半分眠りながら聞いていた、あの長く退屈な職員会議で耳に入ってきた内容が、いざというとき決定的に役に立つことがある。子どもの情報、心肺蘇生法、死戦期呼吸。

 学校の事故で子どもを死なせてしまった場合はニュースになるが、
 
救ったときはニュースになりにくい。
 
しかし先生たちは、万が一のときのために日夜努力しているのだ。
 
あの一見くだらない職員会議にも重要な意味がある。
という話。

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(写真:フォトAC)

記事 

 

心肺停止の男児救った救命リレー 教室で生きた「練習」

 (2020.11.12 朝日新聞デジタル

www.asahi.com 教室で心肺停止になった男児を教員6人のチームワークで救った宮崎市立江南小学校。心肺蘇生法の訓練を毎年続けてきたことが重大な局面で実を結んだ。教員の1人は過去にも救命活動に携わった経験があり、「落ち着くことの重要性を再認識した」と語る。同小には、県内外から激励のメッセージが届いている。

 児童に使用された自動体外式除細動器AED)。毎年の練習が生きた

 男児は入学前から心臓に疾患を抱えている。4年前、応急手当普及員の資格を持つ吉瀬恵子養護教諭が赴任。男児に「もしも」のことがあった場合を想定した訓練の開催を提案し、以後、毎年実施している。

 直近では今年6月にあり、教職員46人のうち約30人が参加した。男児が授業中に心臓発作を起こしたという設定。担任の別府貴裕教諭が異変を知らせ、教員たちが一人一役で119番通報やAEDの操作、他の児童の誘導を練習した。

 実際に男児が教室で倒れたのは9月24日午後0時すぎ。このとき、6人が「まさに練習通り」に瞬時に役割を理解し、救急隊に引き渡すまでの約15分間に懸命の救助活動を続けた。吉瀬養護教諭は「私が現場に到着したとき、すでに男児に電極パッドが装着されていた。素晴らしいチームワークだった」と評価する。

 戸惑う場面もあった。学校に設置されたAEDは、訓練時に消防から借りたものと機種が違った。隈本加津美教諭は「電極パッドのコードが最初から本体に接続されているタイプだった。落ち着いていればわかることだが、急いでいてすぐに判断がつかなかった」と振り返った。

 男児に心臓マッサージを施した田上政宏講師は昨年2月ごろ、宮崎市内の海岸で一緒にサーフィンをしていた知人がおぼれて心肺停止になる状況に居合わせた。その際も心臓マッサージをしたという。

 「救急隊からは正しい対応だったと言われたが、知人には後遺症が残ったと聞く。冷静になればもっとできることがあったはず。今回は冷静になることを心がけ、119番をほかの人に任せて心臓マッサージに専念する判断ができた」

 10日付本紙宮崎版や朝日新聞デジタルで救助の模様を報じた後、江南小には激励のメッセージが県内外から10件ほど届いた。4歳児を持つ東京の男性からは「先生方の勇気ある適切な対応に胸が熱くなりました」。復興庁の職員からも「迅速で落ち着いた行動が倒れられた子の命を救ったのだと思います」。

 助かった男児の保護者からも感謝の言葉とともに「(息子の通う学校が)本当に誇らしいです」とのメールが寄せられたという。(高橋健人)

 

【教員はこうしたことに長けている(?)】

 東日本大震災の際の被災地の校長先生の話だったと思うが、1次避難所から2次避難所、そして計画になかった第3避難所・第4避難所へと移動する過程で、先生たちが自然に分担を進め、ある教師は先駆けとして数十m先に行って様子を見、子どもの集団の先頭ではときどき振り返って確認しながら隊を引っ張る先生、中間で子どもたちの様子を見る守る先生、しんがりで子どもを押し上げる役を担う先生と、自ら進んで子どもを守る態勢を作る先生たちの様子を紹介した後、
「先生という人たちはこういうことをやらせると実にうまい」
という表現があってずいぶん感心したことがあった。
 以来そうした臨機応変の役割分担・責任分担は教員の特技と思っていたが、一般社会ではどうだろう?

 考えてみれば大規模な火災や事故に際して近くの工場の従業員が一斉に駆けつけて救助にあたったとか、津波や洪水では自ずと地域住民が助け合い難を免れたという話はいくらでもあるから、それは教師に限らない日本人の特性なのかもしれない。
(私はここでいつもの通り、「それは日本人がそうした能力を、幼稚園のころから給食当番や日直当番で、小学校に上がってからは児童生徒会活動や学校行事などの特別活動で毎日毎日、何百時間もつかって培ってきたからだ」と言いたいのだが、今日はやめておく)

 

【学校だけの特殊事情、学校に普遍的な事情】

 ただ、
このとき、6人が「まさに練習通り」に瞬時に役割を理解し、救急隊に引き渡すまでの約15分間に懸命の救助活動を続けた。吉瀬養護教諭は「私が現場に到着したとき、すでに男児に電極パッドが装着されていた。素晴らしいチームワークだった」と評価する。
の中に一般社会では決してありえないことがひとつだけあって、それだけは伝えておきたいのでここに取り上げる。
 それは倒れたのが他ならぬ「入学前から心臓に疾患を抱えているその子」だということを6人全員が知っていたということである。そうでなければここまで早い対応はできなかったはずだ。もしかしたら毎年の訓練の際も、心配な児童の名前はいつも何人かの頭の中に浮かんでいたのかもしれない。それが「心肺蘇生法の訓練を毎年続けてきたことが重大な局面で実を結んだ」の真の意味なのである。

 自信を持ってそう言えるのは、自分自身に似た経験があるからだ。正確に言えば私自身は当事者ではなく、他の学校に転出した後で起こった事件だが、一人の児童が教室で倒れ、その瞬間に担任教師は応急処置を始めるとともに近くの子どもに支持を出し、隣の教室の担任と養護教諭、そして副校長を連れてくるよう言って走らせる。
 すぐに駆け付けた隣のクラスの担任は教室に足を踏み入れる間もなく取って返して体育館に向かい、AEDを抱えて戻って来る。その間に養護教諭が教室に到着し、すでに心臓マッサージを始めていた担任に声をかけるとともに子どもの衣服を緩め、AEDのパッドを装着する準備を始める。
 その日、幸いなことに校内にいた校長は副校長とともに現場に駆け付け、その場所から携帯で救急車の要請をおこない、副校長は集まってきた他の先生方とともに教室の子どもたちや廊下に集まってきた他のクラスの子どもたちを現場からは慣れさせる――。ほどなく到着した救急車に乗せられた児童は、病院に送られ一命をとりとめたのである。

 なぜそんなに適格な行動ができたのか――それは引用した新聞記事にあるのと同じで、教職員が毎年心肺蘇生法の講習を受けていてやり方だけは知っていたこと、そしてもうひとつは倒れた子がどんな子なのか、教職員全員が知っていたからである。
 この子が倒れたら無条件で心肺蘇生を始め一刻でもはやく救急車を呼ばなくてはいけない、迷う必要はない、と――。

 

【無味乾燥な職員会議の重要な意義】

 実質的な教育内容や行動を話し合う学年会や教科会は、内容が具体的で明日の仕事に直接かかわるため必要性なことはわかる。しかし職員会議はなぜかくも長く退屈なのか、何の意味があるのか。他の学年の旅行行事や子どもの様子など、聞いたところで頭にも入らないし役にも立たない――若いころはよくそんなふうに考えたものである。しかし教師としての実力がついてきて自分のクラスだけでなく、他のクラスや他学年にまで目が向けられるようになると、無意味な職員会議の重要な意味が分かってきたのである。

 もちろんすべての教育内容が会議の俎上に上げられればいろいろ助言もできるといったこともあるが、決定的なことは、万にひとつあるかないかの危機に際して、自分の同僚や子どもたちに対して何ができるか知識として詰め込んでおけるということである。
 例えば他学年が修学旅行先で事故に遭った場合あるいは病人が出た場合に、学校に残っている職員が旅行隊の居場所や次の予定を知っていることは重要だ。緊急事態に現場ができることは限られている。現場近くの病院を探したり、本隊の誘導先を探したりといった仕事がすべて学校に任されることだってあり得る。そうした瞬間に全員が機敏に動くためには、職員会議という、あの長く、退屈な情報共有の時間が必要なのだ。
 ましてや日常的に心停止の可能性のある子どもやアナフィラキーショックの可能性をある子の情報は、全員がつかんでいなくてはならない。子どもは必ずしも担任や養護教諭の前で倒れるわけではないからだ。

