キース・アウト

マスメディアはこう語った

ほぼ100%がPTAに入った全員加入時代の保護者除くと、今や誰もPTAに入ったことがない(入っていない)とする不思議なアンケート。それを信じて安易に脱会し組織を潰すと、誰も保護者のために戦ってくれなくなる。組合を失った教職員の二の舞は避けたいところだが、来ないかもしれない危険回避よりも、目の前の面倒回避、かな?

(写真:フォトAC)

記事

 

約4割がPTAで「嫌な体験した」、保護者の本音は? 2000人調査
(2024.03.08 Hint-Pot)

hint-pot.jp

 子どもが小学校入学と同時に加入することが多いPTA。共働き世帯が過半数を占める現代、子どもを取り巻く環境も変わり、PTAのあり方が問われることが多くなりました。SNS上ではPTAにまつわるトラブルなどネガティブな情報が話題になることもあり、実際に運営自体が難しくなっているケースもあるようです。そこで今回、PTAに関するアンケートを実施。見えてきた保護者の本音とPTAの現状について、PTAの専用支援サービスを展開している「PTA’S(ピータス)」代表の増島佐和子さんにお話を伺いました。

 ◇ ◇ ◇

 

PTA加入の現状 約6割が「入っていない(入っていなかった)」と回答
 アンケートは2024年2月19日に、全国の10代から60代以上のYahoo!JAPANユーザーの男女2000人を対象に実施されました。(回答者の年齢構成:10代1%、20代4%、30代12%、40代28%、50代34%、60代以上19%、年齢を教えたくない2%)

PTA加入の現状は「入っていない」人が半数を超える(グラフ略)

 まず、PTA加入の現状を確認するために、「今、PTAに入っていますか?(もしくは過去にPTAに入っていましたか?)」と質問。すると、「入っていない(入っていなかった)」との回答が58%と半数を超え、6割近い結果になりました。

 その理由については「もともと入るつもりはない(なかった)」(32%)、「必要ないと思う」(21%)、「加入は任意だった」(18%)という意見が多数。対して、「入っている(入っていた)」理由では「なんとなく入るもの」(37%)、「周りが入っている(入っていた)」(34%)、「必要だと思う」(16%)という声が多く見受けられました。
(以下略)

 にわかに信じがたいアンケート結果である。
 そもそも無作為抽出と異なり、対象となった「Yahoo Japanユーザー」というのが、良いにつけ悪しきにつけ、社会問題に意識の高い、そして多くの場合時間に余裕のある特別な人たちなのだ。それだけでも十分にバイアスのかかった結果が予想される。
 しかしそれを前提としても、
『PTA加入の現状 約6割が「入っていない(入っていなかった)」と回答』
は理解できない数字だ。タイトルに2000人調査とあるが、ほんとうに2000人もいたのか、いたとして2000人は全員が小学生以上の子どもをもつ(あるいは持ったことのある)保護者なのだろうか?

【全員加入時代の50代以上を除くと、誰もPTAに入ったことがない?】

 1%(およそ20人)もいる10代の回答者は全員が19歳だとしても、「12~13歳のときに親になった小学校1年生の保護者」と考えるのが精いっぱいだろう。2年生の親だの3年生の親だのというと、親になった年齢がどんどん下がってしまう。Yahoo Japanユーザーに限って出産年齢が早いとか、早熟な男子が多いというのも考えにくい。

 あるいは逆に、回答者の53%にあたる50代以上(50代34%+60代以上19%)の大部分が「PTA全員加入の時代」の保護者だったにもかかわらず、現在『PATに約6割が「入っていない(入っていなかった)」』が事実だとすると、40代以下(47%)の全員が非PTA会員で、なおかつ「PTA全員加入時代にも関わらず敢えて入らなかった人」が50代以上に11%もいたと仮定しなければ計算が合わなくなる。そうしないと「約6割(58%)がPTA未経験者」という状況は達成できないのだ。
 調査対象の2000人の中に現役のPTA会員は一人もいない。それなのにPTAに関する調査を行う、かなり異常な状況である。
 
 私はHint-PotやYahooが嘘をついていると考えているわけではない。
 回答者に相当な数の「(未婚などの理由で)子どもがいない人たち」と、子どもはいてもPTAに強く批判的で、活動に参加しなかった人たちがいて、彼らが積極的にアンケートに答えたのではないかと疑っているのだ。
 そもそもがPTA活動に批判的な人々によってアンケートが採られ、記事がつくられたのではないか。

【アンケート内容も恣意的だ】

 アンケート内容を見ても、2番目の項目からして、
「PTAがあったことで嫌だったことはありますか」
と恣意的だ。普通ならこう質問する。
『質問1で、「PTAに入っている」または「過去に入っていた」と答えた方に聞きます。
PTA活動はどうでしたか? 「よかった」または「いやだった」でお答えください』
 嫌だったことがあるという前提では質問しない。
 記事は全体的にPTAに批判的であり、したがってこの記事やタイトルを見ただけで、
「ああ6割もの人たちが入会していないのだ。だったら辞めよう」
と考えるのは早計であろう。

 ネットメディアもマスメディアも信用ならない。人々の不満や不安に火をつけ、煽って炎上させ、記事を売ることに余念がない。記事が売れるなら国がどうなっても、人々がどうなってもかまわないのだ。

【負け犬の遠吠え:集団として誰も学校に物申さない時代が近づいている】

 私は、PTAは絶対に保護者のために必要なものと思っている。これを守るために、保護者は汗を流すべきだと思う。

 前回、3月1日の記事で私は、
『日教組の組織率が2割を切った。教職員の代表者たちは尾羽打ち枯らし、何のパワーも持たなくなった。おかげで彼らのナマの声は政府に届かず、大切なことは雲の上で決まってしまう。そして教職員たちは「働き方改革」という名の賜物が、天から降ってくるのをひたすら祈り、指を咥えて待っているだけなのだ』
と書いた。
 批判したのは現役の教職員たちではなく、積極的に組織を支えようとしなかった私自身と私たちの世代だ。しかし同時に、弱者が組織を失うことの切なさ、苦しさも訴えたつもりだった。けれど今も若い世代は町内会やPTAを無用の長物、迷惑な存在としか考えない。
 
 確かに面倒だ。しかしPTAがなくなったら、誰が学校や教師を監視するのだ? いざという時、誰が代表して抗議し、説明を受けに学校に行ってくれるのだ? 連日連夜、保護者会を開いてもらうのか? 参加し切れるのか? そもそも誰が保護者会を開くよう要求してくれるのだ?

