キース・アウト

マスメディアはこう語った

文科省が学校への持ち込みを許可したスマホで、子どもたちが盗撮をすることがあるからしっかり指導しろって、オイ! 「教師の働き方改革」「労働時間の削減」はどうなってるんだ!

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(写真:フォトAC )

 

記事

 被害者にも加害者にもなる中高生…スマホ悪用「校内で盗撮」目立つ

(2021.03.28 読売新聞)

www.yomiuri.co.jp

  スマートフォンの普及が進み、学校現場でスマホを使った盗撮などの事件やトラブルが相次いで表面化している。生徒が校内で盗撮し、児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で摘発されるなど、軽率な行動が罪に問われるケースが目立つという。進学などで新たにスマホを手にする子どもが増える季節を迎え、専門家は「児童生徒には事件に巻き込まれないことに加え、加害者にならない教育も必要だ」と指摘する。(沢井友宏)

「加害者、想定外」
 「まさか校内で盗撮事件が起きるとは……。想像もしていなかった」。九州北部の高校の教員はそう振り返る。同校では昨年度、スマホのカメラによる盗撮事件が発覚。新年度から、トラブルを引き起こさないように注意を喚起する教育を始める。

  警察や同校によると、男子生徒は数人の友人らとともに、カメラを起動させたスマホを教室などに置き、着替えをする女子生徒の写真や動画を撮影。児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造)などの容疑で書類送検された。警察が男子生徒のスマホを調べたところ、複数の盗撮画像が出てきた。

  同校では、放課後に塾に通う生徒もいることから、スマホの携帯は許可する一方、校内での使用は禁止してきた。ここ数年は、授業でSNSを悪用した性犯罪などに巻き込まれないように注意を呼びかけていた。

  教員の一人は「被害防止は意識してきたが、加害は想定外だった」と悔やみ、「幼い頃からスマホを持つ子どもが増え、しっかりとした指導が必要だと感じた」と話した。同校では新年度から警察などと連携し、生徒や保護者に対して具体的な加害事例を示しながら指導していく方針という。

(以下、略)

 

【当然、予想されたこと】

 取材に応じた高校教師が本気で、

「まさか校内で盗撮事件が起きるとは……。想像もしていなかった」

などと思っていたとしたら、とんでもない大バカ者だ。

 校内における生徒による盗撮事件など、いくらでもあるだろう。一度も指導したことがなかったのか?

 教員と違って児童生徒の盗撮はニュースになりにくいが、有名なところでは一昨年、2019年1月15日に東京都町田市の都立高校で、挑発に乗せられた教師が生徒に暴力を振るい、その様子を生徒が盗撮。その日のうちにツイッターに上げられるという事件があった。

kite-cafe.hatenablog.com
 また2020年には奈良県生駒市で男子中学生が同級生のスカートの中を撮影、動画や静止画を生徒間で売買したという事件も起こっている。

kieth-out.hatenablog.jp
 こうした前例を思いだしただけでも、子どもたちが加害者となることは容易に想像がつこうというものだ。

 おそらく生徒指導の問題として校内で処理され、表には出ないもののスマホを使った犯罪の数は教員よりはるかに多い。なにしろ児童生徒は教師の数より何十倍も多いし、中高生男子の性欲はしばしば制御の効かない暴れ馬だ。確率からすれば圧倒的に多くなるはずだ。

  それを「まさか校内で盗撮事件が起きるとは……」と驚いて見せるのは、

「生徒を十分に疑って盗撮を予想していたのに、結局、防げなかったバカ教師」と「生徒を信じていたのに裏切られた誠実な教師」を秤にかけて、後者をとっただけのこと。新聞記事としてもその方が収まりがいいので、記者もそのまま採用した(あるいは捏造した)のだろう。

 

スマートフォン:本来は子どもに持たせてはいけない道具】

 ケータイ・スマートフォンは便利な道具だが同時に非常に危険なものでもある。

  私は決して忘れないのだが、2004年に奈良市内で起こった小1女児殺害事件では、娘を必死に探す母親の携帯へ「娘はもらった」と言うメッセージとともに少女の遺体写真が送りつけられてきた。少女自身がもっていた携帯で撮影され、そのまま送信されたものだ。親は娘の登下校を心配して持たせたが、携帯は誘拐に際して何の役にも立たないどころかそんな悪用のされ方をしたのである。

 これは最も極端な例だが、出会い系サイトを通して少女が誘い出されたり、ネットいじめにあったり、ケータイ・スマホを媒介にした犯罪、ケータイ・スマホがなければ起こりえなかった犯罪は、数え上げたらきりがない。

  そうした犯罪から(そして記事にあるような子ども自身が加害者となる危険から)、児童生徒を守るためには何をどうしたらよいのか――。

  答えは簡単である。あんな悪魔の道具を子どもに持たせなければいいのだ。少なくとも学校に持ってこさせなければ、子どもが道具に触れる時間は半分以下に減らせる。

 ところがここに、たいへんな壁が立ちはだかる。親と文科省である。

 

 【危険なものは親も子どもも文科省も大好き】~苦労するのは学校

 昨年6月、親やマスコミの要求に耐えかねた文科省は、わざわざ専門家会議を設けて、

小中学校では携帯電話の持込みは原則禁止だが、中学校では一定の条件のもと持込みを認めることが妥当だ

という結論を出し、全国に通達した。文科省が「許可する」と言えば「全員もってこい」というのと同じだ。多くのの小中学生が学校に持ち込んでいるに、ウチの子だけ(ウチの孫だけ)に我慢しろと言える両親・祖父母は少ない。

kieth-out.hatenablog.jp ただ闇雲に持ってこられては困るから文科省も、

学校や教育委員会が持込みを認める場合、一定の条件として、学校と生徒・保護者との間で「学校における管理方法や、紛失等のトラブルが発生した場合の責任の所在を明確にすること」「フィルタリングが保護者の責任のもとで適切に設定されていること」「携帯電話の危険性や正しい使い方に関する学校および家庭における指導が適切に行われていること」の3つの事項について合意がなされ、必要な環境の整備や措置が講じられていることが求められる。

てなことを言う。

 今回、このブログで引用した読売新聞の記事にも、

専門家は「児童生徒には事件に巻き込まれないことに加え、加害者にならない教育も必要だ」と指摘する。 

とある。

 さあ結論だ。私は声を大にして言いたい。

 ひとこと「ケータイ・スマホの学校への持ち込みは禁止」と言えばいいものを、さらに言えば元々そうだったのだから改めて言う必要もないのに、わざわざ持ち込みを許可しておいて、「学校と生徒・保護者との間で(中略)3つの事項について合意がなされ、必要な環境の整備や措置」を講じ、「加害者にならない教育」も行わなければならないとは!

 いったいどれほどの時間が必要だと思うのだ!?

 

 勝手に仕事を増やしておいて、それで「教員の働きかた改革」「長時間労働の解消」たあ、へそで茶を沸かすとは、このことだワィ!

 いい加減にしてくれ!

