校則でツーブロックがダメな理由は何かという質問が、東京都議会で出されたらしい――しかし、そんなの簡単だろ?

東京都議会で「都立高校の校則で、ツーブロック(段差ができるような髪型)が禁止されているのはなぜか」という質問が出たという。
それに教育長がうまく答えられなかったとかでSNS上は大笑い。
私もそう思う。ツーブロックがダメなのは事件や事故に遭うからではない。

ダメなものはダメだからだ。

f:id:kite-cafe:20200717192448j:plainラファエロアテナイの学堂」)

 

記事


事件に遭うからツーブロック禁止? 都立高校の校則に「意味不明」「データはあるのか」と批判殺到

2020.07.14 BazzFeed

「都立高校の校則、なぜツーブロックはダメなのか」

共産党・池川友一都議会議員Twitterに投稿した動画が230万回以上再生され、話題になっている。

Twitterでは「本当に意味不明なルールってあるんだな」「ツーブロックで、事件や事故にあうデータがあるのでしょうか」といった批判や疑問の声があがっている。

(中略)

今回、話題となっている動画は以下の答弁についてまとめたものだ。

3月12日の東京都予算特別委員会で共産党の池川都議が東京都の藤田教育長に校則に関して、質問した。

池川:校則を見ていると、ツーブロック禁止という校則は一定数あります。ツーブロックは、かなり広い定義の髪型として今、定着していると考えます。

それを全体として禁止していることについて、何で禁止をされているのかという声がたくさん寄せられています。実際に、そのことによって指導を受けている生徒もいらっしゃいます。なぜ、ツーブロックはだめなんでしょうか。

藤田教育長:先ほども申し上げましたが、校則は、生徒が健全な学校生活を営み、よりよく成長していくことができるよう、必要かつ合理的な範囲で定められた学習上、生活上の規律でございます。

お尋ねの髪型につきましては、それを示している学校もございますけれども、きちんと類型を示しまして生徒に伝えているところでございまして、その理由といたしましては、外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます。

(中略)

この質問を行った池川都議はBuzzFeed Newsの取材に対し、「校則を決めるときに、生徒の声がほぼ聞かれていない。それが、一番の課題です」と語る。

「多くの学校で、髪の毛は染めてはいけない、ピアスはダメと細かく定められている。そして、現場の教員はそれをとにかく守らせることに力を尽くしています」

「3年間我慢すれば良いと思っている生徒も少なくない。学校も『これを破れば進路に関わる』『この学校では決まっているから』と明確な理由もないまま、とにかく従うように伝えているケースも多いのが現状です」

文科省は最終的に校則を決めるのは校長の権限であるとしています。ですが、会社であれば社長が最後に決めるとしても、その過程でいろいろな意見を聞くのではないでしょうか。校長が一方的に校則を押し付けて良いということにはなりません」

(中略)

「大人の世界ではツーブロックは非常にスタンダードな髪型です。清潔感のある髪型と言っても良い。そうであるにもかかわらず、学校では禁止されています。しかも、その理由は目も当てられないものです」

「事件や事故に遭うのを防ぐためという理由は、意味不明です。髪型が理由で事件・事故に遭うことなどあるのでしょうか? これは完全なミスリード、根拠のない校則だと思います」

(中略)

池川都議は、都議会での質疑の目的を「校則は大人によって変わるものでなく、子どもたちの意見を聞いて変わっていくものだと伝えること」だったと語る。

「これを機に、校則は変えていけると知っていただきたい。今あるルールを受け入れることが全てではなく、ルール変えていくこともできるのだと議論になればと思います」

 

  藤田教育長も苦労した。しかし本音で語らぬ答弁は人の失笑を引き起こす。無理にひねり出した理屈はしっかりと筋が通って行かないから突っ込まれるのだ。
 藤田氏も教育長である以上、きちんと言えばよかったのだが、きっと言えない事情があったのだろう。ただし私なら言える。私が教育長だったらきっと本音で、こんなふうに語るだろう。

『えー、池川委員に私の方からお答えします。
 学校においてツーブロックはなぜダメなのか、というお問い合わせでしたが、それは現在、ツーブロックが若者間で流行しているからなのです。流行っているものでなければ、それがチョンマゲであろうがスキンヘッドであろうが――もちろん一応は中高生の身だしなみとしていかがなものかと指導はしますが――禁止はしません。けれど予想に反してチョンマゲが流行の兆しを見せるようでしたら、やはり禁止の方向で考えることになるでしょう。

 委員はここで、“なぜ流行りのヘアスタイルはダメなのか”と首を傾げられることと思います。しかしそれはいわば信仰の問題なのです。神様が許さないのです。

 もちろんここでいう神様というのは宗教上のものではなく、いわば学問の神と言っていいような汎神論的な神様です。

 具体的に言えばまず、学問そのものをつくり上げた人々です。
 ユーグリットやアルキメデスソクラテスプラトン、レオナルド・ダビンチ、ニュートンパスカルエジソンアインシュタイン。日本人で言えば外国語を日本語に翻訳した福沢諭吉西周森有礼。遡って俳諧を大成した松尾芭蕉国学本居宣長、あるいは国語の教科書に載っているような名文を書いた作家たち――ちょっと考えただけでもいくらでも出てきます。

 しかしさらに大切なのは、何の結果も出さず業績も残さず、しかも生涯を学問に捧げた無名の先人、神様たちです。彼らの多くは洗うがごとき赤貧に耐え、死の恐怖に怯え、また実際に殺されるような目にあいながらも、決して学問を棄てようとはしなかったのです。
 西洋なら錬金術師、中国なら最後まで合格できなかった科挙受験生、日本で言えば井上靖の「天平の甍」に出てきた業行のような留学僧です。


 第二の神様たちは学校制度をつくり、学校を支えた人々です。
 日本で言えば学制発布に関わった政府の人々はみな神様ですし、県の端々、村の隅々まで熱心に回って子どもを学校の出させた県令(県知事)、市長・村長、校長、教員たち――、この人たちも今となっては神様のような人たちです。
 西部開拓時代のアメリカで、一番殺されやすい職業は教員がだったと言われています。それは彼らが働き手である子どもを、学校につれていこうとしたからです。
 革命直前のロシアではたくさんの貴族の子弟が、貧しい農民の教育に当たろうと地方に下りました。ナロードニキ(人民のなかへ)と呼ばれる彼らは、やがて社会主義者として次々と投獄され、多くが獄中で死にました。
 日本では梅田雲浜吉田松陰が学問に殉じた人として記憶されますが、さすがに子どもを連れ出したという理由で殺されるようなことはありませんでした。

 それどころか地域の人々が金を出しあって学校を建て、教員を誘致したといった話が、日本全国にいくらでもあります。豊かな者は豊かなりに、貧しい者はわずか一銭なりとも金を出して学校を建てようとした――その無名の人々も学問の神様です。現在ある学校の多くがそうした伝統をもって今日まできているのです。

