(写真:フォトAC)
記事
先生の英語がわからない…英語嫌いを増やすだけの「日本人教師に英語での授業を求める」という中学校の大混乱
(2023.02.15 プレジデントオンライン)
日本の英語教育に異変が起きている。和歌山大学名誉教授の江利川春雄さんは「学習指導要領が変わり、学習する内容が大幅に増えたため、教師も生徒も疲弊している。これでは英語嫌いを増やすだけだ」という――。
■英語教育で生徒も教員もボロボロに
「英語の学習を早期に諦めてしまう子どもが増えた。英語の教員が学校に出てこられず病休になった。日本の英語教育を何とかしないと生徒も教員もボロボロにされてしまう」(岐阜・小学校教員)
「これまでも持ち帰り仕事は大量にありましたが、とうとう4時台に起きるのが通例になりました。30年以上の教師生活で、今年度が群を抜いて一番大変です」(東京・中学校教員)
これらは英語教員サークルのメーリングリストへの書き込みだ(2022年1月)。コロナ禍の2020(令和2)年度から実施された小学校学習指導要領によって、外国語が5・6年生で教科化され、読む・書く活動や成績評価も必要になった。中学2年で習っていた不定詞なども小学校に下ろされ、600~700語という過大な語彙(ごい)(新出単語)がノルマとされた。小学校段階で英語の成績が二極分化し、英語嫌いになって中学校に入る子どもが増えた。
しわ寄せをもろに受けたのが中学校だ。時間数は週4時間のまま変わらないのに、語彙が従来の1200語程度から1600~1800語に増やされ、それに小学校での語彙が加算される。そのため、2021年度から中学生が接する語彙は2200~2500語にまで増やされ、旧課程の約2倍になった。
(中略)
■能力がある生徒は力がつくが…
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小さなアクティビティ(small talkやミニゲーム、アイスブレイク等)をはさむ余裕がなくなった。代わりに急いで文法事項を進め、単元末のまとめアクティビティに力を入れている。生徒は気楽さが消えてしまい、成績に関わるアクティビティに疲れている子もいる。
できる子たちにとっては力がつく(難しい読み取りになれたり、難しいリスニングに挑戦してやりがいを感じたり)ような状況ですが、中学の早い段階でつまずいている子には「さっぱりわからない」と感じ、あきらめてしまうという格差が増大したように思います。
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まさに、自民党の教育再生実行本部が2013年に打ち出した「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」が学習指導要領を通じて学校現場に押し付けられ、格差と疲弊が広がっている様子がわかる。だが、トップ以外の普通の生徒たちはどうなるのか。ブラック企業のような無謀なノルマは教師も生徒も追い詰め、授業についていけない子や英語嫌いを大量に生みだすだけではないか。それでは子どもたちの英語力は逆に下がってしまう。
(以下、略)
評
【昔の学校】
小学校は子どもの学校、中学校は大人として試されながら大人になるための学校――そう教えられて私は育ってきた。
小学校は子どもの学校だから、卒業したときには大人の端くれくらいにはなっていなくてはいけない。ひとりで社会に放り出されても、死ぬことも絶望することもなく、何とか生き残るだけの技能を持っていなくてはならない。小学校で獲得しなくてはならないのは、生きていくうえでの最低限度の力である。
それに対して、中学校は大人にあるための準備の学校である。だから子どもっぽい言動は許されない。あらゆる可能性が試され、一部は諦められていく、それが中学校である――と思い込んで、私は大人になり、教師でもあった。
したがって昔の子は小学校卒業の段階で最低限でもいいから英語が話せるようにとか、コンピュータプログラミングができるようにとか、そういったことは期待されなかった。だから小学校の教育課程になかったのだ。
【現代の義務教育】
しかし現代は違う。
記事にあるとおり今や、
「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」
をすることが求められ、万骨枯るとも一将功なることが義務教育の目的となってきた。
それは「先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助ける」という中国の先富論や「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が良くなる」というイギリスのトリクルダウン理論にも似て、要するに「頭のいいものが先頭集団を引っ張れば、そうでない者も引きずられて能力を高める」とか「世界はエリートたちが牽引するもであって、エリートを十分に育てることによってそれ以外の者たちの経済発展や幸福は保証される」と為政者たちが本気で思い始めたかのようである。
【当事者たちは反対しない】
それにしてもエリートなんて子どもたちの中に、一握りどころか一摘まみもいない。そんなごく一部のために我が子が犠牲になることに、なぜ人々は反対しないのか――。
これについては綾小路きみまろが、自分の漫談スタイルについて語った内容が関係している。彼は「お年寄りをあそこまでけなして、なぜ嫌われないのか」と問われてこう答えたのである。
「みんな、自分のことだとは思っていない」
困ったことに親たちは、義務教育の中でも行われるようになったエリート教育が我が子も伸ばしてくれると思い込んでいるのである。大半の保護者は“ウチの子はエリート”だなどとは思っていないが、それでも小学校からの英語教育やプログラミング学習は役に立つと思い込んでいるのだ。
我が子が頭のいい子たちに置いて行かれ、分けの分からなくなった授業を延々と受けさせられるとか、楽しそうにやっているプログラミング学習もただ楽しく遊んで終わりという可能性にも、まるで気づいていないのである。
【誰のための学習か――という循環論法】
私は早くから始める英語教育やプログラミング学習は無意味だと思っている。中学校はあらゆる可能性が試され一部は諦められていく場だからいろいろ学ぶのもいいが、小学校は最低限の知識・技能・生きる力を育む場所である。そんなところで英語やプログラミングをやる必要なない。大人になってから全員が必要な知識・技能ではないからだ。
英語に限らず、自動翻訳機の発達した将来は、街々の商店やレストランで従業員が外国語を気軽に使って話しているだろう。ただし彼の職場に必要な外国語限定で――。
それぞれの職種で必要な外国語なんてタカが知れている。日本語を吹き込むたびに翻訳機が同じ言葉を反すなら、その外国語はすぐに覚えられ、使われるようになるだろう。中国人の客が多い店では従業員があっという間に中国語を覚え、スペイン語やフランス語を得意とする店の店員も増えて来るだろう。ウクライナ戦争がどうのこうの大谷翔平がどうのこうのと話す必要はないのだ。その店で必要な会話ができればいいのだから。
同様に、コンピュータ自身がプログラミングをする時代が目の前に来ているというのに、一般人がプログラミング学習をする必要もない。普通の人間はほとんどの場合、コンピュータ以上の仕事ができることはないからだ。
失礼、文章自体がとんだ循環論法に陥ってしまった。「なぜ十数年で陳腐化する英語やプログラミングを学ばなくてはならないのか――つまるところそれはエリートを育てるためだ」というのは前提であった。
引用した記事の江利川教授も同様で、
「ブラック企業のような無謀なノルマは教師も生徒も追い詰め、授業についていけない子や英語嫌いを大量に生みだすだけではないか。それでは子どもたちの英語力は逆に下がってしまう」
などとおっしゃるが、現在の英語教育への変更は、別に子ども全体の英語力を高めるためのものではないと教授自身がおっしゃったばかりではないか。