(写真:フォトAC)
記事
【元教師が暴露】男性教員が下着までチェック?ツーブロック禁止、生理でもプールを休めない・・・異常な「教育現場の実態」とは
(2025.04..11 東洋経済オンライン)
「男子を欲情させないためポニーテール禁止」「汗をかくので、体操着の下に下着を着用してはいけない」――そんな世間の常識からは乖離したブラック校則が学校には数多く残っています。『教師の本音』から一部抜粋・編集のうえ、その実態に迫ります。
■理不尽なブラック校則が生まれる仕組み
『ブラック校則』はたびたびSNSを賑わせる話題のひとつ。
実は私がショート動画でバズったのは、2020年に出したブラック校則についての動画が、中高生の間で共感を集めたことがキッカケです。なので、ブラック校則問題についてはここ数年、本当に真剣に向き合ってきました。私のSNSを見てブラック校則という言葉を知ったという人も多いと思います。
変な校則というのは昔からありましたが、なんでこんな意味不明な校則ができてしまうのでしょうか?
(以下、略)
評
ブラック校則の問題についてはかなり詳しいつもりでいたが、この記事には私の知らないさまざまな事実があった。
【ブラック校則の現時点】
- 著者が動画配信を始めた2020年ごろは、
大人の視聴者からは、「えっ、くるぶしソックスって何?」「ツーブロックって禁止なの? 初めて聞いた」という反応がほとんど。それくらい世間の関心は薄かった。子どもたちがそんな理不尽な校則に縛り付けられているなんて、多くの大人は気づきもしなかった。
という状況があったこと。
私のSNSを見てブラック校則という言葉を知ったという人も多い
――つまりブラック校則はここ数年の問題であり、著者すぎやま氏がその概念を広めるのに一役買っていたこと。 - くるぶしぐらいまでの短いソックスがブラック校則問題のひとつの柱であり、筆者が強く反対したにも関わらず、当時の著者の勤務校での禁止が端緒となり、やがて全国に広まったこと。
- ある学校で生徒指導の先生が、「おいお前、なんだその髪形は。そんな髪形許されるか!」と急に言い出したんですね。それで、そのまま『ツーブロック禁止』という校則になりましたと、たったひとりの主観に始まったツーブロック禁止が、全国に広がったという事実。
- 校則は校長や保護者の要望を加味した上で教職員が話し合いでつくっていくものという既成概念を否定して、
「声がデカい一部の先生が流行っているものを敵視したり、主観で決めつけたりして、理不尽なブラック校則をつくっていく」と明らかにし、「このようなことは、今でも続いています」と状況に変化のないことを確認している点。 - 「学校現場では、わざわざ服をめくって調べるほど、なぜか白の下着に異常に執着をしています」
「ブラジャーの着用を認めるかどうかを、教員がその子の胸を『目視』して判断する(中略)しかも、男性教員がチェックすることもあった。あるいは「生理で休む」という生徒に、「生理でもタンポンを入れていれば血は出てこないんだから、プールに入りなさい」という人がいるなど、
教師による犯罪行為が今も日常的に公然と行われていること。 - (修学旅行で)浴場から出た後に体がちゃんと拭けていないと、脱衣所の床が濡れてしまうため、水滴がついてないかを教師がチェックする(中略)。しかもなんと、担当教師の前で、全裸でバンザイさせてクルリと一周させる学校もあるという。まるで強制収容所そのもののような事実のあること。
学校がそこまで酷い状況だと知る人は少ない。私自身も30年も学校に勤務しながらそうした事実はまったく知らなかった。もちろん問題がここ数年に限ったことだとすると、退職者である私の知る由もないのだが--。
【なぜ、自身は手をこまねく?】
ただひとつだけ納得のいかないことがある。それはここまで酷い状況を把握しながらも著者が、
もっとも効果的なのは、保護者が声を上げることです。
と問題を保護者個人に丸投げし、
そういうことがあったら、バンバン連絡するべきだと思います。
と後ろから煽りながら自分自身は何もしない点である。
これだけの事実を握っているなら、善良な一市民として、ひとりの教育評論家として、資料を持って警察にバンバン告発すべきではないか。マスコミを集めて会見し、政党を動かして国会にも訴えるべきなのだ。さらに余力があったら、マスコミを率いて自ら問題の学校及び教委に抗議に赴くのも、事情を知った者の務めだろう。教育評論家として今後も校則問題でメシを食って行くつもりなら、そのくらいはすべきだ。
人質を取られているからと委縮する保護者の尻を叩いて学校に向かわせながら、自分は安全なところで本を書いて新聞社に記事を売ろうとしている、それは卑怯者のすることである。
【同じ書籍が引っ張りだこ】
