キース・アウト

マスメディアはこう語った

つい最近まで10年おきに更新しなくてはならなかった教員免許が、もはやどうでもいいものになりつつある。東京都がついに免許なしでも教員になれる道を開いたのだ。大国ロシアが隣の小国を踏み潰したように、大東京都が地方の教員採用を破壊する。

f:id:kite-cafe:20220413141812j:plain(ヨースト・ファン・カースベーク 「聖アントニウスの誘惑」)

 

記事

都の教員採用試験、社会人枠は受験時免許不要に

(2022/04.12 日本教育新聞) 

www.kyoiku-press.com
 東京都教委は今夏に行う教員採用試験で、社会人を対象とした受験資格を緩和し、教員免許を持っていなくても受験できるようにする。合格した場合、来年度から2年以内に教員免許を取得することが条件となる。

 対象は、企業、官公庁、学校で、アルバイト・パートでの雇用を含め、2年以上の勤務経験がある人など。既に申し込み受け付けは始まっている。

 

 まさかと思って都の「令和4年度東京都公立学校教員採用候補者選考(5年度採用)実施要綱」確認したが事実だった。
 受験者数の減少に歯止めのかからない教員採用は、いよいよ何でもありの修羅場になろうとしている。

  ひと月前、私は他県の教採不合格者を拾おうとする佐賀県を嘲笑った。

kieth-out.hatenablog.jp

 しかし申し訳ないことをした。東京都がここまでやるなら、その他はさらに禁じ手を繰り出していくしかない。
 46道府県! 何でもありだ。頑張れ!!
(それにしても東京都は、自らの影響力にまるで無頓着な姿勢をなんとかできないのか?)

 

南房総市は市内の小中学校で1日5時間授業を実現するという。夏休みは5日ほど減るが日常の業務はかなり楽になる、はずだった。しかしよく調べると学校の負担増にしかならない欺瞞策。「教育改革はやるたびに教師を追いつめ、学校をダメにする」という原則の典型だ。

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(フォトAC)

 

記事

市内小中学校で1日5時間授業を導入 南房総
(2022.03.29 房日新聞)

bonichi.com 南房総市は、市内の小中学校で新年度から「1日5時間授業」を導入する。週2~3日の授業時間を5時間とし、教育活動や日課表にゆとりを持たせ、さまざまな教育活動の向上につなげる。児童生徒の授業時間が減らないようにするため、夏休みを5日間短縮して対応する。全国的にも珍しい取り組みだという。

 市教委によると小中学校では、学習指導要領の改訂もあり、週に29または30コマ(時間)の授業が常態化され、1日6時間授業が行われている。放課後の時間が取れず、児童生徒にも教職員にとっても学校活動にゆとりがないため、“空き時間”を確保しようと、市では1日5時間授業を導入することとした。

 5時間授業を導入することで、その日は昼休みを長くとったり、放課後の時間をつくったりして、子どもたちに遊びなどの中で人間関係の深化や主体性の伸長、活動の多様化といった、小中学校におけるより良い成長を図る活動に充てる。

 教職員については、会議や研修の時間を無理なく確保し、長時間勤務の解消だけでなく、授業研究、校内研修、教材研究を行い、力量向上につなげることも狙い。
(以下略)

 

 多忙とは何か。

 簡単に行ってしまえばそれは「仕事が多すぎて」「時間が足らず」「人手も足りない」状況のことである。したがって対応策も簡単で「仕事を減らす」「時間を増やす」「人を増やす」のいずれかを改善すればいいだけのことだ。しかも三つすべてに手をつける必要はなく、ひとつを劇的に改善するだけでも構わない。

 教員の働き方改革に関する基本的な考え方も同じで「三つにひとつ」なのだが、さて、どれがいじれるのか。

【良いことはなくせない、増えるのみ】

 学習指導要領に示された学習内容に悪いものはない、不必要なものもない、したがって減らすことは容易ではない。かつて一度減らしてみたが「ゆとり教育は教師のためのゆとりか」とさんざんに叩かれて結局ひっこめた。文科省は二度とあんな冒険はしない。つまり内容は減らさない。

 

 昨夜のニュースでは高校の教科書検定の話が出たが、今回の目玉は「探究」だとか。これからの時代は知識だけではダメだ、問題を発見し、調査し取材し、資料を検討して仲間と議論し合い、その上で解を導き出す探究の力こそ必要なのだという。

