キース・アウト

マスメディアはこう語った

今でもOECD平均より少ない日本の授業時数。それなのに子どもたちの学力は世界トップクラスなのだ。数字だけでは見えてこない学校教育の力。授業時数削減を云々する前に、考えておくべきことがあるだろう。

(写真:フォトAC)


記事

 

日教組、OECD比較で最低水準の授業時間提言 小学校で年875コマ 中教審特別部会
(2026.10.15 産経新聞オンライン)

www.sankei.com

令和12年度から実施される次期学習指導要領を巡り、日本教職員組合(日教組)は15日、年間の授業時間を現行の1015コマ(小学4年~中学3年)から引き下げ、小学校で875コマ、中学校で945コマとするよう求める意見書を明らかにした。経済協力開発機構(OECD)加盟国の年間平均授業時間は、小学校で804時間(2025年)。日教組案のコマ数を時間に換算すると660時間でOECD最低水準となる。
(以下、略)

評

 力を失ってもう誰も見向きもしない日教組に焦点を当てた記事が、久しぶりに大手マスコミに載ったと思ったら、叩くための拾い出しだった。死者に鞭を打ってもしかたないと思うが、産経もなかなかしつこい。しかも記事に悪意がある。
経済協力開発機構(OECD)加盟国の年間平均授業時間は、小学校で804時間(2025年)。日教組案のコマ数を時間に換算すると660時間でOECD最低水準となる。
 もちろんウソではない。しかし授業時数がOECDで最低になって何が困るというのだろう? 

【今でも授業時数は少ない】

 文科省幹部は現行のコマ数について「子供の基礎学力を維持するために最低限必要な水準だと思っている」と語ったというが、同じOECDのPISAテストで、日本の子どもたちは三領域すべてで、加盟国1位なのだぞ。
 その世界一の日本の子どもの学力を、維持すべき『基礎学力』だとするなら、他のOECD諸国の子どもの学力は何だというのだ? 
 これではまるで、年収2千万円ほどの小金持ちが、
「今の時代、この程度の年収は最低限でしょ。これ以下じゃあ生きて行けない」
と言っているのと同じだ。

 件の文部省幹部は暗に思っていることを、声に出して世界に言ってみるといいのだ。
「日本以外のOECD加盟国の子どもたちは、全員、基礎学力さえおぼつかないバカ!」
 何とも傲慢でおぞましい話ではないか。

【日本の児童生徒は、まず人間的に優秀だ】

 しかも日本の子どもたちは、並外れた努力によって世界トップクラスを維持し、しばしば一位に輝いているわけではない。
 おそらく産経新聞はワザと計算して見せないのだが、現行の学習指導要領に基づく年間授業時数1015コマも、日教組の875コマを660時間に換算したのと同じやり方で計算するとわずか761時間。つまり現在でもOECD平均より43時間も少ない。
 しかし同時に、そのことをもって、日本の学校や教師は優秀だというのも間違っていると私は思う。優秀なのは児童生徒の方だ。

 以下は、OECD生徒の学習到達度調査(PISA2025)で行われたアンケートの一部である。理科に関するものだけで、数値は「まったく、又はほとんどない」と答えた割合(つまり問いを否定する割合)だが、日本の学校の教室の雰囲気が、如実に伝わってきそうな数値である。思い描いてみるといい。思い描いてみるといい。日本の学校にいるのは、単なる『ガキ』ないし『子ども』ではなく、学習しようとする意志と意欲をもち、それが習慣となっている『児童・生徒』なのだ。

  • 生徒は、先生の言うことを聞いていない。
    (「まったく、又はほとんどない」と答えた割合)
      日本 60.8%  OECD 23.2%
  • 授業中は騒がしく、荒れている。
    (「まったく、又はほとんどない」と答えた割合)
      日本 65.8%  OECD 23.8%
  • 先生は、生徒が静まるまで長い時間、待たなければならない。
    (「まったく、又はほとんどない」と答えた割合)
     日本 77.6%  OECD 35.2%
  • 生徒は、授業が始まってもなかなか勉強に取りかからない。
    (「まったく、又はほとんどない」と答えた割合)
      日本 74.3%  OECD 38.0%

(OECD生徒の学習到達度調査 PISA2025のポイントP13「科学コンピテンシーに関係する質問調査の結果(理科の授業における教師の支援)」より)

 なぜ、こんな優秀な子どもが育ってきたのか――。
 そこが日本の学校教育の特徴なのだが、今日は十分な時間がない。とりあえず簡単なヒントだけを列挙しておくが、いずれも言うは易く、行うに難い内容である。

  • 入学式や始業式によって、学校が「特別な場所」であることを意識づけること。
  • 運動会や文化祭、合唱コンクールなどを通して集団性を高め、“ともに成長しようとする仲間”意識を育てること。
  • 給食当番を始めとする係活動や清掃を通して、行うべきことを淡々と行う気風をつくること。忍耐強さを育てること。
  • 理科の実験や社会科における社会見学、修学旅行、その他、体験を重視した学習によって、学習内容の現実的・具体的な意義を理解させること、

等々――。

【私も時数を減らすことに反対だ】

 日教組の時数削減案を、「OECD諸国で最低になってしまう」と単に数字だけで非難する産経新聞にも同調できないが、学習内容を減らさずに時数だけを減らすことには私も反対だ。
 大盛カツ丼の中身を減らさずに器だけ小さくしたら、ご飯をソフトクリームのように積み上げ、煮カツをご飯の山の山腹に立てかけるしか方法がなくなる。それでは苦しいし、しばしば落ちこぼす。
 かといって、特別活動(学校行事や学級会活動、児童生徒会活動など)を大幅に削減することは、大盛カツ丼から煮カツを減らすようなものだ。誰が白米の山頂に一切れ煮カツを乗せたものをカツ丼と呼ぶのだろう?