 三番目にご紹介するのは、今も生きておられる神様たち――東京の納税者の皆さまたちです。
 ひとつの学校が一年を通してつつがなく運営されるためには莫大な金がかかります。一人あたりで言いますと東京都の場合、小学生で年間およそ100万円、中学生だと130万円もの公費が投入されているのです。これはすべて都民の血税によるものです。

 私の家にはもう就学している子どもはいません、そもそも子どもはいませんでした、まだ結婚前ですから学校は関係ありません、だからその分の税金は払いません、などという人はひとりもいませんよ。
 一人の子どもを小学校から高校を卒業させるまでのあいだに、都民は学校教育だけで1500万円もの税金を使ってくれるのです。その方々が現代の学校の神様、生き神様なのです。

 そうしたすべての神様のことを考えたとき、私は学校で教師や生徒たちがバカをやっていることが許せないのですよ。
 すべての学徒は精励刻苦を尊び、蛍の光、窓の雪で学ぶことが期待されています。実際にそうした苦しい勉学ができるとは限りませんが、目標はそうでなくてはならないのです。
 学問の神様のことを考えると、児童生徒が「奢侈淫佚」「遊惰放蕩」に溺れるのはほんとうに切ない。流行に流されてちゃらちゃらしているようでは心底、恥ずかしく、情けないのです。

 先生たちは日々それを意識しているわけではありませんが、伝統として、教師の世界に脈々と流れています。学校にはアカデミズムがなくてはならないのだと。
 流行を追って朝夕に髪を逆立てて、休み時間のたびに鏡に向かってそれで苦しい勉学など続けられるはずがない――そう考えるのが学校の文化なのです。

 学校に来ていいのは児童と生徒・学生だけです。学問をする意思のない“単なる子ども”は学校に来てはいけない。だからツーブロックはダメなのです。

以上!』

 ただし、
 大切な議会の質問時間を学校問題に当ててくれた議員を、公衆の面前でギャフンと言わせたり煙に巻いたりしていいことはなにもないだろう。下手をすると江戸の仇を長崎で討たれる。
 だから私もここは「隠忍自重」。バカのふりをして、
「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」
 みたいなことを言って叩かれて終わりにするだろう。
 それが大人の知恵というものだ。
(いい加減な子どもを育てたのでは納税者に申し訳ないという気持ちは、いつもあるのだがね)

 

オンライン学習が児童生徒の学力差を広げるなんて百も承知で、何が何でもやれと言い続けている人たちがいる。

日本のメディアから「オンライン学習先進国」ともてはやされた韓国からの報告。

オンラインでも成績上位者は「自己主導学習」で成績を維持できるが、
中位の者は大きく落とす。
塾に行っている者、家庭に教育力があって支援を受けられる者に影響が少ないが、
多文化家庭や祖父母と孫だけの家庭の子、障害のある子は苦しい等々。
――これが一部の人たちが熱望した「オンライン学習」の実態だ。

しかしその人たちは知らなかったわけではない。知っていて切望した。
彼らがオンライン学習をさせたかったのは成績上位者だけなのだから。 

f:id:kite-cafe:20200710194826j:plain(「タブレット学習する小学生フォトACより)

 

記事


[ニュース分析]
遠隔授業で中位圏の成績下落…ますます広がる教育格差
(2020.07.08 ハンギョレ

japan.hani.co.kr

新型コロナによる遠隔授業の長期化への懸念 
 今年4月、史上初の「オンライン授業開始」で、大韓民国の教育は「遠隔授業」という一度も行ったことのない新しい道に進んだ。政府の「生活の中の距離措置」転換に合わせ、5月20日から登校授業が順次再開されたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の地域社会の拡散が相次ぎ、学校現場は依然として遠隔授業への依存度が高い。

(中略)

 一部の教師たちは、登校開始後に行なった中間テストで、上位圏の生徒はそのままである一方、中位圏に属していた生徒の成績が下位圏へと下がる現象に注目している。全羅北道地域の一般高校の教師のAさんは、6月の第3週に実施した中間テストの結果について、「内申書1~2等級の上位クラスの生徒たちの成績は例年とあまり差がなかったが、3等級以下から英語・数学を中心に点数が下がった」と述べた。通常90点台から80点台、70点台、60点台が均等に出るものだが、特に数学科目で70~80点台に集中していた中位圏が60点台以下へと下がったケースが多かったという。Aさんは「生徒たちも成績が下がったことに驚いたのか、科目別に個別指導の申請を受けつけてみたところ、中位圏の生徒たちの申請があまりに多くて手に負えないほどだ」と伝えた。

(中略)

 高校のように成績順位を出さない小学校や中学校まで含めれば、子どもの遠隔授業を支援しにくい低所得層や一人親家庭、祖父母と孫だけの家庭などの社会的弱者層では「学習欠損」問題が深刻だという懸念が出ている。『新型コロナ、韓国教育の眠りを覚ます』の共著者であるファン・ソンヒさん(江原大学教育学科講師)は、「学校以外に勉強を頼るところがない社会的弱者層の生徒たちには、教室で先生や友人との相互作用が学習を続けるのに一定程度の役割を果たすが、対面授業が少なくなればそれだけ学習欠損問題が生じる」と懸念を示した。京畿道のダオン小学校教師のイ・チュンイルさんも7日、国会で開かれた討論会(新型コロナ後、韓国の教育に何を込めるか)で、「遠隔授業が行われる空間である家庭環境の違いが、教育的差別を誘発する主な原因となる。多文化家庭や祖父母と孫だけの家庭、障害のある生徒が最も脆弱な立場にいる」と話した。

 その反面、親が遠隔授業を積極的に支援したり、私教育の活用度を上げるような場合には、対面授業が減っても打撃を受けない。自己主導学習が可能な上位圏の生徒も同様だ。ファン・ソンヒさんは「豊富な資本力に頼って学校教育の空白を私教育に代替できる中上流層の親や、一日中子どものそばで全面的な子どもの管理が可能な専業の親は、遠隔授業を一種の“好材料”とまで認識している」と指摘した。

(後略)

 

 とりあえず、かつて韓国のことを「オンライン学習先進国」「すでに早くからオンライン学習を進めている」とメディアで語って「遅れた日本」を貶めた識者・専門家・コメンテータ・記者・学者たち、公の席で謝ってもらいたい。
 今年4月、史上初の「オンライン授業開始」で、大韓民国の教育は「遠隔授業」という一度も行ったことのない新しい道に進んだ。
だってヨ。なにがオンライン学習先進国だ!

