ここのところ急速に増えつつある不登校に関して、中教審は対面型一斉学習の見直し、同年齢同一学年の見直しなどを言い始めた。 どさくさに紛れてエリート養育を始めようという腹だ。

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(写真:フォトAC)

記事


不登校過去最多「授業の改善も急務」 末松文科相

(2021.11.02 日本教育新聞)

www.kyobun.co.jp
 不登校の増加に歯止めがかからない状況から、一斉授業を原則とする現在の学校制度の見直しを求める指摘が中教審などで出ていることについて、末松信介文科相は11月2日の閣議後会見で、「不登校児童生徒への支援については、スクールカウンセラーの拡充など、教育の相談体制の充実に取り組んできたが、授業の在り方の改善も急務と思う。制度の問題があるが、現場で対応できることもたくさんあると思う」と述べ、ICT活用と少人数学級の推進を軸として一人一人の子供に対応することで、不登校への支援につなげていく考えを示した。学校制度見直しの必要性については「あらゆる観点から常に考えていくことが大事。今はそこまでしか申し上げることはできない」と慎重姿勢を崩さなかった。

 末松文科相は、小中学校の不登校の児童生徒数が昨年度に過去最多の19万6127人となったことについて「憂慮すべき事態」と指摘。増加の背景を「児童生徒の休養の必要性を明示した教育の機会確保の趣旨が浸透した側面もあるが、コロナ禍での生活環境の変化によって生活のリズムが乱れやすい状況もあった」と説明した。
(中略)
 不登校の増加と学校教育については、10月28日の中教審初等中等教育分科会で、委員から「調査結果は深刻度を年々増している。対面、学年制をはじめ、同年齢の子供たちが同じ学びを共有するという、この学校制度モデル自体がひずみを生んでいる。新しい学校制度モデルを検討する段階に来ている」(貞廣斎子・千葉大教授)、「不登校の要因を見ると、学校が何らかの変化をしなければならないところが多い。これは今の学校に対する明確なフィードバックだと受け止めていい」(今村久美・認定NPOカタリバ代表理事)と、学校制度の見直しが必要との指摘が相次いだ。荒瀬克己分科会長(教職員支援機構理事長)も「本当に重要な課題。具体的にどういった学校の在り方が今の子供たちに必要なのか考えていかなければならない」と述べた。

 

【問題の所在】

 記事は要するに本質的・全面的な教育改革を求める中教審文科省の常設諮問会議)の過激な意見に対して、文科省が「いや、待て、今のままで何とかなる」と抑えにかかったという話である。
 それにしても中教審はすごい。

  • 対面、学年制をはじめ、同年齢の子供たちが同じ学びを共有するという、この学校制度モデル自体がひずみを生んでいる。新しい学校制度モデルを検討する段階に来ている
  • 具体的にどういった学校の在り方が今の子供たちに必要なのか考えていかなければならない

 20万人近くにも膨れ上がった不登校も問題だが、そのために950万人に及ぶ日本の小中学生の学びのあり方を、根本から変えようというのだから凄まじい話である。

 

【思いつきで今日の学校制度ができたわけではない】

 日本の教育は近代以降だけでも150年近い歴史をもつのだ。教育学は小さな改良を重ねて入れ替える「経験の学問」であって、研究室の実験の成果を現場に移す実験科学ではない。
 同年齢・同一地域の子どもたちを一か所に集めて対面で学ぶという学習のあり方は、先人たちがたゆまぬ努力と犠牲によって獲得したものである。それを否定する以上は、よほど確かな未来の学校像がなくてはならない。
 
 もちろん発言者である貞廣教授には、留年・飛び級と合わせてリモートによって全国のトップエリートが学びを共有する未来の学習といった見通しがあるのだろう。それならば現在の学習に倦んだエリートは生き生きと学び続けるだろう。
 残った子どもたちは自分の身の丈に合った学習を、気持ちよく行えばいい――しかし子どもたちは、勉強がわからないから学校に行きしぶっているだけなのだろうか?
 この機に無学年制(到達度別学級編成)を行おうというのは別件逮捕のようなものだ。本来の狙いは別のところにある。

 

文科省、逃げる】

 常に中教審の考えを尊重しなくてはならない文科省もさすがに腰が引けたと見えて、末松大臣も、
「あらゆる観点から常に考えていくことが大事。今はそこまでしか申し上げることはできない」と慎重姿勢を崩さなかった。
ということになる。しかしだからといって、
 制度の問題があるが、現場で対応できることもたくさんあると思う
はないだろう。
 不登校について、現場はもうできることはやりつくしており、疲弊しきっているのだ。
 
 文科省スクールカウンセラーの拡充など、教育の相談体制の充実に取り組んできたのは事実だが、そのカウンセラーがあざやかに問題を解決したという例を私は聞かない。そんなすばらしい方法があるなら、すでに全国に波及しているはずだとも思う。教師は勉強家で、しかも不登校解決の妙案を渇望しているのだから――。

 

【それはない!】

 大臣! あなたの、
「児童生徒の休養の必要性を明示した教育の機会確保の趣旨が浸透した側面もあるが、コロナ禍での生活環境の変化によって生活のリズムが乱れやすい状況もあった」
という説明は、ここのところの急激な不登校の増加を説明するのに、十分とは言わないが、かなり適切なものだ。それなのに、
ICT活用と少人数学級の推進を軸として一人一人の子供に対応することで、不登校への支援につなげていく
という頓珍漢!

 大臣、あなたは何も分かっていないわけではない。しかし正直な発言をしているわけでもないようだ。

 

 

「日本の中学校教師には暇がたっぷりある」という話が官僚から語られ、マス・メディアが追認するという恐ろしい新聞記事の話。そもそも中学校には小学校を応援する余力があるという考えはどこから来たのか。

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(写真:フォトAC)

記事

 

小学校の教科担任制「中学教員活用を」 財務省指摘

(2021.11.01 日本経済新聞

www.nikkei.com

 文部科学省が2022年度から公立小学校の高学年に本格導入する「教科担任制」について、財務省は1日、中学校の教員活用を求めた。小規模な中学校では教員1人当たりの授業時間が極端に少ないと指摘し、教員の定員増を目指す文科省をけん制した。

 教科担任制は教科ごとに決まった教員が教える仕組みで、文科省は22年度から小学5、6年生の「英語」「算数」「理科」「体育」を対象に本格導入を計画している。4年で8800人程度の教員増を見込み、22年度予算の概算要求では働き方改革に伴う定員増も含めて54億円(2475人増)を計上した。 