 米は今の半分でもいい。総合的な学習の時間だの小学校英語だの、あるいはプログラミングだのICTだの、あとから追加した高度なものは、全部、取っ払うがいいのだ。それでおいしいカツ丼が保全されるなら。

学力世界一も、清潔な社会も、治安の良さもほどほどでいい。サービスやおもてなしも時間の正確さも、すべて世界水準でかまわない。とにかく情報技術に優れた国家をつくりたい――新学習指導要領はそう宣言するらしい。

(写真:フォトAC)

記事

 

情報教育以外、3~4%削減 小中学校授業
(2026.09.26朝日新聞)

www.asahi.com

 2030年度以降に始まる次期学習指導要領で情報教育が拡充されるのに伴い、文部科学省は25日、小学3年生~中学3年生が1年間で学ぶ国語や算数など各教科のコマ数について、一部を除き現在から一律3~4%ほど削減する方針を示した。詳細な削減幅は、次期指導要領の内容を告示する26年度末までに決める。
(以下、略)

評

 記事の後半の割愛した部分には、
 コマ数が減る教科については、教科間や学年間で重複する内容を整理するなどして、必要な学習内容は維持する、
とあるが、現行学習指導要領に「教科間や学年間で重複する内容」があるとは思えない。もしあるとしたら、過去の官僚の怠慢ということになる。しかし、まさかそんなことはないだろう。すでに十分に絞り込んであるのだ。

 それにも関わらず国語や算数など各教科のコマ数について、一部を除き現在から一律3~4%ほど削減するというのは、学習をさらに窮屈にするということに他ならない。


 同じ量の内容をより短い時間で学習するとなれば、全体の学力低下につながり、授業から漏れ落ちていく子どもはさらに増えていく。しかしそうした事態を見越しても、情報教育を充実させることには意味があるということなのだろう。

 そもそも私には国語や算数・数学を犠牲にするに足る情報教育というものが想像できない。ハードとしてのコンピュータは数学や理科のかたまりだし、AIのプロンプトは国語によって書かれるのが普通だと思うからだ。しかし政府は情報教育重視に向けて教科指導を犠牲にする方向へと、大きく舵を切ろうとしている。
 もう「読み・書き・そろばん」の時代ではないのだ。基礎学力が多少落ちるという犠牲を払ってでも、情報教育を推進することには意味があるようなのだ。

 ただし政府もマスコミも、忘れないでいて欲しい。
 今は三領域のすべてで世界一位となっているPISAテスト(OECDの学力国際比較)で、仮に順位を落としたとしても、それは学校のせいでも教師のせいでもないということだ。人間の行うことには有機的なつながりがある。あちらに力を入れればこちらが抜ける。こちらで何かをねじ込めば、どこか向こうで押し出されるものがある。

 いまや世界にはAIを見直し、コンピュータを使った学習に一定の歯止めをかけようとする動きも見えるようになってきている。それなのに日本は一気に情報教育中心の学校へと突き進もうとするのだ。
 道徳教育の実践学習の場でもある特別活動や、基礎基本を押さえるための教科学習を犠牲にしても、情報技術の専門家を一人でも多く育てる――政府のその覚悟だけはしかと伝わってくる。

せっかく学力世界一になったのだから、そのまま誉めて頑張らせればいいのに、なんで政府もマスコミも世界標準を目指すのだ?

(写真:フォトAC)

記事

 

OECD国際学力調査、日本が数学・科学・読解で1位を総なめ…AIの活用は最下位圏
(2026.09.12ハンギョレ)

japan.hani.co.kr


 経済協力開発機構(OECD)が8日に発表した「2025年国際学力調査(PISA)」において、加盟国の中で日本が「数学・科学・読解」の全分野で1位となり、その背景に注目が集まっている。
 OECDが同日に発表した国際学力調査の結果によると、日本は評価対象91カ国の中で、読解力が4位、数学と科学でともに5位を記録した。全参加国の中で、中国(北京・上海・江蘇省・浙江省)が数学(612点)と科学(597点)で1位となり、読解力ではシンガポール(535点)が最も高い得点を記録した。中国とシンガポールはOECD加盟国ではない。
 評価対象をOECD加盟38カ国に絞ると、日本はこれら3分野すべてで1位を獲得した。

(以下、略)

評

 この件*1に関して日本国内にさまざまな記事があるのに、わざわざ韓国のハンギョレを引用したことには理由がある。

【世界のトップ5は、びっくりするほど意外な顔ぶれ】

 ひとつは今回のPISAテストで実際に1位だったのは日本ではなく、読解はシンガポール、数学・科学は中国だったという事実から話を始めたのは、ハンギョレだけだったからだ。
 日本は読解が4位、数学と科学は5位だったに過ぎない。それなのに3分野1位と書くのは、シンガポールも中国もOECD加盟国ではなく、中国は市または省として参加しているにすぎないからだ。

