キース・アウト

マスメディアはこう語った

文部科学省は小中学校の授業時間を5分ずつ減らし、短縮分を各校が自由に使えるようにするという。授業がまた圧迫される。理科や体育では準備の時間もままならない。しかもそうやって生み出した時間は、働き方改革が進まないことへの言い訳に使われるのかもしれないのだ。

(写真:フォトAC)

記事

 

小中学校の授業を5分短縮、年間で計85時間を弾力的に運用へ…各学校の裁量で自由に
(2024.02.10読売新聞オンライン)

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 文部科学省は小中学校の授業時間を見直し、学校の裁量を拡大する方向で検討を始める。授業時間を5分短くし、短縮分を各校が自由に使えるようにすることなどを想定している。文科省は次期学習指導要領への反映に向け、今年秋にも中央教育審議会に諮問する見通しだ。
(中略)
 一方、年間の授業時間数は変えない方向だ。現在、小学校の4年以上と中学校は1015コマで、45分授業の小学校では年間約760時間、中学校は約845時間が授業に充てられている。授業が5分短くなれば、小学校、中学校ともに約85時間(5075分)の差が生まれ、これを各校が弾力的に運用できるようにする。

 背景には、子どもの学力や教育環境の地域間格差が広がっていることがある。各校が画一的な授業を横並びで実施しているだけでは対応が難しく、裁量拡大によって学校現場の創意工夫を促す狙いがある。思考力育成を目指した探究活動や、基礎学力定着のためのドリル学習など各校がそれぞれの実情に応じて指導に生かすことを文科省は期待する。
(以下略)

 例えばラーメン店が1日500食のラーメンをつくるとして、それがあまりにも大変な場合には取るべき道が三つある。

  1. 目標を下げる(500食→400食という具合に)
  2.  厨房に入る人数を増やす。もちろんそれだけの人数が入れるように厨房を広げる。
  3.  仕込みの時間を長くする。

 どれか一つを徹底してもいいし、いくつかを組み合わせてもいい。しかし間違っても、目標を高めたり、人数を減らしたり、時間を減らしたりしてはいけない。もし、どうしてもどれか一つを逆方向に運ぼうとするなら、他の二つをさらに強めなくてはならない。当たり前のことだ。

 さて、
 授業が5分短くなれば、小学校、中学校ともに約85時間(5075分)の差が生まれ
というのは言わば朝三暮四の話で、どこからか自然に85時間がわき出して余裕が生まれるわけではない。それどころか授業の各1時間は1割から1割1分程度減らされ、授業全体は苦しくなる。1時間の授業で学ぶ内容は決まっているから、内容を圧縮するしか方法がないのだ。

 さらにそうして生み出した85時間は、
思考力育成を目指した探究活動や、基礎学力定着のためのドリル学習など各校がそれぞれの実情に応じて指導に生かすことを文科省は期待する。
のだそうだが、そこまで限定的に言われて使い道に個性など生まれはしない。さらに教員同士は分断される。

 小学校は学級担任制だから意識されないかもしれないが、中学校の社会科や理科、美術や音楽の先生はたまったものではない。自分の授業の10%が奪われて、それが数学や英語のドリルに使われるわけだ。なんで俺が苦労して授業を縮め数学科や英語科の時間を生み出さなくてはならないのか、誰も納得しないだろう。

 背景には、子どもの学力や教育環境の地域間格差が広がっていることがある。各校が画一的な授業を横並びで実施しているだけでは対応が難しく、裁量拡大によって学校現場の創意工夫を促す狙いがある。
 だったら学習指導要領のしばりをゆるくして、標準時数は「目標時数」または「上限時数」にして、内容も完全履修を求めないようにしなくてはならない。そのためには高校入試を学習指導要領に準拠しないものにしていく必要もあるだろう。
 いずれにしろ、

  1. 目標を減らさない(指導要領の内容は死守する)
  2. 教える人数を増やすわけでもない。
  3. 各教科の時数は減らす。

という状況で、学校現場の創意工夫などと言われても困るのだ。85時間を教員の働き方改革に使うならまだしも、7時間目の授業にあてましょうみたいなこの施策――文科省は何を考えているのだろうか?

 もしかしたら、
「浮いた85時間は児童生徒を家に帰して、先生たちの事務処理・教材研究に使ってもいいのですよ。責任を取りたくないから口には出さないけど――」
ということなのかもしれないし、働き方改革が進まないことをあとで責められた時に、
「だから授業時間を5分ずつ減らしたんだから、その分を先生たちが有効に使えばよかっただけじゃん」
と言うための伏線なのかもしれない。