 

救急救命の成功例も大事だ】

 今回引用した宮崎市立江南小学校の例は、だから珍しいことではない。しかし珍しくもないのに市から感謝状が贈られた(*1)という点では珍しい。
 教員として当たり前のことをしたのに表彰されるとは、校長もよく受諾したものだ――そういう考えもあるかもしれない。
 しかし私は、教師というのがどういう存在なのか、日ごろどれほど気を遣って万が一のために備え努力しているかを知ってもらうためにも、この人たちが表彰されるのは良いことだったと思う。

 私たち(正確に言えば広い意味での私たちの仲間)は――9年前、死戦期呼吸に関する知識がなかったばかりに大切な若い命を指の間から滑り落としてしまった。3年前にも同様の事故が起こった(*2)。そういった救急救命の失敗例はニュースになりやすいが、生徒の命を救った話は報道に載りにくい。

 失敗から学ぶことはもちろん重要だが、成功例から意欲を喚起することも大切だろう。
 朝日新聞には感謝したい。

(注釈)
*1

www.asahi.com*2

www.asahi.com(参考)

kite-cafe.hatenablog.com

スポーツや文化活動に目を輝かせたり、身の回りを整え、生き物に心寄せたりすることよりも、英語やプログラミング学習をした方が子どもの成長に資すると人々は考えた。

 学校教育という寄せ鍋に、
 国語・社会・数学(算数)・理科・英語・音楽・美術(図工)・体育・技家・道徳・特別活動といった基本的な具をたっぷり入れ、
 そこに性教育やら人権教育やら、総合的な学習、キャリア教育、防災安全教育などの新しい具をてんこ盛りに乗せ、さらに小学校英語だのプログラミング教育だのを何とか乗せきったら、「教員の働き方改革」という蓋をしなくてはならなくなった。
 今のままでは蓋がかぶさらない。
 そこで下の方から基本的で味に定評のある具材が取り出され、捨てられようとしている。
 部活動、清掃活動、児童生徒会活動、動物飼育、植物栽培――いずれも価値があるものなのに。
というお話。

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記事

 

減り続ける学校ウサギ 先生の働き方改革で世話が負担に

(2020.11.4  産経新聞

www.sankei.com 教員の働き方改革の影響を受け、学校現場でウサギやニワトリなどの動物の飼育をやめる動きが広がっている。命をつなぐための世話に休日はなく、夏休みや正月などの長期休業中も、教員がボランティアでエサやりや掃除などを行うことが負担になっていた。一方、飼育によって子供たちの心の成長が促されるという調査結果もあり、各地で試行錯誤が続いている。(地主明世)

  「子供たちから今後新たに飼いたいと要望があっても、教職員とよく考えて決める必要がある」
 昨年、飼っていたウサギの最後の1羽が死んだという大阪府内の公立小学校の校長は、こう打ち明けた。長期休業中の世話は児童が行ってきたが、児童の都合がつかない場合は教員が対応してきた。「今後も新型コロナウイルスによる休校があり得る。その場合に子供に世話を任せるわけにはいかない」と悩む。

 大阪府内の別の公立小学校でも、飼っていたニワトリが昨年死んだことで、校内での飼育動物はいなくなった。校長は「児童の中に動物アレルギーの子がいるので、新たに動物を飼う予定はない」と話した。

 

【共感や思いやり育む効果】

 大阪府教委によると、動物を飼育している小学校は平成29年度には244校だったが、30年度は228校、令和元年度は205校と年々減少している。

 こうした傾向は全国でもみられるといい、動物飼育に詳しい大手前大の中島由佳教授が昨年、大学生約700人に、通っていた小学校で動物を飼育していたか否かを尋ねた調査では、93・4%が「飼育していた」と回答。だが、中島教授が平成29~30年に全国の小学校約2千校に実施した調査では85・8%にとどまっていた。

 小学校への調査で、教員らに飼育で困難なことを尋ねると、「長期休業中の世話」(28・8%)が最も多く、「病気やけがの処置」(15・6%)「土日の世話」(13・2%)が続いた。中島教授は「飼育を先生に任せる今のやり方では、続けていくのは難しい」と指摘する。

 小学校での動物飼育は明治時代から行われていたとされ、学習指導要領でも、生き物への親しみや生命の尊さを実感するために動物や植物の飼育・栽培をすることが明記されている。

 中島教授が平成29年から昨年まで、全国の小学校約70校の2~4年生を対象に行った調査では、動物の飼育によって、他者への共感性や思いやりが増す効果が見られたという。中島教授は「話せない動物の世話をする経験で、子供たちは人の立場を想像したり思いやったりする気持ちを育み、種の多様性を学ぶこともできる」と話している。

 

【家庭や地域協力、工夫で継続】 

 飼育を断念する学校が相次ぐ一方で、地域や保護者の協力を得ながら飼育を続ける例もある。

 神戸市北区の市立筑紫が丘小は昨年6月、近隣からウサギ2羽を譲り受けて飼育を始めた。田中勲校長は「動物の世話は情操教育になる。教員の負担になるから飼わない、というのはどうか」と話す。

 同校が教員の負担軽減と教育効果の両立を狙って始めたのが、長期休業中にウサギを家庭にケージごと預ける取り組みだ。エサなどは学校から提供する。

 今年の夏休みに自宅でウサギを預かった2年の清水凜ちゃん(7)は、「家で世話ができてうれしかった」とはにかみ、母親の真実さん(35)は「毎朝自分で起きてエサやりや掃除をしていた。命への責任を感じているようだった」と喜んだ。

 ウサギとニワトリを飼育している西東京市の市立保谷第二小では、休日も含め4年生の児童が分担して世話をしている。新型コロナウイルスの感染拡大による臨時休業中は、平日は教員が、土日祝日は保護者や地域住民らによる「おやじの会」が世話した。神山繁樹校長は「地域との連携が日ごろからあり、学校のSOSに地域の方が応じてくださった」と話していた。 

 

【ウサギで話をしても実態は見えてこない】

 飼育という意味ではウサギは特別に便利な生き物で、鳴かない、吠えない、噛みつかない。年がら年じゅう自分の体を舐めてきれいにしているので体臭がない。糞はころころと丸く無臭で、しかし尿は少し匂うのでここだけを注意していればいい。エサは専用のペレットと干し草と水を与えていればいいし散歩に連れ出す必要もない。
 世の中には犬が怖いという人はいるしネコが苦手という人もいる。しかし一般的な動物嫌いは別として、ウサギが嫌だという人は少ないだろう。

 ただ多産でのべつ幕なしといった感じもするので雌雄分離はしっかりしていないと大変なことになる。
 もう20年以上も前のことだが、どこかの校長と教頭が日曜日に出勤して何羽ものウサギを生き埋めにしてしまったという事件があったが、心情的には理解できなくても状況としては分かる。多産な上に近親婚状態なので生まれた子ウサギは続々と死んで行くししばしば奇形で生れる。それを児童に見せるのも忍び難かったのだろう。

 ただし子どもの心を育てるという観点からすると、ウサギは必ずしも適切な動物とは言えないと私は思う。
 情操だとか癒しだとかという意味では効果はあるだろうが、命の大切さを教えるとか他者への共感性や思いやりといったことを教えるにはあまりにも飼育の楽な生き物からだ。飼育当番はエサをやり水を換え、トイレを掃除すれば事足りる。2~3日忘れても死にはしない。 
 学校教育を考える上で、ウサギを思い浮かべている限りは、大した問題ではない。
 同校が教員の負担軽減と教育効果の両立を狙って始めたのが、長期休業中にウサギを家庭にケージごと預ける取り組みだ。
というアイデアも出てくる。
 しかしこれが犬だったらどうか? カモだったらどうだろう? ヤギでもケージごと児童の家に預けることはできるのだろうか? 田舎ならまだしも、街場だとマンション住まいも多いだろうに。

 

【飼育を通して行う超ハイレベルな教育】

 娘が小学校5年生の冬休みに、家で学校のアイガモを預かったことがある。6羽ほどいた中の1羽だけだが、それでもうるさいし暴れるし、臭い。私はたった一日で辟易してしまった。そもそも鳥類は苦手なのだ。

