キース・アウト

マスメディアはこう語った

教員採用試験の競争率が下がり続けているというのに、文科省も自治体も本質的な解決の道を探ろうともしない。これって、かなりヤバくないか?

 教員採用試験の競争率が落ち続けている。
 倍率で2を切れば深刻な教員の質の低下が始まると言われているのに、
 すでにそうなった自治体が2019年で12もあったという。
 文科省は教員免許を取り易くすることで、
 各自治体は受験のハードルを下げることで、
 少しでも受験生を増やそうと努力している。
 しかしそれって、まったく本質的な話ではないではないか?
という話

f:id:kite-cafe:20210205200207j:plain(写真:フォトAC)

 

記事


社説:教員の確保 勤務環境の改善を急げ

(2021.02.04 京都新聞) 

www.kyoto-np.co.jp
 全国の自治体が学校の先生のなり手不足に頭を悩ませている。

 2019年度に行われた公立小学校の教員採用試験の競争率が、全国平均で2・7倍と過去最低になった。佐賀、長崎両県など12の自治体では2倍を下回った。

 教員を採用する教育委員会は、年齢制限の撤廃や大都市に試験会場を設けるなど、受験しやすい制度を導入しているが、受験者の奪い合いになっているのが現状という。

 21年度からは小学校の35人学級化への移行が始まり、教員がさらに必要になると見込まれている。情報通信技術(ICT)を活用した授業が本格化するなど、学校に求められる業務も増えている。

 受験者減少に歯止めがかからず優秀な人材が確保できなければ、教育の質にも影響が出かねないと指摘されている。競争率低下の要因を調べ、教員志望者を増やす取り組みにつなげる必要がある。

 採用試験の競争率は近年、低下傾向にある。第2次ベビーブーム世代への対応などで1980年代に大量採用された教員が退職期を迎え、補充のために採用数を増やす動きが続いている。

 ただ、教員の大量退職はピークを越え、2019年度試験での採用数は10年ぶりに減少した。それでも、競争率が過去最低になったのは、教員を目指す人が減っていることを示している。

 競争率の低迷を受けて文部科学省は、大学で小中両方の教員免許を取得する場合に必要な教職課程の単位数を減らすなどの対策を打ち出した。他業種で働く教員免許保有者の特別選考を行っている自治体もある。

 だが、20年3月に国立の教員養成大学・学部を卒業した人の教員就職率は57%にとどまっている。

 その一つの要因は、教育現場の厳しい勤務環境にある。多忙で休みが取りづらい「ブラック職場」とも言われ、学生らが教職を敬遠する動きにつながっているとみられている。

 文科省は公立校教員の残業の上限を原則「月45時間、年360時間」とする指針を策定するなど、働き方改革に向けた取り組みを進めているが、現場の負担軽減に結びついているとは言い難い。学校や教育委員会はどこに要因があるのかを点検し、教員のやりがいを高める職場づくりを進めてほしい。

 中学、高校の教員採用も受験者が前年より3千人以上減るなど、人材確保は厳しさを増している。教職を目指す若者が意欲を持てるような環境へ改善を急ぐべきだ。

【学校には、どちらにしても良い先生が集まる仕組みがあった】

 記事に第2次ベビーブーム世代への対応などで1980年代に大量採用されたとある。
  記憶にないが私が合格できる(83年度採用)くらいだからよほど試験も楽だったのだろう。しかし私の少しあと、90年前後の受験者はさらに楽だった。いわゆるバブル景気の真っ最中で、地味な教員の道を歩こうとするバカ者はほとんどいなかったからだ。
 しかしそれも悪いことではない。この時期に教師になった人たちは、民間のとんでもない給与や賞与に目もくれずに選んだわけだから、その意味で“本当になりたい人だけが教師になった時代”とも言える。事実、教育熱心ないい先生が多かった。

 そこからさらに10年たつと今度は就職超氷河期だ。場所によっては27~28倍といったとんでもない倍率を勝ち抜いてきた教師たちは、信じられないほど優秀だった。「優秀な先生には心がない」とか「ダメな子どもの気持ちが分からない」とか言われるが、彼らは「教師としての心」や「ダメな子どもの気持ち」まで勉強して自分のものにしてしまうから凄かった。
 私の弟は普通の公務員だったが、就職超氷河期の後輩について「アイツらに出世競争で負けても悔しくない」と言っていたほどである。

 こうしてふたつの時代を記述してみると自ずと分かってくることがある。
 公務員、特に教員の世界には「景気の悪い時には優秀な教師が集まり、良い時には熱意のある教師が集まる」という法則があって、どちらも必要な人材だから、両方が交互に集まってくるという意味では安心してみていられる世界なのだ。

 しかし今回は違う。
 教員採用試験の競争率が下がっているのは教員の大量採用や好景気のせいばかりではなく、教職そのものに対する嫌悪感が背後にあるからだ。今後、不景気になって民間の雇用が冷え切っても、教員になろうという人材は以前のように増えてこない。民間で合格の見通しの持てない者だけが受験に来る――もはや教職はまともな人間のやる仕事ではなくなっているのかもしれないのだ。

【学校のブラック化はさらに進むという予言】

 かくも教職は誰もが忌避する劣悪な職種になってしまった。

 もちろん教師は今でも高邁でやりがいのある仕事である。しかしその「高邁さ」や「やりがい」に乗じて、政府や自治体が、マスメディアや保護者が、そしてその他の人々が、仕事を増やし、無理難題を押し付けてきて学校をとんでもないブラック社会にしてしまった――そのことに、みんな気づくようになってきている。

 上の記事でも、
情報通信技術(ICT)を活用した授業が本格化するなど、学校に求められる業務も増えている。
そして
文科省は公立校教員の残業の上限を原則「月45時間、年360時間」とする指針を策定する
 つまり、
仕事は今後も増やす、しかし残業はさせない、(仕事はすべて持ち帰れ)
と、明け透けな言い方で、今後も学校のブラック化が進展することを示唆している。

 もちろんこの予言は当たる。これまでも仕事を増やす一方で、教員も増やすといった負担を緩和する方策はほとんど取られてこなかったからだ。
 考えてみるがいい、
 生活科、総合的な学習の時間、ICT教育、キャリア教育、小学校英語、プログラミング学習・・・。
 わずか20年余りの期間にこれだけの新たな授業が増えたのに、専門の教員は一人も増えなかった。
 教員免許更新制、教員評価・学校評価、学校マネジメント、学校評議員、公開参観日、参観週間、リモート学習、いじめ対策、不登校対策、セクハラ・パワハラ研修、体罰・違法行為撲滅研修
――新たに取り組まなくてはならないことや、自腹で”やらせていただかなければならない”こともたくさん増えた。しかし教員数は昭和33年以来ほとんど変わっていない。
 これで職場がブラックにならないわけがない。

文科省は無策、マスメディアにも妙案はない】

 チャンスは教員採用試験に学生が殺到した就職超氷河期にしかなかった。
 あのときに雇用対策の一環として優秀な学生を大量に採用して、それを常態化しておけば今日の地獄はなかった。教職は今ほど苦しい職業ではなく、多くの若者のあこがれる仕事のままでいられたはずだ。自然と人材が集まってくる。

 いまや教員の職場環境を是正するために先生の数を増やすということ自体ができなくなった。受験者の減っている時代に、教員の数を増やせばさらに競争率は下がる。さりとて採用数を絞れば教職はさらに苛酷になる。

 それを何とかしなければならない文科省は惚けた発言をし、マスメディアも無批判に受け入れる。
 競争率の低迷を受けて文部科学省は、大学で小中両方の教員免許を取得する場合に必要な教職課程の単位数を減らすなどの対策を打ち出した。
 学生が教員採用試験を受けなくなったのは、免許が取りにくいからではないだろう。この職業に恐怖を感じているからだ。

