キース・アウト

マスメディアはこう語った

火事を出して子どもを危険にさらしたのだから何も言えないが、それにしても原因は切ない。

(写真:ChatGPT)

 

 

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【小学校火災】児童を助けた40代女性音楽教師が一転、失火の“容疑者”に…燃えた衣類は「金管バンドのユニフォーム」か
 (2026.06.27女性自身)

jisin.jp

 6月19日に発生した、東京都北区の滝野川第三小学校の火災。児童や教職員11人が搬送され、児童と女性教員1人が骨折の重傷を負ったが、24日になって40代の女性教員が「サーキュレーター(送風機)を使って洗濯物を乾かしていた」との趣旨を警視庁に説明していることがわかった。警察は失火容疑で火災との因果関係を捜査している。

 「この女性教員は、火災の発生時、音楽室で5年生の児童26人に音楽の授業をおこなっていました。その隣の音楽準備室から煙が上がりましたが、廊下を伝っての避難はできない状態だった。女性教師は児童を窓から脱出させ、ひさしの部分に避難させたといいます。これは通常の避難経路ではなく、咄嗟の判断だったようです。

 結果として児童1人が骨折しましたが、ほかの児童を無事避難させることができました」
(以下略)

 

【悪意ははびこる】

 基本的に女性週刊誌を読むことはないが、Yahooニュースが転載していたので本家をたどって読み直した。というのは、Yahooはしばしば記事を短期間に削除してしまうためリンクは元記事に貼っておいた方が安全なこと、また、稀ではあるが、Yahoo記事が抜粋だったりすることもあるので元記事に当たっておくことが必要だ。

 滝野川第三小学校の火災は、音楽科の教師が準備室で洗濯物を干して電気ストーブで乾かそうとしていたためだという話は一昨日あたりから出ていた。当初はXなどで蜂の巣をつついたような騒ぎで、
「音楽科教師が日常的に学校で洗濯をしていた私物で、“忙しくて家ではできないので学校でやるしかなかった”などと言い訳をしている」
などと、発火点の低い人々によるまことしやかな話で盛り上がっていた。

【わざわざ学校で私物の洗濯をすることはない】

 言うまでもないことだが、ありえない話だ。
 朝の忙しい時間に洗濯物をバッグに詰め込んで満員電車で学校まで運び、家庭科室の洗濯機で洗濯をしてから(というのは、洗濯機は普通、家庭科室にしかないからである)4階の準備室まで持ち上げ、そこでハンガーに掛ける。電気ストーブのスイッチを入れてサーキュレーターを回し、乾いたら午後、それを畳んでまたバッグに詰めて家に持ち帰る――その方がよほど面倒くさく、時間もかかりそうだ。

 私だったらどうするか教えてやろう。
 朝、洗濯物はバッグではなく、洗濯機に入れてスイッチを押し、それから出勤するのだ。全自動洗濯機だから帰宅した時にはすでに乾燥まで終わっている。干す手間もない。こんな簡単な方法があるのに、何が悲しくて家庭の洗濯物を職場に持って行かなくてはならないのか。
 さらに言えば音楽室は専科の教師だけが使うものではない。低学年では学級担任が音楽の授業も行うことが多く、準備室に足を入れることもある。若い男性教師だっている。そこに私物――家族と自分の下着を干せるか?

 少し考えただけでもアホなヨタ話と分かるのに平気で拡散していったのは、やはり一部の人々の教師不信には、測りがたいものがあるということだろう。考えさせられはする。

【結局、備品は教師が洗濯するしかない】

 もっとも事件の扱いは一夜明けるとすっかり変わっていた。今回とり上げた『女性自身』の記事に対するコメント欄も好意的なものが中心となり、擁護の声が大きくなってくる。
 常識的に考えて、教師が堂々と家庭科室で洗濯して干せるのは学校備品だけであり、音楽準備室に干したとしたら、インタビューを受けていた子どももその存在を語っていた『鼓笛隊の制服』がもっとも怪しいことになる。電気ストーブまで使って慌ただしく乾かしたのは、翌土曜日か日曜日に何かの演奏行事でもあったのかもしれない。

 同じ教員や鼓笛隊(吹奏楽部)経験者、その保護者たちはほぼそのように想定し、確信する。けれどその上でさらに、疑問を呈する人たちもいる。

  1. 鼓笛隊の子どもたちが使う制服。なぜ親たちに洗わせないのか。家に持ち帰らせ、クリーニングに出させるなり、自宅で洗濯しアイロンをかけて提出させればいいではないか。
  2. 学校の備品なのだから、公費で洗うのは当然だろう。なんで教師が自分で洗わなくてはならないのだ?


 実はその答えもコメント欄にある。
「1」 については、

  • きちんと洗って返せない家がある。
  • そもそもアイロンを持っていない家がある。
  • クリーニング代を出せない家がある。
  • いちど持ち帰らせると、なかなか戻ってこない家もある。
  • 備品の管理は学校でやるものだからと、親にやらせることに不信感をもつ保護者がいる。

「2」 について言えば

  • ・教育予算からクリーニング代を出させるということになると、他のどの予算を削ればいいのかということが問題になる。
  • 鼓笛隊のない学校も存在することを考えると、公費から制服のクリーニング代を出すことは不公平につながる可能性がある。
  • もちろん潤沢に資金があればいいのだが、学校予算を増やすことを理由としたものでも増税に国民が応じるとは考えにくく、予算は行政改革によって生み出すしかないが、その行政改革の枠には教員の給与あるいは人員削減も入ってくる。
  • だとしたら安易に予算の増加を求めるわけにはいかない。

 かくて毎年、学校じゅうのカーテンを洗うように、鼓笛隊の制服も教師が洗うことになる。それどころか鼓笛隊(あるいは吹奏楽部)の制服そのものを自腹でつくる教師も出てくる。
 より良きもの、より素晴らしいものに仕上げようとすると、どうしてそうなってしまうのだ。

 しかし、だからと言って当該音楽教師の罪が免れるわけではない。失火の責任はもちろん取らなければならない。それは前提だ。

苦しいことは誰か他の人がやるべきだと思っている我儘な親と、節操なく読者に阿(おもね)るポピュリスト評論家、キミたちには宿題の丸つけの意味さえ分かっていない

(写真:フォトAC)

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「宿題のマルつけは親」はもう限界? 「一律の宿題」そのものを廃止する学校が出てきている納得の理由
(2026.06.03 All About) 

allabout.co.jp

 「毎晩の宿題のマルつけがしんどい……」そんな親たちの悲鳴。全ての家庭に一律の協力を求める今のシステムには無理があります。手書きドリルからタブレットへの移行、そして宿題をなくす学校の動きから、これからの宿題の在り方を考えます。

「毎日の宿題のマルつけや、音読のサインが親の大きな負担になっている」
 小学生のお子さんを持つ保護者の間で、毎日のようにネットやSNSでため息混じりに語られるのが、この宿題への「親の関わり」をめぐる問題です。
 
