キース・アウト

マスメディアはこう語った

三重県の高校は生徒の服装・髪型・男女交際等に関する指導を今後いっさい行わないと宣言した。保護者が恐慌に襲われても不思議のない決定だ。それなのに評論家は手を叩いて喜んでいる。

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(写真:パブリックドメインQ)

 

記事

 三重県の高校でブラック校則廃止、しかし生徒との信頼関係を取り戻す見直しになっているのか

 前屋毅 | フリージャーナリスト

(2021.06.17 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp

 

 文科省が促していることもあってか、校則の見直しが進みつつある。しかし、「らしく」という言葉で縛ろうとする学校側の意識そのものが変わらないことには、ブラック校則はなくなりはしない。

 

|いまの校則だけを変えるだけでいいのか

 三重県のすべての県立高校で、髪型や男女交際、下着の色などに関する校則が廃止されたことが、「県教育委員会などへの取材で明らかになった」と『毎日新聞』(6月15日付、電子版)が伝えている。県教委では同紙の取材に、「時代にそぐわない『過去の遺物』のような校則も残っている。今後も見直しを求めていく」と説明しているという。

(中略)

 注目したいのは、校則で禁止していた理由が「高校生らしく、技巧をこらしてはならない」ということだったと『毎日新聞』の記事が伝えていることだ。三重県の高校がツーブロック禁止の校則を廃止したのは、「高校生らしく」では世間を納得させられないと判断したからにほかならないことになる。

 

|生徒を枠に閉じ込める魔法の言葉

 そもそも「高校生らしく」とは、どういう意味なのだろうか。それが明確なものであれば、三重県の高校も説明のしようがあったのかもしれない。しかし、できなかった。

 

 考えてみれば、「高校生らしく」とは便利な言葉である。「高校生らしくない」として、ツーブロックや男女交際も禁じることができるし、下着や靴下の色も白だけと決めることができるのだ。

 

 誰が、「高校生らしく」を決めるのか。それは、学校側でしかない。学校側が「望ましくない」と思えば、「高校生らしくない」と断じて、禁じてきた。それが、校則である。学校側の「枠」に当てはまらないことは、「高校生らしくない」のだ。

 

「高校生らしく」とは、生徒を自分らの「枠」に閉じ込めておくための学校側にとっての魔法の言葉だともいえる。ただ、ただ生徒を枠に閉じ込めるために、学校側は「高校生らしく」を盾にしてきた。それが、ブラック校則を生み出した。

(以下略)

 

 

 記事にある6月15日付の毎日新聞を読んだ。

 確かに校則で禁止していた理由が「高校生らしく、技巧をこらしてはならない」ということだったと言う記述はあった。しかしツーブロックと呼ばれる髪型を禁止する根拠がそうだったというだけで、別に、

「高校生らしく」では世間を納得させられないと判断したから

ツーブロック禁止がなくなったわけではない。ではない。文科省が見直せ(やめろ)と言ったから止めたに過ぎない。

 それを、

 そもそも「高校生らしく」とは、どういう意味なのだろうか。それが明確なものであれば、三重県の高校も説明のしようがあったのかもしれない。しかし、できなかった。

とは我田引水も極まれりである。

「高校生らしく」を説明するなってまったく楽なことなのに。

 

【高校生らしくということ】

 「高校生らしく」とはどういうことか?

 答えは簡単だ。「親らしく」「社会人らしく」「お兄ちゃんらしく」と同じで、頭に着いた名詞にふさわしい態度やようす・行動のことを言う。

 だから「高校生らしく」は「高校生」が説明できればいいだけだが、それができないのか? 分らないなら私が教えてやろう。

 

 「高校生」とは高等学校に通う者のことである。では「高等学校」とは何か。

 これを辞書で調べると、

中学校卒業者に高等普通教育および専門教育を施すことを目的とする学校。修業年限は3年。ただし、定時制通信制の課程では4年以上。高校。

とあらぬ方向へ行ってしまうので、学校教育法で調べ直す。するとこんな記述がある(面倒な人は読み飛ばしてかまわない)。

 

第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。

二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。

三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

 

 つまり知・徳・体の全領域で義務教育より一段高い技能、および精神を身につけ、社会の発展に寄与できる人間になる場――ひとことで言えば、

 勉強をするところ

ということだ。

 そうなるとあとは簡単で、

「高校生らしく」とは、より高いレベルの学びを行おうとする者にふさわしい態度・姿勢のこと

をいう。たったそれだけのことが、なぜ分からないのだろう。

 