 ちなみに3分野のトップ5は、すべて東アジアの同じ国・地域・都市――具体的に言うとシンガポール、中国(北京・上海・江蘇・浙江)、台湾(チャイニーズ・タイペイ)、マカオ(中国)、そして日本が、入れ替わりで入っているだけである。
《科学》1位中国、2位シンガポール、3位マカオ、4位台湾、5位日本
《数学》1位中国、2位シンガポール、3位マカオ、4位台湾、5位日本
《読解》1位シンガポール、2位中国、3位台湾、4位日本、5位マカオ

 さらにいうと、日本以外の四つ(中国・シンガポール・台湾・マカオ)、そして今回惜しくも日本の後塵を拝した韓国・香港には、OECD非加盟(韓国以外)という以外に、学力に関するある特別な共通点がある。
 それは、
PISAテスト、トップクラスの常連国・地域・都市でありながら、一度も日本の手本になることはなく、日本から視察団やマスコミが行くことのなかった国・地域・都市
ということだ。フィンランドがPISAを席巻した時にはあれほど多くの政府関係者・マスコミ関係者が駆けつけたというのに――そしてフィンランドの教育を紹介する多数の報道・論文・著作が出されたというのに、中国などに関して「学力大国、中国の秘密」とか「シンガポールの子どもはどう育てられるか」などといった書籍は出たためしがない。

 理由ははっきりしている。私たちはこれらの国や地域でどんな教育が行われているか、かなり知っており、1970年前後の日本と同じようなその姿に、「あんな風には絶対に戻らない」と決心しているからである。

 もちろんそれでいい。ただ、頭の隅に置いておくべきこともある。
 それは徹底した詰め込み教育や受験地獄の国の教育が、PISAの成績を押し上げるのに役立つ面があるという点である。
「これからの時代は、詰め込み教育ではだめだ」
という主張をする人は、今後PISAの話はしないようにしておくことだ。。

【成績の良さは、児童生徒と教師の優秀さに支えられている】

 ハンギョレの記事が気に入った第二の理由は、日本が読解力でOECD加盟国中1位になった原因を、日本自身の学力向上に求めるのではなく、世界的な読解力低下の中で生き残ったからだという文脈で説明している点である。
 特に、世界的に成績の低下が顕著な読解の分野で、相対的に優れた結果を見せた。
 これについてはまたあとで扱う。

 第三の優れた点は、日本の順位が躍進した背景を、授業に対する児童生徒と教師の、熱心さに求めている点である。
「授業でまともに勉強することが難しい」あるいは「生徒が教師の言うことを聞かない」といった子どもたちが極端に少ないこと、教師による学習支援も際立っていて、「教師がすべての生徒の学習に関心を示している」「生徒が理解するまで教えてくれる」という項目に、いずれも84%が肯定的な回答をしたという点などを押さえていることだ。 
「学校に行くのは時間の無駄だ」と回答した日本の生徒はわずか6%。OECD平均の4分の1に過ぎなかったという。
 日本の学校教育をオワコンのように言う人がいるが、世界レベルではまったく捨てたものではないのだ。

【AI学習に立ち遅れたから読解力が下がらなかった?】

 ハンギョレの四つめの優れた点は
日本が人工知能(AI)などを活用した教育において、調査対象国の中で最下位水準にあるという点にも注目していることである。
 OECDはAIを「学習を強化する手段の一つ」として位置づけている。しかし同時に
世界的な読解力の低下要因として、本の読書が減り、ソーシャルメディア(SNS)などでざっと目を通す「デジタルリーディング」が増えた点にも注目している
という。ここは大いに注目し、慎重になるべきところだろう。
 もしかしたら日本の子どもたちは、まだAIに頼らず、自分で文章を読み、情報を探す機会を比較的多く保っている、そのことが読解力の低下を抑えているのかもしれないからだ。だとしたら世界の人々は、今こそAIからもSNSからも一歩身を引いて、子どもの教育を考え直すべきだろう。

 もっとも肝心の日本は紙の本を捨ててデジタルとAIに邁進している。世界が評価する「特別活動」も、運動会や児童生徒会、清掃活動などで順次削減の方向にあって、世界標準を目指している。
 世界一になってもなお自信も誇りも持てず、誰かのあとをついて行こうとすれば、下位を手本にするしかない。

 マスコミも煽る。学力トップを取ったところで満足しない。せっかく1位になったのだから今度はAI、あるいは楽しむ学習、あるいは好奇心の醸成。
PISAの3分野で1位ということだけに満足せず、好奇心の強さでOECD平均を下まわっている現状を忘れてはならない。そこから学校教育を見直していくことが必要だし、そのほうが重要なのではないだろうか。*2
 言ったな? 教育は有機物だ。あれもこれもとはいかない。一か所をいじれば他でひずみが出る。好奇心のポイントを上げて順位が下がっても、文句は言わないよな?
 信賞なくして必罰のみ。どんなに成果を上げても悪いところを探してしつこく突き、おかげで教師はいつも疲れ切っている。しかしもう一度、方向転換を考えてみよう。好奇心を高める教育にまい進しよう。そのほうが重要ということらしいから。

PTAに頼んでいた仕事を民間業者に振り替えるに際して、教師の負担軽減を理由にしないでほしい。負担軽減は関係ないのに、のちのち“教師に楽をさせるために税金を投入するな”という話になりかねないからだ。

(写真:フォトAC)

 