 仕事や家事で忙しい毎日のなか、子どもの勉強に付き合うのは決して簡単なことではありません。「なぜ学校の仕事を親がやらされているの?」と疑問を抱くのも無理はないでしょう。
 
 All Aboutの子育て・教育ガイド、鈴木邦明氏の著書『言い方・伝え方でこんなに変わる 保護者の相談・クレーム対応100』(学事出版)から一部抜粋・編集し、家庭を疲弊させる「宿題マルつけ問題」の現実と、これからの新しい宿題の在り方を考えます。
 (以下、略)

【親は嘆く】

「もういい加減にしてほしい。学校は子どもを親に押し付けるんじゃない!」
と親の悲鳴が聞こえてくるような記事である。

「長年の夢が叶って学校からPTAがなくなり、おかげで休日の無賃労働も会費もなくなった。給食費もなくなってだいぶ楽になったとはいえ、学校でやるべき丸つけを今でも親にやらせているなんて!日本は諸外国に比べて30年くらい遅れてるんじゃないか? 


 そもそも日本の学校は親を頼りすぎてるんだ。

 インドやパキスタンは土曜日も授業をやっているっていうし、シンガポールやオーストラリアでは夏休みもない。日本だけがいつまでも子どもを親に押し付け、親の力を借りて子育てをしようとする。こんなことをしているからみんな親になりたくなくなって、少子化が進んでいるんだ。いい加減にしろ!」

 「諸外国」をインド・パキスタンで代表させるのもいかがかと思うし、シンガポールやオーストラリアみたいに2~3週間の休暇があちこちに分散して4~5回もある国をさして「夏休みがない」というのも筋が違う気もする。

 しかし引用した記事は親たちの嘆きに積極的に同調していく。
 結論から言えば、保護者による宿題のマルつけは、基本的には廃止していくべきだと私は考えています。

【ポピュリズム:宿題なんてなくてもいい・・・か?】

 さらに長期休業中の宿題についても、
私個人は宿題をなくしてもよいと考える立場です。やはり、子ども自身が必要と感じ、自らの意志で取り組もうとする学習にこそ、意義も効果もあると思います。
と――、よくもまあ、教育の専門家のくせに、こんな現実性のない空論が言えたものだ。
 確かに子ども自身が必要と感じ、自らの意志で取り組もうとする学習にこそ効果はあるが、子どもは、必ずしも親や社会が必要と考え、自らの意志で取り組んでもらえたらいいと考える課題を選び取るわけではない。

 ある子はゲームの攻略法を最も必要と感じ、別の子は“推し”の情報と追っかけの資金が必要である。さらに別の子はオンラインカジノで使う資金が何よりも必要なものであって、みなそれに向かって自らの意志で取り組もうとする
 最初の子は本やネットで攻略情報を集め、何百時間もかけて検証する。別の子は“推し”を追っかけて日本中を駆け回る。そしてさらに別の子はカジノ資金を集めるために秘匿性の高いSNSに慣れ、収益性の高い闇バイトの見分け方などに自らの意志で取り組もうとする。それで欲しいものが手に入るのだから、そうした学習の意義や効果は高い。

 だが算数や国語は、ゲームや“追っかけ”、カジノほどは楽しくない。それら学校の勉強の必要性がほんとうにわかるのは、大人になってからである。
「ああ、もっと勉強をしておけばよかったな」
 その日まで、親は黙って見守るしかないのだろうか――。
 もっとも記事はちゃっかり、
「本人の自主性に委ねるだけではうまく学びにつなげられない子どももいることを念頭に、最適解を探していくことになると思います」
などと逃げを打っているが――。

【なぜ親が丸つけや音読のチェックをしなくてはならないのか】

 これにはいくつかの理由がある。

1.学校に余裕がなくなった

 第一は、学校に丸づけや音読確認の余裕がなくなっているからだ。この場合、「教師が多忙」というのが最大の要因ではなく、影響があったのは時数の削減である。
 下は昭和33年と現行の学習指導要領に示された算数の授業時数を比較したものだが、見てわかる通り、高学年は年間で35時間も時数削減、割合にして20%も減らされたのである。

 どうして減らしたのか――ちょっとピンとない数字だが、これを、
「昭和時代には週6時間あった算数が週5時間に減らされた」
と言えば事情は理解できるだろう。学校五日制が始まって、210時間が175時間になったのである。

 学校は年間授業日数175日(35週)で行うという擬制の上に成り立っているため(週6時間×35週=210時間)だったのが、(週5時間×35週=175時間)に減ったのである。そして時数が減ったのに合わせて、内容も減らした(2002年完全実施の指導要領)。ところが社会の猛烈な「ゆとり批判」があって、指導要領改定の10年を待たずして、ほぼすべての内容が戻された。
 いわば、器が小さくなったので中身も減らしたカツ丼に、もういちど以前と同じ量のカツやご飯を入れたのだからあふれるのは当然だ。

 算数では「分かる」「できる」「すらすらできる」の三段階が重要とされるが、今や授業では「分かる」「できる」までがせいぜい。「すらすらできる」は家庭に任せるしかなくなったのである。

2.親に実情を見てもらう

 「お受験」が社会問題となったのは2回。バブル経済とぴったり重なる1986年(昭和61年)~1991年(平成3年)。そしてう「ゆとり教育」が親たちを恐怖に陥れた1999年(平成11年)~2008年(平成20年)だ。猫も杓子も「お受験」に向かう中で、とてもではないが受験に耐えられないような子まで追いやられてしまった。そして潰れた。
 原因のひとつは、明らかに親が子の実力を見誤っていたことにある。この子には「お受験」を乗り切るだけの能力がない――そう教師が言えば角が立つ。宿題の丸つけをする中で、自然に理解してもらうしかない。

3.子と親の向かい合う時間を確保する

 一日に一度、短時間でいいので親が子と向かい合う時間を持ってもらう。他のことを忘れ、その子だけのことを考える時間をつくってもらう。

 丸つけをする中で、「おや、この子、こんなところで間違えるんだ」とか「思ったより漢字、書けないんだな」とか気づき、「こんなことじゃ将来大変かな」と不安になったり「授業中つらい思いはしてないかな?」と心配したり。あるいは逆に「この子にはもう少し負荷をかけてもいいかな」とか「中学受験を勧めてみようか」とか、宿題の中から読み取れることを読み取ってもらう。

 親が子を誉めるきっかけにもしてもらう。
「おや、音読。この前よりすごくうまくなったじゃないか」
「あ、この漢字、前は間違えたやつ、書けるようになったね」

 特に仕事や家事で忙しい毎日のなか、子どもの勉強に付き合うのは決して簡単なことではありませんといった状況の親にこそ、時間を取ってもらわなくてはいけない。そのための丸つけ・音読評価なのだ。忙しいからできないというのは、本末転倒である。

【子どものために時間を使う】

 1980年代アメリカの伝説的殺人鬼ジェフリー・ダーマーの父親ダイオネル・ダーマーは数学者だったが、彼は「親の愛は計測できる」と言った。
「愛は自分の最も大切なものを、子どものためにどれだけ費やしたかによって測ることができる。現代人にとって最重要のものは“時間”だ。したがって親の愛は、子どものために費やした時間の総量で示すことができるのだ」(大意)

 丸つけや音読の評価のための10分、15分が我慢できない親たちは、どうやって自分の愛を証明するのだろう?