 それはそうだろう。コロナ以前に韓国のような人口の都市集中が激しい国で、何を好んで学校を閉じてオンライン学習をしなくてはならなかったのか、ちょっと考えればわかりそうなものだ。
 カナダやオーストラリアの大平原で隣の家まで数十kmというような場所では学校にも通えない、だからオンライン学習が進んでいたというならわかる。しかし人口の稠密な都市で学校を開かずにオンライン学習を行う必要はまったくない。それはニューヨークでも、パリでも、ロンドンでもみな同じだ。
 今回のコロナ禍でようやくオンライン学習を始めた国や都市も、そこもみんな手探りでやっているだけなのだ。

 また、今まで経験のないオンライン学習のようなことを不用意に始めれば、学力に差がつくことは目に見えていた。
 考えてみるがいい。
 すべての子どもに同じ学力を持たせる方法は、実はひとつしかないのだ。全員に学ばせないこと、学ばなければ知識ゼロで学力差もゼロである。

 たとえばどこかの小学校にいきなり飛び込んでマサイ語とかイボ語といったアフリカの部族言語のテストをやれば、おそらく全員が0点で学力差ゼロということになるだろう。ところが1日でも学習を始めたとたんに学力差はつきはじめて、あとは広がる一方だ。
 私たちはそのことを自身の経験としてよく知っている。小学校6年生まではクラスに誰も英語のできる子どもなんかいなかったのに、わずか6年後には英語の堪能なヤツと私のような人間の間に、天と地ほどの差がついてしまったのだ。

 学力差をゼロにはできないものの、多少なりとも縮める方法がないわけでもない。
 一番簡単なのは「頭の良い子に勉強させないこと」だがこれは無理だろう。困ったことに優秀な子は放っておいても伸びてしまう。
 あとは勉強のできない子たちを押し上げて、差をゼロにはできないまでも少しでも学力を伸ばそうとすることだ。そして学校にはそのための仕組みが山ほどある。

 記事に即していえば、
 教室で先生や友人との相互作用が学習を続けるのに一定程度の役割を果たす
といったもんがそのひとつである。

 オンライン学習はその相互作用を十分に可能としない。どうやっても基本は教師と生徒の1対1だ。
 会話の中に他の生徒が割って入ることが難しい。先生が黒板に字を書いている最中にひそひそ話で「ねえ、今、先生なんていったの? よく聞こえなかった」などということもできない。他人のノートを勝手に覗いて「オイ、そこのところ違っているぞ」などとお節介なアドバイスをする子もいない。

 私が言いたいことは次の2点である。

 第一にオンライン学習の効果は一般に考えられているよりもずっと低いということ。もちろん授業がまったくないよりはマシということもあるが、オンラインの手配にエネルギーを使うくらいなら教室再開のために時間を使った方がよほどいいということだ。分散登校でも五月雨登校でも構わない、とにかく子どもを一か所に集めて刺激を与え続ける方法を、みんなで模索していくしかないのだ。

 第二に、オンライン学習の限界、学力差がつきやすいということを百も承知で導入を声高に叫んでいる専門家・識者・コメンテータ―・記者・学者・政治家が、いくらでもいるから気をつけろということである。

 彼らは国民教育には興味がない。
 多くの教師は教育を子どもの自己実現の道具だと考えているが、彼らにとってそれは政府や産業界に役立つ人材を育てる最も安上がりな道具なのだ。

 みんなが学力をつける必要はない、政治や経済を動かすのは一握りのエリートだけだ。だからエリートだけがしっかりと学力をつけてくれればいい、それでこの国は豊かになる、自分たちも潤う――そう考えている人たちは、たとえ数カ月でも、自分の愛するエリートの卵たちが学習から引き離されることに我慢がならない。
 オンライン学習で学力に差がつくなんてどうでもいいことだ、とにかくエリートの学習を奪うな!
 彼らは心の中でそう叫んでいるにちがいない。そんな連中に乗せられることもないだろう。

 

万が一の危機に備えて、日常の危機を甘受できる大人たちがいる~文科省は「学校に携帯を持ってくるように」と子どもたちに言った

大昔のファミコンに始まって、
ポケベル、ゲーム&ウオッチ、ゲームボーイポケットステーション
たまごっち、ニンテンドーDSニンテンドースウィッチ、ニンテンドー3DS・・・
これまで幾千万の親たちが子どもの電子機器と戦い、敗れてきたことか――。
それにもかかわらず、今はスマホを持たせたい親たちがいて、
それを文科省があと押しする。

f:id:kite-cafe:20200626183437j:plain(「スマホを触る女の子」フォトACより)

 

記事


中学校へのスマホ持込、3条件のもと容認へ…文科省

(2020.06.25 リセマム)

resemom.jp


 文部科学省は2020年6月24日、学校における携帯電話の取扱い等に関する有識者会議を開催し、まとめ案を示した。小中学校では携帯電話の持込みは原則禁止だが、中学校では一定の条件のもと持込みを認めることが妥当だとしている。

(中略)

 審議のまとめ(素案)によると、学校への携帯電話の持込みについて、小学校は原則禁止とし、遠距離通学などやむを得ない事情がある場合には保護者から学校長に対して持込みの許可を申請させるなど例外的に認めることも考慮する。

 中学校は原則禁止としつつも、一定の条件のもと、持込みを認めることが妥当だという。中学校は、部活動に参加する生徒が多いため、小学校と比較して帰宅時間が遅くなる点も考慮した。学校や教育委員会が持込みを認める場合、一定の条件として、学校と生徒・保護者との間で「学校における管理方法や、紛失等のトラブルが発生した場合の責任の所在を明確にすること」「フィルタリングが保護者の責任のもとで適切に設定されていること」「携帯電話の危険性や正しい使い方に関する学校および家庭における指導が適切に行われていること」の3つの事項について合意がなされ、必要な環境の整備や措置が講じられていることが求められる。

 高校は従前通り、教育活動に支障がないよう配慮することを前提に、各学校で適切に定めることが妥当だとしている。

 これらの基本的な事項を踏まえつつ、各地域の実態に応じて適切に定めることが求められる。文部科学省は、7月中に全国の教育委員会などに通知する予定。

  


【学校がスマホの持ち込みを許可するのは、みんなに持って来いというのと同じだ】

 学校関係者で児童生徒の携帯持ち込みを歓迎する人はひとりもいない。それにもかかわらず、現場を無視して、何が何でも持ち込みを許可したいという文科省の情熱がわからない。

 学校が許可すれば小中学生のスマホ所有率はグンと上がるだろう、それは当たり前だ。子たちが学校に持ってくるものは、頭のてっぺんからつま先まで全部同じになってしまう。その原則は昔も今も同じだからだ。

 古くはボンタンと呼ばれたダブダブズボン。これが流行れば全員ダブダブになってしまう。女子に袴と見まごうロングスカートが流行れば全員ロング、ミニの時代はみんなミニ。ルーズソックス、茶髪・金髪、ガングロ、チャラ男――子どもたちは常にオンリーワンを訴えながら、オール・オブ・ワンにはまっていく。
 学校にスマホを持ってくる子が半分もいれば、あとの子も持たざるをえない。それに抵抗できるのは、ごくわずかの変わり者とエリートだけだ。
 しかしそれでいいのだろうか。

 

【万が一の危機に備えて、日常の危機を甘受する】

 はじまりは2018年6月に発生した大阪府北部地震を機に、万が一の場合の連絡方法を確保するために大阪府が「持ち込み禁止」を一部解除したことによる。しかしそうした大規模災害の最中に、携帯が使えるかどうかは不明だ。すくなくとも東日本大震災では、多くの地域で通話不能になった。

