キース・アウト

マスメディアはこう語った

最もあぶらの乗った40代教師から見れば、職場の同僚たちはあまりにも無力で情熱に欠けるように見えるだろう。しかし考えてみるといい。あなたが20年近くかけてひとつひとつ解決してきた問題に、若い人たちは無力なまま、いきなり直面させられているのだ。

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同僚に舌打ち・あいさつ無視4年間、歴代校長らが注意していた女性教諭を戒告処分
(2022.02.16 読売新聞)

www.yomiuri.co.jp 約4年間にわたり、同僚に対し、あいさつを無視したり、舌打ちしたりするなどの行為を繰り返したのはハラスメントに当たるとして、堺市教育委員会は14日、市立小学校の女性教諭(41)を戒告の懲戒処分とした。

 

 市教委によると女性教諭は2017年度~20年12月、同僚の30代女性教諭のあいさつを無視したほか、ため息や舌打ちを繰り返したという。机に乱暴に物を置く、扉を強く閉めるといった行為、職員会議で自分と異なる意見が出ると、大声を出したり物に当たったりすることもあり、歴代の校長らが注意していた。

 

 市教委に対し「仕事への姿勢や価値観が違い、感情が抑えられなかった」と話しているという。

 

【それほどのこととも思えないのだが――】

 先生と呼ばれる人は全国に100万人近くいるから、1000人にひとりといった特別な奇人もざっと1000人近くいることになる。だから同僚に舌打ちしたり挨拶を無視する輩もいないわけではないだろう。職員会議で自分と異なる意見が出ると、大声を出したり物に当たったりするとなると、これはもう教育委員会よりも病院に相談すべき内容で、戒告の懲戒処分というのも馴染まない気がする。

 

 おそらく実際にはもっと大変な状況があって、しかし発表にはなじまないので穏便な形で世に出したのだろう。これだけでは不当とも妥当とも判断しがたい。しかし私は
「仕事への姿勢や価値観が違い、感情が抑えられなかった」
という女性教諭の発言が気になるのだ。

 

【同僚たちが不甲斐なく見えるのは当たり前】

 同僚の仕事への姿勢や価値観が、立派なので腹が立ったということではないだろう。おそらく逆だ。
 ある種の教員には、自分より働いていない同僚たちが許せない人たちがいる。自分ばかりが働かされているという被害者意識があると言ってもいい。

 

 教員世界では誰もみな過酷な労働環境下で働いていて、その中には優秀な者もいればそれほどでもない者もいる、苛酷であることに耐性のある人もいれば弱い人もいる、まったく自由に時間を使える人も、介護などでギリギリの日常を送っている人もいる――。
 もちろん処分を受けた女性教師も、多くの場合は同僚の状況を斟酌できたろう。しかし全く問題のなさそうな人たちの不熱心や情熱のなさは許せなかったのかもしれない。特に若い教師たちだ。

 

 だが、考えてみてほしい。
 41歳といえば職業人として最もあぶらの乗り始める年齢ある。20代はおたおたと過ごし、30代では力を蓄え、40代となると周辺のことはだいたい目を瞑っていてもできるようになる。要するに最も充実した時代に差しかかっている。
 そんなあなたからすれば、年下はみんな不甲斐なく、50代・60代はすでに枯れて見えるはずだ。それで当たり前ではないか。

【あなたは立派だった。しかし若者たちだって立派だ】

 あなたが大学を卒業と同時に教員になったとすると、2003年か2004年の新規採用者だ。このころの学校は始まったばかりの「ゆとり教育」でみんなが苦労していた。手探りの部分が多くありすぎて、ベテランといえど新人に自信をもって助言できる人はいな かった。あなたも大変だったに違いない。
 ところがようやくゆとり教育に燈明が見えたころ、突然、それは終わった。

 

 代わって始まったのは、減らした時数を元に戻さず内容だけを戻す「学習内容の詰め込み教育」だ。
 これにもあなたはよく耐えた。全国学力学習状況調査が行われ、学校マネジメントといったこともしなくてはならなくなった。小学校英語が始まり、プログラミング学習も始まる。そして新型コロナだ。

 あなたの今日までの頑張りに比べたら、特に年少者たちはまるで努力していないように見える。

 

 だがどうだろう。
 あなたが20年近い歳月をかけて経験してきたことを、若い教師たちは一時に経験しなくてはならないのだ。あなたが徐々に、力量を上げながら対処してきたことに、若者たちは無力なまま、いきなり直面させられている。

 

【できることは他にあったろう】

 どの世界もそうだが、より優れた者、より強い者、より余裕のある者が弱い部分を補い、全体として良くしていくのが人間社会の習いだと、私は思っている。

 

 あいさつを無視したり舌打ちをしたところで、弱者が急に強くなるはずもない。あなたがすべきことは他にあったはずだ。

 

昨年度、全国で2500人もの教員不足が発生したというが、それにも関わらず文科省は”深刻な事態には至っていない”と強弁する。無理もない。打つ手がない以上、しらばっくれるしか方法がないのだ。

(写真:フォトAC)

 

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全国で教員不足2558人 文科省初調査

(2022.01.31産経新聞

www.iza.ne.jp  文部科学省は31日、教員不足の実態に関する初めての全国調査結果を公表した。文科省によると、全国の公立小中高校・特別支援学校が今年度当初に配置された教員数は、各教育委員会が予定していた教員数に比べて2558人不足していた。全体の5・8%の1897校が該当する。教員の職場環境の厳しい実態が判明した。

 

 文科省は教員不足について、全国の公立学校で配置されている教員数が、臨時教員などが確保できなかったために各地の教委が配置を予定していた数に届かなかったケースと定義。調査は全都道府県・政令指定都市などの教委からの報告をもとに取りまとめた。

 

 全国の公立小中高校・特別支援学校には約83万人の教員が配置されている。不足の内訳は小学校1218人、中学校868人、高校217人、特別支援学校255人。文科省は年度当初から約1カ月経過した昨年5月1日時点も調査し、不足は4・8%に当たる1591校で計2065人とやや改善していた。

 