 財務省は同日の財政制度等審議会財務相の諮問機関)の歳出改革部会で、小中学校の教員の年間授業時間数はそれぞれ747時間、615時間といずれも米国や英国、フランスよりも少ないと説明。中学校では教員当たりの1週間の平均授業数が18.2コマに対し、1学年1学級の中学では平均11.6コマと「極端に少ない」として、小中連携による教科担任制の実現を求めた。

 小学校での英語必修化と異なり、教科担任制では年間の授業時間は増えないとも指摘した。学校内での教科担任の割り振りの工夫やオンラインを活用した学校間の連携などにも取り組めば、定員を増やさずに導入できる可能性があるとした。

(以下、略)

 

 

【日本の中学校の先生は、授業は少ないのに世界一働いている】

「日本の中学校の先生は、授業時数は少ないのに雑用が多くて、世界一働いているんですってね。たいへんですねェ」と言われ始めたのは、もう10年以上の前のことである。

 これには理由があって、OECDの調査「教員環境の国際比較:OECD国際教員指導環境調査(TALIS)」で、そのように報告されているからである。

 その2018版を見ると、日本の中学校教員の総労働時間は週平均58・6時間でダントツのトップ(2位はカザフスタンの48・8時間。OECDの全体平均は38・3時間だからその1・5倍近く働いていることになる)。しかし授業時間は週18・0時間でOECD平均の20・3時間よりも少なくなっているのである。

 

 では授業以外の何に時間を費やしているのかというと、諸外国に対して圧倒的に多いのが「一般的な事務作業(教師として行う連絡事務、書類作成その他の事務作業を含む)」の5・6時間(平均は2・7時間)。そこから、

「日本の中学校の先生は、授業時数は少ないのに雑用が多くて、世界一働いている」

という話が出てくるのだ。

 

 TALISの報告する授業時数、週18・0時間は60分換算なので50分授業に合わせると21・6授業時間である。別の言い方をすると日本の中学校教師は平均21・6コマを担当していることになる(*1)。

*1 1学年1学級の小規模校の、比較的授業時数の少ない社会科の教科担任、しかも学級担任をしていない(道徳や総合の授業がない)教師は週10コマがだから、そうした教員も含めての週平均21・6コマは妥当な数字といえる。

 ちなみにこれほどの小規模校となると、配当される教員は9名。校長・教頭を外すと教科担任は7名なので、技術家庭科・音楽・美術といった週1~2時間の教科担任は配置されない。地方自治体が講師で雇って数校かけ持ちにするか、複数免許を持つ教員が授業をかけも地にするかという選択になる。


 しかし週21・6コマは財務省の言う「18.2コマ」とだいぶ違う。18コマなら1日3時間担当の日が2日、4時間の日が3日で足りてしまう。つまり、空き時間が3時間もある日が1~2日、あとは毎日2時間空きなのだ。いくら平均でもそんなことがあり得るのか。

 

 週21時間だって控えめに過ぎる。学校5日制だからこれを割り振ると4時間授業の日が4日、5時間授業の日が1日。ほぼ毎日2時間の空き時間があることになる。いかに平均値とはいえ、ほとんどの中学校教員はそんな楽な仕事はしていないはずだ。

 

 

【欧米に比べると日本の教師は楽をしている・・・のか?】

 小中学校の教員の年間授業時間数はそれぞれ747時間、615時間といずれも米国や英国、フランスよりも少ない

 となるとさらに分からない。色々計算してみた(*2)が結局わからないので以下の点だけを指摘しておく。

  • たっぷり二か月間もの夏休みをとる英米の教員より、日本の教員の方が年間の授業時数が少ないというのはどういうことか。一般に英米の授業日数は日本より1割少ない180日というのが相場だが、日本よりも一割も少ない日数で日本を上回る時数を授業にあてている秘密はなにか。

  • 教育の国際比較では、対比できる教科のない場合は計算に含めないことがある。例えば、文科省「学校の授業時間に関する国際比較調査- 結果概要 -」には、はっきりと「(1)授業時間の定義/授業時間は,教科関連学習(道徳,宗教を含む)を対象。(特別活動,課外活動など)を除く )」とあり、「総合的な学習の時間」を含めて、他に類を見ない日本独自の学習は授業時間に含めないのが一般的である。
     部活動はもちろんだが、特別活動の排除は大きな問題である。というのは指導要領では年間に最低35時間やることになっている特別活動――実際には100時間以下であることは稀だからである。運動会や卒業式及びその練習、交通安全教室や避難訓練、遠足・宿泊行事を全部含めて、35時間に納めるなど絵空事である。

*2 学校は小中ともに年間200日もの登校日を持っている。引用部分の数値で計算すると、小学校教師は1日3・7時間、中学校教師は1日3時間しか仕事をしていないことになる。ただし747時間は授業時間ではなく60分換算かもしれないので、それを戻すと、小学校教師は1日4・98授業時間、中学校教師で1日3・69授業時間をやって終わりにしていることになる。

 中学校教師の授業時間についてはさまざまな形があるので一概に言えないが、小学校教師の場合はほとんどが1週間のすべての授業を学級担任が行っている。したがって1日5・8時間が原則だ。もちろん中規模以上の学校では音楽や理科に専科の教師のいる場合もあるが、それにしても平均1日5時間で済むというのは理解できない。

 

【数字で推し量れない現実】

 どういじっても理解できない数字をこれ以上いじっても真実は見えてこないだろう。それに数字が示す現実と、実際は必ずしも一致しない。 

 ここでは、

中学校では教員当たりの1週間の平均授業数が18.2コマに対し、1学年1学級の中学では平均11.6コマと「極端に少ない」として、小中連携による教科担任制の実現を求めた。

について、三つの側面から考えてみたい。

《小規模校の授業時間は偏在する》

 小規模中学校の現実を「平均」をあてに考えると、大きなミスを犯すことになる。というのは個々の教師の持ち時間がとんでもなくばらつくからである。

 

 多い方から言えば、最も授業数の多い外国語(英語)の教師は1~3年生まで週4時間ずつ、計12時間の教科指導をしなくてはならない。この教師が学級担任をしているとしたら、週1時間の「特別の教科道徳」、週2時間の「総合的な学習の時間」、週1時間ということにはなっているものの実際にはとんでもなく時間をかけている「特別活動」(とりあえず週1時間で計算しておく)、合わせて4時間超の授業時間が加算される。さらに学級担任でなければやらなくて済む「学級事務」もある。