PTA役員になると誰でも、iPad Airが通常より8000円~1万7000円も安く買えるんだって!

(写真:ACフォト)

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ママ友に「PTA役員になるとiPadが1万円以上安く買える」と勧誘された!「学割のようなもの」と聞きましたが、PTA役員も対象なんですか? 意外と知らない“Appleの教育割引”とは
 (2026.05.08 FINANCIAL FIELD) 

financial-field.com

 Appleには、学生や教職員であれば通常よりも安い価格でMacやiPadなどの製品を購入できる、教育割引があります。この割引は、PTA役員として活動している保護者も対象になるのです。 本記事では、Appleの教育割引は通常価格と比べてどれくらい安くMacやiPadを買うことができるのか、どんな人が対象になるのか、教育割引を使って製品を購入する方法についても解説します。
 
 教育割引でiPadがいくら安くなるの?
 Appleには学生・教職員向けストアがあり、MacやiPadを割引価格で販売しています。例えば、iPad Airなら128GBの場合は通常より8000円安い9万800円から、1TBなら通常よりも1万7000円安い16万9800円からです。 教育割引はMacやiPhoneといった製品だけでなく、一部のアクセサリやAppleCare+の保証なども対象になるので、組み合わせによってはよりお得に購入できます。 教育割引を使うとAppleのギフトカードがもらえるなどのキャンペーンを開催しているときもあり、お得にApple製品を購入できるので、対象の人は教育割引を使って購入することをおすすめします。
 
 PTA役員は誰でも対象になるの?
 Appleの教育割引は大学生、高等専門学校および専門学校生とその両親、教育機関の教職員以外にも、PTA役員に選出された人と既にPTA役員として活動している人も対象となります。
(以下、略)

 全国各地で単位PTA(学校ごとのPTA組織)が潰れている。ほとんどの家庭が共稼ぎとなっている現在、PTAの仕事に時間やエネルギーを奪われるのはたまらん――というのが理由らしい。時代は変わった。それもいたしかたない。
 
 これまであったPTA作業やら研究会のお手伝いやらはボランティアにお願いし、PTA会費やバザーなどの収益をあてにしていた暖冷房費の不足分やその他の教育費は市町村にお願いして、それも不十分なら子どもに我慢させて凌げばいい。大したことではない。しかし保護者が正当に選んだ代表者=PTA会長を失って大丈夫だろうか?

【保護者代表はいなくてもいいのか、あんなヤツがなってもいいのか】

 学校のやり方に不満や不安のある場合、そのつど有志を募って交渉団を結成するのか、それで保護者の代表と言っていいのか。つまらんお調子者や物見高い一部の保護者が手をあげて、あるいはマスコミ関係者や政治色の強い人が代表となって学校をかき混ぜてもいいものか。
 重大な事故や事件が起きた時、誰が学校を監視するのか、誰が抗議に行くのか、誰が言質を取ってくるのか、誰が行政やマスコミに働きかけるのか――。

 一方、学校側にも困惑は広がる。PTA会長を失った学校で、校長は誰をたよりに学校運営を行っていけばいいのか。学校の周辺の環境整備を訴えるとき、校長はひとりで市町村に働きかけるのか、地域にお願いしたり、地域について教えてもらったりするのに、どこに行って誰と会えばいいのか――。
 もちろん地域には地域の代表者がいる。しかしその人たちが必ずしも協力的とは限らない。町会長や区長に頼んだところで膨大に仕事の増える話を、彼らが簡単に引き受けてくれるだろうか。そもそも町会長・区長の成り手だって少ないのだ。そのために町会の仕事も極力減らしてきたというのに、今さら学校PTAの仕事まで引き受けたら本末転倒だ。町内会まで解散の憂き目にあう――。

 大きな事件・事故が起きた場合、真っ先に駆けつける保護者代表がいないのは、一瞬、楽である。説明する相手が一人減る分、5分か10分の節約にはなる。しかしそのあとの保護者説明はどうするのか。毎日、一斉メールを更新して送り付けるのか、保護者たちから送り付けられる意見・質問メールに誰がいちいち答えていくのか。
 PTA会長のいた昔なら「会長に話してあります。すべて会長にお見せしています」で済むし、会長は「全部、私が承知している。任せてほしい。経過は一括して保護者説明会でお話しする」で済んだはずなのに――。

【ボランティア役員にも報酬は必要だ】

 というわけで、PTAはなくしてもPTA会長・三役あたりまではぜひとも残しておきたい。しかしほとんど役得のない今までのPTAでは役員の成り手もいない。かといって会費を集めて報酬というのも学校にはなじまないだろう。そこでアップルだ。

「PTA役員になるとiPadが1万円以上安く買える」
 すばらしいじゃないか。
「日本の学校教育のために汗を流し、時間と労力を犠牲にしてくれる人のために、アップルは最大限の協力をします」
 それも素晴らしい宣伝だ。
 PTA役員なんて全国に無限にいるわけではない。1割引き、2割引きで売ったって損はないだろう。全国の家電量販店やドラッグストア、外食チェーンなども追従すればいい。さらに制度を部活指導者などに広げれば、いっそうの宣伝効果がみられるはずだ。

 公共の学校に企業宣伝はなじまないと言っていられる時代ではない。公営の球場や体育館にだって企業名がついているではないか。
「PTA役員になるとiPadが1万円以上安く買える」
 さすが資本主義の牙城アメリカ合衆国の巨大企業、実に見事である。
 アップル! じゃなかった、アッパレ!

