キース・アウト

マスメディアはこう語った

『日本人を作る「特別活動」に世界が注目!』 しかしそんなものは時代遅れだ。今や日本は、全員が英語を喋れて、プログラミングのできる国を目指しているのだ。(もちろん皮肉だぞ!)

(写真:フォトAC)

記事

 

公立小学校の記録映画が海外で大反響 日本人を作る「特別活動」に世界が注目
近ごろ都に流行るもの
(2024.11.30 産経新聞

www.sankei.com

 日本のありふれた公立小の1年を追ったドキュメンタリー映画「小学校~それは小さな社会~」が海外で大反響を呼び、日本での凱旋(がいせん)公開が始まる。日本人にとって当たり前の給食や掃除の当番といった特別活動「TOKKATSU(特活)」に着目した作品で、時間への正確さやゴミ拾いなどに象徴される日本人の個よりも集団を重んじ、協調性を育む教育の原点を学ぼうという機運が海外で盛り上がっているのだ。高校野球に密着した話題作「甲子園:フィールド・オブ・ドリームス」に続く、山崎エマ監督(35)の第2弾。日本人とは何かを問う視点は冷静であり、やさしい。
(以下、略)

 ここ30年余りの教育制度改革は、実績のない「総合的な学習の時間」や「小学校英語」や「プログラミング学習」やその他に山ほどある◯◯教育といった追加教育を行うために、定評ある特別活動を減らし続けるものだった。

 2学期制にして終業式や始業式ひとつずつ減らしたり、清掃を週2回に減らしたり、運動会や文化祭を縮小したり――。かつては毎週開かれて大学の自治会並みに大変だった児童会・生徒会も、今や総会と当番活動だけになってしまった。これでは大人になってからの地域の活動や災害時の自治的活動も心もとない。

 まもなくバス代の高騰やインバウンドのオーバーツーリズム、あるいは教員の働き方改革を理由に、修学旅行や他の旅行行事もなくなってしまうかもしれない。指揮係だの食事係だの、あるいはレク係・清掃係といった係活動の場がなくなって教師も子どもも楽になる。

 しかし教育の場で「楽になる」というのは力がつかないということなのだ。

【「口で言えば分かる、分かればできる」という幻想】

「公共の場ではゴミを放置してはいけません」
を口で言えば子どもたちは理解して実践する、人間とはそういうものだと考える純真さを、私は持っていない。
 旅行行事の準備・本番を含めて、
「持ち物にゴミ袋はあるか? 忘れてないか」
「さあ、再出発だ、自分の周りのゴミを拾って!」
「そうじゃない、ついでなんだから他人のゴミも拾っていけ」
――そうした活動を繰り返して繰り返し行って、ようやく身につくものだ。それをこれまでの学校は丁寧にやってきた。

 記事の中にある
海外生活できちょうめんさや協調性をほめられることがあり「平均的な日本人だと思う」と返していたが、この強みの原点は小学校にあったと気付く。
という感慨は多くの日本人が持たなくてはならない性質のものだ。日本人の几帳面さや協調性は、自然に身についたものではない。私たちが学校の特別活動を疎かにするようになったら、あっという間にこの国から消えてしまうものだからである。

【羹(あつもの)に懲りてなますを吹く】

 さらに記事は言う。
作品には子供たちの笑いや戸惑い、真剣さ、熱血教諭の泣き顔も赤裸々に映し出されている。日本的な行動の芽が見られることにも刮目(かつもく)だ。
 当然だ。
「特別活動は日本人を日本人に育てる教育だ」という視点から学校教育を見直せば、必然的に刮目して(かっと目を見開いて)見ることになる。日本の学校教育が営々として培ってきたものが何であるか分かるからだ。
 しかしそれにも関わらず、ここでマスコミは逡巡する。
校庭を眺めながら「あ、マスクしてない。よくないわ」「よくないね」とつぶやき合う6年生、教材を無くし泣きべそをかいている子をみんなでなだめて探してあげる1年生の姿は、空気を読む同調圧力と、災害時に一致団結する国民性と重なる。「日本の集団性の強さと協調性は、もろ刃の剣」という国学院大・杉田洋教授の教諭たちへの言葉も映画に織り込まれた。
 どういうことか。
 読み方によっては、
「滅多に起こらない災害時に一致団結できることより、日常的に空気を読む同調圧力にさらされないことの方が大切だ」
とも受け取れる。そもそも「空気を読む」文化が悪だとは私には思えない。何でもはっきりと口で言わないと守ってもらえない国の弱者は、生きていくのがつらいのだ。

【ほどよい教育はできない】

 もちろん実際は程度問題であって、どちらかに突き進めということではないだろう。力を合わせたり揃えたりすることも大切だが、息苦しくなるほどであってはいけない――そういうことだと思う。ただ、初等・中等教育では「ほどよく」という学習が難しい。原理原則を教えた上での「ほどよく」にはたいへんな時間がかかるからである。

 幸い、どんなに強く指導をしたところで、全員に、同じように、完全に定着するということはできない。そこに私たちの救いがある。
 マスクを例にとれば、
「さあみんなでマスクをしましょう」
という指導をしても一部の子が忘れたり意図的にしなかったりする。逆に、
「マスクは感染対策として政府が勧めているものですが、するかしないかは周囲に流されることなく、自分で決めなさい」
と指導しても、一部の子は自分で決められず、ただ言われるままにマスクをしてしまう。
 問題はそのどちらの状況の方が受け入れやすいか、ということである。
 「マスク」を「ごみを持ち帰る」や「順番を守る」「公共の場ではむしろ静かにする」に置き換えて、いろいろ考えてみるといい。

【特別活動以外に、働き方改革のためにやめるべきことはいくらでもある】

 言うまでもなく現在の教員の異常な働き方の一部は、諸外国には例のない「特別活動」のせいである。しかし減らすべきはこうして映画にもなって海外から評価の高い特別活動なのだろうか?
 プログラミング学習や英語学習は、小学校のうちからやらなくてはならないものだろうか、小学校から始めれば、ほとんどの子が堪能になるようなものなのだろうか? もう四半世紀も続けている「総合的な学習の時間」。あれで子どもたちはどんな力がつくようになったのか、私は大いに疑問だ。

 海外で高く評価されている日本の教育の核心(特別活動)を棄てるのではなく、平成以来の奇妙な追加教育をなくし、教員を増やすことで維持することを、どうして考えないのか?
 世界は日本の教育を見上げる中で、日本だけが日本以外のどこか架空の国の、ありもしない教育を目指しているとしか思えない。
*先月末の記事だが今日(12月9日)にYahooニュースに転載されて気づいたので、だいぶ遅れたが、今日、あつかった。