 

 それに対して音楽科教諭で学級担任がない場合は、週にわずか3・3時間だけ授業をすればよいことになる。しかも1学年に生徒が10人しかいないような場合は、3学年一緒の授業にしてしまった方が指導としては合理的だ。したがって週1時間の授業ですんでしまう場合もある。

 

1学年1学級の中学では平均11.6コマと「極端に少ない」

の現実はこうだ。

 だから文科省が言っているように「英語」「算数」「理科」「体育」で小学校の教科担任制をやろうとすると、これらの教科の教員には学級担任を任せられないことになってしまう。教科担任とともに学級担任もしている教員に、小学校も見てやってくれとはとても言えない。学級担任は国語・社会・音楽・美術・技術・家庭の担当教師だけ――これで学校が回っていくのだろうか。

《小規模校の教師は授業以外で忙しい》

 中大規模校で週に5クラスも6クラスもの教科担任をする学校から、3クラスしかない学校に異動してきた教師が、一番当てが外れたと思うのは校務分掌である。とんでもない数の主任が来る。

 

 私はかつて計算したことがあるが、ひとつの学校で必要な係・委員・担当はおよそ60である。これは学校の規模を問わない。ウチは小規模校だから防災担当はいらないとか、教科書係はいらないとかいったことはないのだ。

 すると教員が60人もいるような大校では「一人一主任」で済むのに、1学年1学級、教員数7の学校では一人9役~10役ということになってしまう。

 実際には学級担任の負担を考えて主任の数を減らすので、他はひとり13役などといった人まで出てきて、それこそ朝から晩まで主任仕事をしていなくてならない場合も出てくる。

 運動会の基本計画とPTAのバザーの計画を同時に作成しながら、交通安全教室の警察の手配をするなど、荒業に挑戦する人も少なくない。

 まさに「小規模校、なめんなよ」である。

《小規模中学校の隣の小学校は小規模校》

 特殊な例を挙げて一般を撫で切りのするのは詭弁論理学の第一歩である。

 小規模中学校の教師に余裕があるからそれを使えと言われても、それは全体のごく一部にしか通用しない。そして一村一校のような小さな小中学校や小中併設校ではすでに行っていることであって、そんな古い方法を持ち出して概算要求を蹴られても困る。

 

 

【だが、しかし】

 ところで根本に戻って、記事は「小学校の教科担任制」を既定のものとして書いているが、それでいのだろうか?

 もちろん他の教師がやってきて授業を肩代わりしてくれれば小学校教師は楽だろうが、本質的な問題として、算数や理科は中学校の教師に任せればよりよく教えられるものだろうか? 中学の先生が使えなければ小学校内部で数学や体育の免許を持った教員を5・6年生に集中させるしかないのだが、そんな無理をしてまで、小学校の教科担任制は実現しなければならないものか――それが最大の疑問である。

 

週刊新潮によると、いよいよ来年度から高校で「ゆとり教育」が再開されるという――そんなバカなことがあるか? 誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がっていく――

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記事

22年春から「ゆとり教育」が再スタート 高校の指導要領に「総合的な探求の時間」が
週刊新潮 2021年10月21日号)

www.dailyshincho.jp

 

 生徒・児童の学力を奪い、文部行政最大の失敗作といわれた「ゆとり教育」が、看板を替えて再スタートする。文科省が2022年春から実施する高校の新指導要領に〈総合的な探究の時間〉という学習プログラムが盛り込まれるのだ。中身は、ゆとり教育を引き継いだものだ。

 文科省担当記者の解説。

ゆとり教育とは公式な呼び名ではなく、昔の詰め込み教育を否定した教育方針の総称です。02年から本格的に小中・高校で導入され、8~9年にわたって続けられました。たとえば、中学校では一般教科の授業が2割前後削られたのです」

 授業時間が短くなったことで円周率をはしょって「3」と教えたなどの逸話が残っているが(実際には3.14と教えていた)、代わりに登場したのが〈総合的な学習の時間〉だ。当時、文部省のスポークスマンとして、大臣官房審議官だった寺脇研氏が宣伝して回っていたアレである。ところが、同プログラムは教室をさらに混乱させた。

 

文科省は「ゆとり教育」を自画自賛

「〈総合的な学習の時間〉は、ゆとり教育の目玉。たとえば中学では70~130単位時間が必修とされたのですが、内容は教師の裁量に任されたため、何を教えてよいか分からないという事例が続発したのです」(同)

 例えば〈ドラえもんのハリボテ作り〉や〈アイドルのダンスの真似〉から、果ては〈東京タワーに登って景色を眺める〉、〈市内のお店の食べ歩き〉までが授業になったのである。結果、03年と06年に実施されたOECDの学習到達度調査(PISA)で、日本は大きく順位を落とした。いわゆる“PISAショック”である。

 その反省もあって08年の改訂版学習指導要領では〈総合的な学習の時間〉が、半分近く削られる。「脱ゆとり」の宣言には、さらに数年を要した。最近ではその名を聞くことも少なくなったが、〈総合的な学習の時間〉が無くなったわけではない。

(以下、略)

 

 今月26日の会見で小室圭・眞子ご夫妻は、否定的な報道やインターネット上の書き込みについて、

「誤った情報が、なぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がっていくことには、強い恐怖心を覚えました」

と語ったが、もはや一部の報道は“面白ければウソでも何でもいい”の時代に入っている。今回取り上げた週刊新潮の『22年春から「ゆとり教育」が再スタート 高校の指導要領に「総合的な探求の時間」が』にしても、これは調査不足というより扇動を意図したフェイク・ニュースである。これほど悪意に満ちた記事もそうはない。

 

 記事にちりばめられたウソをいちいち訂正するのも大人げないが、新潮が子どもじみたやりかたで仕掛けてくる以上、こちらも対応せざるを得ないだろう。

 

【「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間」を意図的に混同する】

 まず、新潮は「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間」をわざと混同している。

 22年春から「ゆとり教育」が再スタート

 そんなことはない。看板を替えて再スタートするのは「総合的な学習の時間」だ。「総合的な探究の時間」という名前に代えて中身を充実させるという話らしい(*1)

 

 確認しよう。

ゆとり教育」は学校五日制の完全実施に際して、全体の時数が大幅に減ることからそれに合わせて学習内容も減らした、教育課程全体のことをいう。

 時数を減らしたら内容も減らすのは当たり前で、ゆとりを生み出したいなら時数はそのままで内容を減らすか、逆に内容はそのままで時数を増やすしかないと思うのだが、なぜかそうならなかった。それだけではなく、記事にも出てくる寺脇審議官などは、

