キース・アウト

マスメディアはこう語った

絶対に怒るはずがないと思って挑発したハゲ教師に怒鳴られ、恥をかき、傷ついた中学生が、復讐を果たし、復活するまでの物語

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育毛剤チラシめぐり生徒に「ふざけるな」 教諭が一方的に25分叱責
(2023.12.01 朝日新聞デジタル

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 福岡市立中学校で10月、30代の男性英語教諭が、自身の頭髪をめぐり、授業を担当する男子生徒の首をつかんで廊下に連れ出し、25分間にわたって叱責(しっせき)していたことが分かった。生徒の言い分を聞かないまま一方的に指導をしており、市教育委員会は不適切だったとして処分を検討する。

 学校や市教委によると、教諭は10月27日午後、教室で授業を始める直前に、育毛に関するチラシを持っていた生徒に対し、事情を聴かずに「何だこれは」などと言って肩を押し、首元をつかんで廊下に連れ出し、25分ほど指導。さらに「ふざけるな」「25分間、授業ができなかった。どうしてくれる。代わりに授業をしろ」などと責めたという。

 チラシは生徒のところに誰かが置いたとみられる。生徒は指導を受けた後、登校できなくなることもあり、オンラインで授業を受けるなどしたという。学校は、教諭を生徒のクラスの英語担任から外すことを決めた。

 文部科学省が定める教職員向けの生徒指導の手引「生徒指導提要」は、不適切な指導例として「生徒の言い分を聞かず、事実確認が不十分なまま思い込みで指導する」と示しており、市教委は教諭の行為がこれに該当すると説明している。

 市教委の聞き取りに、教諭は「頭髪にコンプレックスがあった。期末考査前で最後の追い込みをしないといけないと思い、テスト対策をしてきたのに、侮辱をうけ、気持ちが折れた」などと話しているという。また生徒について、「心を傷つけてしまった。謝罪したい」などと反省の言葉も述べているという。

【個性と独創性にあふれ、自主的で行動力に満ちた子どもたちの危険】

 昔、昭和の、まだ暴力団うしの抗争の激しかったころの話である。
 ある中学生がとんでもない事実に気づき、友人とともに自ら試してみることにした。それは、
暴力団事務所の前で爆竹を鳴らすと、強面のおっちゃんたちがうろたえて飛び出してくるのでおもしろい」
という事実だ。
 確かに大のおとなが爆竹を拳銃の発射音と勘違いして、一斉に飛び出して来るような世界は、この日本国内おいてはここだけだろう。きっと子どもたちにはほんとうにおもしろかったのだろう。しかし普通の人は気がついても試したりしない。それでもやろうとするのが子どもだということだ。
 
 そうやって何回か遊んでいるうちについにひとりが捕まってしまい、仲間も呼び出されて事務所で説教を受けたという。ここまでは私が実際に新聞で読んだことだから(新聞が嘘を書かない限り)ウソのない話だが、事務所では恐ろしげなおっちゃんから「こんなことをしていちゃあ、ロクな人間に育たん」と諭されたというのは、私がつけたオヒレだ。

 子どもの自主性だとか行動力、独創性、個性といったことが話題になると、よく思い出すのがこの話だ。実に独創的で個性的、行動力・自主性どれをとっても申し分ないが、だからといって彼らの行動を誉め、他の子どもたちに勧める気はない。
 私たちが自主性だの独創性だのと言って持ち上げるときは、その前に声には出さないカッコ書きの《正しいことを行う上での》があるのであって、誰もやらないことを自分からやるなら何をやってもいい、ということではないのだ。
 
 この事件は半分笑い話で終わったが、障害が残るほどの暴力を受ける可能性も、無事手打ちを済ませてそのままリクルートされる可能性もあった。世の中にはやっても試してみてもいけないことがたくさんある。
 もう中学生にもなったのだから何か実際に行う前に、頭の中で試行(シミュレーション)してみて、危険ならば回避する、深追いはしないというのが最低限求められる能力である。子どもたちには小さなころから、そうした危険回避の技術を身につけさせておく必要がある。子どもたちにはそれを学ぶ権利がある。

【一般に考えられているひとつの仮説】

 30代の若ハゲの教師に育毛剤に関係するチラシを見せて、「これ、先生のですよね」と言えば面白いことが起こるはず、普通のおとなだったら怒鳴ったり殴ったり何をするか分からないが、よもや教師がそんなことしまい。だったらどう出てくるのか、いずれにしろ面白いことになるはずだ、やってみよう――。
 一部の教育評論家なら手を叩いて喜びそうな、極めて独創的で個性的な発想を、呆れるほど迷いのない行動力と自主性で実施したところ、あに計らんや教師は激怒して25分間に渡って廊下で叱責を受けた、そのときの中学生の衝撃と屈辱は想像して余りある。
 なんたる見通しの甘さ、なんたる道化。クラス全体どころか廊下を通して全学年、あるいは全校に知れ渡ってしまったじゃないか。25分間も曝し者になったわけだ。
 
 ただしその復讐は難しいものではなかった。細かな法律上のことは分からなくても、中学生が教師から一方的に追い詰められて、ただで済むはずがない。そんなことは保育園児だって知っている。
 ぼくはただ机の上にあったチラシ(それを持って来たのがぼくだったのか他の誰かなのかは大した問題じゃないけど)を先生のものだと思って返しに行っただけなのだ。それをこんな目に遭わせて! 家に帰ったらパパに報告しなくちゃ。こんなにボロボロになったぼくの心を、パパが放っておくはずがない――。

 かくて訴えられた市教委や学校は対応せざるを得なくなり、連絡を受けたマスコミも取材に行かなくてはならなくなった――。その意味でこれは、
 絶対怒るはずがないと思って挑発したハゲの教師に怒られ、恥をかき、傷ついた中学生が、復讐を果たし、復活するまでの物語――
だといえる。これがありうべきひとつの仮説である。

 実際に起こったことが何なのか、引用した朝日新聞の記事からだけでは分からないが、もしこの仮説が事実だとしたら、生徒はこの先も大人を舐めて生きることになる。その歩む道が危険なものでないといいのだが――。
 ただし私には、この説が何となくしっくりこない感じもあるのだ。

【十分な情報が揃っていない可能性】

 このテのニュースを聞いた時、まず考えるのは「必要な情報が揃っていないのではないか」という可能性である。もちろん世の中には信じられないほど異常な思考形式を持つ人間もいる。しかし普通はそうではない。
 
 普通の保護者は、自分の子が学校でぞんざいな扱いを受けたとしても、たちどころに学校(校長)や教委に訴えようとはしない。たいていは長い長い期間に渡ってさまざまに伏線が張られ、(主観的には)我慢に我慢を重ねた上でもう耐えきれなくなって、ようやく訴えるという手段を取るのである。
 したがって今回のような、内容的には教師に分があるように見える事件も、実は保護者にとってはコップの水が溢れ出す最後の一滴だったということもありうる。今回の割り切れない報道も、そうした幾多の伏線にまったく触れていないから突飛な感じがするだけで実はよく分かる話、ということもあるかもしれない。

【誰が問題を公にしたのか】

 しかし最も考えられるのは、今回この件を問題として市教委やマスコミまで巻き込んでおおごとにした人物は、実は養毛剤チラシには直接かかわらない、クラスの別の生徒とその親だという可能性である。

