(写真:NHK)
記事
特異な才能ある子どもに“多様な学びの場を” 有識者会議
(2022.07.25 NHK)
www3.nhk.or.jp
小学生で大学レベルの数学を理解するなど、特定の分野で特異な才能のある子どもが、学校生活で困難を抱えるケースがあるとして、文部科学省の有識者会議は、多様な学びの場を確保するといった支援策の素案を公表しました。
科学や言語、芸術など特定の分野で特異な才能のある子どもの中には、教科書をすべて理解していて、授業で時間を持て余したり、同級生との関係を作るのが難しかったりして、困難を抱えるケースがあるとされています。
文部科学省の有識者会議が25日公表した素案では、こうした子どもを支援するため、学校の教室に居づらい場合は、一時的に空き教室や図書室で過ごせるようにするなど、多様な学びの場の確保が考えられるとしたうえで、子どもの特性を理解するよう、教員や専門スタッフへの研修を国から促すべきだとしています。
また、学校外の学びの場も活用できるようにする必要があるとして、大学や民間団体など外部の機関が提供する学習プログラムについて、オンライン上で情報提供する仕組みを国が作るべきだと指摘しています。
有識者会議では、特異な才能の定義に一律の基準を設けることなく、一人ひとりに応じた教育の一環として、支援策を考えることが重要だとしていて、文部科学省は、こうした方針を受け、今後、予算確保に向けた検討を進めることにしています。
評
日曜日(24日)夜、NHKニュースでこの話題を扱っており、Webにアップしたら中身を確認してひとこと書こうと思っていたが、当日、NHKはおろかどこのメディアも扱っていなかった。
月曜日、さらに手を広げると6月の上旬にnippon.com「突出した才能の子に学習支援=授業中の苦痛や孤立解消―文科省」
などでこの件に関する記事があり、大枠で新鮮味のない内容であることが分かった。ではNHKは何をいまさら引き出してきたのか。
【誰が支援を担当するのか】
実は6月のnippon.comの記事「特異な才能ある子どもに“多様な学びの場を”」に書かれていた支援の方法は、
「特定の教科だけ別室で高度なオンライン教育を行ったり、大学やNPOなどで指導を受けられるようにしたりすること」(nippon.com)
であったのに対し、今回は、
「学校の教室に居づらい場合は、一時的に空き教室や図書室で過ごせるようにするなど、多様な学びの場の確保が考えられるとしたうえで」
と学習の場が現存の学校であることとされ、さらに、
「子どもの特性を理解するよう、教員や専門スタッフへの研修を国から促すべきだ」
と、指導の主体が学校の教師であることを明らかになったのである。だからNHKは改めて取り上げたのだ。つまりしごとは増やすが教員や専門スタッフ(誰のことかわからないが)の増員はないということだ。
【昭和の節度は失われた】
かつて「学校は民間の知恵を学べ」と繰り返し言われたが、少しでも気の利いた企業なら新しいプロジェクトを立ち上げるために、人員を雇い増すなりあちこちの部署から臨時に引き抜いて期限付きのチームをつくるなりするはずだ。それができなければプロジェクト自体を諦める。事業を持続可能なものに留め、人材を失わないためにはそうするしかない。
しかし学校は違う。定数法と加配予算によって人員は厳しく制限されているのに、仕事は増やす一方で、事業の成否も組織の存続にも、まったく頓着する様子がない。
総合的な学習の時間もキャリア教育もICT教育もプログラミングも小学校英語も、すべて人を増やすことなく、担任教師に背負わされた。小学校1・2年生の生活科を創設するために社会科と理科をなくした昭和の節度は、平成以降まったく失われてしまったのだ。
【小さなことの積み重ねが岩盤をくり抜く】
こういう話になると教育委員会はバカか、文科省は何も分かっていないという話になるが、私はそう思わない。
両者ともSNSやネットメディアに疎いワケではない。それらを通して自分たちがどれだけバカ者扱いされているか百も承知している。それでいながら教員の仕事を増やさざるを得ないのは、そこに別の力が働いているからだ。文科省や教育委員会を動かして自分の夢を実現しようとする輩がいる。
確かに、
科学や言語、芸術など特定の分野で特異な才能のある子どもの中には、教科書をすべて理解していて、授業で時間を持て余したり、同級生との関係を作るのが難しかったりして、困難を抱えるケースがある
そういう児童・生徒はいる。古くはレオナルド・ダ・ビンチやモーツァルト、新しいところならビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、イーロン・マスク。そういった特異な才能のタマゴが国内で埋もれているとしたら実にもったいない。
また、協調性が重要視される日本社会・日本の学校では、特異な子どもたちはいじめの標的や不登校になりやすい。
したがって彼らが自由にのびのびと成長できる特別な支援はぜひとも必要だし、そのためのコスト=教員や専門スタッフの研修も、専門家を養成するわけではないからたいしたものではないだろう。
これはいつもの学校の在り方である。
新事業のコストのひとつひとつはたいしたことはない。しかし「涓滴(けんてき)岩を穿つ」――、その「たいしたことのないひとつひとつ」の30年の累積が、いま、「日本的学校教育」という世界に誇る岩盤に、穴を開けようとしているのだ。
もはや学校も市町村教委も都道府県教委も、そして文部科学省もこれを押しとどめることはできない。