キース・アウト

マスメディアはこう語った

教員免許更新制が廃止になるが、間違っても教師の働き方改革の一環として「先生たちを楽にさせるための政策」と曲げられないように注意しよう。更新制で困っているのは教師ではなく、文科省・教育委員会なのだ。

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 (写真:フォトAC)

 

記事

 

教員免許更新制廃止へ 文科省、来年の法改正目指す 安倍政権導入

 (2021.07.10毎日新聞

mainichi.jp

 文部科学省は、教員免許に10年の有効期限を設け、更新の際に講習の受講を義務づける「教員免許更新制」を廃止する方針を固めた。政府関係者への取材で判明した。今夏にも廃止案を中央教育審議会に示し、来年の通常国会で廃止に必要な法改正を目指す。

 文科省は免許更新講習に代わる教員の資質向上策として、オンラインなどを通じた研修機能の強化を検討している。教員免許更新制は第1次安倍晋三政権による法改正で2009年度に導入されたが、大きな方針転換を迫られることになった。

 免許更新制は、幼稚園や小中学校、高校などの教員免許に10年の期限を設け、更新の際は約3万円の講習費用を自己負担し、大学の教育学部などで計30時間以上の講習を受けることを義務づけている。

 しかし、教員たちはこうした講習を学校の夏休み期間などを利用して受けにいかざるを得ず、大きな負担になっている。文科省が今月5日に公表した調査でも、受講費用や講習時間について、8割を超える教員が負担に感じていることが判明。一方、講習内容が「役に立っている」と考える教員が3人に1人にとどまるなど、実効性が疑問視される結果が出ていた。

 また、教壇に立っていない免許保有者が更新をせずに失効するケースが多いため、産休や育休の取得者が出た場合、代替教員の確保が難しくなっている問題も指摘されていた。代替教員が見つからなかった学校では、教頭が授業を実施してしのいでいるなどの実態が明らかになっている。

 さらに、現職教員が更新講習を受けるのを忘れて教壇に立てなくなる「うっかり失効」も各地で相次いでいる。神戸市では今年4月、30~50代の小中学校の教員ら7人が更新を失念していたことが判明し、担任教員の差し替えを迫られるなど、対応に追われた。

 萩生田光一文科相もこうした現状を問題視しており、昨年度以降、制度の廃止の必要性を訴えてきた。今年3月には、中教審に制度の抜本的な見直しを議論するよう諮問している。

 

【「10年経ったら教師はポンコツだ」と政府は言った】

 私は教職を一種の職人芸だと思っている。場数を踏むことが大事で、現場でさまざまな問題・状況・現象を経験し、対応を繰り返すことで腕は上がっていく。だから基本的に年長者の方が能力は高いが、もちろん例外もある。すべて大工や左官と同じだ。

 ところがこうした考え方を真っ向から否定したのが「教員免許更新制」だった。

教育の英知は大学や研究機関にこそある。したがってそこから近い者(例えば新卒)は価値はあるが、10年も離れたらポンコツだから自腹で学び直せ

 それがこの制度の趣旨である。

 

 更新制が廃止されるのは、

 しかし現代の教員は自覚も意欲も根性もなく、すぐにビービー言うから温情を施してやろう、わざわざ遠くまで来させるのも大変だからオンラインに替えてやる、感謝しろ

記事の前半が伝えるのはそういうことである。

 

【更新制度廃止はどれほどの負担軽減になるのか】

 しかし実際には夏休みの講習がそれほど大変だったわけではない。

 更新年でなくても、教員は夏休み中てんこ盛りの研修を受けさせられている。学校五日制が始まった際、週に2日も休んでいる上に夏休みまでたっぷり取っているようでは何を言われるか分からないからと危惧した文科省や教育員会が、たっぷり研修機会を増やしたうえに、校内会議も入れ込んだためである。

 更新年の教師はこうした研修に代えて更新講習を受けに行くだけで、次の年からは再び普通の研修を受けるようになるので、時間的・体力的な負担は似たようなものである。ただ3万円(正確に言えば3万円以上5万円程度まで)の経済負担と更新手続きの面倒はなくなるから有り難いことには違いないが、これで文科省のアリバイづくりをされても困る。 

さあ、免許更新制はなくした。これで楽になったろう。文句を言わずもっと働けと言われても素直に頷く教員はいない。

 

 

【更新制度廃止のほんとうの理由】

 更新制廃止が大した負担軽減にならないことは、おそらく文科省も十分承知している。それにもかかわらず廃止するのは、毎日新聞の記事の後半で語られている。

教壇に立っていない免許保有者が更新をせずに失効するケースが多いため、産休や育休の取得者が出た場合、代替教員の確保が難しくなっている問題も指摘されていた。代替教員が見つからなかった学校では、教頭が授業を実施してしのいでいるなどの実態が明らかになっている。

 年度初めの教員不足は定年退職の教員を再任用で繋ぎ留めたり、その期間を終えた人をさらに講師として雇ったりと、何とか充填できるが、年度途中の不足はそういうわけにはいかない。

 手持ちの教員に妊娠するなとも言えないし、病気でも休むなというわけにもいかない。さらに新規採用の教員まで続々と辞めてしまうとなると、明日からでも来てもらわないと教室に担任がいなくなってしまう。中学校では1教科の授業が止まってしまう。

 

 かつては次年度の採用試験をめざして、アルバイトで食いつなぎながら勉強を続ける教職浪人がいくらでもいた。コンビニよりはるかに収入が高くしかも経験の積める講師の仕事は、彼らにとっても渡りに船だった。その教職浪人がダメなら、退職教員という手もあった。

 定年退職で家にいたり他の職に就いていたり、あるいは結婚・出産などで早期退職した人も、現職の校長から頭を下げられたとなれば、一役買ってやるしかないと重い腰を上げてくれる場合があった。中には拝み倒されて、1歳児を急遽保育園に入園させたうえで3カ月だけといった約束で現場に来てくれた人もあった。

 ところが現在、浪人してまでブラックな職場をめざそうという若者は払底し、退職教員たちには免許がない。もちろん3万円~5万円を払って更新講習を受けてもらえば免許は復活するが、明日来て欲しい状況には間に合わない。

 そんなこんなで教頭先生が担任代わりをしている学級が全国に相当数、出てきてしまいしかもその状況がいっこうに解消しない。

 教員免許更新制の廃止のほんとうの理由はそこにある。

 

 

【更新制がなくなって、再び教師が叩かれる】

 引用した毎日新聞の記事はそこまで書いてくれてあるが、今朝のNHKニュースは「教員の働き方改革=負担軽減」の問題としてしか、これを扱っていなかった。

 

 間もなく、

「いくら負担軽減のためとはいえ、更新制度をやめ、教師の質を下げてまでやることではないだろう」

という話が持ち上がってくるだろう。

「更新制度廃止以来、教員の質が下がった」という神話もつくられる、教員がその矢面に立たされる。

 

 世の中の人にとっては、質の低い担任に持ってもらうくらいなら、担任のいないクラスの方がよほどましなのかもしれない。

 

