キース・アウト

マスメディアはこう語った

英語やコンピュータやその他もろもろの新しい学習によって、学校から子どもたちが駆け回り、しっかり働く時間が失われていく。おかげで子どもたちはすっかり老人化してロコモティブシンドロームに苦しむようになっているという。だが、だったら昔のように走り回らせ、働かせればいいじゃないか。

(写真:ACフォト)

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「前屈」「雑巾がけ」できない…子どもの運動機能に異変「子どもロコモ」とは? 原因は「姿勢の悪さ」や「運動不足」に
(2024.02.20 BSS山陰放送

newsdig.tbs.co.jp

「ロコモ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 年齢とともに、立ったり座ったりする機能が低下した「ロコモティブシンドローム」の略称です。
大人だけなく、子どもたちにも広がっています。その背景にあるのは、「姿勢の悪さ」や「運動不足」です。
年齢とともに、骨や関節などの「運動器」の働きが衰え、歩くなどの動きに異常をきたす状態のことを指します。
一般的には中高年に多く見られますが、近年、子どもたちの間でも、バランス能力や柔軟性が低下した「子どもロコモ」が増加傾向にあるというのです。

全国ストップ・ザ・ロコモ協議会 林承弘 理事長
「たとえばしゃがみ込みができないとか、あるいは体前屈ができない、肩が垂直に上がってこない。もうひとつはバランスが悪いということですね。雑巾がけができない。体を支えられず顔面を打ってしまいます」

日常生活にも支障が出る「ロコモ」。
子どもたちの体に異変が起きている原因は、姿勢の悪さや運動不足です。

全国ストップ・ザ・ロコモ協議会 林承弘 理事長
スマホの姿勢ってのはもうすごく体の姿勢を悪くする一つの原因とも言えるんですよね。運動不足も重なってですね、体が硬くなっている。さらに追い打ちをかけるようにコロナですよね。さらに身体を動かさなくなって。いろんな動作が自分の手じゃなくて出来てしまう『超便利社会』が、逆に言うと、子供たちの体を使うことの経験を減らしてるってことが言えるかなと思います」

便利なものがあふれたことで体を動かす機会が減ったことや、スマートフォンやゲーム機などの普及で全身を動かして遊ぶ機会が減少。
基本的な体の使い方が身についていないといいます。
(以下略)

 割愛した部分に書かれているのは「子どもロコモ」かどうかをチェックするポイントの紹介。実際の子どもたちを調べている様子。そして改善策としての「子どもロコモ体操」の提唱である。
 全国ストップ・ザ・ロコモ協議会の林承弘理事長は
「数分でもいいですから毎日必ず行うこと、それを継続するってのはものすごい大事だと思ってます」
と語っている。しかし待てよ?

 もともとある運動不足とスマホ姿勢が重なって体が硬くなっているところに、新型コロナが追い打ちをかけてさらに子どもが動かなくなり、「いろんな動作が自分の手じゃなくて出来てしまう『超便利社会』が、(略)子供たちの体を使うことの経験を減らしている」ことに原因があるなら、子どもたちがスマホを手にしていない時間に、いろいろなことを自分でやらせ、意図的に子どもたちが身体を動かす機会をつくればいいことではないか。
 学校ならそれが簡単にできるし、そもそも学校というのはそういう場所だったのではないか――。

 朝の活動でグランドを駆け回る子がいて、20分休みも慌ただしく外に飛び出していく子どもたちがいる。昼食もそこそこにまた外遊びに出かけ、放課後も暗くなって教師に怒られるまでいつまでもグランドで遊んでいる。それが本来の子ども姿ではなかったか。
 もう半世紀以上も前の話だが、私が児童として通っていた学校には、朝清掃と午後清掃、さらにそれとは別に全員が屋外に出る外清掃・花壇・畑の時間があった。毎日3回もある“清掃活動”は私たちをウンザリさせたが、身体は強くなったはずだ。

 しかし現代は子どもに、小指の先ほどの痛みも与えてはいけない時代だ。朝の活動の全校体育の時間も減りマラソン大会も水泳大会も縮小される。清掃も一日置きにしてしまった。20分休みがドリル学習のために15分になり、やがて普通の10分休みになってしまう。
 かつて体育は知育・徳育とともに学校教育の三本柱のひとつだったが、英語やらコンピュータやらに押されて見る影もなくなった。

 「子どもロコモ体操」は悪いものではなさそうだ。しかしそんなことをする時間があったら子どもは外に飛び出して遊べばいいのだ。あるいは毎日、掃除をしっかりさせるだけで、しゃがみ込みも体前屈もできるようになり、バランスも良くなって雑巾がけで転ぶようなこともなくなるはずだ。
 ほんらい学校で遊んでいるだけで身につくものをわざわざ「子どもロコモ体操」で補うのは、食事の質をわざと落としてサプリメントで補うのと同様、愚かなことである。

中学校技術科の教員を、2028年度までに全員、正規免許所有者にするという。コンピュータプログラミングが最優先らしい。しかしそもそも10教科(技術科と家庭科を分けて考える)に配当される教員が9人以下の学校が、全国に4分の1近くもあるのだ。技術科を正規で押さえると、美術・音楽が非正規になるが・・・兼務で教えられるのか?