 そのときになって行政が学校にきちんとやらせるよう、期待して指を咥え、祈りながら待っているのか? それとも学校や子どもたちがメチャクチャにされるメディアスクラムを覚悟の上で、マスコミに密告し、煽るのか。

 いずれにしろPTAの、保護者にとって有利な部分だけは残しておかないと、教職員のように「遠吠えする負け犬」になるしかないのだ。

日教組の組織率が2割を切った。教職員の代表者たちは尾羽打ち枯らし、何のパワーも持たなくなった。おかげで彼らのナマの声は政府に届かず、大切なことは雲の上で決まってしまう。そして教職員たちは「働き方改革」という名の賜物が、天から降ってくるのをひたすら祈り、指を咥えて待っているだけなのだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

日教組加入率2割切る 過去最低更新―文科省
(2024.03.01 時事通信

www.jiji.com  
 日本教職員組合日教組)に昨年10月時点で加入している公立学校の教職員の割合は、前年比0.9ポイント減の19.2%で、初めて2割を切ったことが1日、文部科学省の調査で分かった。47年連続の低下で、他の団体を含めた教職員団体全体の加入率は同1.5ポイント減の27.7%だった。

 同省によると、大学と高専を除く公立学校の常勤教職員約101万4500人のうち、日教組加入者は前年比約9700人減の約19万4600人だった。

【昭和の亡霊たち】

 さすがにここ10年ほどはいなくなったが、日本の教育が悪くなったのは日教組の掲げる行き過ぎた平和主義・平等主義・人権尊重ためだと信じる人たちが大勢いて、日教組さえ潰せばかつての偉大な日本が戻ってくると信じる人々がいた(Make Japan Great Again)。しかしさすがに組織率が3割を下回るとその声は小さくなり、2割を切った今(*1)はだれもその話をしない。
 私はかつて日教組をあしざまに言った人たちに聞きたい。
「組合は実質的に潰れてしまったが、日本の教育は日増しに良くなっているのだろうか」

 しかし昭和の亡霊たちはこう答えるのかもしれない。
「日本の教育全体がよくなったかどうかは知らんが、教職員たちが生意気を言って、給与を上げろ、教員定数を見直せ、あるいは仕事を減らせだの言わなくなった――言っても声が小さすぎて届かなくなったのは事実じゃないか。それだけでも十分だ」

 確かに、SNSの「#教師のバトン」などでは現状を嘆く教師の声が未だ衰えないが、そんなものは政府には全く届いていない。不満のガス抜きの場として「#教師のバトン」を用意した文科官僚はやはり頭がよかったというべきだろう。

【教職員はどう行動したか】

 実際に、自分たちの待遇改善のために、教師たちは何をした?
 国内には小中高校の教職員と呼ばれる人たちが100万人近くもいるというのに、誰がプラカードをもって文科省に押しかけた? 全国の駅前で教職員の窮状を訴えるチラシを誰が配った? ひとりひとりの声は小さいからと、集団を組織して誰がシュプレヒコールを叫んだ? 
――もちろんいなかったわけではない。しかしその数は微々たるものだった。

 具体的に行動に出る改革の先兵も、部活顧問拒否、学級担任拒否、時間外勤務拒否と激しい闘争を仕掛けるが、相手が行政の末端の校長ひとりでは、大きく波紋は広がらない。叩いても叩いても根本的な解決には結びつかないからだ。稀に開明的な校長が要望に応え、大胆な改変を行っても次の校長が修復してしまう。強力な背景を持たぬ人間は弱いのだ。

 いよいよ打つ手のなくなった全国の教職員たちは、今や「働き方改革」という賜物が、天から降ってくるのを手を合わせて拝み、指をくわえて待っているしかない。彼らを代表する人々は国会議事堂の中にも外にもおらず、大事なことはすべて雲の上で決まり、降りてくるだけだからだ。
 ”幸い”深刻な教員不足が始まり、タナボタ的に雲の上の人たちも少しは考える気にはなってきている。もしかしたらいいことがあるのかもしれない。

【誰が組合を潰したのか】

 ただしこうなった責任は現職の教師たちにはない。日教組を潰したのは私たち昭和と平成前期の教師たちである。多くの教師が組合を辞めていくのをただ見ていた。新しく教師になった人たちにも、一緒にやろうと声をかけることもしなかった。
 私個人は資格を失うまで組合員でいたが、だからといって活動に熱心だったわけでも若い先生たちを勧誘するでもなかった。いつか組合が衰退した日に責任を問われないよう、組合費という金を払ってアリバイを買っていたようなものだ。
 こうなる日の来るのは分かっていたのに、何もしなかった私たちの罪は深い。

*1:まだ教職員団体全体の加入率は27.7%もある、という考え方もできるが、27.7%中には「全国教育管理職員団体協議会」などというものもあり、それぞれが勝手な方向を向いているので力にはならない。

1年生の児童が遠足中、お茶の購入を要望したのに同行の校長が認めなかった。そのため熱中症で救急搬送されたなどとして、児童と両親が損害賠償を求める訴訟を起こしたという。しかし普通、本人が希望したらお茶を買ってくれなどといって金を渡す親もないだろう。普通は予備の水を持たせる。極めて特殊な事例だ。

(写真:ACフォト)

記事

 

遠足で小1女児の「お茶買いたい」認めず、熱中症で救急搬送 学校側を提訴
(2024.02. 27  産経新聞

www.sankei.com小学校の遠足中に1年生だった女児(8)が茶の購入を要望したのに教諭が認めなかったため熱中症で救急搬送されたなどとして、女児と両親が大阪府八尾市を相手取り、慰謝料など220万円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こしたことが分かった。27日に第1回口頭弁論があり、市側は請求棄却を求めた。

訴状などによると、遠足は令和4年5月末にあり、往復で計約2時間歩く行程があった。母親が前日に体力面の不安から欠席したいと伝えたが、担任教諭から促されて参加を決めた。ただ、水筒の茶が足りない場合は購入を認め、女児が異常を訴えた場合は母親に連絡するよう要望した。

