キース・アウト

マスメディアはこう語った

「学校の働き方改革は、学校と教員と地域とPTAを潰すことにしかならない」という件について

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ものを知らない人 あるいは半可通は

どうしてこうも尊大になれるのか

学校の働き方改革は 校長の裁量と教師の意識改革で果たせる

――そう考えているだけでもうおしまいだ

竹やりと大和魂アメリカの物量に対抗しようとした

あの七十数年前とまったく変わっていない

というお話


            




2019.09.14

 教員志望者を増やしたいなら、

やりがいを伝えようとするだけではダメだ

[Yahoo Japan ニュース 9月13日]

 

 

「あなたのお子さん、あるいは教え子が”学校の先生になりたい”と言ってきたとき、自信をもって、歓迎できますか?応援できますか?」

 これは、ぼくが校長や教員向けの講演をするときに、よく問いかけることのひとつだ。

 この答えに100%の自信をもってYESと答えられる校長等は、少ないのではないか?

 小学校を中心に、教員採用試験の倍率が下がってきている(地域差はあるが)。ちょうど今の時期は採用試験の真っ只中というところも多いが、各地の教育委員会とも、受験者を増やそうと躍起になっている。

 日本全国で若年人口が減少しているなか、「教員採用の倍率はもっと高いほうがよい」と考えるのもどうかなとは思うが、いったんそのことは横においておいて、仮にもっと先生を目指す若者等を増やしたいというなら、何が必要だろうか。今日はそのことについて考えたい。


■問題は、やりがいが伝わっていないことなのか?

 よく聞かれるのが、「教師の魅力をもっと伝えねば!」という施策だ。どこでもいい、教員募集用のパンフレットをご覧いただくといい。たとえば、ある自治体の直近のパンフレットでは、次のような現役教師の声を紹介している(一部を抜粋)。

●教員の最大の魅力は、子どもたちの成長に携わることができるということだと思います。

●自分が実際に小学校教員になってみて、この仕事は本当に魅力的で素敵な職業だと実感しています。もちろんたくさんの教科の授業準備などで大変なこともありますが、子どもたちの前向きに学習に取り組む姿や成長した姿を間近で見られることは、何にも代えがたい喜びです。

●教師は、「やりがいのある仕事」という一言に尽きると思います。子どもたちと過ごす日々は、驚きや発見、そして楽しさでいっぱいです。

 こうした声は、ウソではないだろうし、実際、ぼくも現場の先生方から似た話はたくさん聞いている。だが、やりがいや魅力を伝えようとするだけで、大丈夫だろうか。

(中略)


■魅力があるのは知っている

 教員志望者向けの調査というのは、少ないようで、なかなか見つけられなかったが、現役の先生たちは、自分たちの仕事をどう捉えているかも、参考になるだろう。

 次のデータは、愛知教育大学等が2015年に、小中高の校種から各々約1,500~2,000人の教員に調査した結果だ。ほとんど全て(97、98%)の先生が、「子どもの成長にかかわることができる」と答えているし、他の項目でも、かなりの多くの人が肯定的に回答している。

(中略)

■日々ゆとりがない状態では、志願者は増えない

 一方で、上記の調査では、教員の悩みや不安についても聞いている。


(出所)愛知教育大学北海道教育大学東京学芸大学大阪教育大学「教員の仕事と意識に関する調査」(図略)

 特に注目してほしいのは、上から1番目と3番目。大勢が「授業準備の時間が足りない」、「仕事に追われて生活にゆとりがない」と回答している。

 つまり、いくらやりがいがあっても、無茶苦茶な働き方(あるいは働かせ方)で、ゆとりのない日々だ、と回答しているのである。このあたりを学生等も敏感に感じ取っているであろうことは、容易に予想できる。

 そもそも、教育実習で、幻滅するという学生の声も少なくない。やはり学校は忙し過ぎるということに、あるいは、その状況を改善する動きが鈍いということについてだ。

 ぼくが講演等でよく申し上げているのは、「働きがいがあり、かつ、働きやすい(働き続けやすい)」学校にしていこう、という話だ。

 「働きがいがある=働きやすい職場」とは限らない。仕事そのものにやりがいがあるかどうかと、たとえば、育児や介護を抱えても働き続けやすいかどうかは、別次元の話だ。

(中略)

 教員志望者になりうる若者たちについても、どうだろうか。たとえば・・・

●部活動にやりがいを感じていたとしても、土日を潰すのはイヤだ。

●いくら児童生徒の成長に関われる仕事だといっても、自分の健康が心配な職場では働きたくない。

●プライベートも充実しながら、授業等も一生懸命やりたいが、いまの学校現場は、事務作業等も多くて、授業準備に集中できる環境にない。

●いくらやりがいを強調されても、トイレに行く暇もないくらい、余裕がない日々は送りたくない。

 こういう声に答えていけるかどうかが、問われているのだと思う。

 

 (妹尾昌俊 | 教育研究家、学校業務改善アドバイザー、中教審委員(第9期))

 

【傲慢な! あまりにも傲慢な物言い!】

 この妹尾昌俊という教育アドバイザー、年齢はどのくらいなのだろう。何様だ?
 ずいぶん尊大な物言いだが。
「あなたのお子さん、あるいは教え子が”学校の先生になりたい”と言ってきたとき、自信をもって、歓迎できますか?応援できますか?」
(中略)
 この答えに100%の自信をもってYESと答えられる校長等は、少ないのではないか?