 ここで重要な点は「知識『だけ』ではダメだ」である。「知識は不要」とも「知識の獲得はそこそこに」とも言わない。「知識がある」ことはすでに前提で、「探究」はその上に目指すべき新たな力、つまり期待される追加の能力なのである。

 指導要領は改訂されるたびに内容が増える。これでは教師の仕事が減ることはない。

【100兆円つぎ込んでも教員を劇的に増やすことはできない】

 教員を増やす試みはどうだろう。
 もちろん増員は必要だが、1000人や2000人増やしたところでどうなるものでもない。現状を変えたいならせめて2割、できれば3割以上の増員が欲しいところだ。

 現状から2割ないし3割の増員、それは教師を20万人から30万人も増やせという要求だが、予算もさることながら、応募してくる人がいない。現在でも採用試験の受験者が不足しているのだから、1万人の増員すらできるものではない。

 その分を外部委託で凌ぐと言っても、吹奏楽だのバスケとボールだのを指導をしてくれる人材が、各地に何人いるというのか。プリントの印刷や配布の仕事をボランティアになどのアイデアもあるが、だれが人を探しに行くのか。結局PTAにお願いして保護者のPTA離れを加速するだけのことだ。

 絵に描いた餅はいらない。教員の働き方改革に資するほどの教職員の増加など、絶対にありえない。

【可能なのは授業日数を増やすことだけ】

 こうなると可能性は、時間(日数)を増やすこと以外になくなる。一日の授業時間を減らして過重労働を緩和し、減らした授業時間分を、長期休業を減らすことで回復する――南房総市の結論は、ここまでは私の結論とほぼ一致する。

 

 基本的な発想は、教師も児童生徒も学期中は忙しいが長期休業中は比較的に暇だ、ということから始まる。同じ地点から文科省は「長期休業中に休暇のまとめ取り」といったつまらない発想をしたが南房総市は違った。

「繁忙期の仕事を閑散期に移せばよい」

(1日6時間の授業が常態化しているために)放課後の時間が取れず、児童生徒にも教職員にとっても学校活動にゆとりがないため、“空き時間”を確保しようと、市では1日5時間授業を導入することとした。

 これこそ至極まっとうな考え方ではないか。すばらしいことだ。

 

 週2~3日の授業時間を5時間とし、教育活動や日課表にゆとりを持たせ、さまざまな教育活動の向上につなげる。児童生徒の授業時間が減らないようにするため、夏休みを5日間短縮して対応する。全国的にも珍しい取り組みだという。

 なるほど、これで放課後の2~3時間(一週につき)を職員は教材研究や事務仕事にあてることができる。中学校の教員は時間外の部活をやらずに済む。すべて万々歳とは言わないが、これでかなり楽になるはずだ。

 

 しかし実際問題として、週2~3回の5時間授業で不足した授業を、夏休みの5日間で回復できるものだろうか?

教育改革はやるたびに教師を追いつめ学校をダメにする

 私の試算によれば、これはできない。

 南房総市は週2~3日の授業時間を5時間としと言っているから仮に二日間だけ5時間授業にしたとしよう(週に2時間の減)。

 平均的な学校は現在およそ40週(200日)を登校日としているから、毎週2時間の授業時間減は年間で80時間減である。すると単純な計算で、夏休みに毎日5時間の授業を行っても80時間の不足を補うには16日間も登校しないといけないことになる。

 児童生徒の授業時間が減らないようにするため、夏休みを5日間短縮して対応するなど、とんでもないまやかしだ。

 

 さらに記事で私が割愛した部分には、

 学校再編で増えたスクールバス通学の子どもたちの運動量や体力向上の機会を設ける他、中学校では空いた6時間目に英語検定やプログラミングといった特設講座を開くなど、より多様な学習機会を提供することが可能だという。

という記述もある。

 つまりせっかく週5時間授業にしても、放課後(旧6時間目)には何らかの活動を入れ、児童生徒は家庭に戻さない、教員も子どもたちから離れさせない、夏休みは5日ほど減り、教員は特設講座などの新しい取り組みを計画し、準備し、実施しなくてはいけない。

 

 児童生徒にも教職員にとっても学校活動にゆとりがないため、“空き時間”を確保しよう
として、その上で“空き時間”教師の負担で埋める計画なのだ。

 結局、子どもが家にいては困る家庭のために、夏休みに5日間も学校が面倒を見てくれる行政サービスが増えただけの話だ

 

