キース・アウト

マスメディアはこう語った

清掃の時間の、子どもがおしゃべりをする権利を保障しろという愚かな提言について

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 子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。
 でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。
――って
 これから教員になろうという人たちに言うべき話か?

 

 子どもがおしゃべりに夢中になって清掃をしなければ
 放課後 担任が残ってやり直しをするだけだ

というお話。


                




2019.08.31

なぜ「無言」で清掃・給食なのか?
―「対話」より「無言」を重視する教育のおかし

Yahoo! Japanニュース 8月30日]


■ 「黙働流汗清掃」への違和感
 先日、N H Kスペシャル「“不登校”44 万人の衝撃」という番組が放送されました。番組内では、中学生の4~ 8 人に1人が、不登校もしくは不登校傾向にあるという、衝撃の調査結果が明らかにされました。

 この問題について、言いたいこと、言うべきことはたくさんありますが、今回取り上げたいのは、この番組でも取り上げられていたまた別の事柄、すなわち「無言清掃」についてです。「黙働流汗清掃」などとも言われます。この十数年で、全国の多くの学校に急速に広がっています。

 先のN H K スペシャルの生放送には私も出演していましたが、この「黙働流汗清掃」が V T R で紹介された瞬間、L I N E で番組参加してくれていた不登校経験者の皆さんからは、「何だこれは、軍隊か!」といった声が一気に寄せられました。ツイッターにも、同じような反応が多数見られました。学校関係者にはよく知られた「無言清掃」ですが、それが世間からすれば異様な光景に見えたのは、当然のことだったと私は思います。


(中略)

 学校関係者は、それが「当たり前」の環境の中で時間を過ごすうちに、いつのまにかそうした世間の目から見れば異様な光景に、いくらか鈍感になってしまっているところもあるのではないかと思います。


■ 何のための「無言」なのか?
 その意味で、無言清掃や無言給食も、やはりおかしな活動と言うべきです。分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。

 でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。


(中略)

 「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、繰り返しますがただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、私たちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。

 時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕を作れるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。

(中略)


 学校教育の最大の目的は、お互いの存在を認め合う、そしてこの社会で自立して生きられる個人を育むことです。この目的に照らして、私たちが本当にやるべきことは何なのか、また何をやらないべきなのか、学校関係者は、子どもたちも一緒に、そんな議論・対話をもっと頻繁に重ねていく必要があるだろうと考えています。


苫野一徳
熊本大学教育学部准教授 軽井沢風越学園設立準備財団理事
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。著書『はじめての哲学的思考』『教育の力』など多数。

※『月刊教員養成セミナー 2019年9月号』
「哲学する教育学者 苫野一徳の教育探求コラム  ―教師の卵に考えて欲しいこと」より

 

【理解できないことが起こったらとりあえず向こうが悪い】

 もう30年以上まえの話だが、市の教育セミナーに出席したらそのオープニングが若者の話を聞くというイベントだった。
 3人の高校生がかわるがわる出て来て「青年の主張」みたいに意見を述べるのだが、そのうちのひとり(女子高校生)の発言に、強い違和感を覚えた。
 彼女の作文、誰も手を入れなかったのだろうか?
 
 主張の趣旨は簡単に言うと、「大人は公共の場で訳の分からないことを言って子どもを追い詰めないでください」といったことだが、何があったのかというと、比較的混んでいる電車の中で、年寄のオジさん(?)に、
「リュックは背負わずに前に掛けろ」
と注意されたのである

 公衆の面前で恥をかかされた彼女の怒りは収まらない。
「何をワケの分からないことを言ってるんですか!? いったいどういう権利があってそういうことを言うのですか! それに私の背負っていたのはリュックではなく、デイバッグです!」