記事


東京都教委、運動会や文化祭の準備・運営の外部委託を検討…残業が常態化する教員の負担を軽減

(2026.08.26 読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp

 東京都教育委員会は、都立校で行われる運動会や文化祭といった学校行事について、教員が担ってきた準備や運営業務の外部委託を制度化するための検討に入った。残業が常態化する教員の負担を軽減し、働き方改革を図る狙いがある。来年度から約190の都立高などで導入を目指し、区市町村立の小中学校へ広げることも視野に入れる。
(以下、略)

評

【負担軽減のやり方はいくらでもあるが――】

 タイトルをみて、まず、イラっとした。
 「運動会や文化祭の準備・運営の外部委託」、名目は「残業が常態化する教員の負担を軽減」だが、ほんとうに負担を軽くしたければ時計を30年ほど戻して、小学校英語だのプログラミングだの、総合的な学習の時間だの、あるいはコンピュータ・リテラシー教育を始めとする、ゴマンとある「〇〇教育」をやめればいいのだ。昔はもっと余裕があった。
 
 しかし、そうした追加教育*1は、政府・文科省からすると、過去の政治家および官僚の業績だから内容がどんなに無意味でも削れない。そうである以上、苦しくなった学校教育は行事の精選(という名の削減)によってしのぐしかない。名目は「先生たちを楽にする」。これでのちのち問題になったとき、国民は怒りの矛先を教員に向けてくれるに違いない。
「教師が楽をして、子どもたちが将来、苦労する――何のための教育だ!」
 その時はまた、先生たちに頑張ってもらうだけだ。きっとやってくれるだろう――。

【政府・官僚としても、学校行事はやめにくい状況がある】

 しかし追加教育が大事だからといって、運動会自体をやめてしまうこともできない。他方で、「子どもが当たり前のようにしている掃除や給食の配膳、運動会の練習は特別だった。日本の公立小学校の日常に世界が注目した、その理由」*2みたいなネット記事も出てくるから、世論を考えるとおろそかにもできない。
組体操は、危ない行為でもあるので、行われなくなったことは理解できます。組体操である必要は何もなくて、(中略)とにかくなんでもいい。みんなで力を合わせ、一つの目標に向かって努力するという「経験」が大事なんです。(中略)程よい重圧を経験すること、失敗が許されないといった緊張感の中で成功し、拍手をもらえたことや、達成感で仲間と涙を流すほどの感動、さらに練習を積み重ねたことで、できなかったことができるようになったという成功体験が人生の土台になったんだと思いました。こうした日本ならではの教育が、今の私の背骨になっているのだと思います。これは、日本教育の独特な特徴ではないでしょうか。(前掲の記事の後編*3より)
 そんなことを言われると、穏やかでなくなる。

 文化祭も単なる生徒のお祭りではない。生徒たちはこの経験を通して、組織・制度作りやキャンペーン・広報・プロモーション、あるいは新しいサービス・仕組みの開発、教育・研修・講座の企画運営、施設・設備の整備・リニューアル、制作系のプロジェクト、コラボレーション・連携事業等々あらゆる事業の立ち上げを疑似体験する。
 限られた予算内で最大限のパフォーマンスを目指して、計画を立て、必要な物品をそろえ、分業し、協力し、実現する――文化祭や運動会は、その実地訓練なのだ。

 こうした体験学習なしに教育を終えたとするのは、技能講習(実技)なしに学科教習(座学)のみで運転免許を与えようというようなものだ。日本の教育はこうした技能講習的な活動を、「特別活動」という独立した枠組みで大量に行う点に特徴がある。最近では海外でも「Tokkatsu」の名前で導入されつつある。
 その、日本人を育てるための核心的な授業(あるいは事業)である運動会や文化祭を、外部委託するというので、カチンときた、いやそれ以上に頭が沸騰しかけたのだが、記事をよく読むと少し様子が違うようだ。

【民間委託するのはごく一部分らしい】

 記事によると運動会や文化祭を内容的に分類して、以下の8項目に整理し、

  1. 会場の設営や撤去
  2. 受付や誘導
  3. 音響や照明などの技術的な作業
  4. 会場内外の警備
  5. 企画や立案
  6. 掲示物などの作成と配布
  7. 写真や動画の記録
  8. 外部との調整

 そのうち1~4について外部委託するという趣旨らしい。
 1番の会場の設営や撤去も、万国旗の貼り付け、入場門の設営程度で、文化祭の各会場の飾りつけといった企画にかかわる部分は従来通り教師と生徒が行うに違いない。これだったら運動会や文化祭の教育効果は損なわれないし、従来通りの意義ある教育活動ができるだろう。まずは安心だ。
 ただ――、

【教師の負担を減らす話じゃないらしい】

 見方を変えるとこの外部委託、「3.音響や照明などの技術的な作業」を除けばこれまでPTAに担ってもらっていた仕事を、民間業者に委託するという、委託替えの話でしかない。強いて言えば、PTAからP(ペアレント)を抜いた分、T(ティーチャー)に負担が行ってはいけないから軽減しようとする、いわば「+1-1(プラスワン、マイナスワン)」の話でしかない。これまでは無料であったところに税金が投入されるという違いがあるだけだ。

 しかしそこには当然、「学校の受益者である保護者にやらせればいい仕事を、税金を使って業者にやらせるのはいかがなものか」という意見の出てくる可能性がある。筋の通らない話ではない。
 そこで残業が常態化する教員の負担を軽減するという話になるのだ。広く教員不足が知られるようになった今日、教員の負担軽減と言わればたいていの人は引き下がってくれる。

