卒業式の保護者謝辞をなくせというのは、子どもに「感謝の気持ちなど持たなくていい、自分はひとりで育ってきたのだと教えろ」と言うに等しい

 卒業式の次第に「保護者謝辞」があるのはおかしいという意見がある。
 学校が自ら、「自分たちに感謝しろ」というのはおこがましいというのだ。
 そうではない。
 学校を通して、子どもを支えてくれた社会に感謝の気持ちを伝える、
 親のその姿を見て、子どもも社会に対する感謝の気持ちを育む、
 それが「謝辞」だ。

という話。

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記事

 【卒業式】学校に「いらない」と言われても“謝辞”を続ける保護者の不思議
(2020.03.14 Yahooニュース)


 引き受け手がいないのならと、学校側が謝辞をなくす提案をしても…

 全国で一斉休校の措置がとられるなか、卒業式も縮小、短縮されています。
 「来賓を呼ばない」「在校生は参加しない」といった参加者絞り込みのほか、「祝電披露(読み上げ)をやめ、代わりにプリントを掲示する」「PTA会長の挨拶をやめ、文書で配布 or メールで配信する」「保護者代表の謝辞をやめる」など、ご挨拶系の省略をよく耳にします。

 がっかりする人もいるのかもしれませんが、多くの出席者、特に式の主役である子どもたちにとっては、ありがたいことかもしれません。卒業式は、証書の授与だけでそれなりに時間がかかりますし(児童生徒数が多い学校はかなり長くなります)、この時期の体育館はよく冷えます。「もう少し時間を短くできないものか」と感じてきた人は、大人でも少なくないでしょう。

 今年は新型コロナウイルスの影響で縮小されましたが、逆に考えると、なぜこれまで卒業式は短縮できなかったのでしょう。複数の原因があると思いますが、来賓や保護者への遠慮や気遣いもあったと考えられます。学校行事ですから、式が長くなるのは学校都合に見えますが、じつはそうではない面も一部にはあるのです。

 筆者も以前、PTAのクラス役員が決まらない最大原因だった「卒業式のときの、6年保護者代表の謝辞」という慣習をなくしたのですが、このとき驚いたのは「謝辞をなくすことに反対してきたのは、当の保護者だった」という事実です。

 その小学校では毎年、6年の学年長が卒業式の際に「お着物で謝辞を読み上げる」という風習があり(PTA会長の挨拶はまた別にある)、そのために毎年6年学年長が決まらず、揉めていました。母親たちは「前に出て挨拶する役」を嫌がることが、とても多いのです(しかもお着物)。

 この年は私が6年学年長になり、洋服で謝辞を読むつもりでした。ですが、あるとき数名の保護者から「毎年、あれ(謝辞)のせいで役員決めが揉めるんだから、なくしたほうがいいよ」と言われ、「なるほど、そうだな」と根回しを始めた矢先、意外な事実を知りました。

 学校は以前から保護者に対し、謝辞をなくすことを打診していたのに、保護者のほうが断っていたというのです。「謝辞を言いたい保護者」がいないのに、「誰かに謝辞を言わせたい保護者」の声が優先されていたわけです。

 しかし、そもそも謝辞は学校へのお礼の言葉です。学校側が「不要(なしでお願いね)」と言っているのに、それをつっぱねてまで謝辞を言うのは、本当に感謝の気持ちなのか? よくわからなくなります。この年、やはり謝辞はやめることにしました。

 こんなケースは珍しいかと思ったのですが、その後たまに似たような話を聞きます。先日も、ある学校で同様の話(引き受け手のない挨拶の省略を打診された保護者側が拒絶)があったと聞いたのですが、ついに今年は、新型コロナウイルスの影響から省略することになったそうです。

 学校には、保護者や来賓(地域住民)の反発を恐れて変えられないこと、やめられないことが、じつはいろいろあるのですが、「震災などを機にようやくやめることができた」という話は、先生たちから割合よく聞きます。

 この春は新型コロナウイルスの流行で各方面に大変深刻な影響が出ていますが、意外なところで合理化を進める効果も生じています。使えるところは使っていってはどうでしょうか。
( 大塚玲子  | ライター、編集者、ジャーナリスト)

 

 大塚玲子はPTA活動の過剰・強制性を批判し、規模縮小、脱会の自由化などを訴えてYahooニュースにしばしば登場してくる人物ある。これだけ頻繁に扱われるのは、やはり一定のニーズがあるからだろう。大塚はこれで糊口を凌いでいる。

 しかし卒業式の短縮を、
特に式の主役である子どもたちにとっては、ありがたいことかもしれません。
と書いた時点でこの人は終わりだ。何もわかっていない。
 卒業式で中心になるのは子どもではない。百歩譲って「子どもが主役」であるにしても、そのまま演劇になぞらえるなら、学校が監督で、市町村教委はプロデューサー、市民が観衆として存在することを理解していない。

【卒業式は「子どもの卒業を祝う会」ではない】

 きちんと説明するなら、卒業式は子どもに「6年間(3年間)よく頑張りました。よかったね。おめでとう」と言うためのものではない。
 正しくは「卒業証書授与式」と言い、設置者――公立小中学校なら市町村、私学の場合は学校法人――が校長を通じて、児童生徒に卒業証書を「授与する」日なのである。あくまでも上から目線の儀式なのだ。

 さらに何のための式かと言えば、税金あるいは学費を納めてくださった納税者及び保護者に対して「学校はここまで子どもを育てました。市町村教委、理事会はこの子たちを卒業させてもかまわないと認めます。どうぞご覧ください」とお披露目するための式なのだ。
 したがって入学式なら来賓の側にいる教育委員会代表や理事長は、証書授与式では学校側の、しかも校長より上席に座って主催者であることを示している。

【子どもは、自分を育ててくれた社会に感謝すべきだ】

 そう考えると、保護者が納税者・教育員会・理事会・教員に謝辞を述べるのは当然だという考え方が出てくる。少なくともこの機会に学校に感謝の気持ちを伝えたい、お礼を言いたいという保護者が存在することは理解できなくてはいけない。
 学校側が「不要(なしでお願いね)」と言っているのに、それをつっぱねてまで謝辞を言うのは、本当に感謝の気持ちなのか? よくわからなくなります。
 というのは、やはりこの仕組みが分かっていないからであり、学校教育は政府の義務なのだから(金銭ばかりでなく、精神的に肉体的エネルギーについても)無償であるのは当然だと考える消費者根性しかない人間の言いぐさである。謝辞をなくそうという学校側も、社会におもねる間違った態度と言える。

 子どもは、自分一人で、あるいは親と自分だけで育ってくるものではない—そのことを、卒業式の日くらいは意識しなくてはならないと思う。

 社会に対する意識の薄い子どもの前で、親が社会や学校に対して感謝の言葉を述べる姿を見せるのは重要なことだ。その姿を見て、子どもたちは社会や教育委員会・理事会、学校の先生方、そして保護者――、そうした人々のおかげで自分はここまでくることができたと意識できるのだ。

【一部、妥協しよう】

 ちなみに卒業式の長いことに毎年うんざりしている人間というのは案外少ない。
 保護者は毎年来るわけではないし、教員はそれぞれ仕事があるからうんざりしている暇はない。来賓の中には退屈な人もいるかもしれないが、いやなら来なければいい。
 卒業生がうんざりとしているとしたら、それは指導不足だ。

 かわいそうなのは“在校生”たちで、呼びかけの時間以外はほとんど添え物状態である。その状況が許せないというなら、まあ、今後も在校生抜きでやるというのも一案かもしれない。
 その程度なら、私も譲歩していい。