しかし当日、女児が教諭に「お茶を買わせてください」と伝えても校長の判断で認めず、めまいを覚えて「ママ呼んでください」と伝えても聞き入れなかった。下校の際に迎えに行った母親が高熱に気づき、女児は救急搬送されて熱中症と診断。女児側は学校側に「安全配慮義務違反があった」と訴えている。

一方、学校側は答弁書で「様子を確認し、体調に問題ないと判断した。児童に熱中症の症状が出た際は、飲料水を購入することを想定していた」と主張している。


【遠足の概念は変わるのか】

 いずれにしろ女児の命に別条がなかったことは、本・人家族はもちろん、学校にとっても良いことだった。万が一亡くなっていたりしたら、今後の学校はたいへんな重荷を背負うことになっていたはずだ。
 上の記事ではないが関西テレビの取材に応じた保護者は、
「八尾市内でも別の学校では、遠足時に先生方が飲み物を児童向けに買うこともあるようです。しかし娘の小学校では、こうした事態に備えた予備の水を持参することもありませんでした。熱中症の予防は基本的なことだと思います。小学1年生だと、先生が言うことは絶対だと受け止めてしまう。促してでも飲ませる体制でないといけないと思います」
と語っており、その主張の多くはネット市民の支持を受けている。

 しかし途中での購入となれば遠足コースは自動販売機または商店のある場所に限定され、予備の水を用意するとなれば、200mlのペットボトルとしても35人分7kgを担任教師が背負って歩くことになる。重さも大変だがリュックの中に入った35本を想像すると、大きさもハンパではない。いざというときに児童のもとに駆けよって庇えないそんな装備では、引率すること自体が問題となるだろう。

【これは特別な例である】

 ただし八尾のこの事件は特殊過ぎて一般化できない部分も多い。報道がすべて正しければ、まず、

  1. 保護者は前日に体力面の不安から欠席したいと伝えたのだ。したがってこの段階では学校側にも「無理をさせない」という選択肢はあった。
  2.  しかし保護者は担任教諭から促されて参加を決めたのである。体に大きな障害や病気でもない限り、私が担任でも同じことをする。例年と同じであれば遠足のコース自体も無理のあるものとは思えない。小学校1年生にとって皆と同じ経験をしておくことはとても大切である。遠足で育てられるものもたくさんある。それを簡単に捨てはいけないというのは一種の親心である。辛い思いをさせたくない親心もあれば、子どもを成長させたい親心もある。
  3.  しかしそのあとはまずかった。担任は水筒の茶が足りない場合は購入を認め、女児が異常を訴えた場合は母親に連絡することを了承してしまったのだ。それが参加への交換条件のようになったのかもしれない。しかも校長には、おそらくひとことの相談もしていない。だから現場の混乱が起きた。
  4.  この事件の最大のポイントは、お茶の購入と母親への連絡を担任教師が受け入れ、当日参加の付き添いで、事情をしらない校長が拒否したというところにある。
  5. もちろん校長の気持ちも理解できないわけではない。子どもの成長の機会を逃してはいけないというのが一番の理由だが、この学級担任、校長の拒否がなければほんとうに当該の子どものお茶を買って渡したのだろうか?
    その場合「ずるい」「エコヒイキ」といったほかの児童の思いをどう処理したのか。学校で一番嫌われるのは怖い先生ではなく、エコヒイキする先生だ。この先、学級経営はすこぶる難しくなるはずなのに、その覚悟はあったのか。
  6.  常識破りの行動は教師間でも担任教師の孤立を生むだろう。児童どうしでも「エコヒイキされる子」は孤立し、いじめられかねない。そのことを保護者や担任教師は考えたことがあるのだろうか?
  7. 保護者には「行かせたくなかったのに行かせられた」という思いがある。だから「水筒の茶が足りない場合は購入を認め、女児が異常を訴えた場合は母親に連絡する」、その程度の要望は通って当然だと考えた。しかし「『足りなければ買ってもらえる』という条件を与えられた児童は、とうぜん水筒のお茶を節約したりやり繰りしたりしない。結果、早い段階で水筒を空にしてしまう」という当たり前のことには気づかなかったようだ。結果、午後の相当な時間を、児童は「水ナシ」で過ごさなければならなかった。おそらくそれが熱中症の原因だろう。 
  8. 校長の態度は理念としては正しい。ただし午前中、あるいは午後の早い時刻に児童の水筒が空になっていたとしたら、それは現実的な健康上の脅威である。校長の責任で例外をつくり、児童が熱中症にならないように校長の自腹で購入する等、配慮すべきだったのは事実だ。したがって事件としてのこの出来事の責任は校長が取るべきである。


【前例にされそうなことは教師一人で決めてはいけない】

 事例は私たちにさまざまなことを教えてくれる。私たちは事例から謙虚に、多くのことを学ばなくてはならない。しかし過剰に反応してもいけない。
 もし障害や病気でないとしたら、まず「遠足に参加させない」という親の選択が普通ではない。行かせるなら途中離脱、あるいは補給用のお茶を買ってほしいと要求することもまた普通ではない。
 子どもが全員同じことを希望したら、1学年150人もいる学校では販売機に同じものが150本あるかどうかも微妙だし、購入している時間の確保もたいへんである。
 さらに保護者が、
「八尾市内でも別の学校では、遠足時に先生方が飲み物を児童向けに買うこともあるようです」
と言うように、来年以降は「ウチの学校でも昨年、お茶を買ってもらった児童がいたそうです」と言われかねない内容だ。したがってこの件は担任が約束する前に、保護者と校長の間で話し合われるべきだった。そして校長と話し合って折り合いがつかないようなら、その子の欠席もやむを得ないだろう。学校としてできないこともたくさんあるのだ。

【学校は格差を埋める場だ。聞けない親の要望もある】 

 学校は個人の能力の伸長の場であるが、同時に社会を支える人材を育てる場でもある。学校教育にあれほどの予算が投じられるのは、教育に《個々人に任せることのできない部分がある》からである。
 子どもは親のものか、教師のものかという二者択一ならもちろん親のものだが、子どもの人生そのものは子ども自身のものだ。子どもは自らの人生のために、育まれ、育てられ、鍛えられなくてはならない。
 
