キース・アウト

マスメディアはこう語った

学校がいまだに同級生を介した連絡帳で欠席連絡を求めるのは、そうしないと担任か教頭(副校長)が死んでしまうからだ

 欠席連絡ひとつを取っても、
 いまだに子どもの友だちを介した連絡帳の提出で求める日本の学校
 そんな昭和から時間が止まったようなことはやめて、
 ICTを充実させ、保護者がいつでも気楽にメールで連絡できるようにすることで、
 先生の業務をこれ以上増やすことなく、
 保護者との信頼関係を強化していけるのではないか、
――って、それをやったら先生たち、死ぬぞ。
という話。

f:id:kite-cafe:20200619140504j:plain(「電話をする女性」 フォトACより)

 

記事

 

意見する親・クレームする親・沈黙する親
  ・・・ICT教育阻むモンペの境界線

(2020.06.19 現代ビジネス)

gendai.ismedia.jp

 

保護者丸投げ型「無理ゲー」

GW明けに始まった『保護者へ丸投げ型・時間割ベースド家庭学習』によって、ただでさえ家の中で子育てと仕事を両立させるという『無理ゲー』な自粛生活でストレスを溜めていた多くの保護者は、瀕死の状態に陥ったことと思います。「瀕死になってるのはうちだけ? みんなはどんな状況?」という疑問から始めた、『23区公立小学校ICT進捗状況★草の根ウォッチ』が、想像以上にバズりました。

きっと、私と同じように『無理ゲー』に苦しみ、ICTの活用に活路を求める保護者が他にもたくさんいたんだろうなと感じます。

ちなみに、ICTが進んでいる文京区や渋谷区の保護者からは、「いやいや、紙がデジタルになっただけで、勉強に向かわせるところは相変わらず親まかせだから、めっちゃ負荷高いよ!」とのお声も。ICT化が遅れている自治体の保護者の皆さんは、「羨ましい」と思うかもしれませんが、現場の「ICT活用力」は一朝一夕にはいかないでしょうから、まだ今は50歩100歩かもしれません(と、フォローしときましょう。笑)。

今回は、私が公立小学校のICT進捗状況を可視化しようと思った理由と、その後実施した「保護者アンケート」で見えてきた「学校と保護者の関係性」についての考察をご紹介いたします。

 

「個人情報」という免罪符。
学校のICT活用が進まなかった理由

私が住む目黒区ですら、このwithコロナの中で未だに「体調不良の際は連絡帳をお友達に渡してください。難しい場合は学校の大代表に電話してください」という運用フローになっているんですよね。大代表の電話は回線が1本しかないので、朝の時間は通話中で繋がらないし、欠席の連絡を1本入れるだけでもストレスだという話を、他自治体の保護者からもよく聞いております。

今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。「メール連絡じゃダメなんですか?」と聞くと、個人情報が云々と言われて一蹴されてしまうと聞きます。

私自身も、このコロナ休校中に小学1年生になった「小学生になれていない小学生」は、クラスのお友達の名前も顔もわからない状態で休校期間を過ごし、「学校となどんなところなのか」も知らないままに、宿題だけが出されるのはよろしくないのではないかと思い、その件を担任の先生に電話で相談している最中に、「同じクラスの子どもの顔写真と名前をメール等で集めて、シェアしたらどうでしょうか?」と提案してみたところ、食い気味に「個人情報の問題でそれは絶対にできません」と言われてしまいました。

私はその食い気味に発言された先生の様子を見て、公立学校の中で「個人情報」というキーワードが、いわば『免罪符』のような感じになってしまっているのではないかと感じました。

その免罪符を出せば、その場の空気が「だから仕方がない」となり、そこで思考が停止しているのではないか。そうやって思考停止を繰り返してきた結果、日本の公教育のICT化が、世界の先進国の中でも類を見ないほどに遅れてしまったのではないかと感じるのです。

(中略)

 

ICT活用で真っ先にやるべきこと

私がリスクに感じているのは、「保護者から声が上がらないから問題ない」と思ってしまっている学校関係者の認識です。実際には、不満の火種はとても大きく、SNS上ではすでに炎上しているところもあるのに、「自分たちが提供している教育は問題ない」と捉えているとすると、非常に危険だと思います。

こういう負の心をどちらか一方だけが密かに持っている関係性だと、今後、何か1つのミスに対して、とんでもない炎上が起こるリスクが高いと思います。私は教育新聞社で記者の仕事もしているので、全国の様々な教育がらみのニュースを知る機会があるのですが、最悪のケースだと、先生が自殺しちゃうこともあるんです。

まだ若く未来のある先生が、たった一回のミスによって叩かれて、自分を責めて命を絶つということは、今後、絶対に起こってほしくない。だからこそ、子供が人質に取られているような心理から声をあげにくい状態にある保護者が、安心して些細な不安を相談できるよう、学校と保護者の「コミュニケーション・ライフライン」を確立させることが、喫緊の最重要課題だと私は考えています。

ICT活用で真っ先に着手して欲しいのは、まさにこの「コミュニケーション・ライフライン」の整備です。「学校の大代表に電話」は、保護者の心理的ハードルがとても高い(=モンペと思われるんじゃないかと気にしちゃう)ので、メールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようにする。そして、よくある問い合わせは、速やかに学校全体のQAとして公開していくことで、「コミュニケーション・ライフライン」によって、過労死ラインを超えていると言われる先生の業務をこれ以上増やすことなく、保護者との信頼関係を強化していけるのではないかと考えております。

私自身も、この話を教育関係者向けに教育新聞でも書いているし、目黒区の教育委員会や、目黒区義の文教子ども委員会にも言っていますが、ぜひみなさんもそれぞれの自治体や学校にご提案いただけたら大変心強いです。「保育園落ちた、日本死ね」の事例もある通り、保護者の声は国をも動かす力があります!

 

 いやはやご本人は気づいておられないかもしれないが、慇懃な言葉の中に垣間見られる鋭い匕首は、学校にとって最近の金与正(キム・ヨジョン)氏に匹敵するものだ。

こういう負の心をどちらか一方だけが密かに持っている関係性だと、今後、何か1つのミスに対して、とんでもない炎上が起こるリスクが高いと思います。私は教育新聞社で記者の仕事もしているので、全国の様々な教育がらみのニュースを知る機会があるのですが、最悪のケースだと、先生が自殺しちゃうこともあるんです。

 一言でいえば、
「私たちの言うことを聞かなきゃ、先生死ぬよ」
 しかも本人には脅しているという自覚がまるでない。

ぜひみなさんもそれぞれの自治体や学校にご提案いただけたら大変心強いです。「保育園落ちた、日本死ね」の事例もある通り、保護者の声は国をも動かす力があります!
 ああ、あの勢いで叩かれるのかと思うと、もはや(退職によって)部外者になった私でもビビらざるをえない。

 

 さて、
今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。「メール連絡じゃダメなんですか?」と聞くと、個人情報が云々と言われて一蹴されてしまうと聞きます。

 現代ビジネスに寄稿しようという以上はジャーナリストとして「一蹴されてしまうと聞きます」はないだろう。なぜ確認しないのか。「個人情報が云々」の部分も何を言われたのか分からない、分からないことは調べるのが当たり前だ。

 私は自分が理解できない事象に出会うとまず怯える。
 私なんぞの知らない特別な理由があるのかもしれない、とんでもなく頭の良い人たちが気づいた落とし穴があってそれを回避しているだけなのかもしれない、安易に結論づけたり批判したりしたら、それこそこちらがバカを見るかもしれない、批判がブーメランになって返ってくるのかもしれない、そう考えると慎重にならざるをえないのだ。