 なぜ娘のクラスが6羽ものアイガモを飼っていたのかというと、これがアイガモ農法のためなのである。アイガモのヒナを水田に放して雑草や害虫を餌として食べてもらい、排泄物が稲の養分となり、化学肥料や農薬を使用しないことでコストの低減をはかってさらには化学肥料による稲の弱体化を回避し、病虫害の低減を図るというものである。
 娘のクラスでは実際にアイガモ農法に取り組むことによって、社会科の「食料生産を支える人々」と理科の「植物の発芽と成長」、道徳の「7 親切,思いやり」「8 感謝」「10 友情,信頼」「11 相互理解,寛容」「14勤労,公共の精神」「16 よりよい学校生活,集団生活」「17 伝統と文化の尊重,国や郷土を愛する態度」「19 生命の尊さ」「20 自然愛護」「21 感動,畏敬の念」などを学ぼうとしたのである。

 この農法は稲が実ると中止しなくてはならないことになっている。そのころになるとすでに成鳥に育っており、成鳥は稲穂を食べてしまうからである。もちろん翌年まで生かしておくと苗から食べてしまう。
 そこで役目を終えたアイガモはその年のうちに肉にするのが普通なのだが、さすがに学校ではできず、冬休みに各家庭で順番に預かることになったのである。
 アイガモ農法は担任教師にも家庭にも負担の大きな試みだったが、それは子どもの成長にとって意味のあることだった、意味があると思たからこそ、担任教師も家族も頑張ったのである。

 似たような活動はいくらでもある。

 ある教師は繁殖用のヤギを借りて子を産ませ、親子二代を育てることで性教育と命の教育と組み合わせようとした。
 別の教師はパピーウォーカーとなって盲導犬候補の仔犬をクラスで預かり、それを育てる中でノーマライゼーションバリアフリーユニバーサルデザインの学習を重ねて子どもの人間性を高めようとした。

 いずれも意義深いことで、そのため教師は喜んで自分の時間やエネルギーを削り、わずかな自分の小遣いを犠牲にしてきたのだ。
 記事の中の校長の、
教員の負担になるから飼わない、というのはどうか
という言葉はまったくその通りだと思う。続けるべきだ。

 

【教育の質は下がる】

 ところで、記事の書き出し、
 教員の働き方改革の影響を受け、学校現場でウサギやニワトリなどの動物の飼育をやめる動きが広がっている。命をつなぐための世話に休日はなく、夏休みや正月などの長期休業中も、教員がボランティアでエサやりや掃除などを行うことが負担になっていた。
はタイトルにもつながるものだが、この文、少しおかしくないか?
 先生の働き方改革で世話が負担になったわけではないだろう。教員の働き方改革が言われ出して、何かを削ろうとしたら動物飼育や植物栽培が「負担」の中に入れやすかっただけだ。そんなものは昔から「負担」と言えば「負担」だったが、子どもの成長には必要欠くべからざるものと考えてきたから続いてきたのだ。

 今、それができなくなったのは、単にやることが増えたからである。
 生活科・総合的な学習の時間・キャリア教育・薬物乱用防止教育・性教育・人権教育・金融教育・消費者教育・環境教育・情報教育・防災安全教育・・・それら大部分は私が教員になった40年前にはなかったものだ。
 そしてそこに小学校英語やプログラミング教育を入れた。

 しかもこれまではいくら仕事を増やしても教員の努力と超過勤務で凌いでこられたのに、「教員の働き方改革」という蓋を置かなくてはならない。ゴリ押しで小学校英語やプログラミング教育を入れたうえに蓋をきちんと閉めるには、何かを出さなくてはならない。
 そこで選ばれたのが部活動であり、清掃活動であり、動物飼育・植物栽培なのである。
 端的に言って、スポーツや文化活動に目を輝かせたり、身の回りを整え、生き物に心寄せたりすることよりも、英語やプログラミングをやった方が子どもの成長に資すると人々は考えたわけだ。

 寄せ鍋の具を入れすぎたら鍋を大きくする(教員を増やす)という方法もあるが、 今のまま各クラスに教員を1・5人(2クラスで3人)配属するだけで事態は決定的に好転するはずなのに、それもする気はない。


 部活動も清掃活動も飼育・栽培活動も――そして各種行事も片端に縮小して、このままだと必然的に教育の質は下がるのだが、そうなった暁に人々は、「教師の質が下がった」というに違いないのだ。

 

「正しい行いは訓練しないとできない」という、当たり前のことを専門家に説明しなくてはならない悲しさについて

 なぜ学校の掃除を、子どもがやらなければならないのか分からない人たちがいる。
 もちろんそれがマスコミ関係者や保護者だったら素人だからかまわないが、
 教師や教育評論家だったらマズイだろう。
 特に後者は、なまじっか影響力を持つだけに、捨てておくわけにはいかない。
という話。

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(写真:フォトAC)


記事


学校の掃除ってなんで子どもがやるの?
(2020.09.29 NHK)

www3.nhk.or.jp
ほうきやちりとり、それにぞうきん。多くの人が小中学校時代に一度は経験したことがある学校の掃除。海外では、専門の業者などが行う国もありますが、なぜ日本では子どもたちが行っているのでしょうか。新型コロナウイルスの広がりもあっていまネット上で議論となっています。
(ネットワーク報道部記者 目見田健 秋元宏美 高杉北斗)

【掃除をめぐって激論】
「学校教育の掃除時間、マジで掃除機を導入しませんか?1日の勤務時間がパツパツで、給食時間も休憩時間も余裕なし。」
こうツイートした九州の中学校で働く30代の教員に話を聞くことができました。

真由子さん
「学校では業務が増えることはあっても減ることはありません。新型コロナウイルスの影響で放課後に教室やトイレの消毒の業務も増え、教員はさらに多忙になっています」

この教員は、時間が限られる中で「今よりも効率的に業務を進めるためにはもう掃除の時間の見直しくらいしかない」と感じているそうです。

コロナ禍で一部の学校で、子どもたちによる掃除を縮小したり一時中止したりする動きも出る中、このつぶやきをきっかけに子どもが掃除を行う意味やその必要性について、保護者などからも多くの意見が出ています。
掃除ロボットでよくないですか」
「掃除の業者を雇えばいいのに・・・」
「ほうき、ちりとりの正しい使い方は1度は学んでほしい」
「みんなで行うことによって責任感や協調性が身につき主体的になるというのが狙いなのでは」

(中略)

文科省に聞いてみた】
そもそも、なぜ日本では子どもたちが毎日、小中学校の掃除をしているのでしょうか?文部科学省の担当者に話を聞いたところ、意外な答えが返ってきました。
「実は毎日の掃除に関しては明確な根拠はないんです」
えっ明確な根拠がない・・。
さらに聞いてみると文科省が定めている学校カリキュラムの基準、「学習指導要領」を解説するページに、少しだけ記述があるだけだそうです。

「清掃などの当番活動や係活動等の自己の役割を自覚して協働することの意義を理解し、社会の一員として役割を果たすために必要となることについて主体的に考えて行動すること」。

つまり、学校をきれいにするのが目的ではなく、あくまで社会性を身につけてもらうのが狙いなんです。

(中略)

【目的・狙いがあいまいでは?】
子どもたちによる学校掃除については、専門家からもさまざまな意見が出ています。

「不思議な慣習だと思います」
学校の業務改善アドバイザーで教育研究家の妹尾昌俊さんは学校の掃除について疑問を感じているといいます。

「サッカーの試合のあと日本人サポーターがゴミ拾いをしている光景が海外から称賛されるなど街なかにゴミが少ないことは清掃指導の効果かもしれません。だからといって毎日・強制的に子どもたちに掃除をさせる必要があるのでしょうか」
さらに妹尾さんは掃除の目的や狙いがあいまいだと指摘しています。

「きれいにするのが狙いなら、ほうきとちりとりではなく掃除機を使えばいいですし、業者を雇ってもいい。子どもたちの心の教育が狙いなら毎日やることは疑問で、家庭科や道徳の授業の一部で行えばよいと思います。毎日、掃除をする効果がどれほど出ているのか検証もなされないまま、なんとなく続けるのは疑問です」と話しています。

(以下、略)

 

【若い教師をしっかり育てたい】
 なぜ学校の掃除を子どもがやらなければならないのか――。
 NHKの放送記者や児童生徒の保護者が学校清掃の意義を知らなくても構わない。しかし教育の専門家、教員や教育評論家がこんな基本的なことを理解していないとしたらやはり問題だ。