 自分の思い通りになるなら子どものために何でもするという親から、子どものためとは言え何かさせられるのはまっぴらいやだという親まで、保護者にはさまざまな姿がある。そうした親の言う通りにしていると、格差は広がるばかりだ。義務教育の学校はそうした格差を埋めるものでなくてはならない。それがまっとうな義務教育の理念である。 

英語やコンピュータやその他もろもろの新しい学習によって、学校から子どもたちが駆け回り、しっかり働く時間が失われていく。おかげで子どもたちはすっかり老人化してロコモティブシンドロームに苦しむようになっているという。だが、だったら昔のように走り回らせ、働かせればいいじゃないか。

(写真:ACフォト)

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「前屈」「雑巾がけ」できない…子どもの運動機能に異変「子どもロコモ」とは? 原因は「姿勢の悪さ」や「運動不足」に
(2024.02.20 BSS山陰放送

newsdig.tbs.co.jp

「ロコモ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 年齢とともに、立ったり座ったりする機能が低下した「ロコモティブシンドローム」の略称です。
大人だけなく、子どもたちにも広がっています。その背景にあるのは、「姿勢の悪さ」や「運動不足」です。
年齢とともに、骨や関節などの「運動器」の働きが衰え、歩くなどの動きに異常をきたす状態のことを指します。
一般的には中高年に多く見られますが、近年、子どもたちの間でも、バランス能力や柔軟性が低下した「子どもロコモ」が増加傾向にあるというのです。

全国ストップ・ザ・ロコモ協議会 林承弘 理事長
「たとえばしゃがみ込みができないとか、あるいは体前屈ができない、肩が垂直に上がってこない。もうひとつはバランスが悪いということですね。雑巾がけができない。体を支えられず顔面を打ってしまいます」

日常生活にも支障が出る「ロコモ」。
子どもたちの体に異変が起きている原因は、姿勢の悪さや運動不足です。

全国ストップ・ザ・ロコモ協議会 林承弘 理事長
スマホの姿勢ってのはもうすごく体の姿勢を悪くする一つの原因とも言えるんですよね。運動不足も重なってですね、体が硬くなっている。さらに追い打ちをかけるようにコロナですよね。さらに身体を動かさなくなって。いろんな動作が自分の手じゃなくて出来てしまう『超便利社会』が、逆に言うと、子供たちの体を使うことの経験を減らしてるってことが言えるかなと思います」

便利なものがあふれたことで体を動かす機会が減ったことや、スマートフォンやゲーム機などの普及で全身を動かして遊ぶ機会が減少。
基本的な体の使い方が身についていないといいます。
(以下略)

 割愛した部分に書かれているのは「子どもロコモ」かどうかをチェックするポイントの紹介。実際の子どもたちを調べている様子。そして改善策としての「子どもロコモ体操」の提唱である。
 全国ストップ・ザ・ロコモ協議会の林承弘理事長は
「数分でもいいですから毎日必ず行うこと、それを継続するってのはものすごい大事だと思ってます」
と語っている。しかし待てよ?

 もともとある運動不足とスマホ姿勢が重なって体が硬くなっているところに、新型コロナが追い打ちをかけてさらに子どもが動かなくなり、「いろんな動作が自分の手じゃなくて出来てしまう『超便利社会』が、(略)子供たちの体を使うことの経験を減らしている」ことに原因があるなら、子どもたちがスマホを手にしていない時間に、いろいろなことを自分でやらせ、意図的に子どもたちが身体を動かす機会をつくればいいことではないか。
 学校ならそれが簡単にできるし、そもそも学校というのはそういう場所だったのではないか――。

 朝の活動でグランドを駆け回る子がいて、20分休みも慌ただしく外に飛び出していく子どもたちがいる。昼食もそこそこにまた外遊びに出かけ、放課後も暗くなって教師に怒られるまでいつまでもグランドで遊んでいる。それが本来の子ども姿ではなかったか。
 もう半世紀以上も前の話だが、私が児童として通っていた学校には、朝清掃と午後清掃、さらにそれとは別に全員が屋外に出る外清掃・花壇・畑の時間があった。毎日3回もある“清掃活動”は私たちをウンザリさせたが、身体は強くなったはずだ。

 しかし現代は子どもに、小指の先ほどの痛みも与えてはいけない時代だ。朝の活動の全校体育の時間も減りマラソン大会も水泳大会も縮小される。清掃も一日置きにしてしまった。20分休みがドリル学習のために15分になり、やがて普通の10分休みになってしまう。
 かつて体育は知育・徳育とともに学校教育の三本柱のひとつだったが、英語やらコンピュータやらに押されて見る影もなくなった。

 「子どもロコモ体操」は悪いものではなさそうだ。しかしそんなことをする時間があったら子どもは外に飛び出して遊べばいいのだ。あるいは毎日、掃除をしっかりさせるだけで、しゃがみ込みも体前屈もできるようになり、バランスも良くなって雑巾がけで転ぶようなこともなくなるはずだ。
 ほんらい学校で遊んでいるだけで身につくものをわざわざ「子どもロコモ体操」で補うのは、食事の質をわざと落としてサプリメントで補うのと同様、愚かなことである。

中学校技術科の教員を、2028年度までに全員、正規免許所有者にするという。コンピュータプログラミングが最優先らしい。しかしそもそも10教科(技術科と家庭科を分けて考える)に配当される教員が9人以下の学校が、全国に4分の1近くもあるのだ。技術科を正規で押さえると、美術・音楽が非正規になるが・・・兼務で教えられるのか?

(写真:フォトAC)

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「技術」の中学校教員、23%に正規免許なし…2028年度までの解消目指す
(2024/02/13  読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp


 全国の公立中学校で、2022年度に技術・家庭科の技術分野を教えた教員の23%にあたる2245人が技術の正規免許を持っていなかったことが13日、文部科学省の調査でわかった。文科省都道府県教育委員会などに対し、正規免許を持つ教員の計画的な採用や技術教員による複数校指導の拡大などを求め、28年度までの解消をめざす。

 調査は22年5月1日現在で、中学の技術でプログラミングなどのデジタル教育が拡充されたことから実施された。
 その結果、全国で技術を担当する公立中教員9719人のうち、1709人は技術の免許なしでも指導できる特例「免許外教科担任」、536人は期間限定の「臨時免許」で教えていた。

 文科省都道府県、政令市ごとの免許状所有状況も公表した。東京都や茨城県など6自治体は担当教員の全員が技術の免許を持っていたが、和歌山県や北海道など7自治体では担当教員の半数以上が持っていなかった。
 小規模校の場合、配置できる教員数が限られ、主要教科の教員採用を優先せざるを得ないという。文科省の担当者は「技術は専門性が高いため、地元の大学と協力して教員養成にも積極的に取り組んでもらいたい」としている。

 この記事を、世間の人々はどう読んだのだろう。
 うちの子も、あるいは自分自身も、免許のない教師に教えてもらっていたのかもしれないと思って恐怖したのだろうか。あるいは中学校の技術科くらい、と笑い飛ばしただろうか。
 いやそもそも読売新聞の担当記者は、文科省の発表をどう聞いたのか。記者がさりげなく書いた、
小規模校の場合、配置できる教員数が限られ、主要教科の教員採用を優先せざるを得ないという。
の重さは分かっているのだろうか?

