キース・アウト

マスメディアはこう語った

子どもが持ち込んだスマホで盗撮したら、学校が謝れ!

スマホを容認すればさまざまに大変なこともあるが、
なんとか頑張ってくれ。
ただし教員の働き方改革。勤務時間は増やしちゃだめだよ。
文科省は言った――のかもしれない。

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記事

複数の男子生徒 中学校内で盗撮 生徒間で画像売買も 奈良 生駒
(2020.02.11 NHK)

2020年2月11日 2時15分 奈良県生駒市の中学校で複数の男子生徒が女子生徒のスカートの中などを盗撮し、一部の動画や画像を生徒間で売買していたことが学校などの調査でわかりました。

生駒市教育委員会によりますと、生駒市立の中学校で5人から6人ほどの2年生の男子生徒が、去年11月以降、ペン型の小型カメラやスマホを使って、校内で女子生徒少なくとも十数人のスカートの中や着替えの様子を繰り返し盗撮していたということです。

男子生徒たちは無料通信アプリのLINEを使って盗撮した動画や画像をやり取りし、一部は数百円から1000円で売買されていました。

「同級生が盗撮しているようだ」という情報が今月7日に生徒から学校に寄せられ、学校の聞き取り調査に対し、男子生徒らは「興味本位でやった」などと話したということです。

教育委員会と学校は警察に相談するとともに、スクールカウンセラーが女子生徒のケアにあたっているということです。

教育委員会と学校は10日夜、記者会見し「被害にあった生徒や保護者に深くおわびします。道徳教育の充実など再発防止に向けた取り組みを進めます」と謝罪しました。

 

 こうした事件に対する一番確実で簡単な方法は、学校へのスマホの持ち込み禁止である。「いくらスマホを規制しても、ペン型カメラなどを持ち込まれたら対応しようがない」とみる見方もあるだろうが、アメリカで「いくら銃規制をしたところでナイフや包丁が自由に売られているようでは殺人は防げない」というのと同じである。規模が違う。

 しかし大阪府を筆頭に政府までもが、子どもの学校へのスマホ持ち込みを許可しようとしている。
「いざというときの安否確認のため」だということだが、だったらスマホを持たせない親は子どもが心配じゃないネグレ親だということになる。
 可愛そうに子どもが3人もいたら通信費だけでも大変だ、という発想は政治家にも役人にも金持ちの保護者にもない。

 ましてやそのスマホを使ってウチの子が盗撮するかもしれない、いじめの加害者になるかもしれない、という発想もない。
 教育委員会と学校は10日夜、記者会見し「被害にあった生徒や保護者に深くおわびします。道徳教育の充実など再発防止に向けた取り組みを進めます」と謝罪しました。

とのことだが、文科省都道府県がスマホを許可しておいて学校が謝らなくてはならないのは気の毒だという考えもない。

 ただスマホの持ち込みは許可したうえで「悪用しないよう丁寧に指導しなさい」と指示して「教員の働き方改革に逆行しないよう、くれぐれも仕事を増やさないよう注意してください」と付け加えることも忘れない。
 そんなことはできないだろう! どうすればいいんだ!
と叫ぶと、
「そういう具体的なことは、すべて学校にお任せしています。自由にやってくださって結構です」
と言う。

ああ!

 

京都市もまた、教員の働き方改革に真剣に取り組み始めた。ただし仕事を増やすことも忘れていないらしい。

 教員の働き方改革京都市もまた真剣に取り組み、
 夜は7時に電話を切り、教師の意識改革も強く訴えている。
 ただし同時に、京都市は授業日数を増やし、
 小学1年からの英語活動や小学4年からの長期宿泊学習など、
 独自のカリキュラムにも熱心に取り組ませている。
 アクセルをガンガン踏みながら、ブレーキを強く踏む矛盾。
 しかしそこはとにかく、教師の“自覚”で乗り越えてもらうしかない。
という話。

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記事

教員「ブラック職場」改革進まず 保護者対応や授業準備…新たな負担も
(2020.01.27 京都新聞)

 

 午後7時、教員が職員室の電話のボタンを押すと、自動音声の対応に切り替わった。「本日の対応は終了しました」。京都市右京区の西院小。職員室にはまだ約20人の教職員が残り、翌日の授業の準備などにあたっていた。

 先進国でも突出する日本の教員の長時間労働が問題となっている。京都市もここ数年で学校現場の働き方改革を進めてきたが、文部科学省が目標に掲げる「残業は月45時間以内」の達成はまだ遠い。市教育委員会は出勤・退勤時間を記録するシステムを2019年度から導入。昨年1月からは、市内の小学校で夜間の電話応対が長時間勤務の一因として原則午後7時で終えることを決めた。