京都府の小学生殺人事件を機に子どもにGPSを持たせるかどうかが議論になっているという。しかし時代遅れでもいい。あんなものを持たせても犯罪抑止にはならない。持たせるなら子を殺す親の方だ。子どもにスマホまで渡して、ネット犯罪の餌食にすることはない。

(写真:フォトAC)

 

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「GPS機器の学校、持ち込み禁止は時代遅れ!?」子どもの安全をどう守る「監視はやりすぎ」と批判の声も

 (2026.05.01 CHANTO WEB)

chanto.jp.net

 京都府で小学6年生の児童が行方不明となり、その後遺体が発見された痛ましい事件は、犯人が逮捕された後も驚きをもって報じられています。子どもの安全を脅かす事件をきっかけに防犯意識が高まり「GPS機器」の重要性を指摘する人が増えるいっぽう、批判の声もあって──。防犯アドバイザー京師美佳さんにお話を伺います。
 
 ■GPS機器を学校に持たせるのはあり?なし?
 ── 先日遺体が見つかった京都府の事件で行方不明となっていた男の子の学校ではGPS機器の持ち込みが原則禁止とされていたようですね。GPS機器の携帯について文科省は2020年に「原則禁止だが条件付きで容認」という指針を示していますが、同様の対応をとる小・中学校は少なくありません。
 
 京師さん:教育関係者にお話を伺うなかで感じたのは、「まだまだ閉鎖的な学校が多い」ということでした。GPS機器には、録音機能やトーク機能がついているものもあり「記録されること」をよく思っていない関係者らは、防犯目的であれ、それらの所持には消極的でした。
 
 ですが、持っていること自体が誰かに迷惑かけるものでもありません。子どもたちの安全を守るためにGPS機器の使用については議論、見直しが必要だと感じています。
 
 ──保護者の約7割が小学校の入学までにGPS機器を含めた防犯グッズを持たせるか検討する、と聞きます。
 (以下、略)


【下品で方向違いの見出し】

 ある意味で、とても象徴的な表題である。
 特に学校批判を中心とした記事でもないのに、いかにも学校の非を打ち鳴らしているような一節。「GPS機器の学校、持ち込み禁止は時代遅れ!?」
 基本的に“子どもにGPS機器を持たせるべきだ”という内容なのに批判を恐れて『「監視はやりすぎ」と批判の声も』とバランスを取っておく――。
 多くの人たちに関わりがあって、それだけに不満の多い学校の批判は読者の食いつきもいい。しかしGPS機器を持たせるかどうかはおそらく賛否の分かれる問題で、一方に偏していると思われるとそっぽを向かれる心配があるから両論併記の形にしておこう――そんな下種な配慮の見られる安易な表題。

 さらに現在ニュースとしてもっとも熱量のある京都府の事件を入り口に置いて、
行方不明となっていた男の子の学校ではGPS機器の持ち込みが原則禁止とされていたようですね
 しかし被害に遭ったあの子の事件は、GPS機器を持っていたら防げたという話なのだろうか?

【GPSも、持たせればいいというものではない】

 「GPS・犯罪」と並べてまず思い出すのは、昨年の暮れ、水戸市でネイリストの女性が殺害された事件である。犯人は被害者の好きなキャラクタにGPSを仕込み、あたかも景品として当選したかのように装って実家に送ってそれが被害者の自宅に届き、住所特定につながった。GPSが加害者のために仕事をする。
 京都府の事件でも、仮に被害児童がGPSを持っていても、命を救うという意味では何の役にも立たなかっただけでなく、運よく逃げ出しても、義父に果てしなく追跡されるための発信機となった可能性さえあるのだ。機器は、それ自体が安全を保障するものではない。

 実際に誘拐を行おうとする者は真っ先に被害者の身体検査をするだろうし、ランドセルなどもできるだけ早く捨てるようにするだろう。運よく捨てられなかったとしても、現代は被害者を生かしたまま身代金交渉をするような時代ではない。
 GPSは遺体捜索には役立つかもしれないが、誘拐・殺人を防ぐには何の効果もない。むしろ持たせたことで大人たちが安心し、安全のために打つべき方策の、手が緩むことの方がよほど恐ろしい。

【結局、機械ではない。人間だ】

 2004年11月に起こった奈良小1女児殺害事件の被害者は、当時の1年生としては極めて珍しいことに携帯電話を持たされていた。GPS機能も付いていたが、犯人が極めて短時間で電源を切ってしまったために、追跡ができなかった。しかしその携帯は捨てられたわけでも電源が切られたままだったわけでもなかった。それは犯人によってたびたび電源が入れられ「娘はもらった」「妹にも注意しろ」といった脅迫文が送られたり、最後は被害者女児の遺体写真を送るのにも使われたのだ。母親はその写真をいきなり見せられた。
 結局、繰り返されたメール・電話などの解析結果が犯人特定につながったのだから、携帯はまったく役に立たなかったわけではないが、犯人逮捕は携帯を持たせた保護者の一番の願いだったのだろうか?
 実は女児が不審な男性の車に乗り込むところを目撃した人がいた。その証言によると、女児はいともあっさりと車に自分から乗り込んで行ったのである。のちに犯人自身の証言によっても、そのことは確認されている。
 つまるところ最後は人間なのだ。小学1年生にそこまでの対応が期待できない以上、大人が隙間を埋めなくてはならない。本気で心配するなら、子どもが一人になる時間を、限りなく減らしていくしかない。もちろん減らしたところで、親が加害者ではどうしようもないのだが。

【GPSがないばかりに誘拐されて殺される確率が――一番低い】

 現在、日本で発生する殺人事件のおよそ45%は家族間で行われるものである(2019年のように54.3%と「半数以上」を占めた年も確認されている)。そのうちおよそ三分の一(32%)が配偶者によるもので、さらに約三分の一(32%)は親が子を殺した例である(その他、子が加害者である例は17.5%、兄弟姉妹間11.9%、その他の親族6.5%となっている《2022年警察白書》)。

 こうなると単に数字上は、年に1件あるかないかという子どもを対象とした誘拐殺人事件を警戒してGPSを持たせるより、自身や配偶者にGPSを持たせて互いを監視し合った方が、子どもの安全のためにむしろ良いということになる。南丹市の事件はまさに恰好の例である。

 また、GPSを与えられて365日24時間監視され、寄り道もできず、道草も食えずに育つ子どもの行く末を考えたり、さらに進んでスマホまで与えられ、SNSで良からぬ人とつながったり依存症に陥ったりする子どものことを考えると、誘拐されて殺される危険性を引き受ける方が、よほどマシだと思うようになる。誘拐殺人事件の犠牲者になる確率なんて、数千万分の1もない。しかしスマホで犯罪に巻き込まれたりいじめになったりする子は、その何万倍も確率で存在するのだ。

 実際に私は、ふたりの子どもには高校生になるまで携帯を持たせなかった。もちろん孫たちについては、親の方針に口出しこそしないものの、先回りをして買ってやることなど絶対にない。その上で孫たちのいずれかが誘拐殺人の犠牲者になるとしたら、それはもうその子の運命というしかないのだ。

小学校で英語が必修になったおかげで中学生の英語の成績が下がったとしても、それは大した問題じゃないけど、一部の子にとって苦しいだけの学校生活になったのは、やはり可哀そうだよね。

(写真:フォトAC)

 

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「もう小学校で英語を教えないで…」中学校教師から悲痛な叫び、なぜ"早期教育化"が英語力低下の原因になるのか
(2026.04.21 東洋経済新聞)

toyokeizai.net

 

 INDEX
 小中学生の学力低下が問題になっているが、その中でも英語力の低下が著しい。文部科学省の経年変化分析調査で21年度と24年度の学力テストで平均点の低下を見ると、国語は12.7、数学は8、英語は22.9ポイント下がっている。
 
