キース・アウト

マスメディアはこう語った

 通知票の所見欄がなくなったり、通知票そのものの回数が減らされたりしているらしい。しかし待て、親も子も楽しみにしていて、かつ人間関係の上で有益なものをなくすことはない。それより先に減らせるものがあるだろう。

記事

 

全国で広がる「通知表」の削減…適切な評価に必要なことは?Z世代が議論
(2022.09.15 TOKYO MX) 

s.mxtv.jp

 TOKYO MX(地上波9ch)朝の報道・情報生番組「堀潤モーニングFLAG」(毎週月~金曜7:00~)。「モニフラZ議会」では、削減傾向にある“通知表”についてZ世代の論客が議論しました。
 
 ◆一部の小中学校で通知表の配布回数&所見欄が削減
 
 学期末に配られる通知表ですが、最近では、学期ごとの配布をやめたり、先生からのコメントが減ったりと、各地で通知表の削減が広がっています。
 
 例えば、熊本市立の小学校では、配布回数を年に3回から2回に。京都・亀岡市京丹波町の小学校、北九州市立の中学校などでは、先生からのコメントなどがある所見欄が削減。こうした背景には、教員の働き方改革があり、所見欄をなくすことで1学期につき、先生1人あたり約10時間の業務時間減につながるとされています。
 
 子どもの頃、通知表で一番楽しみだったのが「所見欄だった」と話すのは、キャスターの堀潤。その理由は、先生が自分をどう見ているのか、先生が自分のことを見てくれていることがわかるから。
 (以下略)

【通知票、悪者でもないのに真っ先に切られる】

 「以下略」と内容の大部分を割愛したのは、そこで多くの紙幅が「成績が教師の主観に左右されていいものか」対「人間は点数だけで評価されていいものではない」という、もう何十年も続けられてきた不毛な論争が行われているからである。不毛である上に「通知票および所見欄の削減はいかがなものか」という問いの本質とはかけ離れている。
 
 しかし先まで読み進むと、
「(先生に)自分がどう思ってもらっているとか、学校でどういった役割を果たしているかなどは自己肯定感につながると思う。保護者も、自分の子どもが学校でどのようにしているのかわかるのは通知表ぐらいしかないので、所見欄がなくなってしまうと、(子どもの学校生活ぶりが)わからなくなってしまう」
といったごく常識的な発言があり、
「もっと違うところで教員の仕事の削減ができるのではないか。ここ(通知表)を削減するべきなのか」
と、これもごもっともな発言も見受けられる。

 その通りだ。通知票よりも前に削減できる仕事は山ほどある。それなのに真っ先に手がつけられるのは、これが公簿ではなく理屈上は校長裁量でやめていいものだからだ。現実には市町村教委レベルで合意するのが望ましいが、校長ひとりでやめることも、中身を簡略化することもさほど難しいことではない。
 そして通知票を廃止ないしは簡略化することは、教師たちの想いに叶っているからでもある。

【文章で記入する欄が多すぎて・・・】

 一般にはあまり知られていないが、平成以降、通知票は記入内容が増え続け、特に文章で書かなくてはならない部分は、ひところ「特別な教科道徳」「総合的な学習の時間」「特別活動の記録」「総合所見」と4か所もあった。小学校ではこれに加えて「外国語活動の記録」まである。

 いずれも分量としては大したものではないが40人近い児童生徒の5つの記入欄に、それぞれ別の文章を書くとなると並大抵のことではない。私は作文が得意だから創作でもいいならいくらでも書けるが、本人に渡す以上ウソ八百というわけにも行かない。当たり障りのない数パターンを用意して使い回す方法も思いつくが、今はトラブルを怖れて事前に教頭や校長の目を通してもらうからそれもやりにくい。
 かくして教師にとって真面目に書くしかない地獄のような学期末が続いてきたのである。通知票の簡略化はある程度必然だったのかもしれない。
(昭和のころは「特別活動の記録」と「総合所見」しかなく、特別活動の方は属する委員会名や学級内係名を書けばいいだけだった)
 
 しかしそれにしても、なぜ公簿でもなく学校独自でつくっていいはずの通知票がかくも全国に広がり、かつどれもこれも似たようなものになったのか――実は通知票には全国的にほぼ統一されたひな形あって、それに合わせるようにしたためなのだ。それが指導要録だ。

