「日本の教育がオワコンなのはわかったけど、だとしたらいったいどこの国の教育を手本にすればいいんだ!?」=「そんなの決まっているじゃないか! ネバーランドの教育だよ! ネバー・ラ・ン・ド!!」

(写真:フォトAC)

記事

 

「日本の学校教育」がオワコンと言える2つの理由 1学級40人なのは「従順な人間」を量産するため
(2023.03.18 東洋経済オンライン)

toyokeizai.net


さまざまな課題、指摘、問題点が噴出している日本の教育。「なぜ」「どのように」「何を」を考えず、新しい用語が飛び交い、その第一人者が現れては消えていくという現状に教育現場は疲れ切っている。日本の教育に欠けていることを、日本と海外の教育にくわしい千代田国際中学校校長の日野田直彦氏が、本当に学校で身につけるべきことや、ミライを担う人たちに向けてのメッセージをまとめた『東大よりも世界に近い学校』から一部抜粋、再構成してお届けします。

 

■いまの学校は限界だ
 はじめまして。日野田直彦です。現在は千代田国際中学校の校長をしています。その前は、公募で大阪府箕面高校の校長をしていました。公立学校では当時最年少の校長でした。偏差値50そこそこの「普通」の高校で、さまざまなチャレンジをした結果、生徒も先生も見違えるほど変わり、帰国生でなくても、海外経験がなくても、多くの生徒たちが海外に飛び立っていきました。

 さて、どうして私がこの本を書いたのか。いま教育を受けているみなさん、そして大切なお子さんに「よい教育」を受けさせたいと願っているみなさんに伝えたいことがあるからです。

 それは、ひと言でいえば、いまの学校は限界にきているということです。どうすればよいかわからず、迷走するばかりです。はっきりいって「オワコン」です。「終わったコンテンツ」ということです。とくに、私が中心的に取り組んでいる中等教育、つまり、中学と高校で6年もの時間をかけて行われる教育は極端にいえばムダになってしまっているということです。

 まず、いまの学校がオワコンな理由を説明しましょう。オワコンとは一時は流行したけれど時代に取り残されてしまったもののことです。

 いまの学校は、生徒のためにも、社会のためにも役に立っていません。弊害ですらあります。理由は簡単です。時代に合っていないからです。社会の変化にまったく追いつけていないのです。
(略)

ここまでの話を整理しておきましょう。ひと言でいえば、日本の社会が求める人材とそのための学校は、世界のそれとは大きなちがいがあるということです。

 日本人や日本社会が優れているのは、人々の能力が均質化しているところです。日本では読み書きや計算ができない人はほとんどいません。また、人々のモラルが高いのも誇れることです。しかし、自由はあまりありません。いまの日本の学校では、模擬試験の成績のよい生徒は育てられますが、リサーチやクリティカルシンキングの力を身につけさせる教育はできません。生徒は議論もあまりできないし主体性もありません。そのような学校には多様性(ダイバーシティ)もありません。

(略)

 日本の学校はいまだに、自己主張や主体性がなく従順で均質化した、平均的な能力をもつ人材を育てようとしています。つまり、知識やスキル、偏差値の重視です。しかし、世界はちがいます。世界が求めるのは、主体性があり、自由でクリティカルシンキングができ、多様性があり、それを受け入れられるオープンマインドをもつ人材です。世界の学校は、そのような人材を育てようとしています。マインドセットを重視しているのです。そしてなにより、世界の学校では生徒や学生に、「自分は何者か」に気づかせようとします。

 もう一つ、日本の学校に欠けているのは、生徒や先生の主体性とそれを育むための対話、対話を可能とする生徒と先生の人としての対等な関係、他者に大きな迷惑をかけないという前提の上で、生徒が「学校でなら、何に挑戦しても大丈夫」と思える心理的安全性です。

 

■日本と世界のいいとこ取りが最適解

 求められるのは、知識やスキルとともに、自主性、主体性といったマインドセットも重視し、生徒が安心してさまざまなことに挑戦できる学校です。つまり、日本と世界の「いいとこ取り」をするのが最適解なのです。

 にもかかわらず、日本の学校は、日本の社会でしか生きていけない人材をつくろうとしています。いまだに多くの親たちは「東大に行ったら将来安泰」「あそこに就職したら大丈夫」といった時代錯誤の思考停止状態に陥ったままで、その価値観を子どもたちに押しつけようとしています。受験に何がどのくらい必要であるかも理解せず、子どもに受験勉強を強いる大人が大勢います。有名な大学に入れさえすればあとは大丈夫と思っていてはダメなのです。そんな〝常識?は親からの呪い以外の何ものでもありません。

 それが、私が「学校はオワコンだ」と声を張り上げている理由です。

 「アメリカでは」「欧米では」などとやたらに海外を引き合いにして日本を貶める輩を、最近は「出羽守(ではのかみ)」と呼ぶのだそうで、たいていは引き合いに出された国に在住する日本人から「そんなことはない」と現実を突きつけられて大炎上、最後はアカウントごと削除になるのが通例だという、最近、ネットで読んだ。ネットから拾った話なのでこれも事実かどうかは分からないが、いかにもありそうな話ではある。さて、

【日本の教育はまったくダメだが優れているという謎の修辞】

 今回「東洋経済オンライン」から拾い上げた今回の記事も典型的な「出羽守」だと思うが、引き合いに出された「世界」が具体的にどこの国なのか分からないので検証すらできない。
 できないながらもどうやらその「世界」は主体性があり、自由でクリティカルシンキングができ、多様性があり、それを受け入れられるオープンマインドをもつ人材を求めているらしく「世界」の学校は、そのような人材を育てようとしているらしいということは分かってくる。
 それに対して本の学校はいまだに、自己主張や主体性がなく従順で均質化した、平均的な能力をもつ人材を育てようとしています。つまり、知識やスキル、偏差値の重視です。
日本と海外の教育にくわしい日野田直彦氏はおっしゃるのだが、ところがこの日野田氏、均質化はだめだ、知識やスキル・偏差値の重視はダメだと言いながら、その十数行前では、日本人や日本社会が優れているのは、人々の能力が均質化しているところです。日本では読み書きや計算ができない人はほとんどいません。また、人々のモラルが高いのも誇れることですとも言っているのだからわけが分からない。

【結局、どういう話なのだ】

中学と高校で6年もの時間をかけて行われる教育は極端にいえばムダになってしまっている
いまの学校は、生徒のためにも、社会のためにも役に立っていません。弊害ですらあります。
といった激しい教育批判の矛先は、ヘナヘナとあちこちにぶれまくり、最後に打ち出されるのが、
 求められるのは、知識やスキルとともに、自主性、主体性といったマインドセットも重視し、生徒が安心してさまざまなことに挑戦できる学校です。つまり、日本と世界の「いいとこ取り」をするのが最適解なのです。
という主張。
 え? 知識やスキル、偏差値の重視はダメだって言わなかった? 日本のいまの学校はオワコン生徒のためにも、社会のためにも役に立っていません。弊害ですらありますって言わなかった?