 小学校で英語が必修になったのになぜ
 これを見て疑問が生じるだろう。小学校で英語教育が必修となったのに、なぜ、英語力がほかの科目よりもさらに下がっているのか。
 
 今回は学校法人河合塾の英語科講師で小学校英語指導者資格も保有する杉本綾乃さんの話を交えつつ、見ていきたい。
 (以下略)

【看板に偽りさえない】

 とても分かりやすく的確な説明と見せて、実は何も分からない。
 羊頭狗肉と言うか華而不実と言うか、中身のあるようなないような話である。

 小学校英語と中学校以降の英語がまったく異なるものなら、中学校英語は全員がゼロからのスタートという意味で以前と何も変わっていないことになる。だったら成績は上がりも下がりもしないだろう。
 そうではなく、実は国語力の低下が原因と言うなら、まず国語の成績が大きく下がってあとから他の教科が横並びで下がって行かなくてはならない。しかしそうでもない。ならば国語力の低下は理由にはならない。
 宿題が減っているからと言うことであれば、漢字学習も計算ドリルも減って全面的な学力低下が始まっているはずだがそうでもないだろう。これも英語だけが大きく下がった理由を説明しない。

 しかし誰が考えても答えはもっと簡単なはずだ。変化の要因となったのが「小学校の英語必修化」で、結果が「英語力が下がった」のなら、因果関係は、
「小学校で英語教育が必修になったから、英語力が下がった」
のである。

【希望に満ちた昭和の中学校英語と現実】

 思えば小学生が英語なんか学習しなかった20世紀は幸せな時代だった。子ども時代に大きなやり直しの機会があったからだ。小学校のわずか6年間で国語も算数もすっかり差をつけられて取り戻しようもなくなってしまったが、中学校に入れば英語があって、全員ゼロからのスタートなのだ。たった1教科とはいえ、ここに巻き返しの機会がある。しかも英語は将来大学入試で1.5倍もの配点をされている特別な教科で、どんなに楽な大学入試でも英語がないというところはない。そんな最強の切り札が中学校に進むことで手に入る、なんと素晴らしいことか――と、これは私の発想ではない。受験マンガ『ドラゴン桜』の受け売りである。

 もちろんたいていの子どもにとってこの“逆転の切り札”はただの空手形で、ごく限られた“語学に才能のある特別な子”だけが恩恵に浴し、あとは“元の木阿弥”というのが多くの子の実際だった。小学校の成績が良かった子が、英語でも生き残っていくのが普通だ。けれどそれでも何の希望もなく中学校へ入ってくるよりはましだった。

 かくいう私も60年前、英語でリベンジしようとして失敗したクチである。あいにく中学入学の前に半年ほど、母の意向でアメリカ人宣教師の下で英語を学んでいたため、一日の長があると思い込んでむしろ失敗した。学校の授業が始まっていくらも経たない時に、”girl”を「ガール」と言えず、 習った通りのネイティブに近い発音をしたばかりに皆に笑われ(教科担任が一番笑った)傷つき、あとは奈落へ真っ逆さまに落ちたような英語人生となった。
 ただし奈落おちは外国語というごく狭い範囲で起こった話であって、人生全体が不幸だったわけではない。英語の成績が人生を決めるわけではなく、私には私なりの得意もあれば愉快もあって、以後、それなりにいい人生を送ってきた。

【A君とボクの平均点】

 さて、始めに言った、
「小学校で英語教育が必修になったから、英語力が下がった」
について、架空の二人、のちに外語大に進んだ友だちのAくんと私を例にして、模式的に説明してみたいと思う。まず昭和の時代のAくんと私の話だ。

 中学1年生のはじめ、私は英語学習の経験ありということで多少の有利さはあるにしても、読み書きという点ではほぼゼロで、A君と同格だった。一か月後、アルファベットを学習し終えたところでテストをすればおそらく二人とも100点のはずだ。

 2年後、いまなら全国学力学習状況調査を受けるころに、才能に恵まれ努力もよくするA君は相変わらず100点、私は60点に下がっていた。去年の4月は80点、今年さらに20点も下がったのだ。100点と60点でふたりの平均は80点。さらに一年近く経った高校受験の時期、私の英語は40点にまで落ちてA君と勝負にならなくなる。
 幸い同じ高校に進むことはないので、普通にやって入れば私が20 点、0点と取ることはない。A君の高校よりはずっと楽なテストで、多少の点は取らせてもらうことができる。しかし外語大に進んだA君とは、実質的には100点と0点ほど(外人と楽しく会話ができる人と外国人を避けて通る人)の差にはなっていたに違いない。

【授業はやればやるほど差がつく】

 ここで注意しておかなくてはならないのは、私は一貫して英語の点数を下げたが、英語力が下がったわけではないということだ。なにしろ中1の最初はゼロからのスタートだったわけだから、それに比べたらはるかに英語力はついた。街の看板の一部も読めるし、多少の意味も分かる。どうしても知りたい単語があったらどう調べればいいのか、それも分かるようになってきた。つまり私も英語力を伸ばした。ただ、A君がとんでもない速さで学力を高めていったために、私がついて行けなかっただけのことなのだ。
 この事実からわかるのは、「学校の勉強は、やればやるほど差がつく」ということである。その差が縮むことはない。これは学校教育の鉄則であって、差をなくそうとしたらできることは2つしかない。

 ひとつは最初から何も学ばせず、そのまま放置しておくこと。これだと「英語力ゼロ」で差はつかない。タリバン政権のアフガニスタンでは、女性がこうした目に会っている。
 もう一つはA君に勉強をさせず、私が追いつくまで待っていてもらう方法だ。しかしどうやったら待ってもらえるのか、それは誰にも分からない。

 もちろん私がA君の何倍も努力して勉強すれば追いつくかもしれないが、「才能があるから成績が伸びる、成績が伸びるから勉強が楽しくてしょうがない、楽しくてしょうがないからいくらでも学習できる」そんなA君に対して、「さっぱり覚えられない。覚えられないから楽しくない、楽しくないからただ苦しいだけ」そんな私が、何倍も勉強するなど、できるはずがないのだ。

【令和のA君とボク】

 2020年度から小学校の英語学習が、3・4年生は「外国語活動(年35単位時間)」、5・6年生が「教科(年70単位時間)」として必修化された。今年で7年目になる。そろそろ小学校英語の成果が出る時期である。そこで何が起こったか――簡単なことだ。
 学校における英語学習の出発点が、中1から小3へと4年分移動したわけだ。それに伴って、A君と私の学力差も4年分、前倒しになる。つまり昭和の私とA君の間で中学3年生の春(全国学力学習状況調査が実施されるとき)に起こったことが、令和では小学校5年生の春に起こるということだ。