 他業種で働く教員免許保有者の特別選考を行っている自治体もある
 そんなことはずっと昔からやっていた。今や現職の教員をヘッドハンティングしなくてはならない時代になっている。

【対策はほとんどない】

「あのときあれほど言ったのに手を打たないからこのザマだ。いい気味だ、もっと苦しめ!」
 そんな言い方をするほど私も人が悪くない。それに実際に苦しんでいるのは教師であり児童・生徒なのだから放置することもできない。そこで考えたのだが――。

 労働の苛酷さを解消するには方法は三つしかない。
 労働者の数を増やすか、仕事を減らすか、仕事の質を落とすのか――。

 教員の数をこれ以上増やすことはできないし、しない。仕事の質(教育の質)を意図的に落とすことも難しいし実際にしないだろう。そうなるとできることは量を減らすことだけだ。

 生活科、総合的な学習の時間、ICT教育、キャリア教育、小学校英語、プログラミング学習――新たに加わったこうした科目の一部でも諦めるか、逆に旧来のものからいくつかをなくしていく、これならできるかもしれない。

 いっそのこと「21世紀のグローバル社会を生き抜く子どもの育成」のために、新しい教科はすべての残し、国語・算数(数学)・理科・社会あたりをなくしてしまったらどうか。それなら負担もグンとへって、教員になってみようと思う学生も増えてくるかもしれない。
 もともと「グローバル社会を生き残る子ども」なんてエリートに決まっているから、国語・算数なんて教える必要もないのだ。

再び! 「小学校5,6年生が教科担任制になるかもしれないといっても、教師にとって何もいいことはないのかもしれない 」

 中央教育審議会が答申を出して2023年からは小学校にも教科担任制を導入することを示した。
 世間的には「教師の負担軽減につながる」と歓迎する見方もあれば、現場からは「冗談じゃない。教科担任制に使う金があるなら35人以下学級を早く実現しろ」とか「そもそも今どき先生になってくれる人がいるのか?」とか批判する声もある。
 しかし勘違いしてはいけない。政府の教育改革で地方や教員が楽になった例は一度たりともないないのだ。
という話。

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記事

小学校5・6年生に「教科担任制」本格導入を 中教審が答申
 (2021.01.26NHK)

www3.nhk.or.jp
新しい時代を見据えた学校教育の在り方を検討してきた文部科学省中教審中央教育審議会は、令和4年度をめどに小学校5年生と6年生の授業を対象として、中学校のように教科ごとに専門の先生が教える「教科担任制」を本格的に導入するよう答申しました。

中教審中央教育審議会文部科学大臣の諮問を受けて、デジタル技術の活用など新しい時代の小中学校や高校の教育の在り方について答申をまとめ、26日、田野瀬副大臣に提出しました。

答申では専門性が高い教員が児童一人一人の学習の習熟度に応じて指導できるよう、令和4年度をめどに小学校5年生と6年生の授業を対象として、中学校のように教科ごとに専門の教員が教える「教科担任制」を本格的に導入するよう求めています。

導入の対象は、算数、理科、英語の3教科で、ICT=情報通信技術を活用しながら専門の教員が指導することで、子どもたちの理解や学びを深め中学校での学習につなげやすくなり、教員1人当たりの授業時間の削減や準備の効率化により負担を軽減できるとしています。

小学校では、教員1人が1クラスを担当する「学級担任制」が主流ですが、英語の教科化に加えてプログラミング教育の必修化など教員の専門性が求められるようになっていて、文部科学省は、答申を踏まえて「教科担任制」の導入を進める方針です。

このほか答申では、高校の普通科の名称について、各校の特色や魅力を表現するものに改められるようにすることや、小学校で1人1台の端末のデジタル環境の整備が進む中、デジタル教科書の使用が着実に進むよう普及促進を図ることなどを求めています。

 

 教科担任制・35人学級などの教員定数に関わる問題を考えるとき、常に頭に置いておかなくてはならない二つのことがある。
 ひとつは定数法、そこから導き出される定数表であり、もうひとつは中央教育審議会だ。
 定数法と定数表については2020年8月の当ブログで触れ、文科省は絶対にこの法律に触れない、触れたとしても財務省が首を縦に振らない、したがって(臨時的な措置は別として)教員の数が増えることはない、それが原則だという話をした。

kieth-out.hatenablog.jp したがって、ここでは中央教育審議会について軽く触れることから話を始める。

中央教育審議会中教審)】

 中央教育審議会というのは文部科学省の省令よって設置された常設の諮問委員会で、Wikipediaによると、
 現在は、「教育制度分科会」、「生涯学習分科会」、「初等中等教育分科会」、「大学分科会」の4つの分科会と、総計約70の部会・委員会がおかれている。また、どの分科会にも属さない、「教育振興基本計画部会」、「地方文化財行政に関する特別部会」の2つの部会がある。
というものだ。
 任期は2年、各界の錚々たるメンバーで組織されている(第10期中央教育審議会委員)。

 文科大臣の諮問によってさまざまな角度から審議し答申を出すのが仕事だが、見方によっては文科大臣の意思にお墨付きを与えるような仕事をしている場所とも言える。繰り返される、
「専門家のご意見もうかがったうえで・・・」
の「専門家」として重宝されるところだ。

 今回、「小学校5・6年生に教科担任制を」という答申を出したのもここだが、委員の顔ぶれを見ればわかる通り、小学校教育の専門家は一人もいない。義務教育からは中学校長が一人、出席しているだけである。これでは現場のことは誰も分からない。

 現場のことを知らない国会議員や大臣・官僚が思いつき、現場を知らない中教審委員が審議する、これで現実的な教育政策が出てくるはずがない。
 彼らが求めているのはより良き未来の社会ではなく、自分がその位置にあるときに何かを成し遂げたという記念碑だけなのである。

【思い違いをしてはいけない】

 現場からは、小学校教科担任制を歓迎する声はほとんど聞こえてこない。実験器具や植物採集などで事前準備が大変な理科や、そもそも指導法を学んでこなかった英語などでは専門の教師がいて欲しいが、中規模以上の学校ではすでに手配されていることも多い。

 一方、今回の答申で全国の小学校の三分の一にも及ぶという1学年1クラス以下の学校にも教科担任として新たな先生を入れてくれるのかというと、そんなことは夢物語だとみんな分かっているから信用しない。ほんとうに理科(週3時間)を代わりにやってくれる先生が来るならそれはありがたいが、その人は5・6年生合わせて週6時間しか授業がないのだ。そんな贅沢を政府が許すわけがない。

 規模の大きな学校でも、そんな余裕があるならむしろ35人以下学級の拡充の方を急げといった意見もある。しかしそれもお門違いだ。

 繰り返すが、
文科省財務省も、教員を増やすことなど全く考えていない
のだ。それが大原則で、そこから半歩もはみ出すことはない。

 ではどうやって教科担任制を行うというのか――。そのヒントがNHKニュースの前日に出た日本経済新聞の記事(2021.01.25 日本経済新聞「さいたま市、小学校で教科担任制導入 23年度に全校へ」)の中にある。

【教科担任制はいかに行われるか】

 それによると、
 さいたま市教育委員会は2021年度から各教科を専門の教員が教える「教科担任制」を市立小学校10校で導入すると発表した。
(中略)
 20年10月に文部科学省中央教育審議会が公表した中間まとめによると、「教科担任制」は22年度をメドに高学年で本格的に導入する必要があるとしている。対象とする科目は外国語・理科・算数などを例示しているが、市内で来年度から導入する10校では国語、社会を含む9科目を分担する。教員の専門性を生かして学校ごとに担当する教員を決めるほか、中学校の教員による指導を取り入れることも検討する。

 注目すべきは、
・学校ごとに担当する教員を決める
・中学校の教員による指導を取り入れる
の2点である。どうやら新たな教員配当をするのではなく、現有の教員だけでやっていくらしいのだが、具体的に何をどうしようというのか?

