キース・アウト

マスメディアはこう語った

部活の外部コーチが生徒と性的関係を持つという不祥事があった。「学校の常識は社会の非常識~真っ当な人間は学校の外にこそいる」という幻想を打ち破る事件だ。もう戻れないが、やはり本当は先生たちにやってもらう方がいいのだ。しかしあのころ、なぜもっと先生を大切にできなかったのだろう?

(写真:フォトAC)

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中学部活外部コーチが生徒と性的関係、市教委把握後も指導継続 長野
(2024.06.13 朝日新聞デジタル

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 長野県松本市の市立中学校で昨夏ごろ、運動部の外部コーチをしていた市内の30代男性が部員の生徒と性的関係を持つなど不適切な行為をしたのに、学校や市教育委員会がその事実を把握した後も約1カ月間にわたり、部活動の指導を続けさせていたことが、市教委への取材で分かった。市教委は「突然やめると、周囲で理由の詮索(せんさく)が始まり、個人の特定につながるおそれがあった」と説明している。
(以下、略)

【部活動の肥大・加熱は今に始まったことではない】

 部活動の地域移行に関しては、一義的には肥大・加熱しすぎた部活動を、学校及び顧問教師が担いきれなくなったというのが理由である。しかし私は現在の部活が肥大・過熱化してきたとは思っていない。
 私が中学校の教員だった昭和末期は土曜日の授業・午後の部活があったこともあって、休日部活も入れると、1年365日のうち350日は部活をやっていたと思う。休んだのは盆暮れくらいのものだった。朝練もあったし大会直前はいったん家に帰して夜の練習もしていた。土日のいずれかを休み、朝練もなくなった現在の方がよほど沈静化している。

【肥大化し加熱化したのは、学校教育の本体の方だ

 肥大化し加熱化したのは学校教育本体の方であって、総合的な学習の時間もキャリアパスポートも、評価を文章で書く道徳の教科化もすべて平成に入って以降のものだ。追加教育と称される特別教育(いわゆる「○○教育」)も、昭和のあいだは平和教育同和教育(現在の人権教育)、そして始まったばかりの性教育があったくらいなものだった。環境教育だのITC教育だの、薬物等乱用防止教育だのはどれもこれも平成以降のものである。コンプライアンスアカウンタビリティもカウンセリングマインドも学校マネジメントも、およそ日本語で表現できない概念は、すべて平成以降に入って来たもので、だから学校は苦しくなった。
 
 学校教育のすべてを海鮮丼に例えれば、次々と具が入ってきて蓋さえ被せられなくなった丼から、何かを外すとしたら(定評はあるものの)「海鮮(正規の教育課程)」ではない部活くらいしかなく、そこで地域への移行ということが言い出されてきたのである。
 それも昨日今日始まったものではない。もう20年も昔、2004年ごろから外部講師の導入・保護者会による運営という形で、次いで2010年ごろ、今度は「部活動の社会体育への移行」「運営委員会(実際は保護者会長と学校長が担った)による運営」という形で、地域移行が模索されてきたのである。しかしいずれもうまく行かなかった。

【部活動の地域移行の歴史】

 現在の部活動の地域への移行は2018年に文科省が策定した「運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」及び「文化部活動の在り方に関する総合的なガイドライン」を2022年に統合した上で全面的に改定した「学校部活動及び新たな地域クラブ活動の在り方等に関する総合的なガイドライン」に基づいて行われているものである。いったんは2025年度末までに完全移行するとまで宣言したのを、各自治体の悲鳴に近い要請に応えて努力目標へと変更された経緯がある。
 
 なぜそこまで強硬に地域移行を急いだのか――これには三つの理由があった。
 まず初めに、過去二回の失敗から得た教訓。「時期を定めない計画は必ず失敗する」のため。
 第二に、ここにきて教員の働き方改革が問題として急浮上したこと。
 そして三番目に、(今回はこれが一番大きいのかもしれないが)部活内で繰り返される顧問教師による不祥事――体力を考えない過剰な練習・不適切で未熟な技術指導・パワーハラスメント体罰・事故・わいせつ事案などがたび重なり、学校という密室で行われる部活動に非難が集中したこと。一刻も早く、とりあえず管理職の目の行き届かない休日の部活を中心に、子どもを教員から引き離し、よく訓練された専門家のもとに移すことが企図されたのである。

【教師以外だったら誰でもいいという思い込み】

 しかし人材がいないという状況は、過去2回と全く変わってはいなかった。
 地域移行を本気で考えるなら、週日は朝1時間と夕方2時間、休日は土日のどちらか一方で3時間、合わせて週6日、18時間程度の勤務でも十分に生活が成り立つくらいの収入を保証するしかないのだが、どだいそれはムリな話である。さらに今回は、努力目標とは言え、期限を区切っての計画である。とりあえず誰でもいいから引き受けてもらいたいというのが本音になったのだろう。

 休日のよく訓練された専門家の代わりに学生が動員され、現役部員の保護者が渋々と顧問を引き受けた。いずれも5年~10年と続けられる人ではない。その人たちも含め、ほとんどが選手としての経験はあっても指導経験があるわけではなかった。中には本気で自分の持っている技術を子どもたちに伝えたいという有徳の士もいるが、もしかしたら目的がまったく別のところにある“専門家”も含まれてくるのかもしれない。例えば小児愛の専門家、少年愛の専門家、それらをすべて含めた性愛の専門家が、手を挙げているのかもしれないのだ。それでも教員に任せるよりは安心だということもないだろう。