教員採用試験:採用倍率が下がったからといって教員の質を心配にする必要はないが、日本中のあちこちで「担任のいない学級」が生れることは問題だ。

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記事

 

公立小教員の採用倍率、過去最低更新 長時間労働で敬遠

 (2021.06.25朝日新聞デジタル

www.asahi.com 今春採用された公立小学校教員の採用倍率の全国平均が2・6倍だったことが各地の教育委員会への取材で分かった。過去最低だった昨年度の2・7倍(文部科学省調査)を下回った。2倍を下回る自治体は19あった。教員の大量退職期が続き採用が増えた一方で、学校現場での長時間労働の問題が解決されず、学生に教職を敬遠する動きが広がっているとみられる。

 

 2021年度採用試験(20年度実施)について、47都道府県と20政令指定市大阪府から教員人事権を委譲された豊能地区の教委を対象に、受験者数や4月1日現在の採用者数などを聞いた。例年6月1日までの数値をまとめる文科省調査とは異なる可能性がある。

 

 小学校は受験者数4万3243人に対し、採用者数が1万6561人(東京都は集計中のため合格者数を計上)だった。20年度(文科省調査)は4万4710人に対し採用者数が1万6693人で2・7倍だった。

 

 公立中の採用倍率の平均は4・3倍で、文科省調査で過去最低だった1991年度の4・2倍に迫る。受験者数4万3911人に対し採用者数は1万272人。20年度(同)は4万5763人に対し9132人で5・0倍だった。

(以下、略)

 

  ここにきてようやく教員のなり手不足が深刻な問題になりつつある。

 小学校教員の採用倍率2・6倍は過去最低だそうだが、それよりも深刻なのは2倍を下回る自治体は19あったという点である。通常、採用試験は2倍を切ると合格者の質に問題が出るといわれるからだ。

 

【学校には、良い先生が集まるようにできている】

 しかし教員の“質”というのは、必ずしも試験に強いかどうかだけで把握できないだろう。

 例えば記事で中学校について書かれた「過去最低だった1991年度」は元号に直すと平成3年度(平成2年実施)だが、バブル経済の爛熟期の採用試験、民間では普通の企業でも20代に100万円以上のボーナスを出し、社員旅行がハワイ7日間(個人負担1万円)だったという時代である。そんな時期に何が悲しくて教員になんかになろうとしたのか。

 

 彼らは本気で先生になりたかったのだ。子どもが好きだったり子どもを育てることが好きだったり、あるいは教えることに情熱を傾けることのできると信じた人たちが、この年、教員になったのである。

 その意味では真に質の高い教員が採用できたとも言える。

 

 もちろん“失われた20年”といわれる時期に、倍率二十数倍を勝ち抜いてきた人たちがダメだというわけではない。彼らはとんでもなく優秀だった。

“頭のいい人には心がない”みたいな言い方をされるが、中に“心がない”人がいたとしても、“心があるかのような立ち振る舞い”をたちどころに学習し実践してみせるのだから一筋縄ではいかない。彼らもまた別の意味で質の高い教員なのだ。

 要するに景気がよかろうが悪かろうが、倍率が高かろうが低かろうが、学校には“良い先生”が集まるようにできている。

 

 

【思ったより、さらにブラックな職場環境に苦しむ人に】

今年度採用になった先生たちの多くは、学校のブラック体質を承知しながら敢えて教則に就こうとした人たちだ。悪かろうはずがない。

 

ただ、良く調べたにもかかわらず、思ったよりも過酷だったという人もいるかもしれない。だから私としてはこんなふうに言っておく。

  • 教職は職人芸だ。だからカンナの使い方やノコギリのひき方は一度覚えればいい。2年目以降はその分がごそっとなくなる。当番の決め方、掃除のさせ方などは、いつまでも考え続けなければならないことではない。
  • 教職は1年ごとのルーティーン・ワークだ。だから一回りすると翌年は同じ回りでかまわない。運動会も文化祭も同じ時期に毎年来る。学校が代わってもほぼ同じだ。
  • 教職は年功序列の世界だ。自分より年上の保護者は偉いが、年下の保護者は偉くない。だから年少のうちは学年主任でも前に押し出しておいて、自分は陰に隠れるようにしていればいい。少し慣れたら「慇懃無礼」な対応の仕方を身につけておけば何とかなる。

 しかしそれでも苦しくて苦しくてしかたないなら、教職は命をかけて行うほどのものでもない、心が傷む前にさっさと辞めて、別の道を進むがいいだろう。コロナ禍が終わればまた人手不足の時代が来る。食うに困ることはない。

 私は30歳でサラリーマン生活に見切りをつけて教職についた。それでよかったと思っている。逆もまた真なりで、教職を去ったところでキミが困ることはないだろう。

 困るのは学校の方だ。

 

 

【教員が一人辞めることの意味】

 前もって言っておくけど、学校が困ると言っても、辞めていくキミが悪いという話ではない。キミは十分に心の血を流した。

 

 悪いのは見通しを誤った政府であり都道府県であり、やれ学力はどうした、円周率3で授業ができるか、ゆとりは結局、教師のゆとりか、いじめはどうなる、ブラック校則をなんとかしろ、英語教育をもっと進めろ――と煽ったマスコミなのだ。若い人たちが責任を迫られることではない。

 しかし後学のために、キミのいなくなった学校でそのあと何が起こるかも見ておこう。

 

 教員がひとり辞めると代わりを探さなくてはならない。年度途中だと正規採用はないから講師に来てもらうことになる。そのために、都道府県教委あるいは政令指定都市の教委には、講師の要請に応じてもいいという人の登録した「講師名簿」というものがあり、欠員の生じた学校の校長もしくは教委自身が、そこから人を選び、直接交渉にはいることになる。交渉といってもいつから、どんな立場で仕事に入るのかといった程度のことである。電話一本ですんなり話が決まることも多い。

 

 小学校の場合は小学校教諭の免許を持っていることが条件だが、中学校の場合は社会科の教員が辞めたら社会科の教員というふうにもうひとつの関門があるため、必ずしもピッタリの人材が探し出せないことがある。

 ここからが校長・教委担当者の腕の見せ所で、定年や結婚・子育てのために退職した教員や、名簿には載っていないもののかつて講師をやった経験のある人、昔の教え子で免許をもっているはずの人、ありとあらゆる伝手や縁故をたどって人材を探し出すことになる。

 

 ところが昨今、どこの自治体でも「講師名簿」が払底し、個人的人間関係で手繰り寄せることのできた人材も、ほとんどいなくなっているのだ。

 

 

【代わりの教師は誰も来ない】

 まず、教職浪人と呼ばれ、次年度の採用試験をめざして勉強しながらアルバイトなどで食いつないでいる人たち――この層が消えた。

 

 就職が1年遅れるというのは生涯賃金で1年分(退職金を計算に入れるとそれ以上)の収入を失うということである。

 このとき、例えば43年の就労期間を42年に縮めるといった場合、彼が犠牲にする1年分の給与は初年度の給与ではなく、43年目の、普通は最も高い給与である。その額、今から40数年後だとすると1千万円にもなろうか――それがなくなるのだ。