 一方、日常のレベルでは携帯が極めて危険な側面を持つことはよく知られている。
 出会い系サイト、コミュニティサイトによる児童買春、児童ポルノ、なりすましによる誹謗中傷、ネットいじめ、ストーカー被害。
 旅行情報を書き込んだための空き巣、ゲームなどによる高額課金、ネット依存。
 歩きスマホによる衝突や転落。イヤホン使用による周囲への注意低下(車に気づかない、不審者の追跡に気づかない)

 万が一のための携帯が日常的に子どもを危険にさらす――そんなことは分かり切っているのに、なぜ親は持たせたがるのか。

 要するにそれは便利だからだ。「今、部活が終わったから塾まで送って」といった子どもの要望に応えたい、そうしないと子どもは塾に行ってくれないかもしれない。帰りも電話一本で落ち合う場所と時間を決めれば簡単なものを、それがなければ10分も20分も塾の前で車を止めて待機していなくてはならない。そんなことはとてもではないが我慢できない――。

 ネットの危険は必ずしも我が身に降りかかるものではないが、警察や他の車からの目を気にしながら、違法駐車を続けて子どもを待つのは毎日のことだ。その負担回避のためだけでも、子どもの携帯所持は絶対に必要だ。多少の危険は承知の上だー―と、親は思っている。
 分からないわけではない。しかし事故も犯罪被害も、そうした甘さから訪れるのが常だ。
 一方、文科省の熱意は分からない。まさか多額の赤字にあえぐソフトバンクに、政府として手を貸そうというのでもないと思うが――。

 

【審議会のまとめは意外と平穏なものだった】

 しかし審議のまとめ(素案)は意外と平穏なものだった。

 学校と生徒・保護者との間で

「学校における管理方法や、紛失等のトラブルが発生した場合の責任の所在を明確にすること」

「フィルタリングが保護者の責任のもとで適切に設定されていること」

「携帯電話の危険性や正しい使い方に関する学校および家庭における指導が適切に行われていること」

の3つの事項について合意がなされ、必要な環境の整備や措置が講じられていること

 
学校が保護者から「いかなる理由があろうとも、携帯機器の破損紛失に関して学校の責任を問うようなことはいたしません」といった誓約書をとって、毎朝、子どもの携帯を回収してしまえばいいのだ。

 例えば朝、部活に行く前に郵便ポストのような保管庫に携帯を投げ込んで、帰りは昇降口のテーブルに並べた中から自分のものを選んで持ち帰る。なくなっても学校の責任ではない。
 それならほんとうに必要な子しか持ってこないだろうし、スマホを持つことに同調圧力もかからないだろう。ある意味、子どもが内緒で持ってきて、隠れて使うことに比べたらよほど安全なのかもしれない。

 決まったことだ。受け入れよう。
 毎日、放課後に担任が携帯を並べる作業は大変だが、文科省も世間も教師の多忙を苦にしない。毒を飲むなら皿までだ。
 それで問題が起こったら、責任は文科省に取ってもらえばいい。

 

 

学校がいまだに同級生を介した連絡帳で欠席連絡を求めるのは、そうしないと担任か教頭(副校長)が死んでしまうからだ

 欠席連絡ひとつを取っても、
 いまだに子どもの友だちを介した連絡帳の提出で求める日本の学校
 そんな昭和から時間が止まったようなことはやめて、
 ICTを充実させ、保護者がいつでも気楽にメールで連絡できるようにすることで、
 先生の業務をこれ以上増やすことなく、
 保護者との信頼関係を強化していけるのではないか、
――って、それをやったら先生たち、死ぬぞ。
という話。

f:id:kite-cafe:20200619140504j:plain(「電話をする女性」 フォトACより)

 

記事

 

意見する親・クレームする親・沈黙する親
  ・・・ICT教育阻むモンペの境界線

(2020.06.19 現代ビジネス)

gendai.ismedia.jp

 

保護者丸投げ型「無理ゲー」

GW明けに始まった『保護者へ丸投げ型・時間割ベースド家庭学習』によって、ただでさえ家の中で子育てと仕事を両立させるという『無理ゲー』な自粛生活でストレスを溜めていた多くの保護者は、瀕死の状態に陥ったことと思います。「瀕死になってるのはうちだけ? みんなはどんな状況?」という疑問から始めた、『23区公立小学校ICT進捗状況★草の根ウォッチ』が、想像以上にバズりました。

きっと、私と同じように『無理ゲー』に苦しみ、ICTの活用に活路を求める保護者が他にもたくさんいたんだろうなと感じます。

ちなみに、ICTが進んでいる文京区や渋谷区の保護者からは、「いやいや、紙がデジタルになっただけで、勉強に向かわせるところは相変わらず親まかせだから、めっちゃ負荷高いよ!」とのお声も。ICT化が遅れている自治体の保護者の皆さんは、「羨ましい」と思うかもしれませんが、現場の「ICT活用力」は一朝一夕にはいかないでしょうから、まだ今は50歩100歩かもしれません(と、フォローしときましょう。笑)。

今回は、私が公立小学校のICT進捗状況を可視化しようと思った理由と、その後実施した「保護者アンケート」で見えてきた「学校と保護者の関係性」についての考察をご紹介いたします。

 

「個人情報」という免罪符。
学校のICT活用が進まなかった理由

私が住む目黒区ですら、このwithコロナの中で未だに「体調不良の際は連絡帳をお友達に渡してください。難しい場合は学校の大代表に電話してください」という運用フローになっているんですよね。大代表の電話は回線が1本しかないので、朝の時間は通話中で繋がらないし、欠席の連絡を1本入れるだけでもストレスだという話を、他自治体の保護者からもよく聞いております。

今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。「メール連絡じゃダメなんですか?」と聞くと、個人情報が云々と言われて一蹴されてしまうと聞きます。

私自身も、このコロナ休校中に小学1年生になった「小学生になれていない小学生」は、クラスのお友達の名前も顔もわからない状態で休校期間を過ごし、「学校となどんなところなのか」も知らないままに、宿題だけが出されるのはよろしくないのではないかと思い、その件を担任の先生に電話で相談している最中に、「同じクラスの子どもの顔写真と名前をメール等で集めて、シェアしたらどうでしょうか?」と提案してみたところ、食い気味に「個人情報の問題でそれは絶対にできません」と言われてしまいました。

私はその食い気味に発言された先生の様子を見て、公立学校の中で「個人情報」というキーワードが、いわば『免罪符』のような感じになってしまっているのではないかと感じました。

その免罪符を出せば、その場の空気が「だから仕方がない」となり、そこで思考が停止しているのではないか。そうやって思考停止を繰り返してきた結果、日本の公教育のICT化が、世界の先進国の中でも類を見ないほどに遅れてしまったのではないかと感じるのです。

(中略)

 

ICT活用で真っ先にやるべきこと

私がリスクに感じているのは、「保護者から声が上がらないから問題ない」と思ってしまっている学校関係者の認識です。実際には、不満の火種はとても大きく、SNS上ではすでに炎上しているところもあるのに、「自分たちが提供している教育は問題ない」と捉えているとすると、非常に危険だと思います。