【あの幸せな日々は返ってこない】

 思えば昭和のあいだじゅう、教師もまた部活動を楽しむことができた。本務が今ほど苦しくなかったからだ。
 部はクラスと違って子どもたちが最初から目的を持って入ってくる《目的集団》である。誰でも上手くなりたいし活躍したい。選手になりたいし試合にも出たい、出れば勝ちたい。したがって指導者がしっかりとしてさえいれば、子どもの成長は手に取るようにわかり、指導の手ごたえを感じとることができる。実にやりがいのある世界だった。教師はそれを喜びにできたし、そのための勉強もよくした。
 今となればもう取り戻せるものではないが、あのころの学校と教師を、もっと大切にすべきだったのだ。

【付記】
 学校や市教育委員会がその事実を把握した後も約1カ月間にわたり、部活動の指導を続けさせていたことについての市教委の説明、「突然やめると、周囲で理由の詮索(せんさく)が始まり、個人の特定につながるおそれがあった」を私は信じる。
 なぜなら事件から1年も経った今ごろになって、「部活のコーチが生徒と性的関係を持っていた」といわれても、誰も詮索できないし、できたとしても特定に至らないことはほぼ確実だからだ。これが1年前だったらさまざまに不穏な動きがあったはずである。学校の保護者には聖人から悪党まで、すべての人が揃っているからだ。

札幌市内の中学校の、学級編成書類の情報漏洩事件、マスコミはだれも生徒の非を追及しないが、生徒がスマホで撮影さえしなければ情報は頭の中にしか残らず、これほどの大事にもならなかったはずだ。あんな危険な、そして学校の勉強に必要のないスマホを、誰が学校に持ち込むことを許したのだ? 

(写真:フォトAC)

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生徒“中傷する”内容も…267人分の情報流出し2000万回以上閲覧 教諭が置き忘れ 札幌市
(2024.06.06 日テレニュース) 

news.ntv.co.jp

北海道札幌市内の中学校で生徒267人分の個人情報が書かれた資料が生徒に撮影されていた問題で、内容がネット上に流出していたことが分かりました。その中には、生徒を中傷するような内容もあったということです。

中学1年生267人分の個人情報の一部がネットに流出した札幌市の中学校。SNSで2000万回以上閲覧された画像には、生徒への中傷ともとれる内容が書かれていました。

流出した資料には、生徒の学習状況や友人関係、さらには性格や家庭状況などの個人情報が書かれていて、中には生徒が傷つくような内容もあったといいます。
(以下、略)

【問題の所在】

 さまざまに評価されるニュースであるが、大別すると、
① 学校のセキュリティの甘さを問うもの

  • 職員室から持ち出してよい書類ではない。
  • 書類を紛失した教諭の対応が遅れたことに問題がある。

② 学級編成書類に書かれた内容を問うもの

  • 教師の生徒を見る目が冷たい。
  • まるで悪口・中傷のような書き方がされている。
  • 生徒の学習状況や友人関係、さらには性格や家庭状況などの個人情報が書かれている
  • ADHDやLGBTQの疑いなど、プライベートなことが話題にされている。
  • 家庭や保護者に関する情報まで共有されていることには問題がある。

③ 生徒の質を問うもの

  • 先生の忘れ物に気づいたら届けるのが当たり前ではないか。
  • 中身を見てしまったら畏れて触らないような子であってほしい。
  • 個人情報、特に他人に個人情報は、ネットはもちろん、仲間同士でも共有してはならないのは当たり前だ。

【「お子様無罪」「造反有理」】

 どれもこれも一理ある話だが、③に関してはSNSやニュースのコメント欄には指摘があるものの、マスコミには決して現れない指摘だ。マスコミの「お子様無罪」「造反有理」は今回も徹底している。
 取り上げた日テレの記事も、
「流出した資料には、生徒の学習状況や友人関係、さらには性格や家庭状況などの個人情報が書かれていて、中には生徒が傷つくような内容もあった」
――だからそれを撮影して証拠として残した生徒たちの行動は是認できるし、保護者に見せて大人社会に通報したのもやむにやまれぬ行動であった。
 また、先月24日には市教委が「SNSへの拡散といった事実は認められていません」と発表し、まだ誰も世間に公開していない事実に気づいた“無名の正義の士(=生徒)”は、6月5日になってようやく投稿し、教員の非道を言わば内部告発したのだ。
といわんばかりである。
 子どもは「子どもである」というそれだけの理由で、罪と罰から免れているのだ。

【これが中傷なら学級編成なんてやってられない】

 教諭が紛失した書類は1年生の学級編成のためにつくられたメモだったようで、内容は
 別の記事によると、
 『生徒を「頑張り屋」や「だらしない」と評したり、「低学力」や「周りから信頼がない」と指摘したりしている』(2024.06.07読売新聞
『社会性に欠ける』『ADHD的な面もあり(診断なし)』『女友達が多い。LGBTQかも?』(2024.06.05 HBCニュース北海道
といったものらしい。
 社会性に乏しい子、ADHDの疑われる子は注意深く見ていてやらないとすぐに孤立したりいじめられたりしてしまう。LGBTQの可能性のある子についてはさらに注意深く対応し、職員全員で情報を共有し見守る必要があるだろう。だらしない子も、周りから信頼されない子も、低学力の子も、みんなこれから教師たちが育てて行かなくてはならない子たちだ。頑張り屋さんは教師みんなで覚えておいて、機会があったら誉めてやろう。

 この程度を中傷といって情報交換のテーブルから外し、記録として残すことが否定されるなら、非行もいじめも話題にできない。Aは非行少年だという先入観を与え、Bはいじめの加害者だ、Cはいじめられっ子だと、本人も認めていないことを教員同士て話し合うことも中傷に当たるかもしれない。それらすべてに口をつぐんで、その結果ふたを開けたらいじめっ子といじめられっ子が同じクラスになっていたということがあったとしても、裏で教員同士が個人情報をやり取りしている現状よりははるかにマシである――そんなふうにマスコミ諸氏は思っているのだろうか?