【小学校の指導時数】

 その前に、まず小学校ではどんなふうに授業を割り振っているか見ておく。

 下は学習指導要領に示された各教科の年間指導時間である。

f:id:kite-cafe:20210130185944j:plain 学校の授業日数は35週(175日)を基準とする擬制で成り立っているから、表の中の数字を35で割ると1週間に実施すべき教科の時数が割り出される。その計算で、例えば第6学年の場合、国語・算数は週5日、社会科と理科は週4日ということになり、道徳・外国語活動・特別活動は週1回ということになる。
 もちろん特別活動(35時間)の中には運動会(6時間)などというのもあるから必ずしも週1時間ずつできるというものではない。

 また、かつてはすべての教科が35の倍数だったために年間を通して同じ時間割で授業ができたが、今は違っている。そのことも考慮しておく必要がある。
 総合的な学習の時間を入れたい、外国語活動も必要、ゆとり教育で算数は減らしたが脱ゆとりでまた増やさなくてはいけなくなった、時数を減らすと言っても図工・音楽を週1回にするわけにはいかないだろう――そんなことをやっているうちに35では割り切れない数字が出てきて、例えば音楽は年間50時間。1年の半分は週2回で後半は週1回、などいうことになっているのだ。音楽会の時期に特設で一気に15時間使ってしまい、あとは1年間、週1で通すというやり方もある。
 このこと自体が大問題だが今は教科担任制だ。

【受け持つ教科を分配する】

 日経新聞の記事によると、さいたま市の場合は9教科を教科担任制にすると言っているからおそらく上の表の国語から体育までの8教科と外国語活動あたりが対象になるのだろう。それを教師たちが専門性を生かして学校ごとに担当を分け合うのだ。

 例えば6年生が2クラスの学校では1組の担任のA先生と2組の担任のB先生が、2クラスの年間授業時間1960時間を公平に分ける。二人はまず、年間175時間で同じ国語と算数のどちらを受け待つか決める。A先生が国語を、B先生が算数を選んだら、1組の算数と同じ時間に2組の国語を入れておいて、A先生は2組に行って国語の授業を、B先生は1組に行って算数の授業をやればいいのだ。これで公平に授業を行うことができる。
 同様に二人は、年間105時間の社会科と理科を分け合う。50時間の音楽と図工もいいだろう。

 困るのは年間55時間の家庭科と90時間の体育だ。時数が異なるのでこれを交換するわけにはいかない。そこで家庭科を選択した教師は必然的に外国語活動(35時間)をセットで受け入れ90時間とする。これでメデタシメデタシだ。教える教科が半分になり、教材研究や指導の方法で大幅に楽なる。

 しかしそれにしても、これで、
各教科を専門の教員が教える「教科担任制」を市立小学校10校で導入する
と言っていいものだろうか。

 国語と社会科と音楽と家庭科と外国語活動を選んだA先生は、必ずしも国語と社会科と音楽と家庭科と外国の専門家ではない。
 もちろん授業交換に参加する教師を増やせば増やすほど、一人の教師が受け持つ教科は減って行って最後は一人一教科となる。5・6年生に限らず全校で教科担任制を行えばうまく回っていくような気もする。

 しかしその場合、週5時間の国語や算数の先生は4クラスしか受け持てない(自分のクラスの道徳や総合的な学習の時間があるため)のに対し、音楽の先生などは14クラスも担当しなくては他の先生との公平が保てない。しかも5・6年生だけで15クラスもある学校など、めったにあるはずがないのだ。
(もっともその前に各クラスの時間割自体が作成できないだろう。普通の学校は体育館も理科室も音楽室などもひとつしかない。全校同じ時間に音楽を入れることなく、同じ先生が同時に二クラスの音楽の授業を行わないといったことが体育や理科や図工なので同時に起こるのだ。それをすべて満足させる時間割など不可能だ)

 そもそも全国の小学校の三分の一は1学年1学級以下なのだ。定数表によれば1学年1学級つまり6学級の学校の教諭の数は7名である。これでどうやって9教科を分け合えばいいのか。

【中学校の教師を利用する】

 そこで目をつけられたのが中学校の先生である。
 例えば数学で言えば、授業時数は中一で週4時間、中二で週3時間、中三だと週4時間だ。一学年一クラスの学校だと週11時間。二クラスの学校でも週22時間しか授業がない。
 学級担任を持っていれば無理だが、そうでなければ週の最大の持ち時間である28時間までにまだ6時間もある。その時間に小学校へ行ってもらおう。小学校の5・6年生の算数は週5時間。中学の先生にやらせてもまだ1時間の空きがある。

 このとき発案者の頭の中には、中学校の教員が常に殺人的な過重労働にさらされていることはない。各校に「どこでもドア」を配置してこなかったことも、そもそも中学校の数学の先生が小6の算数をよりよく教えられるかどうか分からないということも、全部忘れられている。単に数字を動かしているだけのことだ。

 さいたま市内には3学級しかない小規模中学校がたくさんあって小学校が隣接されているといった特異な事情があれば可能だが、どう考えても一般的ではない。さいたま市はそれをどう果たそうというのか。今後の動向を注意深く見守りたい。たぶんロクなことにはならないと思うが―-。

【では結局どうなるのか】

 最初の記事に戻ってみる。
 導入の対象は、算数、理科、英語の3教科である。

 現場の先生方からすれば、これまで教えてきた算数や理科はまだしも、慣れない英語科に教科担任が来てくれればありがたいはずだ。しかし週1時間(5・6年生だけで8クラスもあるような学校でも週8時間)のために正規の教員を増やしてくれるはずもない。

 それでは結局どうするのかというと、今月26日に発表された中教審答申(「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現)には教科担任制実施にむけて、大きく分けて二つのことが書かれている。

 ひとつは「いまだって教員定数を増やさないまま音楽や図工、家庭や体育で専科の教員を配置できているのだから、算数や理科、英語についても何とかしろ」ということである。
 暗に《国は面倒を見ないが、市町村は自腹で何とかできるだろう。隣の市町村で始めたのに、財政難を理由にやらないという選択肢はないはずだ》
と言っているようでもある。さらに穿って考えれば、《図工や音楽なんてどうでもいいじゃない! そんな専科はやめて、その分で算数や英語の教師を雇おうよ》と言っているとさえ受け取れる。恐ろしいことだ。

 もう一つは現在教職にある人たちの校種間異動(小学校と中学校)をさらに促進すること。特に中学校の数学・理科・英語科の教員に小学校の免許を取らせ、小学校で教えることができるようにする、そのためには現職の中学校教員について簡単な講習だけで小学校免許を取得できるようにする、
 大学においても小中両方の免許を取得する学生を増やすこと。(しかし負担が大きくなると教員志望がさらに減ってしまうので)その際、特例を設けてできるだけ簡単に複数免許が取れるようにする、
 結局、小学校の高学年に数学や理科、英語の免許をもつ教員を集中させ、さいたま市の取り組みのところで説明した「授業交換」によって教科担任制を実現しようというものだろう。

 つまり中央政府の誰かが、
「私が小学校の教科担任制を実現したのだ」
と誇るため、市町村や現場教師が死ぬほど苦労するだけのことだ。

 ところで小学校の教科担任制、そこまで苦労して実現しなくてはならないものだろうか?
 中学校の数学や理科の先生の方が小学校の算数や理科を教えるのがうまいというのはほんとうだろうか?
 私は、中学校の社会科教師として10年も働いた後で小学校に異動したが、専門であるはずの社会科でエライ苦労をさせられた。中学校と小学校の授業は同じものではない。ましてや中学校の授業を薄めてやれば小学校の授業になると考えるのはとんでもない思い違いである。
 小学校英語は多少の支援が必要だとしても、一流の教育職人である学校の先生たちなら、あっという間に何とかしてしまうだろう。
 教員を増やさずに行う教科担任制なら、是非ともやめていただきたい。

