キース・アウト

マスメディアはこう語った

授業時数を大幅に増やしているのは学校自身、だから減らせと中教審の特別部会は言う。冗談じゃない。標準授業時数というもの自体がまやかしなのだ。授業内容は最初から収まるはずがない。それを承知でさらに余計な学習を増やしてきた政府は、余計なものを残すためにより本質的で重要なものを減らそうとしている。

(写真:フォトAC)

 

記事

 

標準授業時数上回る編成「見直すべきだ」 中教審特別部会

(202.07.24 教育新聞)

www.kyobun.co.jp

 教員の働き方改革や処遇改善を集中的に審議している中教審の「質の高い教師の確保」特別部会は7月24日、第2回会合を開き、文科省が作成した「直ちに取り組むべき施策」の論点案について集中的に議論した。会合では、複数の委員から、教員が受け持つ授業数(持ちコマ数)の削減を念頭に「標準授業時数を大きく上回る教育課程の編成は早急に見直すべきだ」との意見が相次いだほか、「働き方改革の取り組み状況を可視化し、改善に向かっていることを見せることで希望が持てる」といった指摘が出された。貞廣斎子部会長(千葉大教育学部教授)は、来年度予算の概算要求をにらんだ緊急提言の案を作成し、8月下旬に開く第3回会合に示す考えを表明した。

(中略)

 こうした論点の提示に対し、委員の発言で目立ったのは、まず標準授業時数を大きく上回って教育課程を編成している学校が多いことを問題視する意見だった。戸ヶ崎勤埼玉県戸田市教育長は「全ての学校が児童生徒の学習状況、教職員の勤務状況、授業時数の配分などを点検した上で、次年度の教育課程の編成に臨むべきだ。管理職だけでなく、教員一人一人が目の前にいる子どもたちの実態をみて、カリキュラムマネジメントを行うことが大事になる」と指摘。その上で、「授業時数が年間1086時間を超えて教育課程を編成している学校は早急に見直しを考えるべきだ」と強調した。

 

 学校教育法施行規則が定める標準授業時数は小学4年生から中学生までで1015時間とされており、これを長期休業を除く年間35週で計算すると、週29コマとなる。これに対し、文科省の「公立小・中学校等における教育課程の編成・実施状況調査」によると、例えば小学5年生では、年間総授業時数の平均は1059.9時間となっており、週30コマを超えている(21年度の実績値)。さらに、全小学校の4校に1校に当たる25.8%で年間総授業時数は1086時間を上回っており、週31コマを超える授業が行われている計算になる。授業のコマ数が増えたのに、教員が増員されなければ、当然ながら、教員1人当たりの負担は増える。このため、文科省は今年4月21日、「教育課程の編成・実施に当たっては、学校における働き方改革にも配慮した対応を検討することが重要」と、都道府県と政令市の教育委員会に宛てた事務連絡で指摘している。

 

 この日の会合では、学校が標準授業時数よりも多く授業時数を設定する背景について、全日本中学校長会会長の齊藤正富東京都文京区立音羽中学校長が「私も教育課程を扱う一人として、標準授業時数の1015時間に対して、20時間程度をプラスして授業時数を設定する。これは感染症などで学級閉鎖などが起きた場合を考えるからだ」と説明。改善策として「校長が教育課程を教育委員会に提出する段階で、教委が『これでは多過ぎる』と言えるように、(文科省が)バックアップする政策を実施してもらえばいいと思う」と述べ、標準授業時数よりも多めに授業時数を設定する従来の慣習を変えていくためには、トップダウンの政策的な働き掛けが有効との見方を示した。

 

 青木栄一東北大大学院教授は「学校のチームプレーの中で週20コマ台後半の授業時数を持っているプレーヤー(教員)がいるとすれば、それは現場の管理上、明らかに良くない。学期単位で授業時数を積み上げていき、あとどれくらいやれば標準授業時数に足りるのかといった『棚卸し』のようなことを学期ごとにやることが大事だ」と指摘。緊急提言には「(週20コマ台後半の授業時数を持つことは)それは良くないということが、メッセージとして伝わるように書いてほしい。ここで大事なことは、教育界でよく使われている言葉と結び付けること。学期単位の棚卸しとカリキュラムマネジメントを結び付ければ、(学校や教委の関係者に)納得のいくことが増えるのではないか」と述べた。
(以下略)