 
 こんな言われ方をして胸を痛めた校長先生も少なくなかったろう。
 教職は今や自信を持って勧められる職業でも応援できる仕事でもなくなってしまった。下手に勧めて病気になられても自殺されても困る――。
 しかしだとしても校長に何ができる? 校長の裁量で職員を1.5倍くらいに増やせるか? 小学校英語を行わないとか、総合的な学習を廃止するとか、あるいは校長責任で不登校やいじめの指導をしないとか、そんなことができるのか?
 そうであるにも関わらず、妹尾という人は校長権限を絶大なものと考えているらしい。

 

 

 【まるで現実性のない働き方改革案】

 それもそのはずで、妹尾昌俊氏は「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」を出した第9期中央教育審議会の委員なのだ。
 
 このタイトルにある“学校における”は「働き方改革」にかかる修飾語ではない。「方策」にかかる修飾だ。そう言っていいくらい現場に対する要求が強いのが特徴である。
「教員は増やさない、仕事も(増やすかもしれないが)減らさない、しかし現場の努力で何とかしろ」
 読み進むとそう言っているとしか思えないとんでもない代物である。
 
 部活動の休養日を確実に確保することは,子供や家庭の立場に立てば,(中略)これまで学校に任せていた時間をどう使うかについて子供や家庭自身が考え,判断し,行動しなければならないこととなる。
 そんなことを言われても多くの家庭は困るだけだ。
 
 地域と学校の連携・協働の下,(中略)特に,教師と保護者で構成されている PTA に期待される役割は大きく,その活動の充実が求められる。
 現在、学校における喫緊の問題は教員の働き方改革ではなく、PTA活動の縮・簡素化である。入学式のPTA会長のあいさつに「PTAは強制参加ではなく任意参加です」と言わなければならないほど風当たりの多い組織に、「期待される役割は大きく,その活動の充実が求められる」では、とどめを刺す行為と言われても仕方ないだろう。
 
 どうしてもやれとなればさらに保護者が逃げ出し、教員が手放した仕事を保護者のほとんどいないPTA――つまり教員が受け取る。会員が少なくなった分、負担は増え、教育委員会や校長の支配下にある学校から任意団体であるPTAに仕事が移ったことで、教員は果てしなく働かされる。
 
 かつて部活動を学校から社会体育に移したら、そこでコーチをしているのはやっぱり学校の部活動顧問で、社会体育だから無制限に働かされるようになった――それと同じである。
 
 部活動を外部に委託したくても、地域に吹奏楽からバスケットボール・野球・水泳・サッカー・バレーボールを教えられる人材が1セット丸ごといなければ移せない。しかも“人材”は朝8時前の1時間、午後4時過ぎの2時間余りを学校で過ごし、土日のいずれかは丸一日指導してくれる人でなくてはならない。
 そんな人、いるのか?

「教師と保護者で構成されているPTA」に仕事を投げ込めば、保護者が逃げて教師が受け取る。それは日を見るよりも明らかだ。

 その他、調査統計等への回答は事務職員にやってもらえとか、校内清掃や部活動も地域ボランティアにお願いしろとか、給食時の対応は栄養教諭の協力を仰げとか――いったいそれぞれの学校に何十人の事務職員と栄養教諭を配置され、学区内に何百人のボランティアを確保していると考えているのか?

 

 

中教審委員は浮世離れしている?】

 ぼくが講演等でよく申し上げているのは、「働きがいがあり、かつ、働きやすい(働き続けやすい)」学校にしていこう、という話だ。
 (中略)
●プライベートも充実しながら、授業等も一生懸命やりたいが、いまの学校現場は、事務作業等も多くて、授業準備に集中できる環境にない。
●いくらやりがいを強調されても、トイレに行く暇もないくらい、余裕がない日々は送りたくない。
 こういう声に答えていけるかどうかが、問われているのだと思う。


 じゃあどうすればいいんだと問い返したくもなるが、この人の答えは分かっている。
「そんなこと『第9期中央教育審議会(答申)』に書いてあるだろう!」

 その答申があまりにも浮世離れしていることに気がつかない。だからあんなふうに偉そうにしていられるのだ。