【事件を防ぐ手立ては他にもあった】

 この事件、書類を置き忘れた教師に一番の罪があるのは論をまたない。書かれていた内容については、致し方ないと私は思う。教育評論家は
表現としてもっと別の言い方、考え方とか、とらえ方があるだろう
などと言っているが、4月のクソ忙しい時期にやり取りされる書類に、表現の工夫をするなどとうていできるものではない。
教員は信頼に足る。子どものためにならないことは絶対にしない。
 だから大切なのは何が語られたかよりきちんと隠せたかどうかである。
  
 取り上げた記事の割愛した部分にはまた、
10数名の生徒が資料を見てしまい、そのうち何人かの生徒がスマートフォンで写真を撮っていたことが判明しました。
ともある。
 そうだ、この事件は生徒がスマホを持ってさえいなければこれほどの大事にはならなかったし、情報の流出は頭の中だけで済んだ。それが今回は画像となって世界じゅうに出回ってしまった。学校の勉強に必要のないスマホを、誰が学校に持ち込むことを許したのだ? 

kieth-out.hatenablog.jp

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中教審の提言「教職調整額10%以上に増額」に財務省の財政審が「それは適当ではない」と反論。すり合わせができていないのか猿芝居なのか――しかしいずれは教員社会に出世競争を持ち込んで、給与を上げずともよく学びよく働く教師集団につくり替えようという点では、文科・財務両省の思惑は一致しているらしい。

(写真:フォトAC)

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教職調整額の引き上げは「適当ではない」 財政審が建議
(2024.05.23 教育新聞)

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 財務相の諮問機関である財政制度等審議会は5月21日、国の財政運営に関する建議を公表し、中教審の質の高い教師の確保特別部会が求めている教員の処遇改善に関連して、主任手当の引き上げなど、負担に応じたメリハリある給与体系とするのが基本とする考え方を示した。特別部会の「審議のまとめ」で盛り込まれた教職調整額の引き上げについても、適当ではないと結論付けた。

 建議では、2025年度予算編成で行われる予定の教員の処遇見直しに関して、教職調整額の水準を引き上げるべきだという意見に対し、①人材確保との関係(教職業務の効率化の徹底)②民間や一般行政職とのバランス③メリハリある給与体系(既定の給与予算の活用)④安定財源の確保(歳出・歳入の見直し)――の4つの視点に立った議論が必要だと指摘。
(以下、略)

 さて、状況が読めない。
 あれほどの鳴り物いりで発表した「調整額10%以上増額」、当然財務省との擦り合わせはできているものだと思い込んでいたが、単に餅の絵を描いただけだったのかもしれない。

【調整能力0なのか猿芝居なのか】

 文科省が何かを言い出して財務省が潰す、あるいは財務省が潰すことを承知で文科省が何かを言うということはこれまでもあった。しかし残業代を求める教員に対して、いわば「調整額を10%以上にするからこれで勘弁して」と譲歩を迫る案を出しておいてそれも通らないのでは話にならない。毎日新聞は「中教審案は『0点』だ」とぶち上げた*1が、案が0点というより前に、調整能力が0点では何を言っても絵空事ということになりかねない。
 もっとも先週、調整手当増額に失望と怒りをあらわにした一部の教職員たちはホッと胸をなでおろしているに違いない。調整額10%以上が通ってしまった残業代の話はできないところだった・・・が、どうだろう? 調整額10%以上ですら認めない財務省に残業代を認めさせる目算はあるのだろうか?
 もちろん残業代にしてくれたら総額で「調整額10%以上」よりもはるかに安く抑えます、場合によっては「調整額4%」よりも低く抑えて見せますといった話なら呑むと思うが・・・。
 
 財政審の「それは適当ではない」、しかしもしかしたらそれ自体が猿芝居という可能性もないわけではない。
 文科省の諮問機関である中教審中央教育審議会)が「10%以上増額」などと予算に関わる発言をしたのだ。所割外の発言で簡単に予算が変わるようなら、すべての省庁が黙っていない。あっちもこっちも「増やします」「増やします」では結局実現できないから政府の信頼性にも関わってくる。
 
 そこで水面下では話し合いを済ませ、
中教審が増額を提案」→「財政審が反対する」→「両省、動きが取れなくなる」→「政府自民党が割って入り『まあ、ここは世間の批判もあるから調整額を上げてやってくれ』と財務省を説き伏せる」→「財務省は渋々、ほんとうに渋々受け入れる(ふりをする)」→「メデタシ、メデタシ」
という展開の可能性もないわけではない。これなら全員の顔が立ち、政府自民党も良き教育のためにがんばっている姿を国民に見せることができる。次の選挙ではネタにも使える。印象としては野党より政府自民党の方がよほど学校教育に熱心に取り組んでいるというふうに見えなくもない。メデタシ、メデタシ。
 帰趨に注目していよう。