「内容を減らした以上、学校はすべての子どもたちにきちんとした学力をつけます」

などと吹聴して回ったから教師は苦しくなった。繰り返すが、内容を減らしても時数が減ってしまえば状態は変わらない。すべての子どもにきちんとした学力をつけるほどの余裕ができたわけではない。

 

 さらにそれだけでなく、寺脇審議官たちは「総合的な学習の時間」などというとんでもない置き土産を残した。これは文科省が児童生徒に“つける”と約束した問題解決能力を高めるための授業で、週3~4時間もの授業がいきなり学級担任に任されたため、いよいよ首が締まった――。

 現在でこそ週2時間だが(それでも多い)、日記を読んだり宿題を確認したりする時間が一気に吹っ飛び、それらは給食を食べながら行う仕事になった。

 

 教科書も指導書もない時間で、当時は「いよいよ担任の力量が試される時代が来た」などとマスコミにもてはやされたが、別に教師は力量など試してほしいとは思っていなかった。すでに十分に忙しかったからだ。そもそも大学で学ばず、採用試験でも問われたことのない力をどう発揮したらいいのか――。

 

 幸い「学力問題」騒ぎで「総合的な学習の時間」は週2時間に減らされたが、教科の学習内容は旧に復された。内容が元に戻ったからといって年間の時数まで戻ったわけではないので、教師はさらに苦しくなった。

 それが現状だ。

*1  高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説「総合的な探究の時間 編」(平成30年7月)

 

【総合的な学習の具体的内容を知らない】

 もう一度整理すると、

ゆとり教育」は学習内容を大きく減らした教育課程(カリキュラム)のこと、

「総合的な学習の時間」は児童生徒の問題解決能力をつけるために教師に与えられた自由な学習の時間のこと。

 

 引用記事で文科省担当記者が解説している部分は、「ゆとり教育」の説明としてはおおむね正しい。しかし「総合的な学習の時間」の説明は最悪だ。そもそも高校の「総合的な探究の時間」について話をしているのに、なぜ小中学校の「総合的な学習の時間」の内容が引き合いにされなくてはならないのか。しかもどういった活動が行われたのか、確認した様子もない。

 

 例えば〈ドラえもんのハリボテ作り〉や〈アイドルのダンスの真似〉から、果ては〈東京タワーに登って景色を眺める〉、〈市内のお店の食べ歩き〉までが授業になったのである。 

 たしかにありそうな話だ。私も〈ドラえもんのハリボテ作り〉には魅かれる。第一にこれは子どもたちが意欲を持ってやりたがるからだ。

 しかし、そもそもドラえもんのハリボテはつくっていいものだろうか? 著作権の問題はクリアできるのだろうか。できるとして、ハリボテというのはどういうふうにつくるのか。

 竹で芯をつくるとしてその竹はどこで手に入るのか、竹を割るというのはどういう作業なのか、割った竹はそのまま捻じ曲げてもいいものだろうか、竹と竹はどう接合するのか,紙はどうやって貼るのか、設計図は必要なのか、必要だとしてどう描くのか、そういえばハリボテの雄、青森のねぷたはどうやって作るのだろう、調べてみよう、試してみよう、やってみよう――それが問題解決能力を高める授業だと、教師は信じている(他に方法はあるか?)。

 

 何かをしようとすれば次々と問題が発生する、それを解決する能力が問題解決能力だ。その力をつけることが授業の目的であって、ハリボテをつくることやアイドルのダンスの忠実なコピーや、東京タワーに上ることが目的なわけではない。

 週刊新潮はそんなことも知らない。子どもたちはネット検索と電話取材だけで週刊誌の記事を書くような、安易な学習をしているわけではないのだ。

 

ゆとり教育は失敗だったのか】

 来年、令和4年度から高校の「総合的な学習の時間」は「総合的な探究の時間」に看板を替えて再スタートする。だからといって週刊新潮のタイトルにあるように「22年春から『ゆとり教育』が再スタート」するわけではない。高校の履修内容が大幅に減るなどという話はまったくない。それが事実だ。

 

 ところで文部行政最大の失敗作といわれた「ゆとり教育で育ったエンゼルス大谷翔平選手が今日(10月28日、日本時間29日)、大リーグの選手間投票で決まる「プレーヤーズ・チョイス賞」で、最高の栄誉にあたる「年間最優秀選手賞」と「ア・リーグ最優秀野手賞」をダブル受賞した。

 しかし週刊新潮の記者の目には、大谷翔平選手ですら失敗作にしか見えないのだろう。

 

(参考)

kite-cafe.hatenablog.com

 

「私が学校をよくした」と言えば政治家は票に結びつく。しかし現場を知らない人間の安易な発想は学校の首を絞める。さまざまな政治家が制度を入れ替える朝三暮四。しかしそのたびに学校は苦しくなるのだ。35人学級の軛(くびき)。

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(写真:フォトAC)

 

記事

35人以下学級 現場に悲鳴も 「きめ細かい指導」 喜ばしいが… 増えぬ教員、多忙に拍車
(2021.10.24 西日本新聞

www.nishinippon.co.jp


「福岡市の35人以下学級」

 「学校現場が大変なことになっています」。そんな声が福岡市立小の教員から、あなたの特命取材班に届いた。教員の長時間労働の深刻さはここ数年、全国各地で問題になっている。今回のケースは市が独自に導入した「35人以下学級」が関係しているという。現状を取材した。

 

 「クラスが増えても教員の増員はなし。そのしわ寄せは教職員に行っているんです」。意見を寄せてくれたリカさん(50代)は語気を強めた。

 市は昨年度まで、小学1~4年は一律、中学1年は学校側の選択で35人学級を実施。本年度は小中の全学年に拡大した。市教育委員会によると、コロナ対策を念頭に「密」の回避が目的だったという。

 クラスが増えれば、その分だけ学級担任が必要になる。市は追加採用はせずに特定の教科だけを担当したり、少人数指導をしたりする担任外教員を充てて対応することにした。

 