今どき、学校外の社会の中では、メールやLINEが当たり前なのに、どうして学校という組織の中では、昭和から時間が止まっているのか? すごく疑問に感じました。
 だったら調べればいいだろう。問い合わせる相手はいくらでもいる。5~6本も電話すれば一人くらいはきちんと答えくれる人がいるだろう。私だったら答える。
 それにも関わらずこの部分を憶測で解決するから文章全体があらぬ方向に行ってしまうのだ。

 

【学校がメールを嫌うわけ】

 学校がメールを嫌う理由はまさに記事の言う、
 メールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようにする。そして、よくある問い合わせは、速やかに学校全体のQAとして公開していく
 が求められるためである。誰が「学校全体のQAとして公開していくのか」ということが問題になる。

 メールでの問い合わせをすべて公開するわけにはいかないし、公開したから直接答えなくていいということにはならない。
 メールが来たらきちんと回答する、その上で重要な問題に関しては学校長や教育委員会の承認を得て学校のサイトのQAに載せていく、繰り返すが、誰がその仕事をするかが問題だ。

 これに関して行政には苦い経験がある。20年ほど前からトップに立とうと立候補してくる人たちが次々と「皆様の声を直接、聞く」を公約にし始め、当選すると実際に窓口をつくってしまったことだ。
 もちろん首長の座に着いた瞬間から行政の末端まで知り尽くして返事の書ける人などいない。経験を積んだ首長だって具体的ないちいちに詳しく答えられるはずもない、そもそも忙しくて返事を書いている暇もない。そこで返答の大部分は担当部署が書くことになるのだ。首長はそれに目を通して許可を出すだけである。

 ネットがなかった時代は問い合わせや抗議の大部分は匿名の電話や手紙できた。それだと「調査して後日、返答」と言っても相手がわからないので返答のしようがなく、中身は承っても返事を返す必要がなかった。

 ところが今は匿名のメールにも返答が求められ、回答しないといつまでも要求され続ける。それでも遅れると今度は匿名のSNSに上げられてそこで執拗に攻撃されることになる。だからすべての抗議・問い合わせには必ず返事を書かなくてはならないのだが、その労力たるや半端ではない。
 まだ私が在職中のことだが、県の担当者がメールの返答に窮して、私に事実確認を求めてきたことがある。その事実確認も電子メールで送られてきたのだが、発信時刻はなんと午前2時過ぎであった。毎晩のようにそんな仕事をしているわけだ。

 保護者がメールなどを使って、気軽に担任に連絡ができるようになったら、担任または副校長(または教頭)が死ぬ。中途半端な返答をして言質を取られたことにならないよう、いちいち吟味し、文章を書き直して返さなくてはならないからだ。そんなメールが10通、20通と送られるようになったら、通常の業務はできなくなる。

 学校を追いつめるモンスター・ペアレンツなんて保護者1000組に1組もいないが、その1組に当たってしまったら学校は機能不全に陥ってしまう。そうならないためにも、文書(メール等)での返答は最優先で検討されなくてはならない。

 だから都道府県教委も学校がメール・アドレスを公開して窓口とすることを許さないのだ。自分たちで懲りている。
 学校職員のために許さない、さらに学校が拾い上げた細かな面倒ごとが都道府県教委もたらされないためにも許さない。
 県のたった一つのメール・アドレスで苦境に立っているというのに、県下数百の学校で採集され、一部がお伺いとして送られてきたらたまったものではないからだ。
 学校と保護者の間のことは、できればお互いに顔を合わせて、そうでなければせめて電話を通して肉声で会話しながら、学校内で解決してもらいたいものだ、都道府県教委はそう考えている。
 当然である。

 記事の筆者は(学校の大代表に電話をやめてメールなどでやり取りする「コミュニケーション・ライフライン」を使うことによって)過労死ラインを超えていると言われる先生の業務をこれ以上増やすことなく、保護者との信頼関係を強化していけるのではないかと考えておりますと主張するが、全く逆である。


【個人情報はかくも軽いものだったのか?】

 最後に、
公立学校の中で「個人情報」というキーワードが、いわば『免罪符』のような感じになってしまっているのではないかと感じました。
についても応えておこう。

 私たちは、
「同じクラスの子どもの顔写真と名前をメール等で集めて、シェアしたらどうでしょうか?」
などと言い出す恐ろしい保護者の出現を予想していなかった。
 子どもの顔写真や名前、電話番号やメール・アドレスなどは第一級の個人情報で、決して他人に渡してはいけないものだと思い込んでいた。ところがどうやら、今やみんなで「シェア」してもよいものになってしまったようだ。

 これまで学級名簿を紛失したために処分された教員が、いったい全国に何人いたことか。
 学級連絡網という便利なものが個人情報保護の立場から廃されて、担任が一軒一軒電話するような面倒な月日を何年送ったことか。
 家庭内の様子は重大なプライバシーだということで家庭訪問も廃止となり、教師たちは重要な情報収集の場を失い、生活困窮や児童虐待、家庭内不和などの環境悪化も察知できなくなった、それがどれほど大きな犠牲だったのか。
 そう考えると暗澹たる気持ちになる。

 個人情報保護で学校が失ったものは山ほどなのに、得たものはほとんどないのだ。それなのに「個人情報」が「免罪符」で、
その免罪符を出せば、その場の空気が「だから仕方がない」となり、そこで思考が停止しているのではないか。そうやって思考停止を繰り返してきた結果、日本の公教育のICT化が、世界の先進国の中でも類を見ないほどに遅れてしまったのではないか
とは。

「個人情報」がそこまで軽いものなら、私たちにやれることはもっとたくさんあったはずだ。
 嗚呼!

 

4月~8月生まれの子は、9月入学のために生涯賃金で1千万円損する~どうやら先送りになりそうでよかったが。

 自民・公明両党の検討委員会が9月入学を見送る方針を決め、
 どうやらこの件は先送りになる模様。めでたいことである。
 思えば今年3月以来、9月入学については良いことばかりがマスメディで取り上げられ、
 問題点は経費や社会との整合性についてのみ語られてきた。
 置き去りにされたのは将来の子どもたちだ。
 今、目の前にいる子どもの学力を守ろうとして、
 未来のすべての子どもたちを犠牲にするのは愚かなことだ。
という話。

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(「入学式」フォトACより)
 

記事


9月入学、文科相「直ちに導入を結論づけることない」
 
(2020.05.29 朝日新聞

www.asahi.com

 新型コロナウイルスの影響による長期休校を受け、政府が検討する「9月入学」について、萩生田光一文部科学相は29日の閣議後会見で「学校再開で授業や行事が実施できるなら、直ちに導入を結論づけることはない」との見解を示した。ただ感染の第2波の可能性にもふれ「引き続き検討は続けたい」とも述べた。

 9月入学について、文科省は子どもの学びの保障の観点から3月に検討を開始。来秋の導入が可能かどうか省庁をまたいで議論してきたが、自民、公明両党の検討会議は、拙速な導入はすべきではないとして、見送りを求める提言をまとめる考え。萩生田氏は「賛成派と反対派で議論が分かれ、大変な注目を浴びた。文科省として課題の整理は終わっている。どんな事態が起きても学びを止めない準備をしたい」と話した。
(以下、略)

