キース・アウト

マスメディアはこう語った

日本の子どもは精神的に世界で最も不幸だと言われて、違和感を持たないとしたら、それはやはり異常だ

 ユニセフによる子どもの幸福度調査で、日本の子どもは体の健康の分野では1位となったものの、精神的な幸福度は37位だという(総合20位)。
 だが、こと子どもや教育について「日本はダメだ」とか「最低レベルだ」といった話が出たら、眉に唾をつけて身構えなくてはならない。
 そこには必ず虚偽か、過誤か、悪意があるからだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20200904194609j:plain(「秋の公園で遊ぶ3人の子供たち」フォトACより)

 

記事

子どもの幸福度 日本は先進国など38か国中20位 ユニセフ調査

(2020.09.03 NHK)

www3.nhk.or.jp

子どもの幸福度をはかるユニセフ=国連児童基金の調査で、日本は先進国や新興国など38か国中、20位でした。体の健康の分野では1位となる一方、精神的な幸福度は37位となっています。

ユニセフは日本を含む先進国や新興国など38か国を対象に各国のさまざまなデータをもとに子どもの幸福度をはかる調査を7年ぶりに実施し、3日、その結果を発表しました。

それによりますと、1位がオランダ、2位はデンマーク、3位はノルウェー、そしてスイス、フィンランドと上位をヨーロッパの国が占め、日本は20位となっています。

調査では体の健康と精神的な幸福度、学問などの能力の3分野でそれぞれ順位をつけていて、日本は子どもの肥満の割合や死亡率などから算出した「身体的健康」の分野では1位でした。

一方で学問などの能力をはかる「スキル」では、学問的な習熟度は高いものの社会的な適応力で上位の国におとり、27位でした。

そして「精神的幸福度」では、15歳時点での生活の満足度の調査結果や若者の自殺率などから算出した結果として37位となりました。

今回の調査は新型コロナウイルスの感染拡大前に実施されたということで、報告書を執筆したユニセフ・イノチェンティ研究所のアナ・グロマダさんは「新型コロナウイルスの子どもたちへの影響は大きく、子どものメンタルヘルスは健康問題の一部として積極的に対策に取り組むべきだ」として、感染拡大を受けて一層の対策が求められると指摘しました。

子どもの幸福度の調査は7年前の2013年に31か国を対象に今回とは異なるデータももとにして実施されていますが、この時は日本は全体で6位でした。

 

【子どもの幸福度調査の曖昧さ】

 どこの国であっても自分の祖国が「ダメだ」「失格だ」と言われるのは辛い。ましてやGDP世界第三位、G7の一角を担い第二次大戦後最大の奇跡と言われた経済復興を果たした我が国が、子どもの幸福度38カ国中20位、精神的な幸福度は37位と言われれば傷つく。
 プチパニックに陥って、
「すごく衝撃的な数字になっています。このパラドックス(逆説)は何を意味するのでしょうか?」

とか
「最大の要因は日本の学校における『いじめ地獄』です」

2020.09.03 東スポ『尾木ママ「すごく衝撃的」 ユニセフ発表「子どもの幸福度」日本の数字にア然』
などと騒ぎ出す人が出てきても不思議はない。
 しかし暴れる前に、何が本当かを確かめることも必要だろう。

 尾木ママユニセフの調査報告書を見たのだろうか? NHKの記者もきちんと内容を吟味したのだろか? 英文だからといって忌避しなかったろうか?

www.unicef-irc.org
 しかし私は見た。

 もちろんGoogle翻訳先生と首っききで、しかも要点らしき部分だけだが、それでも分かったことは多い。
 例えば記事を読んだだけではサラッと通り過ぎて引っ掛からないような部分、
ユニセフは日本を含む先進国や新興国など38か国を対象に各国のさまざまなデータをもとに子どもの幸福度をはかる調査を7年ぶりに実施し、3日、その結果を発表しました」
 ここに重大な問題がある。
 調査はユニセフの独自の指標で行ったのではなく、各国のさまざまなデータをもとにやったのだ。

 だから、おそらく見合うデータのなかった「家族関係の質に応じた15歳の感情的幸福」とか「家族、友人、またはサービス提供会社等からサポートを求めることができる親の割合」とか「教育、雇用、または訓練を受けていない15〜19歳のすべての若者の割合」とかいった項目に日本の名前はないし、載っている項目についても内容や意味に微妙な違いがあるのかもしれない。

「15〜19歳の青少年10万人当たりの自殺率」だとか「方移住または肥満であった5〜19歳の若者の割合」とか、あるいは「2007~2019までの平均失業率」とかはどこの国でも調べていそうな内容で、もちろん日本の名前もある。

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 ちなみにNHKの記事に、
『「精神的幸福度」では、15歳児点での生活の満足度の調査結果や若者の自殺率などから算出した結果として37位となりました』
とあるので“日本の若年層の自殺率はそんなに高いのか”と驚かれた方もいるかもしれないがさほどではない。15〜19歳の青少年10万人当たりの自殺率は7.5人で41カ国中30位。下から数えて12番目で、ざっと見、下から三分の一くらいである。
 決して誉められた値ではないが、「精神的幸福度」を38カ国中37位にまで押し下げる力はないだろう。

 

 

【幸福度とは満足度のことか?】

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  問題は「生活の満足度」だ。
 質問の形は「生活の満足度が高い15歳の子どもの割合」で、日本はわずか62%で33カ国中32位。オランダの90%、メキシコの86%などと比べるとかなり見劣りがする。

 しかし考えてみてほしい。
「生活の満足度が幸福度と同じである」という考え方自体に歪みはないか。満足と幸福がイコールなら、日本人は決して幸福になれない。

 日本の子どもが最初に教えられるのは「我慢」だ。
「人がたくさんいるところでは大声を出してはいけません」
「列にはきちんと並ぶものです」
「欲しくても商品にやたら手を出すものではありません」
「風邪を引いたら人様にうつさないようにマスクはするものです」
「弱い人は助けなさい」
「自分の出したごみは自分で持ち帰るものです」
「どんなに楽しいことでも、人の嫌がることはしてはいけません」
「やたらでしゃばるのではなく、黙って自分の責任を果たしなさい」
「お金があるからと言って何でも欲しがってはいけません」
「見せびらかすのは下品な人のすることです」
「自分のために勉強をしなさい」
「時間を守りなさい」
「約束は絶対です」
「いつも自分のことは後回しにして、他人のために譲りなさい」
――常に我慢を強いられ、我慢が期待される日本社会で、「満足」を求められても難しいだろう。だからと言って日本の子どもが不幸せなわけでもない。

 私は昨年、4歳になったばかりの孫と一緒に池袋の「プラレール博」に行ったが、驚いたことに同じ年頃の数百人もの子どもたちが、1時間を越える待ち時間を大騒ぎしたり走り回ったりすることなく、おとなしく待っていられるのだ。
 その先に、人数が制限されて、安全に、十分に楽しめる世界が待っている。

 何かを手に入れるためには別の何かを諦めなければならない――そう教えられて育つ子どもたちは、結局しあわせになるに違いない。

 しかしそもそも「満足度」といった主観的なものを比べることに、何の意味があるのか。

 

 

ユニセフの社会的スキル、日本人の社会的スキル】

 ところで、
「学問的な習熟度は高いものの社会的な適応力で上位の国におとり、27位でした」
 これはどうか?