 担任をしない教員が減ることで何が起きるのか。リカさんの勤務校では1人の学級担任が病休に入ったことから問題が表面化した。

 昨年度はフルタイムで働く担任外教員が3人いたが、うち2人は本年度は担任になった。病休した人の代わりを任せようにも、残る1人も急な担当換えは難しい。結局、教科の年間計画作りを担う教務主任が学級担任になった。「35人学級の導入は喜ばしいが、クラスが増えた分の教員は配置してもらわないと困る。産休や育休も含めて担任が休みに入るとき、学校外からなり手を探してもすぐには見つからない」

 

 市教委によると、35人学級の拡大と児童生徒数の増加に伴い、今春に小学校は計136学級、中学校は計177学級増えた。担任外教員は小学校で137人減の計264人、中学校は36人減の計81人となった。

 2学期が始まった8月27日現在、小学校は計4人、中学校は計7人の教員の欠員が生じた。市教委教職員第1課は「教員が見つかり次第、速やかに配置したい」としている。

 

 小学校教員の男性(40代)の学校では昨年度まで重要単元は教員2人で授業をすることがあった。今春から担任外教員が減り、1人で授業をする。「きめ細やかな指導が難しくなった」

 ある小学校長は「本人の体調や家族の介護で外した方がいい人がいても、担任にせざるを得なかった。負担が大きいとつぶれてしまう懸念がある」と話す。

 

 教科担任制を採用する中学校の現状はどうなっているのだろうか。

 チエさん(40代)が担当する学年はクラスが一つ増え、週に受け持つ授業が3~4時間増加した。授業の準備やテストの採点に充てていた空き時間がなくなり、1日6時間が全て授業になった教員もいる。

 病休に入る教員もいたが、カバーできる同僚はゼロ。生徒はしばらく自習を続けた。それも限界となり、教頭が授業をしていた時期もあったという。

 「目の前のことでアップアップ。十分指導ができず、満足に話を聞けない状況になっている」。毎日声を掛けていた生徒と話をする余裕がなくなり、その生徒は一時教室に顔を出さなくなった。「本当に申し訳なかった」と自らを責める。

 

 ただ、取材班が聞いたような声は市教委に届いていないようだ。教職員第1課は「学校現場から聞こえてくるのは、35人学級を継続してほしいという声」と説明する。例えば、1学年に児童生徒が80人いるケース。40人学級では2クラスだったのが、35人学級では26~27人の3クラスになる。「担任の負担は減り、きめ細かな指導につながっている」と話す。
(以下、略)

 

 

 

【負担軽減という意味での35人学級は不合理だ】

 35人学級(1学級の児童生徒数を35人までと定めて教員配置をする制度)は教員の負担を軽減し、その分、児童生徒にきめ細かな指導のできる画期的な方法として長く期待されてきたものだ。しかしこれだけ教員が多忙になる中で、果たしてどこまで有効なのか、私は疑問に思っている。

 

 確かに、
 40人学級では2クラスだったのが、35人学級では26~27人の3クラスになる。
と聞けばすばらしい制度という気がしないわけではない。同じ計算で1学年1学級36人といった学校では、ふたつに割って18人の2クラスということになる。少なすぎて心配になるほどだ。

 

 しかし記事のモデルケースは36人~40人という過大学級を担任するごく少数の教員が、翌年も同じ学年を持った場合に生じるたった一度の奇跡である。ほかの学年、または学校に移ったら、そこには1学級35人もいたということになると、すばらしいはずの制度変更が、実は児童・生徒が4~5人減っただけ、ということになりかねない。そしてその方が可能性としては高いのだ。
 騙されてはいけない。教員全体としてみれば、「35に以下学級」は数字上も実際も、40人以下が35人以下になったというそれだけのことである。

 

 もちろん、たった4~5人でも軽減には違いないという考え方もある。通知票も指導要録も4~5枚少なくなり、学級だよりの印刷や配布も4~5人分減らすことができるからだ。
 しかし通知票や指導要録は年に数回書けばいいだけのものであり、学年だよりの大変さは印刷や配布ではなく原稿を作成することだ。
 負担軽減が目的なら、担任を二人にして、1・3学期の通知票は担任A、2学期の通知票と指導要録は担任B、学級だよりは交互に2週間おき、とする方がいい。これだったら仕事は二分の一になり、50人学級でもやっていける。

 

 

【人を増やさず35人学級を始めると負担は増す】

 35人以下学級というのはその程度の効果しかないのに、福岡市は教員を増やすことなくこれを果たすという暴挙に出た。「どんだけ現場を知らないのだ?」と驚くばかりである。
 おそらく決めた人は「少人数指導をしたりする担任外教員」が何であるかですら理解していないだろう。

 これは「(いわゆる)定数法」の枠内にない教員で、国が毎年政策的に配置する場合もあれば、都道府県あるいは市町村が独自の予算で配置する場合もある。もともと学校の負担を軽減するために配置したもので、それを35人学級のために使うというのは「あちらの軽減策をやめて、こちらの軽減策に代える」、いわば朝三暮四のような変更である。

 

 もちろんそれでより良い指導ができるようになるのならいいが、教師の負担増になるようでは本末転倒だ。記事にある、
 小学校教員の男性(40代)の学校では昨年度まで重要単元は教員2人で授業をすることがあった。今春から担任外教員が減り、1人で授業をする。「きめ細やかな指導が難しくなった」
 チエさん(40代)が担当する学年はクラスが一つ増え、週に受け持つ授業が3~4時間増加した。授業の準備やテストの採点に充てていた空き時間がなくなり、1日6時間が全て授業になった教員もいる。
などはその典型である。

 こうした事態が偶発的なものであればいいが、どう考えても必然的結果である。
ひとを増やさない「35人学級」は、きめの細かな指導をできなくする。

 

【政治家や行政はまったくわかっていない】

 それにしても、
ただ、取材班が聞いたような声は市教委に届いていないようだ。教職員第1課は「学校現場から聞こえてくるのは、35人学級を継続してほしいという声」と説明する。
とはどういうことだろう。

 

 おそらく、いったん始めたことは容易に戻せないのだ。言い始めた人のメンツにも業績にも関わるからである。それは誰か――。
 もちろん日常的に忙しい市教委職員ではない。役人は新しい仕事なんて好きではないし、お役所は動きの鈍いところだと昔から相場が決まっている。誰か学校のことをまったくわかっていない者が、人気取りのために発案して指示したものである。

 

 いずれにしろ、
コロナ対策を念頭に「密」の回避が目的
が本当なら、早晩、撤回されるから、それまでの我慢という話だろう――とは、実は思っていない。

 