 【大山鳴動して】
「9月入学問題」、泰山は鳴動したがネズミ一匹、出ないまま終わった。

 内容はともかく、今の新型コロナ事態の真っ最中に、急いで決めていいような話ではないという、ごくごく常識的な意見が通ったかたちである。それでいいと思う。

 私は5月1日のこのブログで反対し、別ブログでも5月11日(月)から15日(金)にかけて5日間、問題について考えたがやはり無理だと思う。

 

【9月入学にできない理由】
 日本の学校は国語や数学と言った教科教育だけを教える場ではない。そこでは児童生徒会、学級活動、各種行事を通して「望ましい集団活動を通して人間形成を図る教育活動」(特別活動の目標)が行われており、総合的な学習の時間を通して「生きる力」をつけ、部活動を通して「心身ともに豊かな人間」を育てようという場である。

 したがって入学を4月から9月に移動することによって、これらの活動が大きく阻害されるようなら、それはやってはいけないことである。そして私の感じではうまく回って行かない。70年もかけてじっくりと熟成してきたものだ。そう簡単に大きな実のなる果樹を別の土地に移すわけにはいかないのである。

 一例をあげれば、夏の甲子園大会の予選が大学入試と重なってしまう。インターハイも同様。さりとて予選を前倒しにして、陽の極端に短い冬に行うわけにもいかないだろう。中学校の部活動も同じ。「部活動は2年生の終わりまで」を標準にせざるを得ない。
 文化祭も真冬の行事となる。

 小中学校では季節に関わる教科書の内容を、国語・理科(観察等)・音楽などで変更しなくてはならない。音楽の教科書の1ページ目が滝廉太郎の「花」(♪春のうららの墨田川~)というわけにはいかないだろう。教科書の全面改訂だ。
 体育では水泳が、卒業・夏休み・入学式シーズンと重なるために削除。泳げない子が全国的に増える。
 いずれにしろ、覚悟が必要なことばかりだ。 

 

【4月~8月生まれの子は、生涯賃金で1千万円も損する】
 さらに問題だと思うのは、今だと6歳で入学している4月~8月生まれの子たちが7歳入学になってしまうことだ。


 日本語の特性(ひらがなさえ覚えれば小学校1年生でも文章が書ける、算数では10の位の数え方が英語に比べて楽、など)からいって、日本の子どもは欧米より2年以上早く学習を始められるはずである。実際にたいていの5歳児はひらがなが読め、一部の子は文章が書けてしまう。小学校高学年の算数などでは、現在でも欧米の同学年よりかなり高いレベルの学習をしている。
 ほんとうは就学時期を早めるべきなのだ。それを5カ月も遅らせるのはいかにももったいない。

 さらに言えば、私のふたりの孫はそれぞれ5月、6月生まれだが、9月入学になると生涯賃金で1000万円近い損失を被ることになる。
 今のままだと最短で18歳で高校を卒業し、65歳定年として就労期間は47年。ところが9月に7歳で入学すると卒業時は19歳。就労期間は46年。1年分の給料がもらえない。
 しかもそのもらえない1年分は18歳の給与ではなく、最終年(47年目)の、年功序列なら最も高い給与なのだ。

 そした不利をすべて甘受して、ウチの孫など足元にも及ばない優秀な人材を留学生として送り出したり迎え入れたりしなければならない、そんな義理はどこにもない、と私は思う。

 

 《参考》

kieth-out.hatenablog.jp

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

kite-cafe.hatenablog.com

目の前の子どもの学力が心配だといって9月入学を認めてしまうと、10年後、お宅の子どもは東大に入れないかもしれない

 学校が休校中、金持ちの子どもは塾やオンラインで高い学力をつけているのに、
 
お宅の子どもは置いて行かれるばかり――。
 
そんな脅迫に屈して9月入学に賛成したら、
 
10年ののち、
 もしかしたら東大に入れたかもしれないあなたの息子は二流大学に甘んじ、
 
せめて三流には入ってほしいと願った子どもも、
 
四流・五流に居場所を探さなくてはならないかもしれない。
という話。

f:id:kite-cafe:20200501144929j:plain(「東京大学安田講堂パブリック・ドメインQより)

 

記事


9月入学、具体化作業入り 来秋想定、6月にも方向性 政府
(2020.05.01 時事通信

www.jiji.com

 政府は30日、新型コロナウイルス感染拡大による休校長期化を受け、「9月入学」の実現に向け具体的な検討作業に入った。
 来年秋からの制度化を想定。
(中略)
 全国の学校では児童・生徒の感染を予防するため臨時休校が続いている。政府は自宅で学習できるオンライン授業の普及を促しているが、自治体によって取り組みに差があり、学力の「地域格差」拡大が懸念されている。

 感染終息のタイミングによるが、全国一律に9月入学で仕切り直せば、こうした不安を払拭(ふっしょく)できる可能性がある。欧米や中国では9月入学が主流で、留学生の往来がスムーズになるメリットもある。

 一方、国や自治体の会計年度、企業の採用スケジュールなど4月スタートを前提にしてきたシステム全体への影響は大きい。新型コロナウイルス感染で社会全体が混乱する中、こうした大規模な制度改正を同時並行で行う余力があるのかについて懸念する声も出ている。  

 

 

【誰がいつ、小学生に上がるのか】

 私には間もなく5歳になる孫がいて、今は保育園の年中(ねんちゅう)組。来年の年長組を経て、再来年は小学校だからランドセルの用意もしなくては・・・と思っていたのだが、来年から9月入学になるかもしれないとのこと。そうなると孫も来年の入学となるが、ブランド・ランドセルは一年前でも手に入らないと聞く。これは急がねば・・・と考えているうちにふと気づいた。
 来年6歳になる孫はともかく、いま、つまりこの4月~8月の間に6歳になりつつある年長組の子どもたちはどうなるのだ?

 来年9月にウチの孫が入学するとき、一緒に入るのは今年の9月から来年の8月までに6歳になる子であることは間違いないとして、それ以前、今年の4月から8月までに6歳になる子たちは、入学したばかりの今の一年生と一緒に、この9月から小学校に通うことになるのか? それともウチの孫たちと一緒に、来年になって小学生になるのか――。
 前者だと2019年の4月から2020年8月までに6歳になる子が1年生になるのでその数は現在の1.4倍。後者だと孫たちの学年が例年の1.4倍の人数になってしまう。

 人数が1.4倍になると当然、学級数も増える。教員の方は金を出せばすぐにも集められるが(教職が敬遠される現在は、もしかしたらこれも難しいかもしれないが)、教室が足りないということになると大変だ。
 通常、教育委員会は数年後を見越して校舎の増改築を行っていくが、こんな形での学級増など、考えているはずがない。

 いや教員も教室もそうだが、その前にそれらを増やすための学校予算がどうなるのか分からない。
 国の会計年度は4月始まりだが、学校の会計が9月始まりなるとどう予算をつけてどう決算をはたすのか――。
 もっともそういった難しいことは頭のいい人たちに任せることにして・・・、学校に付随する様々なこと、例えば部活動のことなどを考えるとさらに分からなくなる。

  

【部活や高校野球はどうなるのか】

 9月に新入生を迎えて月末までに入部指導を終え、10月から新体制が始まって11月から市町村大会、12月地区大会、1月に県大会をやって2月が全国大会か。
 裸足で競技を行う柔道・剣道は足が冷たいだろうな・・・と考えているうちに、おい、おい、柔剣道ではないだろう、相撲はどうする、水泳なんかできるのか? 野球だって雪深い秋田や山形からくる代表は気の毒だ。