(写真:フォトAC)

記事

 

「技術」の中学校教員、23%に正規免許なし…2028年度までの解消目指す
(2024/02/13  読売新聞オンライン)

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 全国の公立中学校で、2022年度に技術・家庭科の技術分野を教えた教員の23%にあたる2245人が技術の正規免許を持っていなかったことが13日、文部科学省の調査でわかった。文科省都道府県教育委員会などに対し、正規免許を持つ教員の計画的な採用や技術教員による複数校指導の拡大などを求め、28年度までの解消をめざす。

 調査は22年5月1日現在で、中学の技術でプログラミングなどのデジタル教育が拡充されたことから実施された。
 その結果、全国で技術を担当する公立中教員9719人のうち、1709人は技術の免許なしでも指導できる特例「免許外教科担任」、536人は期間限定の「臨時免許」で教えていた。

 文科省都道府県、政令市ごとの免許状所有状況も公表した。東京都や茨城県など6自治体は担当教員の全員が技術の免許を持っていたが、和歌山県や北海道など7自治体では担当教員の半数以上が持っていなかった。
 小規模校の場合、配置できる教員数が限られ、主要教科の教員採用を優先せざるを得ないという。文科省の担当者は「技術は専門性が高いため、地元の大学と協力して教員養成にも積極的に取り組んでもらいたい」としている。

 この記事を、世間の人々はどう読んだのだろう。
 うちの子も、あるいは自分自身も、免許のない教師に教えてもらっていたのかもしれないと思って恐怖したのだろうか。あるいは中学校の技術科くらい、と笑い飛ばしただろうか。
 いやそもそも読売新聞の担当記者は、文科省の発表をどう聞いたのか。記者がさりげなく書いた、
小規模校の場合、配置できる教員数が限られ、主要教科の教員採用を優先せざるを得ないという。
の重さは分かっているのだろうか?

【定数法のことは頭にあったか?】

 学校それぞれの教員の数はいわゆる定数法(「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」)によって決められている。細かな計算が山ほどあるが、文科省のサイトに簡単な例が示されているのでそれを引用しておく。

 ところで中学校の場合、教科担任は何人必要なのか、すぐに答えられる人は案外少ない。9教科だから9人と答えたくなるところだが違う。普通、技術家庭科は技術科と家庭科の2人の担任に任されることが多いので、答えは10人だ。
 技術家庭科という免許があればひとりに任せられるが、大学の工学部で免許を取った教員は家庭科の履修の機会がなく、同じく家政学科を卒業した教員には技術科に関わる科目の履修の機会がない。したがって別免許となるのである。

 さてそこで上の表だ。
 目の智い人ならすぐに気がつくと思うが、6学級の中学校(各学年2クラス)の場合、配置される「教科担任」は9.5人しかいない、つまり全10教科を別々の教科担任で賄うことができないのだ。
 ここに「正規免許なし」の問題が生れる。

【教科担任は教科の数だけ来ない場合がある】

 では10人必要なところに9.5人しか来ないとしたら、学校はどうするのか――そもそも0.5人って何だ? 

 まず考えられるのは0.5だから2校にひとり配置すればいいという考え方である。 授業のある日だけA校・B校、ふたつの学校を交互に訪う、そういった教員を見つけるのが一案。
 もうひとつは、自治体(市町村立中学校なら市町村、都道府県立なら都道府県)が0.5人分の賃金を全額払う方法だ。
 というのは、定数法は教職員数の上限を定めたものではなく、《この人数までは国が賃金の三分一を背負いましょう》という数なのである。したがって予算潤沢な自治体は、金さえ出せばいくらでも教員を増やすことができるのだ。記事の中で、
東京都や茨城県など6自治体は担当教員の全員が技術の免許を持っていた
とあるのはそのためで、特に東京都は23区内の一部で給食費も無償にしようという計画が持ち上がるほど、教育予算はたっぷりある。だから東京を基本に考えると、全国の自治体は首が締まってしまうのだ。
 ところでいったい、6学級以下の中学校は全国にどれくらいあるのだろう?

【6学級以下の中学校は全国にこれだけある】

 下は令和5年度「学校基本調査」から私がつくったグラフである。

 見ると分かるとおり全国の24.3%の中学校が6学級以下、つまり自治体に潤沢な予算のない限り、少なくとも教科担任一人を諦めなければならない学校なのだ。これは記事の、
 2022年度に技術・家庭科の技術分野を教えた教員の23%にあたる2245人が技術の正規免許を持っていなかった
にほぼ対応する。その差の1.3%は自治体が独自の予算を使ったか、別の教科で担任を諦めたかであろう

【技術家庭科が狙われるわけ】

 もちろん教科担任を諦める1教科が数学でもあっても国語であってもかまわない。教科の価値は平等なはずだ。
 しかし価値は平等でも時数は平等ではない。国語や数学は週に3~4時間もあるのに対して、技術家庭科は両方で2時間、中3に至っては1時間しかない。国語科や数学科に比べて、技術家庭科などの教科担任はどうしても週の実働数が少なくなってしまう。

 そこで担当時数の少ない技術科・家庭科(以上週0.5~1時間)・音楽・美術(以上週1~1.29時間)の中で兼務してもらうのがもっとも平等なやり方だと考えるようになる。もっとも音楽や美術は高い専門性を要求されるからどうしてもそちらを優先し、音楽や美術の免許所有者に、技術科や家庭科をみてもらうというのが”普通”になる。それが実態である。(*1
 
 では文科省の指示に従って、
文科省都道府県教育委員会などに対し、正規免許を持つ教員の計画的な採用や技術教員による複数校指導の拡大などを求め、28年度までの解消をめざす。
となると、自治体にはどんな対応のしかたがあるのか。

自治体はどうするか】

 ひとつは、技術科の免許を持った先生にかけ持ちをしてもらう方法である。週2時間×6学級。2校だけではもったいない場合は3校~4校、掛け持ちで走り回ってもらうとさらにいい。しかし膨大な備品管理ができるかどうかは心配。生徒の事故は高くつく。
 二つ目はたいへんな負担を覚悟で、東京都などのやり方を真似する方法である。他の予算を削って、教員を一人雇う。年間に数百万円もかかる人間を、相当な数(学校数)雇い入れるやり方である。しかし多くの自治体ではこれはできまい。
 三つ目は、工業大学や家政大学の卒業生を優先的に採用して、この人たちに技術家庭科の傍ら音楽や美術も教えてもらうことである。できるか?
 四つ目は6学級以下の学校を片っぱし潰してしまうことである。統廃合によって地域の一体性は薄くなり、地元へ戻る若者はさらに減るかもしれないが、他の教科の教員も一気に減らせる方法なので予算的には魅力がある。あとは反統廃合で当選してくる議員がいないことを祈るばかりだ。
 さてどうなるか--。

 ちなみに記事の中にあった、非免許ワーストの和歌山県の規模別学校数は次のようになる。


 和歌山県はどれだけ学校を潰さなくてはならないのか・・・。

*1:ところで、タイトルは「技術」の中学校教員、23%に正規免許なし』なのに記事では、「技術・家庭科の技術分野を教えた教員の23%にあたる2245人が技術の正規免許を持っていなかった」となっている。経験では音楽の女性教諭が家庭科も兼務している例がかなりあって、コンピュータ重視なら少し方向が違うとも思うがどうだろうか?