「(それがたとえ『教員の働き方改革』の場合でも)、教育改革はやるたびに教師を追いつめ、学校をダメにする」

という原則がここでも貫かれている。

 

 なお、私の提唱する“毎日5時間授業”は以下に示してある。教職員は誰も賛成してくれないだろうが、日常の負担軽減となればこれしか方法はない。

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秋田市内の教諭が、児童の成績の入ったUSBを紛失したと大騒ぎ。しかしなぜそんなものを持ち帰って家で成績をつけようとしたのか、理解できない人は案外多いのかもしれない。

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(写真:フォトAC)

記事

市立中の女性教諭、生徒の成績入ったUSB紛失…自宅で成績付けようとして気づく
(2022.03.20 読売新聞)

www.yomiuri.co.jp
 秋田県北秋田市教育委員会は18日、市立中学校の女性教諭が生徒の名前や学習成績などの個人情報を保存していたUSBメモリーを紛失したと発表した。データの外部流出は確認されていないという。何人分の情報なのかは学校の特定につながるとして公表していない。

 市教委によると、教諭は2月4日、USBをバッグに入れて帰宅。自宅で成績を付けようとしたが、USBが見つからなかったという。佐藤昭洋教育長は「生徒や保護者の信頼を損ない、おわびする」と陳謝した。

 

 世のサラリーマンで、仕事を家に持ち帰ってやるという人はどの程度いるのだろう?
 多くの企業は組織として仕事をしているから個人が持ち帰ってということはそうはないと思う。終わらない仕事は会社でやれば残業手当もつくし、目に見えるから評価にもつながる。それを家に持ち帰ったのでは元も子もない。


 さて、そうしたことを前提に、記事の、
「教諭は2月4日、USBをバッグに入れて帰宅。自宅で成績を付けようとした」
 この部分を世間の人たちはどう理解するか。
「この教諭、能力がないことがバレないように、隠れて仕事をしようとしたな」
とでも思うのだろうか。あるいは、
「よほど人間関係に問題があって学校にいられないのかもしれない」
「勤務時間内に仕事が終わらないなんて、だから教師はダメなんだ」
「教員の能力低下が言われて久しいが、ここまで落ちているとは思わなかった」
 そんなふうに考えるのかもしれない。


 そう言えば私自身が小中学生のころ、長期休業の直前に1週間程度の半日日課があった。忘れていたが人々は「あれは子どものためではなく、先生たちが成績をつけるための半日休みだ」と噂し合ったものだ。 

 しかしもちろん現代では許されない。”子どもが1週間も半日日課で帰ってくるなんて! その時間の子どもの面倒は、誰が見るのだ”と、地方議会議員まで動員しての反対運動が起こるに違いないからだ。

 

「都立高校のブラック校則全廃」と聞いてビビったが、内容は大したものではなかった。要するに古くなった項目は捨て、表現をもう少し洗練させればいいというだけのことだ。しかしそれにしても、世の中の人たちはこんなどうでもいいことに、なぜかくも熱心に取り組むのだろう。

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記事


都立高のブラック校則全廃 22年度で ツーブロックや下着の色
など
(2022.03.10 毎日新聞

mainichi.jp

 

 東京都立高校を中心とする都立学校が、地毛でも髪を一律に黒く染めさせるなどの校則5項目について、2022年度に全廃することが明らかになった。都教育委員会が10日の定例会で報告した。廃止する校則はこのほか、下着の色を指定する▽頭の側面を刈り上げ、頭頂部の髪を伸ばす「ツーブロック」を禁止する――など。生徒と学校側が話し合い、延べ196課程で見直しを決めた。学校の理不尽なルールを「ブラック校則」と呼んで問題視する動きは各地に広がる。都立学校は4月からホームページで校則を公開する。

 

 都教委は「ツーブロック禁止」など、必要性が疑われる校則を6項目にわたって提示。高校を中心とした全都立学校196校の全日制、定時制など計240課程に対して21年4月、該当する校則の有無を調査した。その結果、延べ216課程で同趣旨の校則があることが判明した(複数項目に該当する場合、それぞれ1課程と計算)。

 

 都教委は学校側にこれらの校則の必要性を点検するよう通知。各学校で生徒会役員と教員が意見を交わしたり、保護者から聞き取りをしたりした結果、21年12月までに延べ196課程が該当する校則の来年度からの廃止を決めた。6項目のうち5項目は全ての課程が廃止する。