 各学校とも不足に対しては、少人数指導やチームティーチングのために確保していた教員を配置したほか、教頭などの管理職が担任を兼務することなどで対処。文科省では教員不足によって「授業が停滞するといった深刻な事態は把握していない」としている。

また文科省は31日、都道府県教育委員会などが令和2年度に実施した教員採用試験の競争率も公表。小学校の全国平均が2・6倍と前年度比0・1ポイント減で過去最低だったことが判明した。中学校の競争率は同0・7ポイント減の4・4倍、高校は同0・5ポイント増の6・6倍だった。

 

 単純に計算すると、令和2年度に実施した教員採用試験の競争率で小学校の全国平均が2・6倍なら、落ちた1・6倍分が教職浪人として残っていてくれたら、教員不足など起こらないはずだ。しかしそのなかには「冷やかし受験」もいれば「やってみただけ受験」もある。さらにはすでに講師として働きながら再び正規採用に至らなかった人もいる。この人たちは新たな講師要請には応えられない。
 そしてそれらを差っ引いた残りが一応の「講師候補」なのだが、この層の大半が別の仕事に従事しており、事実上は払底してしまっているということなのだろう。もう一年頑張って採用を目指そうなどという、昔ならいくらでもいたが、今は少ない。

 

 資格を持つものの現在は仕事に就いていない看護師を“潜在看護師”というように、免許を持つのに仕事に就いていない元教員を “潜在教師”と呼ぶなら、この人たちを掘り起こせばいいようなものだが、結婚や出産によって職場を離れた教師たちは、今や更新制のために免許を失効してしまっている。
 もちろん取り戻すのは困難ではないが、今の状況でブラックな世界へ立ち戻ろうという人は多くない。私だってもう嫌だ。

 

 各学校とも不足に対しては、少人数指導やチームティーチングのために確保していた教員を配置したほか、教頭などの管理職が担任を兼務することなどで対処。文科省では教員不足によって「授業が停滞するといった深刻な事態は把握していない」としている。

 少人数指導やチームティーチングを解消し、あるいは管理職が担任を兼務して、なおかつ

「授業が停滞するといった深刻な事態は把握していない」
というのは、どういうことか?
 「支障はあるが深刻ではない(管理職が担任になっても、少人数指導などができなくなっても)」ということか、
 ただ単に「把握していない(怠っている、見て見ぬふりをしている)」ということなのだろうか?

 

 いずれにしろ、すでに手遅れの事態に対して、私としても語るべき言葉がない。

 だがそれにしても、産経新聞がなぜこんな重要なことを無批判に記事にできるのか――それは解せない。

 

 

一部自腹で毎年修学旅行に参加しなければならない校長が、スイートルームに宿泊したと非難されている。ミーティングのできる広い部屋でさえあれば、どこでもよかったのだが他に部屋はなかった。コロナ禍でとんでもない苦労の末に実現した修学旅行だが、それでも配慮が足りなかったと学校は責められているのだ。

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(フォトAC)

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修学旅行で校長が1泊13万円のスイート宿泊 教委「上乗せない」

(2021.12.08 朝日新聞)

www.asahi.com 

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 大分市は7日、市立小中学校6校の修学旅行で、引率した校長が宿泊先の大分県内のホテルでロイヤルスイートルームに宿泊していたことを明らかにした。通常の室料は税込み1泊13万2千円だが、市教委は旅行会社に確認したとして「旅行代金に13万円が上乗せされているわけではない」と説明している。

 同日の市議会一般質問でスカルリーパー・エイジ市議(53)が質問した。市議によると、市立小学校で11月末にあった修学旅行の「しおり」に記された宿泊先の図面と部屋割りに、校長の部屋が「ロイヤルスイートルーム」とあるのを見た保護者から「税金が使われているのではないか」といった疑問が出たという。

 ホテルによると、この部屋は168平方メートルあり、ジェットバスなどが備えられている。市教委とホテルによると、部屋割りは学校側の「子どもと教員を同じフロアに、校長の部屋はミーティングのため広めにしてほしい」といった要望に沿ってホテル側が決めており、スイートルーム宿泊は学校側の要望ではないという。料金についてホテルは、学校側が示す規定額に収まるようにしていると話した。

 エイジ市議は一般質問で「このような高級な部屋に泊まるのは一般的に考えられない。職務である引率で、このような宿泊は正しいのか疑問だ」と指摘。末松広之教育部長は「校長を含む教職員と児童が支払った金額は同額。児童および保護者に疑念を抱かせてしまい申し訳ない。校長会などで綱紀粛正が図られるよう指導する」と答弁した。

 エイジ市議は「保護者や市民の感情からすると、おかしいと感じるはずだ。子どもたちも校長先生が13万円の高級な部屋に泊まったことを知っており、教育上どうなのかと思う」と話した。

 

【これが議会で扱う内容か?】

 ツッコミどころが多すぎて、どこから包丁を入れたらいいのかわなからないような記事だが、とりあえずこんなくだらない話が市議会の一般質問の中で扱われたこと自体がわからないというところから始めよう。
 校長の部屋が「ロイヤルスイートルーム」とあるのを見た保護者から「税金が使われているのではないか」といった疑問
を持った保護者がいたなら、その人はまず学校か教育委員会に自分で問い合わせればいいではないか。そんなくだらないことを市会議員に頼む方がどうかしているし、引き受ける方も引き受ける方だ。
 仮に引き受けたとしても、議員自ら学校や教委に問い合わせれば合点の行く話だ。どう考えても市民から託された大切な時間を使って質問するようなことではない。
 さらに言えば、こんなくだらない記事を全国に流しているようでは、朝日新聞の行く末も心配になる。

