
(写真:フォトAC)
記事
中学校の英語でつまずく子どもが続出する原因は?
「小学校英語と中学校英語は別物」
(2024.10.07 AERA with Kids)
中学校に入り、英語についていけなくなる子が増えています。成績の二極化が進み、しかも下位グループのほうが多いといわれる現状があるとか。原因はどこにあるのでしょうか。子育て・教育情報誌「AERA with Kids」(朝日新聞出版)からお届けします。
■中学英語は小学校と違い、「読む」学び方にシフト
小学校から始めたら、英語力や経験値は上がるはず。それなのに中学校で多くの子どもたちが英語につまずき、諦めてしまう現状があります。スタディサプリ英語講師の関正生先生はこう言います。
(以下略)
評
私は英語が苦手でいまでもほとんどできない。英語でトップクラスの同級生から、あんなに後れを取らなかったら他の人生も考えられたのにと、授業を受けてから半世紀以上も経つというのに、いまだに苛立っている。日本の英語教育には大いなる不満がある。しかしもっと時間をかけて丁寧にやってほしかったという話ではない。逆だ。
どうせ私の頭では英語がペラペラになるはずはないし、どうせ国内にいる限り使う機会はほとんどないし、使わなければどんどん忘れるし、さらに言えばいつか「書く」も「聞く」も「話す」も生成AI による自動翻訳のおかげでどうとでもなる時代が来ると分かっていたのに、なぜ、英語を中高6年間も学ばなければならなかったのか、なぜあれほどに苦しまなければならなかったのか。
【英語を学んだばかりに差がついた】
極論を言えば、英語教育がまったくなければ、私と同級生との差はゼロで一緒だった。江戸時代の子どもを考えてみるといい。彼らは現在の私たちと同じように日ごろは英語なんか使わない上に、英語はゼロで平等だった。それなのに現代の子どもたちは、同じように大半は英語なんて使わないのに、あんなに苦しまなくてはならないのだ。しかも私のような”できない子”は打ちのめされるのだ。
せめて英語教育も高校3年間だけだったら私もトップの連中との差は小さかった。それを6年もやるから取り返しのつかないほどの差がついてしまったのだ。その心の傷は半世紀以上経った今でも胸のあたりで疼いている。英語で差をつけられたばかりに失った人生があった。
【努力をしてもできないものはできない】
もっと努力すれば良かったのにと、そんな言い方をする人もいるかもしれない。私もかつてはそう思った。しかし大人になってから分かったのだ。英語を習得するには特別な能力が必要で、その能力には最初から差があるということを。
例えば英語の綴りは発音と1対1で対応しない。
「S」を「エス」と発音するのは「S」が単独で表記されるときだけで「sports」の最初の「s」も最後の「s」も「エス」とは読まない。同じ「a」なのに「apple」の「a」と「April」の「a」はまったく違った発音になる。「ea」という綴りはよく見かけるが、ちょっと考えただけでもeagle、ear、heart、early、ready、tearは全部発音が違っている。
日本語でひとつの表記に二つ以上の発音があるのは助詞の「へ(え)」「は(わ)」「を(お)」の三つだけである。そんな日本人に英語はムリだ、と言うか英米人にとっても難しく、英語圏には識字障害が掃いて捨てるほどいるのだ。
確かに日本人の中にも、ものと綴りの不一致を苦にしない人はいくらでもいる。「優しくもなければ優秀でもなく、美しくもない優美子さん」という不一致をもろともせず、名前と顔とを間違えず照合できる人たちだ。学校でも英語の教師に圧倒的に多い才能で、元々そういうアタマなのだろう。私にはまねできない。三年間担任した児童生徒の、名前か苗字か、いずれか一方が思い出せないでウロたえるような私には、最初から縁のない世界の人々。彼らこそ才能を生かして英語を学び続受ければよい。私には荷が重い。
こんなに記憶力が弱いのに中三の半ばくらいまで彼らと互角に英語ができた私は、おそらくほんとうによく努力したのだ。彼らが1度で覚えることを、10回もやって覚えていたのだから。
【英語力の2極化は当然】
さて、
小学校から始めたら、英語力や経験値は上がるはず。それなのに中学校で多くの子どもたちが英語につまずき、諦めてしまう現状があります。
記事はこれについて四つの理由を示している。
- 思っているより、難しい単語が増えている。小学校で扱った約700語の単語が、中1の教科書では「既習」とされる。
- 小学校と中学校の連携がとれていない。そのため、コミュニケーション重視の小学校英語から、読む力を求める中学英語へのシフトがうまくいっていない。
- 思春期に入り、授業への気分も変わる。恥ずかしさが勝り、積極的に授業に参加できない子もでてくる。
- 文法に不慣れなため、難しく感じてしまう
いずれもその通りだと思う。しかし小学校の学習内容を「既習」として前提にすることや小中の連携が取れていないことは、他の教科も同じだ。記事の中でも講師が
「(小学校英語から中学校英語への変化は)『算数』が『数学』に変わるくらい、内容は劇的に変わります」
と言っているくらい算数と数学は違うし、社会科でも織田信長や豊臣秀吉は既習のこととして授業をスタートさせることをためらわない。その結果、成績はどうなるのか――そう考えると、
中学校に入り、英語についていけなくなる子が増えています。成績の二極化が進み、
という理由も分かるはずだ。
英語教育を早めた結果、中学校入学段階ですでにかなりの学力差がついていて、入学早々、その現実を目の当たりにした低位生は、一瞬で意欲を失ってしまうのだ。他の教科と同じように。
私が子どものころはまだマシだったのかもしれない。小学校時代はいつも80点以上取っていた国語や数学(算数)が、中学の定期テストでいきなり50点~60点という残酷。そういう現実を知らされて絶望しても、私たちには「まだ英語が残っている」という思いがあった。もちろん多くの場合は単なる幻想だったが、それでも学習への意欲には繋がった。
手元にないため確認できないが、マンガ「ドラゴン桜」にもこんな話があったと思う。
「小学校の段階ですでに落ちこぼれて意欲を失ってしまった子どもたちも、英語だけはやり直しの気持ちになれる。英語を中心に学習を支え直そうとできる。その英語が、大学入試では1・5倍の得点になるわけだから、この国の教育は“受けがい”のあるよい仕組みになっているというものだ」
しかし時代は変わった。
学習期間が伸びることによるメリットとは何か――それは優秀な子どもたちが学力を伸ばす猶予が与えられるということである。低学力の子だってそのぶん学力が伸びると考えるのは大間違いで、彼らは絶望して諦めている。すでに半分以上、投げ出している。そんな知識の足腰の弱い子どもに、次々と難しい知識を被せて行けば混乱してむしろ成績は下がる。
国と社会と保護者が望んだ「英語教育の拡充」とはこういうことである。