 

 ◇地毛証明書の任意提出は残る

 一方で、生まれつき髪が黒くない生徒や、くせ毛の生徒に「地毛証明書」を任意で提出させる校則については、35課程が廃止を決め、20課程はそのまま残す。生徒や保護者から「届け出を残してほしい」という声があったという。

 

 10日の都教委定例会では、教育委員から点検を評価する声が相次いだ。北村友人委員は「生徒たち自身が主体的に考えて物事を決めていく環境が尊重されることが大事。大きな一歩だと感じる」と述べた。

 

 山口香委員は「すばらしい取り組みだが、ここまで時間がかかったのは残念」とした上で、「日本人はルールをただ守ることが美徳だという教育をされてきた。みんなで納得してルールを守る社会をつくるにはどうすればいいか、議論するきっかけになれば」と話した。【竹内麻子】

 

 ◇都立学校の校則

 ※丸括弧の数字は、その校則を設けている課程の数で、21年4月と22年度以降

  • 髪を一律に黒く染める(7→0)
  • 「地毛証明書」を任意で提出する(55→20)
  • ツーブロック」を禁止する(24→0)
  • 謹慎は校内の別室ではなく自宅で行う(22→0)
  • 下着の色を指定する(13→0)
  • 「高校生らしい」などの曖昧な表現で指導する(95→0)

 

【ポニーテールにうろたえるな】

 つい最近、鹿児島市内の女子高校生が中学校時代、担任の女性教師に「ポニーテール禁止は何のため?」と訊ねたら「男子がうなじに興奮するから」と答えたという話がネットで話題となった。

 本当にそんな答えをしたのかはなはだ疑問だが、事実だとしたら“生徒の質問に迂闊に答えるからこういうことになる”というたぐいの話である。私だったら、

 「そうだよね、よく分からんよね。でもこの校則ができたときほとんどの先生が反対しなかったわけだから、そこには何らかの理由があったはずだ。ぜひ調べて先生に教えておくれ」

 そんなふうに答えておく。その上で私自身があちこちの先生に訊きまくって、納得できる理由があれば次回に生かし、なければ生徒をけしかけて「ポニーテール禁止条項反対運動」でも起こさせればいい。たいていの生徒は面倒くさくてやらないし、万が一始めたとしても納得できる理由のないことは確認済みだから職員会でもすんなり通ってしまうだろう。

 それにしても今どき、教師と戦争してまでもポニーテールにしたい娘なんているのかね?

 

【「ブラック校則全廃」の実相】

 さて、今回の記事だが、ブラック校則を「全廃」するというのでかなりビビったが、内容を見ると穏やかなものだった。

 生来の赤毛までも「一律に黒く染める」ようでは明らかに行き過ぎで、「地毛証明」を出した上で、のまま学校生活を送ってもらえばいい。生徒の中にはやっかんでいろいろ言う子がいるかもしれないが、その時こそ水戸黄門の印籠よろしく「地毛証明」を出して見せればいいのだ。そのための証明書じゃないか。

 

「『高校生らしい』などの曖昧な表現で指導する」だって問題はない。少々たいへんだが文言を変えればいいだけのことだ。

 

「謹慎は校内の別室ではなく自宅で行う」

 これについてはなぜブラックなのか分からないが、“我が家の不良息子がひとりで家にいる”と考えただけでも気絶しそうになる保護者にとってはブラックだ、ということかもしれない。

 学校だって“わが校のヤンチャ生徒が別室に一人でいる”と考えただけでも教師は震え上がる。しかしこれだって空き時間の先生がべったりついて指導すればいいだけのことだ。そのぶん負担は増えるが、「教員の働き方改革」なんて最初から絵に描いた餅だ。次々と教師が倒れ、校内で教員の定数割れが起こればまた別の動きが出てくるのかもしれない。それまで、みんな頑張ってくれ。

 

【ツーブロ・カラー下着の賞味期限は切れた】

 さて問題は「ツーブロック禁止」と「下着の色指定」だ。私もつい先日、「ツーブロック禁止も必要だ」みたいな文書を書いたばかりなので気が引けるが、よく考えてみたらこれももはや、どうでもいいことになっていた。賞味期限が切れている。

 