【学校とホテル、両者に得なやり方だった】

 とにかく先生たちは、
「子どもと教員を同じフロアに、校長の部屋はミーティングのため広めにしてほしい」
と望んだだけなのだ。短時間にしろ、宿舎での教員のミーティングは必要だ。しかも見学先と違って、ホテルに入って気の緩み切っている生徒たちは一瞬たりとも目が離せない。したがって遠く離れた会議室へ全職員を集めるというわけにもいかない。不可能ではないが、目の前に広い部屋があるの、わざわざ遠い区へ行く必要もない、と教師たちは考える。それが普通なのだ。
 ホテルとしても、両脇すべてが修学旅行生のフロアの中央に、VIPやら新婚さんを入れるわけにはいかないだろう。空気を泊めるか学校から希望のあったミーティング・ルームにあてるかだ。同じフロアにほかの広い部屋があるわけではない。
 私は、むしろ校長はこの部屋に押し込められたのではないかと思っている。図を見ると職員の部屋は生徒の部屋を挟むように(あるいは部屋の要所要所に)配置している。それは生徒を管理する教師の根源的な欲望である。
 ということはいずれにしろロイヤル・スイートか隣の432号室(ツイン)には誰かを入れなければならない。校長か学年主任か、その他の職員か――。答えはおのずと明らかだろう。432に校長を入れて、ミーティングがあるたびにロイヤル・スイートに来てもらうというやり方もあるが、入れ代わり立ち代わり校長と話さねばならないとしたら最初からいてもらう方が楽だ。
 校長としては、自分の部屋に職員が出入りするとなると散らかしておくこともできず、迷惑な話だがその方が便利となればいたしかたがない。かくてそうした配置になった、それが事実だろう。

【校長は神様、ロイヤルスイートがふさわしい】

 それにしても、校長がロイヤル・スイートに泊められていたというのは実に象徴的だ。
 修学旅行の引率に参加する校長なんて全く役に立たない。現地で「次はどこに行くんだ?」などといっていられるのは、子どもを含む全参加者の中で校長だけである。全く役に立たない。
 しかしそれにも関わらずほぼ確実に校長が引率責任者になるのは、まさにその“責任”を取るためである。校内と違って一朝、旅行先の事故となると半端では済まない。生徒が交通事故に遭った、窓伝いに女子の部屋に行こうとして転落事故を起こした、飲酒した、集団万引きがあった――等々、めったにないことだが起これば重大だ。その責任を、学年主任に取らせるわけにはいかない。何しろ校長は定年退職が目前、学年主任は一家の大黒柱として働き盛りの30代~40代だ。辞職すべきはどちらか――誰が考えたって答えは同じになる。
 かくして多少重くても、校長を神輿に乗せ一緒に連れて行くのが便利ということになる。そして校長はいざというときの守り札、神様のようなものだからロイヤル・スイートにでも投げ込んでおくのがふさわしい――。 

【校長は、好きでもないミュージカルを毎年、自腹で観るのが仕事】

 もっとも神様扱いでも連れていかれる校長の方は気の毒だ。
 記事に、
 校長を含む教職員と児童が支払った金額は同額。
 とあるように、交通費・宿泊費・食費・見学料などはみな一緒。もちろん市町村から基本的な費用は補填されるが、体験学習などはやらなくても済むということで出ない(しかし校長だけやらないで済むか?)。
 また、学年主任が張り切って「どうしても子どもたちに一流のミュージカルを見せたい」とか言い出してS席など取ろうものなら、子どもは6050円でも大人は12100円だったりもする。もちろん夜の浅草仲見世巡りみたいな無料イベントとも交換できる内容なので市町村からは一銭も出ない。すべては自腹。昼食も基本料金に上乗せする部分は自腹、遊園地も子どもと一緒に楽しもうとすれば自腹。
 数年に一度しか引率をしない教師はまだしも、校長と養護教諭は毎年参加である。たまったものではない。そのうえ責任まで取らされて、校長はほんとうに気の毒である。

【その修学旅行は簡単に計画されたものではない】

 2年続きのコロナ禍で修学旅行。
 大分市内の小学校が、大分県内のホテルにしか泊まれなかったと聞くだけで涙が出てくる。いったい何回延期をし、何回計画を作り直し、そのたびにホテルを探し、頭を下げてここまでたどり着いたのか。それを、
「子どもたちも校長先生が13万円の高級な部屋に泊まったことを知っており、教育上どうなのかと思う」
と刺され、教育長が、
「校長会などで綱紀粛正が図られるよう指導する」
と答弁する。

「子どもと教員を同じフロアに、校長の部屋はミーティングのため広めにしてほしい」
は、その学校の例年通りのやり方なのだろう。それがたまたま今年はロイヤルスイートだっただけの話だ。それなのに綱紀粛正の問題として校長会で指導される。

 校長をロイヤルスイートに配置してしまった修学旅行の計画作成者(おそらく学年主任)もホテルの責任者も、こころの中で泣いているに違いない。

 事情を知ればその方がよほど、保護者や市民の感情からすると、おかしいと感じるはずだと、私は思う。
 

ここのところ急速に増えつつある不登校に関して、中教審は対面型一斉学習の見直し、同年齢同一学年の見直しなどを言い始めた。 どさくさに紛れてエリート養育を始めようという腹だ。

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(写真:フォトAC)

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不登校過去最多「授業の改善も急務」 末松文科相

(2021.11.02 日本教育新聞)

www.kyobun.co.jp
 不登校の増加に歯止めがかからない状況から、一斉授業を原則とする現在の学校制度の見直しを求める指摘が中教審などで出ていることについて、末松信介文科相は11月2日の閣議後会見で、「不登校児童生徒への支援については、スクールカウンセラーの拡充など、教育の相談体制の充実に取り組んできたが、授業の在り方の改善も急務と思う。制度の問題があるが、現場で対応できることもたくさんあると思う」と述べ、ICT活用と少人数学級の推進を軸として一人一人の子供に対応することで、不登校への支援につなげていく考えを示した。学校制度見直しの必要性については「あらゆる観点から常に考えていくことが大事。今はそこまでしか申し上げることはできない」と慎重姿勢を崩さなかった。