 ツイッターで最初に問題を投げかけた九州の30代の教員とやら、おそらく現場に10年以上もいると思うが、そんなことも知らずに今日まで来たのか、誰も教えてくれなかったのか、どこの大学で教育を学んだのだ、現在の勤務校の管理職はいったいなにをやっているのだ。

 学校教育における清掃の重要性はついこのあいだ話したばかり(*1)なので繰り返さないが、あんな長い文章は読めないという人のために、動画をひとつだけもう一度載せておく。

www.youtube.com 文科省は国内向けにはさっぱり広報しないが、海外に向けてはきちんと説明しているので、たった4分10秒だ、少し我慢して勉強してくれ。

 *1

kieth-out.hatenablog.jp

【この男、正気か?】
 しかし今日、問題としたいのは清掃の重要性ではなく、教育評論家の質についてだ。天下のNHKがご意見を伺うほどの人が、この程度の見識しかないということが私には理解できない。

 学校の業務改善アドバイザー 妹尾昌俊という人がどういう人なのかよく知らないが(本当はよく知っている)、NHKの記者が足で稼いで、
つまり、学校をきれいにするのが目的ではなく、あくまで社会性を身につけてもらうのが狙いなんです。
との結論を得たあとで、
妹尾さんは掃除の目的や狙いがあいまいだと指摘しています
などと紹介されて恥ずかしくないのか。

きれいにするのが狙いなら、ほうきとちりとりではなく掃除機を使えばいいですし、業者を雇ってもいい。
 
こんな部分が引用されて情けなくないのか? 悲しくないか?

 掃除機を使えばいいといったって、雑巾がけをしたり台拭きをしたり、トイレ掃除をしてくれる掃除機を、不幸にして私は知らない。ならば業者を雇ってもいいと気軽に言うが、仮に100人の生徒が15分かかってやる清掃を業者に依頼したらいったいいくらかかると思うのだ?
 のべ1500分(25時間)の清掃だ。時給1500円として1日3万7500円、授業日数を年200日と考えるとそれだけで700万円だ。床のワックスがけだとか学期ごとの大掃除は別料金になるだろう。
 それだけ金があるなら私は講師を二人雇いたい。多忙に苦しむ普通の教員なら、一も二もなく私に賛成してくれるだろう。

 しかし私が妹尾氏の資質を問題とするのは、この人の、こうした学校の現実に関する無知や経済観念のなさのためではない。
子どもたちの心の教育が狙いなら毎日やることは疑問で、家庭科や道徳の授業の一部で行えばよいと思います。
毎日、掃除をする効果がどれほど出ているのか検証もなされないまま、なんとなく続けるのは疑問です
という教育の本質をまったく理解していない二つの発言のためなのだ。


【人は、頭で理解したことは実践できるものなのか】
 これは人間を、
「頭で理解すれば実践に移せるもの」
と考えるのか、それとも、
「わかっちゃいるけどやめられないダメな存在」
と考えるのか、という人間観の問題だ。
 私は後者である。私自身が年じゅう、閉め切りが分かっているのに間に合わなくなったり、これ以上はダメだと知っていながら飲みすぎたりしているからだ。それが人間ではないのか?

 そんな私からすると、
子どもたちの心の教育が狙いなら毎日やることは疑問で、家庭科や道徳の授業の一部で行えばよいと思います。
というのは教育に対する恐ろしい無知である。

 私たちが清掃活動の中で身に着けさせようとしてきた、
「ものを大切にし、感謝する心」
「自分の遣った場所は自分できれいにすることを当たり前と感じられる心」
「与えられた仕事はきちんと果たすという責任感」
「時間内に作業を終えるための見通しを立てる力」
「黙って仕事をする忍耐力」
「よりよい清掃をめざそうとする向上心」
「すみずみまで美しくしようと心がける気配り」
 その他もろもろの価値を、家庭科や道徳の授業の一部で行えば獲得できるという人間性への異常な信頼、それが私には恐ろしい。

「人間は頭で理解すれば実践に移せるもの」
という考えを裏返せば、
「理解したのに行動に移せないのは人間ではない」
という傲慢さしか見えてこないからだ。

 記事の省略した部分には清掃中の私語を禁じる“無言清掃”を推進する福井県永平寺中学校が出てくるが、担当者の言葉として、
「無言で掃除をすることが目的ではなく、1日のうち15分間だけでもいいので、静かな心で自分自身と向き合い感謝の心や心地よさを感じてもらうのが目的です」
というのがあった。
 妹尾氏の言葉はそうした真摯な取り組みを愚弄するようなものだ。
「授業で扱えばできるようになるのに、なんで毎日、実際にやってみなくちゃいけないわけ?」
「何時間も何年間もかけて訓練するなんて、それじゃあバカじゃない」

 だが、そうしたバカな訓練をして初めて、大災害の被災地で水や食料をもらうために辛抱強く列の後ろに並んで何時間でも待つことのできる人間は育つのだと、教師たちは思っている。
 避難所の運営を自主的にできるのも、毎日毎日(幼稚園も入れれば)10年以上に渡って、清掃や当番活動、児童・生徒会、運動会や文化祭、修学旅行などを通して協働や分担、責任や共助を訓練してきたからだと教師たちは信じているのだ。


【学校教育に科学的根拠は期待できない】
 さらに、
毎日、掃除をする効果がどれほど出ているのか検証もなされないまま、なんとなく続けるのは疑問です。
と、教育効果の検証を求める態度も教育を真面目に考える者の態度とは言えない。そもそも、
毎日、掃除をする効果がどれほど出ているのか
の検証を、妹尾氏はどうやったらできると考えているのだろう。

 同じ中学校の1組は毎日掃除をし、2組は週3回、3組は週1回しかしないというようにして、3年後、修学旅行先でどの程度きちんとした掃除ができるかを比較する――そんなふうにやるのだろうか? 学校ごと掃除をやるところと業者任せにするところとに分けて試すのか? あるいは質問紙などつくって統計的に測るというのだろうか?

 私は学校教育の成果について科学的根拠を求めることはできないと思っている。できてもごくわずかな領域でしかない。

 清掃で言えば、教師たちが“毎日やることに価値がある”と考えている限り、3組だけ週1回で終わらせることはできない。生徒は実験材料ではないのだ。もしそれで3組の結果が悪かったらどう責任を取ればいいのか。

 逆に、私たちが“毎日掃除をやることに意味はない”と考えているとしたら1組をムダに働かせたことになる。そうなると教師と生徒の信頼関係に重大な傷が生じる。

 さらに言えば、子どもの成長には要素が多すぎて、「学校で毎日清掃をするか否か」の1点だけで道徳性が育ったかどうかを確認することなど、とうていできはしないのだ。その子の育ちから、清掃以外の要素を排除することはできない。

 妹尾氏自身、こう言っている。
サッカーの試合のあと日本人サポーターがゴミ拾いをしている光景が海外から称賛されるなど街なかにゴミが少ないことは清掃指導の効果かもしれません。
 
私もそうだと思っている。日々の清掃や旅行行事での「来た時よりも美しく」がああした人材を育てている。しかしこれも科学的に証明することはできない。

 教育は経験の学問であって、
「これまで効果があったと思われるから効果があるのだろう」
という推論の上にしか成り立たっていないのである。
 もし妹尾氏が教育効果の検証をもって教育の要不要を論じるなら、「いちおう成果があるらしい清掃」ではなく、「まだいちども試されたことのない小学校英語やプログラミング教育」の方にこそ噛みついてもらいたい。

 小学校から英語を学べば日本人の英語力が高まるかどうかなんて誰も知らない。私のような頑固な英語嫌いが、私より低年齢から生み出されるのかもしれないし、高校3年生の時に開いていた英語力の差が、さらに大きくなるだけなのかもしれない。
 そもそもグローバリズムの進展によって誰もが英語を必要とする時代が来るといった未来予想自体が眉唾だ。
 プログラミング的思考も確かに大事だが、日本人全員が身につけなくてはいけないようなものではないだろう。
 それよりは清掃をしっかりやった方が、よほど日本人のためになる。
 僧侶の修行も武士道も、徒弟制度を基本とする芸道や職人の世界でも、最初に取り組むのは掃除だ。その効果を科学的に説明することはできないが、歴史的には証明できる。何しろ残っているのだから。


【評論家というのは「それで飯を食っている人」】
 
評論家というのは「それで飯を食っている人」という観点を忘れてはいけない。これはかつて教育評論家の尾木正樹が直接、私に教えてくれたことである。

 日教組の講演会でいつもと違う調子でしゃべる尾木に対して、休憩時間、私が直接質問したのだ。
「何か、いつもテレビで言っていることと違うような気がしますが」
 それに対して尾木はこう言った。
「私もこれで飯を食っているのです。だから行く先々で、相手によって少しずつ言い方を変えているのです。」

《少しじゃないだろう》と思ったが私は言わなかった。その正直すぎる発言に少し感動しただけだった。
 妹尾昌俊も同じ質問をすれば、同じように答えるのだろうか?