 

三条市:和食中心の給食に牛乳は変だからと廃止したが、先生たちが大変だとやかましいのでまた始めることにしました。

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記事

小中学校の牛乳ドリンクタイム廃止
   
三条市教委 現場負担配慮 4月から
(2021.03.03 新潟日報

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www.niigata-nippo.co.jp

 新潟県三条市教育委員会は4月から、牛乳を給食とは別の時間に飲む市内小中学校での「ドリンクタイム」を廃止することを決めた。牛乳が米飯給食に合わないなどの理由で2015年度に導入した制度だが、学校現場の負担感などに配慮し、方向転換する。市教委は「今後も、ご飯を牛乳で流し込まないといった食育指導はしていく」としている。

 廃止は、2月26日に開かれた市学校給食運営委員会で了承された。

 ドリンクタイムは国定勇人前市長時代、試験期間を経て、15年の2学期から市独自に導入。当時は完全米飯だった同市の学校給食と牛乳の食べ合わせが悪いことや、よくかんで味わうなど和食の正しい習慣を身に付けてもらうことなどが狙いだった。給食には「当たり前」の牛乳を切り離すことは全国的に注目され、一方では議論も呼んだ。

 牛乳を飲む時間は学校の判断に委ねられていたが、導入直後から、配る手間や時間確保の面から、給食時間直後に設けている学校が大半だった。

 また、過去の同委員会でも「給食後に牛乳だけを飲むのが苦手な子もいる」といった保護者の声が出されたこともあった。

(以下、略)

 

 記事は今月3月3日のものだからだいぶ賞味期限は過ぎてしまったが、気づいたのが最近なのでしょうがない。

 私は毎日かなり熱心に教育関係のネットニュースを拾っているがこの内容は見落とした。いや、もしかしたら全国規模ではほとんど扱われなかったのかも知れない。

 始まるときにはあれほど大きな扱いだったのに、終わるときはひっそり(というか「こっそり」)というのは教育関係ではありがちなことだ。

 

【問題の経緯】

 問題は2014年、米どころ新潟の三条市で週五日の給食がすべて米飯になったところから始まった。その際、当時の市長が「米飯に牛乳は合わないだろう。子どもにはきちんとした和食の伝統を教えたい」とか言い出して、学校給食から牛乳をなくす方向で検討がなされた。

 今、当時を振り返って記事を探すと、元は保護者からの訴えということになっているが、私の記憶では市長の発案だ。もしかしたら財政当局から提案があって教育委員会が抵抗できなかったという話かもしれない。

 

 さらに牛乳廃止の理由として、当時の西日本新聞の記事を見ると、

おかずも魚やつくだ煮、みそ汁など和風を増やしたため、牛乳よりお茶が合う献立となっている。

牛乳を1パック200ミリリットル飲むとおなかに入る食事量は当然減る。まずは主食やおかずをしっかり食べる習慣が、子どもの発育に大切

ということも挙げられたらしい。

 牛乳をなくすことで失われるカルシウム摂取については、

小魚やゴマのふりかけなどカルシウムに配慮した献立を充実させるほか、米飯やおかずの増量で補う

とした。

www.nishinippon.co.jp

 ところがその年の12月から年度内いっぱいの4か月間、試行してみたところ、牛乳ので得られるカルシウムを他の食品で摂ろうとすると著しくメニューが固定化され、実際には困難なことが明らかになって来た。それはそうだろう、毎日、魚と佃煮、粉末煮干したっぷりの味噌汁ではかなわない。たまにハンバーグが出てもシラス入りだったり、カレーの具が肉ではなくてサバやツナばかりだったらやりきれない。

 

 そこで2015年6月、牛乳そのものはなくさず、給食から切り離して「ドリンクタイム」を設け、そこで飲ませることとして9月からの実施に踏み切った。

www.sankei.com

  記事によると、

ドリンクタイムに関しては可能な限り午前中の休み時間などを活用し、時間設定は各校の判断に任せる。

 また休み時間の子どもの負担が増えないように、牛乳は教職員が運んで配ることとなった。

 

 もっとも牛乳のために休み時間を減らされては子どももたまったものではないし、教員もその時間をただ遊んでいたわけではない。結局ドリンクタイムは負担の少ない給食の時間の中に含めることになり、「ごちそうさま」が済んだあとで一斉に飲む方式をとったり、食べ終わった子どもから飲むようにしたりといった学校がほとんどだった。いわば有名無実化していたわけだ。

 

 しかし食事中に牛乳が飲みたい子どもだっているだろう。

 カレーやスパゲッティといった味の濃い洋食だと、合間の牛乳はもってこいという子だっているはずだ(ちなみに私はカレーに牛乳は必須だと思っている)。

 そして今回の仕儀となった。

 

【翻弄される学校】

前市長も市も間違っていない。しかし先生が負担だというのでやめてあげる

 ただ私が気に入らないのは、元にもどった理由が、

学校現場の負担感などに配慮し

とされたことだ。

 

 すでにドリンクタイムが有名無実化した時点から、現場の負担なんかほとんどなかった。牛乳は給食と一緒に給食当番が運んで来ればいいのだし、空ビンは食缶や食器とともに片付ければいい。強いて言えばズルをして早めに飲んでしまう子がいないか見張るくらいの負担はあったかもしれないが、その程度のことを気にしてくれるならもっと別に気遣ってほしいことは山ほどある。

 

 もしかしたら三条市は市独自の牛乳補助を出していて、それを削減したかっただけなのかもしれない。ひとビン5円の補助金でも6000人ほどの児童生徒で1日3万円、年間だと600万円ほどになる。週5日の給食がすべて米飯になるのを機に、その600万円をまるまる浮かそうとして失敗したのが今回のことなのかもしれない。

 

 いずれにしろ「前市長がアホなので」、あるいは「財政当局が無能なので」、はたまた「教育委員会がバカなので」、こうなりましたとは言えないので、先生たちが大変なのでと恩着せがましく言って幕引きをすることにしたのだろう。

 もちろん今回も、

「給食後に牛乳だけを飲むのが苦手な子もいる」といった保護者の声が出されたこともあった

と市民からの要望があった(かのような)話も付け加えることを忘れない。

 結局、上の思いつきに翻弄されただけだが、教員は忙しすぎて新聞を読んでいる暇もないから、どれだけ弄ばれバカにされているか気づかない。気づいても文句を言う余裕がない。

  新潟日報は市の発表を真に受けて、批判もせずに記事にする。もっとも記事にしただけでもマシで、全国紙の大半は見て見ぬふりをするのだ。

 

体操服の「肌着禁止」は保護者の要望で始まったとは限らないが、体育のある日は肌着も持たせろと言われてウンザリする親も少なくないと思う。

f:id:kite-cafe:20210318113734j:plain(写真:フォトAC)

記事

体操服の「肌着禁止」、保護者の要望で始まった? 女優ツイートに注目も...川崎市教委「経緯は不明」
(2021.03.16  J-CASTニュース)

www.j-cast.com

    神奈川県川崎市立などの一部小学校で体操服の下の肌着を禁止していることについて、同県出身の女優・春名風花さん(20)が、保護者のクレームで禁止になったと自分の母親から聞いたとツイートして、話題になっている。

   春名さんの母親がどこの自治体の小学校のことを指しているかはっきりしないが、川崎市教委に一部小学校で肌着を禁止するようになった経緯などについて話を聞いた。

(ツィート写真略)

 

「汗をかいた肌着だと風邪をひく」との保護者の苦情で禁止に?