文部科学省は小中学校の授業時間を5分ずつ減らし、短縮分を各校が自由に使えるようにするという。授業がまた圧迫される。理科や体育では準備の時間もままならない。しかもそうやって生み出した時間は、働き方改革が進まないことへの言い訳に使われるのかもしれないのだ。

(写真:フォトAC)

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小中学校の授業を5分短縮、年間で計85時間を弾力的に運用へ…各学校の裁量で自由に
(2024.02.10読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp

 文部科学省は小中学校の授業時間を見直し、学校の裁量を拡大する方向で検討を始める。授業時間を5分短くし、短縮分を各校が自由に使えるようにすることなどを想定している。文科省は次期学習指導要領への反映に向け、今年秋にも中央教育審議会に諮問する見通しだ。
(中略)
 一方、年間の授業時間数は変えない方向だ。現在、小学校の4年以上と中学校は1015コマで、45分授業の小学校では年間約760時間、中学校は約845時間が授業に充てられている。授業が5分短くなれば、小学校、中学校ともに約85時間(5075分)の差が生まれ、これを各校が弾力的に運用できるようにする。

 背景には、子どもの学力や教育環境の地域間格差が広がっていることがある。各校が画一的な授業を横並びで実施しているだけでは対応が難しく、裁量拡大によって学校現場の創意工夫を促す狙いがある。思考力育成を目指した探究活動や、基礎学力定着のためのドリル学習など各校がそれぞれの実情に応じて指導に生かすことを文科省は期待する。
(以下略)

 例えばラーメン店が1日500食のラーメンをつくるとして、それがあまりにも大変な場合には取るべき道が三つある。

  1. 目標を下げる(500食→400食という具合に)
  2.  厨房に入る人数を増やす。もちろんそれだけの人数が入れるように厨房を広げる。
  3.  仕込みの時間を長くする。

 どれか一つを徹底してもいいし、いくつかを組み合わせてもいい。しかし間違っても、目標を高めたり、人数を減らしたり、時間を減らしたりしてはいけない。もし、どうしてもどれか一つを逆方向に運ぼうとするなら、他の二つをさらに強めなくてはならない。当たり前のことだ。

 さて、
 授業が5分短くなれば、小学校、中学校ともに約85時間(5075分)の差が生まれ
というのは言わば朝三暮四の話で、どこからか自然に85時間がわき出して余裕が生まれるわけではない。それどころか授業の各1時間は1割から1割1分程度減らされ、授業全体は苦しくなる。1時間の授業で学ぶ内容は決まっているから、内容を圧縮するしか方法がないのだ。

 さらにそうして生み出した85時間は、
思考力育成を目指した探究活動や、基礎学力定着のためのドリル学習など各校がそれぞれの実情に応じて指導に生かすことを文科省は期待する。
のだそうだが、そこまで限定的に言われて使い道に個性など生まれはしない。さらに教員同士は分断される。

 小学校は学級担任制だから意識されないかもしれないが、中学校の社会科や理科、美術や音楽の先生はたまったものではない。自分の授業の10%が奪われて、それが数学や英語のドリルに使われるわけだ。なんで俺が苦労して授業を縮め数学科や英語科の時間を生み出さなくてはならないのか、誰も納得しないだろう。

 背景には、子どもの学力や教育環境の地域間格差が広がっていることがある。各校が画一的な授業を横並びで実施しているだけでは対応が難しく、裁量拡大によって学校現場の創意工夫を促す狙いがある。
 だったら学習指導要領のしばりをゆるくして、標準時数は「目標時数」または「上限時数」にして、内容も完全履修を求めないようにしなくてはならない。そのためには高校入試を学習指導要領に準拠しないものにしていく必要もあるだろう。
 いずれにしろ、

  1. 目標を減らさない(指導要領の内容は死守する)
  2. 教える人数を増やすわけでもない。
  3. 各教科の時数は減らす。

という状況で、学校現場の創意工夫などと言われても困るのだ。85時間を教員の働き方改革に使うならまだしも、7時間目の授業にあてましょうみたいなこの施策――文科省は何を考えているのだろうか?

 もしかしたら、
「浮いた85時間は児童生徒を家に帰して、先生たちの事務処理・教材研究に使ってもいいのですよ。責任を取りたくないから口には出さないけど――」
ということなのかもしれないし、働き方改革が進まないことをあとで責められた時に、
「だから授業時間を5分ずつ減らしたんだから、その分を先生たちが有効に使えばよかっただけじゃん」
と言うための伏線なのかもしれない。

欧米先進国で長期的な学力低下が続いている。金はあるのに使い方が悪いからだ。コロナ禍も関係ない。先進国はもっと教師に金を使い、優秀な人材を集めるべきだ――という単純な話をするために、とんでもなく回り道をすることがある。

(写真:フォトAC)

記事

コロナ禍の影響も大きく…
コロナ禍で子供の学力が「下がった国」と「上がった国」は何が違ったのか
(2024.01.21 ク-リエ・ジャポン)

courrier.jp

世界を襲った新型コロナウイルスパンデミックは、子供たちの教育に多大なダメージを与えた。だが、その影響の大きな国と小さな国が存在するのも事実だ。英経済紙の記者が、変化の大きい各国の教育事情をレポートする。

新型コロナのパンデミックに対応するために作られたかのような学校制度を持つ国があるとすれば、それはフィンランドだろう。同国にはパンデミック以前から高度にデジタル化された教育システムがあり、遠距離学習の提供は非常に容易だった。