【指導要録の話】

 指導要録は、一人一人の子どもの学籍や指導の過程及び結果を記録したもので、その後の指導や外部への証明等に役立たせるための原簿となるものである。
 百聞は一見に如かずで、その様式(参考様式)を下に示しておこう。
 小学校指導要録(参考書式)
 中学校指導要録(参考書式)

 児童生徒がその学校に入ったときから書かれ始め、小学校の6年間、あるいは中学校の3年間の活動の様子が、3ページに渡ってびっしり書き込めるようになっている。

 1ページ目の「様式1」は児童生徒の学籍を証明するもので卒業後20年間は保存されることになっている。2・3ページ目の「様式2」は成績や活動に関する記録で、担任が代わったり校内で検討しなくてはならなくなった場合に参考にするためのものだ。この部分の保存期間は5年。

 特別なことがあった場合はいつでも書き込めるが、普通は年度末にまとめて記録する。その上で学年主任や教頭・校長に見てもらって担任と校長の認印を押し、保管庫に納められる。しかしそれを次年度に新しい担任が見ること稀だ。年度初めは忙しくて見ている暇がないし、ようやく一息つける大型連休明けくらいなれば要録など見なくても子どものことは十分わかってくるからだ。
 
 かくして指導要録は3学期末に担任が死ぬほど忙しい思いをしながら書いたのに、点検する主任や教頭・校長以外はまったく誰も見ない謎の書類として収納庫に収まり、毎年年度末に書き加えられて続けて児童生徒の卒業とともに眠る。
 そして5年がたつと成績や活動に関する様式2の部分は誰の目にも触れられないまま破棄されるのだ。
 
 しかし指導要録の作成は法的な義務で書かないわけにはいかないし、「特別の教育道徳」や「総合的な学習の時間の記録」などの部分は、文章で記すことも決められている。やめるわけにはいかない。

【通知票の総合所見は残してほしい】

 そうした指導要録に準拠した通知票はしたがって 「あなた(またはあなたのお子さん)は、公的記録の指導要録にこんなふうに書かれることになります」という報告も兼ねていることになる。
  中学校の場合はさらに加えて「通知票に書かれた内容は、指導要録の内容および調査書(内申書)の内容とほぼ同じですからご承知おきください」という意味にもなる。
  そこで通知票が指導要録の簡易版みたいになってしまい、所見欄が5か所といった異常事態が発生したのである。
 
 しかしどうだろう。保護者はそこまで詳しい報告を望んでいるのだろうか。先ほども引用したが、児童生徒は、(先生に)自分がどう思ってもらっているとか、学校でどういった役割を果たしているかなどを知りたいだけなのだ。保護者もまた自分の子どもが学校でどのようにしているのかが分かりさえすればいい。
 担任が自分を(ウチの子を)忘れずに温かい目で見ていてくれると確認するだけで、安心するし気持ちも和らぐ。通知票の所見欄は「総合所見」ひとつでいい。
 
 朝の報道・情報生番組「堀潤モーニングFLAG」の堀潤キャスターも、
 子どもの頃、通知表で一番楽しみだったのが「所見欄だった」
 と話している。
 その理由は、先生が自分をどう見ているのか、先生が自分のことを見てくれていることがわかるから。
 私自身も子どものころはそうだったが、ふたりの子の親としても総合所見を見て誉めてやることも安心することも少なくなかった。

 通知票の総合所見欄はぜひ残してほしい。その代わり指導要録の記述欄は全部削除でかまわない。どうせ5年しか保存しないのだ。その子のことが知りたくて資料が必要なら、旧担任を探し出して訊けばいいのだ。
 指導要録の簡略化は、文科省にしかできない。だからすればいい。

 

 (付記)
 「いいことだらけの総合所見に何の意味があるのか、悪いことも家庭に知らせるべきだ」という意見がある。筋としてはその通りだ。
 しかし通知票は単なる連絡票ではなく一生残るものである。そこに苦言を書き残してもいいことはない。問題があるなら学期末まで残してまとめて言うのではなく、そのつど早めに伝えて対処する方がお互いのためでもある。
 通知票の所見は誉めるためだけのものと腹を据え、保護者に気にいってもらい、子どもの気分の良くなる文を考えるべきと思う。

 

 ついでに、
 通知票には良いことを書いて、指導要録や調査書(内申書)の方には本当のこと(悪いことや困ったこと)も書くのではないか、と疑う人もいるかもしれない。しかし大丈夫だ。両者とも情報開示の対象であるから悪いことは書けない。ほぼ似たような調子のよいことが書かれていると考えて間違いないだろう。