キース・アウト

マスメディアはこう語った

相次ぐ保育園バスや自家用車での子どもの置き忘れ事故に鑑み、埼玉県議会では大人の付き添わない登下校・公園遊び・お使い・留守番などを禁止する条例をつくろうとしている。子どもだけの留守番も虐待だという認識を深めるのだというが、総合的な学習の時間も小学校英語もプログラミング学習も、あるいは教員評価や全国学テも、こんなふうに始められたのかもしれないね。

(写真:フォトAC)

記事

 

子どもだけの留守番・外出禁止 埼玉・自民党県議団が条例案 順守困難の声も
(2023.10.05 東京新聞Tokyo web)

www.tokyo-np.co.jp 自民党県議団は4日、開会中の埼玉県議会9月定例会に、子どもだけでの留守番や外出を「置き去り」として禁じる県虐待禁止条例改正案を提出した。相次ぐ子どもの死亡事故を受けた提案。罰則はないが、条例案が想定する禁止行為は幅広い。他会派からは「共働きやワンオペ育児、ひとり親では守るのが困難。保護者が地域から監視されて孤立しかねない」との声も上がる。

 条例は、小学3年生以下の子どもを放置しないことを保護者など成人の「養護者」に義務付け、4~6年生については努力義務とする。自民によると、学童保育の主な対象が小学3年生までのため、学年を区切った。県民に禁止行為の通報も義務付ける。
(中略)
 4日の質疑では、伊藤初美氏(共産)が、改正案で禁止される具体的な行為をただした。答弁した小久保憲一氏(自民)は、成人の見守りのない状態での集団下校や公園での遊びなどを例示した。

 自民の田村琢実団長は同日の本会議後、改正案の狙いについて「『仕事だから、ちょっとだから留守番させてもいい』という社会慣習をどうにかしないと。虐待だという認識を高めたい」と報道陣に説明。学童保育やベビーシッターなどの需要を掘り起こし、整備拡大につなげたいと話す。施行後の経過を見て罰則を付けることも検討するとも説明した。

 改正案は6日の福祉保健医療委員会で議論。13日の定例会最終日に採決の予定で、可決されれば、2024年4月1日から施行される。(飯塚大輝)

【関連記事】全国初、子どもの置き去り禁止を明文化 埼玉県議会自民会派が条例改正案

 学校に関わる時事問題が扱われるとき、よく文科省教育委員会がやり玉に挙げられ、「文科省がアホだから日本の教育はダメになった」とか「教委はボンクラの集まりでロクなことをしない」とかいった言い方をされることがある。

 最近では教員の働き方改革に関連して校長に過大な期待が寄せられ、何もしてくれない反動で、こちらもボロクソに言われることが多い。
「お前が、授業時数を減らせばいいんじゃ! 1日を4時間授業にせい! 部活とは縁を切れ!」
 しかしいずれも気の毒な話である。

【悪いのは誰か――】

 校長が独自性をもってできるのは挨拶を書くこと、そして辞表を出すことくらい。あとはすべてが上から決まってくる。もちろんそうでない校長もいて、退職後、しばしば著書を出したり講演会に呼ばれたりして好き勝手を話しているが、大半は民間人校長で、敢えて民間人を採用した実績作りをしたい教育委員会が全面的にバックアップしているからできたことだ。だから見てみればいい、彼らの《改革》は校長が変わるとほどなくみんな元に戻ってしまうのだ。もともとやってはいけないことをさせているわけだから、当然そうなる。(*1

 

 教委も文科省も同じだ。彼らに期待されているのは言われたことを忠実に実現する現実化マシーンであって、独自にしていいことはほとんどない。決まったことをより安く、より早く、より忠実に現実化することが優秀さの証明だ。独自性なんていらない。
 自らの頭で考え行動していた昔は「官僚政治」と猛批判されるのが常だったが、今はそうではない。代わって《忖度》が批判されるようになったが、はっきり言葉にされない願いまで実現してこそ、一流の、プロの、立派な役人なのだ。
 
 では誰の願い、誰の思いが忖度され、実現されて行くのか――それはいうまでもなく議員である。
 国会の、特に与党議員が文科省に働きかける、都道県議会議員都道府県教委に、市町村議会議員は市町村教委に、それぞれ予算権を握りしめて自分たちの夢の実現を迫る、
「オレの夢を実現しないなら教育委員会に出している講師の予算、3人分くらいをほかに回しちゃうよ」
――実際にそう脅さなくても、要求を出すときの議員の目は恐ろしい。文科省も教委も屈せざるを得ない。なにしろ彼らは市民・国民の代表者なのだ、彼らの背後には市民・国民がいる。その言葉に従うのは、民主主義の第一歩である。

【真っ当なことを考えればいいのだが、往々にしてそうではない】

 その議員たちが、ときどき妙なことを考える。そして法律や条例までつくってしまう。
 次の選挙を勝ち抜くため、市民・国民におもねるだけのつまらないアイデアを思いつく人もいれば、これといった主義主張もないので新聞をあちこちひっくり返しては、より目立つ質問、マスコミ受けしそうな内容、市民・国民の賛同を得られそうな話を、なんとか探し出して議会に持ち込む人もいる。
 しかし子どもだけでの留守番や外出を「置き去り」として禁じる県虐待禁止条例改正案などという、あまりにも突飛なことを思いついた埼玉県議会自民党議員団は、どこからヒントを得たのだろう。
 
 記事では相次ぐ子どもの死亡事故を受けた提案と簡単に触れただけだが、関連記事として提示された9月28日の同紙記事を読むと、中間市牧之原市で起こった保育園バスの置き去り事件、北九州市津山市で起こった商業施設や職場の屋外駐車場での自家用車への子どもの置き忘れ事故、そうした事件からのことらしい。
 こうしたバスや自家用車への置き去り事件をなくすために、子どもだけで遊ばせることやお使いに行かせたりすることを「置き去り」として禁じる、ということらしいのだが、どうだろう? スジ、通っているかい?
 
 さらに改正案で禁止される具体的な行為を問われて提案者のひとりは、成人の見守りのない状態での集団下校や公園での遊びなどを例示したというが、そうなると登下校や子どもの遊ぶ時間は、責任のある大人が誰か一人以上はついていなくてはならなくなる。地下鉄に子どもだけで乗車して通学するなどという風景は、この国からまったくなくなってしまうのだ。留守番に高校生がいてもダメとなると、多くの大人は働きに出られなくなる。
 働くとしても、朝は学校経由で子どもを送り届けて出勤し、夕方は夫婦どちらかが迎に行くかシッターに依頼する。留守番はさせられないので、融通が利かないときは子ども全員を車に乗せて一緒に出掛けるしかない。アメリカ映画で見慣れた風景が、ここ日本の、埼玉だけで繰り広げられるわけだ――翔んで埼玉

 学童保育やベビーシッターなどの需要を掘り起こしといってもただではないだろう。しかもそれもこれも保育園バスや自家用車への置き去りをなくそうというところからの発想なのである。昭和オヤジのダジャレで言えば「ワケ、わかめェ」話だ。
 
 もしかしたら教科に囚われない総合的な学習の時間が必要だとか、英語教育は小学校の内から始めにゃならんとか、やっぱプログラミングだよなとか、教員を評価して通知票をつけろとか、道徳は教科書をつくって国が管理しなくちゃだめだよね、といったことは、みんなこんなふうにして決まったのかもしれないーーと私は本気で疑っている。

2023.10.10追記: 自民党埼玉県議団はこの改正案を取り下げた。そりゃ無理ないわな。*2