 英語力ゼロで平等なのは小学校2年生の終わりまで。3年生になって英語学習が始まり、それが終わるころには100点と80点の差が生まれ、4年生の終了時に100点と60点の差が生じる。同じ割合で進むと6年生の初め、全国学力学習状況調査を受けるころには、理屈上、A君は100点のままだとしても、私は40点しか取れなくなってしまっている。中学校に入るときは100対20だ。
 もちろん小学校英語でそこまで大きな差はつかないだろうし、中1段階で先生たちが大いに手を入れる(だから「中学校教師から悲痛な叫び」となる)から、差は100対50くらいに抑えられるだろう。しかし昭和の私たちが全員ゼロからのスタートだったことを考えると、あまりにも差は大きい。

 昭和時代に80点だった中学校3年生春の二人の平均は、令和になると60点くらいになっている。英語学習を始めて3年目の昭和の中3と、英語学習7年目の令和の中3では、平均点が下がるのは当たり前だろう。A君のような優秀もテストでは相変わらず100点しか取れない(100点満点だから)のに対して、学力低位生の点数は下がる一方なのだから。
 これが、
なぜ"早期教育化"が英語力低下の原因になるのか
の本当の理由である。

【何の問題もない話――なのかどうか】

 だから平均点が下がったことにはほとんど問題はない。それどころか、かつて中高6年間しか勉強しなかった英語を、いまは10年間も学ぶのだ。上位生の英語力はとんでもなく高まるだろう。低位生だってまったく無駄ということもないだろう。4年間も余計にやれば英単語の50や100は余計に覚えるだろう。6年間で定着しなかった構文のいくつかも、身につかないとも限らない。大した成果ではないが英語学習中高6年制度の時代よりはマシだから我慢しよう。メデタシ、メデタシ。
――そうか?

 私は今、令和の子どもでなくて本当に良かったと思っている。
 私だって昔は努力をした。この記憶力に乏しい頭で、忘れても忘れても覚えようとした。その努力は大げさに言えば、転げ落ちる巨石を何度でも山頂に上げなければならないという罰を与えられたギリシャ神話の“シーシュポス”に匹敵するものだったとさえ言える。しかもそれだけやっても点数が上がらないのだから惨めだった。
 令和の低位生はそれをさらに4年も続けるのだ。そんな苦しみが4年も続くことに、私は耐えられない。
 また、今の子どもは、かりそめであっても私が感じたような“中学に上がったら英語で状況をひっくり返すぞ!”“やり直すぞ”といった希望や高揚感を持つことはできない。それどころか最初から英語が憂鬱な子どもだっている。

 かつては“部活”という要素もあって、英語が無理でもスポーツや芸術(吹奏楽や演劇)で事態をひっくり返そうという子もいた。しかしいまは部活そのものが学校にない。本当にスポーツや芸術が好きなら外部でやればいいようなものだが、多くの子どもたちの願いは、小学校時代まるっきり目立たず格好良くもなかった自分が、勉強や部活で輝いて、同級生や友だちを見返し、「すごい」「えらい」「カッコいい」と言われることなのだ。
 そういう子たちは、もう中学校進学になんの希望も見いだせない。

Demon Says】

「いや、それも違うだろう。まだヒーロー・ヒロインになる可能性はある」
 そんなささやきを、子どもの耳元で行う者がいる--。
「中学生になったら髪を染め、ピアスをつけて街に出よう。スマホひとつあればいろいろな冒険ができる。そしてその多くは“普通の中学が未経験のこと”で、“ちょっとした勇気がなければ近づけないこと”“親や教師との闘争を覚悟しなくてはできないこと”だ。“当たり前の、常識的な人生に見切りをつける”という意味でも、なかなか普通の中学生にはできることではない。それを敢えて行うのだから、喝采を送る同級生も出てくる。みんながスゴイ!と言ってくれる。これだったら今からでも遅くない」
 どんな悪魔がささやいているのか、見てみたいものである――? 

春休みの先生は死ぬほど忙しいと言われるが、「この程度のことだったの?」と馬鹿にされるような話が現職教員によって語られている。

(写真:フォトAC)

記事

 

「春休み、学校の先生は何してる?」新学期の準備に追われる“10日間の戦い”【現役教師に聞いた】

(2026.03.25 AllAboutニュース) 

news.allabout.co.jp

 2025年度が終わり、進級・進学の季節が近づいてきています。

家庭で新年度の準備が進む一方で、学校の先生たちはどのような春休みを過ごしているのでしょうか?
(中略)
◆掃除、新年度の教材準備、研修……1年で最も忙しい10日間
春休みは、3月の修了式を終えてから入学式までの約10日間(土日を除く)。私はこの10日間を前半、後半に分けて作業を進めています。

最初の5日間は教室と職員室の掃除です。1年間使った教室は、毎日子どもたちと掃除をしているとはいえ、思っている以上に汚れています。

(中略)
 例えば大型ディスプレイの裏、黒板の上などには意外とホコリがたまっているので、時間をかけてしっかりと掃除しています。靴箱やロッカーなどに貼られている名前シールもこのタイミングできれいにはがします。

「教室の掃除に5日間も?」と思われるかもしれませんが、次にその教室を使う先生と子どもたちに気持ちよく使ってもらうための大事な仕事です。

また、受け持つ学年が変わると職員室でも先生たちの席替えが発生するので、身の回りを整理・掃除します。

そして、後半の5日間で次の学年の準備に取り掛かります。
(以下略)

 とりあえず、この文をどう評価したらいいのか分からない。学校の様子は地方によってずいぶん違っているところがあるから大阪府では実際この通りなのかもしれないが、1年で最も忙しい10日間と小見出しにあって実際にはその半分の日数を教室と職員室の掃除に当てていると聞けば、普通の人だったら、
「これで1年で最も忙しい10日間なら、日ごろはどんだけヒマなんだ?」
ということになりかねない。実際にコメント欄にはそうした記述も来ている。ほんとうのところは大阪府の先生に訊いてみるしかないが、これといった知己がいるわけでもない。仕方がないので手持ちの情報で推し量れる分だけは考えてみよう。

【春休みは多忙と言っても3月中はほとんど仕事がない?】

 さて、今年の大阪府内の小学校の卒業式は小学校が3月18日(水)、中学校が3月13日(金)となっている*1。 そこから土日を含んで小学校は5日後、中学校は11日後の3月24日(火)が修了式(3学期末なので“終了式”という言い方になる)。在校生はその日まで授業があるので、卒業学年の担任以外は終了式のその日まで、いつもと変わらぬ日常が続く。

 入学式は大部分の小学校が7日(火)、中学校は3日(金)となっている。1学期始業式は小中ともに8日(水)*2
 したがって引用記事の中にある、
春休みは、3月の修了式を終えてから入学式までの約10日間(土日を除く)。
は今年の場合、3月25日(水)~4月6日(月)までということになる。3月中に土日が1日ずつ。4月も土日が1日ずつなので、3月も4月も勤務日はちょうど5日ずつだ。