とはいえ、実際のパンデミックの衝撃は凄まじかった。新型コロナの急速な拡大を受けてフィンランド政府が緊急事態を宣言した2020年3月から、クロサーリ総合学校が通常の授業形態を取り戻すまでには1年半もかかった。

ヘルシンキ郊外の小さな島に位置する同校の校舎が完全閉鎖されたのは、わずか数ヵ月のことである。だが地元の感染者数が急増したため、同校は2021年の暮れまでハイブリッド授業を継続した。生徒を複数のグループに分け、ソーシャルディスタンスを守った教室での対面授業と、オンラインのリモート授業をローテーションさせたのだ。

「コロナ期間が生徒たちにとって辛いものであったことは明らかですし、その悪影響はいまも続いていると思います」

そう語るのは、同校の数学・哲学教員であるエスコ・ハウルネンだ。

「生徒たちは知識を身につける以上に、どうやって勉強したらいいのか、グループでどのようにふるまえばいいのか、学校にきて何をすべきなのか、といったことを習得するのに苦労していました。それが学習にも徐々に影響していったのです」

学力低下はコロナ禍の影響だけではない?

パンデミックの悪影響を被ったのはハウルネンの生徒たちだけではない。OECDによる「生徒の学習到達度調査(PISA)」の新たなデータによれば、2018?22年には世界規模でいまだかつてないほどの学力低下が見られる。

結果は衝撃的なものだった。2018?22年のあいだで、ほとんどの国の教育機関において読解力・数学的リテラシーが低下しており、先進国ではとりわけ影響が顕著だった。

2022年におけるOECD加盟国内の15歳の生徒の平均的学習達成度は、2018年のそれと比べ、数学的リテラシーで9ヵ月、読解力で半年相当の遅れが見られた。またOECD非加盟の調査対象44ヵ国(ほとんどが発展途上国)では、この2科目における遅れは約4ヵ月相当だった。

(以下、略)

 大学生などの論文を読んでいると、一生懸命取材したのはいいけれどその段階で時間もエネルギーも尽きてしまい、材料を取捨選択する余裕もなくなってしかし捨てる勇気もなく、しかたないので情報をてんこ盛りしたまま強引に論理を繋げようとして結局ワケが分からない、そういう文章がある。
 この記事はまさにそういうもので、何を言っているのかよく分からないながら、拾ってきた情報には価値のあるものも少なくないので、しかたなく私も拾うことにした。

 かなり長文の記事で、内容が十分に整理されていないため読みにくい面もあるが、示唆に富んだ文言も多くがちりばめられているので、是非とも一読してもらいたいと思う。海外の教育事情について、多少なりとも比較文化論的に書かれている記事というのは、案外珍しいものなのである。

【先進国フィンランドが苦しい】

 記者がフィンランドの教育事情から語り始めたことには理由がある。
 何と言ってもかつての学力大国だし、20年ほど前には日本からも研究者が大挙して視察に出かけた国だからだ。しかも最近は凋落傾向が激しくその様子は今回の記事のうしろの方でも、残酷なほどの表現で記されている。
 生徒間の学力格差および総合的な成績の両方で、最も悪化したのがフィンランドだった。同国はかつて、ヨーロッパ内で最高の教育成果をあげた国のひとつとして知られていた。2018年以来の同国の学力低下は、OECD加盟国内の平均低下率と比較し、読解力で約3倍、科学的リテラシーで4倍である。
 (中略)
 「第一回目のPISAの結果が出たとき、フィンランドは成功のお手本のように見えました。しかしそれから20年を経て、フィンランドの教育への取り組みは問題の解決になっているのか、それとも問題そのものの一部なのか判断できなくなっています」
 
 そんな事情から、コロナ禍に絡めてフィンランドを考えると、なにか出てくるかもしれない、そんなふうに思ったのは無理ないことなのかもしれない。しかし記者自身が言っているように、同国の学力低下パンデミック以前よりすでに始まっていたと考える方が現実的なのである。

 国土は日本の9割程度、しかし人口は550万人と日本の4・6%ほどしかないフィンランド――森林が国土の7割前後という点では似ているが、日本はその大部分が山岳地帯で人が住むのが困難であるのに対して、フィンランドは平地林が広く、人家が点在している。ひとことで言えば、「小さな町がたくさんある」ということである。
 ひとつひとつの学校の規模は小さく、その小さな学校に校長・副校長はもちろん担任・副担任・カウンセラーなどの大人が大量に配属されている、それがフィンランドの学力の高さを保障する大きな要因だった。
 ところが第一回PISAテストで世界の頂点に立った時はすでに、費用のやたらかかるこのシステムは改革されようとしていたのだ――小規模校は統合され、学校の数が減らされることで通学しきれなくなる子どもたちのためにオンライン学習が充実される。
 
 記事によればパンデミックになっていち早くそのシステムが機能し始め、2年近く対面授業とリモート授業が併用で行われるようになった。しかしそのことで生まれた弊害も大きいと、そんな論理で話は進む。しかしそうした進め方はいかがなものだろうか。
「生徒たちは知識を身につける以上に、どうやって勉強したらいいのか、グループでどのようにふるまえばいいのか、学校にきて何をすべきなのか、といったことを習得するのに苦労していました。それが学習にも徐々に影響していったのです」 
 そこまで言ったら大げさだろう。

近年、フィンランドの教育システムには大きな変化が起きている。伝統的な教育科目が解体され、代わりに「現象ベース学習」と呼ばれる手法が取り入れられたのだ。これは生徒が複数の科目を総合的に学びながら問題解決を目指すというものである。高校卒業前におこなわれる大学入学共通試験を除けば、全国共通学力テストが一切存在しないというのも珍しい試みだ。
 「現象ベース学習」――日本で言えば総合的な学習の時間のようなものだろうか、学力が高いことをアテにして余計なものを積み重ねるからこうなる、全国共通学力テストもしないからこうなると言いたげな、悪意ある文である。
 フィンランドの教育事情をコロナに絡めて書けなかったことでの八つ当たりだろうか?