 教職は1千万円を犠牲にしてでも就くべき仕事だろうか? しかも職場は超ブラックときている。こうした疑問の前に、「教員のやりがい・楽しみ」といった話は軽く吹っ飛んでしまう。

 

 教職浪人がいなくなったとして、他にどんな人が応募してくれるだろうか。

 

 残るのは先にも紹介した定年・結婚・子育てのために退職教員した教員たちだが、この人たちも昨今の「学校のブラック化」話に二の足を踏んでいる。

「いまの自分に勤まる職場なのか――」

と。

 そしてここに決定的なでき事が被さる。彼らのほとんどが、教員免許更新制度のために免許を失効させているのだ。今から申し込んで夏休み中の更新講習を地受けてもらうにしても、今日明日の欠員を埋めることはできない。

 かくして先生のいなくなった教室は、副校長先生や教頭先生に診てもらうことになる。

 

 ねえキミ、

 キミが辞めるというのはそういうことだ。だからもしかしたら校長先生から、

「せめて次の担任が見つかるまでは、何とか勤め続けてくれないか」

と懇願されることがあるのかもしれない。

 けれど応えてはいけないよ。次なんか簡単に見つかるはずはないのだから。――そのままズルズルと年度末まで引っ張られるのがオチだ(年度末まで引っ張れば、講師ではなく正規教員に来てもらえる)。

 もちろんズルズルと年度末まで引っ張られることの方が、いい場合だってないわけではないけどね。

 

(参考記事)

www.asahi.com

三重県の高校は生徒の服装・髪型・男女交際等に関する指導を今後いっさい行わないと宣言した。保護者が恐慌に襲われても不思議のない決定だ。それなのに評論家は手を叩いて喜んでいる。

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(写真:パブリックドメインQ)

 

記事

 三重県の高校でブラック校則廃止、しかし生徒との信頼関係を取り戻す見直しになっているのか

 前屋毅 | フリージャーナリスト

(2021.06.17 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp

 

 文科省が促していることもあってか、校則の見直しが進みつつある。しかし、「らしく」という言葉で縛ろうとする学校側の意識そのものが変わらないことには、ブラック校則はなくなりはしない。

 

|いまの校則だけを変えるだけでいいのか

 三重県のすべての県立高校で、髪型や男女交際、下着の色などに関する校則が廃止されたことが、「県教育委員会などへの取材で明らかになった」と『毎日新聞』(6月15日付、電子版)が伝えている。県教委では同紙の取材に、「時代にそぐわない『過去の遺物』のような校則も残っている。今後も見直しを求めていく」と説明しているという。

(中略)

 注目したいのは、校則で禁止していた理由が「高校生らしく、技巧をこらしてはならない」ということだったと『毎日新聞』の記事が伝えていることだ。三重県の高校がツーブロック禁止の校則を廃止したのは、「高校生らしく」では世間を納得させられないと判断したからにほかならないことになる。

 

|生徒を枠に閉じ込める魔法の言葉

 そもそも「高校生らしく」とは、どういう意味なのだろうか。それが明確なものであれば、三重県の高校も説明のしようがあったのかもしれない。しかし、できなかった。

 

 考えてみれば、「高校生らしく」とは便利な言葉である。「高校生らしくない」として、ツーブロックや男女交際も禁じることができるし、下着や靴下の色も白だけと決めることができるのだ。

 

 誰が、「高校生らしく」を決めるのか。それは、学校側でしかない。学校側が「望ましくない」と思えば、「高校生らしくない」と断じて、禁じてきた。それが、校則である。学校側の「枠」に当てはまらないことは、「高校生らしくない」のだ。

 

「高校生らしく」とは、生徒を自分らの「枠」に閉じ込めておくための学校側にとっての魔法の言葉だともいえる。ただ、ただ生徒を枠に閉じ込めるために、学校側は「高校生らしく」を盾にしてきた。それが、ブラック校則を生み出した。

(以下略)

 

 

 記事にある6月15日付の毎日新聞を読んだ。

 確かに校則で禁止していた理由が「高校生らしく、技巧をこらしてはならない」ということだったと言う記述はあった。しかしツーブロックと呼ばれる髪型を禁止する根拠がそうだったというだけで、別に、

「高校生らしく」では世間を納得させられないと判断したから

ツーブロック禁止がなくなったわけではない。ではない。文科省が見直せ(やめろ)と言ったから止めたに過ぎない。

 それを、

 そもそも「高校生らしく」とは、どういう意味なのだろうか。それが明確なものであれば、三重県の高校も説明のしようがあったのかもしれない。しかし、できなかった。

とは我田引水も極まれりである。

「高校生らしく」を説明するなってまったく楽なことなのに。

 

【高校生らしくということ】

 「高校生らしく」とはどういうことか?

 答えは簡単だ。「親らしく」「社会人らしく」「お兄ちゃんらしく」と同じで、頭に着いた名詞にふさわしい態度やようす・行動のことを言う。

 だから「高校生らしく」は「高校生」が説明できればいいだけだが、それができないのか? 分らないなら私が教えてやろう。

 

 「高校生」とは高等学校に通う者のことである。では「高等学校」とは何か。

 これを辞書で調べると、

中学校卒業者に高等普通教育および専門教育を施すことを目的とする学校。修業年限は3年。ただし、定時制通信制の課程では4年以上。高校。

とあらぬ方向へ行ってしまうので、学校教育法で調べ直す。するとこんな記述がある(面倒な人は読み飛ばしてかまわない)。

 

第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。

二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。

三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

 

 つまり知・徳・体の全領域で義務教育より一段高い技能、および精神を身につけ、社会の発展に寄与できる人間になる場――ひとことで言えば、

 勉強をするところ

ということだ。

 そうなるとあとは簡単で、

「高校生らしく」とは、より高いレベルの学びを行おうとする者にふさわしい態度・姿勢のこと

をいう。たったそれだけのことが、なぜ分からないのだろう。

 

 

【学校の論理:流行にうつつを抜かしているようでは勉強はできない】

 三重県の高校に限らず、全国の小中学校・高校がツーブロックという流行の髪型を禁止してきたのは、それが「学習者にふさわしくない髪型」だと考えたからである。ポイントはツーブロックではなく、「流行の」である。形がどうのこうのではなく、流行っているからダメなのだ。疑うなら試してみればいい。

 

 昭和に禁止されていたロングヘアやリーゼント、あるいは江戸時代のチョンマゲや弥生時代のミズラを結って登校してみればいい。教師からはひとことふたことあるかもしれないが、禁止はされないだろう、流行っていないからだ(だが友だちからは笑われる危険性がある)。

 

 流行の髪型や服装にうつつを抜かしているようでは辛く苦しい勉強は続けられない(つまり高校生らしい生活はできない)と学校は信じている、だから禁止されるのだ。

 

 流行の服装や髪型や化粧をした子どもは、普通、家と学校を往復して勉強するだけの生活なんか絶対にできない、必ずどこかに遊びに行く。金も手間もかけた自分の姿を誰かに見せずにはいられない、それにふさわしい行動をとらざるを得ない、そしてその分、学習はおろそかになる――。