【定数法のことは頭にあったか?】

 学校それぞれの教員の数はいわゆる定数法(「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」)によって決められている。細かな計算が山ほどあるが、文科省のサイトに簡単な例が示されているのでそれを引用しておく。

 ところで中学校の場合、教科担任は何人必要なのか、すぐに答えられる人は案外少ない。9教科だから9人と答えたくなるところだが違う。普通、技術家庭科は技術科と家庭科の2人の担任に任されることが多いので、答えは10人だ。
 技術家庭科という免許があればひとりに任せられるが、大学の工学部で免許を取った教員は家庭科の履修の機会がなく、同じく家政学科を卒業した教員には技術科に関わる科目の履修の機会がない。したがって別免許となるのである。

 さてそこで上の表だ。
 目の智い人ならすぐに気がつくと思うが、6学級の中学校(各学年2クラス)の場合、配置される「教科担任」は9.5人しかいない、つまり全10教科を別々の教科担任で賄うことができないのだ。
 ここに「正規免許なし」の問題が生れる。

【教科担任は教科の数だけ来ない場合がある】

 では10人必要なところに9.5人しか来ないとしたら、学校はどうするのか――そもそも0.5人って何だ? 

 まず考えられるのは0.5だから2校にひとり配置すればいいという考え方である。 授業のある日だけA校・B校、ふたつの学校を交互に訪う、そういった教員を見つけるのが一案。
 もうひとつは、自治体(市町村立中学校なら市町村、都道府県立なら都道府県)が0.5人分の賃金を全額払う方法だ。
 というのは、定数法は教職員数の上限を定めたものではなく、《この人数までは国が賃金の三分一を背負いましょう》という数なのである。したがって予算潤沢な自治体は、金さえ出せばいくらでも教員を増やすことができるのだ。記事の中で、
東京都や茨城県など6自治体は担当教員の全員が技術の免許を持っていた
とあるのはそのためで、特に東京都は23区内の一部で給食費も無償にしようという計画が持ち上がるほど、教育予算はたっぷりある。だから東京を基本に考えると、全国の自治体は首が締まってしまうのだ。
 ところでいったい、6学級以下の中学校は全国にどれくらいあるのだろう?

【6学級以下の中学校は全国にこれだけある】

 下は令和5年度「学校基本調査」から私がつくったグラフである。

 見ると分かるとおり全国の24.3%の中学校が6学級以下、つまり自治体に潤沢な予算のない限り、少なくとも教科担任一人を諦めなければならない学校なのだ。これは記事の、
 2022年度に技術・家庭科の技術分野を教えた教員の23%にあたる2245人が技術の正規免許を持っていなかった
にほぼ対応する。その差の1.3%は自治体が独自の予算を使ったか、別の教科で担任を諦めたかであろう

【技術家庭科が狙われるわけ】

 もちろん教科担任を諦める1教科が数学でもあっても国語であってもかまわない。教科の価値は平等なはずだ。
 しかし価値は平等でも時数は平等ではない。国語や数学は週に3~4時間もあるのに対して、技術家庭科は両方で2時間、中3に至っては1時間しかない。国語科や数学科に比べて、技術家庭科などの教科担任はどうしても週の実働数が少なくなってしまう。

 そこで担当時数の少ない技術科・家庭科(以上週0.5~1時間)・音楽・美術(以上週1~1.29時間)の中で兼務してもらうのがもっとも平等なやり方だと考えるようになる。もっとも音楽や美術は高い専門性を要求されるからどうしてもそちらを優先し、音楽や美術の免許所有者に、技術科や家庭科をみてもらうというのが”普通”になる。それが実態である。(*1
 
 では文科省の指示に従って、
文科省都道府県教育委員会などに対し、正規免許を持つ教員の計画的な採用や技術教員による複数校指導の拡大などを求め、28年度までの解消をめざす。
となると、自治体にはどんな対応のしかたがあるのか。

自治体はどうするか】

 ひとつは、技術科の免許を持った先生にかけ持ちをしてもらう方法である。週2時間×6学級。2校だけではもったいない場合は3校~4校、掛け持ちで走り回ってもらうとさらにいい。しかし膨大な備品管理ができるかどうかは心配。生徒の事故は高くつく。
 二つ目はたいへんな負担を覚悟で、東京都などのやり方を真似する方法である。他の予算を削って、教員を一人雇う。年間に数百万円もかかる人間を、相当な数(学校数)雇い入れるやり方である。しかし多くの自治体ではこれはできまい。
 三つ目は、工業大学や家政大学の卒業生を優先的に採用して、この人たちに技術家庭科の傍ら音楽や美術も教えてもらうことである。できるか?
 四つ目は6学級以下の学校を片っぱし潰してしまうことである。統廃合によって地域の一体性は薄くなり、地元へ戻る若者はさらに減るかもしれないが、他の教科の教員も一気に減らせる方法なので予算的には魅力がある。あとは反統廃合で当選してくる議員がいないことを祈るばかりだ。
 さてどうなるか--。

 ちなみに記事の中にあった、非免許ワーストの和歌山県の規模別学校数は次のようになる。


 和歌山県はどれだけ学校を潰さなくてはならないのか・・・。

*1:ところで、タイトルは「技術」の中学校教員、23%に正規免許なし』なのに記事では、「技術・家庭科の技術分野を教えた教員の23%にあたる2245人が技術の正規免許を持っていなかった」となっている。経験では音楽の女性教諭が家庭科も兼務している例がかなりあって、コンピュータ重視なら少し方向が違うとも思うがどうだろうか?