 特に暴言問題ではよくあることとして、のちに加害教諭とされる教師と被害者とされる生徒の間に深い人間的関係があって、乱暴なやり取りが友達どうしのような親近感を高める働きをしていることがある。
 二人だけだったらそれもいい。しかし傍で見ている生徒の中には快く思っていない者もいて、その子の報告を心待ちにしている保護者もいる場合がある。子どもが家に持ち帰る学校批判の糸口が、何よりの好物という大人も少なくない。
 そうなると当事者の思惑とは無関係に事態は動いてしまう。
 
 育毛剤チラシ問題の場合、25分間に渡って叱責を受けた生徒がそのまま深い反省に至るということもあるし、そうでなくても普通の親だったら教師に謝罪こそすれ訴えたりはしない。下手に訴えれば学校全体、あるいは地域までも敵に回しかねないからだ。
 しかし匿名の生徒、匿名の保護者だったらそんな心配はいらない。“被害者”がこれ以上の事態の問題化は望まないと言ったところで、
「人権問題だから被害者本人がいいと言ったって。それで済む話ではない」
 そう言って火に燃料を注ぎ続ければいいのだ。

【傷ついた教師たちは手を引く】

 いずれにしろこうした事件が起こるたびに教師は傷つき委縮する。子どもからどんなに傷つけられても、耐えて忍ばなければならない教員の姿を見た学生たちは、教師だけにはなってはいけないと固く決心する。そして一部の子どもたちは万能感に酔い痴れ、親の半分が一緒に喜び、もう半分が恐怖する。
 教師たちは思う。ただでも余裕はないのだ。もう子ども多少の悪さには目をつむろう、人は懲りるまで本当のことを理解しないのだ。暴力団事務所前で爆竹を鳴らしたらどうなるか、学校以外の場で大人の髪の毛の薄さを嘲笑ったらどうなるのか、実際に試してみるといいのだ。私はもう手を引きたくなった。さらばだ。

「いまだに福井県では学校のトイレ掃除を子どもがやっているらしいよ。全国的には外部委託にしているところもあるのにね」――と、文章としては間違っていないが正しくはない記事を目にして、人々はどんなことを考えるのだろう?

(写真:フォトAC)

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小学校で児童がトイレ掃除…福井県外で育った女性「驚いた」 県内大半の公立小中で児童生徒が担当、全国的には外部委託も
(2023.11.21 Yahooニュース)

(見出しは違うが元記事)
児童が学校のトイレ掃除「驚き」…県外読者の指摘で調査 県内小中学校のほぼ全てで児童生徒が担当

(2023.11.21 福井新聞ONLINE

 福井県外で育ったという読者から「県内の小学校で児童がトイレ掃除をしていて驚いた」との投稿が、福井新聞の調査報道「ふくい特報班」(通称・ふく特)に寄せられた。投稿者が通っていた学校では、トイレ掃除は業者が行っていたという。県教委などによると、県内ではほぼ全ての公立小中学校で児童生徒が担当。全国的には外部委託するケースはあるものの、児童生徒が担う学校が多数派のようだ。

 投稿者は県内在住の60代女性。ふく特のLINE(ライン)に「公立の小学校から高校までトイレ掃除は業者がしていたので、娘や孫が(福井県内の)学校でトイレを掃除していて驚いた」とつづった。

 県内のある中規模小学校でトイレ掃除の事情を聴いてみた。この学校では昼休み後の15分間、1~6年生が学年をまたいだ縦割りで校内を清掃し、トイレは教員の見守りの下で5、6年生が担当している。清掃は火、木、金曜の週3日。教員の働き方改革の一環で児童の下校時間を繰り上げるため、数年前に従来の週5日から減らしたという。夏休みは教職員が校内を清掃するほか、PTAも年1回、奉仕活動でトイレなど校内を一斉に掃除している。

 新型コロナウイルスの流行後は教員がトイレを掃除していたが、今年5月の5類移行後に元に戻した。校長は学習指導要領を示しながら、児童がトイレなどの掃除を担う理由に▽自分で使う所は自分たちで掃除する▽奉仕や勤労、公共の精神を養う▽異なる学年間の交流が生まれる―などを挙げ、「教育的意義が大きい」と話す。

 県内小中学校のトイレ掃除について、県教委は「正確に全て把握していないが、公立の大半がトイレを含む校舎内の清掃を児童生徒が担っているとみられる」と説明。福井市教委や敦賀市教委も「各学校の判断」としつつ「ほとんどの小中学校で児童生徒が行っている」と答えた。

 全国的な傾向もほぼ同じようだ。ダスキン(本社大阪府吹田市)が新型コロナ流行前の2020年2月、全国各地の公立小中学校の教員計412人を対象に行ったインターネット調査によると、トイレ掃除を児童生徒が担っているとの回答は83・3%(小学76・7%、中学89・8%)。児童生徒以外とした学校は16・7%(小学23・3%、中学10・2%)だった。「児童生徒がトイレ掃除をしない場合、誰が担当しているか」の設問(複数回答)では、「専門業者に委託」や「用務の人」(施設技師)との回答が小中学校とも4割以上だった。


【なんと後味の悪い記事だろう】

 かつてほどではないとはいえ、マスコミ関係は今も人気の職業で、優秀な人間が集まりやすいところだと私は思っている。この記事を書いた記者もおそらく優秀なのだろう。それは確かだが、悪意をもってこれを書いたのか、単に無邪気なだけなのか、もし悪意の人だったら、これは相当に厄介な才能の持ち主だ。

 記事を要約すると、
「県外で育って現在福井県に在住する60代の女性の投稿をもとに、トイレ掃除まで児童が行う学校がどれほどあるか、子どもに掃除させることにどういう意味があるのか調べたら、どうやら教育的意義はとても大きく、福井県内の公立学校のほぼすべて子どもがトイレ掃除をしており、全国的にも子どもにさせるところが大部分のようだ」
ということになろう。
 大雑把に言ってその程度の内容であって、決して「学校職員がやれ」「外部委託にしろ」と言っているわけではない。全国的にも子どもがやるのが普通なのだからそのままでいいだろう、と言っていっている感じの文である。

 しかしそうだと分かっていても、読んだ後のこの後味の悪さは何なのだろう? いつものようにメディアに非難されたような、バカにされたような感じはどこから来るのだろう? --そう思って読み直すと、あちこちに文章上の仕掛けがあることに気づく。
 
 例えば少し離れたところにある次の二つの文章を、並べて読むとどんな印象になるだろうか?

