キース・アウト

マスメディアはこう語った

そろそろブームも終わるから、ツーブロックも色つき下着も許可してもかまわないが、「ブラック校則反対」でメシを食っている人たちは、もうしばらくこのままでいてほしいのだろうな、という話。 

(イラスト:パブリックドメインQ)

記事

 

教員も説明できない「ツーブロック禁止」の理由…ナゾの“ブラック校則”はなぜ生まれてしまったのか
『学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール』より #1 藤原 和博
(2023.07.13文春オンライン) 

bunshun.jp

 小学校・中学校の不登校児童生徒数は、2021年度で約24.5万人となった。前年度に比べると、約5万人増の大幅な増え方である。これに不登校状態の高校生を加えれば、軽く30万人を超えるだろう。「ウソくさい」学校に息づまる思いをしているの子どもたちは、もっと多いのではないだろうか。

 ここでは、教育改革実践家の藤原和博氏が、教育現場の理不尽な実態を綴った『 学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集してお届けする。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆

「学校」という装置の役割
「ブラック校則なくせ」。そんな活字が新聞の見出しに躍ったのは2017年の暮れのことだ。必要以上に生徒の生活に介入する不合理な校則を、NPО法人らが調査し公に問題にしたのである。背景には、学校の校則に対する批判がテレビやネットのバラエティ番組で激しくなってきたことがある。すべての校則を「児童生徒と議論して決めろ」と乱暴な意見を言う評論家には「それはちょっと違うのではないか」と私は思うが、本書ではまず、「校則のウソ」から始めよう。

 学校の「校」という字の成り立ちは「木」偏に「交」というつくりからなる。

「交」は足を交差している姿だと言われ、刑罰の足枷(あしかせ)に拠るらしい。つまり、「無理矢理やらせる」という意味なのだ。学校はもともと、「学び」を強制する(矯正する?)場所なのである。

 その証拠に小学校、中学校、高校とはいうが、大学校ではなく「大学」と呼ぶ。「大学」は学びを強制されない場所で、強制されるのは「警察大学校」「防衛大学校」など数校ではないだろうか。
(以下、略)

藤原和博という面倒事】

 藤原和博という人は2003年に東京都初の民間人校長として杉並区立和田中学校に赴任し、5年間その職にあった人である。退任後、大阪府佐賀県武雄市の特別顧問を歴任し、2016年からは奈良市立一条高等学校の校長を2年間勤めた。
 野心的な試みと多彩なパフォーマンス、マスメディア利用のうまさから注目され、和田中では個人的人脈を生かした講演会中心の授業「よのなか科」を創設し、大手学習塾と連携した有料夜間授業「夜スペ」を興すなど、次々と繰り出す新たな試みは、教育界にさまざまな議論を呼び起こした。

 ちなみに現在の和田中学校では、「よのなか科」は総合的な学習の時間の別称となって統合され、「夜スペ」は廃止されている。近代教育だけでも150年を越える学校の復元力はハンパないのだ。

 ただ、成果を上げた数少ない民間人校長としての藤原和博の名声だけは残り、学校批判の立場からは実態を知る数少ない民間人として重宝がられている。そうした意味で学校側の私たちからすれば、中途半端に実態を知る上に名声ばかり高い面倒な人である。
 中途半端というのは、トップダウンで命令すれば誠実に実現しようとする教師集団の上に乗っかり、民間人校長を何とか成功させたい教育委員会が後ろ盾になってくれたからできた冒険であって、普通の校長がやったらすぐに潰される、あるいは最初からできない試みだという意味である。

 さて今回取り上げた記事は、その藤原和博の著書『 学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集してお届けする。
というものであるが、それでも冗長で実の少ないものなので、こちらで簡単にまとめてみる。

【藤原は説明する】

 藤原はまず、学校というものをこう定義する。
要するに、国家の要請によって、日本人として必要な知識と技能を備えるために、強制して学ばせる場所が「学校」なのである。
 したがって、自由を求める市民社会とは、
もとから相性が悪い組み合わせであるのは言うまでもない。それがぶつかり合うのも「学校」だ。
ということになる。ここには《学校が子どもの自己実現を支援する場だ》という見方はない。
 
 ただし、
 それでも、昔からあった学校でのルールには、納得できるものも多い。
という事実はあり、その例として挨拶とか、授業中の無駄なおしゃべりの禁止だとか、あるいは「廊下を走らない」「手を洗いましょう」といった安全・衛生面に関わるルールの必要性は重視する。
「良い習慣」を児童生徒につける装置として学校は機能している。子どもの頃に良い学習習慣と生活習慣を身につけられれば、大人になって社会生活を営む上でも、大いに役立つだろうことは言うまでもない。


 ただしそんな学校のルールに同調的な藤原をもってしても、ツーブロック禁止は理解できないという。藤原が校長だった時期も髪を染めて登校する生徒がいて、教師が染め替えしていたが、髪に関する校則の根拠は、
(1)経済的なこと、(2)勉学への集中優先、(3)風紀管理の都合、が理由とされていた。
といったところにあった。とくに(3)に関わって、学校の荒れた校内暴力の時代に思い出のあるベテランの先生たちは、
校則をゆるめれば、あの頃に戻ってしまうと恐れているのだ。
と考える。