こういう負の心をどちらか一方だけが密かに持っている関係性だと、今後、何か1つのミスに対して、とんでもない炎上が起こるリスクが高いと思います。私は教育新聞社で記者の仕事もしているので、全国の様々な教育がらみのニュースを知る機会があるのですが、最悪のケースだと、先生が自殺しちゃうこともあるんです。

まだ若く未来のある先生が、たった一回のミスによって叩かれて、自分を責めて命を絶つということは、今後、絶対に起こってほしくない。だからこそ、子供が人質に取られているような心理から声をあげにくい状態にある保護者が、安心して些細な不安を相談できるよう、学校と保護者の「コミュニケーション・ライフライン」を確立させることが、喫緊の最重要課題だと私は考えています。

ICT活用で真っ先に着手して欲しいのは、まさにこの「コミュニケーション・ライフライン」の整備です。「学校の大代表に電話」は、保護者の心理的ハードルがとても高い(=モンペと思われるんじゃないかと気にしちゃう)ので、メールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようにする。そして、よくある問い合わせは、速やかに学校全体のQAとして公開していくことで、「コミュニケーション・ライフライン」によって、過労死ラインを超えていると言われる先生の業務をこれ以上増やすことなく、保護者との信頼関係を強化していけるのではないかと考えております。

私自身も、この話を教育関係者向けに教育新聞でも書いているし、目黒区の教育委員会や、目黒区義の文教子ども委員会にも言っていますが、ぜひみなさんもそれぞれの自治体や学校にご提案いただけたら大変心強いです。「保育園落ちた、日本死ね」の事例もある通り、保護者の声は国をも動かす力があります!

 

 いやはやご本人は気づいておられないかもしれないが、慇懃な言葉の中に垣間見られる鋭い匕首は、学校にとって最近の金与正(キム・ヨジョン)氏に匹敵するものだ。

こういう負の心をどちらか一方だけが密かに持っている関係性だと、今後、何か1つのミスに対して、とんでもない炎上が起こるリスクが高いと思います。私は教育新聞社で記者の仕事もしているので、全国の様々な教育がらみのニュースを知る機会があるのですが、最悪のケースだと、先生が自殺しちゃうこともあるんです。

 一言でいえば、
「私たちの言うことを聞かなきゃ、先生死ぬよ」
 しかも本人には脅しているという自覚がまるでない。

ぜひみなさんもそれぞれの自治体や学校にご提案いただけたら大変心強いです。「保育園落ちた、日本死ね」の事例もある通り、保護者の声は国をも動かす力があります!
 ああ、あの勢いで叩かれるのかと思うと、もはや(退職によって)部外者になった私でもビビらざるをえない。

 

 さて、
今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。「メール連絡じゃダメなんですか?」と聞くと、個人情報が云々と言われて一蹴されてしまうと聞きます。

 現代ビジネスに寄稿しようという以上はジャーナリストとして「一蹴されてしまうと聞きます」はないだろう。なぜ確認しないのか。「個人情報が云々」の部分も何を言われたのか分からない、分からないことは調べるのが当たり前だ。

 私は自分が理解できない事象に出会うとまず怯える。
 私なんぞの知らない特別な理由があるのかもしれない、とんでもなく頭の良い人たちが気づいた落とし穴があってそれを回避しているだけなのかもしれない、安易に結論づけたり批判したりしたら、それこそこちらがバカを見るかもしれない、批判がブーメランになって返ってくるのかもしれない、そう考えると慎重にならざるをえないのだ。

今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。
 だったら調べればいいだろう。問い合わせる相手はいくらでもいる。5~6本も電話すれば一人くらいはきちんと答えくれる人がいるだろう。私だったら答える。
 それにも関わらずこの部分を憶測で解決するから文章全体があらぬ方向に行ってしまうのだ。

 

【学校がメールを嫌うわけ】

 学校がメールを嫌う理由はまさに記事の言う、
 メールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようにする。そして、よくある問い合わせは、速やかに学校全体のQAとして公開していく
 が求められるためである。誰が「学校全体のQAとして公開していくのか」ということが問題になる。

 メールでの問い合わせをすべて公開するわけにはいかないし、公開したから直接答えなくていいということにはならない。
 メールが来たらきちんと回答する、その上で重要な問題に関しては学校長や教育委員会の承認を得て学校のサイトのQAに載せていく、繰り返すが、誰がその仕事をするかが問題だ。

 これに関して行政には苦い経験がある。20年ほど前からトップに立とうと立候補してくる人たちが次々と「皆様の声を直接、聞く」を公約にし始め、当選すると実際に窓口をつくってしまったことだ。
 もちろん首長の座に着いた瞬間から行政の末端まで知り尽くして返事の書ける人などいない。経験を積んだ首長だって具体的ないちいちに詳しく答えられるはずもない、そもそも忙しくて返事を書いている暇もない。そこで返答の大部分は担当部署が書くことになるのだ。首長はそれに目を通して許可を出すだけである。

 ネットがなかった時代は問い合わせや抗議の大部分は匿名の電話や手紙できた。それだと「調査して後日、返答」と言っても相手がわからないので返答のしようがなく、中身は承っても返事を返す必要がなかった。

 ところが今は匿名のメールにも返答が求められ、回答しないといつまでも要求され続ける。それでも遅れると今度は匿名のSNSに上げられてそこで執拗に攻撃されることになる。だからすべての抗議・問い合わせには必ず返事を書かなくてはならないのだが、その労力たるや半端ではない。
 まだ私が在職中のことだが、県の担当者がメールの返答に窮して、私に事実確認を求めてきたことがある。その事実確認も電子メールで送られてきたのだが、発信時刻はなんと午前2時過ぎであった。毎晩のようにそんな仕事をしているわけだ。

 保護者がメールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようになったら、担任または副校長(または教頭)が死ぬ。中途半端な返答をして言質を取られたことにならないよう、いちいち吟味し、文章を書き直して返さなくてはならないからだ。そんなメールが10通、20通と送られるようになったら、通常の業務はできなくなる。

 学校を追いつめるモンスター・ペアレンツなんて保護者1000組に1組もいないが、その1組に当たってしまったら学校は機能不全に陥ってしまう。そうならないためにも、文書(メール等)での返答は最優先で検討されなくてはならない。

 だから都道府県教委も学校がメール・アドレスを公開して窓口とすることを許さないのだ。自分たちで懲りている。
 学校職員のために許さない、さらに学校が拾い上げた細かな面倒ごとが都道府県教委もたらされないためにも許さない。
 県のたった一つのメール・アドレスで苦境に立っているというのに、県下数百の学校で採集され、一部がお伺いとして送られてきたらたまったものではないからだ。
 学校と保護者の間のことは、できればお互いに顔を合わせて、そうでなければせめて電話を通して肉声で会話しながら、学校内で解決してもらいたいものだ、都道府県教委はそう考えている。
 当然である。