 

《参考》
令和3年1月26日 中央教育審議会
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)(中教審第228号)P.44~

3)義務教育9年間を見通した教科担任制の在り方
①小学校高学年からの教科担任制の導入

  • 義務教育の目的・目標を踏まえ,育成を目指す資質・能力を確実に育むためには,各教科等の系統性を踏まえ,学年間・学校間の接続を円滑なものとし,義務教育9年間を見通した教育課程を支える指導体制の構築が必要である。
  • 児童生徒の発達の段階を踏まえれば,児童の心身が発達し一般的に抽象的な思考力が高まり,これに対応して各教科等の学習が高度化する小学校高学年では,日常の事象や身近な事柄に基礎を置いて学習を進める小学校における学習指導の特長を生かしながら,中学校以上のより抽象的で高度な学習を見通し,系統的な指導による中学校への円滑な接続を図ることが求められる。
  • また,多様な子供一人一人の資質・能力の育成に向けた個別最適な学びを実現する観点からは,GIGAスクール構想による「1人1台端末」環境下でのICTの効果的な活用とあいまって,個々の児童生徒の学習状況を把握し,教科指導の専門性を持った教師によるきめ細かな指導を可能とする教科担任制の導入により,授業の質の向上を図り,児童一人一人の学習内容の理解度・定着度の向上と学びの高度化を図ることが重要である。
  • さらに,小学校における教科担任制の導入は,教師の持ちコマ数の軽減や授業準備の効率化により,学校教育活動の充実や教師の負担軽減に資するものである。
  • これらのことを踏まえ,小学校高学年からの教科担任制を(令和4(2022)年度を目途に)本格的に導入する必要がある。
  • 導入に当たっては,地域の実情に応じて多様な実践が行われている現状も考慮しつつ,専科指導の対象とすべき教科や学校規模(学級数)・地理的条件に着目した教育環境の違いを踏まえ,義務教育9年間を見通した効果的な指導体制の在り方を検討する必要がある。また,義務教育学校化や広域・複数校による小中一貫教育の導入を含めた小中学校の連携を促進する必要がある。
  • 新たに専科指導の対象とすべき教科については,既存の教職員定数において,学校規模に応じて音楽,図画工作,家庭,体育を中心とした専科指導を実施することが考慮されていることや,地域の実情に応じて多様な実践が行われている現状を踏まえ,これらの点に引き続き配慮することに加えて,系統的な学びの重要性,教科指導の専門性といった観点から検討する必要がある。その上で,グローバル化の進展やSTEAM教育の充実・強化に向けた社会的要請の高まりを踏まえれば,例えば,外国語・理科・算数を対象とすることが考えられる。当該教科の専科指導の専門性の担保方策や専門性を有する人材確保方策と併せ,教科担任制の導入に必要な教員定数の確保に向けた検討を進める必要がある。

②義務教育9年間を見通した教師の養成等の在り方

  • 現行制度においても,大学で最初に取得した教諭の免許状を基礎として,勤務経験と講習の受講の組み合わせによって他の学校種の教諭の免許状を取得することや,中学校教諭の免許状を保有する教員が小学校で当該免許状の教科を教えることが可能となるなど,教員免許状に係る学校間の垣根は低くなってきている。
  • 教科担任制の導入なども踏まえ,教師には,一層,学校段階間の接続を見通して指導する力や,教科等横断的な視点で学習内容を組み立てる力など,総合的な指導力を教職生涯を通じて身に付けることが求められる。このため,教員養成段階では,小学校教諭の免許状と中学校教諭の免許状の両方の教職課程を修了し,両方の免許状を取得することが望ましいが,2つの教職課程を同時に学生に求めることは学習範囲も広範にわたり,負担が大きい。
  • このため,従来,小学校と中学校の教職課程それぞれに開設を求めていた授業科目を共通に開設できる特例を設けることにより,学生が小学校と中学校の教諭の免許状を取得しやすい環境を整備する必要がある。
  • また,一定の勤務経験を有する教師は一定の講習を受講することで他の学校種の教諭の免許状を取得することが可能だが,中学校教諭の免許状を保有する者が小学校で専科教員として勤務した場合の経験年数は,現状ではこの勤務年数として算定されていない。
  • このため,中学校教諭の免許状を保有する者が小学校教諭の免許状を取得しやすくなるよう,小学校で専科教員として勤務した場合の経験年数を算定できるよう要件を弾力化する必要がある。

 

《参考2》

www.nikkei.com

さいたま市、小学校で教科担任制導入 23年度に全校へ
(2021.01.25 日本経済新聞

 さいたま市教育委員会は2021年度から各教科を専門の教員が教える「教科担任制」を市立小学校10校で導入すると発表した。小学5、6年生を対象とし、教科ごとに担当教員を設けてきめ細かい指導ができるようにする。導入校でのノウハウを伝授しながら23年度には市内全104校での実施を目指す。

 授業の質向上を目指すと同時に、教員の働き方改革を促すねらい。現在は学級担任が基本的に全ての教科を受け持つが、「教える科目が絞られれば教材準備にかかる時間が減る」(担当者)とみる。

 20年10月に文部科学省中央教育審議会が公表した中間まとめによると、「教科担任制」は22年度をメドに高学年で本格的に導入する必要があるとしている。対象とする科目は外国語・理科・算数などを例示しているが、市内で来年度から導入する10校では国語、社会を含む9科目を分担する。教員の専門性を生かして学校ごとに担当する教員を決めるほか、中学校の教員による指導を取り入れることも検討する。

新型コロナウイルスは、子どもたちの学校生活に深刻な影を落としているというが、それってコロナ以前から私たちがやろうとしていたことじゃなかった?

 神戸市内には学級崩壊が重複して、「学年崩壊」といった様相を呈している学校があるという。
 
校長は、新型コロナで学校行事の多くが中止や縮小に追い込まれたことと関係があるのかもしれないと言っている。私もそう思う。
 
しかし小学校英語やプログラミング学習などの学習内容を増やすために、行事を精選しあるいは縮小することは、新型コロナ以前から進められてきたことだ。
 
子どものこころが荒むなら、教師が環境づくりをするとともに一人ひとりの思いに耳を傾けることで対処し、とにかく学校は学力と道徳で詰めていけ――それは政府も社会もマスコミも合意した方向のはずだ。
という話。

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(写真:フォトAC)