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 ユニセフが社会的適応力を判断した基準は「友だちを簡単につくれる15歳の子どもの割合(Percentage of children aged 15 years who make friends easily)」である。
 日本の15歳は69%でこれも下から2番目。日本より下にはチリしかいない。

 しかしこれはむしろ “よく69%もいたものだ”と感心すべきことではないか。「誰とでもすぐに友だちになれる能力」は、日本では”才能あつかい“されていると私は思っている。また、見知らぬ人にすうっと近づいて話しかけるような子を見ると、不安になったものだ。私自身が「友だちを簡単につくれる」ような人間ではないからかもしれない。

 しかしそうなると還暦をとうにすぎた私自身が「社会的適応力(スキル)に欠ける人間」ということになる。
 そうだろうか? 私はそんなにダメなやつなのか?
 このあたりにもこの調査の怪しいところがある。

 ユニセフの子どもの幸福度調査――しばらくは評判になるだろうが、さして重要視すべきものではないだろう。

 

学校がうまくいっているとき、その手柄をひとりの人間に帰して報道するのはやめてもらいたい。それが金八先生でもヤンキー先生でも、泣き虫先生でもエリート校長であったにしても。

新聞に大阪市の小学校の優れた実践が紹介されていた。
校内暴力に荒れていた小学校を、わずか7年で立て直し、
学力も大いに上げた校長がいるという。ホンマかいな?
手柄を独り占めにしたような報道に、校長自身、戸惑いはしなかったろうか?
という話。

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 (「桜の木の下で手をつないで登校する小学校高学年生と小学1年生」フォトACより)

 

記事

 小学校から暴力消え、学力上がった「生きる教育」の二本柱
(2020.08.25 産経新聞

www.sankei.com かつて教員の指導に児童が反抗し、暴力行為が多発していた大阪市の小学校で作成された、独自の教育プログラム「生きる教育」に注目が集まっている。自分の思いを言葉にし、伝える力を磨いていくことを目的としたこのプログラムのポイントは、国語力の向上と、命や体の大切さを伝える性教育。これによって校内暴力はやみ、落ち着いた学習環境となったことで、児童の学力も徐々に向上をみせているという。(小川原咲)


「思い伝える子供を」
 「何かあったら、手が出てしまう児童が多かった」

 平成23年に大阪市立生野南小学校に教頭として着任した木村幹彦校長は当時をこう振り返る。
 このままではいけない-。危機感を感じ、教師らと話し合いを重ねた結果、浮かび上がったのは、言葉で自分の思いを伝えられず問題行動に走る児童らの姿だった。

 「自分の思いを伝えることができる子供を育てるのがまずは必要」。そう考えた木村さんは26年度から当時の校長や教員らと研究を開始。独自の「生きる教育」のプログラムを作り上げた。

 その柱は「国語教育」と「性教育」だ。

 国語教育は、小学1年で「正しく読む能力」、小学3年で「読んで感想を伝え合う能力」など、学年ごとの発達段階に合わせて狙いを設定。高学年にはディベートも取り入れ、他者の気持ちをくむことや、自分の思いを言葉で伝えることを実践する場面を多く取り入れた。
 性教育で教えたのは、自分の体を大切にすることや、他者への思いやり、適切な距離感という。

 例えば、小学1年の授業では、水着を着た男の子と女の子のイラストを使用。教師が水着で隠れている部分を「プライベートゾーン」とし、勝手に見せたり、触らせたりせず大事にすることや、他人の体も勝手に見たり、触ったりしないよう伝えた。

 このほか、低学年では、プログラムの趣旨に賛同してくれた家族に連れてきてもらった赤ちゃんとのふれあいを通じ、命のつながりやあたたかさを感じてもらうプログラムも。中学年や高学年になると、将来の職業選択につながる職業観を養ったり、恋愛、結婚を考えたりする授業もある。

今後の広がりも

 同校によると、こうしたプログラムを6年間続けた結果、26年度に31件あった校内暴力は、令和元年度には0件となり、全国学力調査の国語の平均正答率は同年度、初めて全国平均を上回った。

 昨年、学校が全児童に行ったアンケートでは、「授業が分かりやすい」「友達と仲良く過ごすことができている」と答えた割合が9割に上った。同校の小野太恵子教諭は「善悪の判断や自分の思いを伝えあうことを学んだことで、心が安定して暴力がなくなり、落ち着いて授業を受けられる環境ができたのでは」と分析する。

 また、プログラムで取り組んできた内容を研修会や公開授業で紹介したところ、保護者や市内外の多くの教師が見学に訪れるようになった。今年度は他校の教諭を含む約20人で研究グループを結成。行ってきた教育をまとめ、将来的には市内の小中学校で指導の参考にできる授業モデルの確立を目指すという。

 大阪市教委の担当者は同校の取り組みについて「保護者や地域の人にも授業内容を積極的に公開していることが評価できる」と評価。「『自分の子供には性教育はまだ早い』と考える保護者もいるが、教育の必要性をきちんと学校が伝えているので、取り組みがスムーズに進んでいる。こうしたところは他校も参考にしてもらいたい」と話している。

 

  一般にマスコミ関係者が学校の授業を見るとしたら、保護者として自分の子どものクラスを見るか、公開授業研究会に参加してそこで授業に触れるかの二つに一つぐらいだろう。もちろん授業を見たいと言えば、いつ何時でも見せてもらえるとは思うが、いきなり行って授業の目論見や質を感じ取るいのは普段の授業参観同様むずかしいだろう。
 その点、公開授業研究会では冊子も出るし、授業の説明もあればあとの研究会で質問もできる。さらに重ねて聞きたいことがあれば、続けて職員室に質問に行けばいいだけのことである。

 テレビのニュースを見たり新聞を読んだりしていると、ときおり授業の場面が出てきて記者が詳しく説明したりするが、たいていはそうした公開研究授業に参加してのことである。教師たちが渾身の力を込めて作り上げた授業だから、たいていはうまくいき、参観者をうならせることも多い。
 しかしいつでもそんな質の高い授業が行われているわけはなく、それはいわば教師たちが集団で作り上げた「めざすべき目標」「あるべき授業の理想形」なのである。もちろんやることに意味はある。

 ただしここで気に入らないのは、大阪市立生野南小学校の優れた取り組みが、いかにも一人の優秀な教師によって成し遂げられたかのように書く記事のありかただ。

「何かあったら、手が出てしまう児童が多かった」
 平成23年に大阪市立生野南小学校に教頭として着任した木村幹彦校長は当時をこう振り返る。
 このままではいけない-。危機感を感じ、教師らと話し合いを重ねた結果、浮かび上がったのは、言葉で自分の思いを伝えられず問題行動に走る児童らの姿だった。

 もうすでこの段階でドラマだ。

「自分の思いを伝えることができる子供を育てるのがまずは必要」。そう考えた木村さんは26年度から当時の校長や教員らと研究を開始。独自の「生きる教育」のプログラムを作り上げた。

 そうか「木村さん」が独自のプログラムをつくり上げたのか。
 その結果、
26年度に31件あった校内暴力は、令和元年度には0件となり、全国学力調査の国語の平均正答率は同年度、初めて全国平均を上回った。
 昨年、学校が全児童に行ったアンケートでは、「授業が分かりやすい」「友達と仲良く過ごすことができている」と答えた割合が9割に上った。

 すべて「木村さん」の手柄である。

 教師は頑迷で学校は硬直している。そこへひとりの優秀な教師が飛び込んできて、不良たちを更生させ、ひとりで学校を立て直す――。
 むかしからマスコミが大好きなストーリーだ。
金八先生」も「スクール・ウォーズ」も「ヤンキー先生」も、最近では「3年A組 今から皆さんは、人質です」もみな同じだ。正しいに人間は一人しかいない。