   肌着禁止が大きな関心を集めたのは、川崎市議会の予算審査特別委員会で2021年3月9日、山田瑛理議員(自民)が「多くの子どもが『嫌』と言っている」と問題提起したことがきっかけだ。

   市教委側は、そのような指導はしていないものの、運動後の汗で体を冷やさないようになどの健康面の配慮から、主に低学年で肌着を禁止している小学校が一部であることを認めた。これに対し、山田氏は、体育後は新しい肌着に着替えられるはずだと肌着禁止を止めるよう訴え、市教委も、見直しも含めて検討していく考えを示した。

(以下略)

 

 こんなことを特別委員会で話題にすることもないと思うが、今や、

「学校にはかなりの数の小児性愛者が教諭として入り込んでいて、そのうちの一部は他の行政区ですでに処罰されたにもかかわらず、免許の再取得で続けているらしい」

といった神話がはびこっているため、こういうことになったのだろう。

 多くの人たち、殊に女の子の保護者の一部は本気で学校を恐れている、そう考えると切なくもあり、教師たちにとっては屈辱だ。
 

【学校にとって大した問題ではない】

 いずれにしろ「小学生の肌着禁止は、体操着の上から子どもの裸を想像したい教師たちの発案」「男性教員が女子児童が下着を着用していないか確認、胸の発育状況なども目視している」とまで言われて続けるほどのことでもない。こんなきまりは早晩、廃止すべきだ。

「体育のある日は必ず肌着も持たせてください」と言われ、「たびたび肌着を忘れるので〇ちゃんはとても困っています」と連絡帳に書かれたりする親はウンザリするかもしれないが、市議会やマスコミで問題になるほどの重大事、せいぜい気を張って頑張ってもらいたい。

 

【発端はおそらくこうだ】

 さて、小学校低学年の肌着禁止については、必ずしも保護者のクレームが始まりということでもないと思う。

「子どもは汗かきではない、汗腺は密になっているだけで大人と数は変わらず、それぞれ汗腺の発汗能力は大人の半分程度しかない」

 といった話もあるが、身長が大人の半分なら表面積は四分の一、その四分の一の面積から大人の二分の一の汗が出てくるとすると見た目は2倍の汗になるだろうとか、

 いやいや身長170㎝の大人と80㎝の子どもを比べたら、地表面により近い子どもの方が2度近く高い気温のところで活動しているわけだから余計に汗をかくだろうとか、

 いろいろ言い方を考えてみたが、結局、経験的に、どう見ても夏の体育の授業では子どもはびしょ濡れになる、特に低学年ではそうだ、と言うに留めておく。さらに言えば子どもは体温調節が下手くそですぐに発熱し、すぐに下がる。したがって木陰に入っただけで寒いほどに冷えてしまうことがある。特に乾燥した地域ではそうだ。――と付け加えておこう。

 その様子を保護者のひとり、あるいは教師のひとりが見て、これはたいへんだ、体育が終わった後はできるだけ早く乾いたものを着せたい、そう考えたときにすべてが動き出す。おそらく今から何十年も前、小学生の体の発達が今ほど早くなかった頃のことだと思う。

 保護者、あるいは教員でも養護教諭あたりから提案されると、まさか将来、教師の性犯罪と一緒に論じられるとは思わないから一般の教諭も賛成してしまう。

 ひとつの学校でそれが始まると、教員やPTAの研修会を通して、あるいは教員の異動によってじわじわと全国に広まる。保護者の方が先に気がついて、学校に申し入れをすることもある。 

 おそらくそれが春名風花さんの言う「クレーム」の正体だろう。クレームではなく提案だ。学校のきまりいくつかは、同じ流れで決まってきたからまず間違いない。子どもを守ろうとする親心は校則になりやすい。

 【子どもの嫌がることはやめた方がいい】

 いずれにしろ初めに言った通り、何が何でも守らなければいけないきまりでもない。

「多くの子どもが『嫌』と言っている」

 それが理由なら、これからは毎日の宿題とか、メニューを自由に選べない給食とか、マラソン大会のようなシンドイ行事とかについても見直す(やめる)方向で考えていくべきだろう。

 

大人たちの事情が創り上げた「釜石の奇跡」という神話を、“真実”で解きほぐしていこうとする女性がいる。がんばれ!!

 f:id:kite-cafe:20210312122252j:plainフォトACより)

 記事

 「釜石の奇跡」は奇跡じゃない。あの日、報じられた“美談”から私は逃れられなかった

(2021.03.09 BuzzFeed)

www.buzzfeed.com

震災後、「奇跡」のストーリーを追うメディアの取材が相次いだ。釜石で起きたことに、「奇跡」という言葉は本当にふさわしいのか。


東日本大震災に襲われた岩手県釜石市。小中学校に通う子どもたちほぼ全員が避難し、津波を逃れた。

人口約4万人の市内で1000人を超える死者・行方不明者が出る一方、小中学生の99.8%が無事だったという事実は、一般に「釜石の奇跡」と呼ばれる。

なかでも、釜石市鵜住居地区で中学生が小学生の手を引いて避難したことは、徹底した事前の防災教育の成果で子どもたちが自主的に動いたと受け止められ、高く賞賛されてきた。

菊池のどかさん(25)は中学3年生だったあの日、小学生の手を引いて避難した。震災後、「奇跡」のストーリーを追うメディアの取材が相次いだ。中学校では防災を担当する委員会で委員長を務めていた。

だが、奇跡と呼ばれることに、戸惑いもあった。一時は、取材を避けるようになった。

あれから10年。大人になった菊池さんは釜石市第三セクター「かまいしDMC」に就職。震災の伝承と防災学習を行う「いのちをつなぐ未来館」で働く。震災のことを語り伝えるのは、仕事の一つだ。

釜石で起きたことに、「奇跡」という言葉は本当にふさわしいのか。

あの日、実際に何が起き、なぜ子どもたちは生き延びたのか。

10代半ばで「奇跡」の語り手となることを求められた菊池さんは、何を感じていたのか。

そしてなぜ、震災の伝承と防災学習に取り組む道を歩むようになったのか。

(以下、略)

 

 同じ内容はちょうど一年前、朝日新聞の記事を下敷きに書いた。

kieth-out.hatenablog.jp  しかし引用記事が有料だったために全体の3割程度しか見ることができず、あとは同じ記事の新聞評をあちこち読みながら類推した不十分なものだった。

 

 今回のBazzFeedの記事はタイトルが朝日新聞『本当は違う「釜石の奇跡」 24歳語り部が伝えたい真実』に対して『「釜石の奇跡」は奇跡じゃない。あの日、報じられた“美談”から私は逃れられなかった』とほぼ同じ。インタビューの相手も同じ釜石市第三セクター「かまいしDMC」の菊池のどかさん。したがって内容的に大きな違いはないだろう。

 全文が読める。有り難い。

 

【神話の始まり】

 「釜石の奇跡」という神話を創ったのは、現在東京大学大学院特任教授の肩書を持つ片田敏孝という人物である。当時は群馬大学の教授で、2004年から釜石市の防災・危機管理アドバイザーとして防災教育を主導してきた。