 エビデンスとやらを求められても困る。経験的にそうだとしか言いようがない。

 

 もちろんツーブロックに流行の服装で東大に受かった学生もいるだろうが、それは稀有な天才たちの世界の話だ。

 たいていの人間はその能力の最大を引き出そうとしたら最大の努力をするしかない

 それが今まで、学校の見てきたことだ。

 

 

【学校が生徒指導から手を引く地獄】

 筆者の前屋氏はタイトルで「三重県の高校でブラック校則廃止、しかし生徒との信頼関係を取り戻す見直しになっているのか」と三重県の取り組みを評価しながらも、学校にさらなる取り組みを求めている。しかし6月15日付の毎日新聞の記事を読んだ後でもそんなことを言っていられる悠長が私には理解できない。

 

 記事によれば、

三重県の全ての県立高校で今年度から、髪形や男女交際、下着の色などに関する校則が廃止された

 つまり今後、高校生の髪型や男女交際、下着の色などについての指導を、一切しないと宣言したのだ。

 

 これから学校は生徒がどれほど奇抜な格好をしてこようとも指導をしない。髪が赤くても金髪でも紫でも、鼻にピアスをつけ、耳に獣の牙を差してきたとしても、家庭に善処を求めるくらいであとは何もしない。指導の根拠がない。

 

 髪の色やピアスで指導をすれば生徒は当然、

「どこにそんな決まりがあるんだよ。いったいどこにそんなことが書いてあるんだよ」

ということになる。それが今日まで校則を増やし続けた理由の一つだが、これからは「だったらその校則、つくってやろうじゃねぇか」みたいな対応はできない。さらに前屋氏の言うように「高校生らしく」もダメだとなれば、指導の道がない。

 ひとりの生徒にじっくりと数十時間をかけてカウンセリングする余裕は最初からない。

 

 生徒が学校の帰りにラブホテルに行っても止められない、タトゥーを入れても止められない、すべては生徒の自己責任であり、家庭の問題だ――。

 毎日新聞の突きつける学校の近未来はそんな恐ろしいものなのに、前屋氏は怯えることもない。その家庭に教育力があるかどうかを問わず、子どもの問題は家庭に返えされるというのに――。

 私は震える。

 

 正直なことを言えば、私にはこの試みが成功するとはとうてい思えない。

 数年も経てばたくさんの保護者に泣きつかれて、学校はそぞろ校則を増やし始めるに違いない。

 

 しかしそれまでの間、学校は子どもが未熟なまま社会に出て行くことに怯えながら、生徒指導を保護者と地域に委ねるだろう。

 なぜなら校則の見直しを理由に生徒指導の項目を大幅に削減することは、社会のブラック校則批判に応えるとともに、教師の働き方改革にも大いに貢献する名案だからである。

 

 面倒くさい高校生をもった家庭は、しばらく死ぬほどの苦しみを味わうことになる。しかし社会正義と子どもの自由のためだ、我慢して頑張ってほしい。

 

文部科学省から学校に「行き過ぎた“校則” の見直し」が指示された。児童生徒・保護者・地域・教職員――どう転んでも誰かが猛反対しそうな案件。学校は大変だ。こうして教員の「働き改革」の掛け声のもと、仕事はさらに増えていく。

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(写真:パブリックドメインQ)

 

記事

 下着の色まで指定 行き過ぎた“校則” 見直しを 文科省が通知

(2021.06.13 HNK)

www3.nhk.or.jp

生徒の下着の色まで指定するなど、行き過ぎた校則や指導が問題となる中、文部科学省は全国の教育委員会に対し、社会常識や時代に合わせて積極的に校則を見直すよう通知しました。

 

学校の校則については、大阪の府立高校の頭髪指導をめぐる裁判をきっかけに、各地で見直しの動きが広がり、下着の色を「白」と指定して実際に確認するといった人権上の問題や、マフラーを禁止するなど、合理的でない校則への指摘が相次いでいます。

これを受け文部科学省は、全国の教育委員会などに対し、校則が子どもの実情や保護者の考え方、また社会の常識や時代にあった内容になっているか、絶えず積極的に見直すよう、通知しました。

 

各地の改善事例も紹介し、教育委員会の取り組みとして、校則の内容や見直し状況の実態調査をした例や、校則について生徒が考える機会を設け、改正手続きを明文化するよう求めた例を挙げています。

 

また、学校単位の取り組みとして、学校のルールで変更したい点を生徒が議論する取り組みや、生徒会やPTAに意見を聞き取っている例、それに、ホームページで校則の内容を公表している例が示されています。

 

そのうえで、校則の内容や必要性について、児童や生徒、保護者と共通理解を持つことが重要だと呼びかけています。

 

 

 校則については山ほど言ってきて、まだ山ほど話したいことがあるが、今日は別の観点からひとことだけ言っておく。

 

 教員の働き方改革が強く言われる昨今、文科省は通達ひとつを出すにもたいへん気を使い、詳細な資料をつけたり今回のように例を挙げて方向性を示してくれたりする。

 

 しかしそれにしても、

学校単位の取り組みとして、学校のルールで変更したい点を生徒が議論する取り組みや、生徒会やPTAに意見を聞き取っている例、それに、ホームページで校則の内容を公表している例が示されています。

 これをきちんとやったらどれほどの時間と手間がかかるか、文書を書いた文科官僚はもちろん、大臣やその他の政治家、あるいはメディア、世間の人々はまったく理解していないようだ。

 

 もちろん教職員が一方的に審議して下し置く校則なら簡単だが、学校のルールで変更したい点を生徒が議論する取り組みだの、生徒会やPTAに意見を聞き取るなど始めたら、「どこまではまるドツボかな」みたいな話になる。

 

 下着ひとつをとっても、児童生徒の中にはどうしても白以外のものをつけたい子もいればどうでもいい子もいる。下着といっても下半身の話ではない。制服のブラウスや体育着・Tシャツから透けて見える上の話である。

 

 一方に扇情的な下着をつけたがる娘を抑えきれず、なんとか学校に禁止してほしいと切実に願う保護者がいるかと思えば、息子の嫌がるランニングシャツならまだしも、白のタンクトップなんてどこに売っているんだと息巻く親もいる。

「それは親の責任で――」と言いたくても、担えない家庭があることは学校が一番よく知っている。

 

 しかしパンドラの箱はこじ開けられたのだ。

 髪型も服装も持ち物も、校則のひとつひとつがまな板に載せられ、吟味される。どう転んでも不満を言う人はとうぜん出てくるから、学校が説得に回らなければならない。髪型や下着の自由は既定になってしまったから、学校自身が納得していないのにも関わらず、保護者や地域の人々を説得しなくてはならない。

 1年かかるか2年かかるか分からない。しかしとにかくやるしかない。

 

 さて文科省を始め政府・各自治体は「教員の働き方改革」に非常に熱心だ。

 教師を思い遣ってのことではない。今のままだと人材どころか必要数の教員ですら確保できない可能性が出てきたからだ。

 それにも関わらず、仕事は日増しに増え、職場として学校のブラック化は進展する。

 

