キース・アウト

マスメディアはこう語った

あれが運動種目のひとつだと知らない人には、運動会の「入場行進」も従順な人間をつくるために軍隊式教育にしか見えないのだろうな。

(写真:フォトAC)

記事

 

「ぜんたーい、止まれ!」その入場行進なんのため? 元体育主任が語る、運動会で廃止すべきこと3つ
(2024.09.20 All about)

allabout.co.jp

コロナが5類に移行されてから、各学校で復活を遂げている学校行事。「学校教育にコーチングとやさしさを」を掲げて活動する筆者が、元体育主任の経験を踏まえて運動会や体育祭で廃止すべきことを3つ語ります。
(中略)

1. 入退場の行進や練習ありきの競技
まず廃止すべきは、入退場の練習です。先生が「ぜんたーい、止まれ!」と号令をかけ、子どもたちが「1・2・3・4・5!」と声をそろえて止まる。こうした競技の入退場の練習は、今でも行われている学校があるようです。

筆者自身も体育主任時代、「肘を伸ばせ!」「そろっていない!」「膝を上げて!」「やり直し!」と、朝礼台から叫んでいたものです。しかし、これはまさに一律的な行動をとることが良く、そうでない行動は集団を乱すため悪いという軍隊式の教育でした。

大人になってから、行進をそろえる必要がある場面はどれほどあるでしょうか。このようなことこそが問題のある教育だと感じます。競技の場所に集まり、終了後は解散して元に戻る、それだけで十分ではないでしょうか。

また、競技の練習も廃止すべきだと考えます。運動会や体育祭では、組体操やダンスなど、競技自体の練習が必要なものが多数あります。学年でこの練習時間を確保するために、他のクラスと調整した特別時間割を体育主任が作ることもありましたが、これが非常に手間でした。

はたして、競技の練習は本当に必要でしょうか? そもそも、練習が必要な競技を運動会や体育祭でやるべきなのでしょうか?
(以下略)

 学校というのは近代教育だけでも150年以上の歴史がある上、内容が非常に多岐にわたるため、「その活動は何のため?」と理由が分からなくなっているものも少なくない。例えば小学校の「特別教室への移動は、全員揃って並んでいく」など、廃止してみればすぐに理由が分かる(私は廃止してひどい目にあったことがある)。
 分からないことは誰かに聞いてみるとか調べてみるとかすればいいのに、自分で勝手に判断して、その判断内容に憤り、声高に不正を訴える――そういったセルフツッコミの教育評論の、なんと多いことか。

運動会の「『ぜんたーい、止まれ!』その入場行進なんのため?」これはまさに一律的な行動をとることが良く、そうでない行動は集団を乱すため悪いという軍隊式の教育でした。
 それ、オマエの判断だろ? オマエが勝手にそう思って、勝手に憤っているだけだろ?
 入場行進が異常だと思うなら、ベテランの先生に片っぱし聞いてみればよかったのだ。教育学部の体育科出身の先生や中学校の体育の先生に訊いてみれば一発で答えが返ってくる。それはたぶんこんなふうだ。
「あ、あれはね、『自分が動きながら同時に周囲に注意を払い、全体に合わせて自分の体をコントロールできる』という極めて高度な、自律協調の運動なのです。立派な運動会種目で、だからほとんどの学校のプログラムで『1番、入場行進』と書いてあって実際にアナウンスもされます。けっこう難しい運動ですよ」

 体育主任は多くの場合、若い先生が任されがちな仕事。きっと細かな点まで勉強する時間がなかったのだろう。13年で辞めてしまったのはもったいなかった。

 さらに言えば
大人になってから、行進をそろえる必要がある場面はどれほどあるでしょうか。
 大人になってから同じようにやるかどうかが基準になると、跳び箱や鉄棒など、体育の種目は軒並みなくなってしまう。数学の因数分解や国語の古典も音楽の楽器演奏もみんないらなくなってしまう。

競技の練習も廃止すべきだと考えます。
練習が必要な競技を運動会や体育祭でやるべきなのでしょうか?
 運動会や体育祭の本質は競技会ではなく、発表会だ。ピアノで言えばコンクールではなく発表会である。練習もせずにやるなら発表会など必要ない。第一、危険でもある。

 しかしこの程度の人がネットに記事を書いてそれがYahooニュースに転載されて影響力をもつ――プロの教師には説明している時間がないから一方的に押し込まれ、バカにされる――。やはり本当に教師になどなるべき時代ではないのだ。