 さらに西院小では独自に時間割や行事、部活の見直しを進めているが、國重初美校長は「午後9時ごろまで多く残っていた数年前に比べると早く帰るようになったが、残業を月45時間以内にするのはまだ厳しい。もっと教員の意識改革を進めたい」としつつ、「専科教員の配置などがもっとあれば…」とも話す。

 教職員が多忙な理由はさまざまだ。授業の準備、児童への指導、保護者への対応…。さらに4月からは新学習指導要領の導入で外国語が小学校高学年で教科化されるなどし、3年生以上で授業時数が年35こま増加する。プログラミング教育実施の準備にも追われる。

 そこに市教委独自の施策も多忙化に拍車をかける。市教委は年間授業日数を06年度から従来より7日増やして「205日以上」にしており、全国平均よりも2日ほど多い。
 市教委は「行事や学級閉鎖などを見込んで余裕を持たせている」とするが、教員からは「行事の精選をもっと進めるべき」との声が漏れる。小学1年からの英語活動や小学4年からの長期宿泊学習など、市教委が力を注ぐ取り組みも一方では教員に重くのし掛かる。

 負担を軽減するために市教委は、教員の業務を支える「校務支援員」や「スクールサポーター」「総合育成支援員」などを増員してきたが、支援が必要な子どもの増加などに追い付いていないのが現状だ。
 19年度の市一般会計予算に占める教委所管分は、13・7%にあたる約1093億円。近年は観光振興予算が増える中、教育費は伸びていない。市教委の幹部からは「観光PRにお金を使うなら教育に回してほしい」とのぼやきも聞かれる。

 20年度の教職員採用では、志願者数が10年度採用と比べ約15%減の1798人だった。「ブラック職場」との批判が高まる学校現場へ、就職をためらう学生も増えつつある。教員の負担軽減と教育の質の保障をどう両立するか。ある現職の市立学校教員は「教育費は未来への投資。手厚くすべきだ」と指摘し、市長選の各候補者の主張を注視している。

 

 人は立場で話さなければならないこともあるので、必ずしも本音ではないと思うが、

 もっと教員の意識改革を進めたい

――本校の教員に自覚がないばかりに勤務時間を減らせないと言わんばかりの校長のセリフ。部下に私のようなひねくれ者がいないよう、心から願う。

 もっとも意識改革以外に何の打つ手もない校長の立場も、今の私ならまったく理解できないわけでもない。

  • 3年生以上で授業時数が年35こま増加する。
  • プログラミング教育実施の準備にも追われる。
  • そこに市教委独自の施策も多忙化に拍車をかける。
  • 市教委は年間授業日数を06年度から従来より7日増やして「205日以上」に
  • 小学1年からの英語活動や小学4年からの長期宿泊学習など、市教委が力を注ぐ取り組みも一方では教員に重くのし掛かる。

  これだけグイグイとアクセルを踏み込んでおきながら、他方で「残業は月45時間以内」と強力なブレーキをかける――これでクルマ(学校や教員)が傷まないわけがない。

  もちろん市も、
教員の業務を支える「校務支援員」や「スクールサポーター」「総合育成支援員」などを増員してきた
と言い訳するが、
近年は観光振興予算が増える中、教育費は伸びていない。
という状況では結局、学校の消耗費や備品・修繕費を減らしてそちらに回しているだけのことなのだろう。調べてはいないが「支援員」も「サポーター」も「焼け石にスズメの涙」程度のもののはずだ。

 教員の働き方改革によってさらに教師たちは擦り減っていく。
 しかもどうやら責任は「意識改革の進まない教員自身」にあるらしいのだ。

 

神戸市教委が「学校業務見直しの指針」を発表したが、必要なものを減らし、どうでもいいものを残すという錯誤は、どうして起こるのだろう。

 授業時数の確保と教職員の負担軽減のために、
 神戸市教委が業務見直しの指針を出した。
 
しかしよくもまあここまで、
 やめてはいけないものをやめ、
 
やめた方がいいものを残す計画が立てられたものだ。
という話。

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記事

神戸市、教員の業務軽減 動物飼育を縮小、通知表の所見欄廃止…
(2020/1/17 神戸新聞NEXT)

 新学習指導要領による授業時間数の確保と教職員の負担軽減のため、神戸市教育委員会は市立小中学校の業務見直し方針を策定し、16日までに各校に通知した。例として運動会を午前中だけの開催にするなど原則、学校行事を簡素化。ウサギや鳥といった動物飼育(小学校)は全校で段階的に縮小、成績通知表の「所見欄」(中学校)は廃止する。