 その片田氏が2011年4月22日にウェブサイト「Wedge REPORT」に書いた、

wedge.ismedia.jpがはじめと思う。ご丁寧に英訳版もリンクされて、記事は全世界に発信され、もてはやされた。しかし事実は違う。

 

 記事は

 岩手県釜石市では、市内の小中学生、ほぼ全員が津波の難を逃れた。多くの人たちは、これを「奇跡」と呼ぶ。

で始まる。しかし当時、少なくとも全国的にそうした認識があったわけではない。なぜなら生存率99.8%なら隣の気仙沼市だってそうだったし、東日本大震災で死者行方不明者を出した市町村の中には、小中学生の生存率が100%だったところだってあるはずだからだ。

 学校は片田氏の指導のいかんに関わらず、子どもを災害から救う機能をもっている。74名もの子どもを死なせてしまった大川小学校のある石巻市でさえ、小中学生の生存率は98.6%もあったのだ。

 それを「小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない(私が指導したからだ)」と言うのはあまりにもおこがましいだろう。

 

【あの日、釜石で何が起こっていたのか】

 さらに言えば片田氏の広めた「釜石の奇跡」の内容もひどい。一例を示そう。

  釜石市鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校。地震が起きると、壊れてしまった校内放送など聞かずとも、生徒たちは自主的に校庭を駆け抜け、「津波が来るぞ」と叫びながら避難所に指定されていた「ございしょの里」まで移動した(右図参照-引用者が削除)。日頃から一緒に避難する訓練を重ねていた、隣接する鵜住居小学校の小学生たちも、後に続いた。

 ところが、避難場所の裏手は崖が崩れそうになっていたため、男子生徒がさらに高台へ移ることを提案し、避難した。来た道を振り向くと、津波によって空には、もうもうと土煙が立っていた。その間、幼稚園から逃げてきた幼児たちと遭遇し、ある者は小学生の手を引き、ある者は幼児が乗るベビーカーを押して走った。間もなく、ございしょの里は波にさらわれた。間一髪で高台にたどり着いて事なきを得た。

  ここには教職員の姿も住民の姿もまったくない。記事の印象からすればおそらく大人たちは生徒を置き去りにしてわれ先に逃げたか、生徒の後について避難してきたのだろう。一言も触れないことで、教師の無能さはむしろ際立つ。

 これをBazzFeedが伝える「事実」と比較すれば、いかに真実が曲げられたかはわかる。

 

 「釜石の奇跡」が事実でないことは、すでに2011年以来、釜石東中学校の生徒たちによって報告されていた。

www.nhk.or.jp その先頭に立っていたのが、震災当時の釜石東中学校防災委員長だった菊池のどかさんだ。朝日新聞やBazzFeedの取材を受けた「かまいしDMC」の職員と同じ女性である。

 

 しかしマスコミも世間も「真実」など欲していなかった。「賢く自立的な小中学生と無能な教師たち」という図式の方がよほど面白いし記事として売れるからだ。

 あの大川小学校だって児童が「山へ逃げよう」と泣きながら訴えたにもかかわらず教師が無能で74人も死なせてしまったではないか! というわけだ。

(ただしあのとき大川小学校にいて、ともに亡くなった地域の役員や住民を“無能”だとは、匂わせもしない)

 

【歪曲された事実に苦しめられた人、これから苦しむ人】

 そうした大人たちの悪意ある歪曲に子どもたちは苦しめられる。

「たしかに色々な出来事が重なり助かったことは、奇跡的だったとは思います。でも、本当に色々な人のおかげで今生きている。私たちが生き残るために一生懸命尽くしてくれた人たちがいて、私たちは、たまたま助かったんです」

「そうやって助けてくれた人たちがいっぱいいるのに、中学生が、自分たちで全部やったように伝えられていたことを、すごく申し訳なく感じていました。助けてくれた人たちを隠しているようで申し訳なかったし、何より亡くなった人たちのことを思いました」 

 菊池さんの言葉だ。

 

 「釜石の奇跡」に苦しめられた人は他にもいる。

 釜石東中学校の生徒と一緒に逃げた鵜住居小学校で事務員として働いていた女性の夫だ。

 「釜石の奇跡」では震災当日、隣り合う二つの学校にいた全員が助かったようにされているがそうではない。鵜住居小学校の事務の女性は今も行方不明のままだ。保護者からの電話対応に追われていたという話もあるがほんとうのところは分からない。その夫である人にとっても「釜石の奇跡」は受け入れられない。

www.sankeibiz.jp

 さらに言えば、全国の教職員が多かれ少なかれ「釜石の奇跡」の被害を被っている。

 釜石では子どもたちが教師の指示を聞かずに自主的に避難したから助かったが、大川小学校では指示にしたがったばかりに全員殺されてしまった。

 それが今や”真実“となってしまったからだ。

 

 もちろん、だからといって災害があったらできるだけ早く、教職員の手から自分の子を守らなくてはいけないと考えるような親はいないだろう。だが、教師は恐ろしく無能なのかもしれないという疑いを抱えた親に、育てられた子が幸せになるだろうか――。

 

 2019年の9月、私は大川小学校の廃墟のほとりにいた。数組の家族がそばにいたが、そのうちの初老の一人は、被災状況を記した掲示物を読んだあとで、

「こんなところに51分もいたなんて、――バカっ教師どもが!」

と吐き捨てるように言った。そして実際に地面にツバを吐いた。

 その様子を、二人の孫らしい子どもが見ていた。

 (参考)

kite-cafe.hatenablog.com

 

「教員採用の倍率を上げるには、今いる人たちを大事にすることが一番の広報」という視点は正しいが、仕事は減らさない、人は増やさないといった状況を放置して、大切にされている気分にさせるのは難しいんじゃないのか?

f:id:kite-cafe:20210226180530j:plain(写真:フォトAC)

記事

【教員採用の倍率を上げるには?(2)】今いる人たちを大事にすることが一番の広報  
妹尾昌俊 | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
(2021.02.26 Yahooニュース) 

news.yahoo.co.jp

 教員採用試験の倍率低下が注目されています。とりわけ公立小学校の教員については、競争倍率が過去最低を記録(2019年度)、しかも来年度から徐々に35人学級になっていきますから、教員確保は急務となっています。一度不人気になってしまうと、戻すのは簡単なことではありませんし、特効薬などありませんが、どうしていけばよいでしょうか。この記事で考えます。
 文科省は今月2日に「『令和の日本型学校教育』を担う教師の人材確保・質向上プラン」を発表しました。重要な内容も含まれていますが、もの足りない点や副作用のほうが大きいかもしれないと心配な点もあります。前の記事でわたしは3点指摘しました。

●教員採用試験の倍率低下の背景、要因にミートした対策となっているだろうか、という疑問。
●これまでの政策の検証や反省点がほとんど見えてこない問題。
●現職教員に対する政策が弱い(手薄である)問題。
※前回の記事:【教員採用の倍率を上げるには?(1)】 広報の充実では効果は疑問