記事

コロナで行事縮小など影響? 荒れる子どもら「学級崩壊」
(2021.01.22 神戸新聞NEXT)

www.kobe-np.co.jp「子どもが通う小学校が学年崩壊しています」。冬休み前、神戸市内の母親から神戸新聞報道部に悲痛な電話が寄せられた。児童が授業中に歩き回り、注意されると先生を罵倒する。授業は成立せず、登校できなくなった児童もいる-。新型コロナウイルス感染症による長期休校や、行事の縮小・中止、詰め込み授業が続いた2020年度。児童・生徒への影響を指摘する声も専門家や保護者からは上がっており、“崩壊”の背景や再生の手だてを探った。(斉藤絵美、鈴木久仁子)
 学級が機能しない、いわゆる「学級崩壊」が問題視されて久しい。しかし、定義や線引きが難しいこともあって、「事案ごとに対応しているが、件数として把握できない」(市教育委員会)のが現状だ。
 今回、神戸新聞に電話をくれた母親や当該校の校長によると、学級崩壊に陥っているのは、高学年の複数のクラス。
 約1年前から落ち着かない雰囲気だったが、新型コロナによる休校を挟んでも収まらず、担任以外の教員や教頭、保護者までもが学校に入り、歩き回る児童に声を掛けなくてはならない状態になっているという。
 「教師や見守りの保護者も『くそばばぁ』と罵倒されています。うちの子は荒れていませんが、帰宅すると明らかに疲れきっています」と母親は漏らした。
 同じ学校について、別の保護者から神戸新聞に届いたメールにはこうあった。
 「毎日イライラする子ども、暴言や暴力、担任の悪口や反抗。機能不全に陥った教室で誰も教師を信用できなくなり、心に何か分からない苦しみを抱えている」
 校長は、新型コロナによって卒業式や入学式、運動会も中止、縮小されたことに触れ、影響があると推測する。
 「低学年に校歌を教えたり、運動会でかっこいい姿を見せたりできなかった。高学年だと自覚する機会が奪われたことも、荒れた要因の一つだと思う」

■暴力行為、低年齢化の傾向
 そんな中、改善に向け、どう道筋を描けばよいのだろうか。
 近年、市内で発生した暴力行為の件数は、中学校で減少傾向だが、小学校では徐々に増加。「荒れる子ども」の低年齢化が進んでいることがうかがえる。
 市教委は昨春、学校を巡回して運営を支援する「地区統括官」を配置。「必要に応じて、スクールカウンセラーや教職員の追加などを検討したい」とする。
 元教師で、NPO法人「共育の杜(もり)」(東京)の理事長藤川伸治さんは「コロナ禍の大人のストレスを受け、子どもが持って行き場のない気持ちを抱えている」と現状を分析。その上で、「担任教諭だけに責任を問うのは無理がある」と強調する。
 さらに「力で押さえ付けるのではなく、子どもが『教室に居場所がある』と納得できるような環境づくりを目指すべき」としつつ、「特効薬はない」ときっぱり。「教職員も保護者も焦らず、子ども一人一人の思いに耳を傾けて寄り添ってほしい」と求めている。

 

 Yahooニュースのタイトルが「コロナが影響?『学級崩壊』」だったので「ウイルスが学級を破壊するとは何事か」と思わず意気込んだが、中身はある意味で穏当なものだった。

 神戸市内の小学校で学級崩壊が重複し学年崩壊と言ってもいいような状況になっているが、もしかしたら新型コロナウイルス対策による学校行事の縮小などが影響を与えているのかもしれない、ということである。校長先生がそのように話している。
 私たちは学校の現状を毎日確認することはできないが、いかにもありそうなことだ。

 

【子どもたちは友だちに会いに来る】

 子どもたちは学校に友だちに会いに来る。勉強をするためにくる子も先生に会うためにくる子もほとんどいない。
 友だちと会ってバカを言い合い、じゃれ合い、意味もなく走り回り、楽しいことを共有し、苦しいことを紛らしたり抑圧したりするために学校に来る。それなのに今の学校にはそうしたことがほとんど残っていないのだ。

 全員が前を向いて黙って食べる給食のなんと味気ないことか。大声を出して歌うことのできない音楽の時間のなんと苛立たしいことか。
 修学旅行も運動会も文化祭も、みんなで計画し、力を合わせ、全員の気持ちを結集して仕上げるところのだいご味がある、そこに成長の確かな手ごたえがある。それなのに今年はほとんどが中止か縮小か――。
 低すぎるハードルは向かうのも腹が立つ。

【学校における情操の教育】

 老人福祉施設で行くと、そこには驚くほど学校と共通するものがあることに気づく。
 体操に工作、描画、習字、土いじり。七夕やクリスマスを祝うこと、歌を歌うこと、踊りを踊ること、おしゃべりをすること。本を読んだり短い演劇や演芸を楽しむこと――それらは基本的な機能訓練であると同時に癒しであり、生きるエネルギーを培うことである。
 学校にはそうした機能がたくさんあり、しかしこの一年は十分に機能していなかったのだ。そのことは覚えておく必要がある。

 新型コロナ禍もまもなく1年になる。少なくとももう1年間は似たような状況が続くはずだ。
 いわゆる“学力”面は、先生たちが足らぬ部分を必死に補って送り出してくれるだろうが、時間も手間もかかる情操面には、ずいぶんな積み残しを出したまま進まざるを得ない。その度合いはまちまちでも、すべての子どもが心に傷を負って育っていくことを留意しておこう。
 甲子園を目指して野球をしてきた高校生が一番わかりやすい例だが、この子たちは他の世代が当たり前のように手に入れてきたものを、すべて取り上げられている。大人になって語るべき経験を失っているかもしれないのだ。

【コロナが終わっても元には戻らない】

 さらにもうひとつ覚えておくべきことがある。
 それはコロナ事態が終わっても、子どもたちは元の学校生活を取り戻すことはない、ということである。甲子園や高校総体は戻ってくるにしても、細かな点で、以前のようなハードルの高さを取りもどすことはない。

 部活の縮小、行事の精選、教師の働き方改革、学校生活の見直しはすでに既定路線だ。それがコロナ危機で一気に進んだだけで、揺り戻しは当然あるにしても完全に元にもどることはない。

 学校がブラック業界であることは津々浦々まで知れ渡って「働き方改革」をしなければ教員不足になることは明らかだ。将来、ネイティブ・アメリカンのようにしゃべれる英語使いを増やすためにはみんなが小学校から英語を学ぶしかない。未来の日本の科学技術を確かなものにするには、全員でプログラミングを習って眠っている金のガチョウの目を覚まさせるしかないのだ。もちろん育てたところでモノにならない人間の方がはるかに多いが、それはそれで国のために我慢してもらうしかないだろう。
 国家のためなら、全員で、行事がなくなったり縮小したりすることにも耐えなくてはならない。

 もちろん座学ばかりの学校についていけない子どもは出てくる。そんな子たちが不適応を起こして暴れても、あまり気にする必要はない。そうなったら先生たちが勤務時間外も頑張って、
力で押さえ付けるのではなく、子どもが『教室に居場所がある』と納得できるような環境づくりを目指」し、「教職員も保護者も焦らず、子ども一人一人の思いに耳を傾けて寄り添」うようにすればいいのだから。


 私はうまくできたためしがないが。

 

デビ夫人! あなたの真似をしたら私を誉めてくれますか?

 基本的には教育問題しか扱わない本ブログだが。
 正義をどう判断するかという点で都合のいい話なので、
 事例研究として拾い上げる。要するに、
 デビ夫人、あなたと同じことをしたら私を誉めてくれますか?
という話。

f:id:kite-cafe:20210111105701j:plain(アドルフ・フォン・メンツェル 「舞踏会の晩餐」《部分》)

 

記事

『年越しパーティー』開催のデヴィ夫人と、杉村太蔵が激しい討論 内容に賛否両論の声
(2021.01.10  grape)

grapee.jp 2020年2月から日本でも感染拡大した、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)。感染者数は日々増え続けています。
このままでは医療崩壊を起こしかねません。これ以上の感染拡大を防ぐため、政府は不要不急の外出や会食を避けるよう呼びかけています。
また、人が密集する場を減らすべく、自治体の判断によって全国各地の成人式が続々と中止になっています。

『年越しパーティー』開催のデヴィ夫人と、杉村太蔵が激しい討論

同年12月31日、都内の高級ホテルで年越しパーティーを行ったとして、『デヴィ夫人』ことタレントのデヴィ・スカルノさんに批判の声が上がりました。
報道によると、パーティーにはおよそ90人が参加していたとのこと。ネットで「マスクを着けてる人がほとんどいない」「影響力のある人だから自粛を呼びかけてほしかった」と話題になったのです。
2021年1月10日放送の情報番組『サンデー・ジャポン』(TBS系)では、デヴィ夫人をゲストに招き、今回の話題について特集。
デヴィ夫人はパーティー開催について、このようにコメントをしました。