 新学習指導要領が小学校で2020年度、中学校では21年度から全面実施されるのを前に、市教委は昨年5月から学校現場の声を基に検討を重ねてきた。

 業務見直し方針のうち、事前練習の負担が大きいとして原則、各校に簡素化を求める学校行事は、運動会のほか入学式や卒業式、音楽会、文化祭など。小学校でのスキー実習も段階的に廃止し、中学校では野外活動などは1、2年で計3泊する学校が多いが、計2泊以内を原則とする。

 さらに、毎年4月に全家庭を対象に実施してきた家庭訪問は、希望する家庭だけにするなど、原則として見直しを求める。

 全校で必ず取り組むのは、動物飼育の段階的な縮小のほか、夏休み中の水泳の補習廃止、夜間電話の自動音声対応への切り替えなど。学校で購入し、児童、生徒宛てに送っていた年賀状や暑中見舞いも、担任の負担が大きいとして取りやめ、成績通知表は小学校も項目を整理、簡素化する。

 市教委によると18年度、教職員の平均残業時間は小学校で月44時間、中学校で月62時間。(長谷部崇)

 

 市が発表した「神戸市立小中学校における教育活動等について(方針)」に対して、ど神戸新聞がういう立場を取っているのか全く理解できない記事だ。

 どう評価したらよいのかわからないのでいちおう事実を投げ出してみた、というところかもしれない。しかしこれはきちんと批判してもらわなくてはならない内容だ。なぜなら記事に、
市教委は昨年5月から学校現場の声を基に検討を重ねてきた。
とあるのに、教職員の声が反映した様子がまるで見えないからだ。
 現場教師はほんとうに「動物飼育を減らしたい」「通知票の所見欄はなくしてほしい」「運動会や音楽会を縮小してほしい」と言ったのだろうか。

 

【教師は校務の何に負担を感じているのか】

 少し古い資料になるが、2015年に全国1万人の教員を対象にして文科省が行った調査(2015文部科学省7月27日「学校現場における業務改善のためのガイドライン~子供と向き合う時間の確保を目指して~」)で、5割以上の教員が従事する業務のうち、負担感の大きいワースト5は、
「57.国や教育委員会からの調査やアンケートへの対応」
「52.保護者・地域からの要望・苦情等への対応」
「11. 研修会や教育研究の事前レポートや報告書の作成」
「45.児童・生徒、保護者アンケートの実施・集計」
「8. 成績一覧表・通知表の作成、指導要録の作成」
だった。(数字は71に分類された業務の番号。特に意味はない)
 いずれも教員の6割以上が負担に感じていて、「57.国や教育委員会からの調査やアンケートへの対応」などは9割近い職員が負担感を持っている。

 それに対して神戸市が縮小しようとしている学校行事については、
「5.学校行事の年間計画の策定、各種行事の企画」が負担だと答えた教員は小学校で33.3%、中学校33.0%。
「6.学校行事の事前準備、当日の運営、後片付け」については同じく小学校で32.5%、中学校で31.9%しかいない。

 あの悪名高い中学校の部活動も、
「24.部活動の活動計画の作成」が負担だという職員は39.0%。
「25.部活動の技術的な指導、各種大会(運動部・文化部)への引率等」も48.5%と、5割を切っている。

 ちなみに負担率5割を越えるもので、前述のワースト5以外のものは次のようなものだ。
「9 .週案・指導案の作成」
「23. 学期末の成績・統計・評定処理」
「26. 関係機関への申請・登録、大会申込み」
「28. 児童・生徒の問題行動への対応」
「29. 児童・生徒の指導に関する照会・回答」
「45. 児童・生徒、保護者アンケートの実施・集計」
「47. 会議のための事前準備、事後処理」
「48. PTA活動に関する業務」
「50. 地域との連携に関する業務」
「58. 児童生徒の在籍管理」
「59. 月末の統計処理や教育委員会への報告文書の作成」
「67. 備品・施設の点検・整備、修繕」

 一方、いかにも大変そうで、それにもかかわらず負担感の少ないものは、
「7.テスト問題の作成、採点」
「17.朝学習、朝読書の指導、放課後学習の指導」
「10.教材研究、教材作成、授業(実験・学習)の準備」
「14.職場体験、校外学習等の事前打合せ」
「15.学年・学級通信の作成、掲示物等の作成・掲示
「30.特別な支援が必要となる児童生徒への対応」
「31.児童・生徒、保護者との教育相談」
「34.進路相談、保護者進路説明会の開催」
「22.日々の成績処理(テスト等のデータ入力・統計・評定)」
など。

 一見してすぐにわかる通り、直接児童生徒に働きかけるもの、子どもの成長に欠かせないものは、どれほど大変でも負担感を訴えない(例えばテスト作成)のに対し、潜在的に「なくても何とかなるだろう」と思えるものは軒並み負担感が大きいのだ。
「57.国や教育委員会からの調査やアンケートへの対応」だの「45.児童・生徒、保護者アンケートの実施・集計」だの、あんなもの、なくても一向にかまわないと内心、本気で思っているのである。
(例外は「28 児童・生徒の問題行動への対応」だが、ときに内容が底なしで、徒労感の少なくない場合が多いといった事情もあるのだろう。どんなに誠意を尽くしても、うまくいかないときがある)