  • ・校長は学習指導要領を示しながら、児童がトイレなどの掃除を担う理由に▽自分で使う所は自分たちで掃除する▽奉仕や勤労、公共の精神を養う▽異なる学年間の交流が生まれる―などを挙げ、「教育的意義が大きい」と話す。
  • 清掃は火、木、金曜の週3日。教員の働き方改革の一環で児童の下校時間を繰り上げるため、数年前に従来の週5日から減らしたという。

 校長自らが「教育的意義が大きい」と話すトイレなどの清掃は、火、木、金曜の週3日。数年前に従来の週5日から減らしたのである。しかもその理由が「教員の働き方改革の一環で児童の下校時間を繰り上げるため」
 教師が楽をするために教育的意義の大きい清掃は4割もカットされたというこの書き方、私が悪意か無邪気かと言うのはこのことである。悪意だとしたら相当に厄介な書き手だし、無邪気から来たものなら自らの文章の影響力について、もう一度学び直してもらわなくてはならない。

【不思議はむしろトイレ清掃のない学校の方だろう】

 そもそも県外出身者の投稿を見て、県内の学校の取材を始めたというところからして意味不明だ。投稿を読んで「投稿者が通っていた学校では、トイレ掃除は業者が行っていた」という内容に引っかかりを持ったら、まず調べるのは投稿者の通っていた学校の方だろう。
 
 清掃は日本の学校の大きな特徴のひとつで、エジプトなどでも数年前から日本をまねて学校清掃を始めているくらいだ(「日本式教育」で、子どもたちが変わる! エジプト)。常識的に考えても、日本中、少なくとも公立学校では児童生徒が清掃をするのは当たり前、トイレ掃除も例外ではない、そう考えるのが普通だと思う。
 実際に2008年、「横浜市は特別支援学校を除く全市立学校計500校で、児童・生徒によるトイレ清掃をおよそ30年ぶりに復活させる」というニュースが流れた時、大半の日本人が感じたのは「横浜市の子どもたち、トイレ掃除をしていなかったの?」だった。私もそうだった。
 ところが60代の女性が通っていた学校は、単純計算で最低でも54年前、横浜市に先駆けること10年以上前の1969年(昭和44年)ごろから、トイレ掃除を業者に委託していたらしい。どれだけ予算潤沢な自治体で育ってきたのか――私だったらむしろそちらの方に驚く。

 なぜ福井新聞はそんな素直な驚きに従って取材しなかったのだろう? 編集部のスタッフは、みな学校清掃のない豊かな地域の出身者ばかりなのだろうか?

福井新聞もYahooニュースも福井の教育に火をつける】

 それでも福井新聞は見出しが、
『児童が学校のトイレ掃除「驚き」…県外読者の指摘で調査 県内小中学校のほぼ全てで児童生徒が担当』
となんの色合いもないからまだマシだ。
 記事を転載したYahooニュースのタイトルは『小学校で児童がトイレ掃除・・・福井県外で育った女性「驚いた」 県内大半の公立小中で児童生徒が担当、全国的には外部委託も』
 確かに指摘すれば「全国的には外部委託もある」という事実を表題にしただけと言うに決まっているが、外部委託をにおわせることで世論を喚起しようという下心も見え透いているだろう。

 3年に及ぶコロナ禍を経て、日本人の衛生観念は必要以上に高まってしまった。学校で我が子がトイレ掃除をさせられているかと思うと気が狂いそうになる保護者だっているかもしれない。そんな声が多く集まれば、福井県の学校清掃もトイレ掃除を外部委託しなくてはならない。その予算は・・・。
 ある意味それは難しくはない。県や市が独自につけている教員定数外の教師(講師)を削ればいいのだ。そんなところからしか、予算を外して回せる場所がない。

 福井県は全国学テの成績も有数だから、少しぐらい教師が減ってもどうにかなるさ――と、福井新聞やYahooニュースは考えているのだろう。

【メディアが触れないこと】

 ちなみに、
「児童生徒がトイレ掃除をしない場合、誰が担当しているか」の設問(複数回答)では、「専門業者に委託」や「用務の人」(施設技師)との回答が小中学校とも4割以上だった。
とあったが、残る6割は誰なのだろう? 毎日来てくれる地域ボランティアもないだろう、PTAにやらせるわけにもいかない。すると自ずと6割の正体が見えてくる。しかし福井新聞もYahooニュースもその部分を扱わないのだ。

不登校のきっかけが「先生」だと言われれば教員も傷つくが、原因は「本人の無気力・不安」だと言われれば親も黙っていない。実は両者矛盾しない。だから「原因追及よりもこれからの子どものことを考えて行こう」という30年前の合意を、改めて見直そう。

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不登校のきっかけ、最多は「先生」 文科省調査と違う結果に 滋賀
(2023.11.15 毎日新聞

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 不登校の当事者と家族の実態と思いをまとめたアンケートの調査報告書を、滋賀県フリースクール等連絡協議会(柴田雅美会長)が公開している。それによると、回答のあった小中高生のうち、不登校のきっかけを「先生」(合わない、怖い、体罰、不信感など)と回答した子供が約3割にのぼり、最も多かった。また自由記述では、子供も保護者も、周囲の偏見や無理解について悲鳴を上げている実態も明らかになった。【北出昭】

 

要因は学校関係 国の調査と隔たり
 滋賀県東近江市の小椋正清市長が「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」「不登校の責任の大半は親にある」などと発言する前の調査だが、同協議会は「不登校フリースクールの問題を誤った知識や経験則だけで議論せず、不登校の原因は多岐にわたると知るきっかけにしてほしい」と呼び掛けている。

 同協議会は、文部科学省が学校を通じて毎年実施している「問題行動・不登校調査」は必ずしも実態を反映していないとして、県内で初めて昨年11月~今年1月、不登校の子供とその家族にアンケートを実施した。

 回答した小中高生75人のうち、「不登校になった年齢」は小学1~3年生が60%を占め、小学生全体で76%に達する。「不登校のきっかけ」(複数回答)で最も多い要因は、「先生」(合わない、怖い、体罰、不信感など)の23人。「友達」「身体不調」「カリキュラムが合わない」が同数の20人、「先生が誰かを怒るのを見るのがしんどい」(18人)、「勉強が分からない」(16人)など学校関係が多い

 一方、文科省の「問題行動・不登校調査」では、不登校の要因は「無気力、不安」(51%)▽「生活リズムの乱れ、あそび、非行」(11%)▽「友人関係の問題」(9%)など「本人」とする回答が際立っている。協議会は「結果が大きく違う。両方の結果を踏まえて解析が必要だ」と指摘する。
(以下略)

 そもそも不登校の児童生徒の学校に来られなくなった理由が、学校の先生個人の資質(「合わない」「怖い」「体罰」「不信感」)にあるとしたら、不登校問題はさほど難しくない。転校や進級・進学によって「先生」を代えればいいだけのことだ。緊急なら「とりあえず明日から隣のクラスに登校しなさい」で済む。しかし実際にそうならないのは、半世紀近い不登校の歴史から明らかである。

 不登校のきっかけが「先生」だとしても、それは個人としての教師ではなく、その子に「学校教育」を強制する、その子にとっては学校の窓口である「先生」なのだ。だから先生がいくら代わっても、相変わらず「先生」は怖い・合わない・不信感がある、ということになる。

 その意味では文科省の「無気力・不安」のうちの少なくとも「不安」とはまったく矛盾しない。私が経験してきた大勢の不登校児童生徒を思い出しても、
「あの子たちは不安なのだ」
と説明されればよく理解できるが、
「教師が合わないから、カリキュラムが自分向きでないから、行かないのだ」
と説明されるような、そんないかつく、強い子どもは、ほとんど見たことがなかった。