 以下では、これら3点と関連することを、提案したいと思います。

■小中で約1万人が毎年教職から去っている。
 まず、かなり重要なデータを紹介しましょう。(スマホでは見づらいかもしれませんが)次の数字は、公立小中学校における離職者の推移です。ただし、定年退職(勧奨を含む)は除いています。3年ごとの統計しかありませんが、ここ最近の4時点を見るとそれほど大きくは変わっていません。むしろ15年度から18年度にかけては増加していますね。高校の教員は表からは省きましたが、直近の18年度の退職者数は 5,602人で、その前までは約5千人です。

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 小学校で言えば、1年間の離職者が6~7千人なわけですが、これは直近の新規採用者が約1万7千人ですから、割り算すると約4割になります。中学校でいうと、離職者は約4,500人で、新規採用者約9千人と比べると、約5割です。

 つまり、新規採用の4~5割もの数の人が毎年教職を去っているという現実があります。この規模をまた採用するとなると、かなり大変ですよね。

 教育委員会は「採用倍率が低下して困った困った」などと言う前に、あるいは「受験者数を少しでも増やしたいからPRビデオを作ろう、それから、採用試験をもう少し簡単にしよう(実技試験や模擬面接をカットしたりする例があります)」などと安直な方向に行く前に、この離職者をもっと減らす努力をされてはいかがですか?

(中略)

■今いる人たちを大事にすることが一番の広報
 わたしが申し上げたいことは、シンプルです。

 今いる人をもっと大事にしよう。各地の学校現場がいい職場だな、働きたいな、働き続けたいなと思えるものになれば、不本意な離職も減るでしょうし、おのずと教師を目指したいという人も増えてくるでしょう。
(以下、略)

 タイトルが気に入ったし、筆者が前回(2021.02.20)ケチョンケチョンに書いた妹尾昌俊氏なので好意的に取り上げようと思って熱心に読んだが、大したものではなかった。
「今いる人たちを大事にすることが一番の広報」
というなら、どうすることが「大事にすること」になるのか、ご自身の言葉できちんと語るべきだと思った。

 

【どういう覚悟で語っているのか】

 いつもそうだが、妹尾氏の発言は抽象的・理念的で、それが実際の場に降ろされたときに何が起こるかという具体的なイメージがない。
 例えば前回の、
髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。それに、仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択
も、本気でそれを“家庭の選択”と受け入れる覚悟があるかどうか不明だ。

 その家の生徒と保護者は学業や部活動に集中でない生き方を受け入れた。その子の近くで影響を受けた別の生徒とその保護者も、学業や部活動に集中できない生き方を選択した。そして学校全体、ひいては日本国全体が学業や部活動に集中できない生徒の多く存在するあり方を選択した、それでいいのかということだ。影響というのはそういうものだ。

 もちろんそういった行き方を選ぶ国々もある。
 アメリカ合衆国もイギリスも、フランスやイタリアも全部そうだ。何よりも自由を貴ぶこれらの国では個人に“ダメになる自由”も認めている。したがって「PISAOECD生徒の学習到達度調査)」で順位が下がっても国を挙げてブーブー言うことはないし、生徒指導は親の責任で、学校で手に負えなければ他の学校を勧められるだけだ。
 妹尾氏が日本をそうした国にすることも含めて語っているなら、腹の据わった論客として私も引き下がろう。しかし氏の他の論説を読むととてもではないがそこまでの覚悟はなさそうだ。

【専門の指導ができる部活動指導員を、いったい何人そろえればいいのだ?】

 今回について言えば(引用部分にはないが)文科省の対応を高く評価して、
国等は部活動指導員などの予算取りなどでたいへん努力はしています
などと言っているが、この制度の現実的な意味は理解できていない。

 例えば私の住む市には12の中学校があるが、そのすべてに吹奏楽部がある。部活動を教師の手から離して指導員に任せるとなると、12人の音楽に堪能な人間を見つけてこなくてはならない。しかも低賃金で、朝(7:00~8:00)と晩(16:00~18:00)だけで登校して指導できる人、土日のいずれかで半日指導を行い年間を通して休みたくても代替えはない、それでもいいという人材を12名もだ。むろん部活動はひとつではないからバレーボール部でもバスケットボール部でも野球部でも、部活動の数だけ集めてこなくてはならない。
 国は金を出すだけで、人を探してくるわけではない。地方自治体や学校にそれができるとも思っていない。単にアリバイ作りのための話をしているだけなのだ。それが分かっているのか?

 妹尾氏はまた、教員が早朝に出勤して夜も遅い時間に退勤している現状を踏まえて、
 通常の組織(企業や行政)では客が開店時間より前に来て、閉店時間の後も居座り続けているなんて、ありえないことです。これも、海外の学校と異なる「日本型学校教育」らしさなのでしょうか?この伝統も見直していく、またはちゃんと別のスタッフを置くということをやっていかないと、教師の授業準備時間や学び続けていく余裕は戻ってきません。
と書いている。
 そうだ、ここが本来なら膨らませるべき部分なのだ。

 仕事を減らすかスタッフを増やすか、はたまた両方を同時に行うか――。
学校現場がいい職場だな、働きたいな、働き続けたいなと思えるもの
となるためにはそこから始めるしかない。しかしそれもあまり重要視していない。

【まず、隗より始めよ】

 ただしタイトルの「今いる人たちを大事にすることが一番の広報」は素晴らしいものだ。

 これについては中国の古書「戦国策」に有名な話がある。
「まず、隗より始めよ」
現代の日本では「上の者から襟を正せ」みたいな誤用しかされていないが、本来は妹尾氏の言わんとすることと同じで「人材が欲しければ、今ある者を優遇せよ」だ。
私はこの話をあちこちで何度も扱っているが、本当に良い話なのでここでも記しておく。
妹尾氏もここまでとは言わないが、もっとポイントを絞った話をすべきと思う。

(参考)「まず隗より始めよ」
 紀元前4世紀の末頃、燕(えん)の国は隣の斉(せい)の国に国土の大半を占領され、国王までもが殺されてしまった。そこで、次に即位した昭王(しょうおう)は、何とか国の力を回復させようと考え、そのためには優れた人材を集めることが重要だと思い立った。そこで宰相の郭隗(かく・かい)に相談した。すると、隗はこう答えた。
「昭王よ、こんな話があります。
 昔、ある君主が千金を出して1日に千里を走る名馬を買おうと思いましたが、3年たっても見つける事ができません。すると、宮中にいたある男が進み出て、私が買ってきましょうと申し出たので、その男に千金を渡して買いに行かせたのです。その男は千里の馬を見つける事ができましたが、惜しくも一足違いでその馬は死んでしまっていたのです。すると、何を思ったか男は、死んだ馬の骨を五百金で買って戻ってまいりました。君主は、死んだ馬を五百金も出して買ってきたことを怒りました。しかし、その男は言ったのです。
『あわてずに少々お待ち下さい。王は死んだ馬にさえ五百金出したのだから、生きた馬であればもっと高く買うだろうと考え、人々は続々と良い馬を持ってくることでしょう』
と、はたして1年も経たないうちに千里の馬をたずさえた者が3人も現われたそうです。
 今、昭王が賢者を集めたいとお思いならば、まずこの隗を重く用いる事です。あの凡庸な隗でさえあれほどの厚遇を受けているのだからと、全国の有能な士が次々集まる事でしょう。」
 昭王はその話を聞き、隗のために立派な宮殿を建て、特に厚く遇した。すると、そのうわさは各国に伝わり、趙(ちょう)の名将である楽毅(がくき)や政治家の劇辛(げきしん)、陰陽学者の鄒衍(すうえん)などの優れた人物が集まりはじめたという。そして、ついに昭王は斉の国を破るだけの国力を得ることに成功した。

