(写真:フォトAC)
記事
公立小教員の採用倍率、過去最低更新 長時間労働で敬遠
(2021.06.25朝日新聞デジタル)
www.asahi.com 今春採用された公立小学校教員の採用倍率の全国平均が2・6倍だったことが各地の教育委員会への取材で分かった。過去最低だった昨年度の2・7倍(文部科学省調査)を下回った。2倍を下回る自治体は19あった。教員の大量退職期が続き採用が増えた一方で、学校現場での長時間労働の問題が解決されず、学生に教職を敬遠する動きが広がっているとみられる。
2021年度採用試験(20年度実施)について、47都道府県と20政令指定市、大阪府から教員人事権を委譲された豊能地区の教委を対象に、受験者数や4月1日現在の採用者数などを聞いた。例年6月1日までの数値をまとめる文科省調査とは異なる可能性がある。
小学校は受験者数4万3243人に対し、採用者数が1万6561人(東京都は集計中のため合格者数を計上)だった。20年度(文科省調査)は4万4710人に対し採用者数が1万6693人で2・7倍だった。
公立中の採用倍率の平均は4・3倍で、文科省調査で過去最低だった1991年度の4・2倍に迫る。受験者数4万3911人に対し採用者数は1万272人。20年度(同)は4万5763人に対し9132人で5・0倍だった。
(以下、略)
評
ここにきてようやく教員のなり手不足が深刻な問題になりつつある。
小学校教員の採用倍率2・6倍は過去最低だそうだが、それよりも深刻なのは2倍を下回る自治体は19あったという点である。通常、採用試験は2倍を切ると合格者の質に問題が出るといわれるからだ。
【学校には、良い先生が集まるようにできている】
しかし教員の“質”というのは、必ずしも試験に強いかどうかだけで把握できないだろう。
例えば記事で中学校について書かれた「過去最低だった1991年度」は元号に直すと平成3年度(平成2年実施)だが、バブル経済の爛熟期の採用試験、民間では普通の企業でも20代に100万円以上のボーナスを出し、社員旅行がハワイ7日間(個人負担1万円)だったという時代である。そんな時期に何が悲しくて教員になんかになろうとしたのか。
彼らは本気で先生になりたかったのだ。子どもが好きだったり子どもを育てることが好きだったり、あるいは教えることに情熱を傾けることのできると信じた人たちが、この年、教員になったのである。
その意味では真に質の高い教員が採用できたとも言える。
もちろん“失われた20年”といわれる時期に、倍率二十数倍を勝ち抜いてきた人たちがダメだというわけではない。彼らはとんでもなく優秀だった。
“頭のいい人には心がない”みたいな言い方をされるが、中に“心がない”人がいたとしても、“心があるかのような立ち振る舞い”をたちどころに学習し実践してみせるのだから一筋縄ではいかない。彼らもまた別の意味で質の高い教員なのだ。
要するに景気がよかろうが悪かろうが、倍率が高かろうが低かろうが、学校には“良い先生”が集まるようにできている。
【思ったより、さらにブラックな職場環境に苦しむ人に】
今年度採用になった先生たちの多くは、学校のブラック体質を承知しながら敢えて教則に就こうとした人たちだ。悪かろうはずがない。
ただ、良く調べたにもかかわらず、思ったよりも過酷だったという人もいるかもしれない。だから私としてはこんなふうに言っておく。
- 教職は職人芸だ。だからカンナの使い方やノコギリのひき方は一度覚えればいい。2年目以降はその分がごそっとなくなる。当番の決め方、掃除のさせ方などは、いつまでも考え続けなければならないことではない。
- 教職は1年ごとのルーティーン・ワークだ。だから一回りすると翌年は同じ回りでかまわない。運動会も文化祭も同じ時期に毎年来る。学校が代わってもほぼ同じだ。
- 教職は年功序列の世界だ。自分より年上の保護者は偉いが、年下の保護者は偉くない。だから年少のうちは学年主任でも前に押し出しておいて、自分は陰に隠れるようにしていればいい。少し慣れたら「慇懃無礼」な対応の仕方を身につけておけば何とかなる。