 ドラマではない現実の学校を扱うニュースでは、さすがに一介のヒラ教師が学校を変えるという設定は現実的ではないので、管理職がその「正しい一人」あてられることが多い。
 かくして一人のカリスマ校長が出現して、荒れた学校を数年で立て直す物語が続出するわけだ。

 大阪市立生野南小学校のサイトに行ってみると、この学校の先生たちがいかに誠実な教育活動を続けてきたかが分かる。それは生野南小学校の伝統であって、平成23年に赴任してきた木村教頭が26年から研究を始めたからうまくいったというようなものではないはずだ。

 今日の教育を讃えるために7年前は荒れていたとするのは、当時の校長や職員、児童たちに失礼だ。荒れていたのが事実としたら、23年に赴任してきて3年間も様子を見ていた木村校長(当時は教頭)も非難されなければならない。しかしそんなことはないだろう。おそらく、木村校長も普通に立派な校長先生に違いないからだ。

 国語教育と性教育を二本柱とする実践も、大阪市教育センターの「がんばる先生支援事業」に応募してのことであり、決して校長ひとりに手柄に帰していいものではない。
 それなのにこんな書き方をされては、木村校長に気の毒である。

 手柄を独り占めしたかのような報道に、職員の中で浮き上がらなければいいのだが――そう考えるのは私のひねくれた根性のためばかりではないと思う。

 

小学校5,6年生が教科担任制になるかもしれないといっても、教師にとって何もいいことはないのかもしれない

 中央教育審議会が小学校5,6年生を教科担任制にしようと言い出した。
 悪いことではない。
 しかし新たに専門の先生が来てくれるなどと、ゆめゆめ期待してはいけない。
 文科省が正規に教員を増やすなんて、今まで一度もしたことがないのだから。
という話。

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記事

小学5、6年に教科担任制案 22年度から 授業の質向上など狙う 中教審
(2020.08.20 毎日新聞

mainichi.jp 小中学校や高校の教育のあり方を検討している中央教育審議会の特別部会は20日、2022年度から小学5、6年生で「教科担任制」を導入する案を示した。専門性の高い教員が教えることで授業の質を高めることに加え、教員の負担軽減につなげる狙いもある。対象の教科として、小学5、6年で20年度から正式教科になった英語のほか理科と算数を例示した。

 教科担任制は特定の教科を専門に担当する教員が複数の学級で教える仕組みで、中学校や高校で導入されている。一方、小学校では教員免許が教科ごとに分かれていないこともあり、担任教員が自分のクラスのほとんどの教科を受け持つ「学級担任制」が主流だ。

 20日に示された案は、小学校高学年で学習内容が難しくなることを踏まえ、「中学校への円滑な接続を図ることが求められる」と指摘。「教科指導の専門性を持った教師によるきめ細かな指導を可能とする教科担任制により、学習内容の定着度の向上と学びの高度化を図ることが重要」と教科担任制の導入を求めた。導入すれば1人の教員が担当する授業時数が減り、教員の負担軽減につながることもメリットに挙げた。

 導入に向けては人材の確保が課題となる。特別部会は、教員を目指す学生が小中学校の両方の免許を取得しやすくしたり、現職の中学教員が小学校の免許を取りやすくしたりする制度改正を求めた。「必要な教員定数の確保に向けた検討の具体化を図る必要がある」と定数改善の必要性にも言及した。【大久保昂】

 

 一般の人で教職員配置表を見たことのある人は少ないだろう。学校の規模に応じて、先生を何人置くかという基準を示した表である。

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学級編制及び教職員定数に関する資料 - 文部科学省より)

  パッと見、すぐに首を傾げるのは0.75とか0.5といった表記である。これは教師の「首から下だけ」とか「左半分」といった意味ではなく、4校で3人、2校で1人といったことである。
 “4校あるいは2校で掛け持ちにしろ”という意味にも取れるが、近くに同じ規模の学校が4校も揃うなどそうあることではない。0.75や0.5は「政府はその値に応じたお金を出しますよ」という、その程度の意味だ。

 公立小中学校の教員給与は都道府県が出すことになっている。しかしその三分の一は国庫が負担するため国は基準を示す必要がある。それがこの配置表で、都道府県教委はこれに従って独自の配置表を作ることになる。もちろんその際0.75や0.5は整数に置き換えられなくてはならないのだが、やれることは小数点以下の部分を自腹で補うことくらいだ。
 一般論で言えば3学級の小学校の「担任外0.75」には都道府県費で0.25補い、「1」として教頭をおくことになる。他も同様である。もちろん地域の状況次第で2校兼務ということもあれば、予算潤沢な自治体ではもっと増やすこともある。都道府県あるいは市町村が自腹で教職員を増やすことについては、文科省はまったく寛容なのである。
 さて、そこで上の記事だ。

 過去の経験から、私は文科省がこの配置表を容易に動かさないことを知っている。背後にあるのは教職員定数法(正式には「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」)で、これを動かして増員したりするととんでもなく予算がかかるうえ、それが未来永劫続くと分かっているからである。

 上の記事で、
「必要な教員定数の確保に向けた検討の具体化を図る必要がある」と定数改善の必要性にも言及した。
中教審が「言及」に留めたのは、「言ってもしょうがない」と承知しているからである。どう叫んでも文科省が教員の数を増やすことはない。

 では定数法もいじらずにどうやって算数や英語の専門教師を増やそうというのか――。
 そのヒントは記事の中にある。

 特別部会は、教員を目指す学生が小中学校の両方の免許を取得しやすくしたり、
 現職の中学教員が小学校の免許を取りやすくしたりする制度改正を求めた。

 つまり小学校の免許と同時に数学や理科・英語の免許をもった教諭を大量に入れて、相互に授業を交換しあえばいいというわけだ。数学の免許をもった先生は、自分のクラスが理科の時間になったらその先生のクラスに行って算数を教える。英語も何とか組み入れよう。そうすれば、
 専門性の高い教員が教えることで授業の質を高めること
になる、そういう理屈だ。
 しかしそれで、
 教員の負担軽減につなげる
 ことになるのか――。
 もちろん、なる。数学の免許をもつ先生は慣れない理科を教える負担を免れるからだ――たぶん、そういうことだろう。実際にはちっとも楽にならないのに。

 政府が「小中学校の各校に一人の司書教諭を配置する」と決めたあと、国語を専門とする教師の多くが司書教諭の免許を取らされ、採用試験でも司書教諭免許を持つ受験生が有利と言われるようになった。
 「各校に自律支援コーディネーターを配置する」と決めたときも、特別支援教育の免許を持つ教員、副校長や教頭、生徒指導担当あたりが講習会に行かされ、薄っぺらな受講証明書をもらって帰ってきた。私もその口だが、校長に頼まれて受講したばかりに仕事が増えて困った。

 文科省が政治家に突っつかれてやることなんてそんなものだ。
 何が、教員の負担軽減につなげるだ。

 1週間あたりの算数と理科と英語の時数は違うから、これをうまく組み合わせるのは容易ではない。地方自治体ごとに予算や教育に関する考え方は異なるから、そこは都道府県教委や市町村教委にしっかりと考えてやってもらうしかない――と逃げてお鉢が教育委員会に回ってくる。
 あとはよろしくと言われても、そんな難しいやりくりはうまくいきっこないから、自治体は泣く泣く自腹で算数や理科の講師を雇ってくれるかもしれない。
 私たちはそれに期待しよう。文科省の本音もそこにあるのかもしれないのだから。

 本来はマスメディアも、そこまで突っ込んで取材・報道してほしいところだが――。

 

校則でツーブロックがダメな理由は何かという質問が、東京都議会で出されたらしい――しかし、そんなの簡単だろ?