 

【神戸は何をしようとしているのか】

 そうした観点から改めて神戸市の取り組みを見てみると、縮小ないしは廃止すべきものとして挙げたものは、
「ウサギや鳥といった動物飼育」
「運動会のほか入学式や卒業式、音楽会、文化祭」
「小学校でのスキー実習」
 いずれも児童生徒に直接働きかけ、成長を促すものばかりである。言い換えれば、教師がやりたいこと、手放したくないことは縮小する。

 夜間電話の自動音声対応への切り替えも、一見教師の負担を減らしそうだが実は逆である。普通の教師は、情報が毎日12時間以上に渡って遮断されているという状況に耐えられない。

 電話さえ取らなければ以後一切問題が持ち込まれないというならいいが、金曜日の夕方に聞いておけばよかった話を月曜日に持ち込まれても手の施しようがないだろう。
「危機管理のさしすせそ」は「最悪の事態を考え」「慎重に」「すばやく」「誠意を持って」「組織的に」である。三日も放置された問題に、”素早く誠意をもった対応”などできるはずがない。”慎重に行う”には失われた時間は長すぎ、”組織を動かす”暇もない。

 また、心ある教師なら、今日あった子どもの素晴らしい様子を、その日のうちに保護者に伝えたいと思う。その日のうちに伝えておけば、親はその日のうちに子どもを誉め、子は気分がよくなり、親子関係が良くなるとともに教師への信頼も厚くなる、そういうことを知っているからである。

 学校の電話が遮断されるとなると、教師は自分の携帯番号を親に知らせなければならなくなるだろう。「お宅のお子さん、今日、こんな素晴らしいことがありましたよ」という話を、非通知で電話する教師もいないからその瞬間に番号を取られてしまう。
 かくて教師は24時間、保護者に捕捉されてしまう。夜間、学校で電話を取ってもらえば遅くとも平日は9時以降、土日も自由でいられたものを――。

 年賀状や暑中見舞いについても言いたいことがあるが、長くなるので別の機会に話そう(それにしてもこれまでハガキ代を学校に出してもらっていたのは羨ましい)。

 

【英語やプログラミングのために何を棄てたのか】

 学校に持ち込まれるものに悪いものはない。子どもと日本の将来を考えれば、国語も算数数学も理科も社会も、英語も小学校英語も図工・美術も技術家庭科も、音楽も、体育も、道徳も部活も、総合的な学習の時間も特別活動も、ぜ~~~~んぶ良いもので大切なものだ。
 ただ問題なのは、もうカリキュラムが満杯で、時間的に入れ込んでいかないということだ。したがってあとは優先順位をつけ、より重要なものを入れて、不要なものを抜くだけである。

 今回の学習指導要領改訂によって、小学校英語とプログラミング学習と特別な教科道徳が最優先で入った。
 では何を抜くか。

 神戸市教委はひとつの基準を示した。
「ウサギや鳥といった動物飼育」を外して、「もう“命の教育”はほどほどでいい。道徳の時間に教科書で学ぶ程度で構わない」という宣言した。

「運動会のほか入学式や卒業式、音楽会、文化祭」を縮小するのは「地域との連携や人間関係づくり、仲間との協力や計画性・実行性、ひとと一緒にものを作り上げていくという過程の学びも、これからは教科書を中心にやっていこう」というサインだ。

 それはまるで運転免許を取るのに学科のみで実地教習をしないこと、あるいはゴルフのプロテストを受けるのに入門書を山ほど読んでクラブを一度も握らないことと同じと言えるが、英語やプログラミングの重要さを考えれば、人間教育などという手間のかかることはしないでいい、ということになるのだろう。少なくとも神戸においてはそうだ。

(参考)

学校に動物がいることは子どもが動物と触れ合う大事な機会です。学校での動物の世話や触れ合いにより、学校で過ごす時間が楽しくなったり、人や動物への共感性が高まったりすることが、学校動物に関する研究で確かめられています。/動物との接触から生じる児童へのリスクを恐れるあまりに、学校での動物飼育がなくなっていくと、抱いて温かく、愛着を感じやすい「鳥・哺乳類」と触れ合う機会が子どもの生活から失われてしまう。/動物との触れ合いを通して、“命の大切さや思いやりを学ぶこと”と“教員の負担の軽減”。これらをどうすれば両立できるのか。「学校での動物飼育」は今、曲がり角に来ていると感じます。

 