【そもそも合うはずのないものを並べてどうする】

 私には毎日新聞滋賀県版)の記者がどういう意図でこれを記事にしたのか理解できない。
 穏当とは言い難い滋賀県東近江市長の発言の周辺を当たっていたら、こんなアンケートがあった、だから扱ってみよう、そういった軽いノリで記事にしたのか――。しかしそれにしても扱いは雑で、これを転載したYahooニュースの腹も見えてこない。

 そもそも滋賀県フリースクール等連絡協議会のアンケートが訊いているのは不登校の「きっかけ」であって原因ではない。しかもアンケートの対象者は不登校児童生徒本人と家族なのだ。
 それに対して文科省の「問題行動・不登校調査」で問われているのは不登校のまさに「原因」であり、それも学校や教育委員会がどう見てどう判断したかという調査のまとめでしかない。

 選択肢も前者が、「先生」「友達」「身体不調」「カリキュラムが合わない」「先生が誰かを怒るのを見るのがしんどい」「勉強が分からない」といった子どもたちの生の声に近いものであるのに対し、後者は「無気力、不安」「生活リズムの乱れ、あそび、非行」「友人関係の問題」といった外部からの判断である。
 これでは合わないのが当たり前だろう。
 
 しかし取材し始めてしまった以上、何とか記事にしたくて、
「前者で子どもたちが『きっかけは学校だ』と言っているのに、後者で学校は「原因の多くは本人にある」と言っている、合わないじゃないか、だから両方の結果を踏まえて解析が必要だ」と、協議会担当者の声を借りて、再分析を提案しているのかもしれない。それが毎日新聞滋賀県版)の落としどころなのだろう。

【大事なところはそこか?】

 さて、
「いまさら不登校の原因やきっかけを探って責任者を炙り出し、追及したところで何の益にもならない。それより不登校児童生徒の将来について考えて道筋をつけるようにしよう」
――そういった合意ができてすでに30年にもなると思うが、いまだに原因追及に余念のない人が多い。
 私自身は原因なんて、40年近く前から不登校(そのころは登校拒否と言った)の対応に先進的な仕事をしていたフリースクール主催者:富田冨士哉の言った、
不登校の子が学校に行けないのは、学校が集団生活を強要するからだ」
でいいと思っている。
 ネット上には、
「人間関係で悩む子は自由時間が苦手。だから学校は授業と食事だけで下校するようにする。休み時間は5分休憩だけにして、中休みも昼休みもなくす。そうすればもしかしたら不登校が減るのではないかと思っている。遊びたければ放課後に。部活は自由参加に」
といった極端な意見も出ているが、不登校をなくすということだけを優先するなら、それもあり得ると私は思っている。

 ただしその場合は、
・教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。教育基本法第一条) 
だの、
・義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。(同第5条2項)
だのは変えてく必要もあるはずだ。
 しかしその前に、できることはまだたくさんある。 

大学の先生たちは呆れるほどマスコミ情報に毒されていることがあるよ。だからマイクを向けると、メディアの狙った通りの答えを出してきたりする。それをメディアが、お墨付きを得たとばかりに再び広げる情報のハウリング――。

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「教員は社会との交わりが薄い」「いかに学校の外へ出ていく環境を作っていくか」相次ぐ不祥事、教員の人手不足や長時間労働で専門家が提言 教職員の資質向上や育成をテーマに議論 
(2023.11.13 SBC信越放送 

newsdig.tbs.co.jp

 教員の資質をどう向上させていけばいいのか、専門家などが意見を交わす協議会が開かれました。
長野県庁で13日に開かれた教員育成協議会は、教員の資質向上や育成に向けた指針などを年に1度協議するもので、大学の教授や校長会の代表などが参加しました。
(中略)
一方、松本市の教員が盗撮をした疑いで逮捕された事件について、内堀繁利(うちぼり・しげとし)教育長は。
「今回も逮捕事案、出てしまいましたけど、根絶できるように、様々な工夫研修を通じたり、あらゆる段階、手法を用いて根絶に向けて取り組んでいきたい」

一方、信州大学教職支援センターの小山茂喜(こやま・しげき)教授は、教員と社会とのつながりの重要性を指摘します。
「社会との接点が非常に薄い職種。可能な限り学校とは違う社会と交わることで、自分たちの生き方を考える、いかに先生方が社会に出ていけるか、そういった環境を作っていけるかがある意味、人を育てることを考えたら最も重要なこと」

県教委は協議会の意見をふまえ、2024年度の研修計画などをまとめる方針です。

 小中校の教員を批判する決まり文句のひとつは「世間知らず」だが、教育系の大学教授を批判する決まり文句のひとつは「現場を知らない」だ。大学における研究は、しばしばとんでもない偽常識を前提に行われていたりする。四半世紀も前の話で恐縮だが、教育心理学の大学院に現職教員のまま内地留学した私が、突きつけられた現実がそれだった。

【研究者はマスコミに毒されている】

 テレビニュースを見ていると、ときどき「ネイチャー」だとか「サイエンス」だとかいった外国の科学雑誌の名前が出てくることがある。あれらは世界的に権威のある雑誌で、そこに掲載されるということは「“ほぼ確実で、価値があると評価された研究”だから安心して使っていいよ」とお墨付きをいただいたようなものだ。だから安心してゴールデンタイムのニュース番組で取り上げられたりするのだが、それと似たような心理学の権威は、国内の場合は、まず「心理学研究」。教育心理学に限っていえば「教育心理学研究」(通称:「教心研」)ということになる。

 研究者はそこに掲載された先行研究や類似研究を参考に、自らの研究テーマを決めたり深めたりするわけだが、約25年前、私が手にした「教心研」には、現場教師を困惑させるような研究がゴロゴロしていたのだ。
 例えば、
「日本の子どもたちは勉強を社会で戦うための武器だと考える傾向が強いため、学問の本質よりテクニックに走りたがる傾向がある」
 とうだ?
「日本の子どもは同級生を“ともに育つ仲間”として意識するよりも、“蹴落とすべきライバル”として意識しがちで、そのために健全な感性が育たない」
 いかがか――。

 その数年前まで、教育問題と言えば筆頭は「お受験」と総称される都会の子どもの過剰学習だった。6時過ぎに塾から帰って夕食を摂り、そこから保護者に送られてもうひとつの塾に向かい、2時間の受験勉強を続けて帰ってからは家で復習をする子。あるいはJRや私鉄を駆使して塾を何軒も掛け持ちする子たち。
 研究者たちはそうした、マスコミによって傾斜のかかった情報を前提に仮説を組み立て、妙な方向に研究を引っ張って行ってしまう。

 しかしそんな過剰学習は、都会の、しかもごくごく一部の子たちにしかない状況だった。私の住む田舎では、子どもたちの「学習過剰」どころか、相変わらずの「不勉強」が大問題だった。
「知識技能は社会で戦う武器にもなるんだから、もう少し勉強したら?」
「友だちは大事だけど、時にはライバルって思うことだって大切だよ」
と、そんなことを言っても、子どもは聞く耳を持たなかったのだ。

【社会との接点の薄い教師なんて本当にいるのか――いや、いる】

 さて、そこで信濃毎日新聞の記事だ。
「社会との接点が非常に薄い職種。可能な限り学校とは違う社会と交わることで、自分たちの生き方を考える、いかに先生方が社会に出ていけるか、そういった環境を作っていけるかがある意味、人を育てることを考えたら最も重要なこと」