【透けて見える文科省財務省の共通の動き】

 ところで財政審が示した教員の処遇見直しに関わる4つの観点――どれもこれもひとこと以上言いたくなる内容だが、特に③メリハリある給与体系(既定の給与予算の活用)が気になる。
 既定の給与予算の活用というのは現在の予算額を1円も増やしたり減らしたりしない中で、教員の給与に差をつけ、教師のやる気を引き出せということだ。そこで思い出したのが先月16日、唐突に発表された「公立小中教員に若手指導ポスト新設へ、給与も増額…「主幹教諭」と「教諭」の間に」*2という話である。

 東京都はかなり以前から校長に下に副校長を置いてこの中間管理職が「教員の頭(教頭)」ではなく「校長の次官(副校長)」であることを示し、さらに主幹教諭・主任教諭といった細かなポストを設けて学校組織をいわゆる鍋蓋式(鍋の蓋のように平等な教職員の中央で校長教頭だけがツマミみたいに浮き上がっている形態)からピラミッド型に変更しようとしてきた(あまりうまく行っていないが)。今回、文科省はこれを全国に広めようとしているが、おそらくそれが財務省メリハリある給与体系とリンクする。

 既定の給与予算の活用を前提にポストを増やし、給与に差をつければそこから出世競争が始まる。教員は出世のためにさらに自己研鑽に励み、時間外労働にも文句を言うことなく励むだろう――と、そんなふうに思っているのかもしれない。
 民間企業はもちろん一般公務員の世界も、多かれ少なかれ給与と地位が労働のモチベーションを高める道具として利用されている。聖職者といえど金と地位には弱いはずだ――と卑しい人たちが考えている。 
 もっとも教師の中にも自らの能力に頼むところの多い人たちは、年功序列的な教員社会に横行する(と彼らは言う)「老害」を親の仇のように憎んでいる人も少なくない。学校社会に階層性を持ち込んで能力主義にしていくことには、案外賛成してくれる人も多いのかもしれないのだ。果たしてどうなるのか。
 いずれにしろ注意深く見ておこう。

『教職員の「自腹」年100万円』って、この記事のタイトル、もしかしたら「教師ってマジ大変だぜ! 忙しいだけじゃなくて自腹まで切って仕事しなくちゃならねぇんだ。こりゃあ教師なんて、やっぱ、やるべき仕事じゃねえな」って言っていないかい?

(写真:フォトAC)

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教職員の「自腹」年100万円の例も 7割超が授業などの費用負担
(2024.05.20 朝日新聞)

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 公立小中学校の教職員千人余りのうち、2022年度中に教材費などを自己負担する「自腹」の経験があるという人が7割以上を占め、1万円以上を負担した人が3割を超えていたことが、研究者らの調査でわかった。「公立学校の予算が少ないことや、教職員にとって予算の使い勝手が悪いため、負担を抱え込んできた実態が浮き彫りになった」と研究者らは見る。
(以下、略)

 割愛した部分を読むと調査会社に登録している教職員1034名からインターネットを通じて調査したということだが、ネットに登録するような積極的なもの言う教員たちにはそれなりの偏りがある。年間100万円はウソではないにしても、毎年100万円ずつ数十年も出し続けていると言うこともないだろう。あるとしたら支出の中身と頭の構造を問わなくてはならない。

【私だって自腹は切った】

 もちろん振り返れば私だって1年に100万円近くも使ったことはある。特にワープロ専用機の時代やコンピュータ時代の初期は、学校に使える機械がないためすべて自腹で購入して研修も自腹で行った。
 他にも、30年以上前のことになるが、自分はなぜあんなに学校にいたがるのかと考えたら、コピーと印刷だけは学校にいなければできないと気づいてコピー専用機を買った。月給10万円そこそこの時代に二十数万円もかかったと記憶している。
 コンピュータ時代になっても普通のプリンターでは十分に仕事ができないため、A4プリンターとA3プリンター、それに印刷機代わりのモノクロのページプリンターと3台を使い分けていた時代もある。
 学校でやれば自腹を切らずに済むのに子育ての真っ最中で、家に帰らなければならない時代、教材づくりのためのインク代もトナー代もすべて自腹だった。
 
 持ち帰り仕事のためではなく、学級そのものへの投資も(大したものではないが)自腹だった場合は少なくない。
 教室は目に見える学習環境そのものだから美しく保ちたい。汚いことをしてはいけない、美しく生きなさいという以上は環境も美しくしておかなくてはならない。年間を通じて貼っておくような掲示物はカラー印刷でしかもラミネートしておかなくてはならない。予定黒板も教室の後ろにある括りつけのものでは生徒が見落とす。専用の黒板を用意して前に置こう。
 ガムテープを剥がした後の汚れなどは本当に苦になる。だから私はスプレー式のクリーナーを年に数本を消費する。スプレー式防錆潤滑油も好きでこれは年に2本ほど。その他、落書き消しやシール剥がしのスプレー、汚れ取りのヘラ・ブラシ。
 クラスマッチで生徒が賞を取ればそれを飾る額を買い、窓辺が美しく見えるよう(そして窓際のロッカーの上に座ったり立ったりして落ちるバカが出ないよう)並べて置くプランターも培養土も花のタネも、学年費で落ちないようなら自腹を切るしかない。ときどき切り花も用意する。