【やめるべきものはいくらでもある】

 ところで、教師の働き方改革というとき、なぜ教員が一番ムダでやめたいと思っていることをやめてくれないのだろう。

 日常の学習との関連性の薄い全国学力学習状況調査(全国学テ)。

 もう形ばかりになった教員評価、
 保護者による学校評価
 児童・生徒による担任評価。

 お前はバカだから金を出して勉強しなおせという免許更新制度。
 はっきり言って女性教諭は除外してもいいコンプライアンス講習。
 報告書ばかり書かされるその他の研修。

 何のためにあるのかわからなくなった学校評議員制度。

 子ども自身に向かわない、子どもの向上に資さない、どうでもいい制度はまだまだいくらでもある。

 

(付記)

 学校で購入し、児童、生徒宛てに送っていた年賀状や暑中見舞いも、担任の負担が大きいとして取りやめる

 では担任は以後いっさい年賀状を書かないか、子どもから届いても返事を書かないのか――もちろんそんなことはないだろう。あとは自腹でやってもらうしかない。

 ただし職員全員が書かなから、却っていいということもある。
「いまはプリンターで枚数指定をすればいいだけだから、出すとなったら1枚も30枚も同じだ。住所録はすでに4月の段階でコンピュータに入力してある。自腹となった3000円は痛い出費だが、そうなれば出さない担任はアイツとアイツと、アイツだ。その分、差がつけられる。
『あ~ら、お宅の担任の先生、年賀状くださらなかったの? うちの先生はくださったわよ。やっぱり子どもに対する熱意が違うのね』
 保護者の信頼を勝ち取るというのはそういうことだ」
 そんなふうに考えてせっせとハガキづくりに励む教師もいる。私はそういうタイプだ。

 

時間割に入るはずのない英語やプログラミングを入れると、学校がガタガタになる様子が目で見えるようになってきた

 もう満杯の小学校のカリキュラムに、
 さらに新しい内容を盛り込む。
 そうなると、
何かをつぶすか、何かをいい加減にするか、
 あるいはあれもこれもグチャグチャにするしかない。
という話。

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記事

 15分×3日=授業1コマ 新年度から授業数増 時間確保に「モジュール学習」
(2020.01.14 丹波新聞)

 2020年度から始まる新学習指導要領に基づく「外国語」などの導入に伴い、小学校では3―6年生の授業時数が週1時間拡充される。すでに各校では、必要な課外活動などとの兼ね合いで授業時間の確保に苦慮する中、兵庫県丹波篠山市の多紀小学校は今年度から、始業前の朝の15分間を正式な「授業」として位置付け、週3日計45分を1コマ分としてカウントする「モジュール(構成要素)学習」を試験実施している。

 同校4―6年生の授業は通常時、月曜と木曜が5時間で、それ以外は6時間。月曜か木曜の6時間目に1コマを増やす方法もあるが、同校伝統の「金管バンド」の活動やスクールバスの送迎、教諭の教材研究などとの兼ね合いがあり、6時間目を使うのは難しい状況だった。

 そこで週4日、朝の始業前に計算や漢字ドリル、読書などの短時間学習に使っている時間(午前8時25分―40分)のうち3日間を、15分間の国語の授業に充てている。

 これまでの実施を経て、同校の教頭は、「15分という短い時間なので授業の目的がより明確になり、教師の指導力向上につながる。放課後の課外活動や教諭の教材研究などの両立にもつながる」と利点を挙げる。

 一方、「分刻みのスケジュールになるので休憩時間が少なくなるなど、教師や児童の負担が大きくなる。週時程の変更など工夫が求められる」と課題も。来年度以降も継続するかは未定という。

 6年の児童は、「通常の授業と比べても、特に違和感なくできている」と言い、6年担任の教諭は「最初は慣れなかったが、今はあって当たり前。授業に『スッ』と入れるようになってきている」と話す。

 同校教諭らはこのほど、校内で研修を行い、同僚教諭の授業の様子を見学し、限られた時間での指導方法を思案した。この研究成果は、2月5日に同校で開かれる研究発表会で報告する予定。

 同校の教諭に指導方法のアドバイスを行っている兵庫教育大学の山内敏男准教授は、「45分の授業だとだらけてしまうことも多いが、モジュール学習は児童たちがいい意味で面白がり、リズム良く学びを得ることができる」と話している。

 学習指導要領の改訂 近年のグローバル化や、AI(人工知能)を活用した技術革新などを受けて、文部科学省が2017―18年に改訂。小学校3、4年生には英語を楽しく学び、慣れ親しむ「外国語活動」、5、6年生には中学生と同様の「外国語」を新設した。この新設した1コマをどのような方法で確保するのかが、学校側の重要課題になっている。丹波篠山市教委によると、同市内では、曜日に応じて放課後の掃除時間を削るなどして授業時間を確保している学校もあるという。