私はね、こういう時期だからこそ勇気を持って開催したんですね。やっぱり『Go Toトラベル』とか『Go Toイート』っていうのはどうしてあったのかを考えていただきたいんですね。
このパーティーをすることによって…ホテルなんか10万円のお部屋を2万円で出しているところもある。こういうことを開催することによって、ホテルの人も助かるし、従業員の人も助かる。
ホテルに食料入れてる人、飲食の業者さん、みんな助かります。そしてオーケストラ20名。そしてダンサーも15名。そしてオペラ歌手が3名。みんな助かってます。
そして私たちはみんなストレスを抱えてますよね。ですから、こういうパーティーに来ることによってパワーをもらう、元気をもらう、みなさんがとっても幸せになる。
そして、私たちのような人間がこうしてお金を使って回さないと。日本の経済が本当に破綻してしまうと思うんですよ。
サンデー・ジャポン――より引用

自粛も大事である一方で、金銭的に余裕のある人が経済を回す必要性もあると説いた、デヴィ夫人
また、当日はホテル側とともに感染対策をとり、人数を減らしたり間隔を空けたりと工夫を凝らしたといいます。
デヴィ夫人がネットの批判に対し、「非難する人は何でも飛びついてくる」というと、コメンテーターである杉村太蔵さんがこのように意見を出しました。
ただ夫人、ホテルだとかですね、ダンサーのみなさんがこのままでは本当に大変なことになる、経済が破綻してしまうっていうお話でしたけども。
かえってこういったパーティーをやることによって、感染拡大がいつまでも止まらなくてずーっと(経済が)止まってしまう、そういう可能性も…。
「誰も感染していない。じゃあ結果的にいいじゃないか」っていう議論はですね、今成り立たないんじゃないでしょうか?
サンデー・ジャポン――より引用

杉村さんの言葉をさえぎり、デヴィ夫人は「お言葉ですけれども、パーティーは10日前で感染者はいない。そして参加者は自意識が高い。感染するのは20~30代の若い人たち若い人たちにはもっと危機感を持ってもらいたい」と反論。
コロナウイルスの感染拡大によって、日本では経済と人命を天秤にかけた状態が続いています。政府も、どちらを優先すべきかは決めかねているのでしょう。
「経済を回したい」というデヴィ夫人の考えも、「感染拡大を防ぐべき」という杉村さんの考えも、どちらが正解とはいえない極めて難しい問題です。
2人の熱い討論を見ていた番組視聴者からは、いろいろな意見が上がりました。
・「自分たちは意識が高い、若者は自意識が低いから感染する」って意見はちょっとなあ…。
・確かに経済を支えるのは大事。自粛で感染拡大を阻止しても、不景気によって命が奪われるかもしれない。
・自分は経済を回す余裕がないので、デヴィ夫人のような人がお金を使ってくれるのは正直いうとありがたい。
・パーティーをするのは勝手だけど、万が一クラスターが発生して困るのは医療従事者だから控えるべきだと思う。
このまま感染が拡大すれば、肺炎などの症状や医療崩壊によって命を落とす人が増えるでしょう。ですが経済が破綻してしまうと、不景気によって職を失い、生きていくことができない人が増えてしまうのです。
社会では、デヴィ夫人と杉村さんの討論のようなやり取りが至る所で行われています。2つの考えは両立しないため、どうしても衝突してしまいがちです。
今後、コロナウイルスがどうなるかは誰にも分かりません。2人の討論から、多くの人が「自分はどうすべきか」と考えさせられたようです。

 記事のタイトルは、「『年越しパーティー』開催のデヴィ夫人と、杉村太蔵が激しい討論 内容に賛否両論の声」である。
 視聴者の声にも
・自分は経済を回す余裕がないので、デヴィ夫人のような人がお金を使ってくれるのは正直いうとありがたい。
・パーティーをするのは勝手だけど、万が一クラスターが発生して困るのは医療従事者だから控えるべきだと思う。
など、意見の割れた様子が見られ、記事にも、
「経済を回したい」というデヴィ夫人の考えも、「感染拡大を防ぐべき」という杉村さんの考えも、どちらが正解とはいえない極めて難しい問題です。
とある。
 しかしこのように二つの正義が主張され背反するとき、たいていの場合「答えはその中間にある」とするのが一つの解法だが、その前にやっておかなくてはならないことがある。それは
 その正義をみんなが誠実に履行したら、果たして幸せになるだろうか
と考えてみることである。
 もしかしたら、どちらかは間違っているかもしれないのだ。

【異なる意見の「正しさ」を検証する】

 例えば杉村太蔵氏の考え方を徹底して、すべての人が食料の買い出しとから通院とかいった必要最低限のことしかしなくなったらどうだろうか――別の言い方をすれば、現在イギリスでやっているように、あるいはフランスやイタリアが第二波感染拡大で実施し、日本では北海道が似たようなことをやって感染者を減らした、あの方法を徹底するのである。

 日本では本格的なロックダウンが行われたことはないので分からないが、おそらくフランスやイタリアや北海道と同じことが起こるだろう。完全に実施すれば3週間以内に日本国内からウイルス感染はなくなり、この国は台湾やベトナムニュージーランドのようになる。

 一方、デビ夫人の主張に従って、感染するのは20~30代の若い人たちだからそれより上の世代で、自意識の高い私たちのような(お金持ち?)人がみんな、『Go Toトラベル』とか『Go Toイート』っていうのはどうしてあったのかを考えて、90人規模のパーティーを開いたらどうなるか――。

 私はデビ夫人のような大金持ちではないからもちろん同じことはできない。
 しかし助けるべきは「GoToトラベル」で潤った高級ホテル(どうせ割引があるならと、多くの人たちが宿泊に高級ホテルを選んだ)ではなく、中小のホテルを支えることはできそうだ。具体的に言えば今年度開催できなかった中学校時代の同窓会などどうだろう。

 田舎のホテルでなぜこんなにかかるのかと思う会費が1万8000円。そのまま泊を伴う場合は7000円の追加で朝食も出る。
 デビ夫人に比べるべくもないが、一人2万5000円のプランで100名、つまり250万円の宴会。これを1シーズンに30回も行えば十分に経営を支えることになるだろう。そんなことが日本中で行われたら、おそらく観光業の一部は例年をはるかに上回る収益を上げることができるだろう。

 しかしそれでよいのか?
 政府は大人数での飲食は避けるようにしろ、重症化リスクの高い高齢者はできるだけ外出しないようにしろと言っているのだ。デビ夫人の正義は正反対の方向にあるのだ。

 夫人に訊けば「アータたちではダメでしょ。自意識の高い人たちじゃないんだから」とおっしゃるかもしれない。そうなると自意識の意味も分からなくなるが、だったら選良である政治家たちの会合はどうか? 地域で言えば新年の名刺交換会など、その土地の名士しか集まって来ない。これだったら自意識の高い人たちばかりだから大いにやるべきか?