【金を払うことが保険である場合もある】

 教員としての私はそうしたものに払う金を惜しまなかった。仕事の効率を上げたり生徒指導や学習指導の効果を高めたりするために必要な金、危機回避のための保険金のようなものだと感じていたからだ。
 ほかの業種だって似たようなことはあるだろう。ITの先駆者たちは企業の指示が出る前にすでに機器やアプリに触っているだろうし、保険の外交員だってノベルティやら販促品を自腹で購入していると聞いた。サラリーマンとしての常識的な範囲を越えて高価なスーツやアクセサリを身に着ける人もいるが、それが仕事の質や効率を上げると信じる人は身だしなみにこそ金を惜しまない。もちろん会社を説得したところで、通る話ではないからだ。
 
 教師も同じで、より良い仕事をしようとすればどうしても金は使いたくなる。もちろん「自腹は切るべきではない。教室で必要なものは公費でやるべきだ」というのは筋だが、言えばやってくれるというものではない。それに「教育委員会に働きかけるには時間も手間もかかるから自腹の方が安上がり」と思うこともあるし、「こちらに予算を回した分、(同じ教育予算の)もっと重要な分を知らぬうちに削られてもかなわん」という気持ちも動く。

【程度問題】

 いずれにしろ程度の問題なのだ。
「百円ショップに行ったらかわいいマグネットクリップがあった。これを教室で使ったら子どもは喜ぶだろうな、そう思って5個買った」
くらいならいい。しかし自分がやりたい授業のために、必要な文房具を児童生徒の人数分購入するとなると、それはダメだ。周りも迷惑する。
――難しいことではない。常識的にやれということだ。

【それにしてもどういう記事だ?】

 それにしても朝日新聞、おまえはどちらの味方なのだ?
 教師に同情的な記事と思うが、タイトルはあきらかに、
「教師ってマジ大変だぜ! 忙しいだけじゃなくて自腹まで切って仕事しなくちゃならねぇんだ。こりゃあ教師なんて、やっぱ、やるべき仕事じゃねえな」」
と言っているとしか思えない。
 

「定額働かせ放題」はそのままに、4%の調整額を10%以上に引き上げることで一応のケリはついた。しかし教員の働き方が改善されたわけではない。教職不人気の現状では人を増やすこともできないが、仕事を減らさないことへの文科省の覚悟も、相当なものだと改めて知らされた。

(写真:フォトAC)

 

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教員確保策、中教審案は「0点」 現職教員らに広がる失望と怒り
(2024.05.13 毎日新聞

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中央教育審議会の特別部会後、「教職調整額の引き上げでは問題は解消しない」と訴える現職教員らの記者会見=東京都千代田区文部科学省で2024年5月13日午後4時46分、斎藤文太郎撮影
 「点数を付けるとすれば0点だ。審議を最初からやり直してほしい」――。13日に教員確保策を取りまとめた文部科学相の諮問機関・中央教育審議会中教審)の特別部会。審議を傍聴した現職教員、大学教授、弁護士らの3団体が同日夕、東京都千代田区文科省内で合同記者会見を開き、教職調整額の引き上げを含む方策は長時間労働の抑制につながらないと批判した。
(以下、略)

【政府・自治体からすれば、調整額増額も残業代も同じだろう】

 おそらく財政的には調整額を残して4%を10%以上にするのも、残業手当を創設するのも大差はないだろう。
 巷間言われるようにこれまでの調整額4%が月の時間外労働の8時間分にあたるなら、10%以上(ここでは仮に10%としておくが)は20時間分以上に相当することになる。だったらその分を残業手当の財源にして、さらにその上で「残業時間の上限を20時間」と決めればいいだけのことだ。
(具体的に言えば次のようになるが、面倒くさい人は青字部分を飛ばして先に進んでもらいたい)
 ボーナスや諸手当を含まない基本給だけだと、教員給与は比較的高い神奈川県で月額322,000円平均ほどになる。現在の4%の調整額はこれだと12,880円あまり。10%の調整額で32,200円ほどということになる。つまり教員数10名の学校を想定すると、支払い側はこれまで128,800円だった調整額予算を322,000円まで増やさなくてはならないことになる。
 この322,000円を調整額ではなく、給特法をなくして残業手当を創設し、その財源にあてたらどうなるだろうか。
 4%の調整額は月8時間の時間外労働に対応したものだから時間給に計算し直すと1,610円が神奈川県の教員の平均時給ということになる。したがって用意された322,000円は200時間分の残業手当として使えることになり、その上で月の残業時間の「上限をひとり20時間」と定めれば、結局は同じことになる。ひとり最大32,200円平均の残業代が手に入るわけだ。

【残業上限20時間は必ず達成できる】

 「残業時間の上限20時間」と言えば「現在、平均で過労死基準を越える80時間以上もの時間外労働をしている教員が、上限20時間で収まるわけがない」と反論されるのは目に見えている。しかし20時間以内に納めることは必ずできると私は思っている。
 
 そもそも給特法のつくられた1972年時点で「月の残業時間の平均が8時間だった」とい部分に首をかしげる人のいないことこそ不思議なのだ。土曜授業があって月に25日もの登校日があったのに残業が8時間――単純計算で毎日19分間の残業をするだけで達成できてしまう時間だ。19分なんて帰り支度をしているだけでも経ってしまうだろう。いかに半世紀前とはいえ、昔の教師がそんなに暇だったはずはない。
 