 記事の筆者は(学校の大代表に電話をやめてメールなどでやり取りする「コミュニケーション・ライフライン」を使うことによって)過労死ラインを超えていると言われる先生の業務をこれ以上増やすことなく、保護者との信頼関係を強化していけるのではないかと考えておりますと主張するが、全く逆である。


【個人情報はかくも軽いものだったのか?】

 最後に、
公立学校の中で「個人情報」というキーワードが、いわば『免罪符』のような感じになってしまっているのではないかと感じました。
についても応えておこう。

 私たちは、
「同じクラスの子どもの顔写真と名前をメール等で集めて、シェアしたらどうでしょうか?」
などと言い出す恐ろしい保護者の出現を予想していなかった。
 子どもの顔写真や名前、電話番号やメール・アドレスなどは第一級の個人情報で、決して他人に渡してはいけないものだと思い込んでいた。ところがどうやら、今やみんなで「シェア」してもよいものになってしまったようだ。

 これまで学級名簿を紛失したために処分された教員が、いったい全国に何人いたことか。
 学級連絡網という便利なものが個人情報保護の立場から廃されて、担任が一軒一軒電話するような面倒な月日を何年送ったことか。
 家庭内の様子は重大なプライバシーだということで家庭訪問も廃止となり、教師たちは重要な情報収集の場を失い、生活困窮や児童虐待、家庭内不和などの環境悪化も察知できなくなった、それがどれほど大きな犠牲だったのか。
 そう考えると暗澹たる気持ちになる。

 個人情報保護で学校が失ったものは山ほどなのに、得たものはほとんどないのだ。それなのに「個人情報」が「免罪符」で、
その免罪符を出せば、その場の空気が「だから仕方がない」となり、そこで思考が停止しているのではないか。そうやって思考停止を繰り返してきた結果、日本の公教育のICT化が、世界の先進国の中でも類を見ないほどに遅れてしまったのではないか
とは。

「個人情報」がそこまで軽いものなら、私たちにやれることはもっとたくさんあったはずだ。
 嗚呼!

 

4月~8月生まれの子は、9月入学のために生涯賃金で1千万円損する~どうやら先送りになりそうでよかったが。

 自民・公明両党の検討委員会が9月入学を見送る方針を決め、
 どうやらこの件は先送りになる模様。めでたいことである。
 思えば今年3月以来、9月入学については良いことばかりがマスメディで取り上げられ、
 問題点は経費や社会との整合性についてのみ語られてきた。
 置き去りにされたのは将来の子どもたちだ。
 今、目の前にいる子どもの学力を守ろうとして、
 未来のすべての子どもたちを犠牲にするのは愚かなことだ。
という話。

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(「入学式」フォトACより)
 

記事


9月入学、文科相「直ちに導入を結論づけることない」
 
(2020.05.29 朝日新聞

www.asahi.com

 新型コロナウイルスの影響による長期休校を受け、政府が検討する「9月入学」について、萩生田光一文部科学相は29日の閣議後会見で「学校再開で授業や行事が実施できるなら、直ちに導入を結論づけることはない」との見解を示した。ただ感染の第2波の可能性にもふれ「引き続き検討は続けたい」とも述べた。

 9月入学について、文科省は子どもの学びの保障の観点から3月に検討を開始。来秋の導入が可能かどうか省庁をまたいで議論してきたが、自民、公明両党の検討会議は、拙速な導入はすべきではないとして、見送りを求める提言をまとめる考え。萩生田氏は「賛成派と反対派で議論が分かれ、大変な注目を浴びた。文科省として課題の整理は終わっている。どんな事態が起きても学びを止めない準備をしたい」と話した。
(以下、略)

 【大山鳴動して】
「9月入学問題」、泰山は鳴動したがネズミ一匹、出ないまま終わった。

 内容はともかく、今の新型コロナ事態の真っ最中に、急いで決めていいような話ではないという、ごくごく常識的な意見が通ったかたちである。それでいいと思う。

 私は5月1日のこのブログで反対し、別ブログでも5月11日(月)から15日(金)にかけて5日間、問題について考えたがやはり無理だと思う。

 

【9月入学にできない理由】
 日本の学校は国語や数学と言った教科教育だけを教える場ではない。そこでは児童生徒会、学級活動、各種行事を通して「望ましい集団活動を通して人間形成を図る教育活動」(特別活動の目標)が行われており、総合的な学習の時間を通して「生きる力」をつけ、部活動を通して「心身ともに豊かな人間」を育てようという場である。

 したがって入学を4月から9月に移動することによって、これらの活動が大きく阻害されるようなら、それはやってはいけないことである。そして私の感じではうまく回って行かない。70年もかけてじっくりと熟成してきたものだ。そう簡単に大きな実のなる果樹を別の土地に移すわけにはいかないのである。

 一例をあげれば、夏の甲子園大会の予選が大学入試と重なってしまう。インターハイも同様。さりとて予選を前倒しにして、陽の極端に短い冬に行うわけにもいかないだろう。中学校の部活動も同じ。「部活動は2年生の終わりまで」を標準にせざるを得ない。
 文化祭も真冬の行事となる。

 小中学校では季節に関わる教科書の内容を、国語・理科(観察等)・音楽などで変更しなくてはならない。音楽の教科書の1ページ目が滝廉太郎の「花」(♪春のうららの墨田川~)というわけにはいかないだろう。教科書の全面改訂だ。
 体育では水泳が、卒業・夏休み・入学式シーズンと重なるために削除。泳げない子が全国的に増える。
 いずれにしろ、覚悟が必要なことばかりだ。 

 

【4月~8月生まれの子は、生涯賃金で1千万円も損する】
 さらに問題だと思うのは、今だと6歳で入学している4月~8月生まれの子たちが7歳入学になってしまうことだ。


 日本語の特性(ひらがなさえ覚えれば小学校1年生でも文章が書ける、算数では10の位の数え方が英語に比べて楽、など)からいって、日本の子どもは欧米より2年以上早く学習を始められるはずである。実際にたいていの5歳児はひらがなが読め、一部の子は文章が書けてしまう。小学校高学年の算数などでは、現在でも欧米の同学年よりかなり高いレベルの学習をしている。
 ほんとうは就学時期を早めるべきなのだ。それを5カ月も遅らせるのはいかにももったいない。

 さらに言えば、私のふたりの孫はそれぞれ5月、6月生まれだが、9月入学になると生涯賃金で1000万円近い損失を被ることになる。
 今のままだと最短で18歳で高校を卒業し、65歳定年として就労期間は47年。ところが9月に7歳で入学すると卒業時は19歳。就労期間は46年。1年分の給料がもらえない。
 しかもそのもらえない1年分は18歳の給与ではなく、最終年(47年目)の、年功序列なら最も高い給与なのだ。

 そした不利をすべて甘受して、ウチの孫など足元にも及ばない優秀な人材を留学生として送り出したり迎え入れたりしなければならない、そんな義理はどこにもない、と私は思う。

 