 この一年余りのあいだに増やされたもののうち、大きなものだけを数えてみよう。

  • コロナウイルス感染症対策、
  • リモート学習のためのタブレット端末の準備及び学習内容の充実、
  • スマホの持ち込みを許可したためにしなければならない雑務・機器の管理、
  • 子どもの性被害を減らす「生命(いのち)の安全教育」、
  • そして今回のブラック校則の見直し。

 どれをとっても必要で、たいへんで、片手間でできるものではない。

 

  そして代わりに削減された仕事は・・・・、

  今のところ、ない

 

学校教育が企業やマスメディアの踏み台にされ、完食される。「教育は死んだ、教育は死んだ、私たちが殺してしまったのだ!」――そんなふうに叫ぶ日は、案外近いのかもしれない。

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(写真:フォトAC)


記事

「会食恐怖症」給食の完食指導が引き金に

 (2021.06.03 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp

 

 「会食恐怖症」をご存じですか。人前での食事に恐怖と不安を感じ、吐き気などの体調不良を引き起こす社交不安症のこと。学校給食や部活動での「完食指導」が、発症の引き金となるケースが多いという。当事者を支援する団体は「子どもに無理やり食べさせないで」と訴えている。

 

「トイレで食べたこともある」

  「食物アレルギーがないのに残しちゃ駄目。もったいないでしょ」。担任に給食を完食するよう求められたのは小学3年の時。広島県の30代派遣社員女性は、今も担任の怖い顔を思い出し、食べ物がのみ込めなくなることがあるという。

 

 当時は、食が細くて時間内に食べ終えられず、昼休みも教室に残された。給食が苦痛だった。食べきれなかったパンを引き出しに隠したことがばれて、同級生の前でひどく怒られたこともある。「みんなできることが私にはできない」と自分を責め、自己肯定感が低いまま成長した。

 

 会食恐怖症の兆候が現れたのは社会人になった頃。新生活のストレスも重なったのかもしれない。誰かと食事をすると相手の視線が気になり、手が震える。親しい友人とならお茶はできるが、派遣先の同僚との食事は避けてきた。飲み会は断り、昼食はお弁当を持参して人目に付かないところに移動。「トイレで食べたこともある。無理な場合は食事を抜いています」

 

つらいのは「自分だけじゃない」

 岡山市の男性(30)は、大学時代に異変が起きた。同級生の女の子との初デートで食事が喉を通らない。冷や汗が出て、吐き気がした。3年生の頃にはさらに悪化。ゼミの教授から「食べ物を残すなんてけしからん」と、飲み会で食べ残しがあるたびに説教された。その後は人が多い場所では1人でも食べられなくなった。

 

 男性は、174センチ52キロで線が細い。幼い頃から小食だったが、家や学校では「男の子なんだからしっかり食べなさい」「残すと作った人に申しわけないでしょ」と言われ、無理して食べていた。「胃袋の大きさはそれぞれなのに、男はよく食べるべきだのような押し付けもしんどかった」と振り返る。

 

 数年前から当事者の支援を行う一般社団法人日本会食恐怖症克服支援協会(東京)の交流会に参加し、徐々に症状が改善している。体験を打ち明け合い「つらかったのは自分だけじゃない。無理して食べなくてもいい」と思えたことで楽になったという。

 

 同協会の代表、山口健太さんは「以前から症状を訴える人は少なくないのに認知度が低い」と話す。山口さんも症状に苦しんだ一人。10年前、高校の部活動での食事トレーニングがもとで発症した。合宿中は朝2合、昼2合、夜3合の米を食べるのがノルマ。監督が見張っている重圧で吐き気と動悸(どうき)がしたという。「それが偏食、わがままなんでしょうか」と疑問を投げ掛ける。

 

「食品ロス」が気掛かり 

 「発症のきっかけに給食での完食指導が関わっている」―。山口さんたちが症状のある642人を対象に行った2019年のアンケートでは、50・3%がこう回答した。結果を受けて3月、教員向けの給食指導のノウハウをまとめ、同協会のホームページで公開。無理やり食べさせたり、完食を強要したりしないよう呼び掛けている。

 

 山口さんは「『食は楽しいもの』『食べることが好き』という感情がベースにあれば、食材を大切にする気持ちは自然に芽生える」と指摘。学校や家では食にポジティブになれるような教育が必要と訴える。食品ロスが問題になる中、「食べ残しは悪」の価値観が強まるのも気掛かりという。

 

 学校の給食指導はどうなっているのか。広島市内の小中学校では「完食指導はしていない」(市教委健康教育課)という。11年から13年ごろまで「残食ゼロ」の取り組みをしていたが、同課は「あくまで食育の意識を高める目的。食べ残しがいけないと押し付けることはしていない」と回答。食が細い子が多い小学校低学年の児童には、「1年前と比べてどれだけ食べられるようになったか」を評価するようにしているという。

 

 児童・思春期精神科などを専門とするライフサポートクリニック広島(広島市東区)の新宅恵子院長は、「食に関する不安は、過食や拒食と同様、複合的な要因によるもの」とした上で「完食が目的化すると、大きな負担になる」と指摘する。「栄養バランスはもちろん大切ですが、食べられない子の事情を理解し、心に寄り添う指導が必要」と話した。

 (元記事は中国新聞「人前で食事、喉通らない 知っていますか『会食恐怖症』」

 

 飽食の国――主人は食べ残しが出るほどに料理を出し、客は食べ残すことが美徳とされたその中国でさえ法律をもって食品ロスをなくそうという昨今、そして日本では2007年の「食育推進法」によって「食は命の源。食育は生きる上での基本であり、知育・徳育・体育の基礎となるべきもの」として「『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践できる人間を育てる食育」が急務とされるこの時代、しかしその重要な指導の場である学校には、保護者・マスコミ等から繰り返し「完食指導」の非人間性・人権無視を訴える声がある。

 

【給食を平等に盛り付けて食べさせるはずがない】

 まず現れたのは「中には食の細い子もいるから、みんなと同じように盛って “食べろ”と言われても食べきれるものではない」という主張。

 しかし現場教師にしてみれば食べられない子がいるなんて百も承知、全員に同じ量を食べさせるなどあり得ない。

 

 以前から学校給食では米飯にしてもパンにしても必要量の8割しか出していないのが普通だ(食べられないから)。だから“みんな同じように”盛ってしまうと少食の子にはそれでも多すぎても、食いしん坊は絶対量が足りなくなる。そこで教師はいったん平等に配り(というのは最初から量に変化をつけるのは難しいからだ)、

「はい、『こんなに食べられないよォ』、という人がいたら持って来なさい」

「うん、そのくらいなら減らしていいよ、あとはがんばろうね」

とやるわけだ。それから、

「もっと欲しいって人、手を挙げて! ジャンケンするよ」

となる。大変手間もかかるが、全員ムリなく、かつ十分に食べさせるにはこれ以外の方法はない。

 

 同じように配れば食べきれない子の出る給食も、学級全体だと完食できる—―何しろ主食が標準の2割引きなのだからできないわけがないし、それ以上減らすと誰かが栄養不足・カロリー不足になりかねない。

