キース・アウト

マスメディアはこう語った

中教審が中間のまとめで、また新たな教育をめざそうとするらしい。せっかくすばらしい教育システムを持っているというのに、城の上に城を継ぎ足す。


 中央教育審議会が近く中間のまとめを行うようだ。

 その中で従来の「日本型学校教育」を高く持ち上げながら、さらに高みを目指してSociety5.0(狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会に続く新たな社会)にふさわしい教育を開拓していくらしい。
 誇るべき「日本型学校教育」の、足元は崩れつつあるというのに。
という話。

f:id:kite-cafe:20200918175712j:plain(写真:フォトAC

 

記事


 「令和の日本型学校教育」とは? 中央教育審議会の中間まとめ案より

(2020.09.16 ベネッセ)

benesse.jp

幼稚園から高校までの「初等中等教育」の新しい在り方を検討している中央教育審議会が、2021年1月にも予定する答申に向けて、近く中間まとめを行います。小学校高学年に教科担任制を導入することや、高校の普通科に新学科を創設することなどが注目されていますが、目指すのは「令和の日本型学校教育」だといいます。どういうものなのでしょう。

「知・徳・体」は当たり前じゃない
中教審特別部会の中間まとめ案によると、明治以来の「日本型学校教育」とは、教師が学習指導だけでなく、生徒指導(生活指導)などの面でも、さまざまな場面を通じて、児童生徒の状況を総合的に把握して、指導を行うことで、子どもたちの知・徳・体を一体で育む学校教育のことです。一定の教育水準を保つ「平等性」の面だけでなく、全人教育などの面でも「諸外国から高く評価されている」としています。
そうした学校像は、日本では当たり前だと思いがちですが、文部科学省によると、国際的にはそうでもありません。諸外国の「スクール」では、先生の業務は、主に知育(教科等)に特化されており、徳育(道徳・特別活動等)は家庭や教会(宗教)で、体育(部活動等)は地域のスポーツクラブなどで行われることが一般的だといいます。学校中心の部活動も、日中韓に特有の現象です。
地域社会の中核にあるのも、日本の学校の特色です。

コロナ禍で存在感、一方で「同調圧力」も
20世紀に入ってから戦後にかけて、就学率が上がり、教育水準も向上していくにつれ、日本型教育が定着していったといいます。制度面だけでなく、とことん子どもに向き合って、全人格的な成長を促そうとしてきた、日本の先生方の努力も忘れてはなりません。
特に、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う最長3か月の臨時休校措置は、学校という存在の大きさを改めて浮き彫りにしました。学力を保障することはもとより、人と安全・安心につながれるという点で、福祉的な役割をも担っているのです。
一方、そんな学校が、子どもたちに「正解主義」や「同調圧力」を感じさせる場になってしまっていたことも否めません。

 「個別最適な」「協働的」学びへ
中教審では、日本型学校教育のよさを維持しながらも、学習意欲の低下やいじめ・不登校、先生の忙しさといった反省点を改善するとともに、人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成も必要だとしています。そこで、目指すべき学校の在り方を「多様な子供たちの資質・能力を育成するための、個別最適な学びと、社会とつながる協働的な学びの実現」としました。

 まとめ & 実践 TIPS
国内だけ見ていると、とかく日本の学校の悪い面だけに目を向けがちになります。しかし、ことわざにある通り、角をためて牛を殺すようなことがあってはなりません。
客観的な証拠(エビデンス)に基づき、日本型学校教育の「強み」と「弱み」は何かを公正に把握し、ポストコロナの「ニューノーマル」(新しい日常)にとっても必要な教育政策を立案することが、中教審に求められます。

 

 

【めったにない良質な記事】

 子どもを知・徳・体の三つの側面から総合的に育てようという日本の学校教育が世界的には非常にユニークなもので、「諸外国から高く評価されている」という点、いくら強調してもしきれない話である。
 また、
 制度面だけでなく、とことん子どもに向き合って、全人格的な成長を促そうとしてきた、日本の先生方の努力も忘れてはなりません。
という部分も、繰り返し強調されてしかるべきと思う。

 さらに、ここにはないが、運動会・体育祭、文化祭、音楽会、遠足、修学旅行、キャンプ、林間学校など、学校で行われる行事でもっとも意図されているのが道徳教育(協調・協働・役割・責任・労働・集団行動・礼儀・利他・郷土愛等々)で、それが体育や知育(教科教育)の上に乗っかっているだけなのだということも、繰り返し強調したいところだ。

 ひとつ文句は言ったものの、ベネッセのこの記事は教師の矜持を支える優れたものだと言える。
 語の本来の意味でも、通常の使い方でも「有難い」記事と思う。感謝したい。

 

【ベネッセ委が一緒になって、角を矯めて牛を殺す】

 ただし、その上で、
中教審では、日本型学校教育のよさを維持しながらも、学習意欲の低下やいじめ・不登校、先生の忙しさといった反省点を改善するとともに、人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成も必要だとしています。

などと何の問題性も指摘せず、シレっと書くのはいかがなものか。すでに学校が能力の限界でアップアップしているというのに、
先生の忙しさと言った反省点を改善するとともに
と改善策も示さずに書いただけで、
人工知能(AI)などSociety(ソサエティー)5.0と呼ばれる新たな時代に必要な力の育成も必要だ
と、多忙の上にさらなる仕事をかぶせる内容を非難しないのか。ジャーナリズムとしてはひとことここで、あってもよさそうなものではないか。

 さらに、
客観的な証拠(エビデンス)に基づき、日本型学校教育の「強み」と「弱み」は何かを公正に把握し
などと気楽に書くが、客観的に証拠を示せるのはせいぜい学力くらいのものだ。体育のような数値化できそうなものだって、体力や巧緻性など民族が違えば比べることはできない。ましてや、いいにせよ悪いにせよ、それが学校教育の結果かどうかなどといったことになると絶対に証明できない。

 日本の学校教育が常に低い評価しか与えられないのはそのためだ。
 OECDの学力調査などをもとに「学力低下」ばかり叫ばれ非難されるが、敢えて例えれば体操競技で全種目に挑戦させられながら評価は鉄棒の記録だけで測られているようなものだ。

 いやボクらは平行棒もやれば跳馬にだって挑戦していると言えば、いやそんなものは他の国ではやっていないから比べられないと応え、しかも鉄棒には専念させてもらえない、それが今の日本の学校の状況だ。日本の教育の体育や徳育を評価する動きは、少なくとも国内にはない。

 ベネッセの記事は多くの場合、現場に寄り添い、現場をよく見たうえで記事にしてくる。その点で好感が持てるのだが、抜けるときは抜ける。