ひとの迷惑にならず、危険さえなければ、子どもたちは何をやってもいいと専門家たちは言うけれど、それで果たして、苦しい勉学を続けていけるものだろうか。

 それが現状とどれほど乖離していようとも、学校が常に求め、支えようとするのは「学ぶことを尊び、先人に対する畏敬を忘れず、教師・生徒双方を尊重し合い、共に高め合って行こうとする気風」だ。それを学校のアカデミズムという。
 学校にアカデミズムがなければ、苦しい勉強に耐えていくことなどできないではないか、と教師は考える。しかし影響力のある教育評論家たちは、人の迷惑にならず、危険でもなければ、あとはどうでもいいじゃないかと言っている。
という話。

f:id:kite-cafe:20210220222829j:plain(写真:フォトAC)

記事

【大阪の黒染め校則訴訟】なにが争点だったのか、校則は誰かのためになっていたのか?
妹尾昌俊 | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
(2021.02.18 Yahooニュース)

news.yahoo.co.jp
 大阪府立高校の女子生徒が髪を黒く染めるよう強く指導されたことが原因で不登校になったと訴えた裁判の判決が今月16日にありました。


 大阪地方裁判所は「髪の染色や脱色を禁止した校則は学校の裁量の範囲内で、頭髪指導も違法とはいえない」とする判断を示しました。(中略)一方で生徒が不登校になったあと学校が教室から机を撤去したり座席表や名簿から名前を消したりしたことについては許されないと判断し、33万円を支払うよう大阪府に命じました。

NHKニュース2021年2月16日

 なにが争点、論点だったのか、判決にはどのような問題があるのか、この記事で詳しく見ていきます。
(中略)

この判決の問題点(1) 校則と生徒指導の必要性はあったのか、深い検討がない。

 この判決には多くの問題点があるとわたしは考えます。ここでは、2つにわけて申し上げます。

 第一に、頭髪に関する校則と生徒指導に関して、学校側に広範な裁量を認めた上で、それらの中身については、「社会通念に照らして合理的」と述べるにとどまり、本当に必要性があったのかどうか(目的が妥当だったかどうか)や手段の適切さ(相当性)について突っ込んだ検討をしていないことです。

 判決が言うように、学校側には校則を制定したり、一定の規律を生徒に求める指導を行ったりする権限はある、と考えることは合理的です。

 たとえば、ある高校は自転車や原付での登校を禁止している、としましょう。それは、駐輪場のスペースが取れないからだとか、登校時間帯に自転車等が集中することで交通事故になりやすいといった配慮があるためとします。これは、まともな理由がある上での校則なり指導ですから、多くの人が合理的だと思われるのではないでしょうか。

 また、授業中に再三にわたって騒音を出すなどして、授業の進行等の邪魔をする生徒がいたとします。その生徒を別室指導にしたりすることは、他の生徒の学習権を守るためでもありますから、合理性があります。

 しかし、本件の校則と生徒指導は、どうでしょうか?

 当該生徒の地毛が茶色なのか黒色なのかは重要な問題ではない、とわたしは思います。どちらだったとしても、髪の毛の色が多少茶色だからといって、ほかの生徒の学習に邪魔になるということはほぼないでしょうし、事故等を誘発するというたぐいのものでもありません。

 つまり、この生徒は、髪の毛の色のせいでは、おそらくだれにも迷惑をかけていないのです。にもかかわらず、黒染めを再三にわたり求める学校側の姿勢、またそれに従わないからといって、別室指導にしたり、文化祭等にはほかの生徒と一緒に参加させないよと半ば脅したりするというのは、必要性の高い「指導」であり、かつ、手段としても妥当と言えるものでしょうか?個人的には「指導」や「教育」の一環とみなすことにも躊躇しますが。

 高校側は、高校生に学業や部活動に集中させるために、頭髪に関する校則や指導があると主張し、裁判所もこの点をほぼそのままトレースするかのように認めています。

 ですが、髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。それに、仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択であり、学校側が一律に事前規制する必要性のあることなのでしょうか。

 さらに申し上げると、仮に学業がうまく進まない事態になったとしても、高校の授業の質や教え方がマズイかもしれないですし、中学校までの教育の反省点などもあるはずです。ほかの要因もたくさん考えられます。つまり、染髪⇒学業や部活動の不振という因果関係があるのかどうかはあやしいのに、そう学校が言っているからと、裁判所はそのまま鵜呑みにするというのは、いかがなものでしょうか。


問題点(2)生徒指導が生徒の学びに向かう力を阻害していることを問題視していない。

 別室指導、ならびに文化祭や修学旅行への参加を躊躇させるような今回の学校側の働きかけは、生徒の学習権や高校で学びたいという意欲を棄損する恐れのある行為だったと思います。現にこの生徒は長期の不登校になりました。

 そもそも、高校は義務教育ではないとはいえ、多様な生徒たちに学習の場を保障し、成長していくためのものなのに、校則に基づく生徒指導が、その高校のミッションや果たすべき機能に照らして逆に作用していた可能性があります。

 原告の言うように、生徒指導の名を借りた「いじめ」であったとまで言えるかどうは評価が分かれると思いますが、高校は一部の生徒につらい思いをさせて、勉強したくないようにさせる機関ではないはずです。それに、高校生とはいえ、学校側、教師の側が権力を握っていることが多いわけですから、生徒指導に従うかどうかは生徒の意思、任意だったという裁判所の判断も、はなはだ疑問です。

 ちなみに、この高校(府立懐風館高校)の教育目標のひとつには、「自分の殻を破り、挑戦し、豊かな感性や広い視野を手にする人材を育てる」とあります(現状のものであり、当該生徒が通学していた当時のものとは異なる可能性があります)。

 校則でがんじがらめにしておいて、自分の殻を破れとは、矛盾しているように見えます。当時の教員は多い時期には4日に1回も頭髪指導をしていたのですが、校則を守らせることが目的化したようなことを行う暇があるならば、もっと生徒が挑戦する場をつくることに知恵と時間を使うべきだったのではないでしょうか。これは法律論というよりは、学校経営や教育実践上の問題ですが。

 関連して、この判決の大きな問題点のひとつは、生徒は学校が決めたことには黙って従え、とも読めるメッセージです。仮にこの判決が確定したとしても、多くの高校等で、生徒は学校の指導には黙って従うべき存在だという認識、教育観が強固になってしまうのは、新しい学習指導要領などの理念とも衝突しかねません。

 もちろん、前述のとおり、交通事故防止などの合理性のある校則ならば従うべきでしょう。ですが、なんためにあるのかよくわからないような校則に、服する義務があるというのは、生徒の主体性や問題解決力、リーダーシップが重要視されている今日においては、時代遅れの認識と言えます。OECDが最近よく使う理念では「エージェンシー」とも呼ばれます。