 これらが校則になったのは実はその形状や色のためではない。ツーブロックとカラー下着が、反抗のシンボルだったからだ。

 大昔から辿れば、喫煙や飲酒、長ランや短ラン・ボンタン、茶髪にガングロ、ルーズソックスにミニスカート、逆にロング。ピアスにタトゥー、木刀にバタフライナイフ――これらすべては一部の先鋭な子たちが、フツーに勉強しフツーに生活する子たちから自らを差別化し、徒党を組んで他を圧倒し、威圧し、もってアイデンティティとするための道具だった。だから禁止対象となった。ところがこれには流行り廃りがあって、いつかその役目を失う。

 ルーズソックスにミニスカートはフツーの子が大量に参入することによって差別化の意味を失う。タバコは今も反抗のシンボルだが、少々値が張りすぎてたいへんだ。茶髪にガングロは今となっては子どもですら意味が分からない。そしてツーブロックにカラー下着の時代が来て、いま終わろうとしている。

 

 ツーブロックはフツーの子の穏やかなツーブロに侵食されて、どこからが不良なのかよくわからなくなってしまった。だからこれで差別化を図ろうとしたら昔のXジャパンくらいにとんでもなく髪を逆立てなくてはならない。そうなるともう誰もついてこられなくなるから教師は与しやすくなる。恐ろしいのは影響を受けた子たちが次々とあちら側に行ってしまうことで、誰もついて行けない不良は個別に指導すればいいだけのことだ。校則として維持するまでもない。

 

 カラー下着は謎だ。

 一般には教師たちがスカートをまくって下着検査をしたということになっているが、それで黙っている親も娘もないだろう。どこかでそんなことが起これば校名付きで全国ニュースになったはずだがそんな例はない。校則だからといってひとの子のスカートをまくって、セクハラ教師の汚名を着せられ懲戒免職になってもいと思うほど生徒指導に熱心な教師はいなかったのだろう。

 

 問題はスカートの中の見えない下着ではなく、上の方で透けて見える下着だ。一部の女の子たちがわざわざ透けるブラウスをみんなで揃え、その下にパステルカラーの下着をつけて結束の証とする――ガングロも茶髪もカラーギャングも色にこだわったから分からないでもないが、変なジジイの視線を限りなく引き寄せるあんな服装が、一時期とはいえ流行したこと自体が不思議だ。それで流行は意外と短く、いまやほとんど見かけることはない(というか、私はもう5年以上見たことがない)。

 

 要するにツーブロック・カラー下着が非行文化であった時代は終わった。だから禁止することもない。これを校則から外し、次に似たようなものが出てきたら改めて禁止する。昔ながらのイタチごっこを続けるだけのことである。

 それにしても東京都教委、さりげなく、うまいこと事態を収めたものだ。

定員に対する教員志望の全国一少ない佐賀県が、いよいよ受験生の落穂ひろいを始めたらしい。

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記事

 

小学校教員の秋採用、佐賀県で実施へ 全国最低の競争倍率に危機感
朝日新聞2022.03.09)

www.asahi.com

 佐賀県教育委員会は新年度から、小学校の教員採用試験を従来の夏に加え、秋にも実施するという全国でも珍しい取り組みを始める。受験者数が減って競争倍率の低下が進むなか、人材を確保するための工夫だ。県教委は「全国的にも珍しい」と話す。

 文部科学省によると、ここ15年の県の小学校教員採用試験の倍率は、2010年度の8・1倍をピークに下がり続けている。21年度採用は前年度と同じ1・4倍だったが、全国の都道府県で最低だった。

 県教委は、教員が多く必要な特別支援学級の増加や、団塊の世代の大量退職を補うために採用数を増やした一方で、受験者数が減ったことが要因とみている。これまでは、受験年齢制限と実技試験の撤廃などで人材確保に努めてきたが、依然低下傾向にあり、危機感を抱いているという。

 そこで秋採用に踏み切った。従来の夏採用は5月から募集し、7月に1次試験(主に筆記)、8月に2次試験(主に面接)、9月に合格発表だった。秋採用を採り入れると9月下旬から募集、11月中旬に筆記と面接をまとめて行い、12月に合格発表という流れが加わる。


