キース・アウト

マスメディアはこう語った

世界が憧れる日本式教育は、諸外国に輸出されながら、国内からは消えていく・・・のかもしれない。

 中国で日本の学校給食が大きな話題となっているという。
 文部科学省も給食や清掃、運動会、部活動といった日本式教育の輸出に熱心だ。
 しかしそれらは、国内では縮小・削減の対象なのだ。
 小学英語やプログラミング学習、そのほか未知の学習のために、
 
それらは犠牲にされるべきなのだという。そうか?
という話。

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(写真:フォトAC ) 

 

記事

 

中国で日本の「小学校の給食」が大きな話題となっている理由

(2020.09.17 DIAMOND on line)

diamond.jp

 最近、中国では、ある日本人女性がネット上に投稿した埼玉県の公立小学校での給食の様子を撮影した動画が出回り、大変な話題となっている。

(中略)

 この動画の時間はわずか8分間程度。数年前に、米国・ニューヨーク在住の日本人女性により制作されたドキュメンタリーだ。

 『School Lunch in Japan - It's Not Just About Eating!』と題した動画で、埼玉県にある公立小学校の給食の様子を取材し記録したものである。

 彼女がこの動画を作成したきっかけは、自分の子どもが通うニューヨークの小学校での昼食の光景を目にして衝撃を受けたからだという。食べ残しの多さのほか、床やテーブルに食べかすがちらかった様子があまりにもひどかったからだ。

 本来は、この動画を公開して、ニューヨークの小学校の教育者に参考にしてもらおうという目的であったようだ。その動画は公開後たちまち大きな話題となって、世界中に拡散された。

 特に中国では、さまざまなタイトルが付いた記事が出回り、動画が紹介されている。コメント欄は、いつも多くの書き込みで溢れており、常時、注目記事ランキングの上位に入り続けている。

(中略)

 現在の中国の子育ては、学校の成績を最優先するあまり、勉強はできても、自分で身の回りのことができなかったり、常識に欠ける子どもが増えていることが問題となっている。

 実際、筆者が中国上海にいる友人(小学校の副校長)や児童の母親らから感想を聞いたところ、下記のような声があった。

 「日本の学校の給食は単なる『食べる行為』ではなく、感謝の気持ちを込めて食事に臨んでいることが、動画からすごく伝わってくる。当番の子どもたちが厨房に給食をもらいに行くとき、食事を作る人に対して、感謝の言葉を述べるシーンには感動しました。これは、もちろん給食を作る人に対してだけではないと思う。食べる前に、手を合わせて『いただきます』と声を発するのも、食材を作る人、料理する人など給食にかかわるすべての人に対しての感謝ではないでしょうか」

 「学校の先生が児童と一緒に食べるのにびっくりした。『毒見』をしているのかと思った(笑)。先生が児童たちと同じ内容の食事をするということは、食事に対しての信頼感、安心感を与えられる。また、食べながら、いろいろなお話しができるのも、先生と生徒の間に隔たりがなくなり、良いコミュニケーションがとれると思う」

 「給食開始から終わるまでの作業は、当番の児童だけでなくほかの児童も一糸乱れずに行い、助け合いの精神などが、すべての作業の中で表われていた。チームの団結と協調性が完璧に達成できている」

 「『いただきます』と『ごちそうさまでした』のような言葉を発するのところに、すごく儀式感がある。マナーの良さも感じとれる。このような教育は、成人してからも一生影響があるだろうなー」

 「給食当番の子どもたちの準備作業から最後のみんなのお片付けまで、あっという間に終わるが、この45分間は、まるで『1時限の授業』のようである。生活力、協調力、食べ物への敬意、食べ物を作る人への感謝、食材や栄養に関するさまざまな知識…。国語や算数の授業以上に重要な授業だ。これは日本の食文化そのものが反映されているのではないか」 

(中略)

 上述の副校長は、「われわれには立派な校舎や食堂はある。しかし『心豊かな生徒をどう育てるのか』という点においては日本から学ぶことが多い。中国の親たちの口癖に『子どもにスタートラインで負けさせない』という言葉がある。日ごろは成績のことだけに目を向けている。中国では、日本のような食育は行われていない。一人の教育者として、このような現象を変えていかなければならないと思うが、あと20年はかかるのではないか」と苦笑しながら説明していた。

 ゆえに、このわずか8分間という短い動画にもかかわらず、多くの中国の親や教育者らの心に深く刺さるのだ。

www.youtube.com

 

【学校は真面目にやっている】

 文科省「学校給食調理従事者研修マニュアル」第2章 学校給食の意義と学校給食従事者の役割」によると学校給食の目的は次の通りだ。

  • 適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること。
  • 日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと。
  • 学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。
  • 食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
  • 食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと。
  • 我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること。
  • 食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと。

  引用の記事を読めば、いかに日本の学校がこうした目的を真面目に律義に追求しているかがわかろうというものだ。

 