文部科学省は小中学校の授業時間を5分ずつ減らし、短縮分を各校が自由に使えるようにするという。授業がまた圧迫される。理科や体育では準備の時間もままならない。しかもそうやって生み出した時間は、働き方改革が進まないことへの言い訳に使われるのかもしれないのだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

小中学校の授業を5分短縮、年間で計85時間を弾力的に運用へ…各学校の裁量で自由に
(2024.02.10読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp

 文部科学省は小中学校の授業時間を見直し、学校の裁量を拡大する方向で検討を始める。授業時間を5分短くし、短縮分を各校が自由に使えるようにすることなどを想定している。文科省は次期学習指導要領への反映に向け、今年秋にも中央教育審議会に諮問する見通しだ。
(中略)
 一方、年間の授業時間数は変えない方向だ。現在、小学校の4年以上と中学校は1015コマで、45分授業の小学校では年間約760時間、中学校は約845時間が授業に充てられている。授業が5分短くなれば、小学校、中学校ともに約85時間(5075分)の差が生まれ、これを各校が弾力的に運用できるようにする。

 背景には、子どもの学力や教育環境の地域間格差が広がっていることがある。各校が画一的な授業を横並びで実施しているだけでは対応が難しく、裁量拡大によって学校現場の創意工夫を促す狙いがある。思考力育成を目指した探究活動や、基礎学力定着のためのドリル学習など各校がそれぞれの実情に応じて指導に生かすことを文科省は期待する。
(以下略)

 例えばラーメン店が1日500食のラーメンをつくるとして、それがあまりにも大変な場合には取るべき道が三つある。

  1. 目標を下げる(500食→400食という具合に)
  2.  厨房に入る人数を増やす。もちろんそれだけの人数が入れるように厨房を広げる。
  3.  仕込みの時間を長くする。

 どれか一つを徹底してもいいし、いくつかを組み合わせてもいい。しかし間違っても、目標を高めたり、人数を減らしたり、時間を減らしたりしてはいけない。もし、どうしてもどれか一つを逆方向に運ぼうとするなら、他の二つをさらに強めなくてはならない。当たり前のことだ。

 さて、
 授業が5分短くなれば、小学校、中学校ともに約85時間(5075分)の差が生まれ
というのは言わば朝三暮四の話で、どこからか自然に85時間がわき出して余裕が生まれるわけではない。それどころか授業の各1時間は1割から1割1分程度減らされ、授業全体は苦しくなる。1時間の授業で学ぶ内容は決まっているから、内容を圧縮するしか方法がないのだ。

 さらにそうして生み出した85時間は、
思考力育成を目指した探究活動や、基礎学力定着のためのドリル学習など各校がそれぞれの実情に応じて指導に生かすことを文科省は期待する。
のだそうだが、そこまで限定的に言われて使い道に個性など生まれはしない。さらに教員同士は分断される。

 小学校は学級担任制だから意識されないかもしれないが、中学校の社会科や理科、美術や音楽の先生はたまったものではない。自分の授業の10%が奪われて、それが数学や英語のドリルに使われるわけだ。なんで俺が苦労して授業を縮め数学科や英語科の時間を生み出さなくてはならないのか、誰も納得しないだろう。

 背景には、子どもの学力や教育環境の地域間格差が広がっていることがある。各校が画一的な授業を横並びで実施しているだけでは対応が難しく、裁量拡大によって学校現場の創意工夫を促す狙いがある。
 だったら学習指導要領のしばりをゆるくして、標準時数は「目標時数」または「上限時数」にして、内容も完全履修を求めないようにしなくてはならない。そのためには高校入試を学習指導要領に準拠しないものにしていく必要もあるだろう。
 いずれにしろ、

  1. 目標を減らさない(指導要領の内容は死守する)
  2. 教える人数を増やすわけでもない。
  3. 各教科の時数は減らす。

という状況で、学校現場の創意工夫などと言われても困るのだ。85時間を教員の働き方改革に使うならまだしも、7時間目の授業にあてましょうみたいなこの施策――文科省は何を考えているのだろうか?

 もしかしたら、
「浮いた85時間は児童生徒を家に帰して、先生たちの事務処理・教材研究に使ってもいいのですよ。責任を取りたくないから口には出さないけど――」
ということなのかもしれないし、働き方改革が進まないことをあとで責められた時に、
「だから授業時間を5分ずつ減らしたんだから、その分を先生たちが有効に使えばよかっただけじゃん」
と言うための伏線なのかもしれない。

欧米先進国で長期的な学力低下が続いている。金はあるのに使い方が悪いからだ。コロナ禍も関係ない。先進国はもっと教師に金を使い、優秀な人材を集めるべきだ――という単純な話をするために、とんでもなく回り道をすることがある。

(写真:フォトAC)

記事

コロナ禍の影響も大きく…
コロナ禍で子供の学力が「下がった国」と「上がった国」は何が違ったのか
(2024.01.21 ク-リエ・ジャポン)

courrier.jp

世界を襲った新型コロナウイルスパンデミックは、子供たちの教育に多大なダメージを与えた。だが、その影響の大きな国と小さな国が存在するのも事実だ。英経済紙の記者が、変化の大きい各国の教育事情をレポートする。

新型コロナのパンデミックに対応するために作られたかのような学校制度を持つ国があるとすれば、それはフィンランドだろう。同国にはパンデミック以前から高度にデジタル化された教育システムがあり、遠距離学習の提供は非常に容易だった。

とはいえ、実際のパンデミックの衝撃は凄まじかった。新型コロナの急速な拡大を受けてフィンランド政府が緊急事態を宣言した2020年3月から、クロサーリ総合学校が通常の授業形態を取り戻すまでには1年半もかかった。

ヘルシンキ郊外の小さな島に位置する同校の校舎が完全閉鎖されたのは、わずか数ヵ月のことである。だが地元の感染者数が急増したため、同校は2021年の暮れまでハイブリッド授業を継続した。生徒を複数のグループに分け、ソーシャルディスタンスを守った教室での対面授業と、オンラインのリモート授業をローテーションさせたのだ。

「コロナ期間が生徒たちにとって辛いものであったことは明らかですし、その悪影響はいまも続いていると思います」

そう語るのは、同校の数学・哲学教員であるエスコ・ハウルネンだ。

「生徒たちは知識を身につける以上に、どうやって勉強したらいいのか、グループでどのようにふるまえばいいのか、学校にきて何をすべきなのか、といったことを習得するのに苦労していました。それが学習にも徐々に影響していったのです」

学力低下はコロナ禍の影響だけではない?