 競争率が下がった理由として特別支援学級の増加はいいにしても、今さら団塊の世代の大量退職を補うためにはないだろう。団塊の世代は1947年~1949年生まれだから、現在75歳~73歳。佐賀県はこれまで、こんな人たちまで正規職員として留め置いたのか?
 要因の分析は間違っていると思うが、採用数が減らない中で志願者が十分増えない、あるいは減っているという状況には違いはないだろう。しかしそれにしても夏・秋2回の採用試験とは!
 他県で落ちた受験生を再度拾い上げようということだろう。佐賀県の1・4倍の夏試験で合格した受験生よりも、2倍以上の競争率の都道府県で落ちた受験生の方が優秀ということもある。それはそれで筋の通った苦肉の策だ。

 

 苦肉とは本来自分の肉体を痛めつけること、苦肉の策とは、本来、人間というものは自分を傷つけることはないという思い込みを利用して敵を騙す計略のことを言う。兵法三十六計の第三十四計にあたる戦術だという。
“ここまで来たら恥も外聞もない、とにかく教員を集めるしかない”という佐賀県の立場も分かるが、どう見ても本質的な問題解決とは言えない。もちろん佐賀県は先陣を切っただけのことで、全国どこで起こっても不思議のない話ではあるが――。

世の中の人たちは本気で、どんな服装をしていてもどんな髪型をしていても、子どもたちは苦しい勉強に耐えて立派な大人になれると信じているのだろうか? 大人たちの多くが、スーツやユニフォームで身を固め、身だしなみに気を遣わないと社会でうまく動いていけないと感じているというのに、子どもたちにはそんな優れた力があると信じられるのはなぜだろう?

f:id:kite-cafe:20220309114626j:plain(写真:フォトAC)

 

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「身だしなみ校則は人権侵害」 父親の弁護士が民事調停を申し立て
朝日新聞 2022.03.08)

www.asahi.com 子どもが進学を検討した公立中学の校則が生徒の人権を過剰に侵害しているとして、大分市内の父親が民事調停を申し立てた。制服や髪形といった身だしなみに関する規定を問題視し、親が子どもに校則を守らせる義務がないことの確認を市と学校に求めている。

 2月10日付で大分簡裁に申し立てた。

 父親は大分市に住む弁護士(61)で、小6の長男の進学先として、自宅最寄りの市立中を考えた。この中学の校則は、制服を男女別2種類と定めた上で、髪形は「後ろは襟にかからない」、靴下は「くるぶしソックスは不可」、通学靴は「白のひもつきの運動靴」と、細かく規定していた。

 女子生徒の髪形は、「襟にか…

 

 有料記事のため続きの部分は読めないが、弁護士でもある父親は息子の進学先の校則を見て、
「どのような身だしなみをするかは基本的に自由。権利を軽視している」と感じた
そうである。さらに、
 昨年2月に制服が義務かどうかを学校に確認。学校から「強制できないが指導する」と返答があった。
とのことだ。
 たしかに、
髪形は「後ろは襟にかからない」、靴下は「くるぶしソックスは不可」、通学靴は「白のひもつきの運動靴」
を合理的に説明することは難しい。しかしこういう問いかけはどうだろう?
 葬式に喪服で出かけ、結婚式に式服で出かけ、就職の面接にリクルートスーツで出かけることに、合理的な説明はできるか。全員が同じ作業服を着ている工場やレストランの従業員に、「どのような身だしなみをするかは基本的に自由」という論理は通用するのか。学校は学びの場であって、だからこそそこには尊重すべき身だしなみがあると考えることに、なんの不都合があるのか――。

 実は学校が本当に禁止したいのは、右のような服装であり、髪型なのだ。教師たちはこんな服装をされては他の子どもたちが委縮して正常な学校生活ができないと感じている。また異形の本人も、こんな姿ではまともな勉強はできないと思っているのだ。
 とりあえず学校の体育でマット運動はできないだろう。水泳もダメ、バスケットボールだってやってくれるか分からない。あるいはこの扮装をつくり上げるために毎日かかる時間を考えると、どこに苦しい勉学を続ける要素があるというのか。そもそもこの姿で、毎日学校と家庭を往復するだけの生活に耐えられるだろうか。
 保護者や地域の人々は、こんな格好の生徒が跋扈していても、だれも学校に頼ったり苦情を入れたりせず、温かい目で見守ってくれるだろうか。
 本来アカデミズムの上に成り立っている学校で、この風体は勉学をするにふさわしいものだろうか。