 結局、日本の教育はすばらしいがそれだけでは足りないから、自主性や主体性を重視する「世界」のやり方も取り入れ、さらなる高みを目指せ! 学校がんばれ! 先生、もっと働け! という話なのか?

【世界の良いところだけを集めて国ができるか?】

 だいたい教育に限らず、政治・経済・文化・その他すべての人間の営みは、世界の「いいとこ取り」をするのが最適解なのは当たり前だ。しかしそれらすべては有機的につながっているから、いいところだけを集めて再構成するなどいったことはできるはずがない
 教育に話を戻せば、すべての国民が、基本的な読み書きと計算ができて、スーパーに行っても数十点の買い物の総額を暗算で概算できる上、高い道徳心をもった日本人を育てる日本流の教育に、ディスカッションを中心とする自由な発言を重視するアメリカ流の教育と中国にみられるような統率された授業を展開し、政府などの権威に対しては一応抵抗するところから始めるフランス自由主義や、深刻に思いつめないラテン系の明るく楽しい教育とともに、北欧の単位制教科選択を大いに導入して自由な時間に登下校できるようにし、しかもドイツ流の半日学校で世界に通用する人材を育てる――そんなことができるはずがないだろ!
 ここはネバーランドか?

【日本の教育がまったくダメなことだけは分かった】

 さっぱりわけのわからない記事だが、中学と高校で6年もの時間をかけて行われる日本の教育が極端にいえばまったくムダになっていて、生徒のためにも社会のためにも役に立っていないばかりか、弊害ですらある、というそのことだけは印象に残る。
 先生たちには深く反省してもらわなければならないし、政府・文科省・各自治体も本気で教育の問題に取り組み、立て直してもらわなくてはならない、もっと教育の質を上げろ、学校を叩け!
 しかし教員の成り手もいない現在の学校を叩けばどういうことになるか、東洋経済オンラインの英傑なら分かりそうなものだ。それをなぜこんな不良記事を出すのか――。
 言うまでもなくそれはアクセス数を稼ぐためである。いわゆる“バズる”ためにはこのくらい刺激的な内容でないと生き残れないらしいのだ。

【会社が生き残るためなら日本なんてどうなってもかまわない】

 調べると東洋経済新報社は明治28年(1895年)の旬刊『東洋経済新報』をはじめとする経済誌の草分けで、現在の『週刊東洋経済』は『日経ビジネス』『週刊ダイヤモンド』に次ぐ第3位の発行部数を誇っているという。また『東洋経済オンライン』は日本最大級のビジネスニュースサイトのひとつで。月間ページビューが約2億PV、日本のビジネス誌系のWEBサイトとしてはPV数・ユニークユーザー数ともに1位である(Wikipedia)という。
 そんな老舗大手メディアがこんな飛ばしまがいの記事を流してもいいものだろうか、たとえ「『東大よりも世界に近い学校』から一部抜粋、再構成して」と自らに責任のないことを明示した後にしても、である。
 
「何よりも大事なのは会社の生き残りだ。東洋経済新報社が生き残るためなら日本なってどうなってもかまわない!」
 そんな編集部の声が聞こえてくる気がする。

 

愛知県では児童生徒が学校のお墨付きで休むことが奨励されるらしいけど、「ディズニーランドに行く場合は休んでいい学校に、嫌な授業があるときも行かなければならないのはなぜか」――この問いに対する答えが見つからないうちは、安易に子どもを休ませない方がいいよ。

(写真:フォトAC)

記事


「年3日」平日に学校休んでOK、愛知県が新年度から制度…家族での「ラーケーション」推進
(2023.03.16 読売新聞オンライン

www.yomiuri.co.jp

 愛知県は16日、公立学校の児童生徒が保護者の休みに合わせて、年3日まで平日に学校を休める「ラーケーションの日」を2023年度から導入すると発表した。週末や長期休暇以外にも家族で校外での学習活動などに出かけやすくなり、休日や観光需要の分散につなげる狙い。同県によると、全国初の取り組みという。

 ラーケーションは、ラーニング(学習)とバケーション(休暇)を組み合わせた造語。公立の小中高校と特別支援学校が対象で、家族と相談して事前に学校へ申請すれば、欠席扱いにしない。受けられなかった授業は、自習で補う。23年度の2学期以降、各校で順次導入する。

 休み方の改革に取り組む同県のプロジェクトの一環。土、日曜に働く保護者らが子供と触れ合う機会を確保し、有給休暇の取得も促す。大村秀章知事は「コロナ禍で働き方は変わった。コロナの出口が見えた今、休み方改革を進めたい」としている。

 マスメディアの扱いも好評だし、ネットニュースのコメント欄でもおおむね歓迎の声をもって迎えられている。しかし私にはよく分からないのだ。これまでだって学校を休んではいけないというルールがあったわけではないし罰則規定があったわけでもない。ネットニュースのコメント欄には“都会の私立中学・高校受験では2~3日の欠席も合否に関わるから学校は休めないのだ”という話が出ているが、それは受験制度の在り方が間違っているのであって、そちらの方を修正すべきと思う。
 それなのになぜ学校を休むのに公的なお墨付きを与えなくてはならないのだろう?

【学校を休むよう奨励することに何の意味があるのか】

 取り上げた読売新聞の記事から拾えば、

  1. 家族で校外での学習活動などに出かけやすくなり
  2. 休日や観光需要の分散
  3.  土、日曜に働く保護者らが子供と触れ合う機会を確保
  4. 有給休暇の取得も促す

ということだ。しかし家族で校外での学習活動など本気で取り組む家庭はそう多くはないし、仮にあったとしてもそこまで教育熱心な保護者なら学校を休ませたりはしない。あるいは万が一、皆既日食観測ツアーに当選したといった特別な事情のあったにしても、そんな家庭では休んだ分の学習は完璧に仕上げてくるから問題はない。