 末松文科相は、小中学校の不登校の児童生徒数が昨年度に過去最多の19万6127人となったことについて「憂慮すべき事態」と指摘。増加の背景を「児童生徒の休養の必要性を明示した教育の機会確保の趣旨が浸透した側面もあるが、コロナ禍での生活環境の変化によって生活のリズムが乱れやすい状況もあった」と説明した。
(中略)
 不登校の増加と学校教育については、10月28日の中教審初等中等教育分科会で、委員から「調査結果は深刻度を年々増している。対面、学年制をはじめ、同年齢の子供たちが同じ学びを共有するという、この学校制度モデル自体がひずみを生んでいる。新しい学校制度モデルを検討する段階に来ている」(貞廣斎子・千葉大教授)、「不登校の要因を見ると、学校が何らかの変化をしなければならないところが多い。これは今の学校に対する明確なフィードバックだと受け止めていい」(今村久美・認定NPOカタリバ代表理事)と、学校制度の見直しが必要との指摘が相次いだ。荒瀬克己分科会長(教職員支援機構理事長)も「本当に重要な課題。具体的にどういった学校の在り方が今の子供たちに必要なのか考えていかなければならない」と述べた。

 

【問題の所在】

 記事は要するに本質的・全面的な教育改革を求める中教審文科省の常設諮問会議)の過激な意見に対して、文科省が「いや、待て、今のままで何とかなる」と抑えにかかったという話である。
 それにしても中教審はすごい。

  • 対面、学年制をはじめ、同年齢の子供たちが同じ学びを共有するという、この学校制度モデル自体がひずみを生んでいる。新しい学校制度モデルを検討する段階に来ている
  • 具体的にどういった学校の在り方が今の子供たちに必要なのか考えていかなければならない

 20万人近くにも膨れ上がった不登校も問題だが、そのために950万人に及ぶ日本の小中学生の学びのあり方を、根本から変えようというのだから凄まじい話である。

 

【思いつきで今日の学校制度ができたわけではない】

 日本の教育は近代以降だけでも150年近い歴史をもつのだ。教育学は小さな改良を重ねて入れ替える「経験の学問」であって、研究室の実験の成果を現場に移す実験科学ではない。
 同年齢・同一地域の子どもたちを一か所に集めて対面で学ぶという学習のあり方は、先人たちがたゆまぬ努力と犠牲によって獲得したものである。それを否定する以上は、よほど確かな未来の学校像がなくてはならない。
 
 もちろん発言者である貞廣教授には、留年・飛び級と合わせてリモートによって全国のトップエリートが学びを共有する未来の学習といった見通しがあるのだろう。それならば現在の学習に倦んだエリートは生き生きと学び続けるだろう。
 残った子どもたちは自分の身の丈に合った学習を、気持ちよく行えばいい――しかし子どもたちは、勉強がわからないから学校に行きしぶっているだけなのだろうか?
 この機に無学年制(到達度別学級編成)を行おうというのは別件逮捕のようなものだ。本来の狙いは別のところにある。

 

文科省、逃げる】

 常に中教審の考えを尊重しなくてはならない文科省もさすがに腰が引けたと見えて、末松大臣も、
「あらゆる観点から常に考えていくことが大事。今はそこまでしか申し上げることはできない」と慎重姿勢を崩さなかった。
ということになる。しかしだからといって、
 制度の問題があるが、現場で対応できることもたくさんあると思う
はないだろう。
 不登校について、現場はもうできることはやりつくしており、疲弊しきっているのだ。
 
 文科省スクールカウンセラーの拡充など、教育の相談体制の充実に取り組んできたのは事実だが、そのカウンセラーがあざやかに問題を解決したという例を私は聞かない。そんなすばらしい方法があるなら、すでに全国に波及しているはずだとも思う。教師は勉強家で、しかも不登校解決の妙案を渇望しているのだから――。

 

【それはない!】

 大臣! あなたの、
「児童生徒の休養の必要性を明示した教育の機会確保の趣旨が浸透した側面もあるが、コロナ禍での生活環境の変化によって生活のリズムが乱れやすい状況もあった」
という説明は、ここのところの急激な不登校の増加を説明するのに、十分とは言わないが、かなり適切なものだ。それなのに、
ICT活用と少人数学級の推進を軸として一人一人の子供に対応することで、不登校への支援につなげていく
という頓珍漢!

 大臣、あなたは何も分かっていないわけではない。しかし正直な発言をしているわけでもないようだ。

 

 

「日本の中学校教師には暇がたっぷりある」という話が官僚から語られ、マス・メディアが追認するという恐ろしい新聞記事の話。そもそも中学校には小学校を応援する余力があるという考えはどこから来たのか。

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(写真:フォトAC)

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小学校の教科担任制「中学教員活用を」 財務省指摘

(2021.11.01 日本経済新聞

www.nikkei.com

 文部科学省が2022年度から公立小学校の高学年に本格導入する「教科担任制」について、財務省は1日、中学校の教員活用を求めた。小規模な中学校では教員1人当たりの授業時間が極端に少ないと指摘し、教員の定員増を目指す文科省をけん制した。

 教科担任制は教科ごとに決まった教員が教える仕組みで、文科省は22年度から小学5、6年生の「英語」「算数」「理科」「体育」を対象に本格導入を計画している。4年で8800人程度の教員増を見込み、22年度予算の概算要求では働き方改革に伴う定員増も含めて54億円(2475人増)を計上した。 

 財務省は同日の財政制度等審議会財務相の諮問機関)の歳出改革部会で、小中学校の教員の年間授業時間数はそれぞれ747時間、615時間といずれも米国や英国、フランスよりも少ないと説明。中学校では教員当たりの1週間の平均授業数が18.2コマに対し、1学年1学級の中学では平均11.6コマと「極端に少ない」として、小中連携による教科担任制の実現を求めた。

 小学校での英語必修化と異なり、教科担任制では年間の授業時間は増えないとも指摘した。学校内での教科担任の割り振りの工夫やオンラインを活用した学校間の連携などにも取り組めば、定員を増やさずに導入できる可能性があるとした。

(以下、略)

 

 

【日本の中学校の先生は、授業は少ないのに世界一働いている】

「日本の中学校の先生は、授業時数は少ないのに雑用が多くて、世界一働いているんですってね。たいへんですねェ」と言われ始めたのは、もう10年以上の前のことである。

 これには理由があって、OECDの調査「教員環境の国際比較:OECD国際教員指導環境調査(TALIS)」で、そのように報告されているからである。

 その2018版を見ると、日本の中学校教員の総労働時間は週平均58・6時間でダントツのトップ(2位はカザフスタンの48・8時間。OECDの全体平均は38・3時間だからその1・5倍近く働いていることになる)。しかし授業時間は週18・0時間でOECD平均の20・3時間よりも少なくなっているのである。