 学級全体での完食はぜひとも必要で、だから食べる能力に応じた傾斜配分は私が子どもの頃から自然に行われてきたのだ。

 

【アレルギーがあっても食べさせる――はずがない】

 さらにもう一つ出てきたのが「アレルギーがあって食べられないのに、無理に食べさせる教師がいる」という話――こうなるともうイチャモンだ。

 1988年に北海道でそばアレルギーをもつ小学生が誤って食べて亡くなって以来、食物アレルギーは学校において最も警戒すべき事項になっている。当初はしばらく給食のたびに担任が除去していたが、今は調理室の段階で除かれる。忙しい担任に任せると事故が起きかねないからだ。

 

 センター給食はもちろん自校給食でも調理室内に専門のブースを設け、調理員が接触しないように注意しながら、材料の検収から調理、運び出しまで全部べつに行うようにしている。人間一人を余計に雇うわけだからたいへん予算がかかるが、命がかかっているだけに自治体はおろそかにしない。

 もう20年以上もそうなっているのに、イチャモンをつける側は事実をしらない。

 

【しかしそれでも批判は続く】

 今回もそぞろ完食指導のおかげで会食恐怖症になったというので、いったいいつの話なんだと読み直したら、なんと、

 広島県の30代派遣社員女性の小学3年の時の話、

そして30歳の男性の、

 家や学校では「男の子なんだからしっかり食べなさい」「残すと作った人に申しわけないでしょ」

と指導を受けるような年齢のころの話。そして、

 10年前、高校の部活動での食事トレーニン

の話だった。

 いまごろそんなことを言われても困るし、高校の部活のことまで責任はとれない(相撲部だったのか?)。

 

【会食恐怖症という病気はない】

 「会食恐怖症」というのも初耳なので、原因が「完食指導」かどうかもよくわからない。

 そこでGoogle検索にかけると、Wikipediaに記載がなく、Wikiにないのは一向にかまわないが、検索上位20位以内にあるのはほとんどが記事の山口健太氏と山口氏の「一般社団法人日本会食恐怖症克服支援協会」の絡むものだった。NHKラジオやFNNのサイトも出てくるが、それぞれ山口氏の活動をあつかったものだ。PRTIMESのサイトでは「精神科医も知らないマイナーな病気」ということになっている。

 世の中に、精神科医も知らない心の病気というものがあるのだろうか?

 

 そこでさらに調べていくと、どうやら「会食恐怖症」という病気はなく、「社交不安症」に含まれる症状のひとつらしい。「頭痛」という症状はあるが「頭痛病」という病気はないのと同じである。だから精神科医も知らない。

 知らないだけではなく専門家が、

「食に関する不安は、過食や拒食と同様、複合的な要因によるもの」

と言っているにもかかわらず、

「発症のきっかけに給食での完食指導が関わっている」―。山口さんたちが症状のある642人を対象に行った2019年のアンケートでは、50・3%がこう回答した。

だから、

無理やり食べさせたり、完食を強要したりしないよう呼び掛けている。

 

  “専門家が何を言おうが証拠があろうかなかろうが、被害者がそう言っている以上は存在する”――どこかで聞いたこともある反科学・自説のゴリ押しである。くだんの問題ではそれが支援団体の収入につながった。

 では食を強制される子どもたちの支援を標榜する「一般社団法人日本会食恐怖症克服支援協会」とはどんな組織なのだろう。

 

【一般社団法人日本会食恐怖症克服支援協会】

 社団法人というと何らかの公益性のある、ほとんどボランティアのような組織だと思われがちだが、2006年の法改正で姿を変えた。現在は公益性のある活動でなくても良く、収益があってもかまわない(ただしそれは翌年に繰り越すだけで分配してはいけない)。社員やアルバイトに給与を払うのも問題ないので、収入の一部はそういう使い方をされるのだろう。

 

 実際に「一般社団法人日本会食恐怖症克服支援協会」のサイトを見てみると、主たる活動は、

「会食恐怖症克服と人生の質の向上のためのプログラムの立案、カウンセリング及びセッション、書籍の出版、コンテンツ配信、セミナーの実施。会員制度の制定及び運営、ほか」

とある。

 具体的には1回2000円のカフェ・カウンセリング、5000円のカウンセリングルーム開催。50分8000円の個別カウンセリングや1セット(60日分)5500円の克服「トレーニングプログラム」の販売、講演会(教育関係5万円前後~、一般10万円前後~)、書籍販売等。

 

 カウンセリングや講演会には専門の「会食恐怖症克服支援カウンセラー」があたるが、この資格は「一般社団法人日本会食恐怖症克服支援協会」だけが与えられるもので、初級資格を得るためには3万円ほどの費用と二か月間のメール学習が必要らしい。

 

【私たちは学校教育を殺してしまうのかもしれない】

 世の中は需要と供給で成り立っている。

 会食恐怖で苦しんでいる人がいて「支援協会」が料金に見合う支援をしているなら、その部分については問題がないだろう。

 

 しかしあたかも会食恐怖の原因が学校給食にあるかのように誘導し、学校教育と教師を踏み台にして広く社会に貢献しようとしているとしたら、それはいかがなものか。

 

 中国新聞も学校を叩けば記事が売れる時流に乗ろうとし、Yahooニュースはさらにその上に乗っかって来る――。

 ちなみに、記事の表題は中国新聞では「人前で食事、喉通らない 知っていますか『会食恐怖症』」だったのにYahooだと「『会食恐怖症』給食の完食指導が引き金に」になっている。表題に学校の落ち度が入ると、さらに記事は売れる。

 

 企業もメディアもこぞって己のために学校を殺そうとしている。

 腐臭のしはじめた学校からは教員志望者がどんどん減っていき、子どもの栄養管理や食事マナーもきちんと指導できる熱心な親たちは、我が子を公立から私立に逃がそうとする。

 

「学校は死んだ、学校は死んだ、私たちが殺してしまったのだ」

 そう叫んで本気で「教育再生」を考えなくてはならない日は、案外近いのかもしれない。

 

自民党の文部科学部会が、学校を取り巻く状況の変化に対応するためとかいって、変な提案をしてきたようだが、たかが部会だとバカにしないで、妙なことにならないよう注意深く見て行こう。

f:id:kite-cafe:20210507183930j:plain(写真:フォトAC)

 

記事

 自民 教員養成の在り方を提言 免許更新講習見直しなど求める
(2021年5月5日  NHKwww3.nhk.or.jp 
 教育の充実に向けた小中学校や高校などの教員の養成や研修の在り方として、自民党は、大学・大学院の5年間一貫で教員を養成するプログラムの開設や教員免許の更新講習の抜本的な見直しなどを求める提言をまとめました。
 自民党の文部科学部会は、1人1台のIT端末の整備や公立小学校での「35人学級」の導入など、学校を取り巻く状況の変化を踏まえ、教育の充実に向けた小中学校や高校などの教員の養成や研修の在り方の提言をまとめました。

 

 提言では、優秀な学生を対象に大学・大学院の5年間一貫で教員を養成するプログラムや教員免許を持っていない社会人を対象にした集中的なプログラムの開設を打ち出しています。