ところで、この記事は著者である「静岡の元教師すぎやま」氏が先月7日に出版した『教師の本音 生徒には言えない先生の裏側』 (SB新書)から一部を採って東洋経済オンラインまとめたものである。個人のわずかな体験とネットから拾った大量の知識を元に書いた典型的なコタツ記事で構成されたつまらない著作物である。
ところがその一部が東洋経済オンラインに載せられた翌日(2025.04.12)、今度はダイヤモンド・オンラインが同じ著書から別の文脈で記事をまとめ、配信した。タイトルは『体育会系熱血教師なみにタチが悪い…書類が作れない、授業が下手な"デキない50代教師"がウヨウヨいるワケ』である。
しかし“デキない50代教師”と聞いて私は面食らう。
50代後半はさほどでないかもしれないが、私の知る限り、現在のアラフィフ教師(43歳~55歳程度)は平成7年から平成19年あたりまでの教員採用試験の合格者であって、就職超氷河期の勝者、平成12年の最高平均競争倍率13.2倍を頂点に、常に6倍以上だった教員採用試験をくぐり抜けて来た公立学校のトップエリートたちである。
私も個人的にもっとも信頼し、期待するこの人たちをもってしても「体育会系熱血教師なみにタチが悪い…書類が作れない、授業が下手」となると、学校に打つ手はなくなる。
【超スーパーエリートが普通のエリートを見限った話なのか?】
記事によると著者「静岡の元教師すぎやま」氏は弱冠20歳代で全職員の授業案をチェックする仕事を任され、超エリートを含む50代の先生の授業案に赤ペンを入れて、真っ赤にして返すという、校長・副校長あるいは指導主事でも遠慮してできない仕事を、ひとりで任されるほどの超スーパーエリートである。その視点からすれば普通のエリート教師などかなり見劣りするというところなのかもしれない。
しかし現実問題として日本の公立小中学校は東大・京大卒の超エリートを教員として迎えるようにできていない。だとしたら、
「タチが悪い…書類が作れない、授業が下手な"デキない50代教師"」
かもしれないが、それを盛り立ててやって行くしかない。それが現実だが、すぎやま氏は我慢ができなかったらしい。
【"デキない50代教師"とはどのようなひとたちか】
ところで、すぎやま氏の言う"デキない50代教師"とはどのようなひとたちなのだろう。
文中から拾うと彼らは、
- いわゆる『新人類世代』『バブル世代』と呼ばれる世代(1955~70年ごろの生まれ)の人たちで、
- 1970年代後半~80年代、日本はもっとも経済成長し、好景気に沸いた(中略)あの時代に教師になった人たち。具体的に言えば1953生れ~1968年生れの人たち。
- そして人数が突出して多い、2013年(平成25年)時点で59歳(1954年生まれ)~49歳(1964年生まれ)の人たちである。
ん?《2013年(平成25年)時点で59歳(1954年生まれ)~49歳(1964年生まれ)の人たち》?
そこで再び記事の元となった著書の出版日を確認する。2025年3月10日。つい先月の新刊だ。
すぎやま氏がデキない教員として上げている1番の『新人類世代』『バブル世代』は現在70歳~55歳、1970年代後半~80年代の採用試験合格者というのは現在71歳~61歳の人たち。すぎやま氏自身が語っている2013年(平成25年)時点で59歳(1954年生まれ)~49歳(1964年生まれ)の人たちは今、71歳~61歳。
つまりこの記事は12年前の学校に『体育会系熱血教師なみにタチが悪い…書類が作れない、授業が下手な"デキない50代教師"がウヨウヨ』いたわけについて語っているのであり、現在の話ではないのだ。
【この記事はクソだ】
「ブラック校則のいくつかは自分の周辺から始まったもの」だと言い、「ブラック校則という概念も自分が広めた」と暗示せずにはいられないすぎやま氏は、10数年前に勤めていた学校で体育会系熱血教師と50代の教員から相当に嫌な思いをさせられた。そのときの恨みは深く、12年の歳月をかけていま著書として結実した、そういうことなのだろう――そこまでは我慢できる。白の下着に異常に執着する教師がいるとしたら、過去に執着する教師もいるに違いないからだ。
しかしそんな個人的な宿怨を何の検証もせず、東洋経済やプレジデントが取り上げ、さらにYahooニュースが転載する。ロクでもないクソ話がいかにも公立小学校の現実を反映しているかのように広められ、一部の人々は50歳前後のこの上なく優秀な教師を歴史上最低の教師のように誤解する。その誤解が現実の学校の足枷となって行く――なぜそんな悪意に、マスメディア、ネットメディアは力を貸すのか?
私はそこにフジテレビと同質のものを感じる。誠実とか、正確だとか、客観性だとかはどうでもいい。面白くなければニュースじゃない。面白くさえあれば、日本の教育が滅びてもいい、世界が滅びてもかまわない――そんなふうに彼らは感じているに違いないのだ。