 満員電車の中ではリュック(デイバッグでもいいが)を前に掛けるという常識は、今の若者なら理解できるだろう。しかし30年前は制服の女子高生がリュックを背負って登校するなんてことはなかったので、満員電車の前掛けは一部の登山者やハイカーだけの常識だったのかもしれない。“年寄のオジおじさん”も、もっと丁寧に教えてやればよかったという話なのかもしれないが、しかし理解できないことが起こったらとりあえず向こうが悪いと即断できる女子高生の神経も、いかがなものかと思った。


 

 【いつから清掃はコミュニケーションの時間になったのか】

 さて、上記の記事、そのタイトルからして私には衝撃的である。
なぜ「無言」で清掃・給食なのか?―「対話」より「無言」を重視する教育のおかしさ
 そもそも私には清掃で対話を重視するという発想がない。

 もちろん、
「おい、そこのところ、もう少し丁寧にやろうぜ」
「おう、悪かった。磨きが足りなかったな」
「さっき一度ぞうきんをかけたが、もう一度やった方がいいかな」
「そうだな。オレも手伝うから、もう一回頑張ろう」
 そんな対話が続くなら問題ないが、普通はありえない。
 
 清掃中に人生を語る小中学生もいなければ、公衆の面前で悩みについて相談し合う子どもたちもいない。話すのはたいていロクでもないことだ。そのロクでもない会話が始まれば手は止まってしまう。掃除は進まない。
 
 もちろん記事を書いた苫野先生もその点は分かっているらしい。
 分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。
 そういうのを“本音”と言っていいのかどうかは迷いますが、まあそんなところだ。しかしそこから、どういう論理で、
でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。
につながるのか。

 「清掃の時間はコミュニケーションの時間として日課に組み込まれている」などとまったく考えていなかった私は、面食らうばかりだ。

 

【児童生徒が清掃をしっかりやらなければ、教師がやるしかない】

 清掃を精神修養のように考える一部の熱意ある教師を除いて、一般に教員が黙って清掃をしてほしいのは、“そうしないと掃除が進まないから”だ。それだけのことであって、それ以上ではない。

 私はかつて、清掃の時間が休み時間と変わりないほど騒がしい学校に赴任したことがあるが、その学校ではいつも汚かった。公衆衛生の観点から言えば不潔なのだ。もちろん放置できない。
 そこで結局、清掃の行き届かないクラスの担任教師が、自分の教室くらいはと、放課後に掃除して翌日に間に合わせているのだった。

 苫野先生にとって大切な清掃中の子どものコミュニケーション守ると、教師がさらに忙しくなる。子どものムダなおしゃべりは、そうまでして守らなくてはならないのなのか――。
 しかしそんなことを言うと、苫野先生はこう答えるに違いない。
 でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。

 

【現場のことが分かっていない】

 苫野先生の文章は後半に進むとさらに迷走する。


 時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕を作れるかを考えたいものです。
 もちろん年中考えている。しかしそうやって生み出したわずかな時間を、小学校英語やプログラミング教育が食い尽くしていく。

 もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。
 おい! 清掃の時間は大切な子どものコミュニケーションの時間だったのじゃないか? 減らしていいのか?
 
 別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。
 代わりに探してくれ! 「別の余計な時間」と言われても、現場の教員にはさっき上げた「小学校英語」や「プログラミング教育」、「全国学テ」のような、ここ十数年の間に学校に持ち込まれた新しい教育しか思いつかないのだ。

 私たちが本当にやるべきことは何なのか、また何をやらないべきなのか、学校関係者は、子どもたちも一緒に、そんな議論・対話をもっと頻繁に重ねていく必要があるだろうと考えています。
 いい加減にしてくれ。時間がないといっているのに、さらに重ねて議論と対話の時間、そんなものどこから持ってくればいいのだ?しかも「頻繁に重ねていく必要があるだろう」とは!

 
現場のことが分かっていない、分かろうともしない、調べない。
 こんな記事が「教員養成セミナー」に載って「Yahooニュース」に転載されるのだから世も末だ。