【世界が憧れる日本式教育】

 日本の教育で給食と並んで世界に名をはせているのが、「清掃」「学級活動」「理科実験」そして「運動会」だ。
*例えば、

www.projectdesign.jp

 特に新興国では日本の教育から学ぼうと姿勢が強く、2010年前後にはサウジアラビアの「ハワーテル 改善」というテレビ番組で、日本の学校の清掃の様子が紹介されてアラブ諸国に衝撃を与えた。
「ハワーテル 改善」(アラビア語)↓

www.youtube.com

 さらにエジプトなどでは、正式な学校教育として「清掃」や「学級活動」「日直」を取り入れようとしている。
*例えば、

www.huffingtonpost.jp
  児童生徒が学校の清掃をするのは貧しい国々と社会主義国そして日本だけだと聞いたことがあるが、我が国の場合、古くから掃除が精神修養の基礎とされ、神社仏閣あるいは芸能の世界では非常に珍重されてきた。現在でもどこの企業に勤めようとも、挨拶と掃除(身辺の整理)はうるさく言われるところだろう。

 日本の場合はそもそも、清掃が身分の卑しい者の仕事といった発想がない。それどころか新幹線やディズニーランドの清掃担当者は、尊敬の念すら持って見られている。
「ときめき片付け」の“こんまり”こと近藤麻理恵も、日本だから生み出せた存在だろう。

 しかし海外の多くの国々では、今も「清掃」は最下層の人間の仕事になっている。したがって例えばアメリカなどでは、子どもたちは知らず知らずのうちに学校でプエルトリコ人や黒人を差別することを学んでいる。だから逆に言えば、欧米や中東の子どもこそ清掃を学ぶ価値がある。

 清掃が卑しい者のする仕事だと思うなら、釈迦が修行に出る際、髪を下ろして布一枚で体を覆うなど当時の罪人の姿になって最下層から世の中を見たように、清掃をするところから世界を見直せばいいのだ。

 他にも日本の教育が世界を変えようとする気配はいくらでも見られる。

 例えば「運動会」も、発展途上国では国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員によって広められようとしている。

mainichi.jp


 また文部科学省は2016年から、日本式の教育の海外展開を計って「日本型教育の海外展開推進事業(EDU-Portニッポン)」を行っている。
 ここで日本式と考えられているのは、「学級会」「運動会」「部活動」「防災訓練」「制服」「給食」などである。

www.eduport.mext.go.jp
 動画では、例えばこれだ。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

定評のあるものを棄てて、未知のものを拾う】

 しかし、もうお気づきの方もおられるかと思うが、運動会や部活動などはいまや精選という名のもとに縮小もしくは削減されるべき対象である。清掃の時間も削られつつあり、中には週3回に減らしてあとは簡単にごみ拾いだけで済ませる学校も出てきた。

 もちろん日本の学校から給食がなくなることはない(明日から毎日お弁当ということになったら、日本中の母親から革命ののろしが上がるだろう)。しかし昼食時間後の自由時間が削減されることで、給食はわき目もふらずにさっさと食べるべきものになりつつある。時間が足りなくて残菜がたくさん出るようになればメニューも考えざるをえなくなるだろう。現在だって米飯やパンは既定の8割程度に押さえられているのだ。

 文化祭や修学旅行も今後、縮小ないしは廃止の方向にむかうかもしれない。腹立たしいことに削減の理由は「教師の働き方改革、多忙の解消」だ。

 人は忘れているかもしれないが、ここ20年あまりの間に「総合的な学習の時間」だの「キャリア教育」だの「小学校英語」だのと学校の負担は増え続けてきたのだ。つい最近も「プログラミング学習」が導入された。
 次は「人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成」だそうである(中央教育審議会「中間のまとめ」に盛り込まれる見通し)。
 授業以外についていえば「教員評価」だの「免許更新制」だのも新たに加わった負担である。

 それらあとから加わったものには手を付けず、古くからの定評ある清掃や運動会、部活などをなくしていく――それは「総合的な学習の時間」や「プログラミング学習」などと「清掃」や「運動会」を取り換えたということである。

 学力とは違って、清掃や運動会の教育的効果は科学的な証拠(エビデンス)が示せないからかもしれない。しかしそれを言うなら、小学生の時から英語を学べば国民の英語力が高まるかどうか、あるいは総合的な学習の時間を行えば考える力が高まるかどうかにだって科学的な証拠は示せないはずだ。
 早すぎる英語学習が英語嫌いを大量に生み出し、総合的な学習の時間の中でただ遊んで時を過ごしてしまう子が出てくることだって大いに考えられる。

 

【もう日本では日本人は育たない】

 私は運動会や清掃、学校給食には小学校英語やプログラミング学習をはるかに上回る教育的効果があると信じている。それこそまさに「日本人を育てる」「日本式教育」の核心なのだ。

 しかしそんな思いも、古い昔の教師の、愚かな懐古趣味として排斥されていくのだろう。

 世界が日本の真似をし始めるとき、本家の日本がそれを棄てようとするといた逆転は昔からあったことである。