 困るのは家族で校外での学習活動の内容がディズニーランド体験やサッカー観戦、あるいは沖縄における水泳訓練や北海道スキー研修だったりする場合である。
 家族校外学習から戻ってきた子どもが、
「やっぱ月火のディズニーランドはすげーや、アトラクション全部乗れたぞ」
と自慢するのを、落ち着いた気持ちで聞くことのできる教員は少ないだろう。
 世の中には週日に休みを取って遊びに行くことが難しい保護者もいるのだ。信念として義務教育は休ませないと頑張っている保護者もいる。そもそも浦安に一泊二日で行って高額の入場料を払うことのできない家の子に、“週日なら安い”と吹き込むことになんの意味があるのか。

【受けられなかった授業は自習で補うが、できなくても先生が何とかしてくれる】

 さらに言えば「ラーケーションの日」は、教師にとってどういう意味を持つようになるのか。
 「受けられなかった授業は、自習で補う」と愛知県は言うが、実際問題として学習についてこられないようなら教師が面倒を見るしかないだろう。少なくともその子が休んだ分の学習をどこまで自習で補ってきているのか、確認する必要がでる。それだけでも負担だ。病気で休んだ子にもする仕事だが、病気の子と遊びに行ってきた子を同じように扱うのは心理的に難しい。
 さらに技術家庭科や美術の作品づくりなど、家に持ち帰ればかえって面倒になるものも少なくないし、数学の方程式の仕組みに関する部分が欠課になった場合、分からないことが出てきても「自習」のままでいいのだろうか。
 実は愛知県はそうしたことを承知で「受けられなかった授業は、自習で補う」と言っているのだ。先生が児童生徒を見捨てることなどないとよく知っているのである。学習の遅れには必ず手を差し伸べてくれる、大丈夫だ、ということだ。

【学校をいじることで、大人の事情を解消しようとするな】

 いま、教員の過剰労働が問題となり、教員不足が深刻な現状があるというのに、愛知県はなぜ教員の働き方改革に逆行するようなことを言い出したのか――。
 答えは簡単だ。要するに「休日や観光需要の分散」「有給休暇の取得」、つまり金儲けと地元の企業イメージのためである。

 ポストコロナでインバウンド需要の回復が見込まれる以上、放っておいても休日の観光需要は満杯になる。だとしたら残るのは週日である。日本人にはできれば週日に回ってもらいたい。
 しかし我が国の場合、放っておいたら人々は仕事を休んでまでも観光に出かけたりはしない。特に子どものいる家では学校を休ませての観光などありえない、だとしたら学校を休みややくすればいいだけのことだ――これが「ラーケーションの日」の基本理念である。
 私はそう考えただけでも虫唾が走るほどの激しい嫌悪を感じる。何がラーニング(学習)とバケーション(休暇)を組み合わせだ。どこにラーニングの要素があるのだ。単に誰かが金儲けをしたいだけじゃないか。

【悪行・弱い者いじめの歴史】

 政財界が社会を動かそうというとき、まず考えるのが、「できることから始めよう」。しかしこの言葉はしばしば「弱いところから叩こう」の意味で現実化される。学校がまず標的にされる。
 近いところから遡れば、
「国民からマスクを外させるための、卒業式の脱マスク」
「国民の危機意識を煽るための2020年3月全国一斉休校」
「国民の健康を守るための敷地内全面禁煙」
「対米公約の週休二日制を促進するための学校五日制」
「何を燃やしても発生する(という)猛毒ダイオキシン対策のための焼却炉撤去」
「余剰米消費のための米飯給食」
等々々・・・。
 もちろん中には良いものも必要なものもあるが、抵抗しないから学校からというのはクレーマーと同じ発想だ。

 脱マスクなんてまず国会が範を示せばいいのだ。議員たちが公の場で外したとなれば国民全体も安心して外そうとするに違いない。もちろんヤジを言いたい人は予め申請してマスクをつけたまま議場に入ってもいい。その方がいろいろな意味で分かりやすい。
 週日の観光業の活性化を望むなら、初めに政財界が休みを自由に取る仕組みを考えるべきだ。公務員が週日に自由に休みを取り、観光・販売業者が土日祭日に自由に休める環境づくり、学校はそれが終わってからでいい。

【保護者の皆さまに、ご忠告申し上げる】

 「学校はムリをしても、頑張って行くべきところだ」と私は思う。少なくとも子どもにそう教えておくことが、親にとっては安全な道だ。
 学校で学ぶべきことは大量で子ども同士の人間関係は激しく流動的である。よほど注意しないと三日行かないことで学習は遅れ始め、一週間行かないことで人間関係は変化してしまう。不登校の一部の子の「学校に行かない理由」はまさに「学校に行っていないから行かない」であり、「今さらどの面を下げて行けるのか」という問題である。
 
 もちろん学校教育に重きを置かず、自らの信念で子育てをしていこうという立場はある。そういう人たちまで巻き込む積もりもないが、普通の、あまりものごとを深刻に考えないタイプの保護者たちには言っておく。
「ディズニーランドに行く場合は休んでいい学校に、嫌な授業があるときも行かなければならないのはなぜか」
 この問いに対する有効な――子どもが納得し、進んで登校しようという気になる答えが見つからないうちは、安易に子どもを休ませない方がいい。
 学校は行かなければならないところ、職場も基本的にはいかなくてはならないところ、そういった固定概念から始めた方が、子も親も結局は楽なはずだ。もちろん例外はあるが、「学校も職場も、行きたくなければいかなくてもいい、他にやりたいことがあればそちらを優先してもいい」といった教育観・職業観から始めるのは、素人には荷が重い。
 小中学生には「赤信号は渡ってはいけない」と頑固に教えるべきで、最初から「止まるのが原則だが、状況によっては融通を効かせてもいい」と教えてはならないのと同じである。
 

 

生徒の心身の健全育成、教員の長時間労働の縮減を理由とした部活動の縮小や地域移行。いまのところ生徒や保護者から不満の声は聞こえてこないが、それはまだ本格的に始まっていないからだろう。ウチの子や私に少しでも不利になるなら、いつでも議員の動かして変えてやると、今は腕まくりをして見ているだけなのだ。

(写真:フォトAC)

記事


部活「上限2時間」延期 茨城県教委 新3年の引退まで

(2023.03.11 茨城新聞クロスアイ)

ibarakinews.jp

茨城県教委は10日、県内公立高校の部活動を「上限2時間」などと厳格化する時期を当初の4月から、今夏以降に延期すると発表した。新3年生が部活動を引退する時期までは、平日「2時間程度」などとした現行の運営方針で対応できる。公立中学・高校の部活動改革の一貫として、昨年12月に方針を改定したが、現場の混乱を避けるため、準備期間が必要と判断した。