 野球と言えば高校野球はどうなるのだろう? 夏の甲子園は7月の卒業式が終わったあとだから1~2年生の大会になるのだろう。すると春の選抜大会が3年生の大会ということいなって、ドラフト会議は6月かぁ。指名されなければ就職あるいは進学と考えている子にとっては遅すぎるよな。

 いずれにしろメチャクチャ大変なことは確かだ。しかし大変でもその先に大きなメリットがあれば耐えていくべきだろう。

 

【9月入学のメリット】

 報道によればメリットは二つ。
 ひとつ目は現在休校のために学校に来られない子たちに、来年8月まで、今の学年のままで就学させることで十分な学習機会が増やせること。そうしないと塾やオンラインで学習を進めている子たちとの学力差が縮まらない。
 もうひとつは中国や欧米の大部分が9月始まりなので、それに合わせることで留学等ががしやすくなる点。

 しかしどうだろう? 一点目はともかく二点目。
 この慌ただしく難しい、危険な時期に、何を慌ててエリートやお金持ちのためにこんな大変革をしなくてはならないのか――。

 

【9月入学は産学政府の悲願】

 実は9月入学(特に大学・大学院の)は日本の産学政府共通の悲願なのだ。

 今回のコロナ事態で多少怪しくなったとはいえ、日本の大企業には巨大な内部留保があり、企業はそれを大学に投資して成果を吸い上げたい。いわば紐付きの資金提供で成果を独占したい。それがアメリカの成功の秘訣のひとつで、もちろん日本もそうしたいのだが、そのとき前に立ちはだかっているのが4月入学なのである。

 4月入学であるばかりに世界の優秀な人材を呼び集められない。ノーベル賞級の大学教授を呼び寄せようとしても、日本に赴任する前後で時間的な無駄が生じてしまう。
 THEを始めとする大学の世界ランキングで日本が20傑にも入れない大きな理由のひとつは留学生があまりにも少ないこと、外国人教授が少ないことなどいわば国際性に大きな課題を抱えているからである。
 したがってこのコロナ事態のどさくさの中で、9月入学を一気に進めてしまえば、産学政界すべての人々にとっての幸せなできごとになると言えるのだ。

 

【だからあなたの子は東大に行けない】

 ところで、そのことは将来こどもを海外留学に出す予定などない私たち庶民にとってはどういう意味をもつのか――。
 ひとつは東大・京大など税金が最も多く投入されている大学の定員の、多くを外国人が占有するということである。日本人の枠が少なくなる。
 その結果、日本人学生が大学の階層を一段、あるいは二段、降り始める。

 考えてみるがいい。本来、学問に王道はないのだ。
 学校が休校中、金持ちの子どもは塾やオンラインで高い学力をつけているのに、ウチの子どもは置いて行かれるばかり――それは幻想である。金持ちであろうとなかろうと、勉強をする子はするし、しない子はしない。
 それにも関わらず不安商法に巻き込まれ、9月入学にすればウチの子も伸ばしてもらえると信じてウカウカと乗せられれば、10年の後、東大に行けたかもしれないあなたの息子は外国人留学生に押し出され、せめて三流には入ってほしいいと願った子どもも四流・五流に居場所を探さなくてはならないかもしれないのだ。

 諸般の事情を考えると9月入学への変更などそう簡単にできるものではない。だからそう心配することもないと思うが、美味しいは必ず眉に唾をつけて聞かなくてはならない格好の記事である。

 

いつに再開されるかわからない学校教育を待ってイライラするより、子の技術家庭科能力を高めて、近い将来、自分が楽をできる道を探る方がいい

 いっそのこと9月まで待って新学期を始めようという話が出ているが、冗談じゃない。
 この先4カ月も待っていられるか。
 そのうえで10月以降に新型コロナ感染、第3波、第4波となったらどうするんだ。
 ――と、いろいろツッコミどころのある今の事態だが、
 先が見えないことにイライラするより、
 この際“ウチの子”を優秀な家庭人に育て上げ、調理・裁縫・家庭衛生の肩代わりをさせられるようにしておいたら、きっと未来は楽になる、親にとって。
という話。

f:id:kite-cafe:20200429161818j:plain(「 餃子を作る女の子達6 料理 お手伝い」フォトACより)

 

記事

 日本人の「手作り布マスク」を見て、中国人が「この発想はなかった」と感動するワケ 
      中国は果物の皮で代用しているのに

中島 恵
(2020.04.29 PRESIDENT Online)

president.jp

「中国との違いに驚かされる」と投稿
「日本のニュースやSNSを見ていると、本当に素敵な手作りマスクをしている人が多くてびっくりします。特に知事! 中国との違いに驚かされるやら、感心するやら……」

4月中旬、上海在住の中国人女性が中国のSNSにこんなコメントを投稿しているのを見かけた。そこには中国のニュースサイトで紹介されていた小池百合子東京都知事がしている手作りマスクをはじめ、地元の粋な手ぬぐい生地を使ったマスクを着用している達増拓也岩手県知事、奥さま手作りの鮮やかなマスクをしている玉城デニー沖縄県知事などのマスク姿の写真がズラリ。ほかにデニム生地や福岡県の久留米絣などの素材を使ったマスクも紹介されていた。

(中略)

しかし、日本人が使っているような手作りマスクをしている人は、中国のSNSやニュースでも、全然見かけなかった。その理由はなぜなのか。日本に3年ほど住んだ経験のある中国人女性に聞いてみたところ、こう推測する。

基本的な裁縫ができることに驚いた
「中国でも、特に内陸部に行けば、刺繍をしたり、編み物をしたり、子どもの服を作るなど、手芸をする女性はもちろんいます。手芸というよりも、昔は必要に迫られて作っていた家事の一つでした。でも、現在、都市部の比較的若い世代で裁縫ができる女性はあまり多くはありません。ネットで布を購入して、コスプレ用の派手な衣装を作ったりする若い女性はいるのですが、そもそもミシンがある家庭自体、少ないでしょう。それが理由の一つだと思います。


私が日本に住んでいたときにとても驚いたのは、多くの日本人女性は基本的には裁縫ができる、ということでした。面倒だからしないとか、上手じゃないから作らない、という人も当然いるでしょうが、日本ではほとんどの女性が学校で裁縫を習ったことがあるんですよね。確かに、日本の女性にとって、幼稚園に通う子どもの袋とか、夫のワイシャツのボタンつけとか、日常生活の中で縫い物をしなければならない場面はけっこう多い。

学校のバザーなどもあると聞きました。だから、マスクがないなら布を買ってきて、自分でマスクを作ろうと考える人が大勢いるんだ、ということにも納得します。これは日本人、特に日本女性のすばらしいところだと思います」


中国の主要な公立学校に「家庭科」はない
このようにいわれて私もハッと気づいたのだが、中国の小中学校には基本的に「家庭科」の授業は存在しない。すべての学校で導入されていないのかどうかは分からないが、少なくとも、北京や上海の主要な公立の小中学校には「家庭科」という科目はない。

受験に必要な科目が重視され、勉強以外のことをわざわざ学校で学ぶということは、中国ではほとんど行われないからだ。そのため、手縫いか、ミシンかにかかわらず家庭で習わない限り、縫い物をした経験のある中国人女性は非常に少ない。その女性に「家庭で裁縫が必要になったときはどうするのか?」と聞くと「お手伝いさんかお店の人に頼む」と話していた。中国では、お金を出せば、必ず誰かが商売としてやってくれる。
(以下、略)