 

 英語学習やプログラミング学習を小学校の教育課程に入れるということになったとき、まず問題となったのは“どこに入れるのか”ということだった。

 小学校の時間割にたっぷり余裕があって、子どもたちがあくびをしているようなら私もこれらの学習に反対したりはしない。しかしすでに日程は満杯なのだ。
 そこで編み出されたのがモジュール学習という概念だ。

 モジュール学習というのは、記事にある通り、一時間の授業を細切れにして、日課のあちこちに置いて合計で1授業時間(45分)にしようというものだ。ただし週五日制の学校に合わせて45分を5分割にして9分ずつに割り振ったところで10分近い時間を差し込む余裕は学校にはない。

 子どもが登校している時間帯で授業時間でないのは、朝のドリル・朝読書、朝夕の学級の時間、休み時間(教室移動を含む)、給食の時間、清掃の時間、だいたいそれですべてである。だから思案のしどころは「英語やプログラミングを学ぶために、なにをやめるか」という選択でしかなくなる。

 丹波新聞の丹波篠山市立多紀小学校は、課題を次のように解いた。
 そこで週4日、朝の始業前に計算や漢字ドリル、読書などの短時間学習に使っている時間(午前8時25分―40分)のうち3日間を、15分間の国語の授業に充てている。

 つまり週4回あった計算および漢字ドリル、読書の時間を1回(!)に減らしてそこにモジュールを入れたわけである。

 

 考えてみると「読書の時間」は30年近く前、子どもの本離れが深刻な問題とされた時期に、休み時間を細かく削って生み出したものだった。それまでは一斉に読書をするなどという習慣はまったくなかったのに、ブームとして全国の小中学校に広まっていったものである。
 ところが十数年前、PISAの結果が出ると今度は学力が大幅に低下したとかで、「読書なんかしている場合ではない」とばかりに「朝読書の時間」が削られ、ドリルに充てられるようになった
 学校には時間がないから、何か新しいことをしようとすると古い何かをつぶさなくてはならない。そしていつも、同じ朝の15分間が塗り替えられてきたわけだ。

 もっともモジュール学習について、私は45分を5等分した9分にさらに1分を加えて、毎日10分間の英語学習を行うのが当たり前だと思っていた。ところが丹波篠山市立多紀小学校はここに「国語」を置いた。そこが独創的だ。
 英語はいずれかの曜日に1時間きちんとやるとして、週5時間の国語のうちの1時間を授業時間から外し、三日間にばらまいたのである。

 これまでの実施を経て、同校の教頭は、「15分という短い時間なので授業の目的がより明確になり、教師の指導力向上につながる。放課後の課外活動や教諭の教材研究などの両立にもつながる」と利点を挙げる。

 もちろん実施校の教頭自身が自校の試みを悪く言うわけはない。試行期間なので担任の意識も高く、勤務時間外にたっぷり教材研究を重ねて15分が有効に使えるように工夫しているのだろう。
 しかし長続きはしまい。

 大学教授なんていい加減だから、
 同校の教諭に指導方法のアドバイスを行っている兵庫教育大学の山内敏男准教授は、「45分の授業だとだらけてしまうことも多いが、モジュール学習は児童たちがいい意味で面白がり、リズム良く学びを得ることができる」と話している。
 
そういうなら全教科をモジュールにして、1日20コマくらいを回せばだらけずに学習できることになろう。毎日全教科学べるというメリットもある。
 しかしそうなるはずもない。

 さらに
 同市内では、曜日に応じて放課後の掃除時間を削るなどして授業時間を確保している学校もあるという。
 
教育に関しては日本国内だけでも1500年もの歴史をもつ仏教寺院に行って、「学問のために掃除を減らしました」と報告してみるといい。錫杖で殴られるかもしれない。
 あるいはエジプトやインドネシアの教育相に日本で清掃を減らしている現状をささやいてみればいいのだ、彼らがどれほど失望するかは目に見えている。

 かつて学校教育に見本であった日本は、清掃や読書やドリルの時間を減らしてしまった――読書や基礎学力や人格づくりよりも、英語やコンピューターの方が大切だと、方向を変えてしまったのだのだから、日本の教育を手本にした国々の失望(軽蔑?)は大きいに違いない。

 

元文科官僚が「不登校は学校に責任がある」と言っているけど、この人、在職中は何をしていたのだろう?