現在の県部活動運営方針は、平日は「2時間程度」▽休日は「中学で3時間程度、高校で4時間程度」▽休養日は「中学で週2日以上、高校で週1日以上」-などと定めている。

県教委はこうした方針が順守されていないとして、生徒の心身の健全育成、教員の長時間労働の縮減を進めようと運営方針を改定。時間制限について「程度」から「上限」と表現を改めることで、国の方針より厳格化した。休養日も国の指針に沿い、高校で1日増やし、原則週2日以上に変更した。

新方針は4月に適用し、学校側には、活動実績を学校ホームページ(HP)で公表することを求めた。

これに対し、一部の生徒や保護者らが「私立の学校と練習量に差が出る」などとして反発。公表から適用までの期間も短く、「すでに練習試合や遠征の日程を組んでいる」「変更や準備が間に合わない」などとして、反対の声や混乱が広がっていた。

9日には、県議会会派のいばらき自民党が、新方針への移行期間を設けることなどを県教委に求めた。森作宜民・県教育長は8日の県議会一般質問で、「活動時間の長さは必ずしも競技力向上につながらない」などと説明していた。

県教委は10日、記者会見を開き、移行期間の設定は学校現場の混乱を避けるための判断と強調した。一方で、活動時間の実績を学校HPで公表する取り組みなどは予定通り実施すると説明した。

保健体育課の清水秀一課長は「(新たな部活動運営方針を)なし崩しにするつもりはない」として、猶予期間を設けた上で、新方針の運用を進める考えを示した。

【部活は最低でも、良質で無料の学童保育である】

 部活動とは何か――学習指導要領によるとそれは、
「スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するもの」
だそうだ。文科省的に言えば、あるいは理念的に言えばそうなる。しかし現実にはそれだけではない。

 例えば運動の飛び抜けて優れた子にとって、部活動は自己実現の場であり、遠大な進学・就職活動の一環であり、莫大な収入獲得への第一歩でもある。
 才能と努力によって手に入れた高い技能と成績は、勉強だけではとても望めない有名大学や有力企業への優先切符となる。親にしてみれば学習塾や予備校の授業料の代わりに、用具を購入し遠征費を出しているに過ぎない。向いている方向は「お受験」組と異なるが、夢をもって親子で取り組み、しかもできるなら最低でも投資分くらいは回収したいと思っているのも同じである。

 そこまでの技量がない子にとっても、部活動は有意義な場である。それは楽しみであり、生涯スポーツの基礎づくりであり、精神修養の場であるとともに青春そのものである。結局は諦めるにしても、一流のアスリートを夢見て努力した日々がまったくムダということもない。プロになるような才能のないことは、親も十分に承知の上で送り出している。したがって負担も、子の可能性と釣り合う程度のものでいい。

 そしてそれ以外の子どもたち――私と同じような運動も芸術も科学も人並み、あるいはそれ以下の人間たち、彼らにとっても部活は重要な場である。なぜなら放課後の居場所だからだ。
 部活がなかったら小学生と同じように友だちの家に遊びに行くか、近くの公園や遊び場に出かけるしかない。それも友だちのいる子の話で、いない子はひとりで家にいるしかなくなる。放課後に通うべき学習塾があるとか、生きがいをもって取り組んでいるお稽古事があるとか、子役としてのテレビの仕事がある子ならいいが、何もない子はとりあえず、何もない。
 
 部活に対するそうした子どもの姿勢の違いは、親の姿勢も規定する。
 優秀な中高生アスリートは保護者を「追っかけ」にする。その競技や楽器を極めることが子どもの輝かしい未来に繋がるかもしれないと思えば、親はいくらでも投資する。金も時間もエネルギーも。
 
 そこまでの逸材でなくても、我が子が夢中になって取り組んでいると思えば、たいていの保護者は応援を惜しまないものだ。
 そしてさらに残った“大して才能があるわけでも熱中しているわけでもないが嫌がらず部活に参加している子どもたち”、つまり放課後の居場所として利用している子どもたちの親にとっても、部活は重要な意味をもつ。そこは無料で良心的な学童保育だからだ。
 生徒指導的な不安を持つ保護者は、部活動がなくなって午後4時以降、アホな息子が家に籠るか街に繰り出しているか、どちらにしても落ち着かないことだろう。家に籠って銃の試作をされていても困る。
 
「部活動は最良の場合で子どもの自己実現の場、最低でも良質で無料の学童保育の場」
である。このことを意識しないで部活動の改革を行おうとすると、たいへんなことになる。

【今年度限りのことではない】

 今回の茨城のケースは部活動によって自己実現の可能性の見える生徒の保護者が、議員を動かして教育委員会の決定を一部くつがえしたものである。この場合の「保護者」はおそらく高校の、新三年生の親たちである。自分の子さえ私立に対抗できる十分な練習量を確保できれば、後は野となれ山となれである。もちろんそれを見ながら、新1年生や2年生の保護者たちはこれから動くことになる。
「ウチの子が在籍する間は、いまより練習時間は減らさないで――」
 普通の親ならそう考えるのが当たり前である。

 いくら教育長が「活動時間の長さは必ずしも競技力向上につながらない」と説明したところで、私立をはるかに上回るコーチ陣で指導を固めるというならまだしも、いままで通りで練習時間を減らされれば不安になるのは当然である。
 今年度そうであったように、来年度も再来年度も同じことが起こるに違いない。

【部活の地域移行は多くの保護者にとって苛酷なものになる】

 今のところ部活動の地域移動は、指導の質や活動の幅が広がる前提で話が進んでいる。
 土日に限って地域の専門家が指導に入り、彼らは専門家だから過剰な練習や体罰、勝利至上主義に走ることはない。競技力も飛躍的に高まるはずである――と、無言のうちに説明している。
 各地の先進私立校や研究指定校では、十分な予算をつけた上で土日の地域移行を実験的に行っている。地域のスポーツクラブやスポーツジムもそこに新たなビジネスチャンスの可能性を探って、無料でひとや機材を差し出している。しかし今後、すべての学校で地域移行が始まった時、同じ体制が拡充していくだろか。

 良心的なメディアは、そろそろ部活の地域移行に伴う保護者の負担増について語り始めた。しかしそれも「親たるものそのくらいは受忍しろ」という話ではなく、「公費で負担せよ」という方向だ。
 言っておくが教員を増やすための予算さえ出せない国や地方自治体が、土日の部活動のために膨大な資金をつぎ込んでくれることなど、研究指定以外では絶対にありえない。
 最悪の場合、保護者は毎回子どもの送り迎えを強いられ、用具や楽器の移送当番・お茶くみ当番で働かされ、さらにコーチへの謝礼・お弁当代なども用意しなくてはならなくなる。不熱心な指導者なら土日の片方だけで済むが、熱心で情熱溢れる指導者だと休日は全部、平日も「学校の部活が終わったら町の体育館に集まりなさい」といったことにもなりかねない。
しかしだからといって、やる気のない指導力にも欠けるコーチの方が楽でいいや、ということにもならないだろう。