 

【学校の論理:流行にうつつを抜かしているようでは勉強はできない】

 三重県の高校に限らず、全国の小中学校・高校がツーブロックという流行の髪型を禁止してきたのは、それが「学習者にふさわしくない髪型」だと考えたからである。ポイントはツーブロックではなく、「流行の」である。形がどうのこうのではなく、流行っているからダメなのだ。疑うなら試してみればいい。

 

 昭和に禁止されていたロングヘアやリーゼント、あるいは江戸時代のチョンマゲや弥生時代のミズラを結って登校してみればいい。教師からはひとことふたことあるかもしれないが、禁止はされないだろう、流行っていないからだ(だが友だちからは笑われる危険性がある)。

 

 流行の髪型や服装にうつつを抜かしているようでは辛く苦しい勉強は続けられない(つまり高校生らしい生活はできない)と学校は信じている、だから禁止されるのだ。

 

 流行の服装や髪型や化粧をした子どもは、普通、家と学校を往復して勉強するだけの生活なんか絶対にできない、必ずどこかに遊びに行く。金も手間もかけた自分の姿を誰かに見せずにはいられない、それにふさわしい行動をとらざるを得ない、そしてその分、学習はおろそかになる――。

 エビデンスとやらを求められても困る。経験的にそうだとしか言いようがない。

 

 もちろんツーブロックに流行の服装で東大に受かった学生もいるだろうが、それは稀有な天才たちの世界の話だ。

 たいていの人間はその能力の最大を引き出そうとしたら最大の努力をするしかない

 それが今まで、学校の見てきたことだ。

 

 

【学校が生徒指導から手を引く地獄】

 筆者の前屋氏はタイトルで「三重県の高校でブラック校則廃止、しかし生徒との信頼関係を取り戻す見直しになっているのか」と三重県の取り組みを評価しながらも、学校にさらなる取り組みを求めている。しかし6月15日付の毎日新聞の記事を読んだ後でもそんなことを言っていられる悠長が私には理解できない。

 

 記事によれば、

三重県の全ての県立高校で今年度から、髪形や男女交際、下着の色などに関する校則が廃止された

 つまり今後、高校生の髪型や男女交際、下着の色などについての指導を、一切しないと宣言したのだ。

 

 これから学校は生徒がどれほど奇抜な格好をしてこようとも指導をしない。髪が赤くても金髪でも紫でも、鼻にピアスをつけ、耳に獣の牙を差してきたとしても、家庭に善処を求めるくらいであとは何もしない。指導の根拠がない。

 

 髪の色やピアスで指導をすれば生徒は当然、

「どこにそんな決まりがあるんだよ。いったいどこにそんなことが書いてあるんだよ」

ということになる。それが今日まで校則を増やし続けた理由の一つだが、これからは「だったらその校則、つくってやろうじゃねぇか」みたいな対応はできない。さらに前屋氏の言うように「高校生らしく」もダメだとなれば、指導の道がない。

 ひとりの生徒にじっくりと数十時間をかけてカウンセリングする余裕は最初からない。

 

 生徒が学校の帰りにラブホテルに行っても止められない、タトゥーを入れても止められない、すべては生徒の自己責任であり、家庭の問題だ――。

 毎日新聞の突きつける学校の近未来はそんな恐ろしいものなのに、前屋氏は怯えることもない。その家庭に教育力があるかどうかを問わず、子どもの問題は家庭に返えされるというのに――。

 私は震える。

 

 正直なことを言えば、私にはこの試みが成功するとはとうてい思えない。

 数年も経てばたくさんの保護者に泣きつかれて、学校はそぞろ校則を増やし始めるに違いない。

 

 しかしそれまでの間、学校は子どもが未熟なまま社会に出て行くことに怯えながら、生徒指導を保護者と地域に委ねるだろう。

 なぜなら校則の見直しを理由に生徒指導の項目を大幅に削減することは、社会のブラック校則批判に応えるとともに、教師の働き方改革にも大いに貢献する名案だからである。

 

 面倒くさい高校生をもった家庭は、しばらく死ぬほどの苦しみを味わうことになる。しかし社会正義と子どもの自由のためだ、我慢して頑張ってほしい。