パンデミックの悪影響を被ったのはハウルネンの生徒たちだけではない。OECDによる「生徒の学習到達度調査(PISA)」の新たなデータによれば、2018?22年には世界規模でいまだかつてないほどの学力低下が見られる。

結果は衝撃的なものだった。2018?22年のあいだで、ほとんどの国の教育機関において読解力・数学的リテラシーが低下しており、先進国ではとりわけ影響が顕著だった。

2022年におけるOECD加盟国内の15歳の生徒の平均的学習達成度は、2018年のそれと比べ、数学的リテラシーで9ヵ月、読解力で半年相当の遅れが見られた。またOECD非加盟の調査対象44ヵ国(ほとんどが発展途上国)では、この2科目における遅れは約4ヵ月相当だった。

(以下、略)

 大学生などの論文を読んでいると、一生懸命取材したのはいいけれどその段階で時間もエネルギーも尽きてしまい、材料を取捨選択する余裕もなくなってしかし捨てる勇気もなく、しかたないので情報をてんこ盛りしたまま強引に論理を繋げようとして結局ワケが分からない、そういう文章がある。
 この記事はまさにそういうもので、何を言っているのかよく分からないながら、拾ってきた情報には価値のあるものも少なくないので、しかたなく私も拾うことにした。

 かなり長文の記事で、内容が十分に整理されていないため読みにくい面もあるが、示唆に富んだ文言も多くがちりばめられているので、是非とも一読してもらいたいと思う。海外の教育事情について、多少なりとも比較文化論的に書かれている記事というのは、案外珍しいものなのである。

【先進国フィンランドが苦しい】

 記者がフィンランドの教育事情から語り始めたことには理由がある。
 何と言ってもかつての学力大国だし、20年ほど前には日本からも研究者が大挙して視察に出かけた国だからだ。しかも最近は凋落傾向が激しくその様子は今回の記事のうしろの方でも、残酷なほどの表現で記されている。
 生徒間の学力格差および総合的な成績の両方で、最も悪化したのがフィンランドだった。同国はかつて、ヨーロッパ内で最高の教育成果をあげた国のひとつとして知られていた。2018年以来の同国の学力低下は、OECD加盟国内の平均低下率と比較し、読解力で約3倍、科学的リテラシーで4倍である。
 (中略)
 「第一回目のPISAの結果が出たとき、フィンランドは成功のお手本のように見えました。しかしそれから20年を経て、フィンランドの教育への取り組みは問題の解決になっているのか、それとも問題そのものの一部なのか判断できなくなっています」
 
 そんな事情から、コロナ禍に絡めてフィンランドを考えると、なにか出てくるかもしれない、そんなふうに思ったのは無理ないことなのかもしれない。しかし記者自身が言っているように、同国の学力低下パンデミック以前よりすでに始まっていたと考える方が現実的なのである。

 国土は日本の9割程度、しかし人口は550万人と日本の4・6%ほどしかないフィンランド――森林が国土の7割前後という点では似ているが、日本はその大部分が山岳地帯で人が住むのが困難であるのに対して、フィンランドは平地林が広く、人家が点在している。ひとことで言えば、「小さな町がたくさんある」ということである。
 ひとつひとつの学校の規模は小さく、その小さな学校に校長・副校長はもちろん担任・副担任・カウンセラーなどの大人が大量に配属されている、それがフィンランドの学力の高さを保障する大きな要因だった。
 ところが第一回PISAテストで世界の頂点に立った時はすでに、費用のやたらかかるこのシステムは改革されようとしていたのだ――小規模校は統合され、学校の数が減らされることで通学しきれなくなる子どもたちのためにオンライン学習が充実される。
 
 記事によればパンデミックになっていち早くそのシステムが機能し始め、2年近く対面授業とリモート授業が併用で行われるようになった。しかしそのことで生まれた弊害も大きいと、そんな論理で話は進む。しかしそうした進め方はいかがなものだろうか。
「生徒たちは知識を身につける以上に、どうやって勉強したらいいのか、グループでどのようにふるまえばいいのか、学校にきて何をすべきなのか、といったことを習得するのに苦労していました。それが学習にも徐々に影響していったのです」 
 そこまで言ったら大げさだろう。

近年、フィンランドの教育システムには大きな変化が起きている。伝統的な教育科目が解体され、代わりに「現象ベース学習」と呼ばれる手法が取り入れられたのだ。これは生徒が複数の科目を総合的に学びながら問題解決を目指すというものである。高校卒業前におこなわれる大学入学共通試験を除けば、全国共通学力テストが一切存在しないというのも珍しい試みだ。
 「現象ベース学習」――日本で言えば総合的な学習の時間のようなものだろうか、学力が高いことをアテにして余計なものを積み重ねるからこうなる、全国共通学力テストもしないからこうなると言いたげな、悪意ある文である。
 フィンランドの教育事情をコロナに絡めて書けなかったことでの八つ当たりだろうか?

シンガポールは理想の国か】

 フィンランドがダメだからということで、同じくリモート学習が進みながら成績の下がらなかった国の代表としてシンガポールを選ぶのだが、この選択は最初から破綻する。PISAテストの成績が下がらなかったことの説明が、うまくできないのだ。

PISAの分析によれば、子供たちが自律的に学習する力を持ち、かつ教員からのサポートを強く感じられている場合ほど、教育システムの回復力は高まるのだ。
 そう書いて、いざシンガポールの教師たちがどういったサポートをしているのか、調べてみるが答えが出ない。
ほとんどの生徒にとっては、オンライン学習システムを使いこなすことよりも、自律的に学習することのほうが難しい。OECDの調査対象となった生徒のほぼ半数が、週1回のペースの自律学習でもモチベーションを保つことが難しいと答えている。
だとしたらシンガポールでは何か特別のことが行われているはずだ。そうでなければトップの成績を維持できるはずがない――。