 「提灯学校(日が暮れてもいつまでも灯りの消えない学校)」という言葉は学校に電灯の入る前につくられたものだ。それくらい昔から教員は遅くまで学校にいた。しかしその遅くまで学校にいた時間のすべてが時間外労働と認められたわけではないのだろう。そのうち学校行事の延長だとか職員会議のはみ出し分だとか、正式に「残業」と認めたものだけを合算したら8時間になったという、それだけのことだろう。
 そして同じ論理は今も流用できる。
 
 残業手当が創設されたとして、職員から教材研究のために残業したいと言われたら、管理職は「ダメだ」と言えばいいのだ。「それでは明日の授業ができない」と言われたら、「キミは何のために大学で4年も学んできたんだ」と言えばいい。ベテラン教師には別の言い方もできる。
 教室の飾りつけのために残りたいと言われても「残業として認めないよ」と答える。運動会の準備が終わっていないと言われたら「なぜもっと早くから手を付けなったのか」と叱る。「通知票が仕上がっていない」と言われたら「一カ月前に『そろそろ始めましょう』って言ったよね」と逆ギレすればいいのだ。その上でどうしてもやってもらわなくてはならないことについては、シブシブ残業として認める。それも20時間以内に収まるように。そんなことを半年も続ければ、教師たちは誰も残業したいなどといわなくなるだろう。誠実な教師は黙って仕事を持ち帰るだけだ。
 管理職と一般職の仲は険悪になり、教材研究のレベルのグンと下がった学校は授業も殺伐としてくる。しかしそれもやむをえない。
 「残業手当が労働時間短縮の決め手だ」と考える人にとっては予想通りの結果かもしれないが、これでいのだろうか?

【しかし結局、残業手当は余る】

 なお、ついでに言えば、教員の中には育児や介護で最初から1分の時間外勤務もできないない人もいる。子育て真っ最中の時期の私たち夫婦がまさにそうだった。そうした人たちは調整額の廃止によって月々の手取りがひとりあたり1万数千円減っただけで何もいいことがない。
 さらに残業できない人たちがいる限り、一人上限20時間の残業手当は余り始める。政府・自治体にとってはありがたいことかもしれないが、割り切れない教師たちはどうしても出てくるだろう。
 そう考えると、私は残業手当の創設ではなく、とりあえず調整額増額を受け入れて、そのあとで先のことを考えればいいと思うのだがどうだろう。

【記事を読んで感じたその他のこと】

  1. 「点数を付けるとすれば0点だ。審議を最初からやり直してほしい」と記者会見で訴えた「有志の会」の人々。私と意見が異なることもあるが、単なる「有志の会」が教員たちの代表であるかのようにマスメディアで扱われることには強い違和感がある。しかし労働組合が有効に機能していない以上、仕方ないことなのかもしれない。

  2. それ以外の教員の声はネットの中にしかない。SNSには毎日大量の不平不満と慨嘆と提案が吐き出されているが、文科省に行ったとか国会に動員をかけたとか首相に直訴したといった話はいっこうに出てこない。せいぜいが行政の末端の校長と対決して打ち負かしたという程度の話だ。しかし校長なんて捨て石。交代すればいくらでも元に戻ってしまう。

  3. 調整額を10%以上にというのは法改正と予算措置を伴うもの、だから当然財務省とは話がついているのだろう。私は35人学級が小学校6年生まで行き届く来年度まで、教育予算は1円も増えないと思っていたので驚いた。文科省もよく頑張ったといえる。

  4. ただし教員の働き方改革の観点から言えば、それは本筋ではない。教員を増やすか仕事を減らすか、あるいはその両方を同時に行うしかない。それが行うべき働き方改革である。

  5. 確かに教員を増やすという方向は、予算的にも、また募集したところで応募がないという現状では不可能である。だとしたら仕事を減らすことが、財政的にも手続き的にも簡単なはずである。ひとこと通達するだけで済む。

  6. ところが文科省は、
  • 指導要録から「道徳や総合的な学習の時間の所見欄をなくす」(そうすれば通知票からもなくなる)とか、
  • キャリア・パスポートを廃止するとか、
  • キャリア教育をなくすとか、
  • 食育をなくすとか、
  • 小学校英語やプログラミング学習を一時停止するとか、
  • 国学力学習状況調査を悉皆から抽出にする、あるいは完全に辞めてしまうとか、
  • そもそも総合的な学習の時間をなくしてしまうとか、

――目安としては平成以降に学校に導入されたものをひとつひとつ減らしていくだけで、昭和の落ち着いた学校と大量の教員志望は戻ってきそうなものなのに絶対に口にしない
 財務省と喧嘩して金を出させることはあっても仕事を減らすことは絶対にないと、とてつもなく強い力で覚悟を決めている様子が見られるのだ。しかしその理由は私には思いつかない。平成以降の教育政策のひとつひとつに、過去の偉大な政治家や官僚の名前がついているとでもいうのだろうか――。

有能で教育に熱心な講師は、来年度当初、学校からいなくなってしまう。超多忙な4月の学校を避けて、5月の教員採用試験に備えるためだ。大丈夫、5月が終われば新規採用教師の誰かが倒れ、講師の口はいくらでも出てくるさ。

(写真:フォトAC)

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教員採用試験 実施日の目安「標準日」 来年度は5月に前倒しへ
(
2024.04.26 NHK)  