 

  この件についてはすでにブログの方でも書いた。

kite-cafe.hatenablog.com  今や我が国においても、親が子に調理や裁縫を教えるということが少なくなった。技能がないのではなく、時間がないのだ。したがって“家庭生活の送り方”といった当たり前のことも、学校で教えなくてはならない重要な項目となり果てた。極めて残念なことである。
 しかしそうした背景があってのこととはいえ、我が国の場合、これをかなりうまくやることができた。

 イクメン・ブームだとか、グルメ男子だとか言っても、基礎的な技術がなければ何も始まらない。その点で早くから家庭科の共修を始めた日本は、今まさに成果が花開きつつあると言えるのだろう。

 私たちは家庭科をもっと重要視しなくてはいけないし、家庭科のできる子をさらに高く評価する必要があるだろう。
 それが今回のコロナ禍の中で学んだ大切なことのひとつである。

 なお私も「家庭科」は日本独自に近いものだと思っていたが、調べてみるとそれに類するものは世界各国で行われていて、平成17(2005年)3月の国立教育政策研究所発表「家庭科のカリキュラムの改善に関する研究-諸外国の動向-」に詳しい。

 ただしアメリカで顕著なように、全体として「Home Economics(家政学)」から「Family and Consumer Science(家族と消費者の科学))といった方向への流れがあり、“家でボタン付けができるように”“お弁当も自分のぶんくらいは自分で作りましょう”から、“服飾デザイナーへの道”“レストランオーナーになるために”みたいな方向に進んでいるように見える。育児も衛生管理も“ベビーシッターになるために”“ハウスキーパーへの道”ということなのかもしれない。
 いずれにしろ、マスクが買えないから自分で作ろう――という方向にならない(もちろんやれる人はいる。そして販売に結び付ける)し、それでいいとも思わない。

 災い転じて福となす――。
 今回の新型コロナ禍は不幸に違いないが、その中にたったひとつでも “幸い”を生み出したいと私は思う。
 例えばいつ始まるか分からない(そして使えるかどうかも分からない)オンライン教育を待つのではなく、子どもと過ごす長い長い時間を、家庭科の学習に使ってみるのはどうだろうか?
 一緒に手縫いマスクをデザインして古い洋服を裁って縫う、あるいは毎日の献立を一緒に考えて、学校再開までの間に10品くらいの調理ができるようにする。

 共同制作は人間関係を近づける。
 家庭人としての子の技能も高まり親子関係も良くなる、こんないいことはないではないか。

 

休校が続くからといって慌てて政府や学校をせっついて、オンライン授業なんか始めさせたら大変なことになるぞ。

 新年度が始まったとたんに再び休校になり、
 「子ども在宅ストレス障害」に陥った保護者から、
 オンライン授業への要求が高まっている。
 けれどあんなもの、
 うっかり導入すると大変なことになるぞ。
という話。

f:id:kite-cafe:20200410194446j:plain
(「パソコンで学習する子ども」 フォトACより 

 

記事

 

日本のコロナ「学力格差」を止めるための方策  
      
オンライン授業「後進国」日本は何をすべきか

親野 智可等 : 教育評論家
(2020.04.09 東洋経済オンライン)

toyokeizai.net


 新型コロナウイルス感染症の終わりが見えない。学校がいつ再開するかわからない地域も多い。再開したところでいつ休校になるかもわからない。先の見えない不安定な状態が続いていて、いつ安定するのかも皆目わからない。「長期戦」を覚悟する必要があると言う専門家も多い。

そんな中で、子どもの学力について保護者たちの不安が増大している。家庭で勉強するといっても限界がある。財力に余裕がある家庭は、家庭教師、個別指導塾、パソコンやタブレットでのオンライン学習、通信教材など、さまざまな選択肢が可能かもしれない。でも、そうでない家庭は学力格差が広がることへの不安が大きい。
 

オンライン授業、フランスやアメリカの場合

 では、どうしたらいいのか? 実は、答えはすでに明らかになっている。それはオンライン授業だ。これが唯一の解決策であり、これなくして問題解決はありえない。実際に、諸外国はいち早くオンライン授業の実施に舵を切っている。

例えば、フランスでは3月16日以降、幼稚園から大学まですべてが休みになったが、そのとき教育大臣は「これからの期間は、子どもたちが勉強できない期間ではない。勉強の方法が進化するだけだ。教育の続きを遠隔でおこなう」と宣言した。そして、オンライン授業が始まった。現在、主にZoomを使ってのオンライン授業が行われている。

柱になる内容としては2つあって、1つは既習内容についてのクイズ形式の問題、もう1つは画面を通して教師と生徒がやり取りしながら進めるオンライン授業だ。

毎日、先生から子どもたちへのメッセージと当日の勉強プログラムの説明ビデオが届くとのこと。また、家庭でプリントアウトできる教材を電子メールで送信することもある。オンラインで質疑応答したりビデオを見たりテストをしたりすることもできる。

アメリカのニューヨーク市では3月中旬からグーグル・クラスルームやユーチューブなどでオンライン授業を行っている。グーグル・クラスルームでは、学習教材や課題を提供したりメッセージのやり取りをしたりできる。子どもは課題ができたらオンラインで先生に提出する。先生に質問を送ったり返事をもらったりすることもできる。

シンガポールでは4月当初からオンライン授業を始めている。Zoomを使ってのやり取り、動画視聴、課題をこなしてからグーグル・クラスルームで提出するなどが主なところだ。

韓国では4月9日に高校3年生と中学3年生のオンライン授業が始まった。4月下旬からは小学校に広げるとのこと。
(以下、略)

  

 「日本の教育は劣っている」という話が出ると、私は反射的に「それはウソだ」と思う癖がついている。
 個々細かな点については優劣のあるものの、総合的に考えて日本を越える公教育を行っている国・地域はひとつもないからだ。

 そして調べる。
 その話にはどこかに錯誤か、嘘が混じっているからである。

 ところが今回取り上げた『日本のコロナ「学力格差」を止めるための方策 オンライン授業「後進国」日本は何をすべきか』は吟味するまでもなく、破綻がありすぎてどこから手をつけていいのかわからないほどなのだ。

 

【ニューヨークで可能なのか?】

 すぐにピンとくるのはニューヨーク。
 アメリカのニューヨーク市では3月中旬からグーグル・クラスルームやユーチューブなどでオンライン授業を行っている。
 多少なりともニューヨークについて知識を持っている人なら(といっても普通の大人程度でいいのだが)、そこがとんでもなく重い貧困問題を抱えた街だということを知っているはずだ。

 実際に今回、ニューヨークの一斉休校がトランプ大統領の国家非常事態宣言から一週間も遅れたのも、1日3食の食事を学校給食に頼っている子どもがかなりいて、彼らの命の保障をしてからでないと休みに入れなかったからだ。
 もしかしたらその一週間がニューヨークにとって命とりだったかもしれないが、それでも休校を遅らせざるを得なかった。目の前の子どもを救わざるをえなかったわけだ。
 そんなニューヨークで「一週間待つから、Wi-Fi環境と最低一台のパソコンを用意しなさい」と言われても全員ができるはずがない。
 案の定、3月20日付のDIAMOND ON LINEには次のような記事が出ている。