「日本経済の活力を削いでいるのは個人主義の欠如のためであり、日本はその教育の在り方を考え直さなければいけない」というが、ジョブズやザッカーバーグを生み出したアメリカの個人主義は、トランプや非科学的トランプ信奉者も生み出してるじゃないか

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(写真:フォトAC)


記事

イェール大学名誉教授「アメリカの幼稚園で気づいた日本低迷の根本原因」 苦手を潰す日本と得意を伸ばす米国 
浜田 宏一 イェール大学名誉教授

プレジデント 2021年10月29日号)

president.jp

 

(途中から)

 

古い教育が日本人の活力を奪っている

 さて、ここまではいわば“個人主義の行きすぎ”の話であって、読者は、日本の教育は子どもや学生に自分勝手を許さないよう教育しているから安心だと受け止めるかもしれない。しかしながら、日本では、逆に個人主義の欠如が経済の活力をそいでいるというのが、実は本稿の強調したい点である。ワクチンがアメリカで先に開発されて、日本ではそうでないといった科学の進歩の差が、実は個人のインセンティブ不足に関係しているかもしれないのである。

 日本の教育の第一の特徴は、基礎的学力、特に記憶と計算能力の強調である。日本の技術が世界のフロンティアに近づいた今、記憶と計算だけでは前に進めない。漢字、人名や歴史を忘れても、スマートフォンが教えてくれるし、計算もスマートフォンがやってくれる。

 今の技術革新に大きく役立つのは、ITに代表される技術革新を前提としたところで、いかに多数の人々に利便を与えるようなネットワークのある構想ができて、それをビジネス化できるかである。アップル、アマゾン、グーグル、フェイスブックなどが多大の利益を得るのは、インターネットの存在を前提として、世界中に散らばっている隠れた需要と供給をうまく結びつける技術である。

 日本の教育の第二の特徴は、知識を学び理解するという情報摂取(インプット)に偏り、自らの発信(アウトプット)が限られていることである。明治以降に世界に追いつこうとした日本の経済発展の歴史に根づいているものであるが、お互いに意見を言い合って、その中から新しいヒントを得ることがフロンティア開発のためには不可欠である。

 個人主義と対比される日本の教育の第三の特徴は、画一的なところである。「不得意なところをなくせ」というのが、私の中学の校長先生の口癖だった。これに比べ娘の通った(ハーバード大の近くにある)幼稚園の園長さんは、入園式で「“子どもは一人ひとりそれぞれ違う”ということを理解するのが教育のはじめです」と入園式で述べた。

 したがって、有能な子どもには飛び級が許されたり、能力差に応じて特別のクラスを設けたりすることも、米国では当然である。

(以下略)

 

【話は米国の個人主義にも困ったものだというところから始まる】

 引用部分に先立って浜田名誉教授は次のように言っている。
 米国は個人主義の国である。
 したがってバイデン大統領のコロナワクチン義務付け方針に対しても、
 共和党支持者およびワクチンを受ける子どもの親などから強烈な反対運動が起こっている。
 自分の体は自分で面倒を見るというのが合衆国憲法に保障された人権だと反対派は言うのである。ウイルスの伝播を防ぐマスク着用の強制についても同様で、米国は個人主義の行きすぎと科学への無知から、多くの人命が失われている。

 また、
 今でも南部諸州を中心に共和党を地盤とする20数州の知事が、ワクチン接種の義務付けに反対
しており、
 米国では、科学的真理を認める人々と、いまだ影響力の強いトランプ前大統領が唱える“自分に都合のよい世界”を信じて科学を軽視する人々の間で、認識の対立が政治的対立につながっている
と紹介する。

 

 私の引用したのはそれに続く部分だ。ひとことで言えば個人主義には悪い面もあるが、日本経済の活力を削いでいるのはまさにその個人主義の欠如のためであり、日本はその教育の在り方を考え直さなければいけない」という内容である。しかし果たしてそうだろうか?

 

 

飛び級もあるが留年もある】

 学校教育は有機的なものであってあちらをいじってこちらが無傷というわけにはいかない。世界中の国々の教育の、良いところばかりを剥ぎ合わせてパッチワークのような制度を創り上げれば理想的な教育が出現するとは言えないのだ。

 

 例えば浜田教授は、
「有能な子どもには飛び級が許されたり、能力差に応じて特別のクラスを設けたりすることも、米国では当然である」
とおっしゃるが、有能な子どもに飛び級があるように、そうでない子に留年があることには触れていない。

 

 もちろん「子どもはそれぞれの能力に応じた教育を受ける権利がある」といえばその通りだが、現実問題として、よくわからない授業を2年も続けて受ける子どもの意欲を、維持するのは容易なことではない。留年した子どもに特別な教師や授業が与えられるわけでもない。
 実際、ほとんどの州で義務教育となっている高校の中退率が3割以上、非白人に限っていえば半数が高校生活をまっとうできていない。さまざまな理由があるにしても、学力の不足が大きな要因であることは容易に想像できるだろう。

 しかし低学力が去ったあとの教室は身軽である。必然的に義務教育修了者は一定水準以上ということになり、その中からハーバード大学やイェール大学といった超一流大へ進む者が出てくる。

 

 

【教育を憂える人々の一部は、エリートのことしか考えていない】

 これについてマイクロソフトビル・ゲイツは次のように語っている。
 アメリカ合衆国の生徒人口の内、2割は他国のトップ2割の優秀者たちと比較しても劣らない優秀な人たちで、ソフトウェアやバイオテクノロジー分野に革命をもたらしアメリカ合衆国を常に最前線に位置づけてきました。

(中略)

 経済界を見ても、現在、成功のチャンスは優れた教育を受けた者だけに与えられています。

 この傾向は、変えなければなりません。皆が公平にチャンスを得るよう変えることにより高度な教育を原動力とする分野においてアメリカを最先端に位置づけることができます。

www.ted.com(「TED2009 Bill Gates: Mosquitos, malaria and education」 日本語字幕は画面右下のボタンで切り替える)

 

 浜田教授もいう。
 今の技術革新に大きく役立つのは、ITに代表される技術革新を前提としたところで、いかに多数の人々に利便を与えるようなネットワークのある構想ができて、それをビジネス化できるかである。
 
 そんな素晴らしいネットワークが構想できてしかもビジネス化できるような(あるいはそうした集団の一員となれるような)優れた人材は、私が担任・教科担任として教えてきた4000人の児童生徒の中でも、おそらく数人だけだろう。
 この記述の前にある記憶と計算だけでは前に進めないという言い方の中にも、「記憶や計算がしっかりできるなんて当たり前だが」といった含みはないのだろうか?