 ただし教員不足もひと段落つけば、風向きは変わるかもしれない。
「教師たちを楽にするために、俺たちの税金を使うんじゃあねえ!」
 同じようなことはこれまでも何回もあった(教師に楽をさせるための「ゆとり教育か」!)勘弁してほしい話だ。

【東京にしかできないことがたくさんある】

 それにしてもラトビア・アイスランド・エストニアといったヨーロッパの小国よりも予算規模の大きな東京都だからできる施策で、同じことをできる道府県は少ない。それなのに「運動会に保護者が力を貸さなくても、業者に委託すれば何とかなる。他府県はもうやっているみたいだ」という話は、あっという間に広がっていきそうだ。
 同じようなことはこれまでも何回もあった(他県では主幹教諭という役職を置いて人事にメリハリをつけているらしい・・・)。これも勘弁してほしい話だ。

*1:昭和22年の教育基本法・学校教育法にはなかったカリキュラムを総称して追加教育と呼ぶ場合がある

*2:gendai.media

*3:gendai.media

校務DX(Digital Transformation: デジタル技術を使って行う組織や社会の仕組み・働き方・価値提供のあり方の根本的変革)なんて、むしろ教員の仕事を増やすことになるんじゃないかい?

(写真:フォトAC)

記事

 

「効率化したら仕事が増えた」 AIをよく使う人ほど残業時間が長くなる? 日本企業をむしばむ“忙しさの病理”

(2026.08.18 東洋経済オンライン)toyokeizai.net

 「AIを使ってから、帰りがかえって遅くなった気がする」

 そう漏らす人が増えている。効率化のためにAIを導入したはずなのに、なぜか残業時間が減らない。それどころか、AIを使いこなしている人ほど、残業時間が長いという調査結果まで出ているのだ。

 今回は、この一見矛盾した現象がなぜ起きるのか、そして「AIデスキリング」という新たなリスクについて解説する。AIを積極的に活用しているビジネスパーソンはもちろん、AI導入を推進する経営者や管理職にも、ぜひ最後まで読んでもらいたい。
(以下略)

 

評

 この記事、学校の教師やその管理者(校長、市町村教委・都道府県教委・文科省・政府の人々)にも、ぜひ最後まで読んでもらいたい。

【AIは必ずしも残業を減らさない】

 記事の要点をかいつまんで箇条書きにすると、以下のようになる。

  • AIによって個々の作業時間は短縮されても、残業時間が減るとは限らない。実際、AIを頻繁に使う人ほど残業時間が長いという調査結果もある。

  • 原因の一つは、AIで簡単にできるようになったことで、以前はしていなかった議事録作成や要約などの仕事まで新たに始めてしまうこと。

  • また、AIで生まれた余裕時間に別の仕事を詰め込むため、「仕事は与えられた時間を満たすまで膨張する」というパーキンソンの法則も働く。

  • AIに分析や提案を丸投げすると、人間が行うべき試行錯誤や経験を省いてしまい、かえって使えない成果物になる危険もある。

  • AIはあくまで手段であり目的ではない。「まず自分で考える」「AIを使わない時間を確保する」「AIに任せる仕事と人間が担う仕事を区別する」ことが重要である。


 心当たりは山ほどある。例えば――

【学校における印刷技術の向上】

 私が教師になった1980年代、勤めることになった田舎県ではまだ謄写版印刷(ガリ版印刷)が一般的だった。もはや現代の教師がまったく知らない技術である。

 私たちが字を書くのに使うのは「原紙」と呼ばれるロウを染み込ませた極薄の和紙で、謄写版ヤスリ(ガリ版)と呼ばれる板状の鉄ヤスリの上に乗せ、先の尖った鉄筆で圧をかけるとロウが削れ、微細な孔が連続的に開く仕組みになっていた。その孔がインクの通り道となって孔版印刷が可能になるのだ。

 昭和中期ごろまででは、文字を書いた原紙を謄写版と呼ばれる木製の装置に貼り付け、一枚一枚、指で紙をめくってローラーでインキをつけていったものだが、さすがに1980年代にはハンドルを回すと自動的に紙が供給され、印刷できる輪転機が使われていた。
 当時の学校では大きなB4サイズの原紙を使っていたため、原稿1枚を仕上げるのに、優に2~3時間はかかった。字を間違えると「修正液」という茶色の液体を塗って孔を塞ぎ、そこに書き直すが、何度も修正すると傷んで穴になってしまうので、作業は恐ろしく慎重に行わなければならなかった。

 やがて「ステンシル作成装置」と呼ばれる機械が導入され、手書き原稿をそのまま「原紙」に写すことができるようになり、作業効率は一気に上がった。しかしステンシル作成装置の時代は意外と短く、1990年代になるとリソグラフと呼ばれるとんでもなく素晴らしい装置が学校に入ってそれは廃れた。
 当時、家庭では年賀状作成のための簡易印刷機「プリントゴッコ」が大ブームだったが、製造元の理想科学工業が一切の値引きに応じず、収益のすべてを注ぎ込んで完成させた(と、NHKの「(旧)プロジェクトX」が言っていた)、それこそ理想の印刷機で、手書き原稿を光学的に読み取って原紙に焼き付け、1分間に最大190枚という速さで印刷できる機械だった。