東京都議会で「都立高校の校則で、ツーブロック(段差ができるような髪型)が禁止されているのはなぜか」という質問が出たという。
それに教育長がうまく答えられなかったとかでSNS上は大笑い。
私もそう思う。ツーブロックがダメなのは事件や事故に遭うからではない。

ダメなものはダメだからだ。

f:id:kite-cafe:20200717192448j:plainラファエロアテナイの学堂」)

 

記事


事件に遭うからツーブロック禁止? 都立高校の校則に「意味不明」「データはあるのか」と批判殺到

2020.07.14 BazzFeed

「都立高校の校則、なぜツーブロックはダメなのか」

共産党・池川友一都議会議員Twitterに投稿した動画が230万回以上再生され、話題になっている。

Twitterでは「本当に意味不明なルールってあるんだな」「ツーブロックで、事件や事故にあうデータがあるのでしょうか」といった批判や疑問の声があがっている。

(中略)

今回、話題となっている動画は以下の答弁についてまとめたものだ。

3月12日の東京都予算特別委員会で共産党の池川都議が東京都の藤田教育長に校則に関して、質問した。

池川:校則を見ていると、ツーブロック禁止という校則は一定数あります。ツーブロックは、かなり広い定義の髪型として今、定着していると考えます。

それを全体として禁止していることについて、何で禁止をされているのかという声がたくさん寄せられています。実際に、そのことによって指導を受けている生徒もいらっしゃいます。なぜ、ツーブロックはだめなんでしょうか。

藤田教育長:先ほども申し上げましたが、校則は、生徒が健全な学校生活を営み、よりよく成長していくことができるよう、必要かつ合理的な範囲で定められた学習上、生活上の規律でございます。

お尋ねの髪型につきましては、それを示している学校もございますけれども、きちんと類型を示しまして生徒に伝えているところでございまして、その理由といたしましては、外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます。

(中略)

この質問を行った池川都議はBuzzFeed Newsの取材に対し、「校則を決めるときに、生徒の声がほぼ聞かれていない。それが、一番の課題です」と語る。

「多くの学校で、髪の毛は染めてはいけない、ピアスはダメと細かく定められている。そして、現場の教員はそれをとにかく守らせることに力を尽くしています」

「3年間我慢すれば良いと思っている生徒も少なくない。学校も『これを破れば進路に関わる』『この学校では決まっているから』と明確な理由もないまま、とにかく従うように伝えているケースも多いのが現状です」

文科省は最終的に校則を決めるのは校長の権限であるとしています。ですが、会社であれば社長が最後に決めるとしても、その過程でいろいろな意見を聞くのではないでしょうか。校長が一方的に校則を押し付けて良いということにはなりません」

(中略)

「大人の世界ではツーブロックは非常にスタンダードな髪型です。清潔感のある髪型と言っても良い。そうであるにもかかわらず、学校では禁止されています。しかも、その理由は目も当てられないものです」

「事件や事故に遭うのを防ぐためという理由は、意味不明です。髪型が理由で事件・事故に遭うことなどあるのでしょうか? これは完全なミスリード、根拠のない校則だと思います」

(中略)

池川都議は、都議会での質疑の目的を「校則は大人によって変わるものでなく、子どもたちの意見を聞いて変わっていくものだと伝えること」だったと語る。

「これを機に、校則は変えていけると知っていただきたい。今あるルールを受け入れることが全てではなく、ルール変えていくこともできるのだと議論になればと思います」

 

  藤田教育長も苦労した。しかし本音で語らぬ答弁は人の失笑を引き起こす。無理にひねり出した理屈はしっかりと筋が通って行かないから突っ込まれるのだ。
 藤田氏も教育長である以上、きちんと言えばよかったのだが、きっと言えない事情があったのだろう。ただし私なら言える。私が教育長だったらきっと本音で、こんなふうに語るだろう。

『えー、池川委員に私の方からお答えします。
 学校においてツーブロックはなぜダメなのか、というお問い合わせでしたが、それは現在、ツーブロックが若者間で流行しているからなのです。流行っているものでなければ、それがチョンマゲであろうがスキンヘッドであろうが――もちろん一応は中高生の身だしなみとしていかがなものかと指導はしますが――禁止はしません。けれど予想に反してチョンマゲが流行の兆しを見せるようでしたら、やはり禁止の方向で考えることになるでしょう。

 委員はここで、“なぜ流行りのヘアスタイルはダメなのか”と首を傾げられることと思います。しかしそれはいわば信仰の問題なのです。神様が許さないのです。

 もちろんここでいう神様というのは宗教上のものではなく、いわば学問の神と言っていいような汎神論的な神様です。

 具体的に言えばまず、学問そのものをつくり上げた人々です。
 ユーグリットやアルキメデスソクラテスプラトン、レオナルド・ダビンチ、ニュートンパスカルエジソンアインシュタイン。日本人で言えば外国語を日本語に翻訳した福沢諭吉西周森有礼。遡って俳諧を大成した松尾芭蕉国学本居宣長、あるいは国語の教科書に載っているような名文を書いた作家たち――ちょっと考えただけでもいくらでも出てきます。

 しかしさらに大切なのは、何の結果も出さず業績も残さず、しかも生涯を学問に捧げた無名の先人、神様たちです。彼らの多くは洗うがごとき赤貧に耐え、死の恐怖に怯え、また実際に殺されるような目にあいながらも、決して学問を棄てようとはしなかったのです。
 西洋なら錬金術師、中国なら最後まで合格できなかった科挙受験生、日本で言えば井上靖の「天平の甍」に出てきた業行のような留学僧です。


 第二の神様たちは学校制度をつくり、学校を支えた人々です。
 日本で言えば学制発布に関わった政府の人々はみな神様ですし、県の端々、村の隅々まで熱心に回って子どもを学校の出させた県令(県知事)、市長・村長、校長、教員たち――、この人たちも今となっては神様のような人たちです。
 西部開拓時代のアメリカで、一番殺されやすい職業は教員がだったと言われています。それは彼らが働き手である子どもを、学校につれていこうとしたからです。
 革命直前のロシアではたくさんの貴族の子弟が、貧しい農民の教育に当たろうと地方に下りました。ナロードニキ(人民のなかへ)と呼ばれる彼らは、やがて社会主義者として次々と投獄され、多くが獄中で死にました。
 日本では梅田雲浜吉田松陰が学問に殉じた人として記憶されますが、さすがに子どもを連れ出したという理由で殺されるようなことはありませんでした。

 それどころか地域の人々が金を出しあって学校を建て、教員を誘致したといった話が、日本全国にいくらでもあります。豊かな者は豊かなりに、貧しい者はわずか一銭なりとも金を出して学校を建てようとした――その無名の人々も学問の神様です。現在ある学校の多くがそうした伝統をもって今日まできているのです。

 三番目にご紹介するのは、今も生きておられる神様たち――東京の納税者の皆さまたちです。
 ひとつの学校が一年を通してつつがなく運営されるためには莫大な金がかかります。一人あたりで言いますと東京都の場合、小学生で年間およそ100万円、中学生だと130万円もの公費が投入されているのです。これはすべて都民の血税によるものです。

 私の家にはもう就学している子どもはいません、そもそも子どもはいませんでした、まだ結婚前ですから学校は関係ありません、だからその分の税金は払いません、などという人はひとりもいませんよ。
 一人の子どもを小学校から高校を卒業させるまでのあいだに、都民は学校教育だけで1500万円もの税金を使ってくれるのです。その方々が現代の学校の神様、生き神様なのです。