 怒髪天を衝くと言うが、齢を取って髪が薄くなると天を衝く怒髪もまったく迫力を失ってしまう。まことに情けないことだ。しかし私はいま、残った髪がすべて天を目指し、一本残らず抜けてさらに昇天してしまうだろうほどに怒っている。
「何をォ~!? 教師が多忙なのは、教師自らが勝手に授業を増やしているからだと? ふざけるのもいい加減にしろ! 最初から枠内に収まらないよう内容を増やし続けたのは。誰だったのだ!?」

【教師の手の届かないところで、教員の働き方改革が進んでいく】 

 日本の文科行政の根幹を左右する中央教育審議会、その中で働き方改革を担う「質の高い教師の確保」特別部会が会合を開いている。しかし現職の教員たちは夏休みであるにもかかわらず忙しく、内容を検討している暇がない。正確に言えば政治が学校をどこに引っ張って行こうとしているのか、不安に思ったり心配したりする習慣を失ってしまっている。本来一般教職員に代わって継続的に政府の施策を監視するはずの労働組合も、いまはあまりにも微弱になってその任を果たせない。
 したがって部会は現場の教師を完全に置き去りにして話を進め、その一つの結論が、
「教職員の多忙の原因のひとつは、教職員自らが勝手に標準授業時数を大幅に越える教育課程を編成しているからだ(教師が悪い)」
ということになったのだ。

【部会は何も分かっていない】

 記事は説明する。
 学校教育法施行規則が定める標準授業時数は小学4年生から中学生までで1015時間とされており、これを長期休業を除く年間35週で計算すると、週29コマとなる。これに対し、文科省の「公立小・中学校等における教育課程の編成・実施状況調査」によると、例えば小学5年生では、年間総授業時数の平均は1059.9時間となっており、週30コマを超えている(21年度の実績値)。さらに、全小学校の4校に1校に当たる25.8%で年間総授業時数は1086時間を上回っており、週31コマを超える授業が行われている計算になる
 どうしてこんなアホな話になるのか。

 

 学校五日制で29コマを行えば普通は6時間授業の日が4日、5時間授業の日が1日となり、その5時間の日の6コマ目に職員会議や研修会を入れて大枠週30時間の形にしている、それがほとんどの小中学校の教育課程編成だ。
 それを週30コマの授業にすると職員会議や研修会が入らなくなる。さらに週31時間の授業といったふざけたことすれば7時間授業の日を持たなければ消化しきれなくなる。1日7時間授業などといったことをやっている学校は、ほとんどないだろう。冬は真っ暗な中を下校しなくてはならなくなるのだから・・・。

 

 そもそも「長期休業を除く年間35週で計算すると」というのが計算上の話で、実際に35週(175日)しか登校していない、別な言いかたをすれば長期休業が合計17週(つまり4カ月)もある学校など、日本中のどこにもないのだ。最新の数字は持っていないが、登校日数はおそらく200日前後。35週(175日)より25日――五日制の学校では6週間も長くなっているはずだ。

 

 なぜそんなに長くなるのか――その原因を部会員のひとり全日本中学校長会会長の齊藤正富東京都文京区立音羽中学校長「20時間程度をプラスして授業時数を設定する。これは感染症などで学級閉鎖などが起きた場合を考えるからだ」などと説明する。それも間違っていない。しかし20時間は5時間授業で4日、6時間授業なら3日強でしかない。25日も余計に登校している主因にはならない。
 それに現実問題として、学級閉鎖の予備日は必要だ。予備日を設けず実際にそれが起こった場合、閉鎖クラスだけ長期休業中に登校させて授業を行うことが可能なわけでもない。
 予備日は必要だ。ムリになくしてもそれで稼げるのは20時間、4日に過ぎない。