 

世界が憧れる日本式教育は、諸外国に輸出されながら、国内からは消えていく・・・のかもしれない。

 中国で日本の学校給食が大きな話題となっているという。
 文部科学省も給食や清掃、運動会、部活動といった日本式教育の輸出に熱心だ。
 しかしそれらは、国内では縮小・削減の対象なのだ。
 小学英語やプログラミング学習、そのほか未知の学習のために、
 
それらは犠牲にされるべきなのだという。そうか?
という話。

f:id:kite-cafe:20200920130740j:plain
(写真:フォトAC ) 

 

記事

 

中国で日本の「小学校の給食」が大きな話題となっている理由

(2020.09.17 DIAMOND on line)

diamond.jp

 最近、中国では、ある日本人女性がネット上に投稿した埼玉県の公立小学校での給食の様子を撮影した動画が出回り、大変な話題となっている。

(中略)

 この動画の時間はわずか8分間程度。数年前に、米国・ニューヨーク在住の日本人女性により制作されたドキュメンタリーだ。

 『School Lunch in Japan - It's Not Just About Eating!』と題した動画で、埼玉県にある公立小学校の給食の様子を取材し記録したものである。

 彼女がこの動画を作成したきっかけは、自分の子どもが通うニューヨークの小学校での昼食の光景を目にして衝撃を受けたからだという。食べ残しの多さのほか、床やテーブルに食べかすがちらかった様子があまりにもひどかったからだ。

 本来は、この動画を公開して、ニューヨークの小学校の教育者に参考にしてもらおうという目的であったようだ。その動画は公開後たちまち大きな話題となって、世界中に拡散された。

 特に中国では、さまざまなタイトルが付いた記事が出回り、動画が紹介されている。コメント欄は、いつも多くの書き込みで溢れており、常時、注目記事ランキングの上位に入り続けている。

(中略)

 現在の中国の子育ては、学校の成績を最優先するあまり、勉強はできても、自分で身の回りのことができなかったり、常識に欠ける子どもが増えていることが問題となっている。

 実際、筆者が中国上海にいる友人(小学校の副校長)や児童の母親らから感想を聞いたところ、下記のような声があった。

 「日本の学校の給食は単なる『食べる行為』ではなく、感謝の気持ちを込めて食事に臨んでいることが、動画からすごく伝わってくる。当番の子どもたちが厨房に給食をもらいに行くとき、食事を作る人に対して、感謝の言葉を述べるシーンには感動しました。これは、もちろん給食を作る人に対してだけではないと思う。食べる前に、手を合わせて『いただきます』と声を発するのも、食材を作る人、料理する人など給食にかかわるすべての人に対しての感謝ではないでしょうか」

 「学校の先生が児童と一緒に食べるのにびっくりした。『毒見』をしているのかと思った(笑)。先生が児童たちと同じ内容の食事をするということは、食事に対しての信頼感、安心感を与えられる。また、食べながら、いろいろなお話しができるのも、先生と生徒の間に隔たりがなくなり、良いコミュニケーションがとれると思う」

 「給食開始から終わるまでの作業は、当番の児童だけでなくほかの児童も一糸乱れずに行い、助け合いの精神などが、すべての作業の中で表われていた。チームの団結と協調性が完璧に達成できている」

 「『いただきます』と『ごちそうさまでした』のような言葉を発するのところに、すごく儀式感がある。マナーの良さも感じとれる。このような教育は、成人してからも一生影響があるだろうなー」

 「給食当番の子どもたちの準備作業から最後のみんなのお片付けまで、あっという間に終わるが、この45分間は、まるで『1時限の授業』のようである。生活力、協調力、食べ物への敬意、食べ物を作る人への感謝、食材や栄養に関するさまざまな知識…。国語や算数の授業以上に重要な授業だ。これは日本の食文化そのものが反映されているのではないか」 

(中略)

 上述の副校長は、「われわれには立派な校舎や食堂はある。しかし『心豊かな生徒をどう育てるのか』という点においては日本から学ぶことが多い。中国の親たちの口癖に『子どもにスタートラインで負けさせない』という言葉がある。日ごろは成績のことだけに目を向けている。中国では、日本のような食育は行われていない。一人の教育者として、このような現象を変えていかなければならないと思うが、あと20年はかかるのではないか」と苦笑しながら説明していた。

 ゆえに、このわずか8分間という短い動画にもかかわらず、多くの中国の親や教育者らの心に深く刺さるのだ。

www.youtube.com

 

【学校は真面目にやっている】

 文科省「学校給食調理従事者研修マニュアル」第2章 学校給食の意義と学校給食従事者の役割」によると学校給食の目的は次の通りだ。

  • 適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること。
  • 日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと。
  • 学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。
  • 食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
  • 食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと。
  • 我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること。
  • 食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと。

  引用の記事を読めば、いかに日本の学校がこうした目的を真面目に律義に追求しているかがわかろうというものだ。

 

【世界が憧れる日本式教育】

 日本の教育で給食と並んで世界に名をはせているのが、「清掃」「学級活動」「理科実験」そして「運動会」だ。
*例えば、

www.projectdesign.jp

 特に新興国では日本の教育から学ぼうと姿勢が強く、2010年前後にはサウジアラビアの「ハワーテル 改善」というテレビ番組で、日本の学校の清掃の様子が紹介されてアラブ諸国に衝撃を与えた。
「ハワーテル 改善」(アラビア語)↓

www.youtube.com

 さらにエジプトなどでは、正式な学校教育として「清掃」や「学級活動」「日直」を取り入れようとしている。
*例えば、

www.huffingtonpost.jp
  児童生徒が学校の清掃をするのは貧しい国々と社会主義国そして日本だけだと聞いたことがあるが、我が国の場合、古くから掃除が精神修養の基礎とされ、神社仏閣あるいは芸能の世界では非常に珍重されてきた。現在でもどこの企業に勤めようとも、挨拶と掃除(身辺の整理)はうるさく言われるところだろう。

 日本の場合はそもそも、清掃が身分の卑しい者の仕事といった発想がない。それどころか新幹線やディズニーランドの清掃担当者は、尊敬の念すら持って見られている。
「ときめき片付け」の“こんまり”こと近藤麻理恵も、日本だから生み出せた存在だろう。

 しかし海外の多くの国々では、今も「清掃」は最下層の人間の仕事になっている。したがって例えばアメリカなどでは、子どもたちは知らず知らずのうちに学校でプエルトリコ人や黒人を差別することを学んでいる。だから逆に言えば、欧米や中東の子どもこそ清掃を学ぶ価値がある。

 清掃が卑しい者のする仕事だと思うなら、釈迦が修行に出る際、髪を下ろして布一枚で体を覆うなど当時の罪人の姿になって最下層から世の中を見たように、清掃をするところから世界を見直せばいいのだ。

 他にも日本の教育が世界を変えようとする気配はいくらでも見られる。

 例えば「運動会」も、発展途上国では国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員によって広められようとしている。

mainichi.jp


 また文部科学省は2016年から、日本式の教育の海外展開を計って「日本型教育の海外展開推進事業(EDU-Portニッポン)」を行っている。
 ここで日本式と考えられているのは、「学級会」「運動会」「部活動」「防災訓練」「制服」「給食」などである。

www.eduport.mext.go.jp
 動画では、例えばこれだ。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

定評のあるものを棄てて、未知のものを拾う】

 しかし、もうお気づきの方もおられるかと思うが、運動会や部活動などはいまや精選という名のもとに縮小もしくは削減されるべき対象である。清掃の時間も削られつつあり、中には週3回に減らしてあとは簡単にごみ拾いだけで済ませる学校も出てきた。