 そうしたすべての神様のことを考えたとき、私は学校で教師や生徒たちがバカをやっていることが許せないのですよ。
 すべての学徒は精励刻苦を尊び、蛍の光、窓の雪で学ぶことが期待されています。実際にそうした苦しい勉学ができるとは限りませんが、目標はそうでなくてはならないのです。
 学問の神様のことを考えると、児童生徒が「奢侈淫佚」「遊惰放蕩」に溺れるのはほんとうに切ない。流行に流されてちゃらちゃらしているようでは心底、恥ずかしく、情けないのです。

 先生たちは日々それを意識しているわけではありませんが、伝統として、教師の世界に脈々と流れています。学校にはアカデミズムがなくてはならないのだと。
 流行を追って朝夕に髪を逆立てて、休み時間のたびに鏡に向かってそれで苦しい勉学など続けられるはずがない――そう考えるのが学校の文化なのです。

 学校に来ていいのは児童と生徒・学生だけです。学問をする意思のない“単なる子ども”は学校に来てはいけない。だからツーブロックはダメなのです。

以上!』

 ただし、
 大切な議会の質問時間を学校問題に当ててくれた議員を、公衆の面前でギャフンと言わせたり煙に巻いたりしていいことはなにもないだろう。下手をすると江戸の仇を長崎で討たれる。
 だから私もここは「隠忍自重」。バカのふりをして、
「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」
 みたいなことを言って叩かれて終わりにするだろう。
 それが大人の知恵というものだ。
(いい加減な子どもを育てたのでは納税者に申し訳ないという気持ちは、いつもあるのだがね)

 

オンライン学習が児童生徒の学力差を広げるなんて百も承知で、何が何でもやれと言い続けている人たちがいる。

日本のメディアから「オンライン学習先進国」ともてはやされた韓国からの報告。

オンラインでも成績上位者は「自己主導学習」で成績を維持できるが、
中位の者は大きく落とす。
塾に行っている者、家庭に教育力があって支援を受けられる者に影響が少ないが、
多文化家庭や祖父母と孫だけの家庭の子、障害のある子は苦しい等々。
――これが一部の人たちが熱望した「オンライン学習」の実態だ。

しかしその人たちは知らなかったわけではない。知っていて切望した。
彼らがオンライン学習をさせたかったのは成績上位者だけなのだから。 

f:id:kite-cafe:20200710194826j:plain(「タブレット学習する小学生フォトACより)

 

記事


[ニュース分析]
遠隔授業で中位圏の成績下落…ますます広がる教育格差
(2020.07.08 ハンギョレ

japan.hani.co.kr

新型コロナによる遠隔授業の長期化への懸念 
 今年4月、史上初の「オンライン授業開始」で、大韓民国の教育は「遠隔授業」という一度も行ったことのない新しい道に進んだ。政府の「生活の中の距離措置」転換に合わせ、5月20日から登校授業が順次再開されたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の地域社会の拡散が相次ぎ、学校現場は依然として遠隔授業への依存度が高い。

(中略)

 一部の教師たちは、登校開始後に行なった中間テストで、上位圏の生徒はそのままである一方、中位圏に属していた生徒の成績が下位圏へと下がる現象に注目している。全羅北道地域の一般高校の教師のAさんは、6月の第3週に実施した中間テストの結果について、「内申書1~2等級の上位クラスの生徒たちの成績は例年とあまり差がなかったが、3等級以下から英語・数学を中心に点数が下がった」と述べた。通常90点台から80点台、70点台、60点台が均等に出るものだが、特に数学科目で70~80点台に集中していた中位圏が60点台以下へと下がったケースが多かったという。Aさんは「生徒たちも成績が下がったことに驚いたのか、科目別に個別指導の申請を受けつけてみたところ、中位圏の生徒たちの申請があまりに多くて手に負えないほどだ」と伝えた。

(中略)

 高校のように成績順位を出さない小学校や中学校まで含めれば、子どもの遠隔授業を支援しにくい低所得層や一人親家庭、祖父母と孫だけの家庭などの社会的弱者層では「学習欠損」問題が深刻だという懸念が出ている。『新型コロナ、韓国教育の眠りを覚ます』の共著者であるファン・ソンヒさん(江原大学教育学科講師)は、「学校以外に勉強を頼るところがない社会的弱者層の生徒たちには、教室で先生や友人との相互作用が学習を続けるのに一定程度の役割を果たすが、対面授業が少なくなればそれだけ学習欠損問題が生じる」と懸念を示した。京畿道のダオン小学校教師のイ・チュンイルさんも7日、国会で開かれた討論会(新型コロナ後、韓国の教育に何を込めるか)で、「遠隔授業が行われる空間である家庭環境の違いが、教育的差別を誘発する主な原因となる。多文化家庭や祖父母と孫だけの家庭、障害のある生徒が最も脆弱な立場にいる」と話した。

 その反面、親が遠隔授業を積極的に支援したり、私教育の活用度を上げるような場合には、対面授業が減っても打撃を受けない。自己主導学習が可能な上位圏の生徒も同様だ。ファン・ソンヒさんは「豊富な資本力に頼って学校教育の空白を私教育に代替できる中上流層の親や、一日中子どものそばで全面的な子どもの管理が可能な専業の親は、遠隔授業を一種の“好材料”とまで認識している」と指摘した。

(後略)

 

 とりあえず、かつて韓国のことを「オンライン学習先進国」「すでに早くからオンライン学習を進めている」とメディアで語って「遅れた日本」を貶めた識者・専門家・コメンテータ・記者・学者たち、公の席で謝ってもらいたい。
 今年4月、史上初の「オンライン授業開始」で、大韓民国の教育は「遠隔授業」という一度も行ったことのない新しい道に進んだ。
だってヨ。なにがオンライン学習先進国だ!

 それはそうだろう。コロナ以前に韓国のような人口の都市集中が激しい国で、何を好んで学校を閉じてオンライン学習をしなくてはならなかったのか、ちょっと考えればわかりそうなものだ。
 カナダやオーストラリアの大平原で隣の家まで数十kmというような場所では学校にも通えない、だからオンライン学習が進んでいたというならわかる。しかし人口の稠密な都市で学校を開かずにオンライン学習を行う必要はまったくない。それはニューヨークでも、パリでも、ロンドンでもみな同じだ。
 今回のコロナ禍でようやくオンライン学習を始めた国や都市も、そこもみんな手探りでやっているだけなのだ。

 また、今まで経験のないオンライン学習のようなことを不用意に始めれば、学力に差がつくことは目に見えていた。
 考えてみるがいい。
 すべての子どもに同じ学力を持たせる方法は、実はひとつしかないのだ。全員に学ばせないこと、学ばなければ知識ゼロで学力差もゼロである。

 たとえばどこかの小学校にいきなり飛び込んでマサイ語とかイボ語といったアフリカの部族言語のテストをやれば、おそらく全員が0点で学力差ゼロということになるだろう。ところが1日でも学習を始めたとたんに学力差はつきはじめて、あとは広がる一方だ。
 私たちはそのことを自身の経験としてよく知っている。小学校6年生まではクラスに誰も英語のできる子どもなんかいなかったのに、わずか6年後には英語の堪能なヤツと私のような人間の間に、天と地ほどの差がついてしまったのだ。