結局のところ、「自意識の高い人々」とは夫人が選んだ90人だけということになる。彼らだけがマスクもしないでパーティに参加できる、特別の人だということになるはずだ。

 

【どこに錯誤はあったか】

 きちんと考えれば明らかに誤りであるデビ夫人の正義を、サンデージャポンや引用記事の記事元である「grape」(ニッポン放送のグループ会社)は追及し切らなかったのか――。
 それはパーティーを開きたかったことを経済を回すことにすり替えたデビ夫人の詐術に、まんまと引っかかったためである。

 杉村太蔵氏も一般論で応酬するのではなく、こう言えばよかったのだ。
「やってはいけないのは、大人数がソーシャル・ディスタンスを保てない状態で、長時間飲食をともにすることだ。だからどうしてもホテル関係者を潤わせたかったら、知り合いでも知らない人でもいい、毎日数十組の家族をタダで招待して宿泊してもらい、ダンスや音楽は館内のテレビでリモート鑑賞するようにすればいいのだ。もちろん宿泊費はデビさんが全額、支払う。
 そうすればホテルも納入業者も、ダンサーやオペラ歌手も潤い、経済も回り、多くの人々がパワーをもらって帰ることができる――つまり夫人のおっしゃることはすべて実現し、批判を受けることもないのだ」

 判断のよりどころはただ一つ。
 その正義をみんなが誠実に履行したら、果たして幸せになるだろうか
だけである。

結局だれも個性的な教育なんて望んでいない。子どもの希望を最優先にさせて、横並びにするのが一番いいとマスメディアも思っているのだ。

 修学旅行に関して、同じ市立中学であるのに子どもに人気のあるユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市)に行けた学校と、そうでない学校の違いが生れ、それが大問題らしい。
 この時期に大都会に行くことこそ問題だと思うが、子どもの希望を優先しなかったことの方が罪が深いらしい。やはり学校教育は横並びがいい。
という話。

f:id:kite-cafe:20201206103550j:plain(写真:フォトAC)

記事 

 「隣の学校はUSJ行ったのに!」コロナ禍、修学旅行先変更で波紋 相生の中学校

 (2020.12.05 神戸新聞NEXT)

www.kobe-np.co.jp 

 僕らはユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市)に行けなかったのに、どうして隣の中学校は行けたのか-。相生市立那波中学校(兵庫県相生市那波南本町)で、生徒たちが疑問を抱いている。新型コロナウイルスの感染拡大で、修学旅行が近場の日帰り旅行に変更され、那波中は北播磨の大型リゾート施設へ。一方で、隣の市立中はUSJへ行き、判断が分かれた。なぜ同じ相生市立中で行き先が異なったのか、市教委や中学に取材した。(伊藤大介

 当初、那波中の修学旅行は5月に東京へ行く予定だったが、都心を避けて長崎に変更。全国的な感染拡大を受けて、8月下旬に長崎行きも中止になった。

 相生市教委は「近場で、代替の日帰り旅行をしてほしい」と各校に要請した。具体例として、県内のほか、岡山、広島、滋賀などの近隣府県を行き先に挙げたという。

 那波中の校長は「感染者が多い大阪に行く、という発想はなかった」と県内に旅行先を絞り、3年生は10月13日、北播磨のリゾート施設へ行った。だが、隣の双葉中(相生市双葉)は1週間後の20日、生徒の要望が多かったUSJへ日帰り旅行した。「僕らもUSJへ行きたかったのに」と生徒たちの間で疑問が募った。

 生徒会は、旅行に参加した3年生にアンケートを実施した。
 (1)那波中が県内、双葉中が県外の旅行になったことを疑問に思いますか
 (2)対応が違うことの理由を、納得のいくように説明してほしいですか
 (3)かなうのであれば、県外(USJなど)に行きたいと思いますか
 いずれの問いも、9割以上の生徒が「イエス」と回答した。

 生徒会役員は22日、市教委を訪ね、「対応が異なったのはどうしてですか」と説明を求めた。市教委は後日、どの学校にも「近場で日帰り旅行をしてほしい」と一律に求めたと那波中に書面で回答。校長は3年生の教室を回り、市教委の回答を伝えたが、自身の判断で旅行先を県内に絞ったことは伝えなかった。校長は「当時は大阪に行かせたら駄目だと思っていた。市教委の回答を伝え、納得してくれたかなと感じた」とする。

 生徒会役員の一人は「北播磨のリゾート施設は楽しかった。ただ、なぜ僕らがUSJに行けなかったのか、納得のいく説明をしてほしかった」と話す。校長は「もう受験に向けて頑張る時期なので、あらためて説明するつもりはない」としながら、「生徒からの求めがあれば、話す場を設けたい」と話した。 

 なぜこんなことがニュースになるのか。
 那波中の校長にしたら「(USJに行った)双葉中も余計なことをしたものだ」が本音に違いない。

 さらに、
「僕らはユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、大阪市)に行けなかったのに、どうして隣の中学校は行けたのか-」
が主題なら、聞きに行くべきは双葉中のはずなのに、生徒会役員も神戸新聞も双葉中を避けて市教委やら自校の校長やら、訊ねやすいところにしか行っていない。解せないことだ。
 一般論として、こんな時期に大阪へ行った双葉中が間違っているのであり、本気で扱うなら双葉中校長をこそ糾弾すべきであろう。教員も保護者も、よくもためらわず子どもたちの希望を優先させたものだ。

 生徒会は、旅行に参加した3年生にアンケートを実施した。
 (1)那波中が県内、双葉中が県外の旅行になったことを疑問に思いますか
 (2)対応が違うことの理由を、納得のいくように説明してほしいですか
 (3)かなうのであれば、県外(USJなど)に行きたいと思いますか
とは、誰の入れ知恵なのか。
 こんな、最初からイエスとしか答えられないアンケートを実施して自校の校長や市教委に突きつけようとしたのか、その目的は何だったのか?
 まさか市教委の指示に従わなかった双葉中を罰するために、市教委か那波中内の誰かが企てた深謀遠慮でもあるまい。

 いずれにしろこうした記事がたくさん出されることによって、学校は独自の判断で動きにくくなる。常に右顧左眄して隣りの様子を伺い、同じような教育活動をしていこうという機運は高まっていく。

 マスコミも世の中全体も、実は個性的な教育など望んでいないのだ。
 出る杭は打たなくてはならない。

 

半分眠りながら聞いていた、あの長く退屈な職員会議で耳に入ってきた内容が、いざというとき決定的に役に立つことがある。子どもの情報、心肺蘇生法、死戦期呼吸。

 学校の事故で子どもを死なせてしまった場合はニュースになるが、
 
救ったときはニュースになりにくい。
 
しかし先生たちは、万が一のときのために日夜努力しているのだ。
 
あの一見くだらない職員会議にも重要な意味がある。
という話。

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(写真:フォトAC)

記事 

 

心肺停止の男児救った救命リレー 教室で生きた「練習」

 (2020.11.12 朝日新聞デジタル

www.asahi.com 教室で心肺停止になった男児を教員6人のチームワークで救った宮崎市立江南小学校。心肺蘇生法の訓練を毎年続けてきたことが重大な局面で実を結んだ。教員の1人は過去にも救命活動に携わった経験があり、「落ち着くことの重要性を再認識した」と語る。同小には、県内外から激励のメッセージが届いている。

 児童に使用された自動体外式除細動器AED)。毎年の練習が生きた

 男児は入学前から心臓に疾患を抱えている。4年前、応急手当普及員の資格を持つ吉瀬恵子養護教諭が赴任。男児に「もしも」のことがあった場合を想定した訓練の開催を提案し、以後、毎年実施している。

 直近では今年6月にあり、教職員46人のうち約30人が参加した。男児が授業中に心臓発作を起こしたという設定。担任の別府貴裕教諭が異変を知らせ、教員たちが一人一役で119番通報やAEDの操作、他の児童の誘導を練習した。

 実際に男児が教室で倒れたのは9月24日午後0時すぎ。このとき、6人が「まさに練習通り」に瞬時に役割を理解し、救急隊に引き渡すまでの約15分間に懸命の救助活動を続けた。吉瀬養護教諭は「私が現場に到着したとき、すでに男児に電極パッドが装着されていた。素晴らしいチームワークだった」と評価する。