文科省の元官僚が、
不登校の原因は現在の政権が右傾化して、
上から抑えつけるような“押し付け道徳”を復活させたために、
学校が居心地の悪い場所になっているからだ、と言っている。
百万歩譲ってそうだとしても、
それは学校の責任ではないだろう。
という話。f:id:kite-cafe:20200111105410j:plain(「文部科学省文化庁スポーツ庁phtoACより)

 

記事

不登校は学校に責任がある」前川喜平桐野夏生と考える教育問題(2020.01.10  AERA.com )

(以下、抜粋)
桐野:学校に行きたくても行けなかった人がいる一方で、不登校も増えている。

前川:不登校に関しては、私は学校のほうに責任があると思うんです。今、学校がものすごく居心地の悪い場所になっている。例えば道徳が「特別の教科」として格上げになりました。教育勅語も安倍政権のもとで閣議決定まで行われていて、学校の教材として使っていい、ということになっている。さすがに公立学校で教育勅語を教材に使ったというケースは聞いていませんが、これから出てくる恐れはあります。森友学園の幼稚園では暗唱させていましたね。
 とにかく上から抑えつけるような“押し付け道徳”が復活してきていて、全体のために自分を捨てることがいいことなんだという滅私奉公みたいな考え方が復活してきている。

桐野:軍隊や企業とか、組織に従順であれ、という教育ですよね。それが家父長制の家族に結びついて、全く今の状況と合わないのに、なんでそんなアナクロニズムなことをするんでしょう。

前川:私はやはり今の政権を担っている一人ひとりが、自己肯定感を持ってないからじゃないか、と思う。自分に自信がない人っていうのはより大きなものにすがろうとしますから、強い権力や大きな権威というものと一体化することによって、実態のない安心感を得ているんじゃないかと。

桐野:大きなものというのは、つまり日本人であることですとか、日本国であるというナショナリズムに結びつくわけですね。

前川:だからヘイト的になったりするんじゃないかと。

桐野:「企業の一兵士として、企業のために働け」という発想が今なお残っていることが、大人の自己承認欲求が満たされないことにつながっていると思います。だから家で威張るようになる。すごく問題を生んでいます。

 

  まさかこの記事を鵜呑みにする人もいないと思うが、天下の元文部科学官僚が、天下の週刊朝日を使ってこのような発言をする、それを天下のYahooニュースが無批判に引用する――そんなことがあっていいのだろうか?

 これは現代のマスコミの低俗さという問題ではない。これだけいい加減なことを言っても騙される国民はいくらでもいると、バカにして挑戦しているのだ。
「どうだオマエら、こんなことも分からないんだろう」

 特別な教科道徳が始まったのは小学校で2018年、中学校では2019年、つまり昨年一昨年からのことだ。しかし不登校は1975年あたりから顕著になってきた、よくも悪しくも”歴史ある“問題である。我々は40年以上もこの問題と戦ってきた。

 それを前川喜平はいとも簡単に、
不登校に関しては、私は学校のほうに責任があると思うんです。
と言い、タイトルにも、
不登校は学校に責任がある」
と掲げる。

 見出しを見ただけで内容にまで進まない人は、
「ああやはり学校が悪いんだな」
と思い、読んだ人の一部は、
「ああ学校は息苦しい場になっているんだ」
と心に刻んで行ってしまう。

 百万歩譲って特別な教科「道徳」がつくられるような“押し付け道徳”の素地が、不登校の始まった1975年前後からつくられてきたとしても、原因が前川氏の言うように、
今の政権を担っている一人ひとりが、自己肯定感を持ってないからじゃないか
ということだったら、不登校の責任は今の政権を担っている人たちがとるべきであって学校ではない。

 ところで確か、不登校が明確な社会問題となってきた1979年に当時の文部省に入省し、2016年には事務方トップの次官にまで上り詰めたエリート官僚がいたが、彼は不登校の児童生徒数が14万人を超えた2017年に退官するまでの間、この問題にどう対処したのか、前川氏に調べてもらいたいものである。
 難しいことではない、記憶をたどるだけでいいのだから。

 そのうえで、なお、
不登校に関しては、私は学校のほうに責任があると思うんです。
と言えるとしたら、
オマエはとんでもないクズ野郎だ。

 

小学校英語やプログラミング学習のために、今から学習塾に入れる親や祖父母がいるらしいけど、馬鹿らしいからやめなさい。

 小学校英語とプログラミング学習のために今から塾に行く、そのための教育費がかさんで大変だという記事。
 しかし爺ちゃん・婆ちゃん、孫に”転ばぬ先の杖”を渡してはいけない。
 あんなもの、大して役にも立たなければ大変でもない。
 それにしても政府・文科省は、本気で国民にあれをやらせようというのか?
という話。

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記事

小学校の英語、プロミング教育導入 増える教育費に祖父母の負担増も
(2020.01.06 マネーポストWeb)

 2020年、子や孫の教育に関わる費用負担が大きくなるかもしれない。2020年度から新学習指導要領が実施され、4月から小学校でプログラミング教育が必修化される。合わせて、小学校5~6年生は英語も正式教科となる。