 

 漢字、人名や歴史を忘れても、スマートフォンが教えてくれるし、計算もスマートフォンがやってくれる。
といっても、例えばスマホで「乖離」という漢字を調べようとするのは、日本語に「乖離」という言葉があることを知っていて、しかも使い方も分かった上で今まさに使用しようとしている者だけだ。スマホが計算をやってくれるといっても「(12+15)×(45-28)」ができるのは、カッコ内を先に足し引きするという計算ルールを身につけた人間だけである。
 そうした基本的な内容を身につけることは、それだけでも普通の子たちにとっては大変だ。

 

 浜田教授のように日本の教育を憂え批判する人たちの一部は、確実にエリートのことしか考えていない。

 

 

ジョブズザッカーバーグとトランプが手をつないでやってくる

 先に言ったように、
 学校教育は有機的なものであってあちらをいじってこちらが無事というわけには行かない。
 スティーブ・ジョブズやマーク・ザッパーバーグを生み出す教育は、ドナルド・トランプやその信奉者である “自分に都合のよい世界”を信じて科学を軽視する人々を生み出す教育と同じものである。ジョブズザッカーバーグだけが欲しいというわけにはいかないのだ。浜田教授はその部分がわかっていない。

 

 私たちにできるとしたら、日本を合衆国にするか、このまま微調整で進むか、あとは他に理想的な教育をしている国や地域を探し、それを丸ごと写し取るかだけであろう()。
*学力だけで言えば中国・韓国・台湾・シンガポールが手本となるが、「あんな厳しい受験競争はいらない、学力だけが欲しい」といっても無理な話だ。

 

緊急事態宣言下だというのに、一部の学校では「給食」という名の大規模会食会のために子どもを登校させている。学校は最低限、子どもに飯を食わせていればいい、教師の仕事は給仕だとみんなが思っている 。

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(写真:フォトAC )


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給食時間だけの登校OKも 学校の感染対策   

SankeiBiz 2021.09.17)

www.sankeibiz.jp 新型コロナウイルスの感染が子供にも広がる中、学校現場では給食の時間も対策が求められる。配膳の感染リスクを減らすため、パンと牛乳などの簡易な給食にする学校もあるが、保護者らからは「栄養が乏しい」「量が少ない」といった声も上がる。感染対策と、成長期の子供の栄養を両立させるため、学校関係者の試行錯誤が続いている。

 

会話せず黙々と

 東京都西東京市保谷(ほうや)第二小学校の2年2組の教室。16日午前、通常より早く給食の時間が始まった。この日のメニューはミートソーススパゲティと牛乳。廊下にはあらかじめお皿に盛られたスパゲティが並べられ、児童は受け取って自分の席に戻り、順に食事を始めた。全員が前を向いて無言で食べる。日直の「いただきます」の号令や、班で楽しくしゃべるような給食の風景はない。

 西東京市の小中学校では感染防止のため、6日から小学2年以上はオンライン授業を実施。ただ、給食の時間のみは登校を認め、学校で昼食を取れる。

 通常は午前の授業は4時間目までだが、オンライン授業実施期間中は3時間目で止め、4時間目は登校の時間に当てる。密を避けるためクラスを半分に分け、給食の時間を2部制とした。8~9割ほどの児童・生徒が給食を食べに登校しているという。

 市教育委員会の荒木忍・統括指導主事は「昼食を用意するのが難しい家庭もある。子供たちが困らないようにしたい」と話す。この取り組みを始めて1週間。子供からは「給食の時間だけでも友達や先生に会えると安心する」といった声もあるという。

(中略)

 一方、埼玉県戸田市でも厚木市と同様の簡易給食を3~10日に提供したが、簡易給食の写真がSNSで拡散され、市に「量が少なすぎる」「栄養が足りない」といった苦情が80件以上寄せられたという。

(以下、略)

 

【緊急事態宣言下の学校で大規模会食会――】

「不要不急の外食は避けよ」「会食は4人まで」「マスク会食の推奨」「テレワークの推奨」等々言われる時期に、

小学2年以上はオンライン授業を実施。ただ、給食の時間のみは登校を認め、学校で昼食を取れる

とは!

 いくら、

密を避けるためクラスを半分に分け、給食の時間を2部制とした。

とはいえ、さらに教師のやることだから感染対策はかなりがんばっているだろうにしても、

8~9割ほどの児童・生徒が給食を食べに登校しているという

状況では本気でクラスターの発生の心配をしなくてはならない。なぜこうまでして子どもに食わせなくてはいけないのか。

 

 こんなことをしているから、

学校の常識は世間の非常識

などと言われるのだ。

 

 しかも学校が独断でやっているわけではなく、市教委の指示らしいのだ。

 一方、記事にした産経新聞はよいところに目をつけながら、“市の指示による学校の大規模会食会”をまったく問題だと感じていない。それどころか、

「量が少なすぎる」「栄養が足りない」

などとお門違いの非難を載せている。

 まったく呆れたものだ。

「給食時間だけの登校OKも 学校の感染対対策」――給食登校が感染対策だというタイトルがどれほど惚けたものか、それにも気づいていないのだ。

 

 

【学校は教育機関ではなく、主な機能は給食サービスだったという証明】

 かつて「学校のスリム化」という言葉があった。その時やり玉に挙がったのが部活で、しかしどうしてもそれがなくせず、部活で争っているうちにエネルギーが切れで諦められてしまった。けれど仮に部活が整理できたとして、その先はどこまで“スリム化”するつもりだったのだろう?