 戸惑う場面もあった。学校に設置されたAEDは、訓練時に消防から借りたものと機種が違った。隈本加津美教諭は「電極パッドのコードが最初から本体に接続されているタイプだった。落ち着いていればわかることだが、急いでいてすぐに判断がつかなかった」と振り返った。

 男児に心臓マッサージを施した田上政宏講師は昨年2月ごろ、宮崎市内の海岸で一緒にサーフィンをしていた知人がおぼれて心肺停止になる状況に居合わせた。その際も心臓マッサージをしたという。

 「救急隊からは正しい対応だったと言われたが、知人には後遺症が残ったと聞く。冷静になればもっとできることがあったはず。今回は冷静になることを心がけ、119番をほかの人に任せて心臓マッサージに専念する判断ができた」

 10日付本紙宮崎版や朝日新聞デジタルで救助の模様を報じた後、江南小には激励のメッセージが県内外から10件ほど届いた。4歳児を持つ東京の男性からは「先生方の勇気ある適切な対応に胸が熱くなりました」。復興庁の職員からも「迅速で落ち着いた行動が倒れられた子の命を救ったのだと思います」。

 助かった男児の保護者からも感謝の言葉とともに「(息子の通う学校が)本当に誇らしいです」とのメールが寄せられたという。(高橋健人)

 

【教員はこうしたことに長けている(?)】

 東日本大震災の際の被災地の校長先生の話だったと思うが、1次避難所から2次避難所、そして計画になかった第3避難所・第4避難所へと移動する過程で、先生たちが自然に分担を進め、ある教師は先駆けとして数十m先に行って様子を見、子どもの集団の先頭ではときどき振り返って確認しながら隊を引っ張る先生、中間で子どもたちの様子を見る守る先生、しんがりで子どもを押し上げる役を担う先生と、自ら進んで子どもを守る態勢を作る先生たちの様子を紹介した後、
「先生という人たちはこういうことをやらせると実にうまい」
という表現があってずいぶん感心したことがあった。
 以来そうした臨機応変の役割分担・責任分担は教員の特技と思っていたが、一般社会ではどうだろう?

 考えてみれば大規模な火災や事故に際して近くの工場の従業員が一斉に駆けつけて救助にあたったとか、津波や洪水では自ずと地域住民が助け合い難を免れたという話はいくらでもあるから、それは教師に限らない日本人の特性なのかもしれない。
(私はここでいつもの通り、「それは日本人がそうした能力を、幼稚園のころから給食当番や日直当番で、小学校に上がってからは児童生徒会活動や学校行事などの特別活動で毎日毎日、何百時間もつかって培ってきたからだ」と言いたいのだが、今日はやめておく)

 

【学校だけの特殊事情、学校に普遍的な事情】

 ただ、
このとき、6人が「まさに練習通り」に瞬時に役割を理解し、救急隊に引き渡すまでの約15分間に懸命の救助活動を続けた。吉瀬養護教諭は「私が現場に到着したとき、すでに男児に電極パッドが装着されていた。素晴らしいチームワークだった」と評価する。
の中に一般社会では決してありえないことがひとつだけあって、それだけは伝えておきたいのでここに取り上げる。
 それは倒れたのが他ならぬ「入学前から心臓に疾患を抱えているその子」だということを6人全員が知っていたということである。そうでなければここまで早い対応はできなかったはずだ。もしかしたら毎年の訓練の際も、心配な児童の名前はいつも何人かの頭の中に浮かんでいたのかもしれない。それが「心肺蘇生法の訓練を毎年続けてきたことが重大な局面で実を結んだ」の真の意味なのである。

 自信を持ってそう言えるのは、自分自身に似た経験があるからだ。正確に言えば私自身は当事者ではなく、他の学校に転出した後で起こった事件だが、一人の児童が教室で倒れ、その瞬間に担任教師は応急処置を始めるとともに近くの子どもに指示を出し、隣の教室の担任と養護教諭、そして副校長を連れてくるよう言って走らせた。


 すぐに駆け付けた隣のクラスの担任は教室に足を踏み入れる間もなく取って返して体育館に向かい、AEDを抱えて戻って来る。その間に養護教諭が教室に到着し、すでに心臓マッサージを始めていた担任に声をかけるとともに子どもの衣服を緩め、AEDのパッドを装着する準備を始める。
 その日、幸いなことに校内にいた校長は副校長とともに現場に駆け付け、その場所から携帯で救急車の要請をおこない、副校長は集まってきた他の先生方とともに教室の子どもたちや廊下に集まってきた他のクラスの子どもたちを現場からは慣れさせる――。ほどなく到着した救急車に乗せられた児童は、病院に送られ一命をとりとめたのである。

 なぜそんなに適格な行動ができたのか――それは引用した新聞記事にあるのと同じで、教職員が毎年心肺蘇生法の講習を受けていてやり方だけは知っていたこと、そしてもうひとつは倒れた子がどんな子なのか、教職員全員が知っていたからである。
 この子が倒れたら無条件で心肺蘇生を始め一刻でもはやく救急車を呼ばなくてはいけない、迷う必要はない、と――。

 

【無味乾燥な職員会議の重要な意義】

 実質的な教育内容や行動を話し合う学年会や教科会は、内容が具体的で明日の仕事に直接かかわるため必要性なことはわかる。しかし職員会議はなぜかくも長く退屈なのか、何の意味があるのか。他の学年の旅行行事や子どもの様子など、聞いたところで頭にも入らないし役にも立たない――若いころはよくそんなふうに考えたものである。しかし教師としての実力がついてきて自分のクラスだけでなく、他のクラスや他学年にまで目が向けられるようになると、無意味な職員会議の重要な意味が分かってきたのである。

 もちろんすべての教育内容が会議の俎上に上げられればいろいろ助言もできるといったこともあるが、決定的なことは、万にひとつあるかないかの危機に際して、自分の同僚や子どもたちに対して何ができるか知識として詰め込んでおけるということである。
 例えば他学年が修学旅行先で事故に遭った場合あるいは病人が出た場合に、学校に残っている職員が旅行隊の居場所や次の予定を知っていることは重要だ。緊急事態に現場ができることは限られている。現場近くの病院を探したり、本隊の誘導先を探したりといった仕事がすべて学校に任されることだってあり得る。そうした瞬間に全員が機敏に動くためには、職員会議という、あの長く、退屈な情報共有の時間が必要なのだ。
 ましてや日常的に心停止の可能性のある子どもやアナフィラキーショックの可能性をある子の情報は、全員がつかんでいなくてはならない。子どもは必ずしも担任や養護教諭の前で倒れるわけではないからだ。

 

救急救命の成功例も大事だ】

 今回引用した宮崎市立江南小学校の例は、だから珍しいことではない。しかし珍しくもないのに市から感謝状が贈られた(*1)という点では珍しい。
 教員として当たり前のことをしたのに表彰されるとは、校長もよく受諾したものだ――そういう考えもあるかもしれない。
 しかし私は、教師というのがどういう存在なのか、日ごろどれほど気を遣って万が一のために備え努力しているかを知ってもらうためにも、この人たちが表彰されるのは良いことだったと思う。

 私たち(正確に言えば広い意味での私たちの仲間)は――9年前、死戦期呼吸に関する知識がなかったばかりに大切な若い命を指の間から滑り落としてしまった。3年前にも同様の事故が起こった(*2)。そういった救急救命の失敗例はニュースになりやすいが、生徒の命を救った話は報道に載りにくい。

 失敗から学ぶことはもちろん重要だが、成功例から意欲を喚起することも大切だろう。
 朝日新聞には感謝したい。

(注釈)
*1

www.asahi.com*2

www.asahi.com(参考)

kite-cafe.hatenablog.com