(写真:フォトAC)
記事
「卒業文集廃止」増加の背景に、教員の働き方改革。変わる卒業記念品のカタチ
学校生活の大切な思い出を記録する卒業文集や卒業アルバム。当たり前のように存在してきたこれらの記念品が、廃止されたり形を変えたりしているようです。
(2025.03.05 All About)
◆卒業文集廃止。背景の1つに教員の働き方改革が
将来の夢や学校生活の思い出などをつづる卒業文集。子どもたちの卒業を祝う文化の1つとして長年存在してきたこの記念品を、廃止する小学校が出てきています。
背景の1つにあるのは、教員の働き方改革。神戸市教育委員会で学校教育課課長を務める坂田仁さんは、「学校により異なりますが、卒業文集は、教員が指導計画を立て、6年生の11月から翌年1月下旬にかけて6時間から10時間程度の時間をかけて作成しています」といいます。
「テーマを決めて、子どもたちが下書きした内容を添削したり誤字脱字をチェックしたりする。その後、清書を経て、同じ学年の担任同士で交換して内容を確認し合い、校長・教頭が最終点検をするというプロセスが一般的です。」
この添削や確認のために、子どもたちや教員が休み時間や放課後の時間を費やすこともあり、教員にとっては残業時間増加の一因になっていました」(坂田さん)
教員の長時間労働が課題となる中、神戸市教育委員会では、事務局と学校現場の関係者で議論を重ね、働き方改革を進めています。
(以下、略)
評
最近、小学校時代の恩師に半世紀ぶりくらいの電話をしたら卒業文集の話が出た。2回ほど留守電に入れてからの話だ。
「いや、卒業文集を見たら、キミはほんとうに明るい、朗らかな子だったんだね」
う~ん、本人からすればちょっと印象が違うかな――そう思って電話を切ったあとで確認すると、友だちからの人物評で、私は冗談や面白い話が好きな、明るく朗らかな子ということになっていた。小学生だった私を恩師もあまり覚えていなかったが、私自身も覚えていない、そういうことなのかもしれない。
もっとも師の方はムリはない。相手は私からすれば小学校5~6年生を担任していただいた唯一無二の先生だが、あちらからすれば私は半世紀も前に教えた36人のうちの一人にすぎない。そののち恩師が担任したりさまざまに関わった数千人に及ぶ子どもの中で、特に私が記憶に残る理由はない。そこまで悪い子ではなかったし、煌いていたわけでもないのだ。
【卒業文集:教師の必需品】
昔の教え子に会ったり同窓会に呼ばれたりするとまず卒業文集を引っ張り出し、記憶をたどって印象を再構築するのはいかにも「教師あるある」である。私も30年間で直接、学級担任、教科担任であった児童生徒だけでも4000人ほど、同じ時期に同じ学校に在籍していただけとなると万にも届こうという数だ。ほとんど記憶にない。
はっきり覚えているのは「とても良い子」と「すごく悪い子」だが、「とても良い子」にはエピソードがない。良い子はみな同じように良い子なので行動が記憶に残らないのだ。それに引き換え「すごく悪い子」たちは思い出す逸話に事欠かない。とにかくいろいろやらかして私たちを心配させ、怯えさせ、当惑させた。私たちの時間とエネルギーと心の余裕を奪い、常に気の置ける子たちだったから記憶から抜けるはずもない。
もし私が私立学校の教員で、弁護士のように対応した時間に応じて授業料を集められるなら、良い子の家庭からは3年間で数千円、「すごく悪い子」の家からは毎年数百万円を受け取ってもいいと思う。おまけに何年たっても「手のかかる可愛いヤツ」として記憶に残るから始末に悪い。
そんなふうに、滅多に見ないのに、見ると書かれていないこまごまとしたことまで思い出させるのが卒業文集である。
さて、記事を読んで、
「テーマを決めて、子どもたちが下書きした内容を添削したり誤字脱字をチェックしたりする。その後、清書を経て、同じ学年の担任同士で交換して内容を確認し合い、校長・教頭が最終点検をするというプロセスが一般的です。」
この部分に反応した人は少なくないと思う。そこまで丁寧にしなくてはならないのか、実際に行っているのかということである。答えは、
そこまで丁寧に調べなくてはならないし、実際にやっている
ことである。
【小学生の作文は、書かせること自体が大変】
実は作文指導というのは全教科指導の中でもっともたいへんな仕事のひとつだ。全体指導の部分が極端に少なく、個別指導の時間が圧倒的に長いからである。