シンガポールは理想の国か】

 フィンランドがダメだからということで、同じくリモート学習が進みながら成績の下がらなかった国の代表としてシンガポールを選ぶのだが、この選択は最初から破綻する。PISAテストの成績が下がらなかったことの説明が、うまくできないのだ。

PISAの分析によれば、子供たちが自律的に学習する力を持ち、かつ教員からのサポートを強く感じられている場合ほど、教育システムの回復力は高まるのだ。
 そう書いて、いざシンガポールの教師たちがどういったサポートをしているのか、調べてみるが答えが出ない。
ほとんどの生徒にとっては、オンライン学習システムを使いこなすことよりも、自律的に学習することのほうが難しい。OECDの調査対象となった生徒のほぼ半数が、週1回のペースの自律学習でもモチベーションを保つことが難しいと答えている。
だとしたらシンガポールでは何か特別のことが行われているはずだ。そうでなければトップの成績を維持できるはずがない――。

 もしかしたら、
教育者の地位が高い国々は、PISAランキングで上位に上がりやすい傾向にある。
 そして
OECDによる国際的な教員調査によれば、シンガポールは教員が自身の社会的価値を最も実感しやすい国のひとつであり、
だから成績が良いのかもしれない――いや待てよ、それもピンとこないな。そうなるとあとはデータ自体が間違っている可能性しか残らないじゃないか――。
 
 その一方で、パンデミックは長らく存在したPISAのデータへの批判を強めることにもなった。これまでの調査でも、多くの先進各国がサンプリングの基準を守れていないのが常であり、これらの国々は自国の教育システム全体を代表するとは必ずしもいえない学校や生徒を調査対象とし、結果を水増ししている可能性があると批判されてきたのである。
 唐突に挿入されたこの文は、要するにシンガポールの順位が高いのはこの国がサンプリングの基準を守らなかったためで、シンガポールの教育システム全体を代表するとは必ずしもいえない学校や生徒を調査対象とし、結果を水増ししている可能性があることを示唆ししているのだ。

 実は私もそう思う。昔から怪しい国だ。
 PISAの結果を見ると、毎回シンガポールが孤高を誇っている優秀なデータがある。
 それはこの国が世界で唯一、成績がトップクラスで、しかも学習における有能感が高く、勉強を好む国なのである。シンガポール以外のすべて成績上位国の子どもは「その教科での有能感を持つことができず、楽しいとも思っていない」
 それはそうだろう。たいていの子たちは苦しみながら学力を上げてくる。楽しいなどと言っていられない。苦しいのはそれだけ才能がないからだが、そんな状況で有能感など持てるはずがない。
 勉強を楽しく感じてなおかつ有能感が持て、さらに十分な成績が取れるとしたら、それはエリートだけである。もしかしたらシンガポールはエリートだけがPISAテストを受けているのかもしれない。
 一部の人々から「明るい北朝鮮」と揶揄されるような国教育について、まともに語ることはできない。何と言っても小学校4年生で人生の行先の決まってしまう国なのだから。

【まとめ:金があればいいというものではない】

 フィンランドを取り上げてみてもダメ、シンガポールでも何も見つからない、そこでいよいよ記事は迷走する。
 最後は「教師を大事にしましょう」「給料を上げてやりましょう」となるこの記事、これ以上ついて行くことはできないので、重要な分だけを抜き出して羅列しよう。

  1. 金があれば、金を使えばいいというものではない。
     OECDは俗に「金持ちクラブ」と揶揄されるように経済的に豊かな国々が集まっている組織である。それなのに学力が伸び悩むのはなぜか――これについて記事は実に簡単な説明をしている。
    子供に対する教育投資の増大は一定のレベルを超えると成果に直結しなくなるというものがある。
    PISAのデータによると、6?15歳の生徒1人当たりに関し、教育投資と成果の相関関係があるのは、投資総額7万5000ドル(約1108万円)までである。
     それ以上の資金を使っても学力が伸びるわけではない、らしい(他の意味はあるのかもしれないが)。

  2. ヨーロッパの先進国とパンデミックの影響が少なかった国との違いとはなにか
    PISAの分析によれば、子供たちが自律的に学習する力を持ち、かつ教員からのサポートを強く感じられている場合ほど、教育システムの回復力は高まる。
    ・例えば、アジア諸国における教育の成功は、生徒の学力への期待の高さ、そして教員と生徒の社会的関係性の強さに起因する。
    ・例として、学校閉鎖にもかかわらず、日本と韓国は2018~22年にかけ、すべての科目で成績を向上あるいは維持しているが、これらの国では
    「教員は生徒と接することに多大な時間をかけ、部活の顧問も担当し、放課後には生徒たちと教室の掃除までします」

  3. 教員は世界中で不足している。
    先進国における深刻な長期的問題のひとつは、教員の不足だ。各学校の校長を対象とした調査によれば、2022年には教員不足がOECD加盟国内の生徒のほぼ半数に悪影響を与えており、これは2018年における調査結果の倍の数値である。この問題がとりわけ深刻なのは、教員不足の影響が全生徒の75%におよんでいるドイツや、影響を受けた生徒数が2018年の4倍となったフランスなどだ。
    教師不足が日本の問題だけではないというのは、新鮮な情報だ。

  4. 世界的に見て、賃金と地位の低さが教員不足の原因となっている
    「教員組合が構成員の幸福と専門性の向上に注力しつつ、他方で政府が総合的にバランスのとれた教員政策をもって教員組合と交渉をおこなっている国々は、教員の確保に成功しています」
     日本はその範疇に属さない。文科省日教組が交渉を行ってバランスの取れた教育政策をつくっていた時代は、とうに終わっている。

  5. 教育者の地位が高い国々は、PISAランキングで上位に上がりやすい傾向にある。
    しかし、富裕な国々では教育の商品化の傾向も見られます。生徒が消費者、教員がサービスの提供者になっているのです。