 さらにその過程にワープロ専用機(のちにパーソナルコンピュータ)が入り込むと、印刷業務は飛躍的に楽になった。自分でも読めないほどの悪筆の私は、手書きから解放されるだけで原稿の作成時間は半分以下になったのだ。
 ロウ原紙を切っていた謄写版時代から手書き原稿の使えるステンシル作成装置に変わった段階で原稿作成時間は三分の一以下になり、手書き原稿からワープロ原稿に移った段階でさらに半分に減る――全体で六分の一以下の時短が達成されたはずだが、実際はどうだったか。

【それで仕事は減ったのか】

 正確な数字があるわけではないは、感覚的には六分の一以下への削減など絶対になく、もしかしたら印刷業務は増えたのかもしれない。少なくとも印刷枚数は増えた。

 とりあえずガリ版時代は泣く泣く諦めていた様々な文書が、片っ端から印刷されるようになった。各種行事計画もすべて細部まで印刷物になった。記憶と言葉だけではなく、目で見ていつでも確認できるようにしておけば教師たちも安心できたのだ。

 ガリ版時代は、写真はもちろんグラフを作成して載せることなども、まずありえなかった。もちろん学級通信などでは絵を入れることもあったが、基本的には手描きのイラストで、手間さえかければ不可能ではなかったが、それ以上のものは普通はやらなかった。
 それが今や写真でもグラフもでも何でも入る。自由自在だがその分、画像を選んだり加工したり、配置を考えたりといった面倒な仕事が増えた。印刷業務は、おそらくガリ版時代よりもはるかに大変な仕事になっているはずである。

【校務DXで効率化しても仕事は減らない】

 政府が推奨する教師の働き方改革の柱は次の六つだ。

  1. 業務削減・役割分担の見直し
  2. 勤務時間の上限管理(45時間/月)
  3. 人員増強(教員定数改善・支援スタッフ拡充)
  4. 校務DXによる効率化
  5. 部活動の地域移行
  6. 給与・処遇改善(教職調整額10%へ)


 このうち業務の削減に関わるものは、1、3、4、5の4点。ただし1で「学校以外が担うべき業務」「教師以外が担うべき業務」と仕分けしても、やってくれる人がいなければ絵に描いた餅だし、3の人員増強は言うばかりで実行されず、5の部活動の移行は中学校・高校のみの話だ。しかもうまく進んでいない。そして見てきたように、4の校務DXによる効率化が改革につながる可能性も少ない。

 日本人は皆、仕事に対して誠実なのだ。ただやれば良いというのではなく、より良くやりたい、完璧にやりたい、誰も困らないような仕事がしたいのである。しかし教員の場合、現状は「より良い」どころか、忙しすぎて「必要な仕事」ですらできていない。その代表が教材研究であって、多少とも時短が進めば、浮いた時間はすべてそれら「またやり残したままになっている仕事」に充てられてしまう。
 結局、根本的な改革には、人を増やすための予算を投入するしかないのである。校務DXを推進すること自体が、手間仕事だ。

*ちなみに、本文中で使用した引用記事の要約文は、生成AIを使って行った。長文の要約などは私にとって面倒な仕事だから、AIがなければこの記事は書かなかった。つまりこの記事自体が、AIのおかげで書くことになった記事だと言える。AIせいで仕事が増えたわけだ。

精神疾患による教員の退職者が1300人を超えたが、政府はそれを個人的な資質の問題とだと捉えているようだ。だから大臣は言う。「仕事は減らさない、人は増やさない、夏休みもゆっくりさせないが、その分、教委や校長は頑張って職員の心のケアに励んでほしい――」

(写真:フォトAC)

記事

 

学校教員、精神疾患による退職が過去最多の1300人超 保護者対応など過重労働影響か
(2026.07.22 産経新聞)

www.sankei.com

精神疾患を理由に退職した公立小中高校の教員が令和6年度、全国で計1319人に上り過去最多を更新したことが22日、文部科学省の学校教員統計調査(中間報告)で分かった。文科省は児童生徒への指導業務や職場の対人関係など複合的な要因があるとみている。

3年前より369人増加
調査によると、6年度に鬱病などの精神疾患で退職した教員は前回調査(3年度)より369人増加した。病気による退職者の75%超を占めた。小学校801人(3年度569人)、中学校365人(同277人)、高校153人(同104人)で、いずれもデータのある平成21年度以降で最多となった。
(以下、略)

評

 教壇を去っていった1300人は、単に仕事が嫌になって辞めたわけではない。病気にさえならなければ、いまも最前線で日本の教育を支えてくれたはずの人たちである。

【それはこんな人たちだ】

 彼らのうちの多くは10代のうちに教員になることを決め、教育学部で真面目で誠実な4年間の修行をし、あるいは他学部で別の勉強をしながら、重ねて教職課程の単位も取ってきた純粋な人たちなのだ。教育への思いには、並々ならぬものがあったと思う。
 教員採用試験も、今は競争率が2倍前後にまで下がって“楽な試験”とみなされるようになったが、それでも専門に勉強してきた人や学校現場の経験者だけが受ける試験だから、低倍率といっても簡単ではない。現在でも受験者の半数以上が落ちる試験なのだ。

 そうしてようやく教師になった人たちが、やがて心を病み、休職と復職を何度か繰り返したあげく、ついに教職を去ることになるわけだ。どんな思いで学校を後にするのだろう。もちろん、辞めて第二の人生を生き生きと送り始めるならいいが、必ずしもそうした前向きの再出発ができるとは限らない。

