キース・アウト

マスメディアはこう語った

教師はすべてのルールを説明可能なものにしておくことが望ましい・・・が。

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 教育学・指導法というのは経験の学問であって

 なぜそれが役に立つのか、どういう意味があるのか 説明しがたい場合がある

 さらに 学校はそうした経験知のかたまりであるから教師もうまく説明できない

 だが 説明できないからと言って安易に捨ててはならない

 取り返しのつかない場合だってあるのだから

というお話


        




2019.09.25

 筆算の線、手書きダメ? 小5、160問「書き直し」

西日本新聞 9月24日]

 「なぜ筆算の横線を、全て定規で引く必要があるのでしょう」。福岡県内の小学校に通う小学5年男児の親族の女性(34)から、特命取材班に相談が寄せられた。夏休みの宿題を提出したところ、横線が手書きだったとして、担任に「書き直し」を命じられたという。指導の背景を探った。

 女性によると、担任は日ごろから定規を使うように指導。男児は疑問を抱きつつも注意されるのが嫌で基本的に従ってきた。今回、筆算の一部は「別にいいだろう」と自分で判断し、手書きで線を引いたという。

 すると、担任から保護者に書き直しを求める電話があった。対象は160問分。理由を尋ねると「計算ミスが減るし、みんなにやらせている」。女性は「計算のリズムが崩れるし、自分なりのノートの取り方を見つけるのも勉強ではないか」と不思議がる。

 同様の指導を行っている県内のベテラン教諭に理由を聞いた。定規で線を引く動作は意外と難しく、「小学2年の習い始めは2割しかできない」という。筆算の線引きはこの練習になるというわけだ。高学年では「手書きより見直しやすいし、面倒くさがらずにやる子の方が学力が伸びる」と説明する。

 このような理由を、男児の担任は保護者に説明していない。県内の別の学校では小学6年も定規の使用を指導しているが、疑問を抱いた父親(39)が理由を問うと、「学年で決めています」との返事だったいう。

 いつ、どう広がったのかは不明だが、「30年前にはそう指導していた」という小学校教諭の声もあった。

      ■

 「教師自身が考えなくなっている」。定規の利用など、教員が十分に理由を説明できないルールが数多くある実態について、東京大大学院の村上祐介准教授(教育行政学)は警鐘を鳴らす。

 村上氏は2015年度、自治体ごとに授業の受け方や生活態度を定めた「スタンダード」と呼ばれるルールの有無を全国調査した。回答を得た445自治体の約2割が導入していた。

 スタンダードの内容は自治体ごとに異なるが、「足の裏を床につけて座る」「手を真っすぐ挙げる」などの規律や、「子どもが自分で課題を解決する時間を確保」といった授業の手法が記されている。

 こうした画一的なルールの広がりについて、村上氏は若手教師の授業の質を一定水準に保つ役割はあるとしつつも、「守ることが目的化してしまう危険がある。教師自ら判断することを望んでいない傾向があるのではないか」と懸念する。

 教師の間にも異論はある。勤務先の小学校で18年度にスタンダードが導入されたという福岡県の男性教師(60代)は「学校にとって理想の子ども像が書かれている」と話す。

 机上に置くノートや筆箱の位置、発表や話を聞く態度、あいさつの仕方、廊下の歩き方に加え、靴や傘、トイレのスリッパの置き方、休み時間の遊び方の注意点まで書かれている。「子どもには、ルールを作っていく力こそが必要なのに…。スタンダードが浸透するほど枠組みになじめない子が排除される心配もある」。ベテラン教師のそんな疑問は、スタンダードを推し進める校長の前でかき消されがちだという。 (四宮淳平)



【安易にルールを破ると大変なことになる】
 記事の趣旨がよく分からないが、結局は、学校のルールを教師がきちんと説明できない――このような理由を、男児の担任は保護者に説明していない、画一的なルールを、守ることが目的化してしまう危険がある。教師自ら判断することを望んでいない傾向がある。そこが問題だということなのかもしれない。

 ただし実際問題として、これまでやってきた教育法・指導法、あるいは校則を含めた“ルール”の一つひとつを自ら判断して説明できるようになるのは容易ではない。

 例えば小学校で
「特別教室への移動は始業前に全員で並んで、時間に間に合うように行く」
などといったルール、いったい何のためにあるのかすぐに説明できる教師が何人いるだろう?

 私はできる。なぜならこれを破ったばかりに大変な目にあったからだ。

 休み時間に教室で並ばせること自体が面倒な上に小学校の高学年相手にアホな話だと思った私は、「特別教室には直接行ってかまわない。しかし時間には遅れるな」とルールを変えた。そして変えたおかげで怒る頻度が爆発的に増えたのだ。

 「時間には遅れるな」と指導したにもかかわらず遅れる児童が日を追って増える、忘れ物が多くなる、その忘れ物を教室に取りに戻った子どもが帰ってこない――そのたびに私が探しに行くことになる。
 「教室で並んで~」はアホなルールではなく、長い小学校教育の中で発見された基本的な対策なのだ。安易に替えていいものではなかった。

 結局、私はルールを元に戻したが、一度崩したものは回復にずいぶん手間がかかった。学校には山ほどのルールがあるが、意味の分からないものでも守っておいた方が有利だとつくづく感じた出来事だった。

 記事の中にある
「足の裏を床につけて座る」「手を真っすぐ挙げる」
も、その意味を考えると面白いものがある。ただし現職教員はそんなことを考えている暇がないのだろう。

 記事の中に出てくる福岡県の男性教師(60代)は、
「子どもには、ルールを作っていく力こそが必要なのに…」
とおっしゃるがこの方はよほど実力のある教師なのだろう。私など「特別教室には~」みたいな既存のルールを守らせるに精一杯でルールを見直したり作ったりする時間などどこにもなかった。算数や国語の時間を削るわけにもいかず行事への対応もしなくてはならない状況で、この方はよほど手際よく授業を進め、ルール作りの時間を生み出しているに違いない。ただし普通の教師にできることではない。真似をしてはいけない。


【定規を使う意味】
 ところで「筆算の時に定規を使う」という話は、私自身は20年ほど前、若手の教師から教えてもらった(私はしなかったが)。向山式とか法則化運動とかいった人々から学んだ。今は「TOSS(教育技術法則化運動)」という。

 そのことを思い出して調べたら簡単に出てきた。「TOSSオリジナル教材TOSSミニ定規」

 また定規を使うことの意義は、Teachers Job「筆算の時になぜ定規を使わなければいけないの?」に詳しい。

定規を使用しないと、多くの場合ミスが増えます。
「わざわざミスが増えるのをわかっていて許可をすることはできない」
というのが先生側の意見で、安易に子どもの意見に流されてしまうのは本末転倒になります。
というのはいかにも教師らしい言い方で、私は正しいと思う。
 また、
一部の子だけ許可すると、他のミスが増える子も許可する必要が出てきます。
もその通りだと思う。

 定規を使わなくてもできる子は使わなくていいと許可することは「エコヒイキ」である。少なくとも子どもはそう受け取るし、「ミスの多い子は定規を使いなさい」では計算ができなくて切ない思いをしている子に追い打ちをかけるようなものだ。
 そんな教師でいいわけはない。
 
 もちろん、計算ミス防止よりも、
 今回、筆算の一部は「別にいいだろう」と自分で判断し、手書きで線を引いたという。
と、自分で決めた小学5年生の自主性の方が大切だと考えるなら話は違ってくる。

 その子は野球をするのにバットを上下逆さに握ったり、運動会の行進で隊列を離れるといった自主性も認められるべきと思うが――。