 

 では授業以外の何に時間を費やしているのかというと、諸外国に対して圧倒的に多いのが「一般的な事務作業(教師として行う連絡事務、書類作成その他の事務作業を含む)」の5・6時間(平均は2・7時間)。そこから、

「日本の中学校の先生は、授業時数は少ないのに雑用が多くて、世界一働いている」

という話が出てくるのだ。

 

 TALISの報告する授業時数、週18・0時間は60分換算なので50分授業に合わせると21・6授業時間である。別の言い方をすると日本の中学校教師は平均21・6コマを担当していることになる(*1)。

*1 1学年1学級の小規模校の、比較的授業時数の少ない社会科の教科担任、しかも学級担任をしていない(道徳や総合の授業がない)教師は週10コマがだから、そうした教員も含めての週平均21・6コマは妥当な数字といえる。

 ちなみにこれほどの小規模校となると、配当される教員は9名。校長・教頭を外すと教科担任は7名なので、技術家庭科・音楽・美術といった週1~2時間の教科担任は配置されない。地方自治体が講師で雇って数校かけ持ちにするか、複数免許を持つ教員が授業をかけも地にするかという選択になる。


 しかし週21・6コマは財務省の言う「18.2コマ」とだいぶ違う。18コマなら1日3時間担当の日が2日、4時間の日が3日で足りてしまう。つまり、空き時間が3時間もある日が1~2日、あとは毎日2時間空きなのだ。いくら平均でもそんなことがあり得るのか。

 

 週21時間だって控えめに過ぎる。学校5日制だからこれを割り振ると4時間授業の日が4日、5時間授業の日が1日。ほぼ毎日2時間の空き時間があることになる。いかに平均値とはいえ、ほとんどの中学校教員はそんな楽な仕事はしていないはずだ。

 

 

【欧米に比べると日本の教師は楽をしている・・・のか?】

 小中学校の教員の年間授業時間数はそれぞれ747時間、615時間といずれも米国や英国、フランスよりも少ない

 となるとさらに分からない。色々計算してみた(*2)が結局わからないので以下の点だけを指摘しておく。

  • たっぷり二か月間もの夏休みをとる英米の教員より、日本の教員の方が年間の授業時数が少ないというのはどういうことか。一般に英米の授業日数は日本より1割少ない180日というのが相場だが、日本よりも一割も少ない日数で日本を上回る時数を授業にあてている秘密はなにか。

  • 教育の国際比較では、対比できる教科のない場合は計算に含めないことがある。例えば、文科省「学校の授業時間に関する国際比較調査- 結果概要 -」には、はっきりと「(1)授業時間の定義/授業時間は,教科関連学習(道徳,宗教を含む)を対象。(特別活動,課外活動など)を除く )」とあり、「総合的な学習の時間」を含めて、他に類を見ない日本独自の学習は授業時間に含めないのが一般的である。
     部活動はもちろんだが、特別活動の排除は大きな問題である。というのは指導要領では年間に最低35時間やることになっている特別活動――実際には100時間以下であることは稀だからである。運動会や卒業式及びその練習、交通安全教室や避難訓練、遠足・宿泊行事を全部含めて、35時間に納めるなど絵空事である。

*2 学校は小中ともに年間200日もの登校日を持っている。引用部分の数値で計算すると、小学校教師は1日3・7時間、中学校教師は1日3時間しか仕事をしていないことになる。ただし747時間は授業時間ではなく60分換算かもしれないので、それを戻すと、小学校教師は1日4・98授業時間、中学校教師で1日3・69授業時間をやって終わりにしていることになる。

 中学校教師の授業時間についてはさまざまな形があるので一概に言えないが、小学校教師の場合はほとんどが1週間のすべての授業を学級担任が行っている。したがって1日5・8時間が原則だ。もちろん中規模以上の学校では音楽や理科に専科の教師のいる場合もあるが、それにしても平均1日5時間で済むというのは理解できない。

 

【数字で推し量れない現実】

 どういじっても理解できない数字をこれ以上いじっても真実は見えてこないだろう。それに数字が示す現実と、実際は必ずしも一致しない。 

 ここでは、

中学校では教員当たりの1週間の平均授業数が18.2コマに対し、1学年1学級の中学では平均11.6コマと「極端に少ない」として、小中連携による教科担任制の実現を求めた。

について、三つの側面から考えてみたい。

《小規模校の授業時間は偏在する》

 小規模中学校の現実を「平均」をあてに考えると、大きなミスを犯すことになる。というのは個々の教師の持ち時間がとんでもなくばらつくからである。

 

 多い方から言えば、最も授業数の多い外国語(英語)の教師は1~3年生まで週4時間ずつ、計12時間の教科指導をしなくてはならない。この教師が学級担任をしているとしたら、週1時間の「特別の教科道徳」、週2時間の「総合的な学習の時間」、週1時間ということにはなっているものの実際にはとんでもなく時間をかけている「特別活動」(とりあえず週1時間で計算しておく)、合わせて4時間超の授業時間が加算される。さらに学級担任でなければやらなくて済む「学級事務」もある。

 

 それに対して音楽科教諭で学級担任がない場合は、週にわずか3・3時間だけ授業をすればよいことになる。しかも1学年に生徒が10人しかいないような場合は、3学年一緒の授業にしてしまった方が指導としては合理的だ。したがって週1時間の授業ですんでしまう場合もある。

 

1学年1学級の中学では平均11.6コマと「極端に少ない」

の現実はこうだ。

 だから文科省が言っているように「英語」「算数」「理科」「体育」で小学校の教科担任制をやろうとすると、これらの教科の教員には学級担任を任せられないことになってしまう。教科担任とともに学級担任もしている教員に、小学校も見てやってくれとはとても言えない。学級担任は国語・社会・音楽・美術・技術・家庭の担当教師だけ――これで学校が回っていくのだろうか。