 学力差をゼロにはできないものの、多少なりとも縮める方法がないわけでもない。
 一番簡単なのは「頭の良い子に勉強させないこと」だがこれは無理だろう。困ったことに優秀な子は放っておいても伸びてしまう。
 あとは勉強のできない子たちを押し上げて、差をゼロにはできないまでも少しでも学力を伸ばそうとすることだ。そして学校にはそのための仕組みが山ほどある。

 記事に即していえば、
 教室で先生や友人との相互作用が学習を続けるのに一定程度の役割を果たす
といったもんがそのひとつである。

 オンライン学習はその相互作用を十分に可能としない。どうやっても基本は教師と生徒の1対1だ。
 会話の中に他の生徒が割って入ることが難しい。先生が黒板に字を書いている最中にひそひそ話で「ねえ、今、先生なんていったの? よく聞こえなかった」などということもできない。他人のノートを勝手に覗いて「オイ、そこのところ違っているぞ」などとお節介なアドバイスをする子もいない。

 私が言いたいことは次の2点である。

 第一にオンライン学習の効果は一般に考えられているよりもずっと低いということ。もちろん授業がまったくないよりはマシということもあるが、オンラインの手配にエネルギーを使うくらいなら教室再開のために時間を使った方がよほどいいということだ。分散登校でも五月雨登校でも構わない、とにかく子どもを一か所に集めて刺激を与え続ける方法を、みんなで模索していくしかないのだ。

 第二に、オンライン学習の限界、学力差がつきやすいということを百も承知で導入を声高に叫んでいる専門家・識者・コメンテータ―・記者・学者・政治家が、いくらでもいるから気をつけろということである。

 彼らは国民教育には興味がない。
 多くの教師は教育を子どもの自己実現の道具だと考えているが、彼らにとってそれは政府や産業界に役立つ人材を育てる最も安上がりな道具なのだ。

 みんなが学力をつける必要はない、政治や経済を動かすのは一握りのエリートだけだ。だからエリートだけがしっかりと学力をつけてくれればいい、それでこの国は豊かになる、自分たちも潤う――そう考えている人たちは、たとえ数カ月でも、自分の愛するエリートの卵たちが学習から引き離されることに我慢がならない。
 オンライン学習で学力に差がつくなんてどうでもいいことだ、とにかくエリートの学習を奪うな!
 彼らは心の中でそう叫んでいるにちがいない。そんな連中に乗せられることもないだろう。

 

万が一の危機に備えて、日常の危機を甘受できる大人たちがいる~文科省は「学校に携帯を持ってくるように」と子どもたちに言った

大昔のファミコンに始まって、
ポケベル、ゲーム&ウオッチ、ゲームボーイポケットステーション
たまごっち、ニンテンドーDSニンテンドースウィッチ、ニンテンドー3DS・・・
これまで幾千万の親たちが子どもの電子機器と戦い、敗れてきたことか――。
それにもかかわらず、今はスマホを持たせたい親たちがいて、
それを文科省があと押しする。

f:id:kite-cafe:20200626183437j:plain(「スマホを触る女の子」フォトACより)

 

記事


中学校へのスマホ持込、3条件のもと容認へ…文科省

(2020.06.25 リセマム)

resemom.jp


 文部科学省は2020年6月24日、学校における携帯電話の取扱い等に関する有識者会議を開催し、まとめ案を示した。小中学校では携帯電話の持込みは原則禁止だが、中学校では一定の条件のもと持込みを認めることが妥当だとしている。

(中略)

 審議のまとめ(素案)によると、学校への携帯電話の持込みについて、小学校は原則禁止とし、遠距離通学などやむを得ない事情がある場合には保護者から学校長に対して持込みの許可を申請させるなど例外的に認めることも考慮する。

 中学校は原則禁止としつつも、一定の条件のもと、持込みを認めることが妥当だという。中学校は、部活動に参加する生徒が多いため、小学校と比較して帰宅時間が遅くなる点も考慮した。学校や教育委員会が持込みを認める場合、一定の条件として、学校と生徒・保護者との間で「学校における管理方法や、紛失等のトラブルが発生した場合の責任の所在を明確にすること」「フィルタリングが保護者の責任のもとで適切に設定されていること」「携帯電話の危険性や正しい使い方に関する学校および家庭における指導が適切に行われていること」の3つの事項について合意がなされ、必要な環境の整備や措置が講じられていることが求められる。

 高校は従前通り、教育活動に支障がないよう配慮することを前提に、各学校で適切に定めることが妥当だとしている。

 これらの基本的な事項を踏まえつつ、各地域の実態に応じて適切に定めることが求められる。文部科学省は、7月中に全国の教育委員会などに通知する予定。

  


【学校がスマホの持ち込みを許可するのは、みんなに持って来いというのと同じだ】

 学校関係者で児童生徒の携帯持ち込みを歓迎する人はひとりもいない。それにもかかわらず、現場を無視して、何が何でも持ち込みを許可したいという文科省の情熱がわからない。

 学校が許可すれば小中学生のスマホ所有率はグンと上がるだろう、それは当たり前だ。子たちが学校に持ってくるものは、頭のてっぺんからつま先まで全部同じになってしまう。その原則は昔も今も同じだからだ。

 古くはボンタンと呼ばれたダブダブズボン。これが流行れば全員ダブダブになってしまう。女子に袴と見まごうロングスカートが流行れば全員ロング、ミニの時代はみんなミニ。ルーズソックス、茶髪・金髪、ガングロ、チャラ男――子どもたちは常にオンリーワンを訴えながら、オール・オブ・ワンにはまっていく。
 学校にスマホを持ってくる子が半分もいれば、あとの子も持たざるをえない。それに抵抗できるのは、ごくわずかの変わり者とエリートだけだ。
 しかしそれでいいのだろうか。

 

【万が一の危機に備えて、日常の危機を甘受する】

 はじまりは2018年6月に発生した大阪府北部地震を機に、万が一の場合の連絡方法を確保するために大阪府が「持ち込み禁止」を一部解除したことによる。しかしそうした大規模災害の最中に、携帯が使えるかどうかは不明だ。すくなくとも東日本大震災では、多くの地域で通話不能になった。

 一方、日常のレベルでは携帯が極めて危険な側面を持つことはよく知られている。
 出会い系サイト、コミュニティサイトによる児童買春、児童ポルノ、なりすましによる誹謗中傷、ネットいじめ、ストーカー被害。
 旅行情報を書き込んだための空き巣、ゲームなどによる高額課金、ネット依存。
 歩きスマホによる衝突や転落。イヤホン使用による周囲への注意低下(車に気づかない、不審者の追跡に気づかない)

 万が一のための携帯が日常的に子どもを危険にさらす――そんなことは分かり切っているのに、なぜ親は持たせたがるのか。

 要するにそれは便利だからだ。「今、部活が終わったから塾まで送って」といった子どもの要望に応えたい、そうしないと子どもは塾に行ってくれないかもしれない。帰りも電話一本で落ち合う場所と時間を決めれば簡単なものを、それがなければ10分も20分も塾の前で車を止めて待機していなくてはならない。そんなことはとてもではないが我慢できない――。

 ネットの危険は必ずしも我が身に降りかかるものではないが、警察や他の車からの目を気にしながら、違法駐車を続けて子どもを待つのは毎日のことだ。その負担回避のためだけでも、子どもの携帯所持は絶対に必要だ。多少の危険は承知の上だー―と、親は思っている。
 分からないわけではない。しかし事故も犯罪被害も、そうした甘さから訪れるのが常だ。
 一方、文科省の熱意は分からない。まさか多額の赤字にあえぐソフトバンクに、政府として手を貸そうというのでもないと思うが――。

 