 こう言うと必ず出てくるのが、「そういうとんでもない子だけを取り締まればいい」という差別化の論理だ。ちょうど「マスクは全員がするのはバカらしい。ウイルスに感染している人だけがやればいい」という非現実論と同じだ。
 だとしたら再び問おう。その線引きをするのは誰で、規制をするのは誰なのかと。
 毎日、ものさしを持って校門の前で、生徒の髪の伸ばし具合や服の袖丈を測り、怒鳴り合い、必要なら別室指導を一日中続ける、そうした業務も教師の仕事だというなら、それはそれで別の問題として考えよう。

 

ようやく教員免許更新制度の廃止が正式に決まった。「お前たちはバカだから、“自信と誇りを持って教壇 に立ち、社会の尊敬と信頼を得ること”ができるように、更新制を用意したから自腹を切って受講しろ」と強要された制度がなくなるのはいいことだが、この14年間の屈辱を、政府はどう償ってくれるのだ?

f:id:kite-cafe:20220228093157j:plain(写真:O-DAN)

 

記事

教員免許更新制7月廃止を閣議決定

(2022.02.25産経新聞

www.sankei.com

 政府は25日、教員免許に10年の有効期限を設けている教員免許更新制の規定を削除して施行日を7月1日とする教育職員免許法改正案を閣議決定した。開会中の通常国会で成立すれば、今年7月1日以降に期限を迎える教員は更新講習受講などの手続きが不要になる。

 更新制廃止後も教員の質を確保するための方策として、教育公務員特例法改正案に教育委員会に個々の教員の研修受講履歴を管理することを義務付ける新たな仕組みを盛り込んでいる。校長には教員の経験や適性を踏まえ、受講すべき研修について助言するよう求める。文部科学省は新たな研修制度について令和5年度の開始を目指している。

 更新制は、第1次安倍政権だった平成19年の法改正により、21年から導入された。期限前の2年間のうちに30時間以上の講習を受けて修了する必要があり教員の多忙化の一因とされてきた。人材確保に影響を与えて教員不足につながっているとの指摘もあることから文科省が廃止を決めた。

 

 評

 この記事の一番良いところは最後の一行、
人材確保に影響を与えて教員不足につながっているとの指摘もあることから文科省が廃止を決めた。
である。要するに政府の事情によって廃止するのであって、教員を思ってのことではない。

 

 教員免許更新制は、それがなかった時代に比べて“手続きが面倒だ”ということはあっても、多忙化という点ではさほどの負担ではなかった。実際の研修は夏休み中に行われ、更新講習を受ける教員はその他の講習を免除されるのが普通だから、他の教員に比べて格段に負担が大きいというわけではない。しかもどんな場合にも全く役に立たない講習というものはほとんどないから、勉強好きの教員たちはそれ自体が嫌だったわけではない。講習のたびに書かされる感想欄にも「よかった」という声は多かった。

 

 問題は同じ国家資格である医師や看護師や弁護士と異なって、教師だけが更新講習を受けなくてはならないという差別的な恥辱である。しかも自腹で金を払って「やらせていただく」仕組みは、教師を傷つけた。

 

 もちろん自動車運転免許のように加齢や身体状況の変化によっては継続を思いとどまらせなければならない場合もあれば、電気工事士一種のように最先端の技術についていかれているか確認する必要のある免許もある。だが教職は人の命に直結するような職業ではない。研修も常に受けている。

 それにもかかわらず教員だけが更新講習を受けなければならないとしたら、それは「教員がバカだから10年に一度は調べるぞ」ということに他ならない。教員免許更新制は、そもそも指導力不足の教員排除のために考えられたものだ。

 

 ところが法的に“排除”が難しいということになって、目的が、
「その時々で教員として必要な資質能力が保持されるよう、 定期的に最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを持って教壇 に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すもの」
となってよけいに訳がわからなくなった。
 訳がわからないまま、教員は仕事を続けたいばかりに10年に一度、力量を伸ばせなかった罰金を支払うかのように3~5万円を納入し、この講習を受けてきたのだ。
 実に屈辱的な制度だった。

 

 もっともこうした屈辱的な職業だから教職が避けられ、教員不足が生じたわけでない。大学卒業の際に教職を選ばなかった人や途中退職した人が、講師あるいは教諭として学校に戻ろうとしたとき、すでに免許が失効しているという事態が多発したためである。もちろん受講料を払って更新講習を受ければいいのだが、それが意外と高いハードルになっていたのだ。

 

 教員免許更新制がなくなるのはよいことだ。しかしこの14年間に屈辱を味わった教師たちの恨みは、どう償われるのだろう。