《小規模校の教師は授業以外で忙しい》

 中大規模校で週に5クラスも6クラスもの教科担任をする学校から、3クラスしかない学校に異動してきた教師が、一番当てが外れたと思うのは校務分掌である。とんでもない数の主任が来る。

 

 私はかつて計算したことがあるが、ひとつの学校で必要な係・委員・担当はおよそ60である。これは学校の規模を問わない。ウチは小規模校だから防災担当はいらないとか、教科書係はいらないとかいったことはないのだ。

 すると教員が60人もいるような大校では「一人一主任」で済むのに、1学年1学級、教員数7の学校では一人9役~10役ということになってしまう。

 実際には学級担任の負担を考えて主任の数を減らすので、他はひとり13役などといった人まで出てきて、それこそ朝から晩まで主任仕事をしていなくてならない場合も出てくる。

 運動会の基本計画とPTAのバザーの計画を同時に作成しながら、交通安全教室の警察の手配をするなど、荒業に挑戦する人も少なくない。

 まさに「小規模校、なめんなよ」である。

《小規模中学校の隣の小学校は小規模校》

 特殊な例を挙げて一般を撫で切りのするのは詭弁論理学の第一歩である。

 小規模中学校の教師に余裕があるからそれを使えと言われても、それは全体のごく一部にしか通用しない。そして一村一校のような小さな小中学校や小中併設校ではすでに行っていることであって、そんな古い方法を持ち出して概算要求を蹴られても困る。

 

 

【だが、しかし】

 ところで根本に戻って、記事は「小学校の教科担任制」を既定のものとして書いているが、それでいのだろうか?

 もちろん他の教師がやってきて授業を肩代わりしてくれれば小学校教師は楽だろうが、本質的な問題として、算数や理科は中学校の教師に任せればよりよく教えられるものだろうか? 中学の先生が使えなければ小学校内部で数学や体育の免許を持った教員を5・6年生に集中させるしかないのだが、そんな無理をしてまで、小学校の教科担任制は実現しなければならないものか――それが最大の疑問である。

 

週刊新潮によると、いよいよ来年度から高校で「ゆとり教育」が再開されるという――そんなバカなことがあるか? 誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がっていく――

f:id:kite-cafe:20211029193254j:plain(写真:フォトAC)

 

 

記事

22年春から「ゆとり教育」が再スタート 高校の指導要領に「総合的な探求の時間」が
週刊新潮 2021年10月21日号)

www.dailyshincho.jp

 

 生徒・児童の学力を奪い、文部行政最大の失敗作といわれた「ゆとり教育」が、看板を替えて再スタートする。文科省が2022年春から実施する高校の新指導要領に〈総合的な探究の時間〉という学習プログラムが盛り込まれるのだ。中身は、ゆとり教育を引き継いだものだ。

 文科省担当記者の解説。

ゆとり教育とは公式な呼び名ではなく、昔の詰め込み教育を否定した教育方針の総称です。02年から本格的に小中・高校で導入され、8~9年にわたって続けられました。たとえば、中学校では一般教科の授業が2割前後削られたのです」

 授業時間が短くなったことで円周率をはしょって「3」と教えたなどの逸話が残っているが(実際には3.14と教えていた)、代わりに登場したのが〈総合的な学習の時間〉だ。当時、文部省のスポークスマンとして、大臣官房審議官だった寺脇研氏が宣伝して回っていたアレである。ところが、同プログラムは教室をさらに混乱させた。

 

文科省は「ゆとり教育」を自画自賛

「〈総合的な学習の時間〉は、ゆとり教育の目玉。たとえば中学では70~130単位時間が必修とされたのですが、内容は教師の裁量に任されたため、何を教えてよいか分からないという事例が続発したのです」(同)

 例えば〈ドラえもんのハリボテ作り〉や〈アイドルのダンスの真似〉から、果ては〈東京タワーに登って景色を眺める〉、〈市内のお店の食べ歩き〉までが授業になったのである。結果、03年と06年に実施されたOECDの学習到達度調査(PISA)で、日本は大きく順位を落とした。いわゆる“PISAショック”である。

 その反省もあって08年の改訂版学習指導要領では〈総合的な学習の時間〉が、半分近く削られる。「脱ゆとり」の宣言には、さらに数年を要した。最近ではその名を聞くことも少なくなったが、〈総合的な学習の時間〉が無くなったわけではない。

(以下、略)

 

 今月26日の会見で小室圭・眞子ご夫妻は、否定的な報道やインターネット上の書き込みについて、

「誤った情報が、なぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がっていくことには、強い恐怖心を覚えました」

と語ったが、もはや一部の報道は“面白ければウソでも何でもいい”の時代に入っている。今回取り上げた週刊新潮の『22年春から「ゆとり教育」が再スタート 高校の指導要領に「総合的な探求の時間」が』にしても、これは調査不足というより扇動を意図したフェイク・ニュースである。これほど悪意に満ちた記事もそうはない。

 

 記事にちりばめられたウソをいちいち訂正するのも大人げないが、新潮が子どもじみたやりかたで仕掛けてくる以上、こちらも対応せざるを得ないだろう。

 

【「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間」を意図的に混同する】

 まず、新潮は「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間」をわざと混同している。

 22年春から「ゆとり教育」が再スタート

 そんなことはない。看板を替えて再スタートするのは「総合的な学習の時間」だ。「総合的な探究の時間」という名前に代えて中身を充実させるという話らしい(*1)

 

 確認しよう。

ゆとり教育」は学校五日制の完全実施に際して、全体の時数が大幅に減ることからそれに合わせて学習内容も減らした、教育課程全体のことをいう。

 時数を減らしたら内容も減らすのは当たり前で、ゆとりを生み出したいなら時数はそのままで内容を減らすか、逆に内容はそのままで時数を増やすしかないと思うのだが、なぜかそうならなかった。それだけではなく、記事にも出てくる寺脇審議官などは、

「内容を減らした以上、学校はすべての子どもたちにきちんとした学力をつけます」

などと吹聴して回ったから教師は苦しくなった。繰り返すが、内容を減らしても時数が減ってしまえば状態は変わらない。すべての子どもにきちんとした学力をつけるほどの余裕ができたわけではない。

 