 記事では、
私はこの10日間を前半、後半に分けて作業を進めています。/最初の5日間は教室と職員室の掃除です。
ということなので、簡単にまとめると3月中は掃除で費やして、4月に入ってからの5日間に、割愛した部分にある細かで雑多な仕事をするということなのだろう。

 単純に考えれば、新年度あれほどたくさんの仕事をするなら、3月中に手を付けておけば良いではないかということになるが、そうはいかない部分もある。新年度に転入してくる先生を差し置いて、勝手に教材や遠足先を決めるわけにもいかないし、自分のクラスの教室準備なども進めるわけにはいかない。学級担任を含めて校務分掌は4月1日に校長から委嘱されるもので、「その日まで分からない」といった建前があるからである。
 また実際に3月末に担任の急な変更があったり、学級数そのものが減ったり増えたりといったこともあるので、4月を待たないとできない仕事もたくさんあるのだ。
 しかし――3月中は、ほんとうに掃除以外にやることはないのか?

【3月中にやっておくべき仕事も山ほどあるだろう?】

 学級担任が誰になるかは分からない、あるいは分からない建前であっても、来年度の児童数は分かるはずだ。2年1組が何人で、2組が何人かということも、夏祭りの参加者ではないのだから分かっていなくてはならない。
 そうなると机やいすの数も合わせなくてはならない。旧2年1組は30名だったが新2年1組は35名だということになれば、5名分をどこからか持ってこなくてはならない。それって、新担任が近くの教室から勝手に持ってくればいいというものではないだろう。だれかが数を集計し、「どの教室からどの教室へ何台移送」といったふうに計画を示さなくてはならない。いつやるのか?

 教室で使う大型の三角定規だのの備品。きちんとそろっているかどうかは誰が確認し、誰が補充するのか。天井照明などの不備はいつも通り副校長や教頭に言えばいいのか? 春の副校長や教頭は死ぬほど忙しいぞ。4月を待って、新担任が自分で用意するというのも変ではないか。
 細かなところでは、入学式の大看板。傷んでいたら修繕しなくてはならないだろう。年度が「令和7年」のままになっていないか? 誰が、いつ、書き直すんだ? 新入生の教室の飾りつけも、式場の準備も、みんな4月のになってからでいいのか?

 引用記事では、
後半の5日間で次の学年の準備に取り掛かりますとあってやるべき仕事の中に、時間割、週案、学年だよりの作成があるが、担任がそれぞれつくる時間割、同じ曜日の同じ時間に、5クラス同時に理科室を使うようなことになったらどうするのだ? 理科室や家庭科室などの特別教室の使用は、予め係が割り振らないと進まない。それも4月に入ってからの仕事なのか? 

 そう考えると3月中にやっておかなくてはならない仕事は山ほどある。校務分掌の引継ぎ書類の整理、各種報告書の作成、指導要録(義務化されている児童生徒個人の記録)の記入や確認はどうするのだろう?

【大阪は特別だという話かもしれない】

 繰り返しになるが学校の様子は地域によってかなり違う。もしかしたら大阪の場合は、3月~4月に教育委員会から大量の人員が派遣されて年度収め・新年度始め仕事を代行してくれるとか、入学式・始業式をやった後に「年度始め休業」が10日間ほどあるとか、そんな事情があるのかもしれない。そうでなければ三月末の貴重な5日間を、掃除だけやって過ごしていられるはずがないのだ。

 大昔のことになるが一度、大阪からの転入生を受け入れたことがある。転出元の学校からは後日、指導要録の写しが送られていたが、私たちがコメ粒ほどの小さな文字でびっしり書き込んでいた何か所かの所見欄が、すべて「特記事項なし」のゴム印だったのには驚いた。
学校事務に対する基本的な考え方が違うのだ。
 今でも同じかどうかは分からないが、大阪に全国を代表させてはいけないのかもしれない。

【ちなみに】

春休みが教員にとって1年で最も忙しい10日間というのは、さすがに私でも正しくないと思う。敢えて言えば「夏休み・冬休みといった長期休業の中で、最も忙しい10日間」ということだろう。本当の忙しさは、4月から始まり大型連休まで続く。そのために私は、敢えて3月末には休みを取ることにしていた。

 今年ならさしずめ今日明日(3/28~3/29)二日間に土日出勤して、死ぬほど働いて仕事を終え、30日(月)・31日(火)と年休をとるわけだ。休日出勤手当があるわけでも代休があるわけでもないのに休日出勤して、10時間以上も働き、その分を振り替えて年休で体を休めるーー他の職種ではあまりないことかもしれないが。

「でもしか教師」が本当にいたかどうかは疑問だが、今は実在する。しかもそれはとんでもない人格者だ。彼らは言う。「今の状況で『どんなにブラック”でも”いい、それでも教員を目指す』と言えるのはボクら”しか”いないのだ」と。

(写真:フォトAC )

記事

 

教師採用倍率「2.9倍」の衝撃…乙武洋匡が語る“なり手不足”の本当の理由
(2026.03.11 日刊SPA!)

nikkan-spa.jp 
 教員のなり手不足が深刻だ。’24年度に実施された公立学校の教員採用試験の倍率は、2.9倍。前年度は3.2倍で、過去最低だった。’21年の調査で全国の公立学校での教員不足率は0.25%だったが、’25年5月時点では0.45%に。特に小学校では他の教員や管理職が代わりの仕事を務めるケースが多い
 
 作家の乙武洋匡氏は「教員不足の背景には、長時間労働と待遇のアンバランスがある」と指摘する(以下、乙武氏による寄稿)。
 
 「でもしか教師」が蘇る危機
 その昔、「でもしか教師」という言葉があった。教員不足により、「教師にでもなるか」「教師にしかなれない」といった不純な動機で教師を目指す人を揶揄するような言葉として使われていた。いつしか死語となった言葉が、蘇りかねない深刻な状況に陥っている。’25(’24年度実施)年度の教員採用試験の倍率は、過去最低の2.9倍。ついに3倍を切ってしまった。さらに深刻なのは小学校の採用倍率で、こちらも過去最低の2倍を記録している。「教育は国家の礎」とも言われるが、そんな礎を現場で支える人材が圧倒的に不足している。
 
 なぜ、若者は教師を目指さなくなったのか。大きくは2つある
 (以下、略)

 記事の割愛した部分を要約すると次のようになる。
『なぜ、若者は教師を目指さなくなったのか。理由のひとつは過酷な長時間労働、もう一つが労働に見合うだけの報酬が支払われていないことである。この状況下では再び「でもしか教師」が蘇りかねない。
 「今すべきこと」は誰の目から見ても明らかだ。仕事を減らすこと、そして今の仕事量に見合う給与を支払うこと』

