キース・アウト

マスメディアはこう語った

清掃の回数や時間を減らし、トイレ掃除を外部に委託してまで浮かせた時間で、学力を伸長させるという。掃除をしない子、できない子が育つ危険を冒す以上、リスクにふさわしい成果が上がるよう、教員には一層、奮励努力してほしい、という話。

(写真:フォトAC)

記事

 

中学校トイレ清掃、一部を外部委託 生まれた時間で学力向上 教育に一石投じる動き、松川町で実施へ
(2025.03.22 信濃毎日新聞

www.shinmai.co.jp


■生徒による全校清掃、4月から週2日に

 下伊那郡松川町教育委員会は4月から、松川中学校のトイレ清掃の一部を外部委託する。生徒による全校清掃は従来の週5日から2日に減らし、残り3日は生徒や教員が当番制で教室を軽く掃除するように切り替える。創出した時間を生徒の自主活動に充て、学力や主体性の向上を図る狙い。県教委によると、県内では校舎の清掃日を減らす事例はあるが、外部委託は「把握している限りで初めてではないか」としている。

 同中学校はこれまで、平日は全校生徒が毎日20分間で校舎を清掃してきたが、4月から月、水、木曜は5分間ほどの当番制に変え、トイレは清潔を保つために外部委託する。代わりに生じた時間を月、木曜は下校前25分間の「みんなの時間」に振り向け、クラス活動や自習の他、大会前の部活動に充てる想定だ。
(以下、略)

 

  記事を読んで本能的な違和感を感じた人がいたとすれば、それは正しい。清掃を減らしてクラス活動や自習を増やして、何が得られるというのか――そこに勘が働かなくてはならない。

【道徳教育とは何か】

 学問というのは大別すると科学と芸術に分かれる。
 科学というのは「誰がやっても答えは同じ」。論理に従えば、誰でも同じ結果に至る。小保方某女がやればできるが他の人間がやったら再現できないSTAP細胞は、だから科学ではない。
 芸術の神髄は「誰にも同じことができない」。ピカソそっくりの、誰が見てもピカソが描いたとしか思えない絵は、贋作か、そうでなければただのガラクタだ。芸術は論理ではないため追試はできず、ただひたすらすばらしい作品を多く経験することでしか身につかない。

 学校はその双方を学ぶ場である。理科や数学はそれ自体が科学だから論理的な指導が可能になる。理科の「仮説実験授業」がその典型である。しかし国語や美術、音楽はそういうわけには行かない。基本的には先達である教師の指導によって、良き芸術体験を何回も繰り返してすることでしか、身に着けることはできない。
 社会科学の一部である社会科は科学に近く、英語や体育、技術家庭科は体験によってしか身につかないという点で芸術に近い。体育の表現運動や技術家庭科の作品は一部が芸術そのものである。

 そして、あまり意識されないが、
 道徳は科学ではなく、経験によってしか身につかないという点で芸術に近いものである。いや、ゴミひとつ落ちていない街並みや定時通り動く鉄道、込み合った場所では互いに譲りあう日本人の姿自体が、もはや芸術そのものだ。
 それができる大人になるために、日常の学校生活を通して、あるいは授業や読書を通して、美しい行いや良き習慣を繰り返し体験することで道徳性を身に着けていく、それが学校における道徳教育なのだ。

 その学校から清掃や委員会活動といった良き体験学習を減らし、「特別の教科道徳」だけを使って週1時間の座学で人間を育てようという試みが、いかにバカげているかは自ずと分かって来ようというものだ。
 政府がそれを主導し、地方の教育委員会が上塗りする。松川町の例はまさにそういうものである。

【清掃は道徳教育の基盤である】

 清掃の道徳的価値はすでに定評のあるものといえる。
 引用記事の割愛部分に、
『小学校の学習指導要領では「清掃などの当番活動や係活動等の自己の役割を自覚して協働することの意義を理解し、社会の一員として役割を果たすために必要となることについて主体的に考えて行動すること」と記載されている』
とあるように、清掃は人間関係の学習、すなわち道徳教育の一環として我が国に昔から定着しているものである。
 ただしなぜ清掃に道徳的効果があるのかは説明ができない。
 それを「床を磨くことは心を磨くことだ」といった比喩的な表現で説明をする人もいれば、幸田露伴のように「これこそ格物致知だ」という言い方する人もいる*1。しかしそれらは清掃の一部を説明したに過ぎない。

 言えるのは、ピカソモーツァルトのような良質の芸術作品を多く経験することによって、五感と心が芸術を理解できるようになるのと同じで、無心に床を磨き、庭を掃き、台所を清めることで、五感と心に何かの変化が起こるということだ。
 茶道・華道・書道といった仏教文化から生まれた芸術、あるいは柔道・剣道といった求道的な武術が一様に清掃を修行の門戸に置くのは、理由は分からないし説明も十分にできないが、「道」を究める上で、清掃は是非とも必要な体験であると、歴史的に証明されているからである。

 わが国では、清掃は修行であってクリーニングではない。それを長野県松川町の松川中学校では大幅に削減し、創出した時間を生徒の自主活動に充て、学力や主体性の向上を図るのだという。具体的にはクラス活動や自習の他、大会前の部活動に充てるのだそうだがどうだろう?

【教員たちの技量と創造性と情熱が試される改革】

 要は清掃という、経験的に効果が証明され、数百年の歴史を持つ教育に対して、松川中学校の生徒の自主活動がどれだけの教育効果を証明できるかということである。
 記事の最後で専門家は、
「浮いた時間を教員が有効活用できるかでも評価が変わる」
と言っている。そうだ。これだけ働き方改革が言われる時代に、教員たちの技量と創造性と情熱も試されているのだ。

 保護者たちからすれば選択の余地なく進学させざるを得なかった公立中学校で我が子が、
「試験的に導入し、子どもへの影響を検証しながら改善を重ねることが重要だ」
と実験に供されるのは不安だが、教育長と校長がふたりで進めていることだ。責任は取ってくれるだろう。あとは、
「最初はうまくいかなくても良いので」
の「最初」が数カ月であることを祈るばかりだ。数年だったらウチの子は「うまくいかない状況で卒業してしまうのだから。