キース・アウト

マスメディアはこう語った

世の中の人たちは本気で、どんな服装をしていてもどんな髪型をしていても、子どもたちは苦しい勉強に耐えて立派な大人になれると信じているのだろうか? 大人たちの多くが、スーツやユニフォームで身を固め、身だしなみに気を遣わないと社会でうまく動いていけないと感じているというのに、子どもたちにはそんな優れた力があると信じられるのはなぜだろう?

f:id:kite-cafe:20220309114626j:plain(写真:フォトAC)

 

記事

 

「身だしなみ校則は人権侵害」 父親の弁護士が民事調停を申し立て
朝日新聞 2022.03.08)

www.asahi.com 子どもが進学を検討した公立中学の校則が生徒の人権を過剰に侵害しているとして、大分市内の父親が民事調停を申し立てた。制服や髪形といった身だしなみに関する規定を問題視し、親が子どもに校則を守らせる義務がないことの確認を市と学校に求めている。

 2月10日付で大分簡裁に申し立てた。

 父親は大分市に住む弁護士(61)で、小6の長男の進学先として、自宅最寄りの市立中を考えた。この中学の校則は、制服を男女別2種類と定めた上で、髪形は「後ろは襟にかからない」、靴下は「くるぶしソックスは不可」、通学靴は「白のひもつきの運動靴」と、細かく規定していた。

 女子生徒の髪形は、「襟にか…

 

 有料記事のため続きの部分は読めないが、弁護士でもある父親は息子の進学先の校則を見て、
「どのような身だしなみをするかは基本的に自由。権利を軽視している」と感じた
そうである。さらに、
 昨年2月に制服が義務かどうかを学校に確認。学校から「強制できないが指導する」と返答があった。
とのことだ。
 たしかに、
髪形は「後ろは襟にかからない」、靴下は「くるぶしソックスは不可」、通学靴は「白のひもつきの運動靴」
を合理的に説明することは難しい。しかしこういう問いかけはどうだろう?
 葬式に喪服で出かけ、結婚式に式服で出かけ、就職の面接にリクルートスーツで出かけることに、合理的な説明はできるか。全員が同じ作業服を着ている工場やレストランの従業員に、「どのような身だしなみをするかは基本的に自由」という論理は通用するのか。学校は学びの場であって、だからこそそこには尊重すべき身だしなみがあると考えることに、なんの不都合があるのか――。

 実は学校が本当に禁止したいのは、右のような服装であり、髪型なのだ。教師たちはこんな服装をされては他の子どもたちが委縮して正常な学校生活ができないと感じている。また異形の本人も、こんな姿ではまともな勉強はできないと思っているのだ。
 とりあえず学校の体育でマット運動はできないだろう。水泳もダメ、バスケットボールだってやってくれるか分からない。あるいはこの扮装をつくり上げるために毎日かかる時間を考えると、どこに苦しい勉学を続ける要素があるというのか。そもそもこの姿で、毎日学校と家庭を往復するだけの生活に耐えられるだろうか。
 保護者や地域の人々は、こんな格好の生徒が跋扈していても、だれも学校に頼ったり苦情を入れたりせず、温かい目で見守ってくれるだろうか。
 本来アカデミズムの上に成り立っている学校で、この風体は勉学をするにふさわしいものだろうか。

 こう言うと必ず出てくるのが、「そういうとんでもない子だけを取り締まればいい」という差別化の論理だ。ちょうど「マスクは全員がするのはバカらしい。ウイルスに感染している人だけがやればいい」という非現実論と同じだ。
 だとしたら再び問おう。その線引きをするのは誰で、規制をするのは誰なのかと。
 毎日、ものさしを持って校門の前で、生徒の髪の伸ばし具合や服の袖丈を測り、怒鳴り合い、必要なら別室指導を一日中続ける、そうした業務も教師の仕事だというなら、それはそれで別の問題として考えよう。