【部活動の地域移行など軽く一蹴できる】

 部活動の地域移行、具体的な話になってからもずいぶん時がたったが、生徒や保護者の生の声が報道されることはほとんどない。いまのところはオイシイ話ばかりでデメリットが見えてこないからだろう。
 しかし今後さまざまな困難が見えてきたとき、今は何も言わず何も聞いてもらえない子どもや保護者たちが一斉に反発し、記事にあるように議員を動かし始めるだろう。議員は予算を握っているから教育委員会に対する圧力もハンパではない。

 例えば沖縄県では独自の予算で小学校1・2年生は30人学級、他は中学校3年生まですべて35人学級といった手厚い教員配置をしているが、それを「国基準の小学校4年生までは35人学級、それ以上は40人学級に戻すぞ」と脅されれば、教委などひとたまりもない。議員の無茶も大半は受け入れようということになる。

 部活動の地域移行の延期、教員の過剰負担解消の中止などもっとも受け入れやすい内容だ。文科省が「公表するぞ」「予算を減らすぞ」と脅しても、簡単に首を縦に振ることもできない状況がある。教委もほんとうに気の毒なことである。

いよいよ教員の給与改定が話題になり始めた。残業手当を創設するか、調整手当を大幅に増額するか、はたまた学級担任や部活顧問にはそれぞれ別の手当てを出すか――教員にはひどく喜ばしい話のようだが、しばし待て。そもそもこれは金の問題だったのか?

(写真:フォトAC)

記事

 

残業代支給か、調整額アップか、手当増か… 自民が教員給与改善案
(2023.02.22朝日新聞デジタル

www.asahi.com

 文部科学省が今年、公立学校教員の給与制度見直しの議論を本格化させるのを前に、自民党が三つの具体案を検討していることが分かった。自民党は今春、提言をまとめて政府に提出する方針で、文科省の制度設計に大きな影響を与えるとみられる。

(中略)

 党関係者によると、委員会では現在、三つの案が水面下で検討されている。一つ目は、給特法を廃止し、会社員と同じように時間に応じた残業代を支給するというものだ。

 二つ目は、給特法を維持しつつ、現在は基本給の4%となっている教職調整額を十数%まで引き上げるというもの。

 三つ目は、この二つの「折衷案」だ。給特法を維持し教職調整額については4%から数ポイント引き上げたうえで、学級担任や部活の顧問を務めたり、主任の職に就いたりしている教員に相応の手当を上積みする。

 文科省は今夏以降、中央教育審議会文科相の諮問機関)に給与体系の見直しを諮問するとみられ、自民党の提言が議論に大きな影響を与えそうだ。

【教員の給与改定がいよいよ話題になり始めた】

 教員の給与が増えるのは悪いことではない。
会社員と同じように時間に応じた残業代を支給する
のもいいし、
教職調整額を十数%まで引き上げる
のも悪くない。
 総合的な学習の時間やプログラミング学習、キャリア教育、小学校英語、部活動で首が締まっているのは基本的に学級担任や部活顧問なのだから、
学級担任や部活の顧問を務めたり、主任の職に就いたりしている教員に相応の手当を上積みする
のは何十年も前からあるべき施策だった。

 しかし実際にできるのか?
 
 昨年の連合総研の報告で2022年の6月、
 教員の1か月の労働時間は 293 時間 46 分に達し、月間所定労働時間の 170 時間 30 分(7 時間 45 分×6 月の勤務日数 22 日)を 123 時間 16 分上回っている。
という調査結果を発表した。その123時間16分全部に残業手当が出せるはずもないから「上限45時間」あるいは「上限20時間」くらいで切ろうとするだろうが、それで教師たちは納得するのだろうか。
 「残業を認めろ」「認めない」で副校長や教頭と一般職とのバトルが始まる。パワハラも逆ハラも起こる。仕方ないので妥協点として残業時間のデータの改ざんが始まる。それまで持ち帰りだった教師も無理をして学校に残るようになる・・・。
 こんなふうで持続可能な制度に育って行くのだろうか?

 

 だったら教職調整額を十数%まで引き上げる方が現実的と言えるが、それはそれで現在の長時間労働を双方で認め合うことになりかねない。平たく言えば、「十分払っているんだから我慢しろや!」である。管理職が言うのではない。社会全体がそれで納得してしまうのだ。
 学担や部活顧問、主任職などに特別な手当てを受けた場合も同じで、金で解決を図ろうとすれば、必ず問題が起こる。なぜなら教員の働き方改革の問題は、最初から金の問題ではなかったからである。

【聖人ぶっても結局はひとの子、金さえ渡せば教師も黙るだろう】

 働き方改革で教員側から金の問題が出たのは、給与が低すぎたからではない。給与なら十分とは言えないものの、公務員としてはむしろよい方である。

 さらに言えばもらったところで使う時間がない。土日も何らかの仕事をしている。家族サービスの時間も趣味の時間も、そもそも最初からなかったのだ。

 しかしそれにも関わらず金にこだわったのは、

  •  月に123時間以上も余計に働いて調整額が1万2000円ほど(基本給30万円の4%)にしかならないとしたら、単純計算で時給は100円。大学で専門の勉強をした教員が骨身を削ってやっている仕事が、高校生のアルバイトの十分の一くらいの価値しかないと計算される屈辱、惨めさ、それが一点。
  • 担任や顧問・主任は他より多くの仕事をしているから、その分は評価されるべきだという思い。
  • そして何より、残業手当を設けることで時間外労働に歯止めがかかるのではないかと期待したからである。

 しかしあさはかであった。月123時間16分を、45時間以下にする魔法の方法などないのだ。

 政府・自民党は教員を増やす気もなければ、学習内容を減らすこともまったく考えていない。いまの多忙と人手不足をそのままに、金さえ渡せば教師は黙ると踏んでいる。
 舐められたものだ。

小学校英語が始まって学習内容が前倒しになり、中学校英語が格段に難しくなった。そのためすでに英語嫌いになった子どもたちが中学校に入ってきて、英語でボロボロにされているという。こんな教育でいいのかという話だが、こんな教育でいいと、かつてみんなが言ったはずだ。

(写真:フォトAC)

記事


先生の英語がわからない…英語嫌いを増やすだけの「日本人教師に英語での授業を求める」という中学校の大混乱
(2023.02.15 プレジデントオンライン)

president.jp

日本の英語教育に異変が起きている。和歌山大学名誉教授の江利川春雄さんは「学習指導要領が変わり、学習する内容が大幅に増えたため、教師も生徒も疲弊している。これでは英語嫌いを増やすだけだ」という――。