 まず、傷をいやさなくてはならない。エネルギーも溜めなければならない。それからどんな職業に就くにしても、高卒の18・19歳や大卒の22歳・23歳の就職ではないのだ。その年齢になれば「知りません」では通らないことも多いのに、普通の会社員として修業はしていないから、年齢にふさわしい仕事ができない。スキルがない。

 世間の目はその人を「子ども相手の楽な仕事にも耐えられなかった人」としか見ない。実際にそうでなくても、「そんな目で見られている気がする」から、活動はどうしても後ろ向きになる。後ろ向きになれば成績も上がらず、ミスも増える。やがて「子ども相手の仕事もできなかった」という評価が裏付けられた形となり、普通の職業人としてやっていくことが難しくなる。お情けで雇い続けてもらったとしても、それが宙ぶらりんなまま、定年となる60歳過ぎまでずっと続くのだ。

 振り返ってみてほしい。彼がどんな人間だったか。
 それは教員に採用されると決まった日に、胸を希望と意欲でいっぱいにしていた人なのだ。

【米百俵はどこへ消えたか】

『1868年、戊辰戦争に敗れた長岡藩は石高7万4千石を2万4千石に厳封され、藩士は「一日三度の粥もすすることができない」ほどの窮乏状態に陥った。
見かねた支藩の三根山藩から見舞いとして百俵(約6トン)の米が届くと、長岡藩士たちは「これで飢えをしのげる」と歓喜した。ところが藩の大参事・小林虎三郎(1828–1877)は米を藩士に配らず 売却して学校設立の資金に充てると宣言。藩士たちの猛反発を受ける。それに対して虎三郎は次のように語って譲らなかったという。
「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」 
 虎三郎は結局米を売却。その資金で国漢学校を開校。ここから山本五十六など、後に日本を支える多くの人材が輩出した』
 この話を改めて全国に広めたのは、小泉純一郎元総理大臣だった。彼は2001年(平成13年)5月7日の第151回国会・所信表明演説で「米百俵」を持ち出し、「聖域なき構造改革」を国民に訴えるのに、“痛みに耐えて未来を良くする”という意味で、この逸話を持ち出した。
 腹立たしいことに、「米百俵」の逸話は「痛みに耐える」という部分でのみ、使用されただけで、学校や教師を大切にし、教育に金を使う、という方向には進まなかった。それどころかここから15年あまりが、職員室を過酷にした苦難の時代だった。

 その前年(2000年)、総合的な学習の時間とキャリア教育が始まり、その翌年(2002年)は内容を十分に減らさないまま授業時数のみを削った(いわゆる)「ゆとり学習指導要領」が完全実施され、2006年には全国学力学習状況調査(いわゆる全国学テ)、教員評価・学校評価が義務付けられた。
 2008年には授業時数が年間945時間から980時間へと増やされ、2011年には1015時間へと元に戻された。学習内容もほぼ2001年以前へ戻されたが、学校週5日制は6日制に戻さなかったのでひたすら窮屈になっただけだった。

 さらにそこへ「環境教育」だの「SDGs教育」だの「ICT教育」だの――。他に「プログラミング教育」「メディアリテラシー教育」「(阪神淡路大震災以降の新しい)防災教育」「消費者教育」「食育」「ジェンダー平等教育」「いじめ防止教育」「多文化共生教育 」「金融教育(金融リテラシー)」「主権者教育」等々が被さってくる。もちろんだからといって従来の「人権教育」や「平和教育」「性教育」などがなくなったわけではない。
 そして文科省は唐突に、「夏休み中の学校を開放するように」とまで言い始める。

【米百俵を食いつくした上で、下々の“今あるもの”まで奪う】

 夏休みまであと20日というタイミングで、「子どもたちのために休み中の学校を開放するように」と通達を出したのは現・松本文科大臣だが、この人は「精神疾患による退職者1300人」をどうとらえているのだろう。
 これについては別の記事*1にこんな記述があった。
松本洋平文部科学相は24日の閣議後会見で「重く受け止めている。学校における働き方改革を加速するとともに、教員のメンタルヘルス対策の推進を図ることが重要だ」と述べた。
 ああ、重くは受け止めてくれているのか――精神疾患による休職者も7000人を超えているからな。

 しかし松本文科大臣はこうも言う。
「職場の対人関係や事務の負担など、多様な要因が複合的に影響している」
 なるほど、先生同士の人間関係や事務仕事が負担になるような状況、つまり教師自身の性格や能力に問題があると考えるわけだ。
だから対策も、
「管理者によるケアなどの予防的取り組みやストレスチェックの実施、相談体制の充実などを進めている」
ということになる。

 仕事は減らさない、人は増やさない、ゆっくりできるはずの夏休みも取り上げる、あとは教育委員会や校長の努力で、何とかするようにという話なのだ。
 若者よ、やはり教師になんかなってはいけない。

文科省はきっと教員募集のとんでもない秘策を編み出したに違いない。来年度以降、爆発的に応募者が増える見通しでもなければ、「夏休みの子ども預かり」なんてことを言い出すはずがないからだ。

(写真:フォトAC)

記事


夏休みの学校など一部開放、文科省が全国に要請へ 居場所を確保

【2026.07.03 毎日新聞)

mainichi.jp

 夏休み期間中の子どもの居場所を確保するため、文部科学省は学校の一部開放などを全国に要請する。松本洋平文科相が3日の閣議後記者会見で明らかにした。同日中に事務連絡を全国に出す。

