キース・アウト

マスメディアはこう語った

いよいよ小学校高学年の教科担任制が本格的に始まるが、教科担任の手配がつかない。やってもいいという人材も足りないが、教員を雇う予算もない、法律上の制約があってそもそも教員の数が増やせない。こうして学校は死んでいく。誰が学校を殺したのか。

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(ジョン・アンスター・フィッツジェラルド「誰がコックロビンを殺したのか」)


記事

 教科担任制、先行現場では人繰り腐心「誰でもいいわけではない」

(2021.07.21 毎日新聞

mainichi.jp

 小学5、6年生で導入する教科担任制について、文部科学省有識者会議は21日、対象教科を外国語(英語)、理科、算数、体育の4教科とし、教員定数を増やすことで必要な人員配置を進めるよう求める報告書案を大筋で了承した。

 

 小学校で教科担任制を先行導入している自治体は教員の人繰りに腐心している。

 

 茨城県は2021年度から全ての公立小学校と義務教育学校(計470校)の5、6年生で、専科教員による教科担任制を導入した。主に理科、英語、算数だが、限定はしていない。国の追加配置(加配)の活用や定年退職した教員の再任用のほか、各市町村が独自に採用するなどして約300人の専科教員を確保した。配置できなかった学校は近隣の拠点校から派遣するなどしてカバーする。県教育委員会担当者は「教員の負担軽減のためにも1校1人は配置したいが、教育の面を考えると専科教員は誰でもいいわけではない。より効果的な制度にするため採用・育成の両面を進める必要がある」と話す。

 

 文部科学省は22年度からの教科担任制の本格導入に向け、加配を拡大する方針だが、「財務省との折衝次第」(文科省担当者)で先行きは不透明だ。多くの専科教員を確保することが難しい中、大分県兵庫県のように同じ学校の教員同士が得意な科目を交換する形で教科担任制を導入しているケースもある。大分県は19年度から一部の学校でこうした制度を取り入れているが、学校の態勢によっては必ずしも得意な科目が担えるとは限らない。それでも県教委担当者は「得意教科でなくても改善を続けることで自信が付き、その教員の専門性の高まりにつながると考えている」と話す。

(以下、略)

 

  当為(あるべきこと、なすべきこと)と現実は異なる。

 小学校高学年の教科担任制が悪かろうはずもないが、だからといって可能であるか、他の条件を無視しても(例えばどんな財政的負担に耐えても)「なすべきこと」かどうかは別問題だ。

 

【どう転んでも現実はうまく行かない】

 記事にもある通り、

教科担任制の本格導入に向け、加配を拡大する方針だが、「財務省との折衝次第」(文科省担当者)で先行きは不透明

 1学級40人から35人に減らす、たったそれだけでも40年以上かかり、しかも5年がかりでやらなければならないというのに、教科担任制のための加配など財務省が首を縦に振るわけがない。

 

 茨城県は、

国の追加配置(加配)の活用や定年退職した教員の再任用のほか、各市町村が独自に採用するなどして約300人の専科教員を確保した。

とのことだが、教科担任制のための加配制度などないから、他の名目の加配(例えば小学校1年生の学習習慣形成支援加配)を振り向けただけだろうし、「市町村独自の採用」というのは要するに地方が身を削って生み出した予算によって増やしたものだからいつまで続けられるか分からない。

 定年退職した教員の再任用となると意味も分からない。再任用教員は正規職員だからこれを“学級をもたない教科担任”にしてしまうと、学級担任が一人足りなくなってしまうはずだが、いかがか――。

 

 結局は大分県兵庫県がやるように、

同じ学校の教員同士が得意な科目を交換する形で教科担任制を導入

が精いっぱいだろう。これがいかに教員の負担になるかは前に書いた。

kieth-out.hatenablog.jp

 問題は要するに

理科の年間授業時数は105時間(週3時間)、算数は175時間(同5時間)、英語が70時間(同2時間)、体育に至っては90時間(同2・6時間)という変則、これをどう交換するのか?

ということだけだ。

 

「英語と理科(計175時間)が得意な先生が算数(175時間)の得意な先生と交換する、体育は諦める」とか、「英語と体育の得意な先生(計160時間)と算数(175時間)が得意な先生が交換するが、端数の15時間はドリルやテストの時間として本来の学級担任が行う」とか、いずれにしろロクなことにはならない。

 そもそも「専門は社会科だ。理科も数学も英語も得意じゃない」という私のような人間は、

「得意教科でなくても改善を続けることで自信が付き、その教員の専門性の高まりにつながると考えている」

ということになるのだろうか?

 しかし決まったことだ。どんなに大変でも教員はやってくれるだろう。

 

【誰が学校を殺したの? / それは私よとスズメが答えた】

 昭和の終わりからここ三十数年、学校は現実味のない理想主義によってボロボロにされてきた。今やマス・メディアでは「エビデンス(科学的根拠)」が流行語だが、「総合的な学習」が子どもに生きる力をつけるかどうかは誰も知らないし、すでに20年の歴史を経たというのに検証されたこともない。

 プログラミング教育の必要性が科学的に証明されたという話もなければ、「11歳から学校で始める週2時間の英語教育が、国民全体の英語力を高める」といったことにもエビデンスがあってのことではない。

 そうであるにも関わらず、教員を疲弊させ学校を殺すこれらの施策は、誰が考え、誰が始めるのだろう。

 

 ネット情報を集めると「バカな文科官僚」の姿が浮かんでくる。しかしこれは間違いだろう。公務員は誰もみな忙しいのだ。

 学校は教師のなり手が減り、児童相談所は虐待が解決できず、保健所は新型コロナに対応しきれない。公務員の働き方改革に取り組まなければならない厚労省の職員は月300時間の時間外労働に耐えている。

 みんな「身を切る行政改革」で切られてしまったからだ。

 

 そうなると公務員は最低限の職責を果たすためいっそう保守的になり、現存の仕事に執着して新しいものに手を出さなくなる、それが当然だ。それにもかかわらず教科担任制などの新しい施策に手を染めなくてはならないのは、文科官僚に命令できる誰かの圧力があるからである。

 

 だれが学校を殺すのか――それは「日本人の学力がさらに向上し、英語力やプログラミング能力が高まることで儲かる誰か」である。決して一般の国民ではない。