キース・アウト

マスメディアはこう語った

東京都をまねて、文科省は全国の公立小中学校に若手教員を指導する新しいポストをつくるという。指導と言っても実際の教員にはそんな余裕がないから、単に校内が分断するだけだろう。学校にヒエラルヒーを持ち込むことで出世競争を促し、競争を通して教員の質を高めようとする石原都知事の亡霊は、今も都庁をさまよっているのに。

(写真:フォトAC)

記事 

 

公立小中教員に若手指導ポスト新設へ、給与も増額…「主幹教諭」と「教諭」の間に
(2024.04.16 読売新聞オンライン)

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 文部科学省は、公立小中学校に若手教員の指導にあたるポストを新設する方針を固めた。校長ら管理職を補佐する主幹教諭と一般の教諭の間に位置付け、給与も増額する。文科省中央教育審議会でも議論されており、近く中教審が示す素案にも盛り込まれる見通し。
(以下略)

 記事を読んだ人たちはこの内容をどう判断するのだろうか?
 今年は間に合わないにしても、ちょうどいま、年度当初の殺人的スケジュールに窒息しかけている若手の教員に対し、来年度以降は新設のポストの教師がピッタリと張り付いて指導・支援をしてくれる――そんなふうに考えるのだろうか? 4月を乗り切れば多少は楽になるが、そうなったら“新しいポスト”の教諭は自在に活動し、休んだ教師の代わりに授業に入ったり、多忙な教師の補佐をしたりと、そんなふうに働いてくれると、理想的な教育制度を思い浮かべるのだろうか? もしそうだとしたら、それは砂糖入りの蜜よりも甘い夢だ。
 
 現在の「主幹教諭」ですら学級担任を持ち、授業を行っているのだ。“新しいポスト”の教諭がフリーで学校に常駐するなどありえない。今回も手本になるらしい東京都では“新しいポスト”に相当する「主任教諭」が2009年から教諭全体の4割にもなっているという。この4割もが授業も担任も持たないとしたら、学校教育は成り立たないだろう。
 実際には普通の教諭と同じように学級担任や教科担任をもち、同じだけの業務をこなした上で、若手教員の指導を担わされているのだ。給与の増額分を考えると、真面目にこなせる役職ではない。
 
 ただし、主幹教諭や副校長と違って主任教諭になることへの抵抗感はさほど多くない。なにしろ4割もいるのだ。人数が多ければ多いほど責任は薄くなる。なったところで仕事量が劇的に増えるわけではないし給料も上がる。
 主幹教諭や副校長は責任の重さが違う、仕事量も違う。給料は上がるといっても東京都の場合は企業との競争もあって、一般職の給与自体が元々いいから、あまり魅力的ではない。
 かくして昇任試験の受験者はさっぱり増えず、主幹教諭・副校長の試験倍率は2008年以来ずっと1.1倍程度のままである。しかも主幹教諭の場合、図式的に言えば120人欲しいところに110人しか受験に来てくれないので10人落として1.1倍と、そんな状況が10年以上も続いている。
 
 それなのに校長任用試験だけが4倍と突出しているのはなぜだろう?
 一般には副校長にまでなった以上、最後は校長で終わりたいと思うのが人情だとか、一普通の教諭に増して殺人的な副校長職を一刻も早く抜け出したいという思いがあるからだと説明されるがそうではない。
 校長のポストに再任用の校長が居座って、席を空けてくれないからである。希望者に対して席が足りなすぎる。
 ただしそれは再任用校長が欲深いわけでも都教委が忖度しているわけでもなく、再任用校長が一斉にいなくなってしまったら、副校長を一斉に昇任させざるをえず、ただでも希望者の少ない主幹教諭・副校長のポストに穴が開いてしまうからなのだ。校長なら再任用でやってもいいという人はいるが、命も削る副校長職の希望者など、なかなかいそうにない。校長の仕事は誰でもできる(だから民間人校長もいたりする)が、副校長はそういう訳には行かない。何が何でも有能な教員でなくては困る。
 かくて校長の席は空かず、気の毒なことに多忙な副校長をやり続けたままで定年を迎える人が出ている――それが東京都の現状だ。
 
 文科省はそんな制度を全国に広げようとする。
 およそ20年近く前、東京都の教育行政に大ナタを振るった石原慎太郎という都知事は、管理職が教頭・校長しかない学校の仕組みこそ諸悪の根源と考え、組織をピラミッド型の一般社会型に替えようと考えた。教職員が出世の階段に殺到し、互いに競い合って教育力を高める教員社会を築こうとしたのである。教員同士が仲良くやっているようではダメなのだと、彼らは思った――しかしその結果はどうだったか?
 
 文科省に失敗した東京都の教育制度を全国に広めよと圧力をかけているのは、誰なのだろうか?