 忘れては困る。
 義務教育学校――特に公立の小中学校に通って来るのは、すべて階層、すべての社会の子どもたちだ。そこには金持ちの家の子もいれば貧乏人の家の子もいる、裁判官の子がいて犯罪者の子もいる。聖職者の子も、性職者の子も、ヤクザ屋さんの子もいる。
 世の中の高級ブティックも、銀座の高級クラブも、百円ショップも、ワンコイン食堂も、普通はそれぞれ決まった顧客層が想定されているが、“学校”にはすべての社会の子どもたちがやってくる。それを、
「社会との接点が非常に薄い職種」
と表現するのはいかがなものか――。

――と言いかけて私は立ち止まる。

 

 そうだ、同じ「先生」でも、社会との接点が非常に薄い人たちもいる。
 それは4年以上も子どもを働かせずに済む豊かな家庭の子か、自らの力で生活費も学費も稼ぎ出すようなパワフルな子で、しかも厳しい受験競争勝ち抜くだけの優秀な頭脳を持った子どもとその親だけを対象にしていればいい国立大学の先生たち――彼らなら「社会との接点が非常に薄い」という表現もあながち間違っているとは言えないかもしれない。
 いずれにしろ、相手が大学教授とはいえ、お門違いの指摘にいちいち腹を立てる必要もないだろう。それにしても長野県教委、こんな人たちの意見をふまえ、2024年度の研修計画などをまとめる方針
で大丈夫なのか?
 
 

「ウチの子の給食は普通の子の1割程度でいい」と親が言っているのに、普通の子の6割程度の食事を食べさせようとした教師が、裁判で違法性を指摘された。しかし先生たち、負けるな。これは例外だ。栄養価の良く計算された学校給食を、90%もカットしていいはずがないじゃないか。

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強要…小食の女児に無理やり、給食を完食させようと迫る 母親から「食べられる量が他の児童の1割」と言われていた担任教諭、6割まで盛り増し さいたま市に賠償命令「許されない、違法と言わざるを得ない」
(2023.10.26 さいたま日報)

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 さいたま市立小学校で担任教諭が児童に対して給食の完食を強要していたなどとして、小学5年(当時)の女子児童とその両親らがさいたま市に対して慰謝料など約2900万円の支払いを求めた損害賠償請求訴訟の判決が25日、さいたま地裁であり、関根規夫裁判長は原告の請求を一部認め、市に33万円などの支払いを命じた。

 判決理由で関根裁判長は、女児の母親が担任教諭に対して完食できる給食量が他児童の1割程度であることを知らせ給食配膳量の減量などを求めていたにもかかわらず、担任教諭が他児童の6割程度の給食を配膳し続けたと判断。

 さらに文科省が学校給食について、食事を残さずに完食するという食育に取り組むことを推奨している一方で、食に関する健康課題を有する児童については個別の事情に応じた対応が重要という方針を示していることに言及。「食育の一環として児童の偏食を改善する目的が含まれていたとしても、(中略)食べられない量の給食を盛り増しし、事実上完食を強要するもの」であると指摘し、「担任教諭として許される程度を超えて行われた指導として、児童の人格権を侵害する違法行為であると言わざるを得ない」とした。

 訴状などによると、女児は2017年4月から多数回にわたって、食事量が極端に少ないにもかかわらず担任教諭から他児童と同程度の給食を配膳された上で完食を強要され、精神的苦痛や健康被害が生じたなどとして、さいたま市に対して慰謝料などの支払いを求めて21年に提訴していた。

 さいたま市教委教職員人事課は「手元に判決文がないためコメントは差し控える」とした。

【親が給食を9割減らせと言ったら、素直にきいていいのか】

 なんともよく分からない話である。記事のうしろの方に、
 食事量が極端に少ないにもかかわらず担任教諭から他児童と同程度の給食を配膳された上で完食を強要され、精神的苦痛や健康被害が生じた
とあるため、ネット上では過去に苦しい思いをしたことのある市民を中心に批判が沸騰! しかし落ち着いて見直すと表題には「担任教諭、6割まで盛り増し」とあり、本文にも「担任教諭が他児童の6割程度の給食を配膳し続けた」とあるから「他児童と同程度」は保護者の誤解だろう。
 ただそう考えても、本来“給食”は栄養士が子どもたちの成長を考え、きちんとカロリー計算・栄養計算をして提供している食事である。それをやたらと減らしていいものだろうか?
「せめて6割以上は食べてほしい」「食べるべきだ」と考えるのは、児童の健康に責任のある担任教師として当然ではないか、そんな気もする。「完食できる給食量が他児童の1割程度である」と親が言ってきても、はいそうですか減らしていたら、その子は餓死してしまうかもしれないのだ。

【成長期の子どもが、他の子の10分の1の食事でいいのか】

 しかしそれにしても世の中に、普通の人間の1割しか食べなくて、しかも健康に生きられる人間がどれだけいるのだろうか?
 カロリーだけをみても身体活動レベルが中程度の小学校5年生(10歳~11歳)女児が1日に必要な推定エネルギーは2109Kcal/日。この子がもし三食すべてにおいて他の子の1割程度しか食べられないとしたら、1日の摂取エネルギーは211Kcal程度ということになってしまう。1食につき70Kcalである。
 1食につき70Kcalはどの程度かというと、食パンなら5分の2枚、ゆで卵なら1個弱、野菜サラダ1杯といったあんばい。どら焼き1個(227Kcal)を食べてもシュークリーム1個(229Kcal)を食べても軽く1日分をオーバーしてしまうわけで、女の子とはいえ、その程度のエネルギーで毎日活動し成長を続けて行けるものか、はなはだ疑問である。この子、生きて行けるのか?

 そこで改めて記事を見直すと、この子が他児童の1割程度しか食べられないのは食事全般ではなく「給食量」だということが改めて注目される。判決文にも教師の情状として、「食育の一環として児童の偏食を改善する目的が含まれていたとしても」とあるから、どうやら1割しか食べられないのは給食がその子に合っていない、つまり偏食のためではないかと推測されるのである。
 
 そう考えると、裁判中に両親が1割しか食べさせなかったという虐待で告発されなかった理由も分かろうというものだ。そう言えば昔、私が担任した小学1年生の女児は、給食で食べられるものがご飯と牛乳、具のない味噌汁くらいしかなかったが、毎日家に帰るたびに元気よく、
「ただいまあ、おなか空いた~」
と言ってケーキやらお菓子やらを食べていたようだ。ショートケーキなら1個およそ300Kcal。朝も夜も同じようなものを食べているとしたら、カロリー問題はなんとかクリアできてしまう。もちろん、だからといってバランスの良い栄養摂取ができる訳ではないのだが――。

【実際に起こったことは多分これだ】

 さて、これで様子がだいぶ分かった。
 偏食のために出された給食の大部分が食べられない女児のために、担任教師はせめて6割程度は食べさせたいとあれやこれやと手を尽くす。ところが女児にはそれが苦痛で、再三再四、親に訴える。最初は聞き流していた親もやがて苛立ち始め、学校との交渉が始まる。そして何か決定的に気に障る事件が起こって親は叫び出す。
「給食なんて十分の一でも食べられればいいでしょ? その子の好きにさせてください!」