■英語教育で生徒も教員もボロボロに

 「英語の学習を早期に諦めてしまう子どもが増えた。英語の教員が学校に出てこられず病休になった。日本の英語教育を何とかしないと生徒も教員もボロボロにされてしまう」(岐阜・小学校教員)
「これまでも持ち帰り仕事は大量にありましたが、とうとう4時台に起きるのが通例になりました。30年以上の教師生活で、今年度が群を抜いて一番大変です」(東京・中学校教員)

 これらは英語教員サークルのメーリングリストへの書き込みだ(2022年1月)。コロナ禍の2020(令和2)年度から実施された小学校学習指導要領によって、外国語が5・6年生で教科化され、読む・書く活動や成績評価も必要になった。中学2年で習っていた不定詞なども小学校に下ろされ、600~700語という過大な語彙(ごい)(新出単語)がノルマとされた。小学校段階で英語の成績が二極分化し、英語嫌いになって中学校に入る子どもが増えた。

 しわ寄せをもろに受けたのが中学校だ。時間数は週4時間のまま変わらないのに、語彙が従来の1200語程度から1600~1800語に増やされ、それに小学校での語彙が加算される。そのため、2021年度から中学生が接する語彙は2200~2500語にまで増やされ、旧課程の約2倍になった。

(中略)


■能力がある生徒は力がつくが…

----------
小さなアクティビティ(small talkミニゲーム、アイスブレイク等)をはさむ余裕がなくなった。代わりに急いで文法事項を進め、単元末のまとめアクティビティに力を入れている。生徒は気楽さが消えてしまい、成績に関わるアクティビティに疲れている子もいる。

できる子たちにとっては力がつく(難しい読み取りになれたり、難しいリスニングに挑戦してやりがいを感じたり)ような状況ですが、中学の早い段階でつまずいている子には「さっぱりわからない」と感じ、あきらめてしまうという格差が増大したように思います。
----------

 まさに、自民党教育再生実行本部が2013年に打ち出した「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」が学習指導要領を通じて学校現場に押し付けられ、格差と疲弊が広がっている様子がわかる。だが、トップ以外の普通の生徒たちはどうなるのか。ブラック企業のような無謀なノルマは教師も生徒も追い詰め、授業についていけない子や英語嫌いを大量に生みだすだけではないか。それでは子どもたちの英語力は逆に下がってしまう。
(以下、略)


【昔の学校】

 小学校は子どもの学校、中学校は大人として試されながら大人になるための学校――そう教えられて私は育ってきた。
 小学校は子どもの学校だから、卒業したときには大人の端くれくらいにはなっていなくてはいけない。ひとりで社会に放り出されても、死ぬことも絶望することもなく、何とか生き残るだけの技能を持っていなくてはならない。小学校で獲得しなくてはならないのは、生きていくうえでの最低限度の力である。
 
 それに対して、中学校は大人にあるための準備の学校である。だから子どもっぽい言動は許されない。あらゆる可能性が試され、一部は諦められていく、それが中学校である――と思い込んで、私は大人になり、教師でもあった。
 
 したがって昔の子は小学校卒業の段階で最低限でもいいから英語が話せるようにとか、コンピュータプログラミングができるようにとか、そういったことは期待されなかった。だから小学校の教育課程になかったのだ。

【現代の義務教育】

 しかし現代は違う。
 記事にあるとおり今や、
「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」
をすることが求められ、万骨枯るとも一将功なることが義務教育の目的となってきた。
 
 それは「先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助ける」という中国の先富論や「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が良くなる」というイギリスのトリクルダウン理論にも似て、要するに「頭のいいものが先頭集団を引っ張れば、そうでない者も引きずられて能力を高める」とか「世界はエリートたちが牽引するもであって、エリートを十分に育てることによってそれ以外の者たちの経済発展や幸福は保証される」と為政者たちが本気で思い始めたかのようである。

【当事者たちは反対しない】

 それにしてもエリートなんて子どもたちの中に、一握りどころか一摘まみもいない。そんなごく一部のために我が子が犠牲になることに、なぜ人々は反対しないのか――。
 これについては綾小路きみまろが、自分の漫談スタイルについて語った内容が関係している。彼は「お年寄りをあそこまでけなして、なぜ嫌われないのか」と問われてこう答えたのである。
「みんな、自分のことだとは思っていない」

 困ったことに親たちは、義務教育の中でも行われるようになったエリート教育が我が子も伸ばしてくれると思い込んでいるのである。大半の保護者は“ウチの子はエリート”だなどとは思っていないが、それでも小学校からの英語教育やプログラミング学習は役に立つと思い込んでいるのだ。
 我が子が頭のいい子たちに置いて行かれ、分けの分からなくなった授業を延々と受けさせられるとか、楽しそうにやっているプログラミング学習もただ楽しく遊んで終わりという可能性にも、まるで気づいていないのである。

【誰のための学習か――という循環論法】

 私は早くから始める英語教育やプログラミング学習は無意味だと思っている。中学校はあらゆる可能性が試され一部は諦められていく場だからいろいろ学ぶのもいいが、小学校は最低限の知識・技能・生きる力を育む場所である。そんなところで英語やプログラミングをやる必要なない。大人になってから全員が必要な知識・技能ではないからだ。

 英語に限らず、自動翻訳機の発達した将来は、街々の商店やレストランで従業員が外国語を気軽に使って話しているだろう。ただし彼の職場に必要な外国語限定で――。
 それぞれの職種で必要な外国語なんてタカが知れている。日本語を吹き込むたびに翻訳機が同じ言葉を反すなら、その外国語はすぐに覚えられ、使われるようになるだろう。中国人の客が多い店では従業員があっという間に中国語を覚え、スペイン語やフランス語を得意とする店の店員も増えて来るだろう。ウクライナ戦争がどうのこうの大谷翔平がどうのこうのと話す必要はないのだ。その店で必要な会話ができればいいのだから。
 同様に、コンピュータ自身がプログラミングをする時代が目の前に来ているというのに、一般人がプログラミング学習をする必要もない。普通の人間はほとんどの場合、コンピュータ以上の仕事ができることはないからだ。
 
 失礼、文章自体がとんだ循環論法に陥ってしまった。「なぜ十数年で陳腐化する英語やプログラミングを学ばなくてはならないのか――つまるところそれはエリートを育てるためだ」というのは前提であった。