 藤原はその上で、
 しかし、本当にそうだろうか。
と自問し、
 ダイバーシティ(多様性のある社会)が叫ばれ、インクルーシブ教育(障がいのある人とない人がともに学ぶ仕組み)が推進され、校内でもLGBTQの存在を認める中で、もはや違いを認めず「みんな一緒」に揃えるのは、さすがに時代錯誤ではないか。
 元の荒れた時代に戻るかどうかはさておき、さすがに髪だの服装だのの校則は時代遅れではないか、と語るのである。本質的な問題ではない、時代の問題だから変えろというのである。
 
 とりわけ、「ツーブロック禁止」は意味不明だ。何がいけないのか、理由がわからない。
 私自身、2022年度に山梨県知事と千葉県知事の特別顧問として授業を行ない、その前後で現場の教員と意見交換もしたが、「ツーブロック禁止」については、禁止している学校の教員でさえ明確な理由を挙げられなかった。

【本当に教師たちはツーブロック禁止を説明できないのだろうか?】

この、
ツーブロック禁止」については、禁止している学校の教員でさえ明確な理由を挙げられなかった。
はよく聞く話だが、いつも疑問に思うのは《ほんとうに教師たちに聞いて回ったのか》ということだ。
 ツーブロック自体はサザエさんのタラちゃんですらそうなのだから、ものすごく昔からあるヘアスタイルだ。ただし「ツーブロック」という名前で知られるようになったのは2007年ごろからで、学校が問題にし始めたのは2010年前後だった。
 そうなるとさすがにそれ以降、校則に「ツーブロック」を盛り込んだ教師たちの多くはいまも存命だろう――というかいまも現職の教員だろう。だったら何人かに聞いて回れば、答えてくれる人は必ずいるはずだ。教師でなくたって、分かる人は分かる。かくいう私だって答えることができる。田舎過ぎて、まだツーブロックブームが押し寄せる前に退職してしまったが・・・。
 
 今回取り上げた記事を転載したYahooニュースにはこんなコメントがついた。
ツーブロックは何処まで刈り上げを良しとするかが決められないからだと思うよ。
数十年前の中学生の頃、今でいうツーブロックが流行った。
最初はちょっと刈り上げだったのが刈り上げの度合いがどんどん増していって、それが多ければ多いほどスゴいという流れになった。
そうなるとやる奴はもはやモヒカンまで到達した。
が、頭頂部のトサカをおろせば(無理はあるが)ツーブロックだと言い張れる。
困った学校は全面禁止としたよ。
まあ、流行りも過ぎていつしか自然に禁止も解かれたらしいけどね。
 同じことは10年前にも起こったはずだ。

【教師たちは意図も伝えている】

 学校が禁止したいのは、ツーブロック全般ではなく、極端な刈り上げと頭頂部の長髪、つまり右のようなヘアスタイルだけなのである。藤原の思い浮かべているような常識的なツーブロックではない。ましてや”タラちゃんヘア”ではないし、中高校生もまことちゃんの真似をしたいわけではない。もっと威圧的で暴力的な印象でなくてはいけない。
 
 すると次に出てくるのは、「じゃあ極端なヤツだけ禁止にすればいい」という話だが、こうしたことは程度問題にするとやたら厄介だ。「刈り上げ部分は耳から上、2cm以内、頭頂部の髪の長さは3センチまで」みたいなきまりをつくると、教師はまた物差しを持ち出して計らざるを得ない。ミニスカート闘争のとき、さんざんバカにされたあれだ。
 だったらツーブロック全面禁止でいいと、教師はだれしも思う。藤原はその時期に学校にいなかったから知らないのかもしれないが。

ツーブロック禁止には反対だが、ピアスは許さないは、果たして妥当か】

 ツーブロック禁止には反対なのに、
 ただし「ピアス禁止」については、私自身も手放しで自由化に賛成したりはできない。なぜなら、ファッションや髪の色は考えが変われば元に戻せるが、ピアスのために耳などに穴を開ける行為は、不可逆的だと考えるからだ。
とのたまう。
 
 ピアスをするために体に穴を開ける行為がルールとして認められるのであれば、ここに並べた「人工的にカラダをいじる不可逆的な行為」(人相が変わるような美容整形・ムダ毛を薬品や機械で抜いたり植毛したりすること・ドーピングで成長ホルモンを注射すること・性別適合手術をするなど《引用者注》)は全部認められるはずだ。
と――そんなことはないだろう。単なる藤原の好みではないか? 「衣服と髪型については校則による禁止を解き、生徒自身の自由意思にゆだねてもいいのではないだろうか」と言った人が、ピアスや剃毛・植毛くらいのことでオタオタするのもみっともない。

 

 そもそもピアスの穴など大して目立つものでもないし、4~5年経てば他の多くもあけ始めるだろう。それに対して、中高生の分際で金髪・モヒカン・ツーブロックで学生服を着崩し、街を練り歩いて人々を威圧する生活こそ、社会的には取り返しがつかない傷なのかもしれないのだ。
 昔のヒット曲で、
《からだの傷なら治せるけれど、こころの痛手は癒せはしない》
といっているではないか(沢田研二「時のすぎゆくままに」)。世間から白い目で見られてレッテルを張られることの方が、よほど大きな傷となることもある。
 いずれにしろ、教育機関の片隅にちょっといただけの売文家に振り回される学校は、たまったものではない。