 ところが学校には学校側の事情がある。
 好き嫌いなく一生懸命食べるのに胃に入って行かない小食な子と、あれも嫌いこれも嫌いと言っているうちに食べるものがなって、家でのおやつを心待ちにするような子と、その二つでは教師の対応も違ってくるのだ。

 教室ではAの好き嫌いを認めてBの好き嫌いを認めないというわけにはいかない。児童生徒を公平に扱わない教師は“エコヒイキ教師”と言って学校で一番嫌われ、指導力を失うからである。
 もちろん食物アレルギーがあったり、一品か二品、食べられない食品があっても、学級内で認め合える程度ならいい。しかし《あれもこれも食べられない》《食べる努力もしない》子を、「そのままのキミでいいよ」と言ってしまったら、ほんの少しがんばれば苦手な食品を食べられるようになる子も頑張らず、苦手な食品はあれもこれも捨てられて食育もSDGsもへったくれもなくなってしまう。
 がんばることをやめてしまった子どもは「食の多様性」を獲得する、せっかくの機会を軒並み失ってしまうことにもなる。
 
 改めて言っておくが、他児童と同程度の給食を配膳された上で完食を強要するといった話ではない。子どもに必要だと計算され尽くした食事の、4割も削って食べてくれと言っているのに、9割減らさなければ食べられないと母子は言ってくるのだ。そしてその4割削減=6割強要が、裁判所から見ると「児童の人格権を侵害する違法行為であると言わざるを得ない」のである。
 納得できるか?

【担任の責任は百分の一ほど】

 私は納得できる。
 基本的に私はこの国の政府を信じている。この国の国会を信じ、司法を信じている。もちろん多くの不備や問題もあるが、今あるものを諦めて新しいものに代えたり、今あるものを見限って別の国に渡ろうとも思ったりはしない。この国でダメなら、どこの国へ行けばいいのだろう?

 したがってこの国の司法が、
母親から「食べられる量が他の児童の1割」と言われていた担任教諭』が、「『6割まで盛り増し』たのは「許されない、違法と言わざるを得ない」というなら、大部分はその通りなのだろう。
 そして当該児童の精神的苦痛や健康被害(=金銭に置き換えると2900万円)のうち、学校側には33万円、つまり1・1%程度の責任があるとうのだから、これも受け入れるしかない。1・1%は大した数字でもないし--。

 では残りの98・9程度の責任はだれが負うべきなのか――児童本人なのか、学校給食の十文の一しか食べられないような子に育ててしまった両親なのか、はたまた完食を推奨して手引きまでつくっている文科省なのか――。今回の裁判では明らかにされなかったが、それぞれ割合でそれぞれが背負わなくてはならないものだろう。

【何でもおいしく食べられる力は宝だ。先生たちがんばれ!】

 文科省の指示に従ったって「せめて6割くらい」と頑張った担任教諭や学校に責任があるとの判決は、今後に禍根を残すかもしれない。しかし教師たちよ、怯えて引き下がるほどのことはない。さいたま市の例はおそらくどこかで保護者との間に感情のもつれができてしまっただけで、親が高い弁護士料をかけてまで裁判に訴えようなどということはめったにない。さいたま市の学校より少しだけ慎重になればいいだけだし、ドジを踏んでも責任は1・1%だ。
 
 人は死ぬまでにおよそ8万回の食事を行う。時間にして平均20分と考えると総計26,700時間。そのたびに何でもおいしくたくさん食べられる力は宝だ。ひとりでも多くに子どもに、そうした幸せをつかんでもらいたいものである。
 だから先生たち、負けるな!

相次ぐ保育園バスや自家用車での子どもの置き忘れ事故に鑑み、埼玉県議会では大人の付き添わない登下校・公園遊び・お使い・留守番などを禁止する条例をつくろうとしている。子どもだけの留守番も虐待だという認識を深めるのだというが、総合的な学習の時間も小学校英語もプログラミング学習も、あるいは教員評価や全国学テも、こんなふうに始められたのかもしれないね。

(写真:フォトAC)

記事

 

子どもだけの留守番・外出禁止 埼玉・自民党県議団が条例案 順守困難の声も
(2023.10.05 東京新聞Tokyo web)

www.tokyo-np.co.jp 自民党県議団は4日、開会中の埼玉県議会9月定例会に、子どもだけでの留守番や外出を「置き去り」として禁じる県虐待禁止条例改正案を提出した。相次ぐ子どもの死亡事故を受けた提案。罰則はないが、条例案が想定する禁止行為は幅広い。他会派からは「共働きやワンオペ育児、ひとり親では守るのが困難。保護者が地域から監視されて孤立しかねない」との声も上がる。

 条例は、小学3年生以下の子どもを放置しないことを保護者など成人の「養護者」に義務付け、4~6年生については努力義務とする。自民によると、学童保育の主な対象が小学3年生までのため、学年を区切った。県民に禁止行為の通報も義務付ける。
(中略)
 4日の質疑では、伊藤初美氏(共産)が、改正案で禁止される具体的な行為をただした。答弁した小久保憲一氏(自民)は、成人の見守りのない状態での集団下校や公園での遊びなどを例示した。

 自民の田村琢実団長は同日の本会議後、改正案の狙いについて「『仕事だから、ちょっとだから留守番させてもいい』という社会慣習をどうにかしないと。虐待だという認識を高めたい」と報道陣に説明。学童保育やベビーシッターなどの需要を掘り起こし、整備拡大につなげたいと話す。施行後の経過を見て罰則を付けることも検討するとも説明した。

 改正案は6日の福祉保健医療委員会で議論。13日の定例会最終日に採決の予定で、可決されれば、2024年4月1日から施行される。(飯塚大輝)

【関連記事】全国初、子どもの置き去り禁止を明文化 埼玉県議会自民会派が条例改正案

 学校に関わる時事問題が扱われるとき、よく文科省教育委員会がやり玉に挙げられ、「文科省がアホだから日本の教育はダメになった」とか「教委はボンクラの集まりでロクなことをしない」とかいった言い方をされることがある。

 最近では教員の働き方改革に関連して校長に過大な期待が寄せられ、何もしてくれない反動で、こちらもボロクソに言われることが多い。
「お前が、授業時数を減らせばいいんじゃ! 1日を4時間授業にせい! 部活とは縁を切れ!」
 しかしいずれも気の毒な話である。

【悪いのは誰か――】

 校長が独自性をもってできるのは挨拶を書くこと、そして辞表を出すことくらい。あとはすべてが上から決まってくる。もちろんそうでない校長もいて、退職後、しばしば著書を出したり講演会に呼ばれたりして好き勝手を話しているが、大半は民間人校長で、敢えて民間人を採用した実績作りをしたい教育委員会が全面的にバックアップしているからできたことだ。だから見てみればいい、彼らの《改革》は校長が変わるとほどなくみんな元に戻ってしまうのだ。もともとやってはいけないことをさせているわけだから、当然そうなる。(*1

 