【審議会のまとめは意外と平穏なものだった】

 しかし審議のまとめ(素案)は意外と平穏なものだった。

 学校と生徒・保護者との間で

「学校における管理方法や、紛失等のトラブルが発生した場合の責任の所在を明確にすること」

「フィルタリングが保護者の責任のもとで適切に設定されていること」

「携帯電話の危険性や正しい使い方に関する学校および家庭における指導が適切に行われていること」

の3つの事項について合意がなされ、必要な環境の整備や措置が講じられていること

 
学校が保護者から「いかなる理由があろうとも、携帯機器の破損紛失に関して学校の責任を問うようなことはいたしません」といった誓約書をとって、毎朝、子どもの携帯を回収してしまえばいいのだ。

 例えば朝、部活に行く前に郵便ポストのような保管庫に携帯を投げ込んで、帰りは昇降口のテーブルに並べた中から自分のものを選んで持ち帰る。なくなっても学校の責任ではない。
 それならほんとうに必要な子しか持ってこないだろうし、スマホを持つことに同調圧力もかからないだろう。ある意味、子どもが内緒で持ってきて、隠れて使うことに比べたらよほど安全なのかもしれない。

 決まったことだ。受け入れよう。
 毎日、放課後に担任が携帯を並べる作業は大変だが、文科省も世間も教師の多忙を苦にしない。毒を飲むなら皿までだ。
 それで問題が起こったら、責任は文科省に取ってもらえばいい。

 ↑

と言ってみたがそうはならないだろう。スマホをポストに投げ込むといった乱暴なことはできない。
 担任が毎朝回収して職員室に運び、放課後また取りに行くのがせいぜいだ。
 回収に5分、職員室への往復に5分ずつ、帰りの会での配布に5分、計20分が毎日犠牲にされる時間だ。

 ところが部活の最中に盗まれる、壊される、何らかの方法で中身が覗かれる――一切責任は問いませんとの誓約書があったとしても、それを盾に突っ撥ねることもできまい。
 生徒全員がスマホを持つことで広がるいじめや問題行動の対応も教員の仕事だ。

 しかし教員諸君、がんばろう!
 神様は見ている(かもしれない)。

学校がいまだに同級生を介した連絡帳で欠席連絡を求めるのは、そうしないと担任か教頭(副校長)が死んでしまうからだ

 欠席連絡ひとつを取っても、
 いまだに子どもの友だちを介した連絡帳の提出で求める日本の学校
 そんな昭和から時間が止まったようなことはやめて、
 ICTを充実させ、保護者がいつでも気楽にメールで連絡できるようにすることで、
 先生の業務をこれ以上増やすことなく、
 保護者との信頼関係を強化していけるのではないか、
――って、それをやったら先生たち、死ぬぞ。
という話。

f:id:kite-cafe:20200619140504j:plain(「電話をする女性」 フォトACより)

 

記事

 

意見する親・クレームする親・沈黙する親
  ・・・ICT教育阻むモンペの境界線

(2020.06.19 現代ビジネス)

gendai.ismedia.jp

 

保護者丸投げ型「無理ゲー」

GW明けに始まった『保護者へ丸投げ型・時間割ベースド家庭学習』によって、ただでさえ家の中で子育てと仕事を両立させるという『無理ゲー』な自粛生活でストレスを溜めていた多くの保護者は、瀕死の状態に陥ったことと思います。「瀕死になってるのはうちだけ? みんなはどんな状況?」という疑問から始めた、『23区公立小学校ICT進捗状況★草の根ウォッチ』が、想像以上にバズりました。

きっと、私と同じように『無理ゲー』に苦しみ、ICTの活用に活路を求める保護者が他にもたくさんいたんだろうなと感じます。

ちなみに、ICTが進んでいる文京区や渋谷区の保護者からは、「いやいや、紙がデジタルになっただけで、勉強に向かわせるところは相変わらず親まかせだから、めっちゃ負荷高いよ!」とのお声も。ICT化が遅れている自治体の保護者の皆さんは、「羨ましい」と思うかもしれませんが、現場の「ICT活用力」は一朝一夕にはいかないでしょうから、まだ今は50歩100歩かもしれません(と、フォローしときましょう。笑)。

今回は、私が公立小学校のICT進捗状況を可視化しようと思った理由と、その後実施した「保護者アンケート」で見えてきた「学校と保護者の関係性」についての考察をご紹介いたします。

 

「個人情報」という免罪符。
学校のICT活用が進まなかった理由

私が住む目黒区ですら、このwithコロナの中で未だに「体調不良の際は連絡帳をお友達に渡してください。難しい場合は学校の大代表に電話してください」という運用フローになっているんですよね。大代表の電話は回線が1本しかないので、朝の時間は通話中で繋がらないし、欠席の連絡を1本入れるだけでもストレスだという話を、他自治体の保護者からもよく聞いております。

今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。「メール連絡じゃダメなんですか?」と聞くと、個人情報が云々と言われて一蹴されてしまうと聞きます。

私自身も、このコロナ休校中に小学1年生になった「小学生になれていない小学生」は、クラスのお友達の名前も顔もわからない状態で休校期間を過ごし、「学校となどんなところなのか」も知らないままに、宿題だけが出されるのはよろしくないのではないかと思い、その件を担任の先生に電話で相談している最中に、「同じクラスの子どもの顔写真と名前をメール等で集めて、シェアしたらどうでしょうか?」と提案してみたところ、食い気味に「個人情報の問題でそれは絶対にできません」と言われてしまいました。

私はその食い気味に発言された先生の様子を見て、公立学校の中で「個人情報」というキーワードが、いわば『免罪符』のような感じになってしまっているのではないかと感じました。

その免罪符を出せば、その場の空気が「だから仕方がない」となり、そこで思考が停止しているのではないか。そうやって思考停止を繰り返してきた結果、日本の公教育のICT化が、世界の先進国の中でも類を見ないほどに遅れてしまったのではないかと感じるのです。

(中略)

 

ICT活用で真っ先にやるべきこと

私がリスクに感じているのは、「保護者から声が上がらないから問題ない」と思ってしまっている学校関係者の認識です。実際には、不満の火種はとても大きく、SNS上ではすでに炎上しているところもあるのに、「自分たちが提供している教育は問題ない」と捉えているとすると、非常に危険だと思います。

こういう負の心をどちらか一方だけが密かに持っている関係性だと、今後、何か1つのミスに対して、とんでもない炎上が起こるリスクが高いと思います。私は教育新聞社で記者の仕事もしているので、全国の様々な教育がらみのニュースを知る機会があるのですが、最悪のケースだと、先生が自殺しちゃうこともあるんです。

まだ若く未来のある先生が、たった一回のミスによって叩かれて、自分を責めて命を絶つということは、今後、絶対に起こってほしくない。だからこそ、子供が人質に取られているような心理から声をあげにくい状態にある保護者が、安心して些細な不安を相談できるよう、学校と保護者の「コミュニケーション・ライフライン」を確立させることが、喫緊の最重要課題だと私は考えています。

ICT活用で真っ先に着手して欲しいのは、まさにこの「コミュニケーション・ライフライン」の整備です。「学校の大代表に電話」は、保護者の心理的ハードルがとても高い(=モンペと思われるんじゃないかと気にしちゃう)ので、メールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようにする。そして、よくある問い合わせは、速やかに学校全体のQAとして公開していくことで、「コミュニケーション・ライフライン」によって、過労死ラインを超えていると言われる先生の業務をこれ以上増やすことなく、保護者との信頼関係を強化していけるのではないかと考えております。

私自身も、この話を教育関係者向けに教育新聞でも書いているし、目黒区の教育委員会や、目黒区義の文教子ども委員会にも言っていますが、ぜひみなさんもそれぞれの自治体や学校にご提案いただけたら大変心強いです。「保育園落ちた、日本死ね」の事例もある通り、保護者の声は国をも動かす力があります!