 さらにそれだけでなく、寺脇審議官たちは「総合的な学習の時間」などというとんでもない置き土産を残した。これは文科省が児童生徒に“つける”と約束した問題解決能力を高めるための授業で、週3~4時間もの授業がいきなり学級担任に任されたため、いよいよ首が締まった――。

 現在でこそ週2時間だが(それでも多い)、日記を読んだり宿題を確認したりする時間が一気に吹っ飛び、それらは給食を食べながら行う仕事になった。

 

 教科書も指導書もない時間で、当時は「いよいよ担任の力量が試される時代が来た」などとマスコミにもてはやされたが、別に教師は力量など試してほしいとは思っていなかった。すでに十分に忙しかったからだ。そもそも大学で学ばず、採用試験でも問われたことのない力をどう発揮したらいいのか――。

 

 幸い「学力問題」騒ぎで「総合的な学習の時間」は週2時間に減らされたが、教科の学習内容は旧に復された。内容が元に戻ったからといって年間の時数まで戻ったわけではないので、教師はさらに苦しくなった。

 それが現状だ。

*1  高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説「総合的な探究の時間 編」(平成30年7月)

 

【総合的な学習の具体的内容を知らない】

 もう一度整理すると、

ゆとり教育」は学習内容を大きく減らした教育課程(カリキュラム)のこと、

「総合的な学習の時間」は児童生徒の問題解決能力をつけるために教師に与えられた自由な学習の時間のこと。

 

 引用記事で文科省担当記者が解説している部分は、「ゆとり教育」の説明としてはおおむね正しい。しかし「総合的な学習の時間」の説明は最悪だ。そもそも高校の「総合的な探究の時間」について話をしているのに、なぜ小中学校の「総合的な学習の時間」の内容が引き合いにされなくてはならないのか。しかもどういった活動が行われたのか、確認した様子もない。

 

 例えば〈ドラえもんのハリボテ作り〉や〈アイドルのダンスの真似〉から、果ては〈東京タワーに登って景色を眺める〉、〈市内のお店の食べ歩き〉までが授業になったのである。 

 たしかにありそうな話だ。私も〈ドラえもんのハリボテ作り〉には魅かれる。第一にこれは子どもたちが意欲を持ってやりたがるからだ。

 しかし、そもそもドラえもんのハリボテはつくっていいものだろうか? 著作権の問題はクリアできるのだろうか。できるとして、ハリボテというのはどういうふうにつくるのか。

 竹で芯をつくるとしてその竹はどこで手に入るのか、竹を割るというのはどういう作業なのか、割った竹はそのまま捻じ曲げてもいいものだろうか、竹と竹はどう接合するのか,紙はどうやって貼るのか、設計図は必要なのか、必要だとしてどう描くのか、そういえばハリボテの雄、青森のねぷたはどうやって作るのだろう、調べてみよう、試してみよう、やってみよう――それが問題解決能力を高める授業だと、教師は信じている(他に方法はあるか?)。

 

 何かをしようとすれば次々と問題が発生する、それを解決する能力が問題解決能力だ。その力をつけることが授業の目的であって、ハリボテをつくることやアイドルのダンスの忠実なコピーや、東京タワーに上ることが目的なわけではない。

 週刊新潮はそんなことも知らない。子どもたちはネット検索と電話取材だけで週刊誌の記事を書くような、安易な学習をしているわけではないのだ。

 

ゆとり教育は失敗だったのか】

 来年、令和4年度から高校の「総合的な学習の時間」は「総合的な探究の時間」に看板を替えて再スタートする。だからといって週刊新潮のタイトルにあるように「22年春から『ゆとり教育』が再スタート」するわけではない。高校の履修内容が大幅に減るなどという話はまったくない。それが事実だ。

 

 ところで文部行政最大の失敗作といわれた「ゆとり教育で育ったエンゼルス大谷翔平選手が今日(10月28日、日本時間29日)、大リーグの選手間投票で決まる「プレーヤーズ・チョイス賞」で、最高の栄誉にあたる「年間最優秀選手賞」と「ア・リーグ最優秀野手賞」をダブル受賞した。

 しかし週刊新潮の記者の目には、大谷翔平選手ですら失敗作にしか見えないのだろう。

 

(参考)

kite-cafe.hatenablog.com

 

「私が学校をよくした」と言えば政治家は票に結びつく。しかし現場を知らない人間の安易な発想は学校の首を絞める。さまざまな政治家が制度を入れ替える朝三暮四。しかしそのたびに学校は苦しくなるのだ。35人学級の軛(くびき)。

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(写真:フォトAC)

 

記事

35人以下学級 現場に悲鳴も 「きめ細かい指導」 喜ばしいが… 増えぬ教員、多忙に拍車
(2021.10.24 西日本新聞

www.nishinippon.co.jp


「福岡市の35人以下学級」

 「学校現場が大変なことになっています」。そんな声が福岡市立小の教員から、あなたの特命取材班に届いた。教員の長時間労働の深刻さはここ数年、全国各地で問題になっている。今回のケースは市が独自に導入した「35人以下学級」が関係しているという。現状を取材した。

 

 「クラスが増えても教員の増員はなし。そのしわ寄せは教職員に行っているんです」。意見を寄せてくれたリカさん(50代)は語気を強めた。

 市は昨年度まで、小学1~4年は一律、中学1年は学校側の選択で35人学級を実施。本年度は小中の全学年に拡大した。市教育委員会によると、コロナ対策を念頭に「密」の回避が目的だったという。

 クラスが増えれば、その分だけ学級担任が必要になる。市は追加採用はせずに特定の教科だけを担当したり、少人数指導をしたりする担任外教員を充てて対応することにした。

 

 担任をしない教員が減ることで何が起きるのか。リカさんの勤務校では1人の学級担任が病休に入ったことから問題が表面化した。

 昨年度はフルタイムで働く担任外教員が3人いたが、うち2人は本年度は担任になった。病休した人の代わりを任せようにも、残る1人も急な担当換えは難しい。結局、教科の年間計画作りを担う教務主任が学級担任になった。「35人学級の導入は喜ばしいが、クラスが増えた分の教員は配置してもらわないと困る。産休や育休も含めて担任が休みに入るとき、学校外からなり手を探してもすぐには見つからない」