 もちろん日本の学校から給食がなくなることはない(明日から毎日お弁当ということになったら、日本中の母親から革命ののろしが上がるだろう)。しかし昼食時間後の自由時間が削減されることで、給食はわき目もふらずにさっさと食べるべきものになりつつある。時間が足りなくて残菜がたくさん出るようになればメニューも考えざるをえなくなるだろう。現在だって米飯やパンは既定の8割程度に押さえられているのだ。

 文化祭や修学旅行も今後、縮小ないしは廃止の方向にむかうかもしれない。腹立たしいことに削減の理由は「教師の働き方改革、多忙の解消」だ。

 人は忘れているかもしれないが、ここ20年あまりの間に「総合的な学習の時間」だの「キャリア教育」だの「小学校英語」だのと学校の負担は増え続けてきたのだ。つい最近も「プログラミング学習」が導入された。
 次は「人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成」だそうである(中央教育審議会「中間のまとめ」に盛り込まれる見通し)。
 授業以外についていえば「教員評価」だの「免許更新制」だのも新たに加わった負担である。

 それらあとから加わったものには手を付けず、古くからの定評ある清掃や運動会、部活などをなくしていく――それは「総合的な学習の時間」や「プログラミング学習」などと「清掃」や「運動会」を取り換えたということである。

 学力とは違って、清掃や運動会の教育的効果は科学的な証拠(エビデンス)が示せないからかもしれない。しかしそれを言うなら、小学生の時から英語を学べば国民の英語力が高まるかどうか、あるいは総合的な学習の時間を行えば考える力が高まるかどうかにだって科学的な証拠は示せないはずだ。
 早すぎる英語学習が英語嫌いを大量に生み出し、総合的な学習の時間の中でただ遊んで時を過ごしてしまう子が出てくることだって大いに考えられる。

 

【もう日本では日本人は育たない】

 私は運動会や清掃、学校給食には小学校英語やプログラミング学習をはるかに上回る教育的効果があると信じている。それこそまさに「日本人を育てる」「日本式教育」の核心なのだ。

 しかしそんな思いも、古い昔の教師の、愚かな懐古趣味として排斥されていくのだろう。

 世界が日本の真似をし始めるとき、本家の日本がそれを棄てようとするといた逆転は昔からあったことである。

 

中教審が中間のまとめで、また新たな教育をめざそうとするらしい。せっかくすばらしい教育システムを持っているというのに、城の上に城を継ぎ足す。


 中央教育審議会が近く中間のまとめを行うようだ。

 その中で従来の「日本型学校教育」を高く持ち上げながら、さらに高みを目指してSociety5.0(狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続く新たな社会)にふさわしい教育を開拓していくらしい。
 誇るべき「日本型学校教育」の、足元は崩れつつあるというのに。
という話。

f:id:kite-cafe:20200918175712j:plain(写真:フォトAC

 

記事


 「令和の日本型学校教育」とは? 中央教育審議会の中間まとめ案より

(2020.09.16 ベネッセ)

benesse.jp

幼稚園から高校までの「初等中等教育」の新しい在り方を検討している中央教育審議会が、2021年1月にも予定する答申に向けて、近く中間まとめを行います。小学校高学年に教科担任制を導入することや、高校の普通科に新学科を創設することなどが注目されていますが、目指すのは「令和の日本型学校教育」だといいます。どういうものなのでしょう。

「知・徳・体」は当たり前じゃない
中教審特別部会の中間まとめ案によると、明治以来の「日本型学校教育」とは、教師が学習指導だけでなく、生徒指導(生活指導)などの面でも、さまざまな場面を通じて、児童生徒の状況を総合的に把握して、指導を行うことで、子どもたちの知・徳・体を一体で育む学校教育のことです。一定の教育水準を保つ「平等性」の面だけでなく、全人教育などの面でも「諸外国から高く評価されている」としています。
そうした学校像は、日本では当たり前だと思いがちですが、文部科学省によると、国際的にはそうでもありません。諸外国の「スクール」では、先生の業務は、主に知育(教科等)に特化されており、徳育(道徳・特別活動等)は家庭や教会(宗教)で、体育(部活動等)は地域のスポーツクラブなどで行われることが一般的だといいます。学校中心の部活動も、日中韓に特有の現象です。
地域社会の中核にあるのも、日本の学校の特色です。

コロナ禍で存在感、一方で「同調圧力」も
20世紀に入ってから戦後にかけて、就学率が上がり、教育水準も向上していくにつれ、日本型教育が定着していったといいます。制度面だけでなく、とことん子どもに向き合って、全人格的な成長を促そうとしてきた、日本の先生方の努力も忘れてはなりません。
特に、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う最長3か月の臨時休校措置は、学校という存在の大きさを改めて浮き彫りにしました。学力を保障することはもとより、人と安全・安心につながれるという点で、福祉的な役割をも担っているのです。
一方、そんな学校が、子どもたちに「正解主義」や「同調圧力」を感じさせる場になってしまっていたことも否めません。

 「個別最適な」「協働的」学びへ
中教審では、日本型学校教育のよさを維持しながらも、学習意欲の低下やいじめ・不登校、先生の忙しさといった反省点を改善するとともに、人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成も必要だとしています。そこで、目指すべき学校の在り方を「多様な子供たちの資質・能力を育成するための、個別最適な学びと、社会とつながる協働的な学びの実現」としました。

 まとめ & 実践 TIPS
国内だけ見ていると、とかく日本の学校の悪い面だけに目を向けがちになります。しかし、ことわざにある通り、角をためて牛を殺すようなことがあってはなりません。
客観的な証拠(エビデンス)に基づき、日本型学校教育の「強み」と「弱み」は何かを公正に把握し、ポストコロナの「ニューノーマル」(新しい日常)にとっても必要な教育政策を立案することが、中教審に求められます。

 

 

【めったにない良質な記事】

 子どもを知・徳・体の三つの側面から総合的に育てようという日本の学校教育が世界的には非常にユニークなもので、「諸外国から高く評価されている」という点、いくら強調してもしきれない話である。
 また、
 制度面だけでなく、とことん子どもに向き合って、全人格的な成長を促そうとしてきた、日本の先生方の努力も忘れてはなりません。
という部分も、繰り返し強調されてしかるべきと思う。

 さらに、ここにはないが、運動会・体育祭、文化祭、音楽会、遠足、修学旅行、キャンプ、林間学校など、学校で行われる行事でもっとも意図されているのが道徳教育(協調・協働・役割・責任・労働・集団行動・礼儀・利他・郷土愛等々)で、それが体育や知育(教科教育)の上に乗っかっているだけなのだということも、繰り返し強調したいところだ。

 ひとつ文句は言ったものの、ベネッセのこの記事は教師の矜持を支える優れたものだと言える。
 語の本来の意味でも、通常の使い方でも「有難い」記事と思う。感謝したい。

 

【ベネッセ委が一緒になって、角を矯めて牛を殺す】

 ただし、その上で、
中教審では、日本型学校教育のよさを維持しながらも、学習意欲の低下やいじめ・不登校、先生の忙しさといった反省点を改善するとともに、人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成も必要だとしています。

などと何の問題性も指摘せず、シレっと書くのはいかがなものか。すでに学校が能力の限界でアップアップしているというのに、
先生の忙しさと言った反省点を改善するとともに
と改善策も示さずに書いただけで、
人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成も必要だ
と、多忙の上にさらなる仕事をかぶせる内容を非難しないのか。ジャーナリズムとしてはひとことここで、あってもよさそうなものではないか。

 さらに、
客観的な証拠(エビデンス)に基づき、日本型学校教育の「強み」と「弱み」は何かを公正に把握し
などと気楽に書くが、客観的に証拠を示せるのはせいぜい学力くらいのものだ。体育のような数値化できそうなものだって、体力や巧緻性など民族が違えば比べることはできない。ましてや、いいにせよ悪いにせよ、それが学校教育の結果かどうかなどといったことになると絶対に証明できない。

 日本の学校教育が常に低い評価しか与えられないのはそのためだ。
 OECDの学力調査などをもとに「学力低下」ばかり叫ばれ非難されるが、敢えて例えれば体操競技で全種目に挑戦させられながら評価は鉄棒の記録だけで測られているようなものだ。

 いやボクらは平行棒もやれば跳馬にだって挑戦していると言えば、いやそんなものは他の国ではやっていないから比べられないと応え、しかも鉄棒には専念させてもらえない、それが今の日本の学校の状況だ。日本の教育の体育や徳育を評価する動きは、少なくとも国内にはない。

 ベネッセの記事は多くの場合、現場に寄り添い、現場をよく見たうえで記事にしてくる。その点で好感が持てるのだが、抜けるときは抜ける。

 

神戸市は校長・教頭への昇任試験をやめてしまうらしい。やめて管理職を一本釣りするらしいが、何か根本的な勘違いをしていないか?