 情緒的な表現となりますが、率直に申し上げて、今回の一連の生徒指導と争いで、当該生徒はもちろんのこと、周りの生徒も、また学校側も府教委側も、誰もうれしくなっているとは思えません。黒髪に執拗にこだわる校則と生徒指導は、結局、誰かのためになっていたのでしょうか?高校にかぎりませんが、多くの学校は、生徒が幸せになる力を高める場所であるはずです。そもそも校則はなんのためなのか、もっと言えば、学校はなんのためにあるのかから、問い直す必要があると思います。

【ネット世界の片隅で“バカ”と叫ぶ!】

 Yahooニュースにたびたび長文を掲載している妹尾昌俊という人について、私は知るところが少ない。
 記事の最後にあるプロフィールによると、
徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演などを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省、埼玉県、横浜市等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、岐阜市公教育検討会議委員等を歴任。合同会社ライフ&ワーク代表、NPO法人まちと学校のみらい理事。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『こうすれば、学校は変わる! 「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』、『「先生が忙しすぎる」をあきらめない』など。
ということだが、社会的にどう評価されているのか、ネット上でどういう地位にあるのかもわからない。

 記事にコメント欄がないので一つひとつの記事がどういう受け取りをされているのかもわからない。賛同者が大量にいるのか、あるいは私のように腹を立てているからついつい記事を読んでしまう人間ばかりなのか――。
 しかしいずれにしろ、この茫洋としたネット世界の片隅で、それでも誠実に一生懸命記事を書いている私からすれば、これほど日本の公教育を理解していない男のいい加減な記事が、日本最大級のポータルサイト“Yahoo”に繰り返し載せられ、なおかつ中央教育審議会部会委員として日本の教育行政に関与しているというのは、忸怩たる思いであり、情けなく、腹立たしい。

 やっかみだ、僻みだ、嫉妬だといくらでも言ってかまわない。しかし間違っているものは間違っている。

 

【学校にはアカデミズムが必要である】

 何が間違っているか――。
 今回の記事で言えばここだ。
 髪の毛の色が多少茶色だからといって、ほかの生徒の学習に邪魔になるということはほぼないでしょうし、事故等を誘発するというたぐいのものでもありません。
 部分を切り取ったとは言わせない。少なくとも今回の記事については全編を通して、妹尾氏が校則を「人に迷惑をかけるかどうか」と「危険回避」という二つの基準でしか考えていないことは明らかだ。
 しかし校則にはもっと重要な働きがある。それは「秩序と公平性の確保」だ。

 「秩序」というのは学びの場として学校の機能・理念・雰囲気等のすべてをいう。
 学ぶことを尊び、先人に対する畏敬を忘れず、教師・生徒双方を尊重し合い、共に高め合って行こうという気風――一言でいえばそれは「アカデミズム」だ。

 ものごとを学び習うこと(学習)は、この国において千数百年前から苦痛をともなうものだった。だからこそ古代の学僧たちはそのことを、中国語で「強制」を意味する「勉強(強いて勉める)」と呼んだのだ。今では古いタイプの八百屋や魚屋だけが「勉強しましょう」と本来の意味で使う言葉だが、学習が今日に至るまで「勉強」と呼ばれ続けるのは、それが一度もディズニーランド的あるいはコンピュータ・ゲーム的楽しさおもしろさで行えずにきたことの証明である。
 学習の厳しさは王侯貴族ですら回避することはできない。そのことを私たちは「学問に王道なし」といってきた。だれでも知っていることだ。

 人間は弱い。ことに人格も確立していないのに誘惑ばかりの多い子どもたちは弱い。その子どもたちを誘惑から守り、苦しい「学習」に向けていくにはさまざまな工夫が必要だった。
 日本国憲法を始めとする様々な法整備、校舎や敷地などの構造物、学校教育目標、貴重な先人の言葉を描いた扁額、名画の数々、壁の掲示物、校長講話、担任講話、制服、文房具――なかでも大切なのが「ともに学んでいこうとする気概・雰囲気」=学校のアカデミズムである。
 それは学校の永遠の課題であり、どんなに荒れすさんだ学校の教師でも、決して忘れることのない永遠の目標なのだ。良い環境の中で学ばせたい!

 さて、そこで問題になるのが学校のアカデミズムと髪染めは両立するかということだ。

 答えは明らかである。
 髪は赤くしたがそれ以外のファッションにはまったく興味がなく、遊び仲間を求めることも繁華街に行くこともなく、ただひたすら勉学に励む――そういうことのできる特別な人間を除けば、普通は無理だ。
 人間は弱い。髪を赤くすれば服装も変えたくなる。服装が変われば誰かに見せたくなる、それにふさわしい行動もしたくなる。そして学校中にそんな子が溢れたら、誰が苦しい勉強に耐えていけるものか。

 

【識者はしばしばエリートのことしか思わず、一般人には冷たい】

 そう思ってもう一度本文に戻ると、妹尾氏の言葉はさらに空しく響く。
髪の毛が何色であっても、学業や部活動が活性化しない、とは限りません。
 
たしかにそうとは限らない。しかしこう語るとき、妹背氏の頭の中にいるのは矛盾するものを両立させることが可能なスーパー・エリート中高生だけだ。

 仮に髪の毛のことにうつつをぬかし、学業や部活動に集中できない生徒がいたとしても、それはその生徒または家庭の選択であり
 たいていの子は髪やファッションにうつつを抜かすと学業や部活に集中できなくなる。普通の子はまだまだ弱い。そんな弱い子に対して“識者”たちはいつも自己責任論を持ち出す。
 その生徒または家庭の選択
 冷たいものだ。

 さらに申し上げると、仮に学業がうまく進まない事態になったとしても、高校の授業の質や教え方がマズイかもしれないですし、中学校までの教育の反省点などもあるはずです。
「とにかく子どもは悪くない」を起点にものを考えると結局「学校が悪い」「教師が悪い」というところに落とさざるを得なくなる。こんな人が中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員だとしたら、改革は教員を多忙にする方向にしか、向かわないだろう。

 

【言い漏らしたこと】

 ひとつ言い忘れた。公平性を守る校則の性格についてだ。
 しかしこれについて多言は要しないだろう。

 世の中には経済的理由や親の教育的信念によって髪を染められない子がいる。それもかなりいる。そうした子たちのために、学校を「染髪しなくては来られない場所」にしてはいけないということである。
 妹尾氏も、
高校は一部の生徒につらい思いをさせて、勉強したくないようにさせる機関ではないはずです
と言っているように、すべての子どもが通うことのできる学校――それが公教育の大原則である。
 政府が私立学校にすら多額の補助金を出し、市町村が給食補助をしたり就学援助をしたりするのもすべてそのためだ。とんでもない額の血税を使って維持しているこうした政策を、私たちも支えて行かねばならない。

 同じ理由で、私は小中学生の学校へのスマホの持ち込みにも、入学式や卒業式が華美になることにも反対する。この点に関しても、
 それはその生徒または家庭の選択であり
といった自己責任論は取らない。