 

 市教委によると、35人学級の拡大と児童生徒数の増加に伴い、今春に小学校は計136学級、中学校は計177学級増えた。担任外教員は小学校で137人減の計264人、中学校は36人減の計81人となった。

 2学期が始まった8月27日現在、小学校は計4人、中学校は計7人の教員の欠員が生じた。市教委教職員第1課は「教員が見つかり次第、速やかに配置したい」としている。

 

 小学校教員の男性(40代)の学校では昨年度まで重要単元は教員2人で授業をすることがあった。今春から担任外教員が減り、1人で授業をする。「きめ細やかな指導が難しくなった」

 ある小学校長は「本人の体調や家族の介護で外した方がいい人がいても、担任にせざるを得なかった。負担が大きいとつぶれてしまう懸念がある」と話す。

 

 教科担任制を採用する中学校の現状はどうなっているのだろうか。

 チエさん(40代)が担当する学年はクラスが一つ増え、週に受け持つ授業が3~4時間増加した。授業の準備やテストの採点に充てていた空き時間がなくなり、1日6時間が全て授業になった教員もいる。

 病休に入る教員もいたが、カバーできる同僚はゼロ。生徒はしばらく自習を続けた。それも限界となり、教頭が授業をしていた時期もあったという。

 「目の前のことでアップアップ。十分指導ができず、満足に話を聞けない状況になっている」。毎日声を掛けていた生徒と話をする余裕がなくなり、その生徒は一時教室に顔を出さなくなった。「本当に申し訳なかった」と自らを責める。

 

 ただ、取材班が聞いたような声は市教委に届いていないようだ。教職員第1課は「学校現場から聞こえてくるのは、35人学級を継続してほしいという声」と説明する。例えば、1学年に児童生徒が80人いるケース。40人学級では2クラスだったのが、35人学級では26~27人の3クラスになる。「担任の負担は減り、きめ細かな指導につながっている」と話す。
(以下、略)

 

 

 

【負担軽減という意味での35人学級は不合理だ】

 35人学級(1学級の児童生徒数を35人までと定めて教員配置をする制度)は教員の負担を軽減し、その分、児童生徒にきめ細かな指導のできる画期的な方法として長く期待されてきたものだ。しかしこれだけ教員が多忙になる中で、果たしてどこまで有効なのか、私は疑問に思っている。

 

 確かに、
 40人学級では2クラスだったのが、35人学級では26~27人の3クラスになる。
と聞けばすばらしい制度という気がしないわけではない。同じ計算で1学年1学級36人といった学校では、ふたつに割って18人の2クラスということになる。少なすぎて心配になるほどだ。

 

 しかし記事のモデルケースは36人~40人という過大学級を担任するごく少数の教員が、翌年も同じ学年を持った場合に生じるたった一度の奇跡である。ほかの学年、または学校に移ったら、そこには1学級35人もいたということになると、すばらしいはずの制度変更が、実は児童・生徒が4~5人減っただけ、ということになりかねない。そしてその方が可能性としては高いのだ。
 騙されてはいけない。教員全体としてみれば、「35に以下学級」は数字上も実際も、40人以下が35人以下になったというそれだけのことである。

 

 もちろん、たった4~5人でも軽減には違いないという考え方もある。通知票も指導要録も4~5枚少なくなり、学級だよりの印刷や配布も4~5人分減らすことができるからだ。
 しかし通知票や指導要録は年に数回書けばいいだけのものであり、学年だよりの大変さは印刷や配布ではなく原稿を作成することだ。
 負担軽減が目的なら、担任を二人にして、1・3学期の通知票は担任A、2学期の通知票と指導要録は担任B、学級だよりは交互に2週間おき、とする方がいい。これだったら仕事は二分の一になり、50人学級でもやっていける。

 

 

【人を増やさず35人学級を始めると負担は増す】

 35人以下学級というのはその程度の効果しかないのに、福岡市は教員を増やすことなくこれを果たすという暴挙に出た。「どんだけ現場を知らないのだ?」と驚くばかりである。
 おそらく決めた人は「少人数指導をしたりする担任外教員」が何であるかですら理解していないだろう。

 これは「(いわゆる)定数法」の枠内にない教員で、国が毎年政策的に配置する場合もあれば、都道府県あるいは市町村が独自の予算で配置する場合もある。もともと学校の負担を軽減するために配置したもので、それを35人学級のために使うというのは「あちらの軽減策をやめて、こちらの軽減策に代える」、いわば朝三暮四のような変更である。

 

 もちろんそれでより良い指導ができるようになるのならいいが、教師の負担増になるようでは本末転倒だ。記事にある、
 小学校教員の男性(40代)の学校では昨年度まで重要単元は教員2人で授業をすることがあった。今春から担任外教員が減り、1人で授業をする。「きめ細やかな指導が難しくなった」
 チエさん(40代)が担当する学年はクラスが一つ増え、週に受け持つ授業が3~4時間増加した。授業の準備やテストの採点に充てていた空き時間がなくなり、1日6時間が全て授業になった教員もいる。
などはその典型である。

 こうした事態が偶発的なものであればいいが、どう考えても必然的結果である。
ひとを増やさない「35人学級」は、きめの細かな指導をできなくする。

 

【政治家や行政はまったくわかっていない】

 それにしても、
ただ、取材班が聞いたような声は市教委に届いていないようだ。教職員第1課は「学校現場から聞こえてくるのは、35人学級を継続してほしいという声」と説明する。
とはどういうことだろう。

 

 おそらく、いったん始めたことは容易に戻せないのだ。言い始めた人のメンツにも業績にも関わるからである。それは誰か――。
 もちろん日常的に忙しい市教委職員ではない。役人は新しい仕事なんて好きではないし、お役所は動きの鈍いところだと昔から相場が決まっている。誰か学校のことをまったくわかっていない者が、人気取りのために発案して指示したものである。

 

 いずれにしろ、
コロナ対策を念頭に「密」の回避が目的
が本当なら、早晩、撤回されるから、それまでの我慢という話だろう――とは、実は思っていない。