  6. エストニアはヨーロッパの国々の手本となれる数少ない国のひとつだ。
    同国の教育システムは地域コミュニティに基盤を置いている。結果、各学校には教育素材やカリキュラムの内容について大きな裁量が与えられているが、これはほかのヨーロッパ諸国では真似しにくいものだろう。
    ・国民の大多数は、全教員に大卒資格を義務付ける高水準の就学前教育システムの恩恵にあずかっている。(中略)エストニアでは約90%の子供たちが最低3年以上の就学前教育を受けているのだ。
    ・人口の変動により国中で労働力不足が発生しているなか、教育業界も大卒者に対しほかの職種に劣らない魅力的なキャリアパスを提示していく必要がある。(中略)エストニア政府は、2027年までに教員の給料を平均賃金の120%に上昇させることを約束している。

  7. 失敗したら取り返しがつかない
    真に有用なのは各システムがいかに機能しているかのデータであって、ランキングではない。(しかしただ)国が学校教育政策で失敗すると、それがもたらす経済上の悪影響をあとから克服するのは困難だ。
    ・「早い段階でそれなりの学業成績をあげていない生徒は、後の教育課程や職業訓練過程で成果をあげることが難しくなり、遅れを取り戻すのも困難です。成績の停滞・低下という点に関していえば、私はOECD非加盟国よりも加盟国のほうが心配です」

 色々細かな曲折はあったが、要するに金を使え、もっと優秀は教師を集めよという、きわめて当たり前の結論に、ようやくたどり着いたようだ。

【学力の国際比較】悪い時には完膚なきまでに叩くのに、良い時はほとんど触れない、信勝なき必罰

(写真:フォトAC)

記事

 

【PISA2022】日本は3分野すべてで世界トップレベルに、読解力で過去最高水準
(2023.12.05 リセマム)

resemom.jp

 経済協力開発機構OECD)は2023年12月5日、国際的な学習到達度調査「PISA2022」を発表した。コロナ禍を経て4年ぶりとなる今回日本は数学的リテラシーにおいて全参加国・地域中で5位、読解力は同3位、科学的リテラシーは同2位の結果となった。

 経済協力開発機構OECD)は2023年12月5日、国際的な学習到達度調査「PISA2022」を発表した。コロナ禍を経て4年ぶりとなる今回、日本は数学的リテラシーにおいて全参加国・地域(81か国・地域)中で5位、読解力は同3位、科学的リテラシーは同2位の結果となった。前回2018年調査から、OECDの平均得点は低下した一方、日本は3分野すべてにおいて前回調査より平均得点が上昇したことがわかった。

 「PISA(Programme for International Student Assessment)」は、OECDが中心となり実施している国際的な学習到達度に関する調査。義務教育修了段階の15歳の生徒(日本では高校1年生)を対象に、これまでに身に付けてきた知識や技能を、実生活のさまざまな場面で直面する課題にどの程度活用できるかを測る目的で、「数学的リテラシー「読解力」「科学的リテラシー」の3分野について、2000年から3年ごとに調査を実施している。

(以下、略)

 今月5日の記事について、年の瀬の今ごろ評している。 何があったのか――。
 要するに私が、この吉報に気づかなかったのだ。
今回日本は数学的リテラシーにおいて全参加国・地域中で5位、読解力は同3位、科学的リテラシーは同2位の結果となった。
 すばらしいじゃないか!
 
 しかしなぜ気がつかなかったのか――新聞は毎日読み、日に10回以上はネットニュースに目を通し、テレビの定時ニュースも情報番組も数多く見ている私が、である。
 答えは簡単だ。世間の扱いがあまりにも簡単だったのだ。もしかしたら全く触れないメディアもたくさんあったのかもしれない。
 学校が頑張った、先生たちがよくやった、そういったニュースは価値がない。PISAの成績が下がったと言えば「学力崩壊」だの「学校の終焉」だの大騒ぎするのに、成績が上がればこの始末だ。
 信勝なくして必罰あり
 そんな組織がどうなっていくかは、今の学校を見るだけでいい。
(もっともPISAの成績ごときでは大騒ぎをしないという話なら、それはそれで悪くないのだが)

(参考)
OECD生徒の学習到達度調査2022年調査(PISA2022)のポイント PDF5.93MB)

 

精神疾患で休職の教員過去最多 初の6000人超 ――悪いのは教員たちだと文科省は言った。

(写真:フォトAC)

記事


精神疾患で休職の教員過去最多 初の6000人超 20代が高い増加率
(2023.12.22 NHK)

www3.nhk.or.jp

 うつ病などの精神疾患で昨年度休職した公立学校の教員は1割余り増えて6539人と、初めて6000人を上回り過去最多となりました。20代の増加率が高く、文部科学省は「職場環境は非常に深刻で、教員不足の中で若手をどうサポートするかが課題だ」としています。
こうした現状を踏まえ、新卒教員を対象に担任業務の負担を軽減する取り組みを始めた県もあります。


過去最多となった精神疾患で休職した教員
文部科学省によりますと、昨年度、うつ病などの精神疾患で休職した公立学校の教員は、
▽小学校で3202人、
▽中学校で1576人、
▽高校で849人、
▽特別支援学校で872人などで、
合わせて6539人となり、前の年度より642人、11%増えて過去最多となりました。

NHK)

6000人を上回るのは、調査を始めた1979年以降初めてです。
このうち1270人は、ことし4月時点で退職しています。

年代別では、
▽20代が1288人、
▽30代が1867人、
▽40代が1598人、
▽50代以上が1786人となっていて、
中でも20代は、この5年で1.6倍以上に増え、人数に占める割合も2018年度には0.54%でしたが、0.84%に増えています。

このほかにも、精神疾患で有給休暇を使って1か月以上休んでいる教員も全体で5653人いて、休職中の教員と合わせると1万2192人に上っています。

要因について文部科学省は…
要因について文部科学省が各教育委員会に聞いたところ、
▽教員間での業務量や内容のばらつき、
▽保護者からの過度な要望や苦情への対応のほか、
▽コロナ禍で児童生徒や教職員間でのコミュニケーションの取りづらさがあったことなどが挙げられたということです。
(以下、略)

 