神戸市は、校長・教頭のなり手がいないので昇任試験をやめてしまうという。
なりたい人がいないので、なってほしい人を管理職にするつもりらしい。
しかしそれでうまくやって行けるのだろうか。
神戸市教委には根本的な勘違いがあるらしい。
という話。

f:id:kite-cafe:20200911145923j:plain(「勉強中 受験 本とノート イメージ素材」 フォトACより)

 

記事

 全国初、校長と教頭の昇任試験廃止 年齢引き下げ「30代教頭」も 神戸市教委

(2020.09.10 神戸新聞NEXT)

www.kobe-np.co.jp

 

 神戸市教育委員会は来春の人事異動に向け、本年度から市立学校の校長、教頭の昇任試験を全て取りやめる方針を固めた。阪神・淡路大震災後、教員採用を絞った世代が適齢期に入ったことや、管理職の激務から、受験者が減っているのが大きな理由。本人の意向調査と面談を経て引き上げる方針で、適任者がいれば「30代の教頭先生」もあり得るとする。文部科学省によると、「昇任試験なし」は全国的にも例がないという。(井上 駿)

 神戸市教委は毎年11~12月、校長、教頭への昇任希望者に筆記試験と面談を実施。翌年春の異動に反映させてきた。校長については先行して2018年度から筆記試験をやめている。

 昇任試験の競争倍率は年々低下。教頭では、08年度に小学校で5・12倍(169人中33人合格)、中学校は8・78倍(158人中18人合格)だったが、19年度には小学校で1・5倍(45人中30人合格)、中学校は2・04倍(53人中26人合格)まで落ち込んだ。背景には、管理職の多忙化や重責があるとみられ、「手を挙げる人がいない」と市教委。中堅層が少ないことと合わせ「管理職の育成が危機的な状況」という。

 また市教委は来春から、一般教諭対象の「神戸方式」と呼ばれた人事異動ルールも全面廃止する。本人の意向を踏まえて校長同士で調整して素案を作るが、対象者には拒否できる権利もあったため、実態に即した人員配置が難しくなっていた。同方式は、東須磨小学校の教員間暴力・暴言問題でも、背景の一因として指摘されていた。

 今後は管理職、一般職ともほぼ同様に、本人の意向調査▽校長らの評価▽各校を巡回して支援する地区統括官の意見-などを総合的に評価し、全市的な視点で人事案を作る。校長らを補佐する立場の主幹教諭の要件も「40歳以上」から「30歳以上」に引き下げ、管理職候補として育成する。

 市教委の担当者は「積極的に若手を登用し、適任者がいれば、30代の管理職も考えられる」とする。文科省の担当者は「管理職の昇任試験を部分的に取りやめている自治体はあるが、全面的にやめるのは聞いたことがない。神戸市の取り組みは一つのモデルになるのでは」としている。

 

 内容的にはまったく意気の上がらないものなのに、
「神戸市の取り組みは一つのモデルになるのでは」
とは、神戸市教委はどこまで能天気なのだ?

 記事を読んで、
小学校で1・5倍(45人中30人合格)、中学校は2・04倍(53人中26人合格)
なら十分じゃないかと思う自治体も少なくないと思うが、神戸市では学校運営を通して自己の教育理念を実現しようとする立派な教師とともに、何かの勘違いをしたお調子者が多数、昇任試験を受けに来るとでもいうのだろうか?
 いずれにしろ、何か私とは根本的な違いがあってこういうことになったのだろう。

 

【管理職不足の先駆け、東京都はどうしたか】

 私にとって神戸市は「高塚高校校門圧死事件」のあった街であり、「酒鬼薔薇聖斗事件」の現場であり、最近では「東須磨小教員いじめ事件」のあった場所である。あるいは教員の負担軽減を理由に、教育の最も大切なものを奪おうとした市でもある(*1)
 
印象とすれば、行政が強圧的で現場のことをまったくわかっていない市だと言える。教委は学校も教員も何も守ってくれない――。

 こんな土地で学校の管理職、特に校長であることは楽ではない。同じ管理職でも教頭は教師の頭(かしら)だが、校長は行政の末端である。「強圧的」で「学校も教師も何も守ってくれない」教委の施策は、実際には校長が教員に下ろさなくてはならないのだ。誰が好んでなるものか。

 さてその上で、なり手のいない管理職をどのように埋めていくか――。
 その点で先輩である東京都は、退職校長を再任用で学校に留め置くという方法で凌ごうとしてきた。校長を安易に退職させると副校長(東京都には教頭はいない)を昇任させざるをえず、そうなるとさらに下の職である主任教諭も繰り上げなければならない。ところがこの主任教諭の座が、質的には埋まっていないのだ。もう20年に渡ってマイナスなのである。
 これ以上、空席を増やすわけには行かない――そこで昇任人事の流れに制動をかけ、主任教諭を昇任させず、副校長を校長にせず、定年退職を止めるわけにも行かないので一部を再任用校長として留めたのである。
 おかげで副校長の中には副校長のまま定年退職を迎える人まで出てきているという。殺人的な職務を何年も続けた上での退職である。ほんとうに気の毒だ。

 神戸市教委も、当然そうした事情は承知しているようで、そこで選んだ方法が「昇任試験の廃止」だ。

 

【神戸市はこうすることに決めた】 

 しかし昇任試験を廃してどうするのか。
 今後は管理職、一般職ともほぼ同様に、本人の意向調査▽校長らの評価▽各校を巡回して支援する地区統括官の意見-などを総合的に評価し、全市的な視点で人事案を作る。
 どういう意味か分かるか?

 要するに管理職になりたい教員を待っているのではなく、教育委員会が選んで決めるということなのだ。もちろん本人の意向調査を謳っている以上、無理やり昇任させるわけにもいかない、つまり選んだ上で説得する――誰が?

 これは実質的に校長の仕事となるだろう。日ごろの人間関係のない教委が出てきても成果は期待できないからだ。場合によっては、これも校長の大きな負担となるだろう。説得に応じない教員が出てきたら教委との間で板挟みになる。
 もちろんそんな苦しい校長の立場を見て、折れて管理職になろうとする心優しいい教員もいるが、絶対にあんなにふうにはなりたくないと改めて意を強くする教員だって出てくる。つまり昇任に応じない。
 たいへんな仕事になるのは目に見えている。事故が起きないといいのだが(*2)。

 

【30代で管理職になる不幸】

 市教委の能天気はまだ続く。
「積極的に若手を登用し、適任者がいれば、30代の管理職も考えられる」
 こう言えば教師たちは喜ぶとでも思ったのだろうか?

 確かに一般企業や役所で「30代でも管理職」と言えば意欲の出る人もいるだろう。しかし教員は違う。
 一般企業でも、例えば意欲に燃えて現場で働いているエンジニアに「明日から管理職」と言っても喜ばないのと同じで、子どもとふれあい、子どもを育て、子どもとともに生きることを喜びとする教員に「30代でも管理職」と言っても誰も喜ばない。そもそも、
背景には、管理職の多忙化や重責があるとみられ、「手を挙げる人がいない」
という状況で、「30代でも管理職。定年まで30年、がんばってちょ~だい!」とか言っても震え上がるだけだろう。私だったら職と命を懸けて断る。

 市教委担当者、何を考えているのだ?


