キース・アウト

マスメディアはこう語った

大学の先生たちは呆れるほどマスコミ情報に毒されていることがあるよ。だからマイクを向けると、メディアの狙った通りの答えを出してきたりする。それをメディアが、お墨付きを得たとばかりに再び広げる情報のハウリング――。

(写真:フォトAC)

記事


「教員は社会との交わりが薄い」「いかに学校の外へ出ていく環境を作っていくか」相次ぐ不祥事、教員の人手不足や長時間労働で専門家が提言 教職員の資質向上や育成をテーマに議論 
(2023.11.13 SBC信越放送 

newsdig.tbs.co.jp

 教員の資質をどう向上させていけばいいのか、専門家などが意見を交わす協議会が開かれました。
長野県庁で13日に開かれた教員育成協議会は、教員の資質向上や育成に向けた指針などを年に1度協議するもので、大学の教授や校長会の代表などが参加しました。
(中略)
一方、松本市の教員が盗撮をした疑いで逮捕された事件について、内堀繁利(うちぼり・しげとし)教育長は。
「今回も逮捕事案、出てしまいましたけど、根絶できるように、様々な工夫研修を通じたり、あらゆる段階、手法を用いて根絶に向けて取り組んでいきたい」

一方、信州大学教職支援センターの小山茂喜(こやま・しげき)教授は、教員と社会とのつながりの重要性を指摘します。
「社会との接点が非常に薄い職種。可能な限り学校とは違う社会と交わることで、自分たちの生き方を考える、いかに先生方が社会に出ていけるか、そういった環境を作っていけるかがある意味、人を育てることを考えたら最も重要なこと」

県教委は協議会の意見をふまえ、2024年度の研修計画などをまとめる方針です。

 小中校の教員を批判する決まり文句のひとつは「世間知らず」だが、教育系の大学教授を批判する決まり文句のひとつは「現場を知らない」だ。大学における研究は、しばしばとんでもない偽常識を前提に行われていたりする。四半世紀も前の話で恐縮だが、教育心理学の大学院に現職教員のまま内地留学した私が、突きつけられた現実がそれだった。

【研究者はマスコミに毒されている】

 テレビニュースを見ていると、ときどき「ネイチャー」だとか「サイエンス」だとかいった外国の科学雑誌の名前が出てくることがある。あれらは世界的に権威のある雑誌で、そこに掲載されるということは「“ほぼ確実で、価値があると評価された研究”だから安心して使っていいよ」とお墨付きをいただいたようなものだ。だから安心してゴールデンタイムのニュース番組で取り上げられたりするのだが、それと似たような心理学の権威は、国内の場合は、まず「心理学研究」。教育心理学に限っていえば「教育心理学研究」(通称:「教心研」)ということになる。

 研究者はそこに掲載された先行研究や類似研究を参考に、自らの研究テーマを決めたり深めたりするわけだが、約25年前、私が手にした「教心研」には、現場教師を困惑させるような研究がゴロゴロしていたのだ。
 例えば、
「日本の子どもたちは勉強を社会で戦うための武器だと考える傾向が強いため、学問の本質よりテクニックに走りたがる傾向がある」
 とうだ?
「日本の子どもは同級生を“ともに育つ仲間”として意識するよりも、“蹴落とすべきライバル”として意識しがちで、そのために健全な感性が育たない」
 いかがか――。

 その数年前まで、教育問題と言えば筆頭は「お受験」と総称される都会の子どもの過剰学習だった。6時過ぎに塾から帰って夕食を摂り、そこから保護者に送られてもうひとつの塾に向かい、2時間の受験勉強を続けて帰ってからは家で復習をする子。あるいはJRや私鉄を駆使して塾を何軒も掛け持ちする子たち。
 研究者たちはそうした、マスコミによって傾斜のかかった情報を前提に仮説を組み立て、妙な方向に研究を引っ張って行ってしまう。

 しかしそんな過剰学習は、都会の、しかもごくごく一部の子たちにしかない状況だった。私の住む田舎では、子どもたちの「学習過剰」どころか、相変わらずの「不勉強」が大問題だった。
「知識技能は社会で戦う武器にもなるんだから、もう少し勉強したら?」
「友だちは大事だけど、時にはライバルって思うことだって大切だよ」
と、そんなことを言っても、子どもは聞く耳を持たなかったのだ。

【社会との接点の薄い教師なんて本当にいるのか――いや、いる】

 さて、そこで信濃毎日新聞の記事だ。
「社会との接点が非常に薄い職種。可能な限り学校とは違う社会と交わることで、自分たちの生き方を考える、いかに先生方が社会に出ていけるか、そういった環境を作っていけるかがある意味、人を育てることを考えたら最も重要なこと」

 忘れては困る。
 義務教育学校――特に公立の小中学校に通って来るのは、すべて階層、すべての社会の子どもたちだ。そこには金持ちの家の子もいれば貧乏人の家の子もいる、裁判官の子がいて犯罪者の子もいる。聖職者の子も、性職者の子も、ヤクザ屋さんの子もいる。
 世の中の高級ブティックも、銀座の高級クラブも、百円ショップも、ワンコイン食堂も、普通はそれぞれ決まった顧客層が想定されているが、“学校”にはすべての社会の子どもたちがやってくる。それを、
「社会との接点が非常に薄い職種」
と表現するのはいかがなものか――。

――と言いかけて私は立ち止まる。

 

 そうだ、同じ「先生」でも、社会との接点が非常に薄い人たちもいる。
 それは4年以上も子どもを働かせずに済む豊かな家庭の子か、自らの力で生活費も学費も稼ぎ出すようなパワフルな子で、しかも厳しい受験競争勝ち抜くだけの優秀な頭脳を持った子どもとその親だけを対象にしていればいい国立大学の先生たち――彼らなら「社会との接点が非常に薄い」という表現もあながち間違っているとは言えないかもしれない。
 いずれにしろ、相手が大学教授とはいえ、お門違いの指摘にいちいち腹を立てる必要もないだろう。それにしても長野県教委、こんな人たちの意見をふまえ、2024年度の研修計画などをまとめる方針
で大丈夫なのか?