 

 いやはやご本人は気づいておられないかもしれないが、慇懃な言葉の中に垣間見られる鋭い匕首は、学校にとって最近の金与正(キム・ヨジョン)氏に匹敵するものだ。

こういう負の心をどちらか一方だけが密かに持っている関係性だと、今後、何か1つのミスに対して、とんでもない炎上が起こるリスクが高いと思います。私は教育新聞社で記者の仕事もしているので、全国の様々な教育がらみのニュースを知る機会があるのですが、最悪のケースだと、先生が自殺しちゃうこともあるんです。

 一言でいえば、
「私たちの言うことを聞かなきゃ、先生死ぬよ」
 しかも本人には脅しているという自覚がまるでない。

ぜひみなさんもそれぞれの自治体や学校にご提案いただけたら大変心強いです。「保育園落ちた、日本死ね」の事例もある通り、保護者の声は国をも動かす力があります!
 ああ、あの勢いで叩かれるのかと思うと、もはや(退職によって)部外者になった私でもビビらざるをえない。

 

 さて、
今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。「メール連絡じゃダメなんですか?」と聞くと、個人情報が云々と言われて一蹴されてしまうと聞きます。

 現代ビジネスに寄稿しようという以上はジャーナリストとして「一蹴されてしまうと聞きます」はないだろう。なぜ確認しないのか。「個人情報が云々」の部分も何を言われたのか分からない、分からないことは調べるのが当たり前だ。

 私は自分が理解できない事象に出会うとまず怯える。
 私なんぞの知らない特別な理由があるのかもしれない、とんでもなく頭の良い人たちが気づいた落とし穴があってそれを回避しているだけなのかもしれない、安易に結論づけたり批判したりしたら、それこそこちらがバカを見るかもしれない、批判がブーメランになって返ってくるのかもしれない、そう考えると慎重にならざるをえないのだ。

今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。
 だったら調べればいいだろう。問い合わせる相手はいくらでもいる。5~6本も電話すれば一人くらいはきちんと答えくれる人がいるだろう。私だったら答える。
 それにも関わらずこの部分を憶測で解決するから文章全体があらぬ方向に行ってしまうのだ。

 

【学校がメールを嫌うわけ】

 学校がメールを嫌う理由はまさに記事の言う、
 メールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようにする。そして、よくある問い合わせは、速やかに学校全体のQAとして公開していく
 が求められるためである。誰が「学校全体のQAとして公開していくのか」ということが問題になる。

 メールでの問い合わせをすべて公開するわけにはいかないし、公開したから直接答えなくていいということにはならない。
 メールが来たらきちんと回答する、その上で重要な問題に関しては学校長や教育委員会の承認を得て学校のサイトのQAに載せていく、繰り返すが、誰がその仕事をするかが問題だ。

 これに関して行政には苦い経験がある。20年ほど前からトップに立とうと立候補してくる人たちが次々と「皆様の声を直接、聞く」を公約にし始め、当選すると実際に窓口をつくってしまったことだ。
 もちろん首長の座に着いた瞬間から行政の末端まで知り尽くして返事の書ける人などいない。経験を積んだ首長だって具体的ないちいちに詳しく答えられるはずもない、そもそも忙しくて返事を書いている暇もない。そこで返答の大部分は担当部署が書くことになるのだ。首長はそれに目を通して許可を出すだけである。

 ネットがなかった時代は問い合わせや抗議の大部分は匿名の電話や手紙できた。それだと「調査して後日、返答」と言っても相手がわからないので返答のしようがなく、中身は承っても返事を返す必要がなかった。

 ところが今は匿名のメールにも返答が求められ、回答しないといつまでも要求され続ける。それでも遅れると今度は匿名のSNSに上げられてそこで執拗に攻撃されることになる。だからすべての抗議・問い合わせには必ず返事を書かなくてはならないのだが、その労力たるや半端ではない。
 まだ私が在職中のことだが、県の担当者がメールの返答に窮して、私に事実確認を求めてきたことがある。その事実確認も電子メールで送られてきたのだが、発信時刻はなんと午前2時過ぎであった。毎晩のようにそんな仕事をしているわけだ。

 保護者がメールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようになったら、担任または副校長(または教頭)が死ぬ。中途半端な返答をして言質を取られたことにならないよう、いちいち吟味し、文章を書き直して返さなくてはならないからだ。そんなメールが10通、20通と送られるようになったら、通常の業務はできなくなる。

 学校を追いつめるモンスター・ペアレンツなんて保護者1000組に1組もいないが、その1組に当たってしまったら学校は機能不全に陥ってしまう。そうならないためにも、文書(メール等)での返答は最優先で検討されなくてはならない。

 だから都道府県教委も学校がメール・アドレスを公開して窓口とすることを許さないのだ。自分たちで懲りている。
 学校職員のために許さない、さらに学校が拾い上げた細かな面倒ごとが都道府県教委もたらされないためにも許さない。
 県のたった一つのメール・アドレスで苦境に立っているというのに、県下数百の学校で採集され、一部がお伺いとして送られてきたらたまったものではないからだ。
 学校と保護者の間のことは、できればお互いに顔を合わせて、そうでなければせめて電話を通して肉声で会話しながら、学校内で解決してもらいたいものだ、都道府県教委はそう考えている。
 当然である。

 記事の筆者は(学校の大代表に電話をやめてメールなどでやり取りする「コミュニケーション・ライフライン」を使うことによって)過労死ラインを超えていると言われる先生の業務をこれ以上増やすことなく、保護者との信頼関係を強化していけるのではないかと考えておりますと主張するが、全く逆である。


【個人情報はかくも軽いものだったのか?】

 最後に、
公立学校の中で「個人情報」というキーワードが、いわば『免罪符』のような感じになってしまっているのではないかと感じました。
についても応えておこう。

 私たちは、
「同じクラスの子どもの顔写真と名前をメール等で集めて、シェアしたらどうでしょうか?」
などと言い出す恐ろしい保護者の出現を予想していなかった。
 子どもの顔写真や名前、電話番号やメール・アドレスなどは第一級の個人情報で、決して他人に渡してはいけないものだと思い込んでいた。ところがどうやら、今やみんなで「シェア」してもよいものになってしまったようだ。

 これまで学級名簿を紛失したために処分された教員が、いったい全国に何人いたことか。
 学級連絡網という便利なものが個人情報保護の立場から廃されて、担任が一軒一軒電話するような面倒な月日を何年送ったことか。
 家庭内の様子は重大なプライバシーだということで家庭訪問も廃止となり、教師たちは重要な情報収集の場を失い、生活困窮や児童虐待、家庭内不和などの環境悪化も察知できなくなった、それがどれほど大きな犠牲だったのか。
 そう考えると暗澹たる気持ちになる。

 個人情報保護で学校が失ったものは山ほどなのに、得たものはほとんどないのだ。それなのに「個人情報」が「免罪符」で、
その免罪符を出せば、その場の空気が「だから仕方がない」となり、そこで思考が停止しているのではないか。そうやって思考停止を繰り返してきた結果、日本の公教育のICT化が、世界の先進国の中でも類を見ないほどに遅れてしまったのではないか
とは。

「個人情報」がそこまで軽いものなら、私たちにやれることはもっとたくさんあったはずだ。
 嗚呼!