 引用した記事の江利川教授も同様で、
ブラック企業のような無謀なノルマは教師も生徒も追い詰め、授業についていけない子や英語嫌いを大量に生みだすだけではないか。それでは子どもたちの英語力は逆に下がってしまう」
などとおっしゃるが、現在の英語教育への変更は、別に子ども全体の英語力を高めるためのものではないと教授自身がおっしゃったばかりではないか。

政治家たちが急に子どもたちに優しくなって、卒様式や入学式でマスクの使用を心配し始めた。だが真意はG7や観光需要を見越したウィズコロナ、ノーマスク達成にあるに違いない。しかしもう子どものダシに使うのはやめてほしい。ノーマスクはまず政治家たちが一斉に議事堂でやって見せればいいだけのこと。国民はそれで安心するはずだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

卒業式や入学式でのマスク着用 推奨しないことを検討 政府
(2023.02.03 NHK)

www3.nhk.or.jp

新型コロナ対策としてのマスク着用をめぐり、政府は卒業式や入学式では感染リスクは高くないとして、着用を推奨しないことなどを検討していて、専門家の意見も聞いたうえで、今月中のできるだけ早い時期に結論を得たい考えです。

政府は、新型コロナの感染症法上の位置づけを5月8日に、季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行するのを見据え、マスクの着用を個人の判断に委ねることを基本とするよう見直す方針で、与野党双方からは、卒業シーズンを控え、学校現場では先行してルールを緩和するよう求める意見が出ています。

こうした中、政府は卒業式や入学式では式典中に継続的に会話が行われる状況が想定されず、体育館などは換気をしやすいことなどから、感染リスクは高くはないとして、一定の感染対策を講じることを条件に、マスクの着用を推奨しないことを検討しています。
(以下、略)

 

【この国の「できることから始めよう」は「弱いところ(学校)から叩け」】

 昨年秋より「給食中の黙食、つらいよねぇ」とか「卒業式の日くらいは最後に友だちとマスクなしの会話したいよねぇ」とか、日ごろは票に繋がりやすい高齢者にばかり目の向いている政治家たちが、妙な猫撫で声で小中学生に近づいてくる。かなり怪しい状況だ。

 来たるべきG7広島サミットに向けて、あるいは夏の観光シーズンに向けてマスクのない日本を演出しようとやっきになっているのかもしれないが、それにしてもノーマスクを学校から始める、でいいのか? 
 この国の「できることから始めよう」は「弱いところから叩け」と同義であって、もっとも狙われやすいのが学校である。
 これまでなんど学校が改革の生贄にされてきたことか、思い出せば枚挙に暇がない。

【「叩かれる」の歴史】

 例えば学校五日制がそうだ。
 1990年代初頭、日米貿易摩擦から日本がアメリカにすり寄って労働者の週休二日制を促進すると約束したのにさっぱり進まないといった事態があった。企業にすれば収益が上がり、給料が上がって労働者も気持ちよく働いているのに、敢えて週休二日にする意味が分からなかったのだ。事態に悩んだ政府はそれまで五日半あった学校の授業を五日に減らし、土曜日の児童生徒を無理やり家庭に送り返すという強硬手段に訴えた。
 文科省に任せていたらいつになるか分からないので、政府主導でいきなり年度途中の9月12日(1992年)を最初として、毎月第二土曜日を休日にしてしまったのである。
 学習指導要領の改正も待たず、学習内容はそのままの突然の土曜休に、週休二日制を要求の柱にしていた日教組でさえ時期尚早と止めたくらいだった。しかし始まってしまった。
 実際、月一回とは言えその影響は大きく、特にパート労働の主婦たちが一斉に職場を異動することによって、社会の週休二日制は一気に進むことになった。
 そして政府も学んだ。
 何か大きな社会変革を起こすには、まず学校をいじればよいのだと。

 

 国歌の普及もそうだった。
 1999年8月9日、「君が代」は正式に日本の国歌となった。国歌となった以上は入学式や卒業式で歌うのは当然だ。しかし起立しなかったり歌わなかったりした教師が処分されたのはいかがなものか、同じことを千秋楽の国技館で、一般の観衆がおこなったらどういう処分が下されたのか――。
 繰り返すが私は国歌に反対するのではない。国の統一ということを考えれば子どものころから親しんでおくことは必要だろう。しかし学校の前に、なぜ国会の開会式で「君が代」を歌うようにしなかったのか。毎日歌えと言っているのではない。年にたった1回、天皇陛下をお迎えするそのときだけでいいのに、それさえもしないのはなぜかということだ。年端の行かぬものから始めるのではなく――法律をつくった国会がまず範を見せるべきではないか。それが私の恨みである。
 
 同じ90年代、物を燃やせば熱と二酸化炭素ダイオキシンが出るとまで言われたその時代、青酸カリの数百倍の毒性をもつというダイオキシンをいっさい出させないため、全国の焼却炉の撤廃が目指された。そのとき真っ先にやり玉に挙げられたのも学校の焼却炉だった。個人情報とマル秘文書が山積みの学校にはぜひとも必要な設備だったが、アッという間に消えてしまった。あとにはシュレッターで大量の紙を刻む、気の遠くなるような長い仕事が残った。
 ところで何を燃やしても青酸カリの数倍の毒性を持つダイオキシンが発生するというのに、ダイオキシンで死んだ消防士も焼き鳥屋も一人もいなかったのはなぜだろう?
 
 さらに言えば敷地内禁煙が最初に実施されたのも学校だった。
「子どもたちを受動喫煙の危機にさらしてはいけない」
ともっともらしいことも言われたが、敷地内では吸うことが許されず、敷地外に出れば部分的職務放棄だと叩かれ、あれはまるっきりいじめみたいなものだとつくづく思ったものだ。
 しかしそんなやり口に歯向かえば、「文句があるなら教師は辞めろ、お前の代わりなんかいくらでもいるぞ」――。
 ある意味、懐かしい非難のされ方である。

【卒業式のマスクをどうするか】

 さてそこでマスクだ。
 学校にはいろいろな子どもがいる。政府が外してもいいと言っているのだから外してしまえという子もいれば、急にマスクを外して風邪を引くのは嫌だという子もいる。顔パンツとまで言われて馴染んだマスクを急に外すのは恥ずかしいという子もいるし、花粉症だからこれからがマスクの本番という子もいる、とにかく暖かいのが好きという子だっている。

 

 政治家が言うように、最後の一日くらいはマスクを外しておしゃべりをしたいという子ばかりではないし、上の記事の割愛した部分で医師は、
「卒業式は先生の話を静かに聞くような場面では感染リスクは高くないのでマスクをつける必要性は低いかもしれないが、式の後、友達どうしで集まって、大声で騒ぐような場面では感染を防ぐためにはマスクを着けたほうがいい」
と言っておられる。卒業式の日くらいマスクを外しておしゃべりを、というわけにはいかないのだ。

