卒業式にマスクをつけるかどうか、そんなことは学校の自由でいいと思う。自由ということになれば学校は「マスクをお持ちください」くらいは言うだろうし、持ってくれば大半がつけることになる。それでいいのだ。現在の状況が2年、3年と続いて多くの人たちがマスクを外すようになれば、自然と卒業式のマスクも少なくなる。そいうものだろう。
 いや経済を回すうえでいち早いウィズコロナ、ノーマスクが必要だというなら、別のことを考えよう。私に名案がある。

【まず政治家が範を示す】

 私はまず政治家たちが、国会の場でマスクの必要性がないことを示すべきだと思う。後期高齢者も多く不健康な生活をしていそうな人たちも多い議員たちが、一斉にマスクをはずしてその姿をテレビで曝す、これ以上の宣伝効果もないだろう。ハイリスクな人たちが感染をまったく気にしていないからだ。

 

 演台に立つ質問者はマスクをしなくていいのだから自席で話を聞く議員はなおさらマスクなどしなくていいはずだ。そしてゆったり話に耳を傾ける――。
 え? ヤジはどうするのかって?
 ああ、もちろんそういう人たちにはマスクが必要だ。大声でヤジれば飛沫は飛ぶに違いない。だからマスクで議場に入る人はみんなヤジることを前提に来ていることになる。国民に分かりやすい政治。マスクに「ヤジ!」とでも書いておけば、一層すばらしい宣伝になると思う。