 学校のオンライン授業は、3月23日に開始される予定だ。報道によれば、公立学校の100万人以上の生徒たちのうち30万人は、必要な環境が家庭にない。このため、アップル社を始めとする大手企業の協力のもと、市はオンライン環境の整備にあたっているという。
 しかし休校から1週間後、オンライン授業を予定通りに無事に開始できるのだろうか。「この1週間で、生徒たちに配布されそうなiPadは2万5000台」という報道もある。その調子なら、全員に行き渡るのには少なくとも10週間が必要だ。不安や懸念は尽きない。
(2020.03.20  DIAMOND ONLINE『日本だけではない、コロナで「全校休校」を決めたニューヨーク市の苦闘』)

『日本のコロナ「学力格差」を止めるための方策』の筆者は、あとの方(省略された部分)で呑気に、
 問題はありつつも、しばらくすると教師も子どもたちも慣れてきてかなり使いこなせるようになることが多いようだ。家庭にいながらも、オンライン授業によって一定の緊張感が得られて生活にメリハリがつくという効果もある。
などと言っているが、実際に何が起こっているか、おそらく確認しようともしていない。

【韓国はいち早くオンライン教育に舵を切ったのか?】

 私は韓国に関する部分についても首をかしげる
 筆者は、
4月9日に高校3年生と中学3年生のオンライン授業が始まった。4月下旬からは小学校に広げるとのこと。
と紹介しているが、4月9日はこの記事が配信された当日だ。しかも朝の配信だからまだ授業は始まっていない。それにもかかわらず韓国も、
問題はありつつも、しばらくすると教師も子どもたちも慣れてきてかなり使いこなせるようになることが多いようだ。
のくくりの中に入れている。筆者は預言者か?

 私はそもそも韓国が「いち早くオンライン授業の実施に舵を切っている」国のひとつに上げられていること自体がおかしいと思う。
 なぜなら韓国の公立学校は12月下旬に冬休みに入って1~2月を全部休み、3月1日(今年は日曜日だったので3月2日)から新学期が始まる国なのだ。それが新型コロナ禍で3月に始められず、4月になっても始められないからオンライン授業を開始したたのである。

 2月中旬には感染者が増えて爆発直前までいったのだから3月2日の登校など夢のまた夢、その時点でオンライン授業を始めていれば「いち早く」の表現も悪くはないが、3カ月も休んだ後ではけっして早いとは言えないだろう。

 みんなが手探りでやっているのだから、迷いながらもようやく今月から始めた韓国の判断は間違っていない。しかしそれを「いち早く」と持ち上げて、返す刀で、
日本全体で言えば、はっきりいって諸外国に比べてあまりにも遅い、遅すぎる。
と切り捨てる筆者はあまりにもきたない(と私は思う)。

 ではフランスはどうか。

 

【フランスのオンライン教育は保護者の助けになったのか、授業の成果は?】

 フランスも貧困問題・移民問題があると思うが、どうやらWi-Fiやコンピュータの負担を保護者に押し付ける形で始めたらしい。
(意外な盲点があって、ワークシートなどを大量にプリントアウトするためにOA用紙がすぐになくなってしまい、買いに行こうにも文房具店がすべて休業という大変さもあったらしい。)

 調べてみるとこんな記事があった。

  • 「授業中・授業後、保護者は『ICT支援員』の代わりです。Zoomが固まったり、共有されたホワイトボードが自動で表示されなかったといったトラブルが発生すると、小学校低学年の子どもがすべてを解決するのは困難です。そして否が応でも、保護者は日々『授業参観状態』になります。家で会議資料を読み込んでいる最中も、どこかで子どもの一喜一憂に反応してしまいます」「子どもにオンライン教育を」と保護者は簡単に言うが、実は保護者にはICTに関する様々なサポートが、求められることをよく知っておく必要がありそうだ。
  •  授業中、チャットで友達に話しかけたり、大量のスタンプを投稿したり、さらにはZoomのホワイトボード機能に勝手に落書きしたりする子どもがいるなど、リアルの授業以上にカオスになることもあった
  •  「リアルな場でも同じですが、最初に場の雰囲気や、参加者同士の関係構築がうまくいかないと、自由に議論しづらくなります。特にオンラインだと相手の表情が掴みきれず、一つ一つの発言の裏にあるニュアンスが伝わらないので、場が温まるのに時間がかかりました」
  •  「アイデアを生み出す場合、雑談や余白がないといけないのですが、オンラインだと常にオンの状態なのですぐ煮詰まったり、真面目なアイデアしか出なくなりがちです。これは意図的に雑談や休憩、遊びを取り入れる、もしくは個人ワークの時間をオフラインにすることでうまくいくかもしれないですね」
    (2020.04.01  FNN PRIME「初めての子どものオンライン授業 保護者と教育者に求められるものは何か」

 こちらも手探りの最中で、決して好ましい状況とは言えない。

 

シンガポールはどうか】

 シンガポールのオンライン授業に関する最新の記事は今日(4月10日)のNews weekだから記事の筆者には気の毒だが、それでも取材は落ち着いてしなさいという警告の意味で引用しておく。

 シンガポール教育省は10日、教員にビデオ会議サービスの米ズーム・ビデオ・コミュニケーションズが提供するアプリ「ズーム」の使用を停止するよう指示した。新型コロナウイルス感染拡大を受けてオンライン授業を実施するなかで「極めて重大な事案」が発生したという。

 現地の報道によると、10代の女子学生に対し地理の授業をオンライン配信していた際に、わいせつな画像やコメントが表示されたケースなどがあった。

 教育省幹部は「教育省はいずれの件についても調査を進めており、必要があれば警察にも協力を求める」と述べ、安全性の問題が解決されるまでは、教員による「ズーム」の使用は停止するとした。

(2020.04.10  News week Japan「シンガポール、教員に「ズーム使用停止」命じる オンライン授業中に重大事案が発生」 )

 すべて準備不足がなせる業だ。
 わいせつ画像や卑猥なコメントならまだしも、死体だの内臓だの写真がバンバン出てくるようなら、私も我慢できない。

 

【日本はどうするのか】

 ほんとうは新型コロナの感染拡大など起こらなければよかったのだが、それでも日本では最初の感染者が発見されてから2カ月以上も平穏だった。それが大きな利益だ。

 遅くなったおかげで「感染者の8割は軽症で済む」とか「無症状の感染者がかなりいる」とかいった知見が手に入り、「ドライブスルー方式のPCR検査」「軽症者の待機場所の確保」「アビガン等の試験的使用」といった優れた試みを真似することができた。

 オンライン授業も同じだ。「遅れている、遅れている」と急かすのではなく、遅れているからこそ得られる利益に注目すればいい。失敗や苦労は他人に負ってもらい、成果だけをいただく――。
 子どもを実験台に供するような先進的な取り組みは、公教育にはいらない。右顧左眄して半歩遅れて歩くくらいがちょうどいいのだ。

 え?
財力に余裕がある家庭は、家庭教師、個別指導塾、パソコンやタブレットでのオンライン学習、通信教材など、さまざまな選択肢が可能かもしれない。
って?