 《参考》

kieth-out.hatenablog.jp

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

目の前の子どもの学力が心配だといって9月入学を認めてしまうと、10年後、お宅の子どもは東大に入れないかもしれない

 学校が休校中、金持ちの子どもは塾やオンラインで高い学力をつけているのに、
 
お宅の子どもは置いて行かれるばかり――。
 
そんな脅迫に屈して9月入学に賛成したら、
 
10年ののち、
 もしかしたら東大に入れたかもしれないあなたの息子は二流大学に甘んじ、
 
せめて三流には入ってほしいと願った子どもも、
 
四流・五流に居場所を探さなくてはならないかもしれない。
という話。

f:id:kite-cafe:20200501144929j:plain(「東京大学安田講堂パブリック・ドメインQより)

 

記事


9月入学、具体化作業入り 来秋想定、6月にも方向性 政府
(2020.05.01 時事通信

www.jiji.com

 政府は30日、新型コロナウイルス感染拡大による休校長期化を受け、「9月入学」の実現に向け具体的な検討作業に入った。
 来年秋からの制度化を想定。
(中略)
 全国の学校では児童・生徒の感染を予防するため臨時休校が続いている。政府は自宅で学習できるオンライン授業の普及を促しているが、自治体によって取り組みに差があり、学力の「地域格差」拡大が懸念されている。

 感染終息のタイミングによるが、全国一律に9月入学で仕切り直せば、こうした不安を払拭(ふっしょく)できる可能性がある。欧米や中国では9月入学が主流で、留学生の往来がスムーズになるメリットもある。

 一方、国や自治体の会計年度、企業の採用スケジュールなど4月スタートを前提にしてきたシステム全体への影響は大きい。新型コロナウイルス感染で社会全体が混乱する中、こうした大規模な制度改正を同時並行で行う余力があるのかについて懸念する声も出ている。  

 

 

【誰がいつ、小学生に上がるのか】

 私には間もなく5歳になる孫がいて、今は保育園の年中(ねんちゅう)組。来年の年長組を経て、再来年は小学校だからランドセルの用意もしなくては・・・と思っていたのだが、来年から9月入学になるかもしれないとのこと。そうなると孫も来年の入学となるが、ブランド・ランドセルは一年前でも手に入らないと聞く。これは急がねば・・・と考えているうちにふと気づいた。
 来年6歳になる孫はともかく、いま、つまりこの4月~8月の間に6歳になりつつある年長組の子どもたちはどうなるのだ?

 来年9月にウチの孫が入学するとき、一緒に入るのは今年の9月から来年の8月までに6歳になる子であることは間違いないとして、それ以前、今年の4月から8月までに6歳になる子たちは、入学したばかりの今の一年生と一緒に、この9月から小学校に通うことになるのか? それともウチの孫たちと一緒に、来年になって小学生になるのか――。
 前者だと2019年の4月から2020年8月までに6歳になる子が1年生になるのでその数は現在の1.4倍。後者だと孫たちの学年が例年の1.4倍の人数になってしまう。

 人数が1.4倍になると当然、学級数も増える。教員の方は金を出せばすぐにも集められるが(教職が敬遠される現在は、もしかしたらこれも難しいかもしれないが)、教室が足りないということになると大変だ。
 通常、教育委員会は数年後を見越して校舎の増改築を行っていくが、こんな形での学級増など、考えているはずがない。

 いや教員も教室もそうだが、その前にそれらを増やすための学校予算がどうなるのか分からない。
 国の会計年度は4月始まりだが、学校の会計が9月始まりなるとどう予算をつけてどう決算をはたすのか――。
 もっともそういった難しいことは頭のいい人たちに任せることにして・・・、学校に付随する様々なこと、例えば部活動のことなどを考えるとさらに分からなくなる。

  

【部活や高校野球はどうなるのか】

 9月に新入生を迎えて月末までに入部指導を終え、10月から新体制が始まって11月から市町村大会、12月地区大会、1月に県大会をやって2月が全国大会か。
 裸足で競技を行う柔道・剣道は足が冷たいだろうな・・・と考えているうちに、おい、おい、柔剣道ではないだろう、相撲はどうする、水泳なんかできるのか? 野球だって雪深い秋田や山形からくる代表は気の毒だ。

 野球と言えば高校野球はどうなるのだろう? 夏の甲子園は7月の卒業式が終わったあとだから1~2年生の大会になるのだろう。すると春の選抜大会が3年生の大会ということいなって、ドラフト会議は6月かぁ。指名されなければ就職あるいは進学と考えている子にとっては遅すぎるよな。

 いずれにしろメチャクチャ大変なことは確かだ。しかし大変でもその先に大きなメリットがあれば耐えていくべきだろう。

 

【9月入学のメリット】

 報道によればメリットは二つ。
 ひとつ目は現在休校のために学校に来られない子たちに、来年8月まで、今の学年のままで就学させることで十分な学習機会が増やせること。そうしないと塾やオンラインで学習を進めている子たちとの学力差が縮まらない。
 もうひとつは中国や欧米の大部分が9月始まりなので、それに合わせることで留学等ががしやすくなる点。

 しかしどうだろう? 一点目はともかく二点目。
 この慌ただしく難しい、危険な時期に、何を慌ててエリートやお金持ちのためにこんな大変革をしなくてはならないのか――。

 

【9月入学は産学政府の悲願】

 実は9月入学(特に大学・大学院の)は日本の産学政府共通の悲願なのだ。

 今回のコロナ事態で多少怪しくなったとはいえ、日本の大企業には巨大な内部留保があり、企業はそれを大学に投資して成果を吸い上げたい。いわば紐付きの資金提供で成果を独占したい。それがアメリカの成功の秘訣のひとつで、もちろん日本もそうしたいのだが、そのとき前に立ちはだかっているのが4月入学なのである。

 4月入学であるばかりに世界の優秀な人材を呼び集められない。ノーベル賞級の大学教授を呼び寄せようとしても、日本に赴任する前後で時間的な無駄が生じてしまう。
 THEを始めとする大学の世界ランキングで日本が20傑にも入れない大きな理由のひとつは留学生があまりにも少ないこと、外国人教授が少ないことなどいわば国際性に大きな課題を抱えているからである。
 したがってこのコロナ事態のどさくさの中で、9月入学を一気に進めてしまえば、産学政界すべての人々にとっての幸せなできごとになると言えるのだ。

 

【だからあなたの子は東大に行けない】

 ところで、そのことは将来こどもを海外留学に出す予定などない私たち庶民にとってはどういう意味をもつのか――。
 ひとつは東大・京大など税金が最も多く投入されている大学の定員の、多くを外国人が占有するということである。日本人の枠が少なくなる。
 その結果、日本人学生が大学の階層を一段、あるいは二段、降り始める。

 考えてみるがいい。本来、学問に王道はないのだ。
 学校が休校中、金持ちの子どもは塾やオンラインで高い学力をつけているのに、ウチの子どもは置いて行かれるばかり――それは幻想である。金持ちであろうとなかろうと、勉強をする子はするし、しない子はしない。
 それにも関わらず不安商法に巻き込まれ、9月入学にすればウチの子も伸ばしてもらえると信じてウカウカと乗せられれば、10年の後、東大に行けたかもしれないあなたの息子は外国人留学生に押し出され、せめて三流には入ってほしいいと願った子どもも四流・五流に居場所を探さなくてはならないかもしれないのだ。