【記事の質に問題がある】

 記事を読み終えて思わず日付を確認した。
 2026年3月11日。まさに今である。これが10年前、2016年の記事だったら私は乙武氏に深く傾倒したろうし、4年前の2022年であっても感謝くらいはした。しかし今は2026年だ。「教師の殺人的多忙」と「定額働かせ放題」は指摘すべき状況ではなく、判断の前提である。

 問題はすでに「仕事を減らせ」「残業代を出せ」から、「なぜ仕事は減らせないのか」「残業代を出せない状況でどんな工夫が可能か」といった段階の、さらにもうひとつ先に進もうとしている。それが今どき「教師は多忙です」「十分な報酬が出ていません」程度で記事になるのだから“SPA!”もぬるい。まさか温泉気分でこの業界を生き抜こうとしているわけでもないと思うが――。

 乙武氏の経歴を見ると「元杉並区小学校講師」「保育園理事」「東京都教育委員」。さらに作家、タレント、政治活動家、YouTuber。政治団体「ファーストの会」副代表、地域政党「都民ファーストの会」顧問と錚々たるものである。その教育・政治の専門家が、この程度の認識では困る。
 何度も落選しているとは言え選挙にも打って出ようという人なら、どうしたら教員の仕事を減らせるか、どこから残業代をひねり出すのか、具体的に示してほしいものだ。
 ――ということで、ことさら拾い上げてあれこれ言うほどの記事でもないが、一点、気になることがあったので触れておくことにした。
 それは『「でもしか教師」が蘇る危機』という見出しで書かれた部分である。

【「でもしか教師」に会ったこと、あるかい?】

 乙武氏にとって、「でもしか教師」は“低倍率の採用試験でようやく受かった能力の低い教師たち”ということのようだ。
 民間企業や公務員試験を悉く落ちてどこにも就職できない、教員試験だけは底の抜けた鍋のようなものだから頭が悪くてもコミュニケーションに問題があっても合格できる、仕方がない、「教師にでもなるか」「教師しかない」――。
 あるいは、
「公務員だから安定しているし給与もいい。教員なら長期休業もある。子ども相手の楽な仕事で、頑張らなくても気楽にできそう。いまなら受かるかもしれんし――」

 しかし私は「でもしか教師」というのは都市伝説ではないかと思っている。
 そもそも民間も官公庁も、つまり世の中全体の就職状況が厳しい時代に、教員だけが低倍率で入れ食い状態、などといったことがあるのだろうか。就職難の時代ならなおさら、公務員である教職にわずかでも空きがあればあっという間に埋まってしまう、それが道理というものだろう。実際に就職超氷河期は教員採用試験も厳しかった。

 この点は「でもしか先生」という言葉の生まれた1950年~1970年ごろの状況を調べても分かる。大雑把に言ってこの時期は、第一次ベビーブーマー(団塊の世代:1947~49年生まれ)が小学校に入学して高校を卒業するまでの期間で、小中高と順次、教員の数を増やさざるを得ない時代だった。したがって必然的に採用枠は広がり、試験は易化したということはある。しかし同時に、当時は高度経済成長期のまっただ中で、民間企業も官公庁も枠を広げて人材を奪い合っていた時代なのだ。教員試験も楽だったが民間や一般公務員の採用試験も楽だったという、今とよく似た状況だったのである。楽を求めるなら、ことさら教員でなくてもいい。待遇だったら教職よりはるかに良い職場はいくらでもあったはずだ。

【免許がなければ受験もできない】

 さらに「でもしか~」が都市伝説だと言えるのは、いやしくも採用試験は免許を持っている者だけが受けられるという点である。仮に乙武氏の言うような不純な動機で教師を目指す人がいたとしても、受験するには最初から教員養成大学に入るか、一般学部で卒業のための単位を取りながら教職科目を履修し試験を通過して単位を揃えるしかない。その上での教員採用試験なのだ。
 25(’24年度実施)年度の教員採用試験の倍率は、過去最低の2.9倍。(中略)さらに深刻なのは小学校の採用倍率で、こちらも過去最低の2倍を記録している。
と、大昔の10倍だの12倍だの(中学校社会科のような特定の教科に限れば30倍近い例もあった)に比べればはるかに緩いが、気軽に出かけてスパッと受かるというわけにもいかない。
 倍率2.9倍は合格率で計算すると34%。同じく専門に勉強してきた者だけが受験してその職に就く選抜試験――例えば司法試験の41.2%、医師国家試験の92.3%(どちらも2025年)と比べても遜色ないだろう。少なくとも合格率34%は馬鹿でも通る試験ではないのだ。

 昔の「でもしか教師」と言うのはおそらく外見上、いかにもやる気がなさそうに見える教員に対して、事情をよく知らない半可通が、嫉妬と軽蔑を交えてつくった言葉に違いない。
「どうせあいつは『教師にでもなるか』といった軽い気持ちで教員になった、教師しか務まらないようなヤツなんだろう」
 しかしナマ物を扱う学校の教師は、昔も今も、かなり難しいと同時に危険な職業でもあった。それにもかかわらず、免許を取るために教育実習に行ってもなお、「子ども相手の楽な仕事だ」と思っていられる学生がいたら、それはモンスター級の天才だからむしろ教師になっていただくのがありがたい。
 教職を「子ども相手の楽な仕事だ」と本気で信じている人がいたら、それは教育実習の経験も子育ての経験もない、子どもの教育に関して無知な人間に違いない。たとえ結婚して子どもがいても、その難しさをまったく分かっていない人はいくらでもいるのだ。

【現代のでもしか教師】

  では「でもしか教師」は本当にいないのか?
 繰り返すが、「でもしか教師」が話題となった1950年~1970年ごろ、他の就職が難しいから試験の楽な教員になるといった状況はなかった。教育実習を経て“教員が楽な仕事ではない”と知っている人だけが採用試験を受けている状況も今と変わりない。ただ、昔と今では決定的に異なっていることがいくつかある。

  • 総合的な学習の時間、小学校英語、プログラミング教育、特別の教科道徳、全国学力学習状況調査、教員評価・学校評価等々、昔はなかった仕事が大量に増えた。
  • その結果、給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)が成立した1971年(昭和46年)に月8時間と計算された(それが調整額4%の根拠)教員の残業時間は爆発的に増えて、現在は10倍の80時間を超える教師が、(厳しく削減したにもかかわらず)小学校で14.2%、中学校で36.6%もあるということ。
  •  精神疾患による休職者が7000人を超えており、中途退職も増え続けていること。
  • しかもその過酷さが世間に知れ渡り、今後も大きな改善が図れそうにない状況も明らかになってきたこと。

 それにもかかわらず教職に就こうという人たちが定員の2~3倍もいるのだ。日本の若者もなかなか捨てたものではないじゃないか。
 彼らこう考えているに違いないだ。
今の状況で、『どんなにブラック”でも”いい、それでも教員を目指す』と言えるのはボクら”しか”いないのだ
 現代の「でもしか教師」だ。