 妹背氏はまた、次のようにも言っている。
 当時の教員は多い時期には4日に1回も頭髪指導をしていたのですが、校則を守らせることが目的化したようなことを行う暇があるならば、もっと生徒が挑戦する場をつくることに知恵と時間を使うべきだったのではないでしょうか。
 この部分にも賛成だ。
 頭髪指導などバカげている。生徒がさっさと染髪を諦めてくれればこんなことにはならなかった。そのためにもやはり、生徒は髪を染めて学校へ来てはいけないのである。

 

どうやら大阪地裁はブロンドやブルネットの外国人留学生でも高校が黒く染めさせることを認めたらしい――という誤報まがいの記事が出た。

 たとえ地毛であっても赤っぽい髪は黒く染めなくてはならない。
 そんな恐ろしい判決が大阪地裁から出たらしい。
 これで大阪府内の高校は金髪や赤毛の留学生を受け入れることが難しくなった。
 しかしそんなことがあるのだろうかと、関西テレビの視聴者は訝るだろう。
という話。

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(写真:フォトAC)
 

記事

 地毛なのに”黒染めを強要された” 女子生徒が大阪府を訴え 
「指導に違法性はない」と判決

(2021.02.16 関西テレビ

www.ktv.jp


大阪地裁は「教師らは地毛が黒髪だと認識し指導するなどしていて、違法とは言えない」とした

通っていた府立高校で茶色の地毛を黒染めするよう強要されたとして元女子生徒が大阪府を訴えていた裁判の判決で大阪地裁は頭髪指導については「違法性はない」と認定しました。

訴えによると大阪府立懐風館高校に通っていた女性(21)は、生まれつき茶色っぽい髪の毛で、中学校で黒染めを強要された経験があるため、入学するにあたり、保護者が高校側に配慮を求めていました。

しかし、高校の教員は女性に対し、髪を黒く染めるよう繰り返し指導。

女性は頭皮に痛みが出るほど何度も黒染めして登校しましたが学校側から「黒染めが不十分だ」などと言われ続け、2年生の9月から不登校になったということです。

また、3年生になり、学校に戻ろうと面談に行くと、出席名簿から女性の名前が消され、教室から席が無くなっていたとということです。(下線部は原文のママ)

女性は「生徒指導の名の下の『いじめ』だ」として、大阪府に約220万円の損害賠償を請求。

これに対し大阪府は…

大阪府教育委員会・向井正博教育長(2017年)】
「学校側は生まれつき黒髪であったことを前提として指導したということ」

府側はこれまでの裁判で「女性のもとの髪の色が黒いことを教師3人が髪の根元を見て確認している」などと主張。

名簿から名前を消したことなどについては「不登校状態が目立たないようにした」として訴えを棄却するよう求めていました。

16日の判決で大阪地裁は黒染めの指導について「教師らは女性の髪を直接見て地毛が黒髪だと認識し指導するなどしていて、違法とは言えない」としました。

一方で、学校が名簿や席を排除したことについては、「不登校の状態にあった女性の心情に配慮したものと言えず、裁量権の範囲を逸脱し違法」として大阪府に慰謝料などとして33万円の支払いを命じました。

判決を受けて学校の校長は…
(以下略)

 【「タイトルに誤りがあっても記事を読めばわかる」という悪質】

 マスコミはしばしばウソではないが真実でもない記事を平気で世に送り出す。その手法はさまざまだが、引用した記事はタイトルに詐術を施した点で特に悪質だ。

 毎日マスメディアから排出されるニュース記事が何千あるか知らないが、おそらくそのすべてに目を通している人はいないだろう。たいていは見出しにさっと目を通して世の中の動向を感じ取り、必要なものだけを拾い上げて丁寧に読む、そんなやり方をしているにちがいない。テレビだったら関心の薄いものはぼんやりと聞き流し、興味のあるものがあれば本腰を入れて視聴する、そういうものだろう。

 したがってタイトルで印象を操作されると間違ったものでもそのまま記憶され、定着してしまう、だから厄介なのだ。その場合、「本文をしっかり読めばわかる」「キャスターの話をしっかり聞けばわかる」は言い訳でしかない。

 そこで引用した記事のタイトルだが、
『地毛なのに”黒染めを強要された” 女子生徒が大阪府を訴え 「指導に違法性はない」と判決』
 これを読んで人は何を感じるだろう? 特にクォーテーションマーク(“”)の位置が気になる。
 クォーテーションマークは会話や引用を示すためにつける符号だから「黒染めを強要された」だけが引用であって、その部分は被告の主張だから真偽のほどは関西テレビのあずかり知らぬところだ、ということだろうか。すると他の部分、「地毛なのに」と「女子生徒が大阪府を訴え」と「『指導に違法性はない』と判決」については事実ということになる。

 日本の裁判所としたら極めて異例で、かつ、あってはならない判決だろう。実際にやるかやらないかは別として、大阪府は金髪の留学生でも黒染めを強要する権利を認められたのだ。そんな無体なことがあっていいはずがない。
――それがこのタイトルから与えられる印象である。

 もう一度読んでみよう。
『地毛なのに”黒染めを強要された” 女子生徒が大阪府を訴え 「指導に違法性はない」と判決』
もちろんそんなことはない。

【判決の内容】

 各紙の内容を概観するとこの裁判で争われたことは次の3点にまとめることができる。

  1. 生徒の染髪などを禁止した校則ならびに生徒指導の方針に違法性はなかったか
  2.   原告女生徒に対する指導に違法性はなかったか
  3.   原告女生徒が不登校になったあとの学校の対応(席をなくす、名簿から削除する等)に違法性はなかったか

 このうち1については他紙によると、
 高校は必要な事項を校則等によって一方的に制定し、これによって生徒を規律する包括的権能を有しており、生徒も学校の規律に服することを義務付られるとし、そのうえで本件の校則も、社会通念に照らして合理的なものであり、学校の裁量の範囲内のものとして違法とはいえないと判断した。
 つまりこの程度の校則を定めることに何ら問題ないとした。

 2.については私が引用したこの記事にある通り、
「教師らは女性の髪を直接見て地毛が黒髪だと認識し指導するなどしていて、違法とは言えない」
 つまり生まれつき茶色っぽい髪の毛という女性の訴えを退けたのである。


 また3.については女性側の訴えをほぼ認めて、大阪府に33万円の支払いを命じている(請求は約220万円)。

 

【しかしテレビ局は認めない】

 原告女性の髪はもともと茶色っぽいものではなかった――それはこの裁判の肝だ。生まれつきの髪を強制的に染めさせようとしたという話だったから、マスコミは飛びつき、世間は怒った。それが嘘だったとなると世論は一気に冷える。

 考えてみれば、
 頭皮に痛みが出るほど何度も黒染めして
というのも、
 黒く染めたものをまた赤く染めて、さらに指導を受けて黒く染め直しといったことを繰り返し行ったからそうなったのであって、なんど染めても黒くならない染料などそうはないだろう
という疑いも生まれてこようというものだ。

 しかし関西テレビは何としてもこの裁判を「地毛の茶髪であっても黒く染めさせる高校と教委の強権体制、そして裁判所の頑迷」という話にしたいらしい。

 不当判決と書かなかっただけでも、まだましということだろうか――。


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