小学生の場合はすべての児童に対して最初から手を入れる。主題を決めさせ、構想を固めさせ、下書きを書かせる。早い子は指導の2時間目が終わるころには最初の原稿ができあがる。そこからが担任の腕の見せ所だ。
大雑把に言えば20秒で読んで、20秒で問題点と対応策を考え、20秒で説明して席に戻す。これで1分だ。1回の指導時間はそれで全部、1分だけだ。ひとりに1分しか使わなくても40人学級だと40分。授業の前後の挨拶や学習内容の確認を含めて、学校の1時間はあっという間に終わってしまう。
それも理想的に事が運んで、1番の子の作文指導を始めたら1分後に2番目の子が作文を持って教卓に向かって来て、さらに1分後、3番目の子が作文を書きあげてこちらに歩き始めるなどという都合のいいことが起こればいいのだが、実際にはそうはならない。下手をすると教師の前に長蛇の列ができて、十数分も無為のまま待たされる子も出てきてしまう。
私は銀行や病院のような番号札を取らせて自席で待つようにさせたが、「もう一度見直して手を入れなさい」と言っても大したことができるわけではない。結局、最後は書きかけの作文を教室に置いて行かせ、放課後か家に持ち帰っての仕事になる。細かに朱を入れて、言葉を添えて翌日の授業に備える。
【中学生は文集でも何をするか分からないので要注意】
中学校の場合、卒業文集の制作担当は国語科の教師ではなく担任教師である。だから有効な作文指導はできないし、相手は中3だから小学校ほどに丁寧な指導はしなくて済む。しかし彼らは小学生にはない危険性がある。下書き段階から丁寧に見ておかないととんでもないことを書く生徒がいるのだ。一度書かせたものを撤回させるのは難しいから、止めるのは早ければ早いほどいい。
これは私のクラスの話ではないが、ある経験の浅い教師が文集の危険性を知らないで生徒に自由に書かせ、添削もせず製本してしまったことがあった。普通はそれでもあまり問題になることはないのだが、この時は違った。
印刷所から納品されて明日配布という段階で、隣りのクラスの担任が中身を読んで仰天した。そこには修学旅行の夜、女子部屋に忍び込んだ男子が、さらに女子の布団にもぐりこんだ顛末が延々と描かれていたのである。中学校の卒業文集だというのにどこでそんな表現を学んだのか――、
「そのとき鼻の奥に、女の甘い匂いがツンと広がって・・・」
【卒業文集はアナログ・タトゥー】
文集は放っておけば何十年もこの世に残るものである。
とても人様には見せられない話を書いたと、あとから気づいて自分の分を燃やすなり資源回収に出すなりしてもダメだ。アナタの悪友がずっと大事に持っていて、アナタの子どもが中学生になったくらいのころ、そっと呼び寄せてエロ本のごとく隠し見せる、
「おまえの父ちゃんさ、あんな偉そうなことを言っているけど、中学生のころはこんなことを書いていたんだぜ」
そんな悪友がいなくても、息子の同級生が母親の書棚から古い卒業文集を抜き出して読む日が来るかもしれない――いやいやそんな稀有な事態を想像するまでもない。ずっと田舎に住み続けて、息子も同じ中学校に通うようになったと喜んでいるアナタ。図書館には過去半世紀分の卒業文集が寄贈されていることを忘れていない?
もっとも「女の甘い匂い・・・」程度なら担任教師の指導の甘さと本人のアホさが何十年もの語り草になるだけで実害は少ないが、数年前、ある県では文集配布後に差別的な内容が書かれていることが発見され、一度配ったものを全冊回収。修正の上で印刷し直して、年度をまたいで渡し直したという例もあった(費用はどうしたのだろう?)。
子どもたちが下書きした内容を添削したり誤字脱字をチェックしたりする。その後、清書を経て、同じ学年の担任同士で交換して内容を確認し合い、校長・教頭が最終点検をする
そういった労を厭わないのは、もちろん学校の保身のためもあるが、つまらないものを未来に残さないという仏心でもある。
【それもそろそろ限界か】
卒業文集は時間がたつほど価値が出てくるものだ。40歳代~50歳代になって改めて読めば、昔のことが生き生きと思い出され、友人との話にも花が咲く。しかしいまやあまりにも危険な存在となった。金銭的にも労力的にもコストがかかりすぎる。肖像権のからむ卒アル(卒業アルバム)も含めて、何も残さないのが安全・賢明ということだ。
思い出は、親がきちんと整理して残してやるしかない時代が来ている。