しかしそれでも苦しくて苦しくてしかたないなら、教職は命をかけて行うほどのものでもない、心が傷む前にさっさと辞めて、別の道を進むがいいだろう。コロナ禍が終わればまた人手不足の時代が来る。食うに困ることはない。
私は30歳でサラリーマン生活に見切りをつけて教職についた。それでよかったと思っている。逆もまた真なりで、教職を去ったところでキミが困ることはないだろう。
困るのは学校の方だ。
【教員が一人辞めることの意味】
前もって言っておくけど、学校が困ると言っても、辞めていくキミが悪いという話ではない。キミは十分に心の血を流した。
悪いのは見通しを誤った政府であり都道府県であり、やれ学力はどうした、円周率3で授業ができるか、ゆとりは結局、教師のゆとりか、いじめはどうなる、ブラック校則をなんとかしろ、英語教育をもっと進めろ――と煽ったマスコミなのだ。若い人たちが責任を迫られることではない。
しかし後学のために、キミのいなくなった学校でそのあと何が起こるかも見ておこう。
教員がひとり辞めると代わりを探さなくてはならない。年度途中だと正規採用はないから講師に来てもらうことになる。そのために、都道府県教委あるいは政令指定都市の教委には、講師の要請に応じてもいいという人の登録した「講師名簿」というものがあり、欠員の生じた学校の校長もしくは教委自身が、そこから人を選び、直接交渉にはいることになる。交渉といってもいつから、どんな立場で仕事に入るのかといった程度のことである。電話一本ですんなり話が決まることも多い。
小学校の場合は小学校教諭の免許を持っていることが条件だが、中学校の場合は社会科の教員が辞めたら社会科の教員というふうにもうひとつの関門があるため、必ずしもピッタリの人材が探し出せないことがある。
ここからが校長・教委担当者の腕の見せ所で、定年や結婚・子育てのために退職した教員や、名簿には載っていないもののかつて講師をやった経験のある人、昔の教え子で免許をもっているはずの人、ありとあらゆる伝手や縁故をたどって人材を探し出すことになる。
ところが昨今、どこの自治体でも「講師名簿」が払底し、個人的人間関係で手繰り寄せることのできた人材も、ほとんどいなくなっているのだ。
【代わりの教師は誰も来ない】
まず、教職浪人と呼ばれ、次年度の採用試験をめざして勉強しながらアルバイトなどで食いつないでいる人たち――この層が消えた。
就職が1年遅れるというのは生涯賃金で1年分(退職金を計算に入れるとそれ以上)の収入を失うということである。
このとき、例えば43年の就労期間を42年に縮めるといった場合、彼が犠牲にする1年分の給与は初年度の給与ではなく、43年目の、普通は最も高い給与である。その額、今から40数年後だとすると1千万円にもなろうか――それがなくなるのだ。
教職は1千万円を犠牲にしてでも就くべき仕事だろうか? しかも職場は超ブラックときている。こうした疑問の前に、「教員のやりがい・楽しみ」といった話は軽く吹っ飛んでしまう。
教職浪人がいなくなったとして、他にどんな人が応募してくれるだろうか。
残るのは先にも紹介した定年・結婚・子育てのために退職教員した教員たちだが、この人たちも昨今の「学校のブラック化」話に二の足を踏んでいる。
「いまの自分に勤まる職場なのか――」
と。
そしてここに決定的なでき事が被さる。彼らのほとんどが、教員免許更新制度のために免許を失効させているのだ。今から申し込んで夏休み中の更新講習を地受けてもらうにしても、今日明日の欠員を埋めることはできない。
かくして先生のいなくなった教室は、副校長先生や教頭先生に診てもらうことになる。
ねえキミ、
キミが辞めるというのはそういうことだ。だからもしかしたら校長先生から、
「せめて次の担任が見つかるまでは、何とか勤め続けてくれないか」
と懇願されることがあるのかもしれない。
けれど応えてはいけないよ。次なんか簡単に見つかるはずはないのだから。――そのままズルズルと年度末まで引っ張られるのがオチだ(年度末まで引っ張れば、講師ではなく正規教員に来てもらえる)。
もちろんズルズルと年度末まで引っ張られることの方が、いい場合だってないわけではないけどね。
(参考記事)