 

 また、教員が10年ごとに受ける教員免許の更新講習について、最新の知識や技術を習得するという制度本来の趣旨を改めて徹底すべきだとして、実施時期や方法などを抜本的に見直すよう求めています。

 

 さらに、学校での研修を充実させるため、例えば「40分授業」の導入で1時限当たりの時間を短縮して午前中に授業を集中させることにより、午後は校内研修や授業研究に充てるよう促しています。

 

 部会は、この提言を文部科学省に提出し、政府全体で取り組むよう求めています。

 

【たかが自民党の一部会の提言だとバカにしてはいけない】

 政府ではない、単なる一公党のさらに一部会にしか過ぎない自民党文部科学部会。ここで出されたことが政策として実現するにはまだまだ時間もかかりそうにも見えるが、実はそうでもない。部会として提案し、党の提案となり、国会を通して文科省に送られ、そこで実現の可否が検討されて、その上で政策として都道府県教委、市町村教委を経てようやく学校まで下ろされる、そこまで普通は数年を要するが、自民党が本気でやろうと思えばすべてを端折ってわずか数カ月で実現させること不可能ではないのだ。権力者にはそれだけの力がある。

 

 実際に1992年春、対米公約であるのにまったく進まない企業の週休二日制を一気に進めるため、自民党は学校を休みにすることを考え、文教部会でその年の9月からの学校五日制(月一回)を決め、実施に移してしまったのだ。

 突然の動きに当時の文部省はうろたえ、週休二日制度を要求していたはずの日教組でさえ時期尚早と待ったをかけたくらいである。しかしその年の9月12日、とんでもなく中途半端な時期から五日制はスタートした。

 

 そこで今回も私は怯え、とりあえず原文に当たらなければならないと思って探したのだが、記事にある「提案」は今のところ見つかっていない。仕方がないので上の記事だけを頼りに少し考えてみたいと思う。

(ただやはりこれだけだと分かりにくい。本来は大学・大学院、合わせると6年間であるのに、それを大学・大学院の5年間一貫というのは、残りの1年間だけを本来の研究にあてるということなのか、それとも教育学部の大学院だけは修士課程1年制ということなのだろうか等々)

 

【教員になるための修養年数を増やすらしい】

 とりあえず理解できたことは、自民党議員が相も変わらず、

大学の教職課程の修養年数を増やし、現職の研修も増やすことで教員の質を高め、もってこれからの教育政策にあてようと考えている、

ということである。

 

 より質の高い学生を集めるために大学の教員養成課程を医学部や薬学部と同じ6年制にすることや、採用試験の受験資格を修士以上とすることはこれまでも言われてきたことである。しかし30万人~33万人程度の医師・薬剤師に対して幼小中高の教員は100万人も必要である。それが4年制から6年制への移行の過程で丸2年間も供給が滞るとなると、全国的な教員不足が生じかねない。

 そもそも6年制に移行した瞬間に、教育学部の受験者が激減することも考えられるのだ。いや確実に志願者は減る。

 

 死ぬまで働ける医師や薬剤師と違って、教員には定年がある。

 将来の65歳定年制を見越して計算すると、現行の教育学部4年制だと最長43年働けることになる。ところが6年制になると41年しか働けない。不足の2年分の給与が支払われない。しかもそれは初任の時期の2年分ではなく42年目と43年目の給与分、つまり最も高いときの給与が失われるわけだ。40年先のことを考えるとその額は2000万円にもなろうか?
 2年も余計に授業料を払って生活費を使い2000万円も生涯賃金が減るとしたら、だれが教職など目指すものか。

 

 ただし(そんなことは絶対にないと思いながらもついつい期待してしまうのだが)、優秀な学生を対象にとあるのは、もしかしたら選抜した学生に防衛大学並みの学費と給与を与え、勉強させてくれるのかもしれない。それだったら生涯賃金に差は生まれず、志願者も出てくるかもしれない。

 私も現職教員として大学院に出してもらったときは給与が保障されていた(ただし学費は自腹)。そうした制度のさらなる拡充(学費も出してもらえる)だとしたら、無碍に反対しないで済む。

 

 

【教員免許更新制は簡略化・廃止の方向か】

ところで、

教員免許の更新講習について、最新の知識や技術を習得するという制度本来の趣旨を改めて徹底すべきだ

も何のことか分からない。現在は本来の趣旨に反することをやっているのか?

 ただ、これについては日本教育新聞に記事(*)があって、それによると、

これまで主に大学が担ってきた更新講習は文科省がICTを活用して教育政策の動向などを伝える内容に見直すこととした。

ということだ。もしかしたら自宅で無料のオンライン講習になるということかもしれない。

www.kyoiku-press.com

 もちろん「政府の意志を直接、教員に反映させるのが目的かもしれない」と警戒心も捨ててはならないが、評判の悪い更新制を、政府のメンツを保ったままでなくしていくための第一歩だと、そんな気もする。

 必ずしも悪いことではない。ICTを活用してと、さりげなく自分たちの手柄を誇示しているのもかわいい。

 

【授業時間を1割~2割減らすらしい=国会のセンセイたちは何も分かっていない】

 しかしさらに、

「40分授業」の導入で1時限当たりの時間を短縮して午前中に授業を集中させることにより、午後は校内研修や授業研究に充てる

となるとこれは問題だ。

 

 いくら教員の日常生活が多忙だからと言っても、子どもの授業時間を減らすのは禁じ手だろう。1時間当たり小学校で5分、中学校で10分の授業短縮は、それぞれ1割強、2割の削減である。教師はその短い授業時間のためにさらに追いつめられることになる。子どもの理解が進まないからだ。

 

 どうやら国会のセンセイたちは学校のことを何も分かっておられないらしい。

 しかし党に文部科学部会があって提言を出さなければならない以上、何かを絞り出してモノ申さなくてはならない。それが学校をさらに追い詰め、教員志望を減らしていく。

 志望者が減れば質が下がる、質が下がればまた叩かなくてはならない――素人はそう考える。そして新たな研修機会の創設。

 こうなる底なしの悪循環だ。教員志望が一人もいなくなるまで続けなければならない。

子どもの性被害を減らす「生命(いのち)の安全教育」がいよいよ本格的に始まる。喫緊の課題で学校にしかできない重要な仕事だが、人も増やさず他の仕事も減らさず、ひたすら追加される新しい教育は、教師の生命の安全を脅かす

f:id:kite-cafe:20210417135614j:plain法務省:フォトAC)

 

記事

「みずぎでかくれるところはだいじ」…性被害防止、幼児から大学まで教材作成
(2021.4.16 産経新聞

www.sankei.com 深刻化する子供の性被害を減らすため、内閣府文部科学省は16日、保健体育や道徳などの授業で今年度から段階的にスタートする「生命(いのち)の安全教育」で使う教材を公表した。今後、モデル授業の実践例などの調査研究も行い、学校現場での指導の活性化を目指す。

 教材は幼児、小学校低・中学年、小学校高学年、中学校、高校、大学などの計6種類。被害者だけでなく加害者や傍観者にならないため異性との適切な距離の取り方なども盛り込んだ。