《注》
*1

kieth-out.hatenablog.jp
*2
 もう14年も前のことになるが、千葉県で昇任試験を強要された教員が自殺するという事件があった。神戸市も気をつけた方がいい。


 昇任試験強要が引き金か 千葉市立中の教諭自殺
(2006.10.17 共同通信

 千葉市立中学校の男性教諭(50)が9月、校長(58)の行き過ぎとみられる指導後に自殺した問題で、教諭が自殺する約1週間前に、校長に教頭昇任の管理職選考試験の受験断念を伝えたところ、同僚の前で激しく怒られていたことが17日、関係者の話で分かった。

 市教育委員会も同様の事実を把握。教諭はこの直後から出勤しなくなっており、校長の受験強要が自殺の引き金になった可能性があるとみて調査している。

 関係者によると、今年の選考試験は9月21日に申し込みが締め切られ、11月の実施予定。受験資格は51歳未満で、教諭にとって最後の機会だった。

 

日本の子どもは精神的に世界で最も不幸だと言われて、違和感を持たないとしたら、それはやはり異常だ

 ユニセフによる子どもの幸福度調査で、日本の子どもは体の健康の分野では1位となったものの、精神的な幸福度は37位だという(総合20位)。
 だが、こと子どもや教育について「日本はダメだ」とか「最低レベルだ」といった話が出たら、眉に唾をつけて身構えなくてはならない。
 そこには必ず虚偽か、過誤か、悪意があるからだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20200904194609j:plain(「秋の公園で遊ぶ3人の子供たち」フォトACより)

 

記事

子どもの幸福度 日本は先進国など38か国中20位 ユニセフ調査

(2020.09.03 NHK)

www3.nhk.or.jp

子どもの幸福度をはかるユニセフ=国連児童基金の調査で、日本は先進国や新興国など38か国中、20位でした。体の健康の分野では1位となる一方、精神的な幸福度は37位となっています。

ユニセフは日本を含む先進国や新興国など38か国を対象に各国のさまざまなデータをもとに子どもの幸福度をはかる調査を7年ぶりに実施し、3日、その結果を発表しました。

それによりますと、1位がオランダ、2位はデンマーク、3位はノルウェー、そしてスイス、フィンランドと上位をヨーロッパの国が占め、日本は20位となっています。

調査では体の健康と精神的な幸福度、学問などの能力の3分野でそれぞれ順位をつけていて、日本は子どもの肥満の割合や死亡率などから算出した「身体的健康」の分野では1位でした。

一方で学問などの能力をはかる「スキル」では、学問的な習熟度は高いものの社会的な適応力で上位の国におとり、27位でした。

そして「精神的幸福度」では、15歳時点での生活の満足度の調査結果や若者の自殺率などから算出した結果として37位となりました。

今回の調査は新型コロナウイルスの感染拡大前に実施されたということで、報告書を執筆したユニセフ・イノチェンティ研究所のアナ・グロマダさんは「新型コロナウイルスの子どもたちへの影響は大きく、子どものメンタルヘルスは健康問題の一部として積極的に対策に取り組むべきだ」として、感染拡大を受けて一層の対策が求められると指摘しました。

子どもの幸福度の調査は7年前の2013年に31か国を対象に今回とは異なるデータももとにして実施されていますが、この時は日本は全体で6位でした。

 

【子どもの幸福度調査の曖昧さ】

 どこの国であっても自分の祖国が「ダメだ」「失格だ」と言われるのは辛い。ましてやGDP世界第三位、G7の一角を担い第二次大戦後最大の奇跡と言われた経済復興を果たした我が国が、子どもの幸福度38カ国中20位、精神的な幸福度は37位と言われれば傷つく。
 プチパニックに陥って、
「すごく衝撃的な数字になっています。このパラドックス(逆説)は何を意味するのでしょうか?」

とか
「最大の要因は日本の学校における『いじめ地獄』です」

2020.09.03 東スポ『尾木ママ「すごく衝撃的」 ユニセフ発表「子どもの幸福度」日本の数字にア然』
などと騒ぎ出す人が出てきても不思議はない。
 しかし暴れる前に、何が本当かを確かめることも必要だろう。

 尾木ママユニセフの調査報告書を見たのだろうか? NHKの記者もきちんと内容を吟味したのだろか? 英文だからといって忌避しなかったろうか?

www.unicef-irc.org
 しかし私は見た。

 もちろんGoogle翻訳先生と首っききで、しかも要点らしき部分だけだが、それでも分かったことは多い。
 例えば記事を読んだだけではサラッと通り過ぎて引っ掛からないような部分、
ユニセフは日本を含む先進国や新興国など38か国を対象に各国のさまざまなデータをもとに子どもの幸福度をはかる調査を7年ぶりに実施し、3日、その結果を発表しました」
 ここに重大な問題がある。
 調査はユニセフの独自の指標で行ったのではなく、各国のさまざまなデータをもとにやったのだ。

 だから、おそらく見合うデータのなかった「家族関係の質に応じた15歳の感情的幸福」とか「家族、友人、またはサービス提供会社等からサポートを求めることができる親の割合」とか「教育、雇用、または訓練を受けていない15〜19歳のすべての若者の割合」とかいった項目に日本の名前はないし、載っている項目についても内容や意味に微妙な違いがあるのかもしれない。

「15〜19歳の青少年10万人当たりの自殺率」だとか「方移住または肥満であった5〜19歳の若者の割合」とか、あるいは「2007~2019までの平均失業率」とかはどこの国でも調べていそうな内容で、もちろん日本の名前もある。

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 ちなみにNHKの記事に、
『「精神的幸福度」では、15歳児点での生活の満足度の調査結果や若者の自殺率などから算出した結果として37位となりました』
とあるので“日本の若年層の自殺率はそんなに高いのか”と驚かれた方もいるかもしれないがさほどではない。15〜19歳の青少年10万人当たりの自殺率は7.5人で41カ国中30位。下から数えて12番目で、ざっと見、下から三分の一くらいである。
 決して誉められた値ではないが、「精神的幸福度」を38カ国中37位にまで押し下げる力はないだろう。

 

 

【幸福度とは満足度のことか?】

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  問題は「生活の満足度」だ。
 質問の形は「生活の満足度が高い15歳の子どもの割合」で、日本はわずか62%で33カ国中32位。オランダの90%、メキシコの86%などと比べるとかなり見劣りがする。

 しかし考えてみてほしい。
「生活の満足度が幸福度と同じである」という考え方自体に歪みはないか。満足と幸福がイコールなら、日本人は決して幸福になれない。

 日本の子どもが最初に教えられるのは「我慢」だ。
「人がたくさんいるところでは大声を出してはいけません」
「列にはきちんと並ぶものです」
「欲しくても商品にやたら手を出すものではありません」
「風邪を引いたら人様にうつさないようにマスクはするものです」
「弱い人は助けなさい」
「自分の出したごみは自分で持ち帰るものです」
「どんなに楽しいことでも、人の嫌がることはしてはいけません」
「やたらでしゃばるのではなく、黙って自分の責任を果たしなさい」
「お金があるからと言って何でも欲しがってはいけません」
「見せびらかすのは下品な人のすることです」
「自分のために勉強をしなさい」
「時間を守りなさい」
「約束は絶対です」
「いつも自分のことは後回しにして、他人のために譲りなさい」
――常に我慢を強いられ、我慢が期待される日本社会で、「満足」を求められても難しいだろう。だからと言って日本の子どもが不幸せなわけでもない。

 私は昨年、4歳になったばかりの孫と一緒に池袋の「プラレール博」に行ったが、驚いたことに同じ年頃の数百人もの子どもたちが、1時間を越える待ち時間を大騒ぎしたり走り回ったりすることなく、おとなしく待っていられるのだ。
 その先に、人数が制限されて、安全に、十分に楽しめる世界が待っている。

 何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。

 しかしそもそも「満足度」といった主観的なものを比べることに、何の意味があるのか。

 

 

ユニセフの社会的スキル、日本人の社会的スキル】

 ところで、
「学問的な習熟度は高いものの社会的な適応力で上位の国におとり、27位でした」
 これはどうか?

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 ユニセフが社会的適応力を判断した基準は「友だちを簡単につくれる15歳の子どもの割合(Percentage of children aged 15 years who make friends easily)」である。
 日本の15歳は69%でこれも下から2番目。日本より下にはチリしかいない。

 しかしこれはむしろ “よく69%もいたものだ”と感心すべきことではないか。「誰とでもすぐに友だちになれる能力」は、日本では”才能あつかい“されていると私は思っている。また、見知らぬ人にすうっと近づいて話しかけるような子を見ると、不安になったものだ。私自身が「友だちを簡単につくれる」ような人間ではないからかもしれない。

 しかしそうなると還暦をとうにすぎた私自身が「社会的適応力(スキル)に欠ける人間」ということになる。
 そうだろうか? 私はそんなにダメなやつなのか?
 このあたりにもこの調査の怪しいところがある。

 ユニセフの子どもの幸福度調査――しばらくは評判になるだろうが、さして重要視すべきものではないだろう。