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公立学校の教員の採用倍率が過去最低となる中、文部科学省は教員採用試験を実施する日の目安となる「標準日」を、民間企業の面接の開始より早めるため、今年度の6月16日から来年度は5月11日に1か月以上前倒しする方針を固めました。

昨年度採用された公立学校の教員の採用倍率は3.4倍と過去最低となり、中でも小学校は2.3倍と5年連続で過去最低となっています。
(以下、略)

【社会情勢や制度の割を食う人々】

 世の中には本人の能力とは無関係に、社会情勢や制度のために割を食って苦しい生活を強いられる人たちがいる。
 就職超氷河期の卒業生がそうだし、それに比べたら大したことはないが、教育関係では免許更新制度のもとで自腹を切って何時間もの講習を受けたひとたちも同じだ。2回受けた人と1回しか受けなかった人、全く受けずに済んだ人の違いは“運”と”年齢”だけである。

 東京都の公立学校の副校長たちは4~5倍という競争率に阻まれてなかなか校長になれず、一般教員をはるかに上回る超多忙のまま定年を迎える人もいるという。出世の階段の1段目である主幹教諭になるときも2段目の副校長になるときも1・1倍というゆるい試験だったのに、校長昇任だけがなぜ難しいのか、一校における校長と副校長の数は同じはずだから、校長がひとり退職するごとにひとり繰り上げればいいだけなのになぜ急に4~5倍なのか――。
 実は校長の抜けた分を副校長で埋めるのは容易ではないのだ。なぜなら校長が抜けるたびに副校長を繰り上げていると、もともと1・1倍しかない実務の要、超多忙な、超重要な副校長の席が、空いてしまうのだ。そこを埋めようと主幹教諭を繰り上げると、ここも1・1倍だから席が空く。
 かくて副校長や主幹教諭の席が空かないよう、再任用校長を多用して校長の席を埋め、副校長の出世の道をふさいでいでしまう。校長昇任4~5倍はこのようにつくられる。本来は主幹教諭や副校長の席に魅力があって、応募が殺到すれば、何の問題もない話なのだが――。

【「講師」という立場の人たち】

 全国の公立学校には「講師」という便利な職がある。「便利」というのは設置者にとっての便利なのであって、講師本人や児童生徒にとって便利なわけではない。正規職員は、本人に問題のある場合でさえクビにするのが難しいのに対し、講師は簡単に捨てられる。「学校で正規職員がひとり療休に入ったから来てください」と招聘し、「療休が明けるので辞めてください」で辞めてもらうこともできるのが「講師」だ。
 臨時ではなく、年間を通して置かれる講師の席もある。彼らが常駐する最大の理由は、少子化による将来の学校減・学級減、ひいては職員の削減に備え、「やがて潰してしまう緩衝材」として役割を担わされているからだ。いつか減らさなくてはならない枠に、制度上きわめて辞めさせにくい正規職員を置くわけにはいかないのである。

【誠実な講師はいつまでたっても「講師」のままでいてくれる】

 中には講師暦10年~20年といった猛者もいて、正規教員よりもはるかに優秀な場合も少なくないのに「講師」のままだったりすることがある。彼らの多くは「講師」であり続ける不都合も、甘んじて受け入れる覚悟のできた人々である。
 講師も4~5年目くらまでは真面目に採用試験を受けているが、何年も落ち続けるうちにやがて意欲を失う。落ちる理由が能力ではなく、「おそろしく多忙で受験勉強もできない」状況のためなので、大学生とまともに戦っても勝てる気がしないのだ。ここ数年は有利な条件も提示されるようになったが、「講師」が必要とされる状況が変わらない以上、「講師」にとって採用試験は楽にならないようにできているのである。
 
 かつて夏休みに行われていた採用試験が7月上旬に繰り上がり、さらに6月まで繰り上げられると多くの「講師」が受験すること自体を諦めた。設置者にとって「講師」が「講師」のままでいてくれることは都合の良いことだったから、誰も手を打たなかったが、それがさらに早まって5月上旬になるという。講師はもう絶対に受験ができない。
――と、しかし待てよ、そこまで早まると逆に話は違ってくるかもしれない。

【講師はむしろ対応しやすくなる?】

 殺人的に忙しい4月を終えてすぐの採用試験など、基本的に100%ありえない。しかし4月当初は講師に応募せず、5月11日の受験を果たした後で応募しようとした場合、それでも講師として採用される可能性はあるのだろうか――。
 いや、ある。それが現在の答えである。
 
 5月~6月、あるいは7月あたりまで待てば、必ず講師の仕事はある。なければ別のアルバイトでしばらく凌げばいい。これまでだって苦しかったのだ。もうしばらく頑張れば道は開ける。今から貯金をして2~3か月は生活できるようにしておこう、そして4月からは本格的な試験勉強だ――。
 
 かくて学校は4月当初のフルタイム講師を失う。
「今年度3学期いっぱいは講師を続けながら勉強し、4月から5月11日までは休んで試験勉強に専念し、採用試験合格を目指します」
 そう言われたら校長としては応援せざるを得ないだろう。その上でどこかから別の講師を見つけてくるとしたら、とりあえずは正規を目指さないことが確実な定年退職の元教員たちに頼むしかない。しかし確実に学校同士の奪い合いになるから、果たして思惑通りいくかどうか。
 先の講師と密約を結び、試験が終わったらすぐに戻ってくることにしても、4月~5月の超繁忙期だけを、引き受けてくれる講師などいるものだろうか。
 私はごめんだ。