 大丈夫。金持ちの子でも塾やオンライン教育できちんと学習する子はわずかだ。むしろ中途半端な先行学習(一歩先の内容を学ぶ学習)で混乱してしまう子の方が多い。
 一方、塾にもいかず、しかし届いた新しい教科書がうれしくて、それだけで勝手に学習を進めてしまう子も少なくない。
 2~3か月まったく授業をしなくたって、みんな一緒に遅れるのだから問題はない。

 

*追補(2020.04.10夜)

懸念していたことが現実になった。オンライン授業初日の9日、全国各地でさまざまな混乱が起こり、質の低い授業に対する不満が出た。45分授業で5分の動画がすべてというクラスもあったし、ある授業では動画どころか教科書の資料とパワーポイントファイルだけ提供されたという。ビデオ会議のプログラムで出欠を確認するのに路上でスマートフォンのカメラで出席した学生もいた。

より大きな問題は、ほとんどの学校で学習管理サイトとして使用するEBS(韓国教育放送公社)のオンラインクラスに朝から繋がらなかったという事実だ。午前中、終始接続できない状況が繰り返され、授業に大きな支障が生じた。そんな中、パソコンからアクセスしなければならないとか、特定のブラウザを使わなければならないなどという未確認情報も溢れ、混乱を煽った。

(以下、略)

japanese.joins.com

 

卒業式の保護者謝辞をなくせというのは、子どもに「感謝の気持ちなど持たなくていい、自分はひとりで育ってきたのだと教えろ」と言うに等しい

 卒業式の次第に「保護者謝辞」があるのはおかしいという意見がある。
 学校が自ら、「自分たちに感謝しろ」というのはおこがましいというのだ。
 そうではない。
 学校を通して、子どもを支えてくれた社会に感謝の気持ちを伝える、
 親のその姿を見て、子どもも社会に対する感謝の気持ちを育む、
 それが「謝辞」だ。

という話。

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記事

 

 【卒業式】学校に「いらない」と言われても“謝辞”を続ける保護者の不思議
(2020.03.14 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp


 引き受け手がいないのならと、学校側が謝辞をなくす提案をしても…

 全国で一斉休校の措置がとられるなか、卒業式も縮小、短縮されています。
 「来賓を呼ばない」「在校生は参加しない」といった参加者絞り込みのほか、「祝電披露(読み上げ)をやめ、代わりにプリントを掲示する」「PTA会長の挨拶をやめ、文書で配布 or メールで配信する」「保護者代表の謝辞をやめる」など、ご挨拶系の省略をよく耳にします。

 がっかりする人もいるのかもしれませんが、多くの出席者、特に式の主役である子どもたちにとっては、ありがたいことかもしれません。卒業式は、証書の授与だけでそれなりに時間がかかりますし(児童生徒数が多い学校はかなり長くなります)、この時期の体育館はよく冷えます。「もう少し時間を短くできないものか」と感じてきた人は、大人でも少なくないでしょう。

 今年は新型コロナウイルスの影響で縮小されましたが、逆に考えると、なぜこれまで卒業式は短縮できなかったのでしょう。複数の原因があると思いますが、来賓や保護者への遠慮や気遣いもあったと考えられます。学校行事ですから、式が長くなるのは学校都合に見えますが、じつはそうではない面も一部にはあるのです。

 筆者も以前、PTAのクラス役員が決まらない最大原因だった「卒業式のときの、6年保護者代表の謝辞」という慣習をなくしたのですが、このとき驚いたのは「謝辞をなくすことに反対してきたのは、当の保護者だった」という事実です。

 その小学校では毎年、6年の学年長が卒業式の際に「お着物で謝辞を読み上げる」という風習があり(PTA会長の挨拶はまた別にある)、そのために毎年6年学年長が決まらず、揉めていました。母親たちは「前に出て挨拶する役」を嫌がることが、とても多いのです(しかもお着物)。

 この年は私が6年学年長になり、洋服で謝辞を読むつもりでした。ですが、あるとき数名の保護者から「毎年、あれ(謝辞)のせいで役員決めが揉めるんだから、なくしたほうがいいよ」と言われ、「なるほど、そうだな」と根回しを始めた矢先、意外な事実を知りました。

 学校は以前から保護者に対し、謝辞をなくすことを打診していたのに、保護者のほうが断っていたというのです。「謝辞を言いたい保護者」がいないのに、「誰かに謝辞を言わせたい保護者」の声が優先されていたわけです。

 しかし、そもそも謝辞は学校へのお礼の言葉です。学校側が「不要(なしでお願いね)」と言っているのに、それをつっぱねてまで謝辞を言うのは、本当に感謝の気持ちなのか? よくわからなくなります。この年、やはり謝辞はやめることにしました。

 こんなケースは珍しいかと思ったのですが、その後たまに似たような話を聞きます。先日も、ある学校で同様の話(引き受け手のない挨拶の省略を打診された保護者側が拒絶)があったと聞いたのですが、ついに今年は、新型コロナウイルスの影響から省略することになったそうです。

 学校には、保護者や来賓(地域住民)の反発を恐れて変えられないこと、やめられないことが、じつはいろいろあるのですが、「震災などを機にようやくやめることができた」という話は、先生たちから割合よく聞きます。

 この春は新型コロナウイルスの流行で各方面に大変深刻な影響が出ていますが、意外なところで合理化を進める効果も生じています。使えるところは使っていってはどうでしょうか。
( 大塚玲子  | ライター、編集者、ジャーナリスト)

 

 大塚玲子はPTA活動の過剰・強制性を批判し、規模縮小、脱会の自由化などを訴えてYahooニュースにしばしば登場してくる人物ある。これだけ頻繁に扱われるのは、やはり一定のニーズがあるからだろう。大塚はこれで糊口を凌いでいる。

 しかし卒業式の短縮を、
特に式の主役である子どもたちにとっては、ありがたいことかもしれません。
と書いた時点でこの人は終わりだ。何もわかっていない。
 卒業式で中心になるのは子どもではない。百歩譲って「子どもが主役」であるにしても、そのまま演劇になぞらえるなら、学校が監督で、市町村教委はプロデューサー、市民が観衆として存在することを理解していない。

【卒業式は「子どもの卒業を祝う会」ではない】

 きちんと説明するなら、卒業式は子どもに「6年間(3年間)よく頑張りました。よかったね。おめでとう」と言うためのものではない。
 正しくは「卒業証書授与式」と言い、設置者――公立小中学校なら市町村、私学の場合は学校法人――が校長を通じて、児童生徒に卒業証書を「授与する」日なのである。あくまでも上から目線の儀式なのだ。

 さらに何のための式かと言えば、税金あるいは学費を納めてくださった納税者及び保護者に対して「学校はここまで子どもを育てました。市町村教委、理事会はこの子たちを卒業させてもかまわないと認めます。どうぞご覧ください」とお披露目するための式なのだ。
 したがって入学式なら来賓の側にいる教育委員会代表や理事長は、証書授与式では学校側の、しかも校長より上席に座って主催者であることを示している。

【子どもは、自分を育ててくれた社会に感謝すべきだ】

 そう考えると、保護者が納税者・教育員会・理事会・教員に謝辞を述べるのは当然だという考え方が出てくる。少なくともこの機会に学校に感謝の気持ちを伝えたい、お礼を言いたいという保護者が存在することは理解できなくてはいけない。
 学校側が「不要(なしでお願いね)」と言っているのに、それをつっぱねてまで謝辞を言うのは、本当に感謝の気持ちなのか? よくわからなくなります。
というのは、やはりこの仕組みが分かっていないからであり、学校教育は政府の義務なのだから(金銭ばかりでなく、精神的に肉体的エネルギーについても)無償であるのは当然だと考える消費者根性しかない人間の言いぐさである。謝辞をなくそうという学校側も、社会におもねる間違った態度と言える。