 もしかしたら、
教育者の地位が高い国々は、PISAランキングで上位に上がりやすい傾向にある。
 そして
OECDによる国際的な教員調査によれば、シンガポールは教員が自身の社会的価値を最も実感しやすい国のひとつであり、
だから成績が良いのかもしれない――いや待てよ、それもピンとこないな。そうなるとあとはデータ自体が間違っている可能性しか残らないじゃないか――。
 
 その一方で、パンデミックは長らく存在したPISAのデータへの批判を強めることにもなった。これまでの調査でも、多くの先進各国がサンプリングの基準を守れていないのが常であり、これらの国々は自国の教育システム全体を代表するとは必ずしもいえない学校や生徒を調査対象とし、結果を水増ししている可能性があると批判されてきたのである。
 唐突に挿入されたこの文は、要するにシンガポールの順位が高いのはこの国がサンプリングの基準を守らなかったためで、シンガポールの教育システム全体を代表するとは必ずしもいえない学校や生徒を調査対象とし、結果を水増ししている可能性があることを示唆ししているのだ。

 実は私もそう思う。昔から怪しい国だ。
 PISAの結果を見ると、毎回シンガポールが孤高を誇っている優秀なデータがある。
 それはこの国が世界で唯一、成績がトップクラスで、しかも学習における有能感が高く、勉強を好む国なのである。シンガポール以外のすべて成績上位国の子どもは「その教科での有能感を持つことができず、楽しいとも思っていない」
 それはそうだろう。たいていの子たちは苦しみながら学力を上げてくる。楽しいなどと言っていられない。苦しいのはそれだけ才能がないからだが、そんな状況で有能感など持てるはずがない。
 勉強を楽しく感じてなおかつ有能感が持て、さらに十分な成績が取れるとしたら、それはエリートだけである。もしかしたらシンガポールはエリートだけがPISAテストを受けているのかもしれない。
 一部の人々から「明るい北朝鮮」と揶揄されるような国教育について、まともに語ることはできない。何と言っても小学校4年生で人生の行先の決まってしまう国なのだから。

【まとめ:金があればいいというものではない】

 フィンランドを取り上げてみてもダメ、シンガポールでも何も見つからない、そこでいよいよ記事は迷走する。
 最後は「教師を大事にしましょう」「給料を上げてやりましょう」となるこの記事、これ以上ついて行くことはできないので、重要な分だけを抜き出して羅列しよう。

  1. 金があれば、金を使えばいいというものではない。
     OECDは俗に「金持ちクラブ」と揶揄されるように経済的に豊かな国々が集まっている組織である。それなのに学力が伸び悩むのはなぜか――これについて記事は実に簡単な説明をしている。
    子供に対する教育投資の増大は一定のレベルを超えると成果に直結しなくなるというものがある。
    PISAのデータによると、6?15歳の生徒1人当たりに関し、教育投資と成果の相関関係があるのは、投資総額7万5000ドル(約1108万円)までである。
     それ以上の資金を使っても学力が伸びるわけではない、らしい(他の意味はあるのかもしれないが)。

  2. ヨーロッパの先進国とパンデミックの影響が少なかった国との違いとはなにか
    PISAの分析によれば、子供たちが自律的に学習する力を持ち、かつ教員からのサポートを強く感じられている場合ほど、教育システムの回復力は高まる。
    ・例えば、アジア諸国における教育の成功は、生徒の学力への期待の高さ、そして教員と生徒の社会的関係性の強さに起因する。
    ・例として、学校閉鎖にもかかわらず、日本と韓国は2018~22年にかけ、すべての科目で成績を向上あるいは維持しているが、これらの国では
    「教員は生徒と接することに多大な時間をかけ、部活の顧問も担当し、放課後には生徒たちと教室の掃除までします」

  3. 教員は世界中で不足している。
    先進国における深刻な長期的問題のひとつは、教員の不足だ。各学校の校長を対象とした調査によれば、2022年には教員不足がOECD加盟国内の生徒のほぼ半数に悪影響を与えており、これは2018年における調査結果の倍の数値である。この問題がとりわけ深刻なのは、教員不足の影響が全生徒の75%におよんでいるドイツや、影響を受けた生徒数が2018年の4倍となったフランスなどだ。
    教師不足が日本の問題だけではないというのは、新鮮な情報だ。

  4. 世界的に見て、賃金と地位の低さが教員不足の原因となっている
    「教員組合が構成員の幸福と専門性の向上に注力しつつ、他方で政府が総合的にバランスのとれた教員政策をもって教員組合と交渉をおこなっている国々は、教員の確保に成功しています」
     日本はその範疇に属さない。文科省日教組が交渉を行ってバランスの取れた教育政策をつくっていた時代は、とうに終わっている。

  5. 教育者の地位が高い国々は、PISAランキングで上位に上がりやすい傾向にある。
    しかし、富裕な国々では教育の商品化の傾向も見られます。生徒が消費者、教員がサービスの提供者になっているのです。

  6. エストニアはヨーロッパの国々の手本となれる数少ない国のひとつだ。
    同国の教育システムは地域コミュニティに基盤を置いている。結果、各学校には教育素材やカリキュラムの内容について大きな裁量が与えられているが、これはほかのヨーロッパ諸国では真似しにくいものだろう。
    ・国民の大多数は、全教員に大卒資格を義務付ける高水準の就学前教育システムの恩恵にあずかっている。(中略)エストニアでは約90%の子供たちが最低3年以上の就学前教育を受けているのだ。
    ・人口の変動により国中で労働力不足が発生しているなか、教育業界も大卒者に対しほかの職種に劣らない魅力的なキャリアパスを提示していく必要がある。(中略)エストニア政府は、2027年までに教員の給料を平均賃金の120%に上昇させることを約束している。

  7. 失敗したら取り返しがつかない
    真に有用なのは各システムがいかに機能しているかのデータであって、ランキングではない。(しかしただ)国が学校教育政策で失敗すると、それがもたらす経済上の悪影響をあとから克服するのは困難だ。
    ・「早い段階でそれなりの学業成績をあげていない生徒は、後の教育課程や職業訓練過程で成果をあげることが難しくなり、遅れを取り戻すのも困難です。成績の停滞・低下という点に関していえば、私はOECD非加盟国よりも加盟国のほうが心配です」

 色々細かな曲折はあったが、要するに金を使え、もっと優秀は教師を集めよという、きわめて当たり前の結論に、ようやくたどり着いたようだ。