 

 卒業式にマスクをつけるかどうか、そんなことは学校の自由でいいと思う。自由ということになれば学校は「マスクをお持ちください」くらいは言うだろうし、持ってくれば大半がつけることになる。それでいいのだ。現在の状況が2年、3年と続いて多くの人たちがマスクを外すようになれば、自然と卒業式のマスクも少なくなる。そいうものだろう。
 いや経済を回すうえでいち早いウィズコロナ、ノーマスクが必要だというなら、別のことを考えよう。私に名案がある。

【まず政治家が範を示す】

 私はまず政治家たちが、国会の場でマスクの必要性がないことを示すべきだと思う。後期高齢者も多く不健康な生活をしていそうな人たちも多い議員たちが、一斉にマスクをはずしてその姿をテレビで曝す、これ以上の宣伝効果もないだろう。ハイリスクな人たちが感染をまったく気にしていないからだ。

 

 演台に立つ質問者はマスクをしなくていいのだから自席で話を聞く議員はなおさらマスクなどしなくていいはずだ。そしてゆったり話に耳を傾ける――。
 え? ヤジはどうするのかって?
 ああ、もちろんそういう人たちにはマスクが必要だ。大声でヤジれば飛沫は飛ぶに違いない。だからマスクで議場に入る人はみんなヤジることを前提に来ていることになる。国民に分かりやすい政治。マスクに「ヤジ!」とでも書いておけば、一層すばらしい宣伝になると思う。

 

 回転寿司チェーンで他人の寿司にワサビを塗ったり勝手に食べたり、醤油差しや湯呑を舐めて戻したりといった“寿司テロ”が絶えないという。家庭の教育力に期待できない以上、これも学校が指導すべきものである。しかし仕事が多すぎて人もおらず、とても対応できないから指導はいたしませんと、学校は言いなさい。

(写真:フォトAC)

 

記事


相次ぐ未成年の“SNSテロ”、学校の責任問う声も…「SNS禁止にすべき」教員の本音

(2023.02.02 ENCOUNT)

encount.press

はま寿司、くら寿司、スシローなどで不衛生な行為が“寿司テロ”として拡散
 回転ずしでの利用客による悪質な迷惑行為の動画拡散が後を絶たない。
(中略)
 スシロー動画ではネット上で特定された当事者の高校生が在籍する高校にも多くのクレームが寄せられている。

 ネット上でも「しつけの問題で学校は関係ない」「親の責任」という声の一方で、「親任せでは家庭によって個人差があってすべてをなくすことはできない。学校でもっとネットリテラシーについて教えるべき」「昔は生徒指導で済んでいたことが、スマホの普及で大問題になるようになった。時代が変わったなら教育現場も変わらないと」といった声もあがるなど、意見が分かれている“SNSテロ”問題。被害の連鎖を防ぐためにはどうしたらいいのだろうか。

 関東の高校で担任を持つ30代の男性教諭は「高校生にもなって、学校内での出来事ならともかく、街でのトラブルまで教師の責任にされてはたまったもんじゃない。そもそも今の教育現場にはそんなことに時間や人手を割くだけのリソースはありません。ネットリテラシーの授業というのであれば、自治体などで専門家を派遣して行うのがいいのでは」と語る。

 一方、中学校で教鞭を執る60代の女性教諭は「こうなってはもう、ブラック校則と言われようが一律でSNSを禁止とするべき。保護者の伴わない生徒同士での飲食店の利用も、認めるべきではありません。ひと昔前は先生が見回りして、ファーストフードやゲームセンターに寄り道していないかを指導していた。何かあると学校側も大きな風評被害を受けるのだから、厳しく管理すべきです」との見方だ。
(以下略)

 大した内容ではないが、発言の取り上げ方が面白いので拾った。

 

「しつけの問題で学校は関係ない」「親の責任」
  v.s.
「親任せでは家庭によって個人差があってすべてをなくすことはできない」
「時代が変わったなら教育現場も変わらないと」
 どちらも間違っていない、正しいと思う。


 教員の、
「街でのトラブルまで教師の責任にされてはたまったもんじゃない」
  v.s.
こうなってはもう、ブラック校則と言われようが一律でSNSを禁止とするべき」
も、その通りと思う。
 
 通常こうした記事で「専門家は~」とか「学校の教諭は~」と書いてあったら8割がたは記者が架空の人物をでっち上げ、自らの意見を言わせていると考えて間違いないが、「学外のことは知ったことじゃない」と言う30代の男性教諭と、「そこまで言うならやってやろうじゃないか、その代わりやり方に文句は言うなよ」と言う60代女性教諭、いずれも平成と昭和を代表するにふさわしい極端な意見でいかにも言いそうだ。もちろん私は後者に加担する。

 

 さて、そうは言っても令和だ。いまどきSNSや生徒だけの外食を禁止して、夜討ち朝駆けで市中を見回るなどできるはずもないし、オレたちには関係ないとそっぽを向くことも難しい。そう考えるとなかなか答えが見つからない気もしてくるが、実は簡単なのだ。

 

 親の責任と言って突き返したくても、他人が頼んだ寿司に唾をつけたり醤油さしを舐めたりするクソガキの親に、我が子の指導なんてできるはずはない。それに学校教育はそもそも、家庭に任せておいたら広がる一方の格差を解消するためにあるのだ。
 したがって理屈上、
「児童生徒の不祥事は学校が保護者と一緒になって責任を負い、解決するもの」
である。そのためなら夜も昼も、土曜日も日曜日も休日も、学校と保護者は子どものために尽くさなくてはならない――のが理想。

 

 しかし現実の学校はすでに能力を越えて、あまりにも多くの仕事を抱え込みすぎている。もう格差解消のための仕事はできない。一通りのネットリテラシーの授業はするが“ネットリ”はできない。
 

 警察だって、“自転車盗程度の犯罪には対処しません。しかし重大犯罪については見逃しません”(1987)と宣言して久しいのだ。そして約束を守っている。自転車泥棒や傘盗は放置状態だから全体の検挙率も極端に落ちたが、かんじんな部分は押さえられている。


 学校も、
SNSテロは本来、学校も責任を負うべきものでありますが、教員数は増えないのに仕事量は爆発的に増えています。時代が変わった以上、教育現場も変わらざるを得ず、これからはSNSおよびコンピュータ・インターネット関連の問題への対応は、いたしません”
 そう言えばいいだけのことじゃないか。