 幼児向けでは、プールに入るときに「みずぎでかくれるところは じぶんだけのだいじなところ」と説明。小学校高学年向けでは、会員制交流サイト(SNS)を利用する際に「やりとりしている相手は 本当に信らいしていい人なのかな?」と問いかけ、軽い気持ちで会ったところ、車に連れ込まれそうになる危険性を図示した。

 教材は弁護士や大学教授、現職教員らでつくる有識者検討会が、学校やNPOの先進的な取り組み事例を基に作成。これとは別に、指導の方法や留意点をまとめた教員向けの手引きも作成し、都道府県教育委員会などを通じて周知。被害経験のある児童や生徒がいることを想定し、養護教諭との連携など事前の準備も求めている。

 

【ともに考えよう】

 これはひとつのケーススタディである。上の記事を読んで、内容を理解したうえで問いに答えよ。

(問1)
 深刻化する子供の性被害を減らすため、今年度から段階的にスタートする「生命(いのち)の安全教育」は、今日、必要不可欠な教育と言えるだろうか。
(答え)
 記事にある教員向けの手引きを読むと、そこにはこんな記述がある。
性犯罪・性暴力対策の強化性犯罪・性暴力は、被害者の尊厳を著しく踏みにじる行為であり、その心身に長期にわたり重大な悪影響を及ぼすものであることから、その根絶に向けた取組や被害者支援を強化していく必要がある。性犯罪・性暴力の根絶は、待ったなしの課題であり、その根絶に向けて誰もが性犯罪・性暴力の加害者にも、被害者にも、傍観者にもならないよう、社会全体でこの問題に取り組む必要がある。
 
まったくその通りで、「生命の安全教育」は今日の子どもにとって、是非とも行われるべき必要不可欠な教育と考えられる。

(問2)
 「生命の安全教育」が必要不可欠な教育だとして、それを学校で行うことは適切と言えるか。
(答え)
 現在の日本において、ほぼすべての子ども(というのは高校に進学しない子どももいるからだ)に、組織的・計画的、一定水準以上の教育を施そうとしたら、学校を通して行うしか方法がない。したがって学校で行うのが最適であると言える。

(問3)
 「生命の安全教育」が必要不可欠な教育で、かつ学校で行うべき内容だとして、実施に伴う教員の負担増(超過勤務、過重労働、研修の必要)、さらには突然新しい内容が入り込むことによる体育や道徳の教育課程の圧迫などは、受忍範囲のものといえるだろうか。
(答え)
 子どもに必要な正しい教育を行うに、ためらうことは許されない。負担増といっても年間3時間程度の授業時間の増加と推定される。さらに今回は文科省より丁寧な教材が公表され、今後、モデル授業の実践例などの調査研究も行い、学校現場での指導の活性化を目指すとの予告もある。実際に始めてみれば大した負担とは言えないと考える。

 

【指導の実際】

 「生命の安全教育」は必要だと思う。切実さから言えば英語教育やプログラミング教育よりもはるかに重要だと思う。また学校以外にやれるところがないという点にも同意する。
 しかしだからといって「子どもに必要な、正しい教育を行うに、ためらうことは許されない」と言われれば苛立つし、「実際に始めてみれば大した負担とは言えない」と重ねられたら「フザケルナ」と返したくなる。
 指導の実際はそれほど簡単なものではない。

 今回公表された「生命(いのち)の安全教育」で使うパワーポイント仕様の教材)を見たが、まさかあれをそのまま子どもに見せ、画面を読んで終わりというわけにはいかないだろう。良く整理されていてイラストもそろっており、授業の最後のまとめの資料としてはいいが、学年別になっているのでもなく中学用・高校用とひとまとめだからそのままでは使えない。
文科省「性犯罪・性暴力対策の強化について」からダウンロードできる)

 教師はまず教材を見ていつも通りそのままでは使えないことを確認し、「教員向けの手引き」を読んで趣旨等を学び直す。
 単元(ひとまとまりの学習内容)の目標を立て、何時間でできるか計算し、指導案の大まかな流れを考えて1時間ごとの目標をつくる。教材スライドのどれがどう使えるかを吟味し、不足の資料を探して新しいスライドを作成し、前後をそろえる。指導案を完成させ、リハーサル。
 ベテランの教師なら指導案は頭の中で書いて終わりだが、若い教員はそういうわけにはいかない。丁寧なものでなくてもいいが一応の流れくらいは紙にして、過不足・遺漏・齟齬はないか確認しておいた方がいいだろう。ちなみに私の場合、こうした特別な授業では必ず書いた。

 保護者からのクレームのつきやすい領域だからその点でも事前の準備が必要だ。
「教員向けの手引き」にも、

  • お便り等を通じて保護者に対して、事前に授業のねらいや内容について伝え、授業後もその様子を伝える。
  • 授業後に保護者から相談が寄せられた場合は、状況に応じて児童生徒への聞き取りや専門機関の紹介を行う。
  • 授業の保護者の参観については学校の判断とするが、参観を可能とすることも考えられる。

とある。ぬかりのないようにしておかねばならない。事前にねらいや内容を知らせるとなると授業案は授業日のかなり前に完成しておかなくてはならない。授業後に様子を伝える以上、児童生徒用アンケートも用意して、あとでまとめることも必要だ。

 

ひたすら追加される新しい仕事は、教師の生命の安全を脅かす

 繰り返しになるが「生命の安全教育」は必要だと思うし、学校以外にやれるところがないという点にも同意する。したがって「生命の安全教育」を撤回しろとか内容を縮小せよとかは言わない。現場の教師に努力してもらうだけだ。
 しかしこれだけは記憶にとどめておいてほしい。

 これによって教員の負担は確実に増加する。

 
現在、学校が背負っているもの全体からすれば相対的に微々たるものだが、絶対量としては少なくない負担だ。これまでもこうした「大したことのない負担」が積み重なって、学校を追いつめてきた。
 性教育、人権教育、平和教育、国際交流教育、環境教育、薬物乱用防止教育、メディア・リテラシー教育、キャリア教育、防災安全教育、小学校英語、プログラミング教育・・・

 今後も、ハラスメント防止教育、有権者教育、消費者教育、金融教育、ギャンブル等依存症予防教育など、「教育の力に期待するしかない」といった言い方で次々と「新しい教育」が入り込んでくるだろう。

 もはや小学校の「教科担任制の推進」だの、「部活動の見直し」「外部人材の配置支援」だの――「十分には」という意味ではできっこない弥縫策を掲げても無意味だろう。
 今こそ、文科省都道府県教委も、市町村教委もマスコミも、そして社会全体も覚悟を決めるべきだ。
 今後も学校のブラック化は進み、多くの教員が病み、病んだ一部が不祥事を引き起こし、早期退職が後を絶たず、新規採用試験受験者も減り続けるだろう。その結果、日本の学校の教育力は下がり、下がった原因は教員の自覚不足・能力不足と指摘され、さらにブラック化は進む。

 日本の学校教育という巨人に、大量のアリがたかって倒してしまうようなものだ。