【教職員の精神疾患による休職者6000人超の衝撃】

 長らく教職員の精神疾患による休職者はおよそ5000人超と言っておけばよかったが、ここにいて一気に11%も増えて6000人の大台に乗ってしまった。
 年代別では、
 ▽20代が1288人、
 ▽30代が1867人、
 ▽40代が1598人、
 ▽50代以上が1786人となっていて、
とあるが、年代別教職員数に最初から差があり、20歳~22の教員というものがほとんどいない以上、20代の1288人は相当な数と言える。また、この人たちが一定期間休んだあと元気になって、以後、生き生きと働くようになったというならよいが、多くは問題を抱えながら、その後の教員生活を続けて行くことになる。
 また、病気を機に退職するにしても、その後の人生が明るいとは限らない。最初から教職員以外の道を歩むのと、心を癒してからその道を歩むのとでは、まったく異なるからだ。
 
 想像してみるがいい。人生90年の時代に20代で躓いて、あとはその重荷をずっと引きずっていく――そんな人生を生み出させていいはずがないではないか。

【誰が、どこが、何が、悪いのか】

 ではどこに原因があるのか――。
要因について文部科学省が各教育委員会に聞いたところ、
▽教員間での業務量や内容のばらつき、
▽保護者からの過度な要望や苦情への対応のほか、
▽コロナ禍で児童生徒や教職員間でのコミュニケーションの取りづらさがあったことなどが挙げられたということです。

 分るか? 文科省の分析によれば、
 最初に、教職員が公平に業務を割り振っていないからいけないのだ。そして保護者も悪い。コロナ禍が悪かったのはもちろんだが、その中で児童生徒や教職員たちがコミュニケーションをしっかり取らなかったことに問題がある(教育委員会文部科学省も国会も内閣も悪くない)。
ということを言っているのだ。

 業務が多すぎてシンドイということは国中のみんなが知っていることなのに、文科省はひとを増やそうとも仕事を減らそうともしない。絶対にしない。
 あとは都道府県市町村が独自の金をつかって、山形県のように担任業務を割り振る方策を練ってくれと、対応を丸投げしてくる。しかし文科省にももう打つ手はないのだ。
 
 今さら「総合的な学習」だの「特別の教科道徳」だの「キャリア教育」だの「小学校英語」だの、誰かの記念碑的教育施策をなかったことにすることはできない。「全国学力学習状況調査」だの「教員評価」だの、なくした後で問題が発生したらどうするのだ!? 
 教職員の数を増やすと言ったって、予算もなければ――最近はなってくれる人間そのものがいないじゃないか。
 こうなったらもう、行くところまで行ってそこから考えるしかない。精神的疾患による休職者が10万人(全教職員の1割)を越えたら、政治家たちも何か考えてくれるかもしれない――といったところだろうか。

絶対に怒るはずがないと思って挑発したハゲ教師に怒鳴られ、恥をかき、傷ついた中学生が、復讐を果たし、復活するまでの物語

(写真:フォトAC)

記事

 

育毛剤チラシめぐり生徒に「ふざけるな」 教諭が一方的に25分叱責
(2023.12.01 朝日新聞デジタル

www.asahi.com

 福岡市立中学校で10月、30代の男性英語教諭が、自身の頭髪をめぐり、授業を担当する男子生徒の首をつかんで廊下に連れ出し、25分間にわたって叱責(しっせき)していたことが分かった。生徒の言い分を聞かないまま一方的に指導をしており、市教育委員会は不適切だったとして処分を検討する。

 学校や市教委によると、教諭は10月27日午後、教室で授業を始める直前に、育毛に関するチラシを持っていた生徒に対し、事情を聴かずに「何だこれは」などと言って肩を押し、首元をつかんで廊下に連れ出し、25分ほど指導。さらに「ふざけるな」「25分間、授業ができなかった。どうしてくれる。代わりに授業をしろ」などと責めたという。

 チラシは生徒のところに誰かが置いたとみられる。生徒は指導を受けた後、登校できなくなることもあり、オンラインで授業を受けるなどしたという。学校は、教諭を生徒のクラスの英語担任から外すことを決めた。

 文部科学省が定める教職員向けの生徒指導の手引「生徒指導提要」は、不適切な指導例として「生徒の言い分を聞かず、事実確認が不十分なまま思い込みで指導する」と示しており、市教委は教諭の行為がこれに該当すると説明している。

 市教委の聞き取りに、教諭は「頭髪にコンプレックスがあった。期末考査前で最後の追い込みをしないといけないと思い、テスト対策をしてきたのに、侮辱をうけ、気持ちが折れた」などと話しているという。また生徒について、「心を傷つけてしまった。謝罪したい」などと反省の言葉も述べているという。

【個性と独創性にあふれ、自主的で行動力に満ちた子どもたちの危険】

 昔、昭和の、まだ暴力団うしの抗争の激しかったころの話である。
 ある中学生がとんでもない事実に気づき、友人とともに自ら試してみることにした。それは、
暴力団事務所の前で爆竹を鳴らすと、強面のおっちゃんたちがうろたえて飛び出してくるのでおもしろい」
という事実だ。
 確かに大のおとなが爆竹を拳銃の発射音と勘違いして、一斉に飛び出して来るような世界は、この日本国内おいてはここだけだろう。きっと子どもたちにはほんとうにおもしろかったのだろう。しかし普通の人は気がついても試したりしない。それでもやろうとするのが子どもだということだ。
 
 そうやって何回か遊んでいるうちについにひとりが捕まってしまい、仲間も呼び出されて事務所で説教を受けたという。ここまでは私が実際に新聞で読んだことだから(新聞が嘘を書かない限り)ウソのない話だが、事務所では恐ろしげなおっちゃんから「こんなことをしていちゃあ、ロクな人間に育たん」と諭されたというのは、私がつけたオヒレだ。