【場当たりな政策! 余りも場当たり的な!】

 かつて教員免許更新制が始まった時、
「こんなことをしていたら、『講師』になってくれるかもしれない退職者やペーパー・ティーチャーが、みんな免許失効になってしまうじゃないか」
と現場は危惧し、まったくその通りになってしまった。いままた4月当初の講師のいなくなるような制度改変を行って、ほんとうに大丈夫なのだろうか?
 文科省の役人がバカだからそうなっているとは思わない。百も承知で、しかし場当たりな政策を打つしかない状況がきっとそこにはあるのだろう。

東京都をまねて、文科省は全国の公立小中学校に若手教員を指導する新しいポストをつくるという。指導と言っても実際の教員にはそんな余裕がないから、単に校内が分断するだけだろう。学校にヒエラルヒーを持ち込むことで出世競争を促し、競争を通して教員の質を高めようとする石原都知事の亡霊は、今も都庁をさまよっているのに。

(写真:フォトAC)

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公立小中教員に若手指導ポスト新設へ、給与も増額…「主幹教諭」と「教諭」の間に
(2024.04.16 読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp

 文部科学省は、公立小中学校に若手教員の指導にあたるポストを新設する方針を固めた。校長ら管理職を補佐する主幹教諭と一般の教諭の間に位置付け、給与も増額する。文科省中央教育審議会でも議論されており、近く中教審が示す素案にも盛り込まれる見通し。
(以下略)

 記事を読んだ人たちはこの内容をどう判断するのだろうか?
 今年は間に合わないにしても、ちょうどいま、年度当初の殺人的スケジュールに窒息しかけている若手の教員に対し、来年度以降は新設のポストの教師がピッタリと張り付いて指導・支援をしてくれる――そんなふうに考えるのだろうか? 4月を乗り切れば多少は楽になるが、そうなったら“新しいポスト”の教諭は自在に活動し、休んだ教師の代わりに授業に入ったり、多忙な教師の補佐をしたりと、そんなふうに働いてくれると、理想的な教育制度を思い浮かべるのだろうか? もしそうだとしたら、それは砂糖入りの蜜よりも甘い夢だ。
 
 現在の「主幹教諭」ですら学級担任を持ち、授業を行っているのだ。“新しいポスト”の教諭がフリーで学校に常駐するなどありえない。今回も手本になるらしい東京都では“新しいポスト”に相当する「主任教諭」が2009年から教諭全体の4割にもなっているという。この4割もが授業も担任も持たないとしたら、学校教育は成り立たないだろう。
 実際には普通の教諭と同じように学級担任や教科担任をもち、同じだけの業務をこなした上で、若手教員の指導を担わされているのだ。給与の増額分を考えると、真面目にこなせる役職ではない。
 
 ただし、主幹教諭や副校長と違って主任教諭になることへの抵抗感はさほど多くない。なにしろ4割もいるのだ。人数が多ければ多いほど責任は薄くなる。なったところで仕事量が劇的に増えるわけではないし給料も上がる。
 主幹教諭や副校長は責任の重さが違う、仕事量も違う。給料は上がるといっても東京都の場合は企業との競争もあって、一般職の給与自体が元々いいから、あまり魅力的ではない。
 かくして昇任試験の受験者はさっぱり増えず、主幹教諭・副校長の試験倍率は2008年以来ずっと1.1倍程度のままである。しかも主幹教諭の場合、図式的に言えば120人欲しいところに110人しか受験に来てくれないので10人落として1.1倍と、そんな状況が10年以上も続いている。
 
 それなのに校長任用試験だけが4倍と突出しているのはなぜだろう?
 一般には副校長にまでなった以上、最後は校長で終わりたいと思うのが人情だとか、一普通の教諭に増して殺人的な副校長職を一刻も早く抜け出したいという思いがあるからだと説明されるがそうではない。
 校長のポストに再任用の校長が居座って、席を空けてくれないからである。希望者に対して席が足りなすぎる。
 ただしそれは再任用校長が欲深いわけでも都教委が忖度しているわけでもなく、再任用校長が一斉にいなくなってしまったら、副校長を一斉に昇任させざるをえず、ただでも希望者の少ない主幹教諭・副校長のポストに穴が開いてしまうからなのだ。校長なら再任用でやってもいいという人はいるが、命も削る副校長職の希望者など、なかなかいそうにない。校長の仕事は誰でもできる(だから民間人校長もいたりする)が、副校長はそういう訳には行かない。何が何でも有能な教員でなくては困る。
 かくて校長の席は空かず、気の毒なことに多忙な副校長をやり続けたままで定年を迎える人が出ている――それが東京都の現状だ。
 
 文科省はそんな制度を全国に広げようとする。
 およそ20年近く前、東京都の教育行政に大ナタを振るった石原慎太郎という都知事は、管理職が教頭・校長しかない学校の仕組みこそ諸悪の根源と考え、組織をピラミッド型の一般社会型に替えようと考えた。教職員が出世の階段に殺到し、互いに競い合って教育力を高める教員社会を築こうとしたのである。教員同士が仲良くやっているようではダメなのだと、彼らは思った――しかしその結果はどうだったか?
 
 文科省に失敗した東京都の教育制度を全国に広めよと圧力をかけているのは、誰なのだろうか?