【なぜ計算上は175日で済む学校に200日も来なくてはならないのか】

 では日本の小中学生は何をやって25日も余計に学校に通っているのか。まさか学力向上のために数学や英語の時間を大幅に増やしているというわけでもないだろう。実はここの日本の学校教育特色と歪みがあるのだ。

 

 調べてみるといい。
 その学校は入学式や卒業式、始業終業式、およびその練習のために何時間を費やしているのか。修学旅行とその準備や学習にどれほど時間をかけたか。総会や総会準備・各種委員会活動を含む児童生徒会活動に費やした時間はどれほどか、清掃やボランティア活動にどれくらい時間を使ったか、運動会や体育祭・文化祭、そのための準備にどれほどの時間を使ったのか、異年齢交流や高齢者との交流、SDGs、コンピュータリテラシー、薬物乱用防止教育、性教育平和教育、人権教育、その他、その他、その他・・・
 注目すべきは、これらすべてが年間わずか35時間の「特別活動」の時間か、「特設」と呼ばれる標準授業時数外の時間で行われているのである。それが25日の秘密だ。特別活動と追加教育に費やす部分が大幅に伸している。どだい特別活動の内容を年35時間でやるなど不可能なのだ。

【日本人を日本人の育てる教育(=特別活動)は絶対に減らしてはならない】

 そこから「行事の精選」というキーワードが振り回されるようになる。
 運動会を半日に減らし、学期は二学期制にして始業・終業式をひとつずつ減らす。春秋の遠足の一方を減らす。修学旅行は学習中心から準備の少なくて済む娯楽的なものへと変え、百人一首大会的な文化行事も減らす。

 清掃は我が国においてあらゆる修行の一丁目一番地だった。茶道・華道・柔道・剣道・芸道・・・およそ「道」とつく世界には必ず清掃がつきものだった。それが近代教育にも導入され、日本の文化をつくったのだ。今や海外からも注目され、サウジアラビアなどでは鳴り物入りで学校清掃が始まっているというのに、本家の日本では修行からハウスクリーニングへと価値を減じ、週3回からさらに週2回へと減らされていく。教室が汚れていなければ清掃などしなくてもいいのだそうだ。
 ワールドカップ・サッカーの会場で清掃する日本人は、学校が培った成果のひとつだが、マスコミ的には日本人のDNAに刷り込まれた特質だということになる。遺伝子に入り込んでいる性質だから改めて教育する必要はない。日本人の子として生まれれば、誰に育てられようがどこの国で成長しようが、日本人は一様に掃除をしたくなるというのだ。そうか?
 そんなことはないだろう。それが親か企業か学校かは別にして、清掃のような試みは教えられ、訓練されて初めてできるようになるものだ。
 自分の汚した場所は自分で片付け、清潔を保ち、他人に嫌な思いをさせず、必要な時は列に並び、決して大声で問題を解決しようとしない。約束と時間を守り、役割と分担に精通し、他者を立て、自らも保ち、互いに協力して困難を克服しようとする――。
 特別活動こそが日本の教育の神髄であり、日本人を日本人に育てるための教育なのだ。だから絶対に減らしてはならない。「行事の精選」だの軽々しく言うべきでない。
 ではどうすればいいのか――。

【人を増やすか、珍奇な新しい教育を減らすしかない】

 本来は教員定数を増やすべきだが、志望者のいない中では定数を増やしても教員は埋まらないだろう。したがって教員免許を持たない職員を増やすしかない。スクールカウンセラー、教育補助員、実験助手、事務職など。名前は後からいくらでもつけられる。とにかく人だ。

 それができなければ平成以降に追加された諸教育――総合的学習の時間をはじめとする追加教育を片はし減らすしかないだろう――と、これ以上続ければ今まで言ってきたことの繰り返しにしかならないので、やめる。

 たぶん、私の髪はいますべて抜け落ちた。