 こうした動きに伴い、民間の「英語塾」「プログラミング教室」が活況を呈しているという。 

 矢野経済研究所の調査によれば、2018年度の語学ビジネスの市場規模は8866億円にのぼる。小学生の英語教育の必修化に伴い、幼児・子供向けの市場は拡大する見込みだ。

 船井総合研究所などの共同調査では、2019年のプログラミング教育の市場規模は、前年比26%増の114億2000万円まで増加した。背景には、「小学校側の授業体制への疑問もある」と語るのは、ある学習塾関係者だ。

「小学校の先生は、英語やプログラミングの指導の専門性を持っているわけではなく、これまで触れてこなかった人も多い。それなのに、制度が変わったから4月から生徒に教えることになった、と言われて混乱している先生も少なくない。そうした先生には任せられないという不安から、民間の専門塾で習わせたいと考える保護者が増えていると考えられます」

 都内在住の70代男性は、英語教育を見据えて、小学生の孫を英会話教室に通わせ始めたと語る。

「孫は4月から5年生になるので、学校で英語の授業が始まります。なんとか頑張っていい成績を取ってほしいけれど、私と妻はもちろん、娘夫婦も英語を教えられない。それなら、英会話の先生がいる塾で勉強したほうがいいんじゃないかと通わせました。週1回1時間の授業で、月謝が1万円程度。孫のためと思って年金から払っています」

 株式会社バンダイが2015年に行なった「祖父母と孫の関わり方に関する意識調査」によれば、12歳以下の子供に対して祖父母が援助している教育関連費用は、平均で年間13万3135円だった。

 国語や算数など、従来の科目に加えて、英語やプログラミングの習い事が増えれば、親だけでなく祖父母が負担する事例はさらに増えそうだ。

(以下略)

 

【孫に“転ばぬ先の杖”を渡してはいけない】

 学校、特に小学校で学ぶことについて、「ついていけなければ子どもが(孫が)かわいそうだから・・・」と塾へ行かせることには基本的に反対である。
 基本的にと条件をつけたのは、ときに中学年以上でほんとうに何もわからなくなって教室で座っているだけの子が出てしまうことがあり、そうなる前に、親が丁寧に教えるとか塾に入れるとか、考えなくてはならない場合があるからだ。しかし一般的ではない。
 ましてや“転ばぬ先の杖”とばかりに、始まってもいない小学校英語やプログラミング学習のために、下準備する必要などさらさらない。

 さらに付け加えれば、国語や算数で遅れが出てしまったらちょっと気にしてやらなくてはならないが、週に1時間しかない授業のために、金を使い、時間を使い、子どもから遊びを奪うのは愚の骨頂だ。
 同じく週に一回しかない図工や家庭科のために塾に通わせる人はまずいないだろう。私たちは週1の学習で大きな差などつかないことを経験的に知っているし、そもそも週1ではつけられる力に限界があるのだ。

 爺ちゃん、婆ちゃん、暇に任せて始めた習字や絵画教室。講座は週1でも家でいっぱい練習してるだろ? 学習というのはそういうものだ。
 ほんとうに週1回しかやらないとしたら、それは大して力がつかなくてもいいということなのだ。小学校英語もプログラミングもその範疇にある。

 さらに爺ちゃん、婆ちゃん、英語やプログラミングが生きていく上で大して重要でないことは、あなたたちが一番よく知っているじゃないか。そんなアホなことで大事な孫を苦しめてはいけない。

 

 【ところで・・・】

 私は日本人を信じているから、国会議員や官僚が己の利益のために制度をつくったり変更したりするという見方には賛成しない。彼らだって大部分はまじめで誠実な日本人だ。
 ただ教育の制度改革・改変に際して、かくも業者の影がチラチラすると、もしかしたら本当に議員や官僚は財界のために制度をいじっているのではないかと不安になってきたりする。

 棚上げになっている大学入試の民間試験導入や記述式の業務委託、そう言えば全国学力学習状況調査(全国学テ)も一部の受験産業・宅配業者を十二分に潤わせている。
 教員免許更新制度は大学に年間30億円の収入を保障している(毎年10万人の教員が3万円ずつ払ってくれるから)。
 そのうえ小学校英語とプログラミングで、少子化のために息も絶え絶えの中小学習塾が潤うとなると、もう教員の働き方改革なんてどうでもよくて、経済を回し、財界に感謝され、ゆくゆくは自らの天下り先を用意してもらうための制度改革なのではないかと、勘繰りたくもなろうというものだ。

 私は日本人だ。同胞を信じたいし政府も信じたい。
 しかしこのまま唯々諾々と、政府に従っていてもいいものだろうか?