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閉会式 太田雄貴氏がSNS実況「海外選手達がギブアップ 選手村に帰ったり」ネット沸く
(2021.08.09 デイリー)
東京五輪・閉会式が8日夜、東京・国立競技場で行われた。
日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の選手委員となった、フェンシング男子の銀メダリスト太田雄貴氏がステージにあがった。
太田氏は閉会式の途中、国立競技場から写真付きのツイッター投稿を連投し、閉会式の様子を実況。
(中略)
終盤のトーマス・バッハ会長のスピーチ時には「海外選手達がギブアップし、選手村に帰ったり、寝そべったりしている中、日本選手団はスピーチをしっかり聞いておられます。これは学生時代に校長先生達に鍛えられた成果と推測しております。現場からは以上です!」と、リアルな状況も伝え、ユーザーを沸かせた。
評
太田雄貴は冗談のように言い、ツイッター・ユーザーも冗談ととらえて沸いたようだが、私は大まじめに言いたい。
「それはまったく校長先生のおかげだ」
葬儀でお経がつまらないからと言って寝ていいことにはならないし、結婚式で神父の話がくだらないからと言って騒いでいい理由にもならない。神主の祝詞なんて半分も理解できないのが普通だ。
しかし大人は、分かっても分からなくても、面白くても面白くなくても、きちんと聞いているふりくらいはして、演者に失礼のないように、あるいは分かって聞く人の邪魔にならないようにするのが礼儀だと知っている。そしてそのようにふるまうのだ。
始業式や終業式、あるいは入学式や卒業式でつくられるのはそういう力だ。校長先生や来賓の話なんて内容の6割は形式的なものだから面白くもない。しかし注意深い子どもたちは残りの4割の中に価値ある言葉を探し出す。それが他人の話を聞く意味だ。
漫才や落語ではないのだから最初から最後まで面白いということはあり得ない。頭にツカミがあるわけでもない、しかしとりあえず聞かなくては、大切な部分に触れることはできない。
日本の子もたちは小さな時からそうした“聞く”しつけを受けて育ってくる。それが、
海外選手達がギブアップし、選手村に帰ったり、寝そべったりしている中、日本選手団はスピーチをしっかり聞いておられます。
という姿勢をつくっている。
もっとも最近の日本ではそうした価値も見直されようとしている。
マスコミは成人式で祝辞を聞かない若者に同情的だ。「もっと若者が聞きたくなるような話をすべきだ」などと平気で言う。記者も話を聞いていないから大切なことが語られることに気づかない。
文科省も教育委員会も、あるいは校長自身ですら、“聞く”ことの教育に懐疑的で、見直す方向にある。3学期制を2学期制に変更して終業・始業式を1回ずつ減らしたり、運動会や文化祭での校長の話を削って時間短縮を計ったりすることが称揚されたりしている。
あと20年もすれば校長先生達に鍛えられなくなった日本のアスリートも人の話を聞かなくなる。さっさと会場を後にしたり会話を楽しんだり、寝そべったりするようになるだろう。そうなったときマスコミは、「これで日本人も世界標準に近づいた」「同調圧力を脱して、自ら決める力を持った」と誉めてくれるだろうか?