 教委も文科省も同じだ。彼らに期待されているのは言われたことを忠実に実現する現実化マシーンであって、独自にしていいことはほとんどない。決まったことをより安く、より早く、より忠実に現実化することが優秀さの証明だ。独自性なんていらない。
 自らの頭で考え行動していた昔は「官僚政治」と猛批判されるのが常だったが、今はそうではない。代わって《忖度》が批判されるようになったが、はっきり言葉にされない願いまで実現してこそ、一流の、プロの、立派な役人なのだ。
 
 では誰の願い、誰の思いが忖度され、実現されて行くのか――それはいうまでもなく議員である。
 国会の、特に与党議員が文科省に働きかける、都道県議会議員都道府県教委に、市町村議会議員は市町村教委に、それぞれ予算権を握りしめて自分たちの夢の実現を迫る、
「オレの夢を実現しないなら教育委員会に出している講師の予算、3人分くらいをほかに回しちゃうよ」
――実際にそう脅さなくても、要求を出すときの議員の目は恐ろしい。文科省も教委も屈せざるを得ない。なにしろ彼らは市民・国民の代表者なのだ、彼らの背後には市民・国民がいる。その言葉に従うのは、民主主義の第一歩である。

【真っ当なことを考えればいいのだが、往々にしてそうではない】

 その議員たちが、ときどき妙なことを考える。そして法律や条例までつくってしまう。
 次の選挙を勝ち抜くため、市民・国民におもねるだけのつまらないアイデアを思いつく人もいれば、これといった主義主張もないので新聞をあちこちひっくり返しては、より目立つ質問、マスコミ受けしそうな内容、市民・国民の賛同を得られそうな話を、なんとか探し出して議会に持ち込む人もいる。
 しかし子どもだけでの留守番や外出を「置き去り」として禁じる県虐待禁止条例改正案などという、あまりにも突飛なことを思いついた埼玉県議会自民党議員団は、どこからヒントを得たのだろう。
 
 記事では相次ぐ子どもの死亡事故を受けた提案と簡単に触れただけだが、関連記事として提示された9月28日の同紙記事を読むと、中間市牧之原市で起こった保育園バスの置き去り事件、北九州市津山市で起こった商業施設や職場の屋外駐車場での自家用車への子どもの置き忘れ事故、そうした事件からのことらしい。
 こうしたバスや自家用車への置き去り事件をなくすために、子どもだけで遊ばせることやお使いに行かせたりすることを「置き去り」として禁じる、ということらしいのだが、どうだろう? スジ、通っているかい?
 
 さらに改正案で禁止される具体的な行為を問われて提案者のひとりは、成人の見守りのない状態での集団下校や公園での遊びなどを例示したというが、そうなると登下校や子どもの遊ぶ時間は、責任のある大人が誰か一人以上はついていなくてはならなくなる。地下鉄に子どもだけで乗車して通学するなどという風景は、この国からまったくなくなってしまうのだ。留守番に高校生がいてもダメとなると、多くの大人は働きに出られなくなる。
 働くとしても、朝は学校経由で子どもを送り届けて出勤し、夕方は夫婦どちらかが迎に行くかシッターに依頼する。留守番はさせられないので、融通が利かないときは子ども全員を車に乗せて一緒に出掛けるしかない。アメリカ映画で見慣れた風景が、ここ日本の、埼玉だけで繰り広げられるわけだ――翔んで埼玉

 学童保育やベビーシッターなどの需要を掘り起こしといってもただではないだろう。しかもそれもこれも保育園バスや自家用車への置き去りをなくそうというところからの発想なのである。昭和オヤジのダジャレで言えば「ワケ、わかめェ」話だ。
 
 もしかしたら教科に囚われない総合的な学習の時間が必要だとか、英語教育は小学校の内から始めにゃならんとか、やっぱプログラミングだよなとか、教員を評価して通知票をつけろとか、道徳は教科書をつくって国が管理しなくちゃだめだよね、といったことは、みんなこんなふうにして決まったのかもしれないーーと私は本気で疑っている。

2023.10.10追記: 自民党埼玉県議団はこの改正案を取り下げた。そりゃ無理ないわな。*2

世界大学ランキング、日本の順位が上がると大きなニュースにならないのはいつものことだが、そろそろ仕組みが分かってきて、面白味もなくなったのかもしれない。「国家の威信をかけて学力を上げ、美人コンテストに勝ち抜こう!」! などと言われてもねェ。

(画像:パブリックドメインQよりターナーケンブリッジ大学」)

記事

 

世界大学ランキング、東京大学29位に上昇 英機関調査
(2023.09.27 日本経済新聞

www.nikkei.com

【ロンドン=共同】英教育データ機関、タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)は27日、今年の世界大学ランキングを発表した。東京大が前年の39位を上回る29位となり、京都大も68位から55位に上昇。他の大学も順位を上げ、日本の躍進が目立った。新たに指標に加わった「特許への貢献度」で好評価を得たのが影響した。


東京大は2015年以降で、日本の大学の最高順位だった。

今年は108の国・地域の1904校について研究の質、国際性、産業界への貢献度など5つの分野を総合的に評価。英オックスフォード大が首位、米スタンフォード大が2位で、英米の大学が上位10校を占めた。中国の清華大が12位、北京大が14位となった。

新指標となった特許への貢献度では東京大、京都大、東北大、大阪大、東京工業大などがいずれも高く評価された。THEの担当者は「日本では大学と産業界のつながりが強く、大学の研究内容が生かされやすいのではないか」と分析した。

東北大が250位以内から130位、大阪大が300位以内から175位、東京工業大が350位以内から191位、名古屋大が350位以内から250位以内にランクアップした。

一方、国際性や研究成果全般に関する指標では評価が低い傾向にあり、THEは「日本の大学は依然として国際競争力における難題に直面している」と指摘した。

 かつて、THEの大学ランキングで日本の大学の順位が下がった、20位圏内から落ちた、30位圏内からも落ちそうだ、などと毎年マスコミが騒いでいた時代、私のサイトあるいはブログでこの話題をあつかうことは定番だった。主張したのは次のような内容だ。

【国家の威信をかけて学力を上げ、美人コンテストを勝ち抜こう!!】

 THEの大学ランキングは大学の魅力度ランキングであって難易度ランキングではない
 ところがマスコミはそれを国内の難易度ランキングの上に被せ、「日本の大学の学力が下がった」「世界から遅れる」と大騒ぎするのが常だった。実質的に「国家を挙げて勉強させ、学力を上げて美人コンテストを勝ち抜こう!!」みたいな訳のわからない話だが、マスコミは百も承知で人々を煽った。
 日本はダメだ、政府はダメだと言っていれば記事の売れる時代だった。

 しかしさすがに10年ほど前から、THE世界大学ランキングは次第に問題にならなくなっていった。どう見ても意味あるランキングに見えなかったからである。表だっては言わないが。どうやら目に見えない不思議な変数が、ランキングの背後で動いているかもしれないのだ。
 
 例えば東大が30位だった2012年版THE世界大学ランキングで、東大より上位に位置する大学はアメリカが21、イギリスが4、カナダが3、スイスが1、つまり英語圏の大学がほとんどだった。スイスの1はチューリッヒ工科大だが、ここは修士課程以上が英語で授業を行うため、欧米諸国から大勢の学生を集める学校である。英語以外の母国語で授業を行う大学、ソルボンヌ大学だのミュンヘン工科大学だのボローニャ大学だのは、どんなに有名でも優秀でも、ランキング上位に入って来ない。