 子どもの自主性だとか行動力、独創性、個性といったことが話題になると、よく思い出すのがこの話だ。実に独創的で個性的、行動力・自主性どれをとっても申し分ないが、だからといって彼らの行動を誉め、他の子どもたちに勧める気はない。
 私たちが自主性だの独創性だのと言って持ち上げるときは、その前に声には出さないカッコ書きの《正しいことを行う上での》があるのであって、誰もやらないことを自分からやるなら何をやってもいい、ということではないのだ。
 
 この事件は半分笑い話で終わったが、障害が残るほどの暴力を受ける可能性も、無事手打ちを済ませてそのままリクルートされる可能性もあった。世の中にはやっても試してみてもいけないことがたくさんある。
 もう中学生にもなったのだから何か実際に行う前に、頭の中で試行(シミュレーション)してみて、危険ならば回避する、深追いはしないというのが最低限求められる能力である。子どもたちには小さなころから、そうした危険回避の技術を身につけさせておく必要がある。子どもたちにはそれを学ぶ権利がある。

【一般に考えられているひとつの仮説】

 30代の若ハゲの教師に育毛剤に関係するチラシを見せて、「これ、先生のですよね」と言えば面白いことが起こるはず、普通のおとなだったら怒鳴ったり殴ったり何をするか分からないが、よもや教師がそんなことしまい。だったらどう出てくるのか、いずれにしろ面白いことになるはずだ、やってみよう――。
 一部の教育評論家なら手を叩いて喜びそうな、極めて独創的で個性的な発想を、呆れるほど迷いのない行動力と自主性で実施したところ、あに計らんや教師は激怒して25分間に渡って廊下で叱責を受けた、そのときの中学生の衝撃と屈辱は想像して余りある。
 なんたる見通しの甘さ、なんたる道化。クラス全体どころか廊下を通して全学年、あるいは全校に知れ渡ってしまったじゃないか。25分間も曝し者になったわけだ。
 
 ただしその復讐は難しいものではなかった。細かな法律上のことは分からなくても、中学生が教師から一方的に追い詰められて、ただで済むはずがない。そんなことは保育園児だって知っている。
 ぼくはただ机の上にあったチラシ(それを持って来たのがぼくだったのか他の誰かなのかは大した問題じゃないけど)を先生のものだと思って返しに行っただけなのだ。それをこんな目に遭わせて! 家に帰ったらパパに報告しなくちゃ。こんなにボロボロになったぼくの心を、パパが放っておくはずがない――。

 かくて訴えられた市教委や学校は対応せざるを得なくなり、連絡を受けたマスコミも取材に行かなくてはならなくなった――。その意味でこれは、
 絶対怒るはずがないと思って挑発したハゲの教師に怒られ、恥をかき、傷ついた中学生が、復讐を果たし、復活するまでの物語――
だといえる。これがありうべきひとつの仮説である。

 実際に起こったことが何なのか、引用した朝日新聞の記事からだけでは分からないが、もしこの仮説が事実だとしたら、生徒はこの先も大人を舐めて生きることになる。その歩む道が危険なものでないといいのだが――。
 ただし私には、この説が何となくしっくりこない感じもあるのだ。

【十分な情報が揃っていない可能性】

 このテのニュースを聞いた時、まず考えるのは「必要な情報が揃っていないのではないか」という可能性である。もちろん世の中には信じられないほど異常な思考形式を持つ人間もいる。しかし普通はそうではない。
 
 普通の保護者は、自分の子が学校でぞんざいな扱いを受けたとしても、たちどころに学校(校長)や教委に訴えようとはしない。たいていは長い長い期間に渡ってさまざまに伏線が張られ、(主観的には)我慢に我慢を重ねた上でもう耐えきれなくなって、ようやく訴えるという手段を取るのである。
 したがって今回のような、内容的には教師に分があるように見える事件も、実は保護者にとってはコップの水が溢れ出す最後の一滴だったということもありうる。今回の割り切れない報道も、そうした幾多の伏線にまったく触れていないから突飛な感じがするだけで実はよく分かる話、ということもあるかもしれない。

【誰が問題を公にしたのか】

 しかし最も考えられるのは、今回この件を問題として市教委やマスコミまで巻き込んでおおごとにした人物は、実は養毛剤チラシには直接かかわらない、クラスの別の生徒とその親だという可能性である。

 特に暴言問題ではよくあることとして、のちに加害教諭とされる教師と被害者とされる生徒の間に深い人間的関係があって、乱暴なやり取りが友達どうしのような親近感を高める働きをしていることがある。
 二人だけだったらそれもいい。しかし傍で見ている生徒の中には快く思っていない者もいて、その子の報告を心待ちにしている保護者もいる場合がある。子どもが家に持ち帰る学校批判の糸口が、何よりの好物という大人も少なくない。
 そうなると当事者の思惑とは無関係に事態は動いてしまう。
 
 育毛剤チラシ問題の場合、25分間に渡って叱責を受けた生徒がそのまま深い反省に至るということもあるし、そうでなくても普通の親だったら教師に謝罪こそすれ訴えたりはしない。下手に訴えれば学校全体、あるいは地域までも敵に回しかねないからだ。
 しかし匿名の生徒、匿名の保護者だったらそんな心配はいらない。“被害者”がこれ以上の事態の問題化は望まないと言ったところで、
「人権問題だから被害者本人がいいと言ったって。それで済む話ではない」
 そう言って火に燃料を注ぎ続ければいいのだ。

【傷ついた教師たちは手を引く】

 いずれにしろこうした事件が起こるたびに教師は傷つき委縮する。子どもからどんなに傷つけられても、耐えて忍ばなければならない教員の姿を見た学生たちは、教師だけにはなってはいけないと固く決心する。そして一部の子どもたちは万能感に酔い痴れ、親の半分が一緒に喜び、もう半分が恐怖する。
 教師たちは思う。ただでも余裕はないのだ。もう子ども多少の悪さには目をつむろう、人は懲りるまで本当のことを理解しないのだ。暴力団事務所前で爆竹を鳴らしたらどうなるか、学校以外の場で大人の髪の毛の薄さを嘲笑ったらどうなるのか、実際に試してみるといいのだ。私はもう手を引きたくなった。さらばだ。