キース・アウト

マスメディアはこう語った

英会話・プログラミング・タイピング・・・なんで政府は廃れていく技術ばかりを子どもたちに教えたがるのだろう。

(写真:フォトAC)

 

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ローマ字学習に先立ち、小2の国語で「タイピング」体験を
中教審専門部会が導入案

(202511.10 読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp


 文部科学省は10日、学習指導要領の改定を議論する中央教育審議会の専門部会で、小学校2年生の国語でローマ字入力の「タイピング」を体験する学習を導入する案を示した。
 現行の指導要領の国語では、1年生でひらがなを学び、3年生でローマ字を学習する。今回の案では、2年生で「書くこと」の学習の一環としてタイピングを体験させる。
(以下、略)

 学校、特に小学校は子どもが必要最低限のことを学べばいいのであって、不要なものを新たに学ぶ必要はないと思っている――そう言うと我も我もと賛同者が増えて、やれソロバンはいらない、毛筆書道はいらない、古文・漢文はいらないという話になる。しかしそうではない。
 単に「大人になってから使わない」ということであれば、リコーダーもメロデオンも、水彩絵の具も彫刻刀もいらなくなる。化学式も方程式も短歌も俳句も学ぶことはないだろう。しかしそれも違うのだ。

【日本人としての素養は学ぶ必要がある】

 ソロバンや毛筆や古文漢文を学ぶのは、それが日本文化の基礎だからだ。短歌や俳句と七五調の標語の区別がつかない人間は、外国人と話しても馬鹿にされるだけだ。イギリス人やフランス人から日本の古典や文化を学ぶことは、やはり恥としなくてはならない。もちろん完璧にできる必要はない。ソロバンは玉をこう動かす、毛筆の「止め」「撥ね」はこうする、俳句には季語が必要だと、その程度でいい。しかし学ばないという選択肢はない。
 リコーダーも場合によっては尺八でも笙の笛でもいい。水彩絵の具の代わりに色鉛筆だけで学んでもいい。しかし楽器演奏を学ばない、描画を学ばないという選択肢はない。なぜならそれが教養だからだ。

 だが、小学生のうちから英語を学ぶ必要はないし、コンピュータのプログラミングも学ぶ必要はない。なぜならそれは日本文化の、少なくとも基盤ではないし、教養でもない。技能としてもやがて別のものにとって変わられ、廃っていくことが確実なものだからだ。もちろん個人としてやるのかまわない。しかし全国民に強制できるものでもないだろう。

スマホとAIアプリがすべてを解決する】

 10年も経てば普通の日本人は翻訳アプリと同時通訳アプリで数か国語を操っているだろうし、そうやって外国人慣れした私たちの子孫は、繰り返し聞いたコンピュータの音声の真似をして、少しずつ、アプリを介さずに読んだり話したりするようになる。
 インバウンドでにぎわう土産屋の兄ちゃんが、いつまでも日本語とアプリでやり取りしているはずがない。仕事で使う外国語はある程度の狭い範疇にあって、すぐに習得できてしまうからである。それをわざわざ小学校の教室でやろうとするから手間もかかるし身につかない。

 プログラミングについては、すでに生成AIが行ってくれているというのになぜ日本人全員が学ばなくてはならないのか? いったい日本人の何割が、生成AIを上回るプログラミングが書けるようになり、仕事に生かせるようになるというのか? 私には教室でプログラミングの一将も功成らず、万骨だけが枯れている様子が目に浮かぶようだ。だれも得をしない。 
 ましてやローマ字を習う前からのタイピングなど愚の骨頂だ。10年経ったら特殊な人しかキーボードを使っていないからだ。

【学ぶべきはフリップ入力。キーボードはなくなる】

 おそらく10年後の日本では、文字入力の主流が音声入力とスマホで扱うフリップ入力が中心になっているだろう。フリップ入力だったら平仮名の学習を終えている小学二年生にも容易に手が届くし、キーボードのローマ字入力より平均で1.2~1.5倍速いというからである。もしかしたらすでにスマホで文章を作成してコンピュータに送信し、そこで体裁を整えているといった――、回り道だがそれでも速い作業を始めている人もいるかもしれない。

 いずれにしろタイピングといった古い技術は長く続かない。若い人たちは毎日使っているフリップ入力に代えてキーボード入力なんて真っ平だと思っているし、できればキーボードなんてなくしたいと思っているに違いない。もしかしたら同じ「キーボード」でも、フリップ入力のできる画面とファンクションキーおよび10キーだけで構成されたものが出てくるかもしれない。いずれにしろ新たにタイピングを習得する手間は省かれなくてはならない。

【誰がタイピング学習は必要だと言っているのか】

 しかしそれにしても、そんなもうすぐ廃ってしまう古い技術をいまから学習しようと言い出しているのは誰なのか?
「いやねぇ、私自身がキーボードが打てなくて苦労したから、子どもたちは早くから慣れ親しんで、自由に使えるようになってほしいんだワ」
 そんなアホなことを得々と語る有力老政治家の顔が浮かぶようだ。
 だが、彼は知らないのだ――新しい学習を押し込めば、協力とか分担とか責任とかマナーとか、人と人の関係を円滑にするためにやってきた従来の学習が削られるのだ。昭和の間は毎週のようにあった児童生徒会活動はすでに月一回になり、子どもたちが力を合わせて(時には衝突しながらも)練り上げてきた運動会や文化祭、旅行行事といった特別活動が軒並み減らされている事実を。
 世界から羨望の的となっているTokkatsu(特別活動)を減らして用もない学習を増やす――愚かな亡国の輩はどこに巣くっているのだろう?