 
 この傾向は今も同じで、2024年版の東大を含む30位以内で、英語圏にない大学は、チューリヒ工科大学(11位・スイス)、清華大学(12位・中国)、北京大学(14位・中国)、シンガポール国立大学(19位・シンガポール)、東京大学(29位・日本)、ミュンヘン工科大学(30位・ドイツ)の6大学のみ。そのうちシンガポール国立大学は英語で授業を行う学校、さらに修士以上を英語で行うチューリッヒ工科大学も外せば、母国語で授業を行う大学は中国の2大学と日本の1大学、そしてドイツの1大学、計4大学だけなのだ。

【マスメディアは、いちおう冷めた】

 そうした事情が誰の目にも明らかになると、マスコミはすっかり興味を失い、昨夜のNHKニュースでも順位を報告したあと簡単に、
タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」は、専門家の話を引用しながら、中国では政府が大学に惜しみない資金提供を行っていることなどにより、ランキングを上げていると分析しています。
と紹介しただけだった(2023.09.28NHK「世界の大学ランキング 東京大学29位 前年より順位上げる」)。
 しかしなぜ英語圏の大学が上位を独占し、しかも「政府が大学に惜しみない資金提供を行っている」と順位が上がるのか、それについて語る人は少ない。
 結局、東大・京大は何が足りなかったのだろう?

【東大・京大は何が劣ったのか】

 とりあえず日本と同じ非英語圏の国でありながら、大いに順位を上げて英語圏の大学を脅かした中国のトップ2(清華大学北京大学)と、なかなか上位に食い込めない日本のトップ2(東京大学京都大学)で、何が違ったのかを見てみよう。

 下はTHEのサイト「世界大学ランキング2024」から私が作成した評価基準の表である。見てすぐに分かるのは、中国に大きく水を空けられたのは「研究の質」という項目においてだったことである。

 北京大学は「国際的な展望」で他の3大学より一つ抜きんでているが、重みとして全体の7・5%しかない部分での得点なので無視できる。あとの項目はほぼ似たり寄ったりで、つまり評価において30%もの重みのある「研究の質」で、20点~30点以上もの差をつけられたことが、中国の後塵を拝することになった原因であるわけだ。
 
 では「研究の質」とは何なのか?
 THEの説明によると「研究の質」とは、論文の引用の影響(15%)、研究力( 5%)、研究の優秀性:(5%)、研究への影響力( 5%)ということで、簡単に言うと、その大学で発表された研究論文が価値あるものとしてどれくらい引用されたか、どれほど質の高い専門誌に掲載されたか、どの程度に重要なものとして引用されたか、といったことである。この部分で日本は弱く、他の国は強い――。
(*「教育の質」以外も含めた評価項目については欄外)

【拙速大事、論文は早く書ければいい(という側面もある)】

 研究の質で劣った理由のひとつは英語である。研究論文は英語で書かれなければならないからだ。もちろん日本語で書いても中国語で書いてもかまわないが、世界の研究者に見てもらい、検証され、追試され、問題があれば批判されてさらに価値あるものに高めようとするなら、論文は英語でなくてはならないのだ。母国語で書いても英語に変換されなければ、引用どころか読んでもらうことさえない。

 ここに英語圏の大学が、THEの世界ランキングで強い理由がある。
 英語圏の研究者は、日常的に英語で研究ノートを書き、データを管理し、討論を重ね、英語で研究論文を書く。そこまで一直線だ。ところが別の言語を母国語とする研究者は、成果を得たあとにもうひとつの大きな仕事が残っている。論文を英語に書き換え、最終的に英語としての妥当性も確認されなければならないのである。
 多くの人の手を借りなくてはできない仕事で、したがって論文はそう簡単に次々と発表するわけにはいかない。どうしても時間的に遅れ、数も減ってしまう。論文の数が少なければ、引用される回数も少なくなる――。

 一方、英語圏の学者たちはためらうことなく論文をどんどん発表できる。研究の場では多少難あるものでも、出せば早い者勝ちといったことも少なくない。不備は後から修正してもいいし、とにかく量が肝心だ――。その結果がランキングの上位独占なのである。
 しかし――、

【物量は現状変革の決め手】

 論文を英語に直さなくてはならない不利は中国も同じはずだ。清華大学北京大学はそれをどのようにして超えたのか――。
 答えのひとつがNHKの、
政府が大学に惜しみない資金提供を行っていることなどにより、ランキングを上げている
である。

 1万人の研究者に1兆円渡して研究させるよりも、10万人の研究者に10兆円渡す方が論文の本数は増える、それは当然だろう。しかし10万人の研究者に100兆円渡したら、諸外国では予算不足でとてもではないがやれない研究にも手が出せるようになる。すると当然、全体の論文数も増えていく。


 英語国にしろ予算大国にしろ、そんなふうにして大量に出てくる論文はどうせ玉石混合、ロクでもないものも多そうだが、量が多ければ玉も多くなる、引用される論文も増えるに違いない、それが英語国や中国のやり方だ。
 もちろん批判ではない、羨ましいだけだ。

【さて、日本の行く末は】

 英語か資金か――。
 すでに借金まみれの日本政府にこれ以上に金を出させるのは難しい。そこで考えられるのは“英語”――母国語並にとは言わないが、国民に準母国語並の英語力があればこの問題も突破できる、そうだ、小学生の内から英語を学ばせよう! 
――こうして小学校英語は必修になった、かどうかは知らないが、金のない分を大和魂で乗り切ろうとするのはこの国の常道だ。不足部分は先生たちに頑張ってもらって補ってもらおう、そのために教員の多忙化がさらに進んでもかまわない、そのために教員志望が減っても、はたまたひとりもいなくなっても、国の発展のためだ、みんなで我慢して頑張ろう!

 G7の中では米・英・加に続く第4位、後ろに独・仏・伊を従えている、それでいいじゃないか、世界全体でも米・英・中・加に続く第5位、それでは満足できないのだろうか? これで我慢ができなければ、あとは教育増税くらいしか思いつかないのだが、教員が苦労するのはかまわないが自分の懐が痛むのはダメだというマスコミ関係者も少なくない。
 結局、根本的な対策は行われず、マスコミはこぶしを振り上げ、文科省・教員はソッポを向いてとぼけ、そして現場だけが疲弊するわけだ。
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付録:THE世界大学ランキング評価の観点
教育(学習環境):29.5%
・ 教育の評判: 15%
・ 教職員と学生の比率: 4.5%
・ 博士と学士の比率: 2%
・ 学術職員に占める博士号取得者の割合:5.5%
・ 機関収入: 2.5%

研究環境: 29%
・ 研究の評判: 18%
・ 研究収入: 5.5%
・ 研究生産性: 5.5%

研究の質: 30%
・ 引用の影響: 15%
・ 研究力: 5%
・ 研究の優秀性: 5%
・ 研究への影響力: 5%

業界: 4%
・ 産業収入: 2%
・ 特許: 2%

国際的な見通し: 7.5%
・ 留学生比率:2.5%
・ 外国人スタッフの割合: 2.5%
・ 国際協力: 2.5%

(以上、2024 年世界大学ランキング: 方法論より)