 諸般の事情を考えると9月入学への変更などそう簡単にできるものではない。だからそう心配することもないと思うが、美味しいは必ず眉に唾をつけて聞かなくてはならない格好の記事である。

 

いつに再開されるかわからない学校教育を待ってイライラするより、子の技術家庭科能力を高めて、近い将来、自分が楽をできる道を探る方がいい

 いっそのこと9月まで待って新学期を始めようという話が出ているが、冗談じゃない。
 この先4カ月も待っていられるか。
 そのうえで10月以降に新型コロナ感染、第3波、第4波となったらどうするんだ。
 ――と、いろいろツッコミどころのある今の事態だが、
 先が見えないことにイライラするより、
 この際“ウチの子”を優秀な家庭人に育て上げ、調理・裁縫・家庭衛生の肩代わりをさせられるようにしておいたら、きっと未来は楽になる、親にとって。
という話。

f:id:kite-cafe:20200429161818j:plain(「 餃子を作る女の子達6 料理 お手伝い」フォトACより)

 

記事

 日本人の「手作り布マスク」を見て、中国人が「この発想はなかった」と感動するワケ 
      中国は果物の皮で代用しているのに

中島 恵
(2020.04.29 PRESIDENT Online)

president.jp

「中国との違いに驚かされる」と投稿
「日本のニュースやSNSを見ていると、本当に素敵な手作りマスクをしている人が多くてびっくりします。特に知事! 中国との違いに驚かされるやら、感心するやら……」

4月中旬、上海在住の中国人女性が中国のSNSにこんなコメントを投稿しているのを見かけた。そこには中国のニュースサイトで紹介されていた小池百合子東京都知事がしている手作りマスクをはじめ、地元の粋な手ぬぐい生地を使ったマスクを着用している達増拓也岩手県知事、奥さま手作りの鮮やかなマスクをしている玉城デニー沖縄県知事などのマスク姿の写真がズラリ。ほかにデニム生地や福岡県の久留米絣などの素材を使ったマスクも紹介されていた。

(中略)

しかし、日本人が使っているような手作りマスクをしている人は、中国のSNSやニュースでも、全然見かけなかった。その理由はなぜなのか。日本に3年ほど住んだ経験のある中国人女性に聞いてみたところ、こう推測する。

基本的な裁縫ができることに驚いた
「中国でも、特に内陸部に行けば、刺繍をしたり、編み物をしたり、子どもの服を作るなど、手芸をする女性はもちろんいます。手芸というよりも、昔は必要に迫られて作っていた家事の一つでした。でも、現在、都市部の比較的若い世代で裁縫ができる女性はあまり多くはありません。ネットで布を購入して、コスプレ用の派手な衣装を作ったりする若い女性はいるのですが、そもそもミシンがある家庭自体、少ないでしょう。それが理由の一つだと思います。


私が日本に住んでいたときにとても驚いたのは、多くの日本人女性は基本的には裁縫ができる、ということでした。面倒だからしないとか、上手じゃないから作らない、という人も当然いるでしょうが、日本ではほとんどの女性が学校で裁縫を習ったことがあるんですよね。確かに、日本の女性にとって、幼稚園に通う子どもの袋とか、夫のワイシャツのボタンつけとか、日常生活の中で縫い物をしなければならない場面はけっこう多い。

学校のバザーなどもあると聞きました。だから、マスクがないなら布を買ってきて、自分でマスクを作ろうと考える人が大勢いるんだ、ということにも納得します。これは日本人、特に日本女性のすばらしいところだと思います」


中国の主要な公立学校に「家庭科」はない
このようにいわれて私もハッと気づいたのだが、中国の小中学校には基本的に「家庭科」の授業は存在しない。すべての学校で導入されていないのかどうかは分からないが、少なくとも、北京や上海の主要な公立の小中学校には「家庭科」という科目はない。

受験に必要な科目が重視され、勉強以外のことをわざわざ学校で学ぶということは、中国ではほとんど行われないからだ。そのため、手縫いか、ミシンかにかかわらず家庭で習わない限り、縫い物をした経験のある中国人女性は非常に少ない。その女性に「家庭で裁縫が必要になったときはどうするのか?」と聞くと「お手伝いさんかお店の人に頼む」と話していた。中国では、お金を出せば、必ず誰かが商売としてやってくれる。
(以下、略)

 

  この件についてはすでにブログの方でも書いた。

kite-cafe.hatenablog.com  今や我が国においても、親が子に調理や裁縫を教えるということが少なくなった。技能がないのではなく、時間がないのだ。したがって“家庭生活の送り方”といった当たり前のことも、学校で教えなくてはならない重要な項目となり果てた。極めて残念なことである。
 しかしそうした背景があってのこととはいえ、我が国の場合、これをかなりうまくやることができた。

 イクメン・ブームだとか、グルメ男子だとか言っても、基礎的な技術がなければ何も始まらない。その点で早くから家庭科の共修を始めた日本は、今まさに成果が花開きつつあると言えるのだろう。

 私たちは家庭科をもっと重要視しなくてはいけないし、家庭科のできる子をさらに高く評価する必要があるだろう。
 それが今回のコロナ禍の中で学んだ大切なことのひとつである。

 なお私も「家庭科」は日本独自に近いものだと思っていたが、調べてみるとそれに類するものは世界各国で行われていて、平成17(2005年)3月の国立教育政策研究所発表「家庭科のカリキュラムの改善に関する研究-諸外国の動向-」に詳しい。

 ただしアメリカで顕著なように、全体として「Home Economics(家政学)」から「Family and Consumer Science(家族と消費者の科学))といった方向への流れがあり、“家でボタン付けができるように”“お弁当も自分のぶんくらいは自分で作りましょう”から、“服飾デザイナーへの道”“レストランオーナーになるために”みたいな方向に進んでいるように見える。育児も衛生管理も“ベビーシッターになるために”“ハウスキーパーへの道”ということなのかもしれない。
 いずれにしろ、マスクが買えないから自分で作ろう――という方向にならない(もちろんやれる人はいる。そして販売に結び付ける)し、それでいいとも思わない。

 災い転じて福となす――。
 今回の新型コロナ禍は不幸に違いないが、その中にたったひとつでも “幸い”を生み出したいと私は思う。
 例えばいつ始まるか分からない(そして使えるかどうかも分からない)オンライン教育を待つのではなく、子どもと過ごす長い長い時間を、家庭科の学習に使ってみるのはどうだろうか?
 一緒に手縫いマスクをデザインして古い洋服を裁って縫う、あるいは毎日の献立を一緒に考えて、学校再開までの間に10品くらいの調理ができるようにする。

 共同制作は人間関係を近づける。
 家庭人としての子の技能も高まり親子関係も良くなる、こんないいことはないではないか。