 

 コロナ禍は図らずも答えを教えてくれた。学校が最後にひとつだけ残すとしら、それは給食なのだ。

「昼食を用意するのが難しい家庭もある。子供たちが困らないようにしたい」

 それがすべてである。

 

 表向きは「子どもの学びを守る」と言っているが、実際に守りたいのは“昼食の用意しなくて済む”という家庭の既得権である。それを守らなければ行政は非難の十字砲火にあい、緊急事態宣言下の給食投稿登校を批判すればマスメディアといえど再起不能なまでに炎上する。総選挙も近い、学校給食だけは止められない――。

 

 学校は教育機関ではなく給食サービスの機関である。そのことは、

 廊下にはあらかじめお皿に盛られたスパゲティが並べられ

と実際に準備したのが誰なのか、それを考えればわかることである。

 

大阪府で、緊急事態宣言下であるのも関わらず、府の要請に従わなかった教職員が775名も処分された。深夜まで残業をして、それから夕食に向かっても二人以上だと処分対象となる厳しさだが、それでも絶対にやるべきではなかった。

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(写真:フォトAC)

 

 

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大阪府・市教委が校長ら教職員775人処分 自粛要請中に多人数会食

(毎日新聞 2021.09.10)

mainichi.jp

 今春の歓送迎会シーズンに新型コロナウイルス対策として大阪府民に求めていた少人数会食などの自粛内容に反して会食していたとして、大阪府教委と大阪市教委は10日、校長7人を含む教職員計775人を処分したと発表した。

 処分されたのは、府が校長2人を含む453人、市が校長5人を含む322人。

 府教委によると、処分の内訳は、戒告2人(校長2人)▽厳重注意3人(教頭2人、事務長1人)▽所属長注意448人(教諭など440人、実習助手6人、主査2人)。

 市教委によると、戒告は校長5人と、市教委の指導主事(課長級)1人の計6人。316人は口頭注意とした。

 

 府・市は3月1日から4月上旬までの間に「5人以上」または「午後9時以降」の会食の自粛要請に反して職員同士で会食していたケースについて、教職員も含めて調査。7月には府・市職員計1474人が処分されている。

 

 

 学校を、児童生徒という立場から見たことのある人は多いが、組織内部の大人として見た経験のある人は少ない。また、一般企業とはかなり価値観の違う世界で、労働というものに関する考え方もあまりにも異なるので何かと誤解されやすい。それが学校だ。

 教師はあまりにも清廉で、だからこそ勘ぐられることも多く、間違った判断が横行する。

 私はそうした誤解や判断の間違いをできるだけ是正したいし、だからこそ多少わかりにくい事象に関しても首を突っ込み、できるだけ好意的に解釈しようとしてきた。しかしそんな私でも説明に窮することがある。今回の記事がまさにそれだ。

 

 

【あれはこういう時期だった】

 今春の歓送迎会シーズン、3~4月といえばまさに新型コロナウイルス感染拡大第4波の真っ最中。そのあと経験した第5波と比べれば、1日の新規感染者数も約四分の一と規模は小さく、大した波ではなかったように見えるが、当時は第3波をはるかに凌ぐ巨大な波になるのではないかと肝を冷やしたものである。

 さらに特徴的なのは、このときの感染拡大は首都圏以外で顕著で、近畿・北海道・愛知・福岡・沖縄などが急速に患者を増やし、特に大阪では初めて、重篤な患者が入院できない医療崩壊の状況が生れ、私たちを怯えさせた。そのまさに真っ最中に、大阪の教職員が会食をしていたのである。豪気にもほどがある。しかも7名もの校長が参加していたとは!

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【最大限、学校に寄せて考えればこうなる】

 と、ここまで嘆いておいて――、さて、どうせ私には現地まで行って事実究明をする力はないのだ。良い方にも悪い方にもいくらでも拡大解釈できる。だったらどこまで好意的に解釈できるか、一応、学校側に思いっきり寄せて、都合よく考えてみてみることにする。

 

 まず考えられるのは、これが飲酒を伴う会食だったかどうかという問題である。そう思って記事を読みなおすと、

 府・市は3月1日から4月上旬までの間に「5人以上」または「午後9時以降」の会食の自粛要請に反して職員同士で会食していたケースについて、教職員も含めて調査。

 つまり必ずしも飲酒をしていたとは限らない。単なる夕食会でもダメな場合があるのだ。

 

 例えば年度末、あるいは年度初めの忙しいさなか、夕食も食べずに仕事をしていた若手の教員が9時過ぎに切り上げて食事に行ったら、たとえ二人きりの食事でも「午後9時以降」の会食に該当。

 あるいは、私の勤務してきた学校では通常、新年度初日の昼は新任職員の歓迎も込めて、職員室や集会室で一堂に会して注文弁当を食べる昼食会が習わしだったが、これも、今やれば「5人以上」の「歓迎会」に違いない、アウト!

 

 処分された7人の校長はそれにも関わらず、校内で歓迎昼食会を開いて責任を取らされたのかもしれない。もちろん教育委員会や校長会では議論の上、こういった些末な事例にも細かく指示を出していたはずである。しかし当該の校長は何らかの事情で説明の会議を欠席した上に文書を精査し損ねたのだろう。あるいは単にボーっと生きているだけの人だっただけなのかもしれないが。

 

 遅くまで仕事をしてから夕食に行った若手教員も、それが「午後9時以降の会食」に当てはまるとは考えていなかった。しかしそうした迂闊さ自体が処罰されるべきだと言われれば、それもそうに違いない。

 

 

【果たしてそんな細かなことまで報告するだろうか】

 その上で、“大規模宴会を開いたわけでもないのに、教員はそうした具体的な会食会をいちいち報告するのか”という点が問題になるかもしれない。しかしこれはほぼ間違いなく、問われれば報告する。

 

 私は20km/hほどの速度超過で警察のお世話になった職員を連れて、教育員会(具体的には教育長)に謝罪に行ったことがある。そのとき市の担当者である課長が、ぼそっとこんなことを言った。

「黙っていれば分からないことを、この程度でいちいち報告してくる職員はいないよ」

 10年以上前の話で今は違うのかもしれないが、当時の私は、

「世の中、そうなっているんだ」

とつくづく感心したことを覚えている。

 

 

【道徳や倫理の問題ではない】

 緊急事態宣言下の会食、これは道徳や倫理の問題ではなく、危機管理の問題である。飲酒したかどうか、5人以上だったかどうか、あるいはマスク会食になっていたかどうか――それらは全部“どうでもいいこと”であって、疑われる可能性のある行為は一切してはならなかったはずだ。

 

 いったん処分が行われたら中身が精査されることはない。

「校長みずからの音頭で数十人の飲酒を伴う歓迎会が行われ、そこでは教員がマスクも付けずに飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをした」

 そんなうわさが広まっても訂正しようがない。そして学校運営あるいは学級運営は極めてやりにくくなる。そういった事態は絶対に避けなくてはならない。

 

 大阪市を含む大阪府内の小中学校・高校はおよそ1950、教職員は総数6万4千人ほどである。したがって処分された校長7名は280校にひとり、処分された教職員775名は全教職員の83名にひとり、1校について0・4人ほどにあたる。

 決して多い数とは言えないが、危機管理の点からすれば、限りなくゼロに近くなくてはならない数字である。

 

 大阪府下の教職員の猛省を望む。