 子どもは、自分一人で、あるいは親と自分だけで育ってくるものではないーーそのことを、卒業式の日くらいは意識しなくてはならないと思う。

 社会に対する意識の薄い子どもの前で、親が社会や学校に対して感謝の言葉を述べる姿を見せるのは重要なことだ。その姿を見て、子どもたちは社会や教育委員会・理事会、学校の先生方、そして保護者――、そうした人々のおかげで自分はここまでくることができたと意識できるのだ。

【一部、妥協しよう】

 ちなみに卒業式の長いことに毎年うんざりしている人間というのは案外少ない。
 保護者は毎年来るわけではないし、教員はそれぞれ仕事があるからうんざりしている暇はない。来賓の中には退屈な人もいるかもしれないが、いやなら来なければいい。
 卒業生がうんざりとしているとしたら、それは指導不足だ。

 かわいそうなのは“在校生”たちで、呼びかけの時間以外はほとんど添え物状態である。その状況が許せないというなら、まあ、今後も在校生抜きでやるというのも一案かもしれない。
 その程度なら、私も譲歩していい。

粉飾された「釜石の奇跡」を、丁寧に洗い落として正す若者がいるという奇跡

 悪意ある粉飾「釜石の奇跡」を丁寧に解きほぐし、
 粉飾を削ぎ落そうとする若者がいる。
 偽物の美談のために将来の子どもたちが道を誤らないように。
 美談より事実の方が美しい場合がある。
という話。

f:id:kite-cafe:20200311172037j:plain(「東日本大震災 岩手県 釜石市」 フォトACより)

 

記事


本当は違う「釜石の奇跡」 24歳語り部が伝えたい真実

(2020.03.11 朝日新聞デジタル)

www.asahi.com
 小中学生3千人のほとんどが助かり、「釜石の奇跡」と呼ばれた。鵜住居地区では中学生が小学生の手を取って避難したと称賛された。でも「全てが本当のことだったわけではない」。あの時の中学生の一人、菊池のどかさん(24)は振り返る。この地区にできた津波伝承館で働き始めて1年。語り部として真実を伝えることの難しさを日々感じている。

《誤解があればできるだけその場で正すようにしていますが、十分わかってもらえたかどうか自信はありません。でも、震災直後に報じられたことと、私たちが体験した事実と違うことはたくさんあります。》

 県立大を卒業と同時に、「いのちをつなぐ未来館」に就職した。今度は助ける人になりたいと消防士や教師をめざしていたが、地元に防災教育の場ができると聞き、ぴったりだと思った。

 《避難のお手本のように伝えられてきたので、来館者の中には「釜石の子どもは全員助かった」と思って来る人もいます。》
 しかし、鵜住居地区の鵜住居小…

 (以下、朝日新聞デジタル有料会員限定記事)

 

【こんな大切ことを有料記事にするとは・・・】

 有料会員限定記事なので全体の3割程度しか読めないが、この記事一本のために980円を払う気になれないので、諦める。

 もっとも検索でこの記事に関するコメントを探すと、
“私たちが助かったのは消防団員の的確な指示や近所の人の助言のおかげ。運や偶然も重なって生かされたんです。一般的な防災教育だけではだめだと思う。地形を知ること、ふだんから近所の人たちと交流しておくこと……。やるべきことは多いと思います”

“実は私たちも最初から小学生の手を引いて逃げたのではなかった。いったんは自分たちだけ逃げたんです。これからはそういう真実も語っていかないと本当の教訓にならないと思う”
といった抜粋も拾えるので、内容の一部は分かる。

 また、釜石東中学校の生徒は震災直後から報告会や語り部活動で「釜石の奇跡」の真実を語っているので、丁寧に調べていくとネット上でもさまざまな記事を拾うことができる。そのため朝日新聞の記事の残りの部分もおおよそ推察できる。それで980円は払わずに済む。

 

【「釜石の奇跡」と「釜石の真実」】

 私たちの知る「釜石の奇跡」は実は、片田敏孝・東京大学情報学環特任教授による粉飾報告である。創作と言ってもいい。
 片田は2004年から釜石市の防災・危機管理アドバイザーをやっており、2011年の東日本大震災は彼にとってまさに奇貨だった。自らの手柄を誇張することによって片田は防災教育の専門家としてマスコミの寵児となり、当時は連日連夜テレビに引っ張りだこだった。

 しかし片田が大仰な自慢話をしているその間も、釜石東中学校の生徒・卒業生が地道な活動をしていたことを私は知っている。
 その一例が、早くも震災の年の8月に行われた報告会である。

www.nhk.or.jp 片田の創作では、
 中学生たちは教師の指示を待たず自主的に高台に向かい、小学校の屋上に避難している子どもたちに気づくと声をかけて一緒に行動することを促し、手を引いて坂道を駆け上った。そして生徒自ら、予定された避難場所が危ないと判断すると二度にわたって場所を変え、さらに高い場所を目指して移動して、全員、津波に飲まれることなく助かった。

――ということになっている。

 その様子は片田自身のレポート

wedge.ismedia.jpにも詳しい。しかし事実は違う。

 釜石東中学校の生徒は教師の指示によって屋外に出て、点呼もしないまま避難場所に向かうというのも教師の判断だった。
 最初の避難場所で点呼をとるとそこに小学生がやってきて合流する。その間も余震が繰り返され、裏山のがけが崩れる。
 副校長(*)は地元住民の助言でさらに高い場所を目指して移動を指示する。中学生が小学生の手を引いて避難する有名な写真は、このとき撮られた。

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*校長はこの日、校長会のために不在だった。

 第二の避難場所に着くか着かないかのタイミングで津波が押し寄せる。

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「逃げろ!」という大人の声で子どもたちは再び走り、これ以上は山しかないという地点まで行ってようやく止まる。

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 振り返って見ると、最初の避難場所は津波にのまれていた。間一髪のだったと言っていい。

 そうした様子は先に上げた「報告」に詳しいので是非とも読んでもらいたいところだが、片田の報告とはずいぶん違う。

 

【教師の言うことに従うと殺されてしまうのか】

 釜石では小中学生の全員が助かったわけではない。当日、病気などで欠席していた5名が津波被害に遭っている。片田の「小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない」はそこから来ているのだが、それを言うなら隣町の気仙沼市だって99.8%なのだ(11人/ 5688人)。
 さらに言えば、大川小学校で74人もの児童を死なせてしまった石巻市でさえ、全体でみると98.6%の子どもが助かっている。片田の指導のいかんに関わらず、学校は子どもを助けることができたのだ。

 私がこの件に激しくこだわるのは、「釜石の奇跡」が大川小学校の悲劇と対比され、
「釜石では先生の指示を待たずに動いたために全員が助かり、大川小学校では先生の言う通りにしたために殺されてしまった」
という形で報道、流布されたからである。
 マスメディアは学校を権力と考えており、教師を貶めることに余念がない。片田はそうしたメディアの性向をよく知って利用したのだ。

 津波であろうと火災であろうと学校が被災したとき、子どもたちが「てんでんこ」とばかりに勝手に逃げ出したら私たちは困る。子どもたちが全員、常に正しい判断をするとは限らないからだ。
 むろん大人も常に正しいとは限らない。しかし全員がバラバラに動くよりは、より正しい道が示せるはずだ。私たちは大人だから。

 片田は罪深いことをした。
 けれど2011年3月11日を釜石に生きた子どもたちは、それよりずっと誠実な生き方をしていると知って、私自身はほっとしている。

 (参考)

kite-cafe.hatenablog.com