 酷暑が予想される一方で電気代が高騰しており、経済的に苦しい家庭では冷房の使用を控える可能性も懸念されることなどが背景。子どもが安心して学びや体験活動に取り組める場所を確保する狙いがある。
(以下略)

評


【子どもが安心して学びや体験活動に取り組める場所の確保】

 「場所」という言葉は、人や物が存在する位置、または何かが行われる空間や土地を指すことが多いが、ここでは子どもが安心して学びや体験活動に取り組める場所と言っている以上、単に「冷房の使用を控える可能性も懸念されるから冷房のある空間を提供する」という話ではないだろう。

 「安心できる」「学びと体験活動に取り組める」――そう言う以上、当然、人員の確保と計画と予算が必要となる。しかもあと二週間足らずの間に用意しなくてはならないのだ。できるか?
 記事の割愛した部分には、
地域の各種団体やボランティアへの安全管理や見守りの依頼などが想定される
とあるが冗談じゃない。部活の外部移行ですら上手く行かないのに、2週間で何ができるというのか。
 結局、教員が総出で対応するしかない。
 教師たちからは当然不満が出そうだが大臣は聞く耳をもたない。同日(注:3日)中に事務連絡を全国に出すというから取り返しがつかない状況をつくってからの発表ということなのだろう。

 私は「放課後児童健全育成事業(いわゆる学童保育)」の場に勤めたことがあるが、少なくとも7月中は、共稼ぎの家の子のほとんどが学童保育に来ていた。つまり小学校の児童の75~80%が引き続き学校に来るということだ。冷房が効いていて電気代の節約になるとなれば来ないでいい子まで来る。体験活動に取り組めるとなると行く気のない子まで行きたくなるから児童の大半が登校してくるが、全員が来るわけではないから授業を進めるわけにもいかない。大変なことだ。
 学校を開放する場合は教員の業務が増える可能性もあるが、働き方改革にも留意するよう求める。
 こんなまやかし発言ができるのは、松本大臣を除けばドナルド・トランプくらいしかいない。

【昭和の教員は、夏休みに一日も出勤しなくてもよかった】

 かつて教員は魅力的な職業だった。給与が特別よかったわけではないが、やりがいがあり、人々から尊敬され、大事にされ、そして長期休業があった。宮沢賢治、島木赤彦、窪田空穂、上田敏、有島武郎、若山牧水――こういった人たちは皆、長期休業を利用して教養を深めた人たちだ。そこまでのレベルを要求しないなら、地域の文化を担った作家・歌人・俳人・画家・彫刻家・地方史研究家・自然科学者らはいくらでもいる。
 昔の教師は夏休みをたっぷり休んで、創作や研究に没頭できた。私が教師になった昭和末期でさえ、長期休業中、教員は部活と日直当番さえしていればあとは自由に休めた。当時は「自宅研修制度」が自由に使えて、その気になれば一日も出勤せずに、自宅で過ごすことができたのだ。長期休業以外は、朝晩土日も事務仕事や教材研究、部活で働いていたから、夏休みに勤務しないことにも何の後ろめたさもなかった。それが魅力だった。

 しかし平成にいたって長期休業中にも大量の研修や行事が入れられ、簡単には休めなくなった。平成不況の中で社会全体が苦しんでいる中で、教員だけがのうのうと夏休みを休んでいるわけにはいかないという話だったが、普段、朝晩土日も働いていることは顧慮されなかった。

【今も法律上は制度が残っている】

 実は今でも「自宅研修」を可能とする法律は残っていて*1、文科省の号令ひとつで、いつでも昭和に戻せる状況にある。したがって紙一枚に、「自宅研修制度を復活する」と書いて全国に配れば、1円の予算もかけずに、教員の待遇改善は果たせ、教職の魅力は燦然と輝くはずだった。

 35人学級が中学校3年生まで拡大し終える令和10年まで、財務省はひとりの教員増も認めないだろうし、教職調整額が10%に引き上げられる令和12年までは、教員給与も増やすつもりはない。人々が突然、教員を尊敬し、大切にし始めることもなさそうだ。
 そんな中、長期休業中の教員の完全休養は、ほとんど唯一の、しかも確実な待遇改善策になるはずだった。現在7000人もいる精神疾患による休職中の教員も、長い休養を適切に設けることによって、これ以上、増やさずに済む可能性があった。
 ところが――。

【これだけのことをするからには大臣に秘策があるはずだ】

 松本文科大臣は教員の長期休業にトドメを刺した。給与を上げる必要もない、数を増やすこともない、夏休み冬休みもゆっくり休ませない、しかしそれでやっていける、そう踏んだのだろう。何かとんでもない秘策があるに違いない。
 大臣の座右の銘は「いまやらねばいつできる、わしがやらねばだれがやる」(小平市名誉市民 平櫛田中の言葉)だという。政治信条は「頑張っている人たちの汗が報われる公正な国づくり」。

 学校現場がブラック企業のように言われ、教員の成り手が減って教員配置に穴が開く今現在、さらに教員の生活を追い詰めても大丈夫と考える理由はこれから語られると思うが、松本大臣なら「頑張っている先生たちの汗が報われる国づくり」をしてくれるはずだと、私は泣きたいくらいの気持ちで、この件の落ち着き先を